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{{出典の明記|date=2015年9月20日 (日) 07:15 (UTC)}}
 
'''曹洞宗'''(そうとうしゅう)は、[[中国]]の[[禅宗五家]](曹洞、[[臨済宗|臨済]]、[[イ仰宗|潙仰]]、[[雲門宗|雲門]]、[[法眼宗|法眼]])の1つで、[[日本の仏教|日本仏教]]においては[[禅宗]](曹洞宗・[[日本達磨宗]]・[[臨済宗]]・[[黄檗宗]]・[[普化宗]])の1つ。[[鎌倉仏教]]のひとつである。本山は[[永平寺]]([[福井県]])・[[總持寺]]([[横浜市]][[鶴見区 (横浜市)|鶴見区]])。専ら坐禅に徹する[[黙照禅]]であることを特徴とするが、仏陀つまり悟りを開いた人・目覚めた人の教えであるので、出家在家に拘らず、求道者各自が悟りを開くことを標榜する。
 
  
中国禅宗の祖である[[達磨]](5C後半 - 6C前半)から数えて6代目の[[南宗]]禅の祖・曹渓宝林寺の[[慧能]](638 - 713年)の弟子の1人である[[青原行思]](? - 740年)から、[[石頭希遷]](700 - 790年、石頭宗)、薬山惟儼(745 - 828年))、雲巌曇晟(782 - 841年 )と4代下った[[洞山良价]](807 - 869年)によって創宗された。
+
'''曹洞宗'''(そうとうしゅう)
  
== 中国における曹洞宗 ==
+
禅宗の一派。中国の禅宗第六祖慧能の法系である洞山良价 (807~869) を祖とする。中国禅宗五家七宗の一つ。中国曹洞宗は,道元,東明,東陵の3派が日本へ伝わったが,13世天童如浄 (1163~1228) の法を入宋して伝えた道元派のみが栄え残った。中国曹洞宗は,打坐を重視する黙照禅であったが,道元はさらに初祖達磨への復帰を志し,『[[正法眼蔵]]』を著わし,ひたすら坐禅する只管打坐を唱えた。法系は懐弉,義介,紹瑾と続き,臨済宗が上層階級に護持されたのに対し,一般庶民の間に教線を広げた。福井の永平寺と神奈川の総持寺の2つの大本山をもち,全国に約1万 4000の末寺を擁している。
中国曹洞宗は、洞山良价と彼の弟子である曹山本寂(840 - 901年)を祖とし、はじめ「洞曹宗」を名乗ったが、語呂合わせの都合で「曹洞宗」となったというのが定説の1つとなっている<ref name=heibonsha13>{{citation|和書||author=増永霊鳳||volume=13|title=曹洞宗|page=722|work=[[世界大百科事典]]|publisher=[[平凡社]]|origyear=1968|year=1969}}</ref><ref>ただし、『洞山語録』によれば「洞山の玄風(=老子の教え。[[道教]])が広まる世に、諸方の宗匠を尊ぶ曹(仲間・同門)どおしをさして洞曹宗という」と意釈することができる。原文の和訳は「洞上の玄風、天下にしく、故に諸方の宗匠、ともにこれを推尊して洞曹宗という」。</ref>。また、[[道元]](1200 - 1253年)をはじめ日本の禅宗では、洞曹宗の「曹」は曹山本寂ではなく、曹渓[[慧能]](大鑑慧能、638-713年)から採られている、という解釈がなされている<ref name=heibonsha13/>。(道元がこのような解釈をした理由は、曹山本寂の系統分派は途絶えていて、道元が学んだのが雲居道膺(?-902年)につながる系統であったためである。)
 
  
道元らが提唱した系譜は、前述した南方禅の慧能にさかのぼり、その弟子[[青原行思]]-[[石頭希遷]]-薬山惟儼-雲巌曇晟-洞山良价-‥‥とつづく法脈である。曹山本寂の系譜は四代伝承した後に絶伝した一方で、洞山良价の一系譜のみが現在まで伝わっている。洞山良价の禅学思想に基づき、曹洞宗の禅風は「万物皆虚幻、万法本源為佛性」である。
 
