「日本統治時代の朝鮮」の版間の差分

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{{基礎情報 過去の国
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|略名 = 日本
 
|日本語国名 = 大日本帝国(朝鮮)<!--併合により国にあらず-->
 
|公式国名 = 大日本帝國(朝鮮<ref name="国号">[[s:韓國ノ國號ヲ改メ朝鮮ト稱スルノ件|韓国ノ国号ヲ改メ朝鮮ト称スルノ件]](明治43年勅令第318号)</ref>)<br/>{{lang|ko|대일본제국(조선)}}
 
|建国時期 = 1910年
 
|亡国時期 = 1945年
 
|先代1 = 大韓帝国
 
|先旗1 = Flag of Korea 1882.svg
 
|次代1 = 連合軍軍政期 (朝鮮史)
 
|次旗1 = US flag 48 stars.svg
 
|次代2 = 朝鮮人民共和国
 
|次旗2 = Flag of Korea 1882.svg
 
|国旗画像 =Merchant flag of Japan (1870).svg
 
|国章画像 =Seal_of_the_Government-General_of_Korea.svg
 
|標語 = [[内鮮一体]]、一視同仁
 
|国歌名 = 君が代
 
|位置画像 = Japanese Korea (orthographic projection).svg
 
|公用語 = [[日本語]]、[[朝鮮語]]
 
|首都 = [[京城府]](総督府所在地)
 
|元首等肩書 = 最後の[[天皇|元首]]
 
|元首等年代始1 = 1926年
 
|元首等年代終1 = 1945年
 
|元首等氏名1 = [[昭和天皇]]
 
|首相等肩書 = 最後の[[朝鮮総督府|総督]]
 
|首相等年代始1 = 1944年
 
|首相等年代終1 = 1945年
 
|首相等氏名1 = [[阿部信行]]
 
|面積測定時期1 =
 
|面積値1 =220,788.44
 
|人口測定時期1 = 1920年国勢調査
 
|人口値1 = 17,264,119
 
|人口測定時期2 = 1930年国勢調査
 
|人口値2 = 21,058,305
 
|人口測定時期3 = 1933年推計
 
|人口値3 = 20,160,000
 
|人口測定時期4 = 1940年国勢調査
 
|人口値4 = 24,326,327
 
|人口測定時期5 = 1944年推計
 
|人口値5 = 25,120,000
 
|変遷1 = [[韓国併合ニ関スル条約|日韓併合条約]]が調印
 
|変遷年月日1 = [[1910年]][[8月22日]]
 
|変遷2 = [[韓国併合ニ関スル条約|日韓併合条約]]が発効
 
|変遷年月日2 = [[1910年]][[8月29日]]
 
|変遷3 = 日本が[[ポツダム宣言]]受諾([[玉音放送]])
 
|変遷年月日3 = [[1945年]][[8月15日]]
 
|変遷4 = [[日本の降伏文書|日本が降伏文書調印]]
 
|変遷年月日4 = [[1945年]][[9月2日]]
 
|変遷5 = [[在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁|アメリカ軍政庁]]設置<ref>{{cite news
 
|url=http://japanese.yonhapnews.co.kr/society/2009/08/17/0800000000AJP20090817002500882.HTML
 
| title=今日の歴史(9月7日)
 
| publisher=聯合ニュース
 
| date=2009-09-07
 
| accessdate=2010-04-09
 
}}</ref>
 
|変遷年月日5 = [[1945年]][[9月7日]]
 
|変遷6 = [[朝鮮総督府]]降伏<ref>{{cite news
 
|url=http://japanese.yonhapnews.co.kr/misc/2009/08/17/9000000000AJP20090817002700882.HTML
 
| title=今日の歴史(9月9日)
 
| publisher=聯合ニュース
 
| date=2009-09-09
 
| accessdate=2010-04-09
 
}}</ref>
 
|変遷年月日6 = [[1945年]][[9月9日]]
 
|変遷7 = [[北朝鮮人民委員会|ソビエト民政庁]]設置
 
|変遷年月日7 = [[1945年]][[10月3日]]
 
|通貨 = [[:en:Korean Yen|朝鮮銀行券]]
 
|時間帯 = +9:00
 
|夏時間 =
 
|時間帯追記 = (1910年-1911年はUTC+8:30)
 
|現在 = {{KOR}}<br>{{PRK}}
 
|注記 = <references />
 
}}
 
'''日本統治時代の朝鮮'''(にほんとうちじだいのちょうせん)は、[[1910年]][[8月29日]]の[[大日本帝国]]による[[韓国併合]]から、[[1945年]][[9月9日]]の[[朝鮮総督府]]の降伏まで、35年間続いた。
 
 
 
==呼称==
 
日本ではこの時期を日本統治時代と呼んでいる。一方、現在の[[韓国]]においては、日帝時代、日帝植民統治時代、日本植民地時代、日本統治時代、日政時代など様々な呼称がある。2003年以降から「日帝強占期」で韓国の教科書では統一されているが、北朝鮮が韓国に用いる「米帝強占期」から派生したものと指摘されている。更に韓国の正統性を蔑視する教科書が北朝鮮に不利な事実を除いて北朝鮮の主張を繰り返していることから「親北と反大韓民国性向はコインの裏表のようだ」と警告している<ref>[http://news.chosun.com/site/data/html_dir/2015/10/30/2015103000163.html "2003년부터 쓴 '일제 강점기'란 용어, 北이 '미제 강점기'랑 짝 이뤄 만든 말"]</ref>。
 
 
 
== 概要 ==
 
{{朝鮮の歴史}}
 
[[File:General power of attorney to Lee Wan-Yong signed and sealed by Sunjong.jpg|left|200px|thumb|[[韓国併合ニ関スル条約|日韓併合条約]]調印に際する1910年8月22日付の[[純宗 (朝鮮王)|純宗]]から[[李完用]]への全権委任状]]
 
[[File:Japanese General Government Building.jpg|left|200px|thumb|[[朝鮮総督府]]]]
 
[[1910年]]、[[大日本帝国]]は[[大韓帝国]]との間に結ばれた「[[韓国併合ニ関スル条約]]」(日韓併合条約)の締結によって大韓帝国を併合し([[韓国併合]])[[朝鮮総督府]]の統治下に置いた<ref>韓国併合条約の解釈については、「有効」「合法(不当)」「無効」「不法不当」などさまざまな意見がある。[[海野福寿]] [https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/dspace/bitstream/10291/1537/1/sundaishigaku_112_91.pdf 韓国併合条約等旧条約無効= 日本の 「不法な」植民地支配論をめぐって], [[駿大]]史学, 112号 (2001年3月), 91-108. [[平野健一郎]] [http://www2.jiia.or.jp/shuppan/kokusaimondai/j-kokusaimondai01.html 「韓国併合再検討」国際会議について], 国際問題, 501号 (2001年12月), p.82-93. 海野福寿 [http://opac.ndl.go.jp/articleid/9534522/jpn 「韓国併合条約等旧条約無効説と国際法―条約の形式と締結手続きについて」], [[日本植民地研究]], 第14号 (2002年6月), p. 21. [[木村幹]] [http://www.lib.kobe-u.ac.jp/repository/90000398.pdf 「第3回日韓併合再検討国際会議―「合法・違法」を超えて」], 日本植民地研究, 第14号 (2002年6月), p. 34. [[鄭昌烈]] [http://www.jkcf.or.jp/history/3/01-1k_jcr_j.pdf 乙巳条約・韓国併合条約の有・無効論と歴史認識], [[日韓歴史共同研究]]委員会報告書 (第1期 2002-2005年). [[坂元茂樹]] [http://www.jkcf.or.jp/history/3/01-0j_sakamoto_j.pdf 日韓間の諸条約の問題―国際法学の観点から], [[日韓歴史共同研究]]委員会報告書 (第1期 2002-2005年). [[岡田邦宏]] [http://www.seisaku-center.net/modules/wordpress/index.php?p=43 韓国併合「無効説」の誤謬], [[日本政策研究センター]], 2006年6月14日.</ref>。日本の同盟国の[[イギリス]]や[[アメリカ]]、[[フランス]]や[[ドイツ]]、[[中華民国]]などの世界の主要国はこれを認めた。
 
 
 
日本による統治期間は、1919年の[[三・一独立運動]]までの武断統治期、それ以降[[日中戦争]]に至るまでの文化統治期、および日中戦争、[[太平洋戦争]]から終戦に至るまでの戦時体制期に大きく分けられる<ref>佐野通夫 『日本植民地教育の展開と朝鮮民衆の対応』, 社会評論社、2006年。ISBN 978-4-7845-0288-2</ref>。
 
 
 
併合当初の10年間は所得税の免税措置を行い、さらに日本統治以前は進んでいなかった[[インフラストラクチャー]]の整備や、近代[[教育]]制度(朝鮮語は必須科目)や近代工業の導入など統治下に置いた朝鮮半島の開発に力を入れ、開発工事や運営の主な労働力を朝鮮人に求めることで雇用を創出した。これにより朝鮮人の海外への流失を抑制し日本本土への流入も抑え本土の失業率上昇や治安悪化をも防止しようとした<ref name=M2006090419432107004&>{{cite web
 
| url = http://www.jacar.go.jp/DAS/meta/listPhoto?IS_STYLE=default&ID=M2006090419432107004&
 
| title = 朝鮮人移住対策ノ件
 
| work = 内閣
 
| publisher = [[アジア歴史資料センター]]
 
| date = 1934-10-30
 
| accessdate = 2010-04-02
 
}}</ref><ref name=txt00103>{{cite web
 
| url = http://www.ndl.go.jp/horei_jp/kakugi/txt/txt00103.htm
 
| title = 朝鮮人移住対策ノ件
 
| work = 内閣
 
| publisher = [[国立国会図書館]]
 
| date = 1934-10-30
 
| accessdate = 2010-04-02
 
}}</ref>。
 
 
 
一方で、[[憲兵警察制度 (朝鮮総督府)|憲兵警察制度]](併合年で7,712名。その内、[[朝鮮民族|朝鮮人]]は4,440名<ref>水田直昌監修『統監府時代の財政』122頁</ref>)や、内地と同様の言論・結社の自由の厳しい制限などに代表される武断統治により、朝鮮王朝末期から続いていた抗日運動を抑えようとした。1919年には三・一独立運動が起こったが、日本の憲兵警察により鎮圧された<ref>三・一運動の取締りについては、たとえば「すさまじい弾圧」([[朝鮮史研究会]]編『朝鮮の歴史』三省堂、1974、p215)や「民衆の蜂起と日本の弾圧」(姜徳相『呂運亨評伝1: 朝鮮三・一独立運動』新幹社、2002、165頁)、「激しい弾圧」(吉田光男編著『韓国朝鮮の歴史と社会』放送大学振興会、2004、p140)という表現を用いている。対して「鎮圧」とのみ表記する場合もある(名越二荒之助『日韓2000年の真実』国際企画</ref>。[[1920年]]の[[尼港事件]]では朝鮮人パルチザン400~1,000人程が加わった赤軍は、小規模な日本軍守備隊を襲撃し全滅させている。
 
 
 
