旧約聖書

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Vetus Testamentum; Old Testament

「旧約」ということばはキリスト者のことばで、ユダヤ教徒は、これを内容に従って「タナッハ」Tanachとよぶ。「律法」Torah、「預言書」Nabi‘im、「諸書」Chethubimの頭文字をあわせたものである。

イスラエルの歴史

 『旧約聖書』各書の成立過程とその構成を知るには、歴史的背景の理解が必要である。

 エジプトの奴隷であったヘブライ諸族は、紀元前13世紀、モーセに率いられてカナーンに解放の地を求め、エジプトを脱出する。この困難な事業を果たすため、モーセは、彼らの共通の祖アブラハム、イサク、ヤコブの神、ヤーウェを唯一の神として拝むこと、ヤーウェは彼らをとくに選んだ民イスラエルとして民祖への約束であるカナーンの地を与えることを説き、民族一神教と選民信仰の基礎を据えた。モーセは、ヨルダン川の対岸に南部最大のオアシスの町エリコを目前にして死ぬが、その遺志はヨシュアに受け継がれ、ヨルダン川を渡りカナーン征服に向かう。イスラエル十二支族は、それぞれの指導者である士師(しし)(裁き人)のもとに協力しながら原住民を征服し、カナーン全域を各支族に分けて定着していく。これが前12~前11世紀の士師時代である。

 このころ、ペリシテが西岸から侵入し、カナーンはペリシテ人の地――パレスチナ――とよばれるようになる。これに対抗するため全支族を統率する王の出現が望まれ、十二支族の宗教連合はサウル王のもとに国家となる。  サウルは戦いに敗れ、在位11年で自決、王位はダビデに継がれる。前1000年ごろである。ダビデはペリシテ人を破り、全カナーンを征服して、ここにイスラエル統一王朝がなる。この安定したイスラエル王国を継いで内政・外交に手腕を発揮したのが、前960年ごろから40年間にわたって統治したソロモン王である。彼はエルサレムに神殿と王宮を建て、全国に堅固な要塞(ようさい)都市を建設する。

 しかし、この2代のイスラエル黄金時代も、ソロモンの死後、王位継承争いにより南ユダ王国と北イスラエル王国に分裂し、国力はしだいに弱まる。前721年アッシリアは北イスラエルを占領する。このアッシリアにかわって台頭したバビロニアは、前586年南ユダを滅ぼしてしまう。エルサレムは破壊され、多くのユダの民は捕らわれの身となり、バビロニアに連行される。これを「バビロン捕囚」とよび、イスラエル宗教史は大きな転換を遂げる。  前538年、バビロニアにかわって地中海世界に領土を広げたペルシアは、捕囚のユダヤ人を解放、帰国させる。前331年のペルシアの滅亡後も、ギリシア前期エジプトのプトレマイオス王朝はユダヤ教を保護する。しかし前202年以後シリアのセレウコス王朝はユダヤ教を迫害し、前160年ごろユダヤは独立戦争によりハスモン王朝を興す。しかし前63年にはローマに占領され、イエスの時代に至る。

『旧約聖書』の構成と各書の成立

『旧約聖書』は律法、預言書、諸書よりなる。律法とは、『旧約聖書』の最初の五書「創世記」「出エジプト記」「レビ記」「民数(みんすう)記」「申命(しんめい)記」のことである。「創世記」は、天地創造譚(たん)、アダムとイブ、カインとアベル、ノア、バベルの塔の伝説が記され、イスラエル民祖、12族長の物語などで構成されている。第二の「出エジプト記」から第五の「申命記」までは、モーセの出生から死までの間に、シナイ山その他で神からモーセを通じて与えられた律法が編纂(へんさん)されている。したがってこの五書は「モーセ五書」または「モーセの律法」といわれ、前400年ごろユダヤ教最初の経典(カノン)となった。

 「創世記」「出エジプト記」の伝承は、おもに神名を、「ヤーウェ」とよぶ「ヤーウィスト」Jahwist(略号J)、「エロヒム」とよぶ「エロヒスト」Elohist(略号E)と名づけられる資料からなり、前者は前10世紀なかば、後者は前8世紀なかばに成立した。Jは民族信仰に貫かれ、Eはこれに倫理的宗教観が加味されている。「出エジプト記」20~23章にある「モーセの十戒」「契約の書」はEの作者の手になる。前621年ヨシア王により「申命記(申(かさ)ねての命令)法」Deuteronomium(D)が定められ、「申命記」5~25章、28章に置かれた。「レビ記」「民数記」は、前500年ごろ祭司によりまとめられた「祭司法典」Priester Kodex(P)で、この作者が律法全体の編纂者であり、五書各所に筆を施している。このように「律法」は、J、E、D、Pの四資料より構成されている。