 
洞山良价から5代下った大陽警玄(943 - 1027年)には弟子がいなかったため、師資の面授を経ずに付法相承する「代付」によって投子義青(1032-1083年)へと嗣法がなされることで、[[北宋]]末における再興が成された<ref name=sato>[http://ci.nii.ac.jp/els/110007019344.pdf?id=ART0008941638&type=pdf&lang=jp&host=cinii&order_no=&ppv_type=0&lang_sw=&no=1398345351&cp= 自得慧暉とその禅風] - 佐藤秀孝 </ref>。
 
 
次代の芙蓉道楷(1043 - 1118年)の弟子の代になると、宋の南遷による[[南宋]]の成立に伴い、河北に留まる鹿門自覚(? - ?年)の系統と、江南に下る丹霞子淳(?-1119年)の系統に分かれた。
 
 
丹霞子淳の門下には、[[宏智正覚]](1091 - 1157年)と真歇清了(1088-1151年)がおり、宏智正覚は「[[黙照禅]]」を提唱し、「[[看話禅]]」を提唱する[[臨済宗]]の[[大慧宗杲]](1089 - 1163年)と対立したことや、多くの弟子を持ち「宏智派」を形成したことで知られ、他方の真歇清了の門下では3代下った[[天童如浄]](1163年 - 1228年)から道元が日本へと曹洞宗を伝えた。宏智正覚の高弟であった自得慧暉(1097 - 1183年)の系統が、「宏智派」ではその後唯一、[[元 (王朝)|元]]末[[明]]初に至るまで、中国曹洞宗の法脈を保ち支えていくことになった。この「宏智派」の宗風は、[[東明慧日]](1272 - 1340年)や東陵永璵(1285‐1365年)によって日本にも伝えられ、[[鎌倉]]・[[京都]]の[[五山]][[禅林]]にも大きな影響を与えた<ref name=sato />。
 
 
他方、河北に留まった鹿門自覚の系統は、普照一辨(青州希辨、1081 - 1149年?)、大明僧宝(1114 - 1173年)、玉山師体(? - ?年)、雪巌慧満(? - ?年)を経て、[[金_(王朝)|金]]代に万松行秀(1167 - 1246年)が登場することで隆盛した。彼の弟子には、[[雪庭福裕]](?-1274年)、[[耶律楚材]](1190 - 1244年)、林泉従倫(? - ?年)などがいる。雪庭福裕は[[元 (王朝)|元]]代に[[皇帝]][[クビライ]](1215 - 1294年)に認められ、「国師」に指名されると共に[[嵩山少林寺]]を任され中興の祖となった。現在の中国でも、嵩山少林寺(曹洞正宗)が華北地方の拠点として有名である。
 
 
以上の主な法嗣をまとめると、以下のようになる。
 
 
*洞山良价 - 雲居道膺 - 同安道丕 - 同安観志 - 梁山縁観 - 大陽警玄 - 投子義青 - 芙蓉道楷
 
**鹿門自覚 - 普照一辨(青州希辨) - 大明僧宝 - 玉山師体 - 雪巌慧満 - 万松行秀 - 雪庭福裕・・・
 
**丹霞子淳
 
***[[宏智正覚]](宏智派) - 自得慧暉・・・([[東明慧日]]・東陵永璵)・・・
 
***真歇清了 - 天童宗珏 - 雪竇智鑑 - 天童如浄(- 道元)・・・
 
 
== 日本における曹洞宗 ==
 
[[File:DogenP2.JPG|thumb|150px|道元]]
 
 
[[日本の仏教|日本仏教]]における'''曹洞宗'''は鎌倉時代に始まる。道元は、[[臨済宗黄龍派]]の[[明全]]に随身した後、共に[[南宋|宋]]に渡り、[[天童山]]で曹洞宗の天童如浄(長翁如浄)に師事して開悟(身心脱落)して修行が終わり、[[1226年]]に帰国した。
 
 
宗祖・洞山良价から道元までの法嗣は、
 
*洞山良价 - 雲居道膺 - 同安道丕 - 同安観志 - 梁山縁観 - 大陽警玄 - 投子義青 - 芙蓉道楷 - 丹霞子淳 - 真歇清了 - 天童宗珏 - 雪竇智鑑 - 天童如浄 - 道元
 
