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[[ファイル:昭憲皇太后.jpg|サムネイル]]
{{基礎情報 皇后
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'''昭憲皇太后'''(しょうけんこうたいごう、[[嘉永]]2年[[4月17日 (旧暦)|4月17日]]([[1849年]][[5月9日]]) - [[1914年]]([[大正]]3年)[[4月9日]]
|名 = 昭憲皇太后
 
|立后根拠 = 第122代明治天皇后
 
|画像=Empress Shoken picture3.jpg
 
|画像サイズ=250px
 
|画像説明=昭憲皇太后<br>[[1889年]](明治22年)
 
|在位期間 = 1869年2月9日-1912年7月30日
 
|和暦在位期間 = 明治元年12月28日-明治45年
 
|立后 = 明治元年12月28日(1869年2月9日)
 
|出生日= {{生年月日と年齢|1849|5|9|no}}([[嘉永]]2年[[4月17日 (旧暦)|4月17日]])
 
|生地 = [[平安京]] 一条烏丸東入・一条家 桃花殿
 
|死亡日={{死亡年月日と没年齢|1849|5|9|1914|4|9}}
 
|没地={{JPN}} [[静岡県]][[駿東郡]][[静浦村]]<br>(現在の静岡県[[沼津市]])<br>[[沼津御用邸]]
 
|入内 = 明治元年12月28日(1869年2月9日)
 
|結婚 =
 
|皇后 = 明治元年12月28日(1869年2月9日)
 
|皇太夫人 =
 
|皇太后 = 1912年(明治45年)7月30日
 
|太皇太后 =
 
|女院 =
 
|大喪儀 =
 
|陵所 = {{JPN}} [[京都府]][[紀伊郡]][[伏見市|伏見町]]<br>(現在の京都府[[京都市]][[伏見区]])<br>[[伏見桃山陵|伏見桃山東陵]]<br>[[1914年]](大正3年)埋葬
 
|身位= [[女御]]→[[皇后#日本の皇后位|皇后]]→[[皇太后]]
 
|地位 =
 
|敬称= [[陛下]]
 
|諱 = 勝子(まさこ)→美子(はるこ)
 
|命名年月日 =
 
|氏族 = [[一条家]]([[藤原氏]])
 
|旧名 = 一条美子
 
|女院号 =
 
|追号 = 昭憲皇太后
 
|異称 = 富貴君(ふきぎみ)<br>富美君(ふみぎみ)<br>→寿栄君(すえぎみ)
 
|戒名 =
 
|幼称 =
 
|お印 = [[若葉]](わかば)
 
|父親 = [[一条忠香]]
 
|母親 = 新畑民子
 
|配偶者1=[[明治天皇]]
 
|子女 = なし
 
|養子女 =
 
|皇居 =
 
|宮廷首脳人物 =
 
|宮廷首脳人物2 = 
 
|宮廷女房 =
 
|空欄表題1 =
 
|空欄記載1 =
 
|栄典 = [[宝冠大綬章]]
 
|役職 = [[日本赤十字社]]名誉総裁
 
|親署 =
 
|脚注 =
 
}}
 
[[File:Empress Consort Haruko.jpg|200px|thumb|1872年、[[内田九一]]撮影]]
 
'''昭憲皇太后'''(しょうけんこうたいごう、[[嘉永]]2年[[4月17日 (旧暦)|4月17日]]([[1849年]][[5月9日]]) - [[1914年]]([[大正]]3年)[[4月9日]])は、[[明治天皇]]の[[皇后]]。旧名・'''一条美子'''(いちじょう はるこ)。病弱で実子はなかったが、嫡妻として、明治天皇の側室([[柳原愛子]])が生んだ嘉仁親王([[大正天皇]])を養子とした。
 