三・一独立運動以後、日中戦争に至るまでの期間は三・一運動や[[大正デモクラシー]]の影響などにより朝鮮総督府は従来の統治政策を修正し、内地と同様に言論や結社の自由が与えられたため、比較的自由な雰囲気の中で、朝鮮人による様々な民族運動が繰り広げられた。朝鮮は日本統治以前は厳しい[[身分制度]]に支えられた[[専制政治]]が行われており、李氏朝鮮時代は[[独立協会]]などの団体が[[民主主義]]運動を行っていた<ref>糟谷 『朝鮮の近代』 p62</ref>。1933年に日本政府によって民主的選挙が導入されると、道議会議員の8割以上が朝鮮人となり<ref name=nakayamanariakira20130308>{{cite web
 
| url = http://www.youtube.com/watch?v=Gucs-6lHtkc
 
| title = 2013年3月8日衆議院予算委員会 質疑
 
| work = [[中山成彬]]
 
| publisher = [[中山成彬]]
 
| date = 2013-03-08
 
| accessdate = 2013-03-13
 
}}</ref>、[[忠清南道]]知事は初代以下ほとんどが朝鮮人によって占められており、その他の道知事も同様であった<ref name=nakayamanariakira20130308/>。[[朝鮮文学]]の発展が見られ、大都市を中心に[[大衆文化]]の発展も見られた。[[満州国]]と接する北部国境地帯では、[[共産主義]]国家である[[ソビエト連邦]]の支援を受けた朝鮮独立を掲げる共産ゲリラと朝鮮総督府との散発的な戦闘も発生している。
 
 
 
[[File:Sui-ho Dam under construction.JPG|left|thumb|200px|大型ダムの建設によって電力を供給した([[水豊ダム]])]]
 
[[1929年]]に[[カーネギー財団]]から朝鮮半島に派遣された[[アメリカ]]人記者らは、「日本は併合以来19年間にして、数百年間停頓状態にあった朝鮮と、近代文明国との間に渡り橋を架けてやった。・・・また朝鮮人の苦しみもあるかも知れぬが、日本は莫大な利益をもたらしていることは明らかである」などと<ref>「米国視察団の眼に映ぜる朝鮮」『朝鮮総督府調査資料』</ref>、「[[李氏朝鮮]]時代よりも日本統治によって朝鮮人民は救われている」との評価をしている。
 
 
 
[[1931年]]7月2日に、[[中華民国]][[吉林省]][[長春市]]郊外で、朝鮮移住民と中国農民の衝突事件([[万宝山事件]])が起こり、その報復として、朝鮮人による華僑虐殺事件([[朝鮮排華事件]])が朝鮮および日本本土で起き、日中間の外交問題となった。
 
 
 
1931年9月に、[[満州事変]]が勃発すると、満州に居た多数の朝鮮人小作人は親日へと転化した。朝鮮半島でも「内鮮一体」が主張され、皇民化推進団体が結成された。[[三・一独立運動]]の首謀者の一人である[[崔麟]]も[[太平洋戦争]]開戦のときには親日家となっており、太平洋戦争を「聖戦」と讃え、日本の支援を積極的に行った。また、{{仮リンク|玄永燮|ko|현영섭}}は[[朝鮮語]]を禁じるべきだと主張し、{{仮リンク|李東華|ko|이동화 (1893년)}}は朝鮮人にも日本人と同様に兵役の義務を与えるべきだと主張し、[[朝鮮神宮]]では「国威宣揚武運長久祈願祭」が挙行されるようになった。{{仮リンク|李覚鐘|ko|이각종}}は「私共は大日本帝国の臣民であります」「私共は互いに心を合わせて、天皇陛下に忠誠を尽くします」「私共は忍苦鍛錬して、立派な強い国民となります」と書かれた[[皇国臣民ノ誓詞]]を書いた。
 
 
 
[[1936年]]に朝鮮に行った[[神戸正雄]]は「事変前には日本反抗の気分もあったが、第一に満州事変、次に[[支那事変]]によりて日本と合体することの朝鮮人にとりて有利ということが明らかになって、今では全く日本内地と協調しつつある」と述べている<ref>神戸正雄『人生と経済』</ref>。またこの頃、多くの朝鮮人が自らの意思でより良い職を求め内地へと向かい、その後その多くが「在日韓国・朝鮮人」として日本に定住している。
 
 
 
韓国併合後、朝鮮語は公教育で必須科目として教授されていた。[[第二次世界大戦]]中は、戦時下における国策として皇民化教育や創氏改名などが推進された。戦争激化に伴い物資・情報統制が強まった為、多くの刊行物が廃刊され、1940年には朝鮮語媒体の『[[朝鮮日報]]』『[[東亜日報]]』も廃刊させられたが、『[[毎日新報]]』と官報は存続した。
 
 
 
日本政府は[[李氏朝鮮|李氏朝鮮時代]]から朝鮮人にも日本軍の幹部を養成する[[陸軍幼年学校]]や[[陸軍士官学校]]への入学を許可したので、[[李王垠]]や[[洪思翊]]など日本軍の[[将官]]に栄達した者も多かった。[[1937年]]に日中戦争が勃発すると、朝鮮人から志願兵の申し出が行われるようになり<ref name=asahi370908>大阪朝日新聞・南鮮版 1937年9月8日付{{quotation|『志願兵申出で百五名に達する沸る半島同胞の熱血』<br>暴戻支那を討つべしと朝鮮同胞の義憤の血はいやが上にも沸ぎり、朝鮮憲兵司令部の調査によれば七日現在志願兵を申出たものヽ数は京畿道の二十五名を筆頭に全鮮で百五名に達してゐる}}  </ref>、朝鮮人の[[朴春琴]]衆議院議員から「朝鮮人志願兵制度」の請願が出され、1938年からは朝鮮人にも兵卒の志願を許可する[[朝鮮人日本兵|陸軍特別志願兵令]]が公布され<ref name=ajirekiB20020312847>[[1942年]]に行われた朝鮮出身者に対しての募兵では募集4,077名に対し、25,4173名の朝鮮人志願兵が集まり、倍率は62.4倍に達した(国立公文書館 アジア歴史資料センター 朝鮮及台湾ノ現況(本邦内政関係雑纂/植民地関係)レファレンスコード:B20020312847)</ref>、軍人・軍属として戦地に赴いた者も存在した。当時は陸軍を中心に、日本内地人の徴兵適齢者は枯渇しつつあり、朝鮮人を始めとする外地人も兵力の給源とせざるを得ないとする意見が広まっており、朝鮮における徴兵制をその帰結とする意見もある<ref>[[宮田節子]]「朝鮮民衆と『皇民化』政策」、p102~p103</ref>。しかし朝鮮人に徴兵制が施行されたのは1944年4月から、台湾人に対しても同年9月からであり、他の[[植民地]]保有国と比較して、植民地人の軍事利用には消極的であった<ref>イギリスは第二次世界大戦中に300万人を超えるインド人兵士を動員し、[[イギリス連邦]]の構成国である[[オーストラリア軍]]や[[ニュージーランド軍]]も動員した。またフランスやアメリカも同様に植民地人を動員した</ref>。[[1944年]]9月からは朝鮮人にも徴兵が適用されたが、入営は1945年1月から7月の間に限られた上に、朝鮮半島か日本内地における訓練中に終戦を迎え戦場に派遣されなかった<ref name="mizuma2010-188">水間政憲 『朝日新聞が報道した「日韓併合」の真実 - 韓国が主張する「七奪」は日本の「七恩」だった』 徳間書店、2010年。p188. ISBN 978-4-19-862990-8</ref>。
 
 
 
労働力としての徴用については、適用が控えられていた朝鮮においても[[1944年]]9月から[[1945年]][[8月]]にかけて[[国民徴用令]]が実施された。日本本土への朝鮮人徴用労務者の派遣は1945年3月の下関-釜山間の連絡船の運航が止まるまでの7か月間であった。1959年の外務省の調べによると、戦後日本に残留した在日朝鮮人のうち、徴用で日本に来た者は245人であった。内地(日本)に渡航して来た朝鮮人の大半は、大東亜戦争以前よりより良い職を求めての個別渡航や、工鉱業、土木事業等の募集に応じてきた者であった<ref>『朝日新聞』 1959年7月13日 2面『大半、自由意思で居住 外務省、在日朝鮮人で発表 戦時徴用は245人』</ref>。その一方で、2009年1月30日に[[韓国国務総理室]]の[[日帝強占下強制動員被害真相糾明委員会]]は、「およそ12万人の朝鮮人が徴用された」と発表し、それを「強制動員の被害者」としている<ref>{{cite news
 
| url = http://english.yonhapnews.co.kr/national/2009/01/30/0302000000AEN20090130005100315.HTML
 
| title = Japan forcibly mobilized 120,000 Koreans as laborers: panel
 
| newspaper = [[聯合ニュース]]
 
| date = 2009-01-30
 
| accessdate = 2010-04-03
 
| language = 英語
 
}}</ref><ref>{{cite news
 
| url = http://japanese.yonhapnews.co.kr/headline/2009/01/30/0200000000AJP20090130001300882.HTML
 
| title = 日本による強制動員の被害者、約12万人を確認
 
| newspaper = 聯合ニュース
 
| date = 2009-01-30
 
| accessdate = 2010-04-03
 
}}</ref>。なおこの根拠は示されていない。
 
 
 
日本軍の将兵を相手に[[慰安婦]]として働く朝鮮婦人も存在した。韓国では、慰安婦について政府とマスコミは「日本軍が本人の意思を無視して強制徴用などにより行った人権侵害である」という見解を取り、「従軍慰安婦問題」として日本に補償を求める動きがある
 
<ref name=dailyseop20061206>{{ko icon}}{{cite web
 
|url        = http://www.dailyseop.com/section/article_view.aspx?at_id=52265
 
|title      = 教科書フォーラムの安秉直、「慰安婦は自発的」妄言で波紋
 
|publisher  = デイリー・サプライズ
 
|accessdate  = 2008-12-09
 
|date        = 2006-12-06
 
|archiveurl  = https://web.archive.org/web/20080129121328/http://www.dailyseop.com/section/article_view.aspx?at_id=52265
 
|archivedate = 2008年1月29日
 
}}</ref><ref>ブルース・カミングス『現代朝鮮の歴史 世界のなかの朝鮮』[[横田安司]]・[[小林知子]]訳、明石書店、2003年。</ref>。これに先立ち日本政府が調査を行った結果<ref>[https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2018/02/post-9502.php 「慰安婦問題をこじらせる韓国の二元論/Manichean Worldview in Korea」Newsweek日本版2018年2月8日 18時00分 ジョセフ・イ(漢陽大学准教授)]</ref>、植民地だった韓国や台湾から日本軍が女性を強制連行した証拠は見つからなかった。さらに、韓国の[[世宗大学]]とアメリカの[[サンフランシスコ州立大学]]の教授による共同調査でも、「女性たちが家族を養うためや横暴な親から逃げるため、あるいはブローカーにだまされたためなど、さまざまな理由から慰安所で働いた」としている。また一部の韓国の学識者と日本の右派・保守派は、慰安婦について「自主的に応募してきた売春婦である」という見解をとり、慰安婦を勤労奉仕の[[女子挺身隊]]と混同しているとする見解もある<ref>高橋 (2001) p iii</ref>。
 