となる。
 
 
道元自身は自らの教えを「正伝の仏法」であるとして[[セクショナリズム]]としての宗派を否定した。このため弟子たちには自ら特定の宗派名を称することを禁じ、禅宗の一派として見られることにすら拒否感を示した。どうしても名乗らなければならないのであれば「[[仏心宗]]」と称するようにと示したとも伝えられる。
 
 
後に奈良仏教の[[興福寺]]から迫害を受けた[[日本達磨宗]]の一派と合同したことをきっかけとして、道元の[[入滅]](死)後、次第に禅宗を標榜するようになった。宗派の呼称として「曹洞宗」を用いるようになったのは、第四祖[[瑩山紹瑾]](1268 - 1325年)とその後席[[峨山韶碩]](1275 - 1366年)の頃からである。
 
日本における曹洞宗は、中国における曹洞宗の説とは違い、曹渓慧能と洞山良价の頭文字を取って曹洞宗と呼ぶのを定説としている。
 
 
「臨済将軍曹洞士民」といわれるように、臨済宗が時の中央の武家政権に支持され、政治・文化の場面で重んじられたのに対し、曹洞宗は地方武家、豪族、下級武士、一般民衆に広まった。
 
曹洞宗の宗紋は久我山竜胆紋(久我竜胆紋・久我竜胆車紋)と五七桐紋である。
 
 
=== 教義 ===
 
「正伝の仏法」を伝統とし、「南無釈迦牟尼仏」として[[釈迦]]を[[本尊]]と仰ぐが、各人が[[坐禅]]により万法に証せられる(悟る)ことを肝要とする。
 
 
曹洞宗の坐禅は中国禅の伝統と同じく「'''只管打坐'''(しかんたざ)」(非思量の坐禅をすること)をもっぱらとし、臨済宗のように[[公案]]禅をとる流派も一部にあるが少数である。江戸時代のように多くの曹洞宗僧侶が、公案禅に参じた時もあった。
 
 
『普勧坐禅儀(ふかんざぜんぎ)』は、道元が帰国後、坐禅の仕方について著した指南書。四六駢儷体による表現がなされている。
 
 
また、道元の著書である『[[正法眼蔵]]』は、道元の自らの悟り体験に基づき仏教全般について表現している。決して思惟による哲学ではない。
 
 
==== 主な経典 ====
 
主によまれる経典
 
 
* 『[[般若心経|摩訶般若波羅蜜多心経]]』
 
* 『[[妙法蓮華経]][[観音経|観世音菩薩普門品]]』
 
* 『[[妙法蓮華経]]如来寿量品』
 
* 『[[大悲心陀羅尼]]』
 
* 『甘露門』([[施餓鬼]]会に際し読む)
 
* 『参同契』([[枕経]]として読む)
 
* 『宝鏡三昧』(同上)
 
* 『[[舎利礼文]]』
 
 
基本となる祖録
 
 
* 『[[正法眼蔵]]』 - 道元が著述(未完。後に弟子が編集)
 
* 『普勧坐禅儀』 - 道元の坐禅についての著述
 
* 『[[伝光録]]』 - 瑩山の[[提唱]]を側近がまとめたもの 歴代の祖師の行履と悟りの契機を記述している
 
* 『[[修証義]]』 - [[明治時代]]に『正法眼蔵』から文言を抽出して[[信者]]用に再編
 
 
[[ご詠歌]]・[[和讃]]
 
* 梅花流詠讃歌
 
* まごころに生きる([[南こうせつ]]作詞・作曲の曹洞宗詠歌)
 