  
欧州の王侯貴族・貴婦人と対峙できるよう近代[[女子教育]]を振興し、社会事業の発展、国産の奨励等に尽力した。史上初めて[[洋服|洋装]]をした皇后。[[1914年]](大正3年)で崩御(64歳)。
+
明治天皇の皇后。嘉永(かえい)2年4月17日、左大臣一条忠香(ただか)の三女として生まれる。初めの名は勝子。1867年(慶応3)6月女御(にょうご)となる。この年、天皇との年齢差、3歳の年長を、「世俗四つ目と称してこを忌む」として、1年遅い嘉永3年を公式の生年とした。68年12月美子(はるこ)と改名、28日入内(じゅだい)の儀を経て皇后に冊立(さくりつ)された。勧業博覧会や各種共進会、富岡製糸場などに行啓して産業を奨励し、華族女学校、東京女子師範学校などの設立援助、開成学校、学習院への行啓など教育の振興にも努めた。また博愛社の設立、日本赤十字社、慈恵病院、愛国婦人会への援助など社会事業に力を注いだ。能楽、美術、工芸の発展にも心を配り、日清(にっしん)・日露戦争には出征軍人や傷病兵に下賜品を与え、慰問使を送った。和歌や古典文学に造詣(ぞうけい)深く、とくに作歌では3万6000首にも上る歌を残し、『昭憲皇太后御歌集』はその片鱗(へんりん)を示すものである。大正3年4月11日死去。昭憲皇太后と追号された。墓地は京都伏見(ふしみ)桃山東陵。
  
== 生涯 ==
+
{{テンプレート:20180815sk}}
=== 皇后時代 ===
 
[[嘉永]]2年([[1849年]])4月17日、従一位[[左大臣]]・[[一条忠香]]の三女として誕生。生母は側室<ref group="注釈">一条忠香の正室は[[伏見宮]]順子女王。</ref>・新畑民子<ref group="注釈">一条家の典医・[[新畑大膳種成]]の娘。</ref>。[[右大臣]]・[[一条実良]](1835-1868年)の妹。[[徳川慶喜]]の婚約者であった千代君<ref group="注釈">実父は[[醍醐忠順]]。輝姫。忠香は養父。</ref>、[[疱瘡]]のため千代君に代わって慶喜に嫁いだ[[一条美賀子|美賀子]]<ref group="注釈">実父は[[今出川公久]]。忠香は養父。</ref>とは、義理の姉妹にあたる。
 
 
 
はじめの名前は'''勝子'''(まさこ)。通称は'''富貴君'''(ふきぎみ)、'''富美君'''(ふみぎみ)など。[[安政]]5年([[1858年]])6月、'''寿栄君'''(すえぎみ)と改名(皇女富貴宮の[[避諱|諱を避ける]]ため)。
 
 
 
[[慶応]]3年[[6月28日 (旧暦)|6月28日]]([[1867年]][[7月29日]])、新帝明治天皇の[[女御]]に治定。伏見宮家の縁故で、女流漢学者で勤王論者の[[若江薫子]]が家庭教師として忠香の娘たちの養育に携わっていたが、女御を一条家から出すのに際し、薫子は姉を差し置いて妹の寿栄君を推薦したと言われている。
 
 
 
[[明治]]元年[[12月26日 (旧暦)|12月26日]]([[1869年]][[2月7日]])、美子(はるこ)と改名し、従三位に叙位。[[12月28日 (旧暦)|同月28日]](1869年[[2月9日]])入内して次のような女御の宣下を蒙り、即日皇后に立てられた。
 
{{Quotation|
 
「一条美子女御宣下 女御藤原美子入内立后一件(女御入内備忘定功卿記)」
 
 
 
<br />從三位藤原朝臣美子<br />
 
右中辨藤原朝臣長邦傳宣<br />
 
權中納言藤原朝臣公正宣<br />
 
奉 勅宜爲女御者<br />
 
明治元年十二月二十八日 中務少輔輔世<sup>奉</sup><br />
 
 
 
<br />―宮内庁書陵部編纂『皇室制度史料(后妃4)』[[吉川弘文館]]所収
 
 
 
(訓読文)従三位藤原朝臣美子(一条美=はる子 20歳)右中弁藤原朝臣長邦(葉室長邦 30歳 従四位下)伝へ宣(の)り、権中納言藤原朝臣公正(清水谷公正 60歳 正三位)宣(の)る、勅(みことのり 明治天皇 17歳)を奉(うけたまは)るに、宜しく女御と為すべし者(てへり)、明治元年(1868年)12月28日 中務少輔兼左大史小槻(壬生 58歳 正四位上)宿禰輔世奉(うけたまは)る、}}
 
 
 