 
 
[[File:Japanese flag down US flag up.png|200px|right|thumb|南朝鮮に駐留していた日本軍が降伏し、南朝鮮を占領下においた[[連合国軍]]の1国のアメリカの[[星条旗]]が掲揚される(1945年9月9日・朝鮮総督府)]]
 
[[1945年]][[8月15日]]の連合国軍の勝利と日本軍の降伏により、日本の朝鮮半島統治は終焉を迎えた(8月15日は現在、韓国では「光復節」として祝日となっている)。日本の[[ポツダム宣言]]受諾により、朝鮮半島の統治権は[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]側に移った。1945年[[9月2日]]、アメリカ戦艦[[ミズーリ]]の甲板上で日本政府が公式にイギリスやアメリカ、中華民国やソ連をはじめとする連合国との間で[[降伏文書]]に調印した。1945年[[9月9日]]、降伏文書調印に伴い朝鮮総督府は解体され、京城の朝鮮総督府庁舎には[[日章旗]]に代わり、朝鮮半島の南半分を占領下においたアメリカの[[星条旗]]が掲揚された。まもなく、アメリカ軍は降伏条件には定められていなかったが<ref>{{cite web
 
| author = 田中明彦研究室
 
| authorlink = 田中明彦
 
| url = http://www.ioc.u-tokyo.ac.jp/~worldjpn/documents/texts/docs/19450726.D1J.html
 
| title = ポツダム宣言(米、英、華三国宣言)
 
| publisher = [[東京大学東洋文化研究所]]
 
| accessdate = 2010-04-10
 
}}</ref><ref>{{cite web
 
| author = 田中明彦研究室
 
| authorlink = 田中明彦
 
| url = http://www.ioc.u-tokyo.ac.jp/~worldjpn/documents/texts/docs/19450902.O1J.html
 
| title = 降伏文書
 
| publisher = 東京大学東洋文化研究所
 
| accessdate = 2010-04-10
 
}}</ref>日本政府および日本人の資産を没収した<ref>{{cite news
 
|url=http://japanese.yonhapnews.co.kr/headline/2008/12/06/0200000000AJP20081118003200882.HTML
 
| title = 今日の歴史(12月6日)
 
| newspaper = 聯合ニュース
 
| date = 2008-12-06
 
| accessdate = 2010-04-09
 
}}</ref>。
 
 
 
終戦後、朝鮮半島や日本に在住する朝鮮人は日本人と同じ敗戦国民にもかかわらず「自分達は戦勝国民だ」と主張し、日本人[[引揚者]]たちは検問でソ連兵や朝鮮人への女性や金品の供出を強要され、日本上陸後に15歳以上の女性は[[妊娠]]・[[性病]]検査や堕胎手術を受けた<ref>pp165-167 「わが引揚げ体験と昭和の歌」[[五木寛之]]・[[藤原正彦]] [[文藝春秋]] 2007年5月号</ref>。
 
 
 
終戦直後、[[朝鮮総督府#歴代朝鮮総督|朝鮮総督]][[阿部信行]]と[[朝鮮軍 (日本軍)|朝鮮軍]]司令官[[上月良夫]]により朝鮮へは[[自治権]]が与えられ、朝鮮人によって[[朝鮮人民共和国]]が建国されたが、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]はこれを認めず、進駐の翌日[[9月9日]]に[[占領行政|軍政]]を布告。[[ソビエト連邦|ソ連]]と共に朝鮮半島を[[38度線|北緯38度線]]を境に南をアメリカが、北をソ連が[[占領]](分割占領)した。その後、[[連合軍軍政期 (朝鮮史)|連合軍軍政期]]を経て北緯38度線より南側が[[大韓民国]](韓国)、北側が[[朝鮮民主主義人民共和国]](北朝鮮)としてそれぞれ独立を宣言する。アメリカが韓国を、ソ連が北朝鮮を支援し、[[1950年]]に[[朝鮮戦争]]が勃発した。
 
 
 
韓国政府は、[[1951年]]にアメリカの[[カリフォルニア州]][[サンフランシスコ]]で行われた連合国と[[日本国との平和条約]](サンフランシスコ講和条約)の締結の際に、自国を「第二次世界大戦における戦勝国(=連合国の1国)」として参加させるように求めた。同年にアメリカの[[ジョン・フォスター・ダレス]]国務長官補は、「韓国は日本と交戦状態にあったわけではなく、また[[連合国共同宣言]]に署名しておらず、講和条約の署名国とはなれない」ことを正式に通知し、他の条約締結国もこれに異議を申し立てなかった。
 
 
 
産業資源の多くが北部に集中していたため、北朝鮮は朝鮮戦争からしばらくの期間、工業生産力・軍事力などの点で韓国を圧倒していたが、韓国は「[[漢江の奇跡]]」と呼ばれる経済発展を達成した。その理由として、輸出を重視した工業政策、[[ベトナム戦争]]への派兵にともなう特需、戦後賠償を含むアメリカや日本の経済・技術援助などが挙げられている。
 
 
 
== 李王家 ==
 
[[File:Prince and Princess Euimin.jpg|thumb|200px|[[方子女王]]と[[李王垠]]夫妻]]
 
[[李王家]]は[[王公族]]として日本の[[皇族]]に準じた[[華族]]より上位の身分とされ、[[貴族院 (日本)|貴族院]]に議席を持つとともに帝国陸軍軍人として奉職した。[[李王家]]の[[李王垠]]には[[皇族]][[梨本宮家]]から[[方子女王]]が嫁入りしている。
 
 
 
東京府赤坂には[[グランドプリンスホテル赤坂|李王家の邸宅]]が設けられた。[[李鍝]]は日本陸軍中佐として[[太平洋戦争]]で戦死(軍務中に[[広島市への原子爆弾投下|広島にて被爆]]死)している。
 
 
 
一方、朝鮮人の過激派からは、純宗が李完用へ全権委任状を出すなどした経緯から、「日韓併合」の主犯とも見なされ、暗殺の対象とされた。[[李王世子暗殺未遂事件]]などが起きている。
 
 
 
日本の敗戦後には、日本を占領下においた連合国によって華族が廃止されたために爵位を失った。連合国の承認を得て建国された大韓民国の李承晩大統領は、軍事政権による独裁の障害になることを懸念して長年にわたり李王家の帰還を許さなかったため、李王垠や方子は[[在日朝鮮人]]となり、韓国への帰還を許されたのは晩年のことであった。
 
 
 
== 社会政策 ==
 
[[File:Keijo City Hall.JPG|thumb|200px|主要都市には近代的な府庁舎が建設された(写真は京城府庁舎)]]
 
朝鮮総督府により、これまで存在しなかった[[高等教育]]や[[義務教育]]制度({{仮リンク|日本統治時代の朝鮮の教育|ko|일제 강점기의 교육}})や戸籍制度などの近代的な社会制度の整備がおこなわれた。
 
 
 
[[1937年]]には、李氏朝鮮時代から続く[[白白教]]を[[白白教事件]]で取り締まった。一方で公立学校を中心とした同化政策や、独立運動に対する警戒・取締は植民地化の経緯とあいまって朝鮮民族の日本(本国)への反感を強める人々もいた。なお公立学校では朝鮮語は必須科目であった。また、統治者としての在朝日本人の間では朝鮮人への侮蔑意識が本国の日本人以上に広まったとされ、そのことも反感を招いたともされる。朝鮮総督府側も、朝鮮人に対する侮蔑意識が統治への反感を無意味に掻き立て、円滑な統治を妨害しかねないと懸念を表明することがあった<ref>宮田節子『朝鮮民衆と『皇民化』政策』</ref>。
 
 
 
=== 身分解放 ===
 
[[韓国統監府|統監府]]は[[1909年]]に[[戸籍制度]]を朝鮮に導入し、李氏朝鮮時代を通じて人間とは見なされず、姓を持つことを許されていなかった[[白丁]]などの賤民にも姓を名乗らせて戸籍には身分を記載することなく登録させた<ref name="p95RLeeYoungHoon">p95 大韓民国の物語 [[李榮薫]]著 永島広紀訳 文藝春秋 2009/02 ISBN 4163703101</ref>。これにより、身分開放された白丁の子弟も学校に通えるようになった<ref name="p95RLeeYoungHoon"/>。身分解放に反発する[[両班]]は激しい抗議デモを繰り広げたが、身分にかかわらず教育機会を与えるべきと考える日本政府によって即座に鎮圧された<ref name="p95,96RLeeYoungHoon">p95,96 [[李榮薫]]『大韓民国の物語  永島広紀訳 文藝春秋 2009/02 ISBN 4163703101</ref>。
 
 
 
=== 教育制度 ===
 
[[File:Keijo Imperial University.JPG|thumb|200px|朝鮮に設立された[[京城帝国大学]]]]
 
[[File:Keijo girls Normal School.JPG|thumb|200px|[[京城女子師範学校]]。女性教師の育成が行われた。京城師範学校では男性教師が育成された]]
 
[[File:Keijo Dental Professional School.JPG|thumb|200px|[[京城歯科医学専門学校]]。[[歯科医]]の育成が行われた。[[京城帝国大学]]や[[京城医学専門学校]]では医師の育成も行われた]]
 
 
 
==== 教育制度の整備と識字率向上 ====
 
朝鮮では[[1895年]]の[[甲午改革]]により近代教育制度が始まったが、[[1906年]]の時点でも小学校が全国で40校未満<ref name="kimwansop">{{Cite book|和書|author=キム・ワンソプ|authorlink=金完燮|others=荒木和博・荒木信子|year=2002|title=親日派のための弁明|publisher=草思社|isbn=4-7942-1152-X}} p104</ref>であり、両班の子弟は[[書堂]]と呼ばれる私塾で[[漢籍]]の教育を受けていた。
 
 
 
初代統監に就任した[[伊藤博文]]はこの状況について、大韓帝国の官僚に対し「あなた方は一体何をしてきたのか」と叱責し、学校建設を改革の最優先事項とした<ref name="kimwansop"/>。伊藤が推進した学校建設事業は併合後も朝鮮総督府によって継続され、朝鮮における各種学校は[[1940年代]]には1000校を超えていた<ref name="kimwansop"/>。
 
 
 
朝鮮総督府は朝鮮人による自主的な教育については警戒、統制を行いつつ<ref>私立学校は1910年の2225校から1918年に775校に減少した。また書堂(朝鮮の[[儒教]]的私塾)に関しては1918年に書堂規則を公布して、書堂開設には道長官の許可が必要なこと、朝鮮語など[[漢文]]以外の科目に総督府編纂教科書を使用しなければならないことを規定した(糟谷憲一『朝鮮史』p.281)。</ref>、教育内容の整備を進め、[[日本語]]、[[朝鮮語]]をはじめ[[算数]]、日本史、朝鮮史(朝鮮史は「[[朝鮮事歴]]」という名前で教育されていた<ref>國分麻里 『植民地期朝鮮の歴史教育―「朝鮮事歴」の教授をめぐって』新幹社、2011年。ISBN 978-4884000936</ref>)、修身などの教育を公立学校を中心に展開した。
 
 
 