 
=== 歴史 ===
 
{{節スタブ}}<!--三代争論、総持寺輪番、僧録、宗統復古、卍山・面山、総持寺移転、大内青巒、澤木興道、海外布教-->
 
[[正治]]2年([[1200年]])、京都[[久我家]]で生まれた道元は[[建保]]2年([[1214年]])出家し、[[園城寺]]・[[建仁寺]]で学ぶ。[[貞応]]2年([[1223年]]) 明全とともに博多から[[南宋]]に渡って諸山を巡り、曹洞宗禅師の[[天童如浄]]より印可を受ける。[[天福 (日本)|天福]]元年([[1233年]])京都に[[興聖寺 (宇治市)|興聖寺]]を開くが後に越前に移り、[[寛元]]2年([[1244年]]) 傘松に[[永平寺|大佛寺]]を開く。寛元4年([[1246年]]) 大佛寺を[[永平寺]]に改め、[[宝治]]2-3年(1248-49年)、執権[[北条時頼]]、[[波多野義重]]らの招請により教化のため鎌倉に下向する。[[建長]]5年([[1253年]]) 病により永平寺の貫首を弟子[[孤雲懐奘]]に譲り、京都で没する。
 
 
永平寺2世孤雲は道元が日ごろ大衆に語った法語をまとめた『[[正法眼蔵随聞記]]』を著し、道元の教えを記録し広めることにつとめた。道元の死後、遺風を守ろうとする保守派と、衆生教化のため法式も取り入れようとする開放派の対立が表面化する。文永4年(1267年)[[徹通義介]]に住職を譲るが、両派の対立が激化([[三代相論]])したため[[文永]]9年([[1272年]])孤雲が再任する。弘安3年(1280年)孤雲が没し徹通が再任するが内部対立を収拾できず、永仁元年(1293年)永平寺を出て[[大乗寺]]を開山する。
 
 
永平寺は4世義演の晋住後は外護者[[波多野氏]]の援助も弱まり寺勢は急激に衰えた。一時は廃寺同然まで衰微したが、5世義雲が再興し現在にいたる基礎を固めた。徹通の弟子[[瑩山紹瑾]]は[[1321年]]能登に[[總持寺]]を開山し、南朝[[後醍醐天皇]]より「日本曹洞賜紫出世之道場」の綸旨を得る。[[応安]]5年([[1372年]])、永平寺も北朝[[後円融天皇]]から「日本曹洞第一道場」の勅額・綸旨を受ける。總持寺開山瑩山紹瑾は弟子に恵まれ'''四哲'''と呼ばれた逸材を輩出した。四哲の一人[[峨山韶磧]]も優れた弟子に恵まれたが、高弟の一人[[通幻寂霊]]も'''通幻十哲'''と呼ばれる優れた禅僧を輩出し、教線の拡大に寄与した。
 
 
峨山韶磧の弟子無底良韶は[[貞和]]4年([[1348年]])、[[東北地方]]初の曹洞宗寺院として[[正法寺 (奥州市)|正法寺]]を開き、通幻寂霊の弟子石屋真梁は西国大内氏の庇護を受け[[応永]]17年([[1410年]])[[大寧寺]]を開き、六百数十ヶ寺に及ぶ末寺を得て「西の高野」と称えられた。
 
 
[[元和 (日本)|元和]]元年([[1615年]])[[江戸幕府]]より法度が出され永平寺と總持寺は大本山となり、奥州正法寺と九州[[大慈寺 (熊本市)|大慈寺]]は本山から外れた。
 
 
=== 宗政 ===
 
{{Infobox 組織
 
|名称 = [[宗教法人]] 曹洞宗 <br />{{lang-en|Religious Corporation "Sotoshu"}}
 
|画像 = [[File:Soto Building.jpg|150px]]
 
|画像サイズ = 150px
 
|画像説明 = 曹洞宗宗務庁<br />(および経営している[[東京グランドホテル]][http://www.tokyogrand.gr.jp/])
 
|略称 =
 
|標語 =
 
|前身 =
 
|後継 =
 
|設立 =
 
|種類 = [[宗教法人]]
 
|地位 =
 
|目的 =
 
|本部 = 105-8544 東京都港区芝2丁目5-2 2階  Tel.03-3454-5411(代表)
 
|メンバー =
 
|会長 = [[福山諦法]]([[管長]]、[[永平寺]][[貫主]]、[[2016年]][[1月21日]]就任)
 