この際、天皇より3歳年長であることを忌避して、公式には嘉永3年([[1850年]])の出生とされた。当初、中世以来の慣行に従って[[中宮職]]を付置され、[[中宮]]と称されたが、翌年、中宮職が[[皇后宮職]]に改められ、称号も皇后宮と改められた。この時を最後に、中宮職は廃止され、中宮の称号も絶えた。
 
 
 
== 皇太后時代 ==
 
[[1912年]](明治45年)[[7月30日]]、明治天皇が[[崩御]]し、[[皇太子]][[大正天皇|嘉仁親王]]の[[践祚]]および[[皇太子妃]][[貞明皇后|節子]]の[[皇后#日本の皇后位|立后]]と同時に[[皇太后]]となった。
 
 
 
[[1914年]]([[大正]]3年)[[4月9日]]2時10分、[[沼津御用邸]]にて[[狭心症]]のため<ref>{{Cite |和書 |author=服部敏良 |author-link=服部敏良 |title=事典有名人の死亡診断 近代編 |publisher=吉川弘文館 |year=2010 |page=154 }}</ref>崩御。公式には[[4月11日]]同時刻。丸2日ずらされたのは、[[宮内省]][[内蔵頭]]当時の収賄で司直の手が及びかけていた[[宮内大臣]][[渡辺千秋]]を急遽更迭させるための措置であった。
 
 
 
同年[[5月9日]]、宮内省告示第9号により「昭憲皇太后」と追号され<ref group="注釈">同告示によると、追号の「'''昭憲'''」は[[諡|諡法]]に則り、「明憲昭徳」を意味する。昭は「'''昭'''著(アキラカニアラワス)」であり、「君子以'''昭'''明徳」(『[[易経]]』)、「於昭于天」(『[[詩経]]』)、「百姓'''昭'''明」(『[[尚書]]』)などの例がある。憲は諡法に「博聞多記曰'''憲'''」、また『[[礼記]]・内則』に「'''憲'''、法其徳行也」とある。</ref>、翌年[[5月1日]]に、明治天皇と共に[[明治神宮]]の祭神とされた。
 
 
 
[[天皇陵|陵墓]]は[[京都市]][[伏見区]]にある[[伏見桃山陵|伏見桃山東陵]](ふしみももやまのひがしのみささぎ)。
 
 
 
==業績==
 
維新期の皇后として社会事業振興の先頭に立ち、華族女学校(現[[学習院女子中・高等科|学習院女子高等科]])や、お茶の水の[[東京女子高等師範学校|東京女子師範学校]](現・[[お茶の水女子大学]])の設立、[[日本赤十字社]]の発展などに大きく寄与した。慈善事業の発展に熱心で、[[東京慈恵医院]]や[[博愛社]](現在の[[日本赤十字社]])の発展に貢献した。<ref>『ビジュアル日本史ヒロイン1000人』の228頁</ref>
 
[[ファイル:Empress Haruko. Image from book of 1902.jpg|210px|サムネイル|左|1902年(明治35年)、[[バッスル|バッスルスタイル]]の[[ローブ・モンタント]]を召して。(ロシアの日本紹介文献にて)]]
 
赤十字の日本国内における正式紋章「赤十字桐竹鳳凰章」は、紋章制定の相談を受けた際、皇后が[[大日本帝国憲法]]発布式で戴冠したパリの高級宝飾店ショーメ制作のフランス製の[[ティアラ|宝冠]]のデザインが、[[桐]]と[[竹]]の組み合わせで出来ていた事から、日本近代化の象徴として「これがよかろう」という自身の示唆で、さらに皇后を象徴する[[瑞獣]]である[[鳳凰]]を戴く形に決められたという。
 
 
 
[[1912年]](明治45年)、[[アメリカ合衆国]]の首都[[ワシントンD.C.]]にて第9回[[赤十字]]国際会議が開催された際、国際赤十字に対して皇后が10万円(現在の貨幣価値に換算すれば3億5000万円ともいわれる)を下賜した。[[赤十字国際委員会]]はこの資金を基にして[[昭憲皇太后基金]] (Empress Shōken Fund) を創設した。この基金は現在も運用されており、皇后の命日に利子を配分している。
 
 
 