 預言書は前300年ごろまでに編集され、ユダヤ教第二の経典となった。「イザヤ」「エレミヤ」「エゼキエル」の三大預言書、「ホセア」以下12の小預言書と、この編集のときその前に置かれた「ヨシュア記」「士師記」「サムエル記」上下、「列王紀」上下の四書を前預言書とし、あわせて預言者の名で聖典とした。  預言者とは、イスラエルでは、神のことばを預(あず)かって民に伝える指導者で、モーセもサムエルもこうよばれた。この15の預言者は、そのことばが記録され聖書に収録されたもので、「記述的預言者」Canonical Prophetsとよばれる。アモスの出現は前760年ごろで、イスラエル、ユダの社会の乱れを鋭く批判し、神の懲罰を説いた。民族信仰が単純にヤーウェは民イスラエルを助けるとしたのに対し、神は義の神であるからその民も義の民でなければならないとし、神を拝する道は儀礼ではなく公正を世に行うことであると説いた。このように宗教に明確な倫理的性格を与えたのが、アモスに始まるホセア、ミカ、イザヤ、ゼパニヤ、エレミヤらの捕囚以前の預言者で、ユダヤ教の第二の特色となる。ナホム、ハバククの2人だけは民族信仰を鼓吹し、国際的危機にヤーウェの助けを預言した。

 エゼキエルは捕囚前から捕囚にかけて預言し、アモスの系列にたちながらも、捕囚中はユダヤの民を励ました。捕囚は民族信仰を動揺させ、多くのユダヤ人はヤーウェの信仰を離れた。「イザヤ書」40~55章に収められた第二イザヤの預言は、慰めと励ましの預言であり、義の生活を保つことによってヤーウェの救いが約束されると説いた。そのなかに「苦難の僕(しもべ)の歌」といわれるものがあるが、民の苦難は贖罪(しょくざい)の苦悩であるとする思想によって、キリスト教では、キリストの預言とみられている。捕囚後の預言者ハガイ、ゼカリヤ、マラキは、捕囚後の新生ユダヤのなかにある社会悪を批判しながらも、エルサレムの復興を激励している。

 前預言書のうち「ヨシュア記」は、モーセの後継者ヨシュアに古代の英雄物語をあわせたもので、この士師時代の歴史は、各支族の士師を中心とした記録を編集した「士師記」によるほうが確かである。「士師記」5章の「デボラの歌」は前1150年ごろの実際の戦闘の目撃者のつくった歌で、旧約最古の資料の一つである。「サムエル記」は、12支族の精神的指導者サムエルに油注がれて王となったサウルとダビデの物語、「列王紀」はソロモン以後の列王の記録である。ソロモン時代以後は王朝に書記局が設けられ、ダビデの言い伝えとともに歴史的信憑(しんぴょう)度は高い。この四つの歴史書は、「申命記法」をつくった学派の中の歴史家、「申命記」的歴史家Deuteronomistとよばれ、預言者の倫理性を受けた歴史観にたつ。  「諸書」とよばれる残りの書は、捕囚以後に成立したもので、神殿、会堂などで用いられてはいたが、ユダヤ教の正典とされるようになったのは紀元後のことである。日本語聖書の配列はユダヤ教の「律法」「預言書」「諸書」の順序とは異なる。これは、前3世紀のヘレニズム世界で、ヘブライ語聖書がギリシア語に翻訳されたときの順序に由来する。この訳は72人の学者によって行われたと伝えられ、『セプトゥアギンタ』Septuaginta(『七十人訳聖書』)とよばれた。これには、のちに正典から外された「旧約外典」「偽典」も含まれている。キリスト教会ではこの『セプトゥアギンタ』をもとにラテン訳『ブルガータ訳聖書』をつくり、それがキリスト教会の『旧約聖書』の配列を決定したのである。

 捕囚以後のユダヤは、ペルシア、ギリシア初期のユダヤ教保護の政策のもとに宗教国家となり、祭司長を首長としながら発展した。先の「律法」「預言書」の編纂による正典の決定、多種にわたる宗教文書の成立にこれをみることができる。預言書といわれるもののなかにも「ヨエル書」「オバデヤ書」「ヨナ書」「ゼカリヤ書」などは文学的性格が強い。「ルツ記」は文学的な物語である。