|人物 =
 
|機関 = 曹洞宗宗務庁
 
|提携 =
 
|設立者 =
 
|関連組織 = [[永平寺|大本山永平寺]], [[總持寺|大本山總持寺]]
 
|スタッフ =
 
|ボランティア =
 
|予算 =
 
|ウェブサイト = http://www.sotozen-net.or.jp/, http://global.sotozen-net.or.jp/
 
}}
 
{{See also|曹洞宗内紛}}
 
21世紀初頭である現在、全国の曹洞宗寺院は「[[宗教法人]]曹洞宗」により包括されており、その本部事務所を「曹洞宗宗務庁」という<ref>[http://www.sotozen-net.or.jp/soto/system 機構] -  曹洞宗「曹洞禅ネット」公式ページ</ref>。曹洞宗に所属する約15,000ヵ所寺は、永平寺派の「有道会」と總持寺派の「[[總和会]]」に所属が二分されて<!-- おり、[[教務総長|宗務総長]]も両派が1期4年ごとに交代で担当して -->いる。曹洞宗としての宗派の長を「管長」といい、[[永平寺|大本山永平寺]]および[[總持寺|大本山總持寺]]の貫首([[住職]])がそれぞれ2年毎交互に就任する(西暦の偶数年の[[1月20日]]付けで任期満了となり、翌[[1月21日]]付で交代となる。なお、管長が任期中に[[示寂]]の場合は、後任の貫主が残任期間まで管長を務める慣例となっている)。閣僚にあたる内局の部長7名も両派でほぼ半数ずつ、宗議会議員(定数72名)も36選挙区ごとに両派から1名ずつ選ばれる。教団運営は管長の元で、宗務と事務が庁議(責任役員会)の決定に基づき執行される。また、内局(宗務執行機関)、宗議会(議決機関)、審事院(監正機関)の三機関が置かれている。「宗教法人曹洞宗」の代表役員は[[教務総長|宗務総長]]といい、宗務執行機関としての法人を代表し、その事務その他の宗務を総理する。<br />
 
系列の教育機関としての最高学府である[[大学]]も、永平寺系の[[駒澤大学]]と[[東北福祉大学]]、總持寺派の[[愛知学院大学]]と[[鶴見大学]]などに二分されており、[[学校法人]]の理事長や学長の選任に際しては実質的にそれぞれの派が指名権を持つ。
 
 
=== 著名な寺院 ===
 
==== 大本山(根本道場) ====
 
両大本山の住職を貫首といい、2人の貫首が2年交代で[[管長]](宗門代表)となる。管長は、有資格者で立候補者から選挙によって選出される宗門最高の位階。
 
 
尊称として住んでいる場所にちなみ、永平寺貫首を不老閣猊下(ふろうかくげいか)、総持寺貫首を紫雲台猊下(しうんたいげいか)とも呼ぶ。
 
 
[[File:Eiheiji Karamon.jpg|thumb|right|150px|永平寺]]
 
* '''[[永平寺]]''' - [[福井県]][[永平寺町]](貫首:福山諦法(ふくやまたいほう)禅師)/寺紋=久我山竜胆紋(久我竜胆紋・久我竜胆車紋)
 
** [[寛元]]2年([[1244年]])に、道元が[[越前国|越前]]の[[波多野義重]]の要請で開く。
 
*** [[永平寺別院長谷寺|東京別院長谷寺]] - [[東京都]][[港区 (東京都)|港区]]
 
*** 名古屋別院 - [[愛知県]][[名古屋市]][[東区 (名古屋市)|東区]]代官町
 
*** 永平寺鹿児島出張所紹隆寺 - [[鹿児島県]][[姶良市]]平松
 
 
[[File:Sojiji DaisoDo 02.jpg|thumb|right|150px|總持寺]]
 
* '''[[總持寺]]''' - [[横浜市]][[鶴見区 (横浜市)|鶴見区]](貫首:江川辰三(えがわしんざん)禅師)/寺紋=五七桐紋
 
** [[元亨]]元年([[1321年]])に、[[瑩山紹瑾]]が[[能登国|能登]]の[[定賢]]律師の要請で[[石川県]][[輪島市]][[門前町 (石川県)|門前町]]に開く。[[明治]]31年([[1898年]])に火災で焼失し、明治44年([[1911年]])に現在地に移転。
 