皇后として欧化政策の先頭に立たなければならない立場を強く自覚し、[[1886年]](明治19年)以降は、着用の衣服を寝間着を除いてすべて[[洋服]]に切り替えた。洋服を率先着用した理由としてもう一つ、「上半身と下半身の分かれていない着物は女子の行動を制限して不自由である」という皇后自身の言葉も伝えられている。<!--現在の皇室で[[和服]]が着られないのは、この時の方針が踏襲されているため。--><!-- ??? 和服を公の場で着ることがないのは男性皇族で、着物姿の女性皇族は珍しくありません -->
 
 
 
また、[[津田梅子]]ら女子留学生の派遣にも関わったとされ{{要出典|date=2018年2月}}、さらには、能楽、美術、工芸の発展にも心を配り、日清・日露戦争に際しては、出征軍人や傷病兵に下賜品を与え、慰問使を送った。
 
 
 
また、[[和歌]](中国の詩である漢詩に対して、上代から行われた日本固有の詩歌で、五音と七音を基調とする長歌・短歌・旋頭歌・片歌などを総称としていう)や古典文学に造詣が深く、作られた[[短歌]](作歌)は3万6000首にも上るが、その一部は『昭憲皇太后御歌集』に見ることができる。
 
 
 
[[1875年]](明治8年)2月に[[東京女子師範学校]](お茶の水大学)、1908年(明治41年)に奈良女子高等師範学校が設置されたことに伴い、東京女子高等師範学校と改称。[[1878年]](明治11年)10月に、式部寮雅楽課二等伶人東儀季煕による壹越調律旋の譜が付され、現在も校歌として歌い継がれている。また、「女子高等師範学校記事」によると[[1896年]](明治29年)に、高等師範学校に依頼して御歌の撰譜をし、西洋風の旋律に改められた。この譜をつけた「みがかずば」の和歌、同時に下賜された日本最初の校歌でもあり、[[1886年]](明治19年)[[尋常小学校]]の小学校令により設置された満6歳以上の児童に初等普通教育を施した義務教育の旧制の小学校では、修業年限は初め4年であったが、1908年(明治40年)からの6年制の変革によって、唱歌としても広く歌われた。
 
 
 
==年譜・行啓歴==
 
[[ファイル:Tomioka Silk Mill Commemorative Monument of the Imperial Visit 01.JPG|150px|サムネイル|右|戦時中の[[1943年]](昭和18年)、皇后(昭憲皇太后)の行啓70周年を記念してたてられた高さ4.6 m、幅1.86 mの富岡製糸場の行啓記念碑。]]
 
[[ファイル:片多徳郎画、憲法発布観兵式行幸啓.jpg|サムネイル|[[1890年]](明治22年)2月12日、憲法発布祝賀会に臨御するため馬車に乗っている天皇と皇后。[[片多徳郎]]画『憲法発布観兵式行幸啓』]]
 
*[[1849年]]([[嘉永]]2年)5月9日、京都、一条烏丸東入・一条家 桃花殿にて生誕する。
 
*[[1867年]]([[慶応]]3年)7月29日、明治天皇の[[女御]]に内沙汰、同年に皇居に初目見えで参内する。
 
*[[1868年]]([[明治]]元年)12月28日、入内。皇后冊立。
 
*[[1869年]](明治2年)1月1日、[[元日節会]](正月一日)・[[白馬節会]](正月七日)・[[踏歌節会]](正月十六日)の[[節会|三節会]]に臨御する。
 
*[[1871年]](明治4年)8月1日、宮中大奥改革の英断をする。
 
*[[1872年]](明治5年)6月17日、[[恩賜箱根公園|箱根離宮]]の下温泉へ[[行啓]]する。同年7月18日に還啓。
 
**10月21日、[[ロシア帝国]]の{{仮リンク|アレクセイ皇子|en|Grand Duke Alexei Alexandrovich of Russia}}に拝謁する。
 
*[[1873年]](明治6年)3月、新政府令に基づき、皇后自らが[[眉墨|黛]]と[[お歯黒]]をやめる。
 
**同年5月、皇居宮殿で火事があり[[赤坂離宮]]に避難し、爾来そこを仮御所として住まう。
 
**同年6月13日、[[下野国]][[甘楽郡]]富岡([[群馬県]][[富岡市]])の[[富岡製糸場]]に行啓する。同月28日に還啓。
 
**同年8月3日、[[明治天皇]]と共に箱根離宮に行啓する。同月31日に還啓。
 
**同年12月7日、天皇と共に[[神奈川県]][[横須賀市]]の[[横須賀造船所]]に行啓する。同月8日に還啓。
 
*[[1875年]](明治8年)11月29日、[[東京女子高等師範学校]](後の[[お茶の水女子大学附属中学校]]・[[お茶の水女子大学附属高等学校]])の開業式に臨御する。
 