==== 初等中等教育 ====
 
併合当初、朝鮮における初等中等教育制度は日本内地人に対する学校と朝鮮人に対する学校が別個に存在していた。基本的に内地人対象の[[尋常小学校|小学校]]、[[旧制中学校|中学校]]と、朝鮮人対象の[[普通学校]]、[[普通学校#高等普通学校|高等普通学校]]であった。しかし例外もあった。[[1938年]]の[[朝鮮教育令]]改正により普通学校、高等普通学校は廃止され {{要出典|date=2015年9月}}、共学制が採用された。{{main|旧制中等教育学校の一覧 (日本統治時代の朝鮮)}}
 
 
 
日本統治下で初等教育が順次拡充され、初等教育への就学率は日本統治時代の最末期で男子が6割、女子が4割程度であった。初等学校(普通学校・小学校・[[国民学校]])の教員は、朝鮮の[[師範学校]]で養成される教員と日本内地から派遣される教員が混在していた<ref>山下達也「植民地朝鮮における「内地人」教員の多様性―招聘教員と朝鮮で養成された教員の特徴とその関係―」、『日本の教育史学』50、p97-109</ref>。
 
 
 
{{要出典範囲|date=2016年10月15日 (土) 13:28 (UTC)|[[1946年]]度からは日本内地と同様の八年制[[義務教育]]制度(国民学校初等科及び高等科)を導入することが予定されていた}}。
 
 
 
==== 高等教育 ====
 
高等教育については、官公私立の[[旧制専門学校]]が多数設立されたほか、[[1924年]]に[[京城帝国大学]]が、朝鮮唯一の[[旧制大学]]として、また日本で6番目の[[帝国大学]]として日本内地の[[大阪帝国大学]]や[[名古屋帝国大学]]よりも早く設立された。朝鮮人による民立大学設立運動については、民族精神の再生産を行い、植民地統治への妨害になりかねないとして抑圧する姿勢を採ったため、京城帝国大学は日本統治下の朝鮮で唯一の旧制大学となった<ref>[[阿部洋]]「日本統治下朝鮮の高等教育-京城帝国大学と民立大学設立運動を巡って」 『思想』 565号、1971年。p.77</ref>。日本統治時代後期において、京城帝国大学における内地人学生の比率は6割程度、朝鮮人学生の比率は4割程度であった。
 
 
 
==== 朝鮮語 ====
 
李氏朝鮮は清国の従属下にあり[[漢字]]が重視される一方、[[ハングル]]は軽視され、公文書でも採用されることもなかったが、李朝末期(1886年)になって[[開化派]]と朝鮮国の日本人顧問である[[井上角五郎]]の協力により、朝鮮で初のハングル使用の新聞・公文書(官報)である『[[漢城周報]]』(1886年創刊)が発行された<ref>[http://hdl.handle.net/2241/13533 井上角五朗と『漢城旬報』『漢城周報』 : ハングル採用問題を中心に]筑波大学 稲葉継雄</ref>。
 
 
 
また、李氏朝鮮では一般人(特に女子)のための教育機関は皆無で、当然義務教育制度もなく大多数の朝鮮人は読み書きができない状況だった<ref>姜在彦『日本による朝鮮支配の40年』朝日文庫</ref><ref>姜在彦『朝鮮の歴史と文化』明石書店</ref>。しかし日本統治下になると、朝鮮総督府により学校教育における科目の一つとしてハングルと漢字の混用による朝鮮語が導入されたため、朝鮮語の識字率は一定の上昇をみた<ref>崔基鎬『韓国 堕落の2000年史』祥伝社</ref>。
 
 
 
[[1911年]]に朝鮮総督府は、第一次教育令を公布し、朝鮮語は必修科目としてハングルが教えられることとなった<ref>水間政憲『朝日新聞が報道した「日韓併合」の真実』徳間書店 2010年。p150、ISBN 978-4-19-862990-8</ref>。朝鮮語の時間以外の[[教授言語]]としては日本語が使用された。総督府は1912年に、近代において初めて作成された[[朝鮮語の正書法]]である[[普通学校用諺文綴字法]]を作成し、1930年には児童の学習能率の向上、朝鮮語の綴字法の整理・統一のための新正書法である[[諺文綴字法]]を作成し、それを用いた。識字率の上昇によってハングルで書かれた[[タクチ本]]が[[1920年代]]から[[1930年代]]にかけて流行した<ref name="chosun_100718-a">{{cite news|url=http://news.chosun.com/site/data/html_dir/2010/07/13/2010071302149.html|title=일제시대 휩쓴 베스트셀러 '딱지본'을 아십니까|language=韓国語|author=김기철|newspaper=[[朝鮮日報]]|date=2010-07-14|accessdate=2016-10-20}}同記事日本語訳の前半:{{cite news|url=http://www.chosunonline.com/news/20100718000004|title=日本統治時代のベストセラー「タクチ本」(上)|language=日本語|author=金基哲|newspaper=[[朝鮮日報]]日本語版|date=2010-07-18|accessdate=2016-10-20|archiveurl=https://web.archive.org/web/20100720045043/http://www.chosunonline.com/news/20100718000004|archivedate=2010年7月20日}}</ref>。
 
 
 
[[File:MaeilShimpo (August14-1945).jpg|thumb|200px|ハングル表記の『[[毎日新報]]』(1945年8月14日)]]
 
[[日中戦争]]以降、総督府は日本軍の兵士として朝鮮人を動員することなども視野に入れ、朝鮮人の"[[皇民化教育|皇民化]]"を進めた<ref>井上薫「日本統治下末期の朝鮮における日本語普及・強制政策」(北海道大学教育学部紀要1997.6)[http://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/bitstream/2115/29532/1/73_P105-153.pdf]PDF-PP.14-15。</ref>。しかし、1938年の第三次教育令でも朝鮮語教育は廃止されていない。「第八十六回帝国議会説明資料」(1944年12月、朝鮮総督府)によれば、1938年には「国語を解する朝鮮人」の割合が前年度の8%弱から13%強にまで伸びて(1943年末で22%)いる。1945年8月以降のアメリカ軍による占領が始まった当時、「南朝鮮の12歳以上の総人口の78%はハングル文盲とのであった」とのアメリカ軍の簡易調査もある<ref>井上薫1997.06、PDF-P.2。なおこのデータはG.H.Q. U・S Army Forces, Summation of U・S Army Military Government Activities in Korea Vol.2. No.5-16, 1946, p.32による。</ref><ref>戦後米軍政府により行われた統計(推計?)ではソウル市では68%が、南朝鮮全体で77%が仮名やハングルなどを含めた文盲であったとされる。尹敬勲「米韓関係における政治教育とソフトパワー」埼玉学園大学紀要、2009.12 [http://www.media.saigaku.ac.jp/bulletin/pdf/vol9/human/20_yoon.pdf](P.237)。なお日本側の調査では1934年10月調査で朝鮮全土で『仮名とハングルともに』読み且つ書ける者は朝鮮人で6.79%、日本人で6.21%であった。井上薫1997.06、PDF-P.12。</ref>。普通初等学校への就学率は1910年で1.0%、1923年で2ケタ台にのり11.2%、1935年で21.7%、1943年で49.0%であった<ref>井上薫1997.06、PDF-P.8</ref>。
 
 
 
大東亜戦争下の1942年10月には、朝鮮語学会の主要メンバーが[[治安維持法]]違反で逮捕されるという事件が起こった(朝鮮語学会事件)、これは上海の[[大韓民国臨時政府]]と連絡をとりあっていたメンバーが朝鮮語学会を仮装組織としていた事で逮捕されたものであり(16名に対して予審を申請(予審申請のうち2名は死亡)、14名を起訴猶予、3名を不起訴)、朝鮮語の研究や普及の活動について検挙されたものではない<ref>「日韓新たな始まりのための20章」p47〜49、三ツ井祟執筆。朝鮮語学会事件は学術団体を仮装した独立運動団体であるとみなされ治安維持法1条違反適用で33名を検挙、うち16名が起訴された事件。判決は「民族運動ノ一形態トシテノ所謂語文運動ハ民族固有ノ語ヲ含ム民族独立運動ノ漸進形態」[http://www.tulips.tsukuba.ac.jp/limedio/dlam/M41/M415222/4.pdf]として5名が62年から6年の実刑判決[http://www.t-komazawa.ac.jp/university/bulletin/pdf/kiyou07.pdf]。咸興(ハムフン)刑務所に収監、崔鉉培、李熙昇、李克魯、鄭寅承らは1945年の解放まで3年の獄中生活を送り、李允宰、韓澄は獄死」[http://www.tufs.ac.jp/ts/personal/nomahideki/edu_01_01_noma_sel.pdf]。もっともこの時期の朝鮮における治安維持法適用は神社参拝の強要に抗議した基督教徒に対して不敬罪、保安法、治安維持法を適用し、少人数で構成された読書会や研究会の活動も重刑の対象となっていた[http://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/bitstream/2115/15738/1/48(4)_p206-227.pdf]。白楽濬は民族学会や震檀学会を設立した発起人でもあり[http://rose.lib.hosei.ac.jp/dspace/bitstream/10114/147/1/hogs_104(1)_che.pdf]、とりわけ朝鮮古代史や震檀教団とのつながりが独立派(国権回復運動)とみなされる要因となったとの研究もある。なおアジア歴史資料センターに「第84回帝国議会説明資料朝鮮総督府法務局所管1帝国議会関係雑件」資料あり(レファレンスコード B02031404800)。ここでは上海の大韓民国臨時政府と連絡をとりあっていた義本克魯(李克魯)、月城鉉培(崔鉉培)らが参与する独立運動の仮装組織として検挙、16名に対して予審を申請(予審申請のうち2名は死亡)、14名を起訴猶予、3名を不起訴したとの報告がある。</ref>。
 
 
 
日本による統治の末期には、「学校の会話で朝鮮語の使用が罰せられた」との証言もある<ref>『学校で朝鮮語を使うと「週番」という腕章を着けた上級生が手帳に名前を書いて先生に知らせ、立たされたり掃除をさせるなどの罰を受けた。』[http://qnet.nishinippon.co.jp/travel/busan/news/20090807/20090807_0002.shtml]西日本新聞</ref>が、これは朝鮮総督府の指導、指示によるものではなく、朝鮮語が日常会話や新聞などから完全に排除されたわけではない。実際に朝鮮総督府においても、1921年から1945年の日本統治終了に至るまで、朝鮮語能力検定に合格した職員を昇進・給与において有利に処遇していた<ref>水間政憲『朝日新聞が報道した「日韓併合」の真実』徳間書店 2010年。p152、ISBN 978-4-19-862990-8</ref>。
 
 
 
なお、1943年時点で、日本語を解する朝鮮人は1,000人当たり221.5人(「朝鮮事情」1940-1944年版)で、8割の朝鮮人は日本語を話すことが出来なかった<ref>水間政憲『朝日新聞が報道した「日韓併合」の真実』徳間書店 2010年。p154、ISBN 978-4-19-862990-8</ref>。
 
 
 