 「歴代誌」上下、「エズラ記」、「ネヘミヤ記」は、歴代誌記者Chroniclerとよばれる前4世紀の歴史家の一連の編著である。「歴代誌」は、捕囚前の歴史を改めて新しい歴史観で編集し直し、捕囚の終わりまでをつづる。歴代の王の事績は、神に忠実であったか、これに背(そむ)いたかという観点から懺悔(ざんげ)史的に回顧、反省されている。また、捕囚以後の平和主義、反戦主義的な立場は、ダビデの取り扱いによく表れている。このイスラエルの最大の王が神殿を建てなかったのは、多くの血を流したためであり、神殿は「平安と静穏」の時代の王ソロモンによって成る、とされている(上22章6~10)。エズラ、ネヘミヤは、前5世紀なかばにペルシアから帰国した文(ふみ)の学者と総督であり、この2人の手で組織教団としてのユダヤ教が成立する(前444)。2人のそれぞれの手記が「エズラ記」「ネヘミヤ記」に資料として用いられている。「ヨブ記」「箴言(しんげん)」「伝道の書」は「知恵文学」といわれる。捕囚以後のユダヤ教の中心は祭司であった。しかし彼らは貴族階級となり、民衆から離れていった。このときに一般信徒の知識階級から「知恵の教師」とよばれる人々が出て、神殿とは別に会堂を全国に建て、ユダヤ教一般民衆の指導者となった。ユダヤ教は一面では占領者の保護政策のもとに成熟期を迎えていた。しかしこの政策は、地中海世界のつねに動揺する国際状勢のもとで、ユダヤに平穏を保たせるためのものであった。異国の占領下、しかもユダヤを挟むペルシア、エジプト、ギリシアの対立下の軍隊の往来などで民衆の生活は圧迫され、信仰を離れ世俗化した人々が栄える反面、敬虔(けいけん)なユダヤ教徒は不遇に苦しんでいた。義(ただ)しい信仰者をなぜ神は苦しめるのか、こうした疑念がユダヤ教徒の心を覆っていた。「ヨブ記」は、「完(まった)く正しい」ヨブが受ける苦悩をテーマとする対話詩劇である。このスケプティシズム(懐疑主義)は、「空(くう)の空、空の空、いっさいは空である」ということばに始まる「伝道の書」で極端に達する。ユダヤ教、キリスト教の聖書には異質とも思えるペシミズム、ニヒリズムが、民衆の心をくもうとした1人の「知恵の教師」の手でこの文書をものしたのである。

 「箴言」は、正しい敬虔な者が幸せを得るには、世の知恵、処世の道を知らなければならないとして、古今東西の格言を集め、「知恵」、慎み、たしなみを教えようとしたものである。「箴言」と「伝道の書」がソロモンの名を冠するのは、ソロモンが知恵の王とされ、人の知恵は神がソロモンを通じて与えたものという信仰による。

 「詩篇(しへん)」は、「雅歌(がか)」「哀歌」とともに詩文学に数えられる、捕囚以後の多様な文学形式の一つである。詩150篇は、ペルシア時代からギリシア時代にわたり、捕囚以前から伝わる詩と新作の歌とをあわせて、3次にわたり編集され、ギリシア時代後期にモーセ五書に倣って五部にまとめられた。このなかにはダビデに帰せられるものが多いが、これはダビデが歌と音楽の王とされているからである。「詩篇」は神殿で聖歌隊によって歌われる賛歌であるが、ことに初期のものは、会堂内で歌われたものが神殿礼拝用に取り入れられたものが多い。第一次編集(3~41篇)には「嘆きの歌」といわれるものが多いが、これは「ヨブ記」に集約される義しく敬虔なユダヤ教庶民の苦しみを神に訴えるものである。第二次(42~89篇)、第三次(90~150篇)と編集が加えられるにしたがって、信頼・感謝の歌、預言者的・知恵文学的な歌の数が増える。これは、信徒の信仰の動揺を教え諭(さと)し、神への信頼を固めようとするユダヤ教の精神史の流れと一致する。「知恵の教師」は律法学者のグループを生み、彼らによって律法をたたえる律法主義的な歌がつくられるようになる。最終の編纂者は冒頭に律法主義の歌を置き、最終五篇をハレルヤ(ヤーウェをほめたたえよ)の詩で結んでいる。

 「ダニエル書」は典型的な黙示文学である。旧約の預言者には終末における神の審判を説く傾向はあったが、それは来世観とは結び付かない。イスラエル思想は本来的に宗教史には珍しい現世主義である。しかし、ギリシア時代後期のセレウコス王朝によるユダヤ教の迫害は、教徒に平和主義を捨てさせると同時に、宗教思想のうえでも、ペルシア的な終末観の形成を助けた。すなわち、この世を悪の支配とみて、これが終わって新しい神の支配がくるという思想である。「ダニエル書」は『旧約聖書』の最後の書物で、前165年ごろセレウコス王朝の圧迫下にユダヤの救いを、終末観にたち、黙示文学の形で著したものである。黙示とは、神のひそかな啓示の意味で、時代をバビロニアおよびペルシアの時代にとり、義人にして賢者ダニエルへの黙示のなかに、夢の解明というような形で支配者の目を逃れながら、ユダヤ教徒の期待を表現しようとしたものであり、「ダニエル書」に初めて、きたるべき国の王メシアの姿が描かれている。黙示文学的表現は、『旧約聖書』のなかでは、ほかに「ゼカリヤ書」の後半加筆の部分、「ヨエル書」の加筆部分にみられる。旧約以後新約に至るまでの「旧約外典」「偽典」には多くの黙示文学がある。