*[[1876年]](明治9年)6月2日、明治天皇奥州地方巡幸の見送り(ご奉送)のため、皇后宮千住駅に行啓する。
 
**同年11月20日、京都に行啓する。同年12月5日に[[京都御所]]に着輿する。
 
*[[1877年]](明治10年)2月28日、明治天皇と共に皇族として史上初の[[蒸気船]]・廣島丸に乗り、同月30日に[[横浜港]]に入港し東京に還啓する。
 
**同年10月26日、天皇と共に東京都内の[[上野公園]]に行啓し、[[内国勧業博覧会#第一回内国勧業博覧会|第一回内国勧業博覧会]]を巡覧する。
 
**同年11月27日、[[英照皇太后]]と共に女子師範学校幼稚園と紙幣局製造場に行啓する。
 
*[[1878年]](明治11年)3月25日、天皇と共に日比谷原において[[近衛兵]]らの操練を巡覧する。
 
*[[1879年]](明治12年)4月28日、横浜に行啓する。軍艦『[[扶桑]]』・『[[金剛]]』・『[[比叡]]』等を巡覧する。
 
**同年5月29日、[[ドイツ帝国]]の皇族・[[ハインリヒ・フォン・プロイセン (1862-1929)|ハインリッヒ皇子]]と謁見する。
 
**同年7月4日、第18代[[アメリカ合衆国大統領]]の[[ユリシーズ・グラント]]将軍夫妻と謁見する。
 
**同年11月27日、宮城・[[吹上御苑]]において、[[島津忠義]]傳家の[[犬追物]]を観覧する。
 
*[[1880年]](明治13年)3月22日、皇居・吹上御苑において[[松浦詮等]]の騎射犬追物を観覧する。
 
*[[1881年]](明治14年)5月25日、横浜から軍艦『[[迅鯨 (初代)|迅鯨]]』に乗艦し[[横須賀市|横須賀]]を行啓する。
 
**同年6月2日、武蔵府中連光寺河原に行啓し、鮎漁を観覧する。
 
*[[1882年]](明治15年)6月21日、[[向島]]に行啓し、[[隅田川]]で催されていた海兵の短艇競漕を観覧する。
 
*[[1883年]](明治16年)9月、[[香川敬三]]皇后宮大夫に命じ、皇太子嘉仁親王に心身安全のため、[[島根県]]・[[出雲大社]]へ毎年正月九日に両度供物を献上し祈祷する。
 