=== 文化保護 ===
 
[[1934年]]に朝鮮総督府は李氏朝鮮の主な文化財の保護のための総督府令を出している<ref name="JoongAng Ilbo October 20, 2004">[http://joongangdaily.joins.com/article/view.asp?aid=2482710 "FOUNTAIN" Our language could be our top treasure] JoongAng Ilbo([[中央日報]]) October 20, 2004</ref>。国宝に指定されたものには[[崇礼門|南大門]]などが含まれていた<ref name="JoongAng Ilbo October 20, 2004"/>。
 
日本人学者とその朝鮮人の弟子達によって歴史・語学・文学などの[[韓国学]]研究の基礎が作られた<ref name="朝鮮日報 2005/03/04">[http://s03.megalodon.jp/2008-0227-1552-42/www.chosunonline.com/article/20050304000069 「日本の植民支配は不幸中の幸い」 韓国教授の論文が論議に] 朝鮮日報 2005/03/04</ref>。
 
 
 
日中戦争の長期化による物資欠乏への対策や情報統制の必要から日本内地では1938年4月に[[国家総動員法]]が制定され、8月からの[[新聞用紙制限令]]による用紙制限や新聞の整理統合を通じ、739紙あった新聞を最終的に54紙にまで削減するなど、[[新聞紙法]]や[[出版法]]を厳しく適用しながら[[新聞統制|新聞・出版・言論統制]]を強めた。朝鮮においても、1940年には「朝鮮日報」「東亜日報」が総督府命令により廃刊となり、朝鮮語新聞は総督府が発行する[[毎日新報]]と官報だけとなったが、[[硫黄島の戦い]]における日本軍の[[玉砕]]は朝鮮語でも報じられた。
 
 
 
=== 創氏 ===
 
[[File:Japanese_Name_Change_Bulletin_of_Taikyu_Court.jpg|thumb|200px|創氏の法院公告「氏を設定すると従来の姓が無くなると云う誤解があるようですが氏設定後に於ても姓及び本貫は其儘戸籍に存置されますから心配ありません」]]
 
{{see also|創氏改名|夫婦別姓#各国の氏名制度}}
 
創氏は、朝鮮の[[宗族]]による管理システム([[本貫]]と[[姓]])に新たに[[家族]]名である「氏」を加え、日本及び欧米で一般的な家族単位の管理システム下に組み入れるものである。この過程で中国式の[[夫婦別姓]]を名乗っていた妻も夫と同じ一つの家族名の下で管理されることになった。改名とは姓名を届け出する際に名を日本風に変更することを可能にする制度である。それまでは日本内地に見られる姓名は許可しないこととして厳しく制限されていた。1940年に取られたこれらの措置を[[創氏改名]]と呼ぶ。
 
 
 
前者は制度上必須であり、全ての朝鮮人に適用された。後者は任意であり、当初[[南次郎]]総督自身もそのように言明していた。[[水野直樹]]によれば、1940年2月11日の届出開始以降全戸数の中で姓名を届け出た人々の割合が4%程度と著しく低かったことから、朝鮮総督府は方針を転換し、下部機関を中心に朝鮮人に日本的な名字を名乗るよう推奨するキャンペーンを開始し、結果として80%以上の朝鮮人は日本的な氏の届出をしたとしている<ref>水野直樹『日韓新たな始まりのための20章』p50〜54</ref>。一方、残りの2割(日本内地では約85%)は法定創氏により朝鮮式姓がそのまま氏として設定された。[[朴春琴]]や[[洪思翊]]など、朝鮮式の氏を設定創氏して使い続けた事例もあった。また、朝鮮に居住している朝鮮人では改名者の割合は9.6%だった。
 
 
 
創氏改名の第一目標であった朝鮮人の名字を日本式に改めることに関しては、朝鮮に日本風の家制度を導入することが主眼とされていた<ref>当時の創氏改名のイデオローグ団体のひとつであった「緑旗日本文化研究所」は、創氏改名の意義について「従来は一身が宗族(朝鮮社会で男系先祖を共有するという意識によって支えられた集団)に結びつけられたが、今後は『各家庭が直接、天皇に結びつけられて居る』この理念が第一義となるのである」と力説している(「氏創設の新精神とその手続」p18、緑旗日本文化研究所編、1940年)。</ref>。
 
 
 
==== 創地改名 ====
 
[[File:Fusan-Matsushima Beach circa 1930.JPG|thumb|200px|市民でごった返す釜山松島海水浴場]]
 
植民地支配時、朝鮮固有の地名を日本式に強制的に変更したとして中央日報が2009年10月の記事で指摘した事例<ref>[http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=121409&servcode=400&sectcode=40 日本の“創地改名”の事例 2009.10.09  中央日報]</ref>。例として[[慶尚北道|慶北]][[青松郡]][[盈徳郡]](キョンブク・チョンソングン・ヨンドククン)の周王山(チュワンサン)の竜湫(ヨンチュ)滝、中竜湫、竜淵(ヨンヨン)滝(あるいは上竜湫)を3つの滝について、第一の滝を仙女湯に変更した。これは名前に竜が入っており、植民地民の気が強くなる懸念が高いという口実で改名した<ref>[http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=121409&servcode=400&sectcode=40 日本の“創地改名”の事例 2009.10.09  中央日報]</ref>とする。慶尚北道慶山郡竜城面(キョンサンプクト・キョンサングン・ヨンソンミョン:現在の[[慶尚北道]][[慶山市]])にある争光里(ジェングァンリ)を「日光里」(イルグァンリ)に変更したが、「景色が良くて美しい日本の“日光”とまったく同じだ」として名前を変更<ref>[http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=121409&servcode=400&sectcode=40 日本の“創地改名”の事例 2009.10.09  中央日報]</ref>したとする。大田(テジョン)の鶏足山(ケジョクサン)の地名はもと鳳凰山(ポンファンサン)だったが、鳳凰を鶏(ニワトリ)に「格下げ」し鶏足山にしたとする(上記中央日報報道では、[[北漢山]]ももともと「三角山」という名前で、日本統治期に改名されたと主張しているが、「北漢山」の名前自体は[[李氏朝鮮]]時代からあり、[[粛宗 (朝鮮王)|粛宗]]が[[1711年]]に{{仮リンク|北漢山城|ko|북한산성}}を築城している。それと、上記{{仮リンク|周王山|ko|주왕산}}の「仙女湯」は第二の「臼滝(절구폭포)」の下の[[甌穴]]の名称であり、滝の名前を変えた結果ではない[http://100mountain.tistory.com/310]。)。
 
 
 
=== 宗教政策 ===
 
{{See also|韓国のキリスト教|朝鮮神宮}}
 
[[李氏朝鮮|李朝]]では[[崇儒抑仏]]政策により仏教が抑圧され、民衆は風水、巫覡、祭祀などの民間宗教や、儒教・仏教・道教の流れを汲む新興宗教に傾斜していた<ref>徐鍾珍「植民地朝鮮における総督府の宗教政策 : 抑圧と懐柔による統治[http://dspace.wul.waseda.ac.jp/dspace/bitstream/2065/28511/3/Honbun-4316.pdf][http://dspace.wul.waseda.ac.jp/dspace/handle/2065/28511]2006 P.21</ref>。その代表的な教義に「後天開闢」があり、天が直接光臨する時代が到来し、理想郷の地上天国が実現されるとする思想である。[[東学]]は後天思想に基づく新しい宗教の代表格であった<ref>徐鍾珍2006 P.21</ref>。[[江華島事件]]から19世紀末頃の情勢はこのようなものであり、キリスト教はすでに朝鮮半島に渡来していたが[[李氏朝鮮|李朝]]は[[アヘン|あへん]]と同じようなもの<ref>徐鍾珍2006 P.34</ref>と警戒しており<ref>1866年には[[大院君]]によるキリスト教禁止令([[丙寅教獄]]・丙寅迫害・丙寅邪獄)が起き、フランスによる軍事介入([[丙寅洋擾]])が発生している。</ref>本格的な宣教が始まるのは1884年に長老派の医師Allenの朝鮮入国以降とされる<ref>徐鍾珍2006 P.35</ref>。朝鮮におけるキリスト信者の成長率は世界のキリスト教宣教史上類まれなものであり、1895年に公称1590人の信徒が1910年には22万6791名に達した<ref>徐鍾珍2006 P.35</ref>。神道は日本人居留民によりわずかに保持されているのみであり、明治初期に朝鮮宣教に乗り出したのは真宗大谷派などの仏教会である<ref>徐鍾珍2006 P.13</ref><ref>「海外布教において積極的な活動を展開した宗教は神道ではなかった。明治初期には全国約19万の神社を基礎とした神道界は民衆生活に根をおろすには教義の整理が必要であり、教化運動においての組織力は仏教に及ばない状況であった。明治維新後勢力を伸ばした神道界は(明治初期の)宗教政策が変化する過程で内部対立が露呈していた」徐鍾珍2006 P.17</ref>。朝鮮神社が設置されたのは併合から遅れること15年後の1925年であり、それ以前には朝鮮半島に社格をもつ神社はなかった。朝鮮総督府が神社・神祠制度を確立するために法令を整備したのは1938年8月であり、神社参拝を公然と求めはじめたのは1937年以降である。総督府による「宗教への介入」は直接的には合理的な利害を目的とした、朝鮮統治の[[警察国家|警察権]]にもとづいた介入と懐柔融和策であった。
 
 
 
宗教団体は抗日活動における特異な位置を占めた。キリスト教や仏教は[[朝鮮軍 (日本軍)|朝鮮軍]]内の同調者により保護され、しばしば治外法権的地位を占め抗日活動家を保護した。キリスト教教会はアメリカなど海外の所有施設であるとみなされ東学党の乱や日清戦争のさいに民衆の保護所となった。日本軍の中にも篤実なキリスト教信者がおり教会員や財産の保護を約束した<ref>「初期韓国教会の民族教会的性格1/3」李徳周(翻訳常石希望)(愛知大学言語と文化No.16 2007年)[http://leo.aichi-u.ac.jp/~goken/bulletin/pdfs/No16/09TsuneishiN.pdf]P.154</ref>。仏教寺院は李朝の政策により抑圧されていた影響から人里離れた山奥に点在していたが、真宗大谷派など布教の成果もあって朝鮮の仏教寺院の多くは日本の仏教教団の末寺となっており保護を受けていた。これらの末寺は1907年の大韓帝国国軍の解体以降の義兵運動の根拠地として格好の隠れ家となった<ref>徐鍾珍2006 P.28</ref>。朝鮮総督府は抗日活動を取り締まるためキリスト教や仏教などを統制する必要があり、一方で[[大日本帝国憲法|帝国憲法]]に規定された[[大日本帝国憲法第28条|信教の自由]]の制約から介入と懐柔を繰り返さざるを得ない状況にあった。
 
 
 