*** [[總持寺祖院]] - 明治38年([[1905年]])より元の地(石川県輪島市門前町)に復興
 
*** 北海道別院法源寺 - [[北海道]][[松前郡]][[松前町 (北海道)|松前町]]松城
 
 
 
歴史的には'''[[正法寺 (奥州市)|正法寺]]'''([[岩手県]][[奥州市]])が奥羽二州の本山、'''[[大慈寺 (熊本市)|大慈寺]]'''([[熊本県]][[熊本市]][[南区 (熊本市)|南区]])が九州本山であった期間があるが、[[元和 (日本)|元和]]元年([[1615年]])の[[寺院法度]]により永平寺、總持寺のみが大本山となる。また、江戸時代に来日した明僧、[[東皐心越]]によって開かれた曹洞宗寿昌派は'''祇園寺'''([[茨城県]][[水戸市]])を本山とした。心越の法系は道元と別系であったが明治維新後、合同した。
 
 
==== 僧堂 ====
 
===== 大本山[[僧堂]] =====
 
* [[永平寺]] - [[福井県]][[永平寺町]]
 
* [[總持寺]] - [[神奈川県]][[横浜市]]
 
===== 専門僧堂 =====
 
<div style="float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;">
 
* 定光寺 - [[北海道]][[釧路市]]
 
* [[中央寺 (札幌市)|中央寺]] - 北海道[[札幌市]]
 
* [[正法寺]] - [[岩手県]][[奥州市]]
 
* [[善寳寺]] - [[山形県]][[鶴岡市]]
 
* 好国寺 - [[福島県]][[福島市]]
 
* [[永平寺別院長谷寺]] - [[東京都]][[港区 (東京都)|港区]]
 
* 西有寺 - [[神奈川県]][[横浜市]]
 
* [[最乗寺]] - 神奈川県[[南足柄市]]
 
* 大栄寺 - [[新潟県]][[新潟市]]
 
* [[長国寺 (長野市)|長国寺]] - [[長野県]][[長野市]]
 
* [[萬松山可睡斎|可睡齋]] - [[静岡県]][[袋井市]]
 
* [[豊川稲荷|豊川閣妙厳寺]] ([[豊川稲荷]])- [[愛知県]][[豊川市]]
 
* [[覚王山]][[覚王山日泰寺|日泰寺]] - 愛知県[[名古屋市]]
 
* [[總持寺祖院]] - [[石川県]][[輪島市]]
 
* [[大乗寺]] - 石川県[[金沢市]]
 
* 宝慶寺 - [[福井県]][[大野市]]
 
* [[御誕生寺]] - 福井県[[越前市]]
 
* 発心寺 - 福井県[[小浜市]]
 
* [[興聖寺 (宇治市)|興聖寺]] - [[京都府]][[宇治市]]
 
* 智源寺 - 京都府[[宮津市]]
 
* [[洞松寺 (矢掛町)|洞松寺]] - [[岡山県]][[矢掛町]]
 
* 瑞應寺 - [[愛媛県]][[新居浜市]]
 
* 明光寺 - [[福岡県]][[福岡市]]
 
* 安国寺 - 福岡県福岡市
 
* [[晧台寺]] - [[長崎県]][[長崎市]]
 
</div>{{clear|left}}
 
 
===== 専門尼僧堂 =====
 
* 愛知専門尼僧堂 - [[愛知県]][[名古屋市]]
 
* 富山専門尼僧堂 - [[富山県]][[富山市]]
 
===== その他 =====
 
* 曹洞宗総合研究センター教化研修所 - [[東京都]][[港区 (東京都)|港区]]
 
 
==== その他著名寺院 ====
 
* [[三輪山平等寺]]
 
* [[菩提寺 (むつ市)|恐山菩提寺]]
 
* [[高岩寺]](とげぬき地蔵)
 
* [[泉岳寺]]
 
* [[青松寺]]
 
* [[修禅寺]]
 
* [[詩仙堂]]
 
* [[大船観音寺]]
 