*[[1885年]](明治18年)7月8日、東京都・[[品川区]]の[[伊藤博文]]邸に行啓する。
 
*[[1887年]](明治19年)3月30日、軍艦『[[武蔵 (スループ)|武蔵]]』の進水式に行啓する。
 
**同年7月30日、[[華族女学校]]行啓で洋装を公にする。
 
**同年11月26日、明治天皇と共に相模国長浦([[神奈川県]])に行啓し、軍艦『[[浪速]]』・『[[高千穂]]』に試乗する。
 
*[[1888年]](明治20年)1月17日女性の洋服の着用を奨励する「思召書」を出す。
 
**1月25日、天皇と共に[[孝明天皇]]二十年祭のため京都に行啓する、2月21日京都発で同月23日に武豊港より軍艦『浪速』に乗艦し24日に横浜港に着。
 
**同年4月、[[日本赤十字社]]創設の補助金を下賜。
 
**同年5月、[[東京慈恵会|東京慈恵病院]]に約2万円(1200万円相当)を下賜。病院に「慈恵」という名を与える。
 
*[[1889年]](明治21年)10月15日、横須賀で軍艦『[[高雄 (巡洋艦)|高雄]]』の命名式に行啓する。
 
**同年11月21日、天皇と共に[[埼玉県]]・[[浦和市]]に行啓。近衛兵の演習を観覧する。
 
*[[1890年]](明治22年)2月12日、東京・[[上野公園]]へ行啓、憲法発布祝賀会に臨御する。
 
*[[1895年]](明治27年)3月9日、銀婚式を奉行する。
 
**同年4月19日、横須賀に行啓し、新造艦『[[松島 (防護巡洋艦)|松島]]』・『[[吉野 (防護巡洋艦)|吉野]]』・『[[千代田 (防護巡洋艦)|千代田]]』を観閲する。
 
*[[1898年]](明治30年)1月11日、[[英照皇太后]]崩御、4月17日京都に行啓し英照皇太后御陵を参拝する。
 
*[[1899年]](明治31年)4月8日、東京都内の上野公園に行啓し、遷都30周年祝賀会に臨御する。
 
**同年11月28日、横須賀に行啓する。軍艦『[[八島 (戦艦)|八島]]』に乗船し、艦橋上より軍艦『[[富士 (戦艦)|富士]]』・『[[高砂 (防護巡洋艦)|高砂]]』を観閲する。
 
*[[1903年]](明治35年)11月15日、横須賀で軍艦『[[新高 (防護巡洋艦)|新高]]』の進水式に行啓する。
 
*[[1904年]](明治36年)4月23日、明治天皇と共に大阪に行啓し、第五回勧業博覧会・連日博覧会を観覧し、5月11日に東京に還啓。
 
*[[1907年]](明治40年)10月21日、横須賀で軍艦『[[鞍馬 (巡洋戦艦)|鞍馬]]』の進水式に行啓する。
 
*[[1909年]](明治42年)1月15日、[[沼津御用邸]]へ避寒のために行啓する。
 
*[[1910年]](明治43年)4月27日、観桜会([[園遊会]])のためへ[[赤坂御用地]]へ行啓する。同28日、慈恵病院へ行啓する。
 
*[[1911年]](明治44年)5月18日、[[伊勢神宮]]参拝のため東京を出御し、名古屋に一泊する。同19日に山田に到着し外宮を参拝し、21日に内宮参拝し還啓。
 
*[[1912年]](明治45年)5月8日、ドイツ帝国の[[ヴァルデマール・フォン・プロイセン (1868-1879)|ヴァルデマール皇子]]と謁見する。
 
**同年7月18日、明治天皇が倒れた後は毎晩看護する、同月30日に天皇崩御。
 
*[[1912年]](大正元年)10月13日、桃山御陵参拝。17日還啓。
 
*[[1913年]](大正2年)7月21日、沼津御用邸より還啓し[[青山御所]]に入る。
 
*[[1914年]](大正3年)3月26日、[[狭心症]]を発作し4月9日午前1時50分重体に陥り、同月10日午後11時25分に東京に還啓し、11日午前2時50分崩御。同年5月9日に追号を『昭憲皇太后』を治定する。5月24日、[[大喪儀]]を執行し同月25日に東京発。26日に京都府紀伊郡内村字堀内古城山で[[斂葬の儀]]が行われた。
 
 
 
==逸話==
 
* [[1884年]](明治17年)に宮中改革を巡って明治天皇との関係が悪化していた[[伊藤博文]]が病気で倒れた際には、天皇に代わって見舞いの使者を出して両者の仲直りのきっかけを作った。また、同年に[[宮内大輔]]の[[吉井友実]]が以前に社長を務めていた[[日本鉄道]]の[[上野駅|上野]] - [[高崎駅|高崎]]間開通式典に出席した際に、明治天皇は出席に乗り気ではなく天気も一日中雨であったが、皇后は終始笑顔で応対し吉井を感激させた(吉井の[[宮島誠一郎]]宛書簡)。
 
* 明治になって再び朝廷に政権が返った事により、[[江戸幕府]]の[[大奥]]や西洋の宮廷の例のように、皇后や周辺が国政に関与する可能性も生じたが、自らを戒め、国政には直接関与しなかった。また、[[香川敬三]]や[[下田歌子]]など側近を得て、近代日本の皇后像を確立した。
 