1911年に起きた[[105人事件]]を口実とした宗教弾圧においてはアメリカ人宣教師により世界に報道され国際世論が日本の司法制度を厳しく批判した<ref>徐鍾珍2006 P.55</ref>。キリスト教教会は朝鮮人知識層を大量に受け入れ、民衆を動員した[[三・一独立運動]]のような大規模な抗日・独立運動を展開した。当時の朝鮮総督[[斎藤実]]は、当初は[[三・一独立運動]]を鎮めるべく騒擾中に宣教師たちと会合を持ち、彼らを懐柔しようとしていた<ref>(『朝鮮の統治と基督教』青柳綱太郎・朝鮮総督府[一九二一]、P.39-40)</ref>が、1920年に入って方針を転換し<ref>この運動が宣教師によって扇動されたものであったとの認識を1920年に示した。姜徳相[一九六七]『現代史資料二六・朝鮮二』みすず書房 P.647</ref>、キリスト教会が[[三・一独立運動]]の主要な組織者であったとして、キリスト教会への苛烈な弾圧を加えるようになった。この弾圧によって、47の教会が破壊された。朝鮮京畿道水原(Keiki-do Suigen)の提岩里(Teiganri)教会では、閉じ込められた村人が教会ごと焼き殺された([[提岩里教会事件]])。当時、朝鮮のキリスト教従は人口比で1.3%であったが、[[三・一独立運動]]で検挙された者のうちキリスト教従は17.3%であった<ref>『韓国キリスト教の受難と抵抗─韓国キリスト教史一九一九─四五』新教出版社、1995年。p41</ref>。総督府による苛烈な弾圧の模様は、中国に逃れた宣教師たちによって世界に報じられた。
 
 
 
[[File:Makoto Saito 2.jpg|thumb|200px|朝鮮総督の斉藤実]]
 
[[神道]]の朝鮮半島への普及は進まず、1925年にようやく[[朝鮮神宮]]が設置された。この時、朝鮮神宮にいかなる祭神を祭るかで論争(朝鮮神宮御祭神論争)が発生し、小笠原省三は「朝鮮神宮と内鮮融和」を取り上げて檀君の合祀を主唱した。しかし総督府としては非公認宗教団体の中には檀君信仰をもつ教団もあり、民族運動勢力と結び付いたものと理解していた檀君信仰を認めることは不可能であり、鎮座祭直前の9月28日に京城本町警察署長から「一部学生」が「不逞計画」を立てているとの風説ありとの報告を上げ、総督府は神社界の主張を抑えて祭神論争に終止符を打った<ref>徐鍾珍2006 P.110-111</ref>。1937年[[盧溝橋事件]]を期に[[日中戦争]]は全面化し、朝鮮における[[皇民化教育]]の一環として[[皇国臣民ノ誓詞]]が発布され、日韓合邦の実を挙げ帝国臣民化を図る目的として国家神道が利用され、[[国家神道#非宗教説・宗教説と教義|神道非宗教説]]をもとにキリスト教会や仏教会は神社参拝が強要された<ref>神社参拝とキリスト教会や仏教会との関係は日本内地においても同様の問題を抱えており、教皇庁布教聖省から「[[祖国に対する信者のつとめ]]」が出されたものの信仰を守り弾圧、投獄されるものが出た(→[[美濃ミッション]]、[[ホーリネス弾圧事件]])(→[[日本のキリスト教史#大正から昭和時代]])</ref><ref>朝鮮の教会は約70名の牧師が投獄、拷問にあい50名が殉教し、2千名の信徒が投獄され、約200の教会が閉鎖された。『教会の戦争責任・戦後責任』いのちのことば社</ref>。1938年前後から朝鮮各地に官幣神社が増設されてゆき「皇国臣民化」「内鮮一体」の重要な役割を担うようになる<ref>徐鍾珍2006 P.125</ref>。キリスト教は一神教であり、キリスト教従にとっては他の神のために祈ることは、今まで築いた神との信頼関係を失うことであり受け入れがたいことであった<ref>なお、現代の韓国は反日、台湾は親日とよく言われるが、違いが目立つのはキリスト教信者の比率である。現代の韓国ではキリスト教信者が約30%を占め宗教的には最大勢力である。その内[[プロテスタント]]が約18%、[[カトリック教会|カトリック]]が11%である。カトリックはフランス系、プロテスタントはアメリカ系が多い。約20%は仏教徒である。古来中国の影響から仏教が重要な宗教であり、日本同様伝統信仰と仏教の融合もなされている。韓国のキリスト信者の比率は絶対信者数、人口に占める割合ともに、東ティモール地域を除けばフィリピンに続きアジアでは第2のキリスト教国家である。韓国の宗教人口はほぼ半数で、残りのほぼ半数は無宗教者である。ただし彼らも祖先崇拝や法事は熱心に行う。台湾はプロテスタントは3%以下であり、韓国のプロテスタントが終始反日であったことを考えれば台湾に反日が少ない理由の1つのように思われる。(自由主義史観研究会理事 杉本幹夫「日韓関係の近現代史」[http://www5b.biglobe.ne.jp/~korea-su/korea-su/jkorea/nikkan/crist.html])。</ref>。
 
 
 
=== 造林事業 ===
 
[[File:Forests and fields distribution map in The Korean Peninsura.jpg|thumb|200px|right|1910年頃の朝鮮半島の林野分布図(朝鮮総督府農商工部作成)。緑色:成林地、立木の密度完全なる物を1としその0.1以上を有するもの。桃色:稚樹発生地、鎌にて刈りうる程度の稚樹発生地にして密度0.1以上のもの。黄色:無立木地、密度0.1未満の疎林地及稚樹疎生地又は草生地岩石地等。]]
 
1910年当時の朝鮮全体の山林面積は1585万[[ヘクタール]]で、全面積の71%に達していたが、木材資源を示す林木蓄積量は1ヘクタールあたり17立方メートルであり、2009年の韓国の16.5%水準に過ぎず、特に南部の海抜の低い低地帯では若い木と禿げ山が大部だった<ref>{{ko icon}} [http://www.yonhapnews.co.kr/culture/2009/09/08/0906000000AKR20090908123300063.HTML 100{{lang|ko|년전 우리 산림..민둥산에 어린소나무만}}], [[連合ニュース]], 2009/09/08. 参考日本語訳:[http://yutori7.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1252538836/l50 100年前の我が国の山林、「禿げ山と若い松だけ」]</ref><ref>山林の荒廃は明治前期の日本でも同様の問題を抱えており、記紀時代からの森林保全や江戸時代の御用林、あるいは各藩における造林事業は明治期に一旦途絶し、各地で里山の乱伐がおこなわれ荒廃が進んだ。こういった背景から山林の権利関係や造林事業の法整備がおもにフランス・ドイツ法をもとに導入され1897年の森林法(日本)となった。「森林管理の歴史と法」北杜市産業観光部林政課(h20.3.28)[http://www.city.hokuto.yamanashi.jp/hokuto_wdm/html/forest-sec/images/77495165114.pdf]</ref>。
 
<!--植林事業とは、初代朝鮮総督府総督・[[寺内正毅]]の方針で、当時荒廃していた朝鮮半島の森林地帯を改善する目的で発令された「山林令」である。--><!--裏づけとれませんので一旦コメントアウト。1908年の「森林法」(朝鮮)の間違いではないのか?-->
 
 
 
朝鮮半島の造林事業は当初は河川保持などの砂防目的が主眼であり、地形調査の結果、朝鮮半島は[[花崗岩]]台地の山岳地帯で、緑が育ちにくいことが判明したことが始まりとされている。
 
 
 
森林が無ければ、降雨で土砂が流れ込み、農林業に影響を及ぼす。<!--朝鮮総督府は「山林令」により、1911年から30年間で朝鮮半島全人口の一人当たり最低25本という植林事業を行い、換算すれば5億9千万本という植林を行ったとされている{{要出典}}。-->1924年の[[京城日報]]によれば、造林事業は1911年には約4千町、1152万本だったが1922年までの累計は個人の造林事業などを含めると約36万町、10億本に至ったと報告されている<ref>[http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=00473938&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1 造林成績逐年良好に向う], 京城日報 1924.5.15(大正13)</ref>。造林方法は植林・接木や普通播種などもおこなわれたが、国有林制の導入などによる自然復元によるところが多い。朝鮮半島北部では軍部が木材伐採事業を直接経営しており、ここでは当時の山林経営の常識として自然収奪(伐出)的側面のつよいものであった。一方で保安林の確保や林道整備など評価される点も多いが戦争末期には朝鮮半島の造林事業は放置される傾向が強くなった。
 
 
 
{| class="wikitable" style="font-size:95%; line-height:1.4em; margin-left:1.5em; text-align:right"
 
|+ 大正13年(1924年)時点での朝鮮半島造林事業統計<br />(単位:面積は[[町 (単位)|町]]=9917平方メートル、本数は千本)
 
|-style="line-height:1.25em; white-space:nowrap;"
 
! colspan="2" | !! 大正8年<br />(1919年) !! 大正9年<br />(1920年) !! 大正10年<br />(1921年) !! 大正11年<br />(1922年) !! 明治44年以降累計<br />(1911年〜)
 
|-
 
! rowspan="2" | 国費
 
| 面積 || 684 || 414 || 1046 || 655 || 5,012
 
|-style="background-color:#efefef;"
 
| 本数 || 346 || 504 || 1,680 || 1,694 || 14,815
 
|-
 
! rowspan="2" style="white-space:nowrap;" | 地方費
 
| style="white-space:nowrap;" | 面積 || 223 || 203 || 300 || 520 || 3,155
 
|-style="background-color:#efefef;"
 
| 本数 || 1,051 || 729 || 1,612 || 2,940 || 14,267
 
|-
 
! rowspan="2" | 民営
 
| 面積 || 41,560 || 58,386 || 52,221 || 50,176 || 356,676
 
|-style="background-color:#efefef;"
 
| 本数 || 117,807 || 156,720 || 143,949 || 145,564 || 1,029,622
 
|-
 
! rowspan="2" | 計
 
| 面積 || 42,467 || 59,003 || 53,567 || 51,351 || 364,843
 
|-style="background-color:#efefef;"
 
| 本数 || 119,200 || 157,953 || 147,241 || 150,198 || 1,058,704
 
|}
 
 
 
== 経済 ==
 
[[File:Namdaemun in the Joseon Period.JPG|thumb|200px|right|[[崇礼門|南大門]](李氏朝鮮時代)]]
 
[[File:Nandaimon in the Japanese Period.JPG|thumb|200px|right|南大門(日本統治時代)]]
 
[[File:Chojiya Department Store.JPG|thumb|200px|right|丁子屋百貨店]]
 
[[File:미나카이 경성점.jpg|thumb|200px|right|三中井百貨店]]
 
[[File:Mitsukoshi Department Store, Keijō.jpg|thumb|200px|[[三越]][[京城府|京城]]店。京城府本町一丁目五二。現在の[[新世界百貨店]]]]
 
[[File:Chosen Hotel.JPG|thumb|200px|[[朝鮮ホテル]]]]
 
 
 
「朝鮮は日本の脇腹に突きつけられた[[匕首]]だ」と云われ日本本土防衛の為の重要な要であり、また日本の中でも最も遅れている地域の一つであると政府は捉え、[[富国強兵]]政策に従い多額の[[予算|国家予算]]を朝鮮半島に投じた。
 
 
 
これまで朝鮮半島にほとんど存在しなかった鉄道、道路、上水道、下水道、電気インフラ、病院、学校、工場など、最新鋭のインフラの整備を行い、近代教育制度や近代医療制度の整備を進め、朝鮮半島を近代化していった。
 
 
 