* [[中野不動尊]]
 
* [[医王寺 (新城市)|医王寺]]
 
* [[瑞龍寺 (高岡市)|瑞龍寺]]、[http://www.zuiryuji.jp/ 公式サイト]
 
* 林叟院(高草山麓にある曹洞宗の大寺院)
 
 
==== 日本国外の寺院 ====
 
[[明治]]・[[大正]]時代の日本人の海外移住と共に、[[ハワイ]]・[[ブラジル]]などに開教された。[[ペルー]]の[[慈恩寺 (ペルー)|慈恩寺]]は南米大陸最古の仏教寺院である。ヨーロッパでは[[弟子丸泰仙]]が教線の拡大に貢献し、2005年現在、それらの弟子たちが世界各地で布教活動を継続している。
 
 
=== 派生した教団 ===
 
* [[如来宗]](如来教) - [[享和]]2年([[1802年]])に『一尊如来きの』によって[[名古屋市|名古屋]]に開かれた。[[明治]]17年([[1884年]])以降、[[昭和]]26年([[1951年]])に[[宗教法人法]]の施行によって独立するまで曹洞宗の[[教会]]として活動。同宗の教義は[[金毘羅]]信仰や[[浄土]]信仰などの混生であり、曹洞宗本来の教えとは関連が薄い。
 
** 一尊教団 - 上記教団の分派。石川県金沢市を中心に活動。
 
 
* 救世教 - [[明治]]19年([[1886年]])、新潟<!--曖昧回避にLinkせず直接該当項目へLinkを-->の[[大道長安]]が曹洞宗から離脱して結成。大慈大悲の事実上の[[如来]]である[[観音菩薩]]を本尊として、自力他力を超えた観音妙力による現世救済を主張した。[[社会福祉]]に力を注ぎ全国に教線を拡大したが、明治41年([[1908年]])に大道長安が入寂すると後継者がいないこともあって急速に衰退。
 
 
* 法王教 - [[明治]]後期から[[大正]]期にかけて高田道見が推進した“通俗的”布教運動。道見は[[青松寺]]を拠点として参禅会や訪問法話会などの教化活動を続けていたが、大正期に入ってからは曹洞宗の教義にこだわらず、[[月刊誌]]などの出版物、講演会を通した[[在家仏教]]の振興に力を注ぎ、自らの活動に「法王大聖釈迦牟尼仏の本旨に基づく仏教」という意味で「法王教」の名を冠した。大正12年([[1923年]])、道見が入寂すると独自の教派名を冠した運動は終息した。なお、道見は最後まで曹洞宗の僧籍を保持していたため、「法王教」を独立した[[教団]]ではなく曹洞宗内の一運動であったとする見方が一般的である。
 
 
* [[三宝教団]] - [[昭和]]29年([[1954年]])、[[安谷白雲]]が曹洞宗から離脱して[[神奈川県]][[鎌倉市]]に結成。同教団は道元の教えを中核に置きながら、[[公案]]を取り入れるなど独自の修行法を構築。現在は一般在家者への坐禅指導を中心とし、海外にも参禅拠点がある。
 
 
この他、曹洞宗系の[[単立寺院]]が少数存在する。
 
 
=== 訴訟 ===
 
多々良学園(2006年9月、設置者変更により[[高川学園高等学校・中学校]]となる)の破綻問題に関し、[[山口信用金庫]]と[[防府信用金庫]]から12億円の賠償を求める訴訟を2006年8月に起こされている<ref>[http://www.47news.jp/CN/200608/CN2006081501004176.html 曹洞宗に賠償請求 多々良学園破たんで]共同通信2006年8月16日</ref>。10月、山口地方裁判所から宗務庁ビルの仮差押命令が下った(仮差押自体は事実認定とは無関係に原告請求のみで可能で、被告の反論を要しない)。
 