* [[1904年]](明治37年)2月、[[日露戦争]]の前夜、葉山の[[御用邸]]に滞在の折、37,8歳の[[武士]]が白衣で皇后の夢枕に立ち、戦いの際の[[海軍 (日本)|海軍]]守護を誓ったという。宮内大臣[[田中光顕]]に下問したところ、田中は[[坂本龍馬]]の霊であるとし、これが新聞に載って国民の士気を鼓舞し、[[京都霊山護国神社|霊山官祭招魂社内]]にある坂本龍馬の墓前に忠魂碑が立てられるに至った。[[野田正彰]]はこの説に批判的で、龍馬と同郷(高知出身)の田中が龍馬を国威発揚に利用するため流した風説であるとの立場を採っている。ちなみに野田もやはり同郷である。
 
* その当時の日本女性には珍しく鼻筋の通った顔立ちであり、明治天皇にからかい混じりに「[[天狗]]さん」と渾名されていたという。
 
* 天皇の前では決して吸うことはなかったが、大変な[[パイプ (たばこ)|パイプ]]好きであったという。
 
* 趣味は庭園の池での魚釣り<ref>[[NHK BSプレミアム]]「時空超越ドラマ&ドキュメント美子伝説」</ref>。
 
 
 
==追号について==
 
皇后・皇太后・太皇太后の3つの身位の序列は、[[大宝律令]]では1.太皇太后、2.皇太后、3.皇后の順と定められていたが、[[皇族身位令]]制定によって1.皇后、2.太皇太后、3.皇太后の順に改められ、諡号・追号には生前帯びていた身位のうち最高のものをつけることになった。
 
 
 
皇后だった彼女の追号は、本来なら「昭憲'''皇后'''」となるはずだった。だが崩御時に贈られた追号は皇族身位令に従っていない「昭憲'''皇太后'''」であった。
 
 
 
こうなった理由は、孝明天皇の正妻であり明治天皇の「実母」(嫡母)だった[[英照皇太后]]の追号が「皇太后」だったことから、誤ってそれに倣って命名してしまったものといわれている。英照皇太后は正妻ではあったものの、立后の意向を示した孝明天皇に幕府が反対して皇后には冊立されず、[[女御]]・[[准后|准三宮]]のみを宣下され、明治天皇の即位にともなって皇太后とされたので、その追号は正確なものだったが、女御宣下と同時に立后された昭憲皇太后にはこれは当てはまらない。また、皇族身位令自体が[[1910年]](明治43年)に制定され、そのわずか4年後に崩御したので、いまだその内容が充分に定着していなかったことも影響していると考えられる。
 
 
 
昭憲皇太后を祭神とする[[明治神宮]]はホームページで「宮内大臣が昭憲さまのご追号を皇后に改めないで、「昭憲皇太后」としてそのまま大正天皇に上奏し御裁可となった」「この上奏の時点で間違いが生じました」として宮内大臣のミスを挙げている(上述の通り、昭憲皇太后が崩御した4月9日に宮内大臣が渡辺千秋から[[波多野敬直]]に交代しており、4月11日に崩御の事実が公表された)。
 
 
 
追号は[[勅裁]](天皇の裁定)により定められたものなので、誤りが判明しても「[[綸言汗の如し]]」としてこれを改めることが出来ず、現在に至っている。明治神宮は、[[1920年]](大正9年)と[[1963年]]([[昭和]]38年)の2度にわたって「昭憲皇后」への改号を宮内省・宮内庁に要請しているが、いずれも拒否されている。
 
 
 
皇族身位令は[[1947年]](昭和22年)に廃止されたが、[[貞明皇后]]は、皇族身位令に準じて、生前の最高位が皇后だったことを正確に反映した追号を贈られている。、[[香淳皇后]]も同様に同令に準じて生前の最高位である「皇后」の追号を贈られている。
 
 
 
== 著作 ==
 
*『昭憲皇太后御製大全集』 全47冊
 
*『類纂新輯昭憲皇太后御集』、明治神宮編、1990年11月
 
 
 
===公伝===
 
*『昭憲皇太后実録』全3巻組、明治神宮監修、[[吉川弘文館]]、2014年4月
 
 
 
==栄典==
 
===日本===
 
*[[宝冠章]] - [[File:JPN Hokan-sho 1Class BAR.svg|55px]]
 
 
 
===外国===
 
* {{Flag|Thailand|1855}} : [[大チャクリー勲章]] - [[File:Order of the Royal House of Chakri (Thailand) ribbon.png|55px]]
 
* {{Flag|Spain|1785}} : 女王マリア・ルイーザ勲章 - [[File:Order of Queen Maria Luisa (Spain) - ribbon bar.png|55px]]
 