鉄道路線の路線は幹線ばかりでなく生活用の支線も多くが敷設され地方経済を活性化させた。[[三菱財閥|三菱製鉄]]([[日本製鐵兼二浦製鉄所|兼二浦製鉄所]])や[[日本製鐵]]([[日本製鐵清津製鉄所|清津製鉄所]])による[[製鉄所]]の建設、[[日本窒素肥料]](現:[[チッソ]])の進出による[[水力発電所]]建設などが行われ、朝鮮総督府からの[[補助金]]による1,527件の農業用[[ダム]]と410件の[[水路]]の建設、5億9千万本以上の[[植林活動|植林]]や[[砂防ダム]]建設などの水利事業も行われた。これは、それまでの欧米諸国による収奪的植民地政策には見られないものであった<ref>Cumings Bruce (1984), "The Legacy of Japanese Colonialism in Korea" in Myers, Ramon H. and Mark R. Peattie (Editors) ''The Japanese Colonial Empire, 1895-1945'', [[プリンストン大学|Princeton University]] Press, [[プリンストン (ニュージャージー州)|Princeton]]. ISBN 978-0691102221{{要ページ番号|date=2010年3月}}
 
</ref>。1920から30年代の朝鮮半島の経済成長率は年間約4%で、同じ期間の欧州(1%台)や日本・アメリカ(3%)に比べて、より高い成長をしており、朝鮮半島1人当りの生産成長率も約2.4%と高い成長率を記録していた結果が出ている<ref>[http://www.chosunonline.com/article/20040303000075 「1920〜30年代の成長率4.1%」], [[朝鮮日報]], 2004年3月3日.</ref>。他方、これらの開発工事において、主な労働力は当然ながら朝鮮人の中に求められた。統治の前期においては賦役(無償労働)による工事なども行われており、過酷な負担であるとして3・1独立運動の原因の一つともなった<ref>[[中野正剛]], [{{NDLDC|953853}} 『我が観たる満鮮』], [[政教社]], [[1915年]], p. 52-55.</ref>。賦役の廃止後も、労働者の人権という概念の未発達と植民地人であるという要因などが重なり、朝鮮人労働者は多くの場合劣悪な環境に置かれた<ref>この例の一つとして、日本窒素肥料の朝鮮における朝鮮人労働者への劣悪な取り扱いなどが挙げられている({{Cite book|和書|author = [[岡本達明]]編|year= 2000|month=09|title= 聞書水俣民衆史 第5巻 植民地は天国だった|publisher = 草風館|isbn = 978-4883230341}} pp83-132</ref>。
 
 
 
李朝末期時点では大部分で道路の舗装などが行われていなかった[[京城]]は、[[土地区画整理事業|区画整理]]が行われ[[路面電車]]([[ソウル市電]])が走る都市となった。衛生面では、生活面における衛生指導や集団予防接種が行われ、当時朝鮮半島で流行していた[[コレラ]]、[[天然痘]]、[[ペスト]]などの[[伝染病]]による乳児死亡率が減少し、平均寿命は24歳から56歳まで伸びた。また農地の開発や農業技術の指導により食糧生産量も激増したことで、人口は併合時([[1910年]])の調査では13,128,780人<ref>併合の4年前[[1906年]]に行われた警務顧問部の日本人の調査によるものと思われる統計では9,781,671人であるが、朝鮮末期の人口統計には漏れがあるとし、[[水野直樹]]・[[駒込武]]・[[藤永壮]]編 『日本の植民地支配-肯定・賛美論を検証する』[[岩波書店]]、2001年。P. 30. ISBN 978-4000092524では当時の人口を1600万人程と推定している。</ref>、[[1944年]]の調査では25,120,174人となり、平均寿命も併合時(1910年)24歳だったものが、1942年には45歳まで伸びた<ref>朝鮮総督府 『統計年報』{{要ページ番号|title=要年、巻、ページ情報|date=2010年3月}}</ref><ref>[[黄文雄 (評論家)|黄文雄]] 『歪められた朝鮮総督府』, [[光文社]]、1998年。ISBN 978-4334006341{{要ページ番号|date=2010年3月}}
 
</ref>。
 
 
 
総督府は土地所有者の調査を実施し、所有者のいない土地は接収して[[東洋拓殖]]に買い取らせ、日本人移住者や朝鮮人有力者に分配した。総督府が接収した農地は全耕作地の3.26%ほどである<ref>{{Cite book|和書|author= 山本有造|year= 1992|month=01|title = 日本植民地経済史研究|publisher = [[名古屋大学]]出版会|isbn= 4-403-61051-X}}pp 212-214</ref>。李朝末期の朝鮮は道路、農地、山、河川、港湾などが荒廃しており、民衆は官吏・地主・両班に高利貸(トンノリ)による収奪を受けていた。そのため日本が朝鮮の農地にて、水防工事や水利工事をし、金融組合もつくったことで、農民は安い金利で融資を受けることができるようになり、朝鮮人農民に多大な利益をもたらすようになった。また、水利組合の設立により安心して農耕ができるようになった<ref>{{Cite book|和書|author = 朴泰赫|year = 1993|month=03|title = 醜い韓国人|publisher = 光文社|isbn = 4334005322}} p24</ref>。大地主である朝鮮人は、生産性が上がり日本へ米を輸出できるようになったことで多額の利益を得ていた。その代表的な人物が[[サムスングループ]]の創始者である[[李秉チョル|李秉喆]]である。彼は慶尚南道の大地主の次男として生まれ、米の輸出で得た多額の資金を元手に[[1938年]]に[[大邱広域市|大邱]]にて[[三星商事]]を設立し、これがのちの[[サムスングループ]]に発展していった<ref>[http://s04.megalodon.jp/2008-0411-0954-00/world.kbs.co.kr/japanese/korea/korea_aboutkorea_detail.htm?no=333 もっと知りたい韓国 三星], KBS WORLD, 2007年12月7日.</ref>。
 
 
 
水田は併合前の84万町歩が[[1920年]]は155万町歩になり、[[1928年]]には162万町歩となり、[[1942年]]には177万町歩となるとともに、面積あたりの収穫量も[[1910年]]の1反あたり0.796石から[[1937年]]には1.635石へと倍増した。このように[[農地]]が新たに[[開発|開墾]]され、水利事業によって生産能率が向上したことにより、食糧生産は年々増加し、併合前の[[1909年]]には746万石であった収穫高は、[[1918年]]には1529万石と2倍以上に、更に[[1942年]]には2489万石なった、[[コメ|米]]の多くが日本([[内地]])に輸出されたため朝鮮人1人当たりの米の消費量は1919年〜1921年の平均0.68[[石 (単位)|石]](米1石は約150kg)に対して、1932年から1936年にかけては0.40石まで減少した<ref>[http://opac.ndl.go.jp/recordid/000003545801/jpn 『米穀關係法規・朝鮮米穀要覧』] 朝鮮総督府農林局 (1935/02).{{要ページ番号|date=2010年3月}}</ref>。この状況を指して、「飢餓輸出」と呼ぶ研究者もいる<ref>[[姜在彦]] 『日本による朝鮮支配の40年』 [[朝日新聞]] (1992/08), P. 111. ISBN 978-4022607249</ref>が。逆に[[全相仁]]らの研究によると日本時代の米の消費量は平均0.58石の水準を保ち、後半期にはむしろ消費量が若干増加している。また朝鮮経済全体で見た場合、米以外の雑穀が大量に輸入されており、高価な米を売った代金で安い雑穀をより多く購入することで増加する人口を養っていたと考えられる。[[ソウル大学校|ソウル大学]]の[[李栄薫]]教授は韓国の「[[日本帝国主義|日帝]]による土地収奪論」は[[神話]]であるとし「私たちが植民地時代について知っている韓国人の[[集団的記憶]]は多くの場合、作られたもので、教育されたものだ」としており「食糧を日本に搬出したのも市場を通じた商行為に基づくもの」と述べている<ref>[http://s01.megalodon.jp/2008-0406-0541-51/www.chosunonline.com/article/20041120000000 ソウル大教授、日本による土地収奪論は神話], 朝鮮日報, 2004/11/20.</ref><ref name=lee>[http://s04.megalodon.jp/2008-0406-0548-21/www.chosunonline.com/article/20070603000016 李栄薫教授「厳格なジャッジなき学界が歴史を歪曲」李栄薫ソウル大教授インタビュー(3/4)], 朝鮮日報, 2007/06/03, “食糧を日本に搬出したのも市場を通じた商行為に基づくものであり、強奪したわけではない”.</ref>。加えて、朝鮮人の身長が伸びていることから、少なくとも1920年代中頃までは「朝鮮人の生活水準が着実に向上していたのは明らか」である<ref>[http://www.chosunonline.com/article/200602180***** 日本統治時代の韓国人の平均身長], 朝鮮日報, 2006年2月18日.</ref>。
 
 
 
一方で増え続ける労働人口を農村では吸収できず、京城などの大都市で[[労働者]]として生活の糧を求める人が出たが、都市でも産業が未発達で人口を十分に吸収することができず、<!--森林整備と定着促進策、山農指導区により減少→ [[火田民]](山間部で焼畑農業を行なう)となるもの、 -->職を求めて日本や[[満州]]に渡航した者が数多く出た。京城等における農村出身の労働者層の中には都市周辺部に粗末な小屋を建てた[[スラム]]街を形成し、「[[土幕民]]」と呼ばれるものも存在した<ref>[[松本武祝]] 「4 植民地支配は朝鮮を豊かにしたか」 in 『日韓 新たな始まりのための20章』 [[田中宏 (経済学者)|田中宏]], [[板垣竜太]]編集, 岩波書店、2007年。p.36-37. ISBN 978-4000242448</ref>。
 
 
 
植民地近代化という性質上、この時期の朝鮮における経済発展の成果は多くが資本を出した在朝日本人や日本企業に分配され、朝鮮人(とりわけ農村部)への分配度は低く、日本人と現地人たる朝鮮人の間の所得格差も非常に大きなものがあったとされる<ref>[[許粹烈]], [http://www.historyfoundation.or.kr/data/report/1gi/03/37.pdf 『日帝下朝鮮経済の発展と朝鮮人経済』], [[日韓歴史共同研究委員会]]報告書[http://www.jkcf.or.jp/history/report3.html (第1期 2002-2005年)]第3分科(近現代).</ref>。一方では、市場を通じた商行為であるという指摘もある<ref name="lee" />。利益を得ていた朝鮮人も存在し、統治時代後期には多くの朝鮮人資本家が存在した。
 
 
 
朝鮮では株式会社にほとんど馴染みがなく、朝鮮総督府は詐欺行為が多発するのを警戒して1910年に[[朝鮮会社令|会社令]]を公布し株式会社を届出制でなく許可制とした。産業振興のための[[貿易]]輸出策となる[[朝鮮貿易協会]]を京城に設置、[[奉天]]・[[大連]]・[[ハルピン市|哈爾浜]]など大陸各地で官民による朝鮮物産の[[宣伝]]と販売促進を行った。これらにより従業員5人以上の工場数は、1910年には朝鮮人経営39社に対して日本人経営は112社であったが、1939年には朝鮮人経営4,185社に対して日本人経営2,768社となり、稼働工場数の増加とともに現地経営者の急激な増加が認められる。ただし、1939年においても規模が大きくなるほど日本人による経営が多かった<ref>[[中村哲]]『近代東アジア史像の再構築』桜井書店p.55</ref>。
 