 
=== 宗議会選挙での買収 ===
 
[[2010年]]9月に行われた宗議会議員選挙で、[[岩手県]]選挙区で当選した住職が選挙前に有権者に相当する県内の住職に対して「献香」と称して現金を配っていたことが報道された。対立候補であった当時現職の住職も3000円相当の線香を配っていたという<ref>{{cite news|title=曹洞宗選挙で買収 一関の住職、「有権者」に最大10万円|newspaper=河北新報|date=2011-01-30|url=http://www.kahoku.co.jp/news/2011/01/20110130t33013.htm|accessdate=2011-01-30|archiveurl=https://web.archive.org/web/20110202155407/http://www.kahoku.co.jp/news/2011/01/20110130t33013.htm|archivedate=2011年2月2日|deadlinkdate=2017年10月}}</ref>。
 
ただし、曹洞宗の規則では選挙時の買収の禁止という項目は存在しない。
 
また、公職ではないので公職選挙法の適用範囲でもない。
 
一連の流れが表面化されたのは、宗議会議員候補者の勢力争いの一環。
 
 
=== 曹洞宗寺院出身の主な著名人 ===
 
* [[石川啄木]]
 
* [[ポール牧]]
 
* [[南こうせつ]]
 
* [[内野聖陽]]
 
 
== 越南(ベトナム)における曹洞宗 ==
 
曹洞宗([[:vi:Tào Động tông|ヴェトナム語版]])は[[ベトナム|越南(ベトナム)]]など他の[[漢字文化圏]]の国にも伝わっている。
 
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== 脚注・出典 ==
 
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== 参考文献==
 
*『[[世界大百科事典]]』([[平凡社]])
 
 
== 関連項目 ==
 
* [[禅宗]]
 
* [[日本の仏教]]
 
* [[愛知梅花三十三ヶ所観音霊場]]
 
* [[懺謝文]] - 日本曹洞宗が発表した戦争責任に対する見解と謝罪
 
* [[永平寺]]
 
* [[總持寺]]
 
* [[駒澤大学]]
 
* [[鶴見大学]]
 
* [[東北福祉大学]]
 
* [[愛知学院大学]]
 
* [[シャンティ国際ボランティア会]]
 
  
 
== 外部リンク ==
 
== 外部リンク ==
 
* [http://www.sotozen-net.or.jp/ 曹洞宗・曹洞禅ネット] - 公式サイト
 
* [http://www.sotozen-net.or.jp/ 曹洞宗・曹洞禅ネット] - 公式サイト
** {{Facebook Page|id=曹洞宗/426119277488785|name=曹洞宗}} ※公式アカウント
 
* [http://global.sotozen-net.or.jp/eng/ SOTOZEN-NET] - グローバルサイト(海外向け){{en icon}}{{de icon}}{{fr icon}}{{it icon}}{{es icon}}{{pt icon}}
 
** {{Facebook|SotoZenBuddhism.OFFICIAL|Soto Zen Buddhism Administrative Headquarters International Department}} ※グローバル公式アカウント{{en icon}}
 
** {{Twitter|SOTOZEN_pr|Soto Zen Official}} ※グローバル公式アカウント{{en icon}}
 
* [http://www.sousei.gr.jp/ 全国曹洞宗青年会] - 青年僧のサイト
 
** {{Facebook|zensousei|全国曹洞宗青年会}}
 
** {{YouTube channel|zensousei|zensousei|全国曹洞宗青年会}}
 
* [http://www.tokyogrand.gr.jp/ 東京グランドホテル]
 
 
  
 
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[[Category:東京都港区の組織]]
 
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曹洞宗(そうとうしゅう)

禅宗の一派。中国の禅宗第六祖慧能の法系である洞山良价 (807~869) を祖とする。中国禅宗五家七宗の一つ。中国曹洞宗は,道元,東明,東陵の3派が日本へ伝わったが,13世天童如浄 (1163~1228) の法を入宋して伝えた道元派のみが栄え残った。中国曹洞宗は,打坐を重視する黙照禅であったが,道元はさらに初祖達磨への復帰を志し,『正法眼蔵』を著わし,ひたすら坐禅する只管打坐を唱えた。法系は懐弉,義介,紹瑾と続き,臨済宗が上層階級に護持されたのに対し,一般庶民の間に教線を広げた。福井の永平寺と神奈川の総持寺の2つの大本山をもち,全国に約1万 4000の末寺を擁している。


外部リンク




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