 
 
==題材とされた作品==
 
===テレビ番組===
 
* 時空超越ドラマ&ドキュメント「美子伝説」(2018年1月2日放送、[[NHK BSプレミアム]])美子皇后役 [[田中麗奈]]
 
 
 
===書籍===
 
*[[山川三千子]]著『女官』([[実業之日本社]] 1960年)
 
**新版『女官-明治宮中出仕の記』(講談社学術文庫、2016年)
 
 
 
==出典==
 
{{Reflist}}
 
 
 
== 注釈 ==
 
{{脚注ヘルプ}}
 
<references group="注釈" />
 
 
 
==参考文献==
 
*[[宮内省]]編『昭憲皇太后御集』[[岩波文庫]]、初版1938年
 
*[[明治神宮]]編『新抄明治天皇御集・昭憲皇太后御集』[[角川文庫]]、1967年。<br> ※この文庫版は現在、明治神宮で購入可能。
 
*山本和子文・外山勝志監修、村上正師画 『歴史絵本 明治天皇と昭憲皇太后』善本社 2007年
 
*[[出雲井晶]]『エピソードでつづる昭憲皇太后』[[錦正社]]、2001年。ISBN 4764602555
 
*出雲井晶『春の皇后 小説・明治天皇と昭憲さま』[[中公文庫]]、1999年。ISBN 4122033489
 
*[[保阪正康]]『皇后四代 明治から平成まで』[[中公新書]]ラクレ、2002年。ISBN 4121500644
 
*[[小田部雄次]]『四代の天皇と女性たち』[[文藝春秋]]〈[[文春新書]]〉、2002年。ISBN 416660273X
 
*小田部雄次『昭憲皇太后・貞明皇后』[[ミネルヴァ書房]]・日本評伝選、2010年11月。ISBN 4623059081
 
*片野真佐子『皇后の近代』[[講談社]]選書メチエ、2003年。皇后三代の物語
 
*[[若桑みどり]]『皇后の肖像―昭憲皇太后の表象と女性の国民化』[[筑摩書房]]、2001年。ISBN 4480873309
 
*河原敏明『昭和天皇の妹君』文藝春秋〈文春文庫〉、2002年。
 
*『明治神宮叢書(全20巻)』、[[国書刊行会]]、2006年完結。基本文献
 
 
 
==外部リンク==
 
{{commons&cat|昭憲皇太后|Empress Shōken}}
 
*[http://j-texts.com/taisho/shoken.html 〔類題謹解〕昭憲皇太后御集]
 
*[http://space.geocities.jp/keiun17/ 昭憲皇太后史]
 
*[http://www.meijijingu.or.jp/qa/gosai/12.html 明治神宮Q&A - なぜ、昭憲皇后ではなく昭憲皇太后なのですか?]
 
 
 
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昭憲皇太后.jpg

昭憲皇太后(しょうけんこうたいごう、嘉永2年4月17日1849年5月9日) - 1914年大正3年)4月9日

明治天皇の皇后。嘉永(かえい)2年4月17日、左大臣一条忠香(ただか)の三女として生まれる。初めの名は勝子。1867年(慶応3)6月女御(にょうご)となる。この年、天皇との年齢差、3歳の年長を、「世俗四つ目と称してこを忌む」として、1年遅い嘉永3年を公式の生年とした。68年12月美子(はるこ)と改名、28日入内(じゅだい)の儀を経て皇后に冊立(さくりつ)された。勧業博覧会や各種共進会、富岡製糸場などに行啓して産業を奨励し、華族女学校、東京女子師範学校などの設立援助、開成学校、学習院への行啓など教育の振興にも努めた。また博愛社の設立、日本赤十字社、慈恵病院、愛国婦人会への援助など社会事業に力を注いだ。能楽、美術、工芸の発展にも心を配り、日清(にっしん)・日露戦争には出征軍人や傷病兵に下賜品を与え、慰問使を送った。和歌や古典文学に造詣(ぞうけい)深く、とくに作歌では3万6000首にも上る歌を残し、『昭憲皇太后御歌集』はその片鱗(へんりん)を示すものである。大正3年4月11日死去。昭憲皇太后と追号された。墓地は京都伏見(ふしみ)桃山東陵。



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