 
 
2004年にソウル大学は、1911年から1937年にかけての朝鮮における産業構造の変化が、第1次産業で75%から45%、第2次産業で7%から22%、第3次産業で18%から33%にそれぞれ上昇し、資本経済化が急速に進んだこと、1912年から1937年にかけての年平均実質[[GDP]]が4.10%、実質[[GDE]]が4.24%の成長(同時代の日本本土やアメリカは3%台、欧州は1%台)をなしており、[[世界恐慌|世界恐慌下]]においても飛躍的な成長を遂げていたとの調査結果を発表した<ref>[http://www.chosunonline.com/article/20040303000075 「1920~30年代の成長率4.1%」], 朝鮮日報, 2004/03/03.</ref>。これは日本による朝鮮半島への投資が成功したことを示している。
 
 
 
韓国や北朝鮮では、現在も朝鮮の資本主義の萌芽を李氏朝鮮時代に求め、「芽生えた朝鮮の資本主義は成長する前に日韓併合による植民地化によって1945年まで大きく抑制されていた」という説が通説となっている。これに対し、[[ハーバード大学]]教授で朝鮮史が専門の[[カーター・J・エッカート]]は、研究の結果、李氏朝鮮時代の経済規模は同時代の日本や中国と比べて小さく、当時の商人と後の時代の資本家とのつながりがほとんど無いため、資本主義の萌芽が李氏朝鮮時代には存在せず、日韓併合による日本の政策によって生まれ、特に戦後の韓国の資本主義や工業化は、上記のような日本の朝鮮半島での近代化政策を模したものであると発表している<ref name="Harvard">カーター・エッカート 『日本帝国の申し子』ISBN 4794212755 ※この研究著書は「[[ジョン・ホイットニー・ホール・ブック賞]]」(アジア研究協会)、「ジョン・キング・フェアバンク賞」(アメリカ歴史学会)をそれぞれ受賞した。</ref>。韓国と北朝鮮以外ではエッカートと同様の意見が史実と認められている。
 
 
 
=== 通貨 ===
 
[[File:Chosen Commercial Bank Head Office.JPG|thumb|200px|right|日本の統治下で多くの銀行が設立され、史上初めて朝鮮半島で貨幣経済が導入された(朝鮮商業銀行本店)]]
 
[[日韓併合]]以前から、日本の国立銀行である[[第一銀行]]韓国総支店が、朝鮮での通貨として1902年から第一銀行券を流通させていた。[[大韓帝国]]時代の1909年には第一銀行にかわって[[中央銀行]]の韓国銀行が設立され、のち1911年に[[朝鮮銀行]]となった<ref>糟谷 『朝鮮の近代』 p80</ref>。世界恐慌後の各国は、自国の経済を保護するために[[ブロック経済]]を進めており、朝鮮は日本円を中心とする[[日満支経済ブロック]]に含まれた。朝鮮には日本円を導入する案もあったが、経済的な混乱が日本に波及するとの理由で採用はされなかった<ref>多田井喜生 『朝鮮銀行 - ある円通貨圏の興亡』 PHP研究所〈PHP新書〉、2002年。</ref>。朝鮮銀行では、[[円 (通貨)|日本円]]と等価の[[朝鮮円|朝鮮圓]](円)が発行されていた。この通貨は内地(日本本土)では使用できなかったが、[[日本銀行]]の円、そして金、銀との等価交換が保証されていた。
 
 
 
戦費を調達するために、朝鮮銀行は[[中華民国臨時政府 (北京)|中華民国臨時政府]]の[[中国聯合準備銀行|中国連合準備銀行]]と預け合い契約を交わした。この契約は相互に預金口座に記帳することで、戦費に用いる通貨の発行を目的としていた。預け合い契約によって日本本土へのインフレーションは避けられたが、同時に中国で通貨を濫発することになり、インフレーションによる経済混乱と日本統治下の通貨制度に対する信用低下を招いた<ref>[[多田井喜生]] 『大陸に渡った円の興亡(下)』 東洋経済新報社、1997年。</ref>。
 
 
 
=== 主な銀行 ===
 
[[File:Bank of Chosen.JPG|thumb|200px|right|[[朝鮮銀行]]]]
 
[[ファイル:Chosen Industrial Bank Head Office.JPG|thumb|200px|right|[[朝鮮殖産銀行]]本店]]
 
* 本店あり
 
** [[朝鮮銀行]] (資産・負債は[[韓国銀行]]、内地の残余財産は日本不動産銀行(現[[あおぞら銀行]]←[[日本債券信用銀行]])が継承)
 
** [[朝鮮殖産銀行]] (現[[韓国産業銀行]])
 
*** 慶尚農工銀行
 
*** 平安農工銀行
 
*** 全州農工銀行
 
*** 光州農工銀行
 
*** 咸鏡農工銀行
 
*** 漢湖農工銀行
 
** [[朝鮮貯蓄銀行]] (現[[韓国スタンダードチャータード銀行]]←第一銀行)
 
** [[朝鮮信託]] (現[[ハナ銀行]]←ソウル信託銀行←韓国信託銀行←朝鮮信託銀行)
 
** [[朝鮮無尽]] (現[[国民銀行 (韓国)|国民銀行]]←韓国無尽←相互無尽←朝鮮相互銀行)
 
** [[朝興銀行]] (現[[新韓銀行]])
 
*** [[韓一銀行]]→[[東一銀行]]
 
*** [[漢城銀行]]
 
** [[大韓天一銀行]]→[[朝鮮商業銀行]] (現[[ウリィ銀行]]←韓国商業銀行)
 
* 支店のみ
 
** [[第一銀行]] 京城・釜山支店 (現[[みずほ銀行]]←[[第一勧業銀行]])
 
** 百三十銀行→[[安田銀行]] 仁川・京城・釜山・平壌支店 (現富士銀行。仁川支店は朝鮮銀行が買収)
 
*** 第五十八銀行
 
** [[山口銀行 (大阪)]]→[[三和銀行]] 京城支店 (現[[三菱東京UFJ銀行]]←[[UFJ銀行]])
 
** [[十八銀行]] 京城・龍山・新龍山・仁川・群山・木浦・釜山・羅州・元山支店 (全支店を朝鮮殖産銀行に譲渡して引き上げ)
 
なお、北朝鮮側の銀行支店は現在[[朝鮮民主主義人民共和国中央銀行|朝鮮中央銀行]]となっている。
 
 
 
=== 人口推移 ===
 
1905年までは李氏朝鮮による調査。李氏朝鮮による調査は徴税を目的としているため申告式であり、身分と収穫率にしたがって軍役と無関係な一部の女子、賎・奴などの疎外層は申告から除外されたり漏らされたりしていた、また以降の調査で人口が急増しているので実際は李氏朝鮮に1000万人前後の人口があった可能性はある。1905年[[第二次日韓協約]]によって[[大韓帝国]]は日本の保護国になる。これ以降は日本(韓国統監府および朝鮮総督府)による調査。1910年に[[韓国併合]]。
 
 
 
{| class="wikitable" align=left  style="margin:5px;"
 
|+'''朝鮮半島の人口推移'''<ref>[http://www.geocities.jp/kankokuchousen/kankoku-003.html geocities韓国・朝鮮 -03]</ref><ref>[http://terms.naver.com/entry.nhn?docId=795387&cid=46634&categoryId=46634 naver人口]</ref>
 
|-
 
| 西暦
 
| 朝鮮半島居住の朝鮮人
 
| 1904年との対比<ref>1904年の李氏朝鮮による調査人口を100として対比を示した。</ref>
 
|-
 
| 1753
 
| 730万人
 
| 102
 
|-
 
| 1850
 
| 750万人
 
| 105
 
|-
 
| 1864
 
| 802万人
 
| 113
 
|-
 
| 1876
 
| 804万人
 
| 113
 
|-
 
| 1885
 
| 897万人
 
| 126
 
|-
 
| 1891
 
| 788万人
 
| 110
 
|-
 
| 1904
 
| 710万人
 
| 100
 
|-
 
| 1907
 
| 1167万人
 
| 164
 
|-
 
| 1910
 
| 1313万人
 
| 184
 
|-
 
| 1911
 
| 1383万人
 
| 194
 
|-
 
| 1912
 
| 1413万人
 
| 200
 
|-
 
| 1913
 
| 1517万人
 
| 213
 
|-
 
| 1914
 
| 1562万人
 
| 220
 
|-
 
| 1915
 
| 1596万人
 
| 224
 
|-
 
| 1916
 
| 1631万人
 
| 229
 
|-
 
| 1917
 
|1662万人
 
| 234
 
|-
 
| 1918
 
| 1670万人
 
| 235
 
|-
 
| 1919
 
| 1678万人
 
| 236
 
|-
 
| 1920
 
| 1692万人
 
| 238
 
|-
 
| 1921
 
| 1706万人
 
| 240
 
|-
 
| 1922
 
| 1721万人
 
| 242
 
|-
 
| 1923
 
| 1745万人
 
| 245
 
|-
 
| 1924
 
| 1762万人
 
| 248
 
|-
 
| 1925
 
| 1854万人
 
| 261
 
|-
 
| 1926
 
| 1862万人
 
| 262
 
|-
 
| 1927
 
| 1863万人
 
| 262
 
|-
 
| 1928
 
| 1867万人
 
| 262
 
|-
 
| 1929
 
| 1878万人
 
| 264
 
|-
 
| 1930
 
| 1969万人
 
| 277
 
|-
 
| 1931
 
| 1971万人
 
| 277
 
|-
 
| 1932
 
| 2004万人
 
| 282
 
|-
 
| 1933
 
| 2021万人
 
| 284
 
|-
 
| 1934
 
| 2051万人
 
| 288
 
|-
 
| 1935
 
| 2125万人
 
| 299
 
|-
 
| 1936
 
| 2137万人
 
| 300
 
|-
 
| 1937
 
| 2168万人
 
| 305
 
|-
 
| 1938
 
| 2195万人
 
| 309
 
|-
 
| 1939
 
| 2210万人
 
| 311
 
|-
 
| 1940
 
| 2295万人
 
| 323
 
|-
 
| 1941
 
| 2391万人
 
| 336
 
|-
 
| 1942
 
| 2553万人
 
| 359
 
|-
 
|}
 
{{-}}
 
 
 
== 交通 ==
 
[[File:Keijo Station.JPG|thumb|right|200px|[[京城駅]]]]
 
[[File:Groundbreaking_ceremony_of_Gyeongbu_Line_at_Busan,_1901.jpg|thumb|200px|京城-釜山間の鉄道起工を祝う朝鮮人]]
 
[[File:Port of Jinsen.JPG|thumb|200px|大型船舶が寄港出来るよう整備された仁川港]]
 
=== 鉄道 ===
 
[[朝鮮半島]]での鉄道は、李氏朝鮮から日本が「日韓暫定合同条款」に基き鉄道敷設権を[[1894年]][[8月20日]]に得て、[[鷺梁津駅|鷺梁津]]([[漢江]]西岸)〜[[済物浦駅|済物浦]]間の鉄道を[[1899年]]に開通させたことに始まる。これは後に[[京仁線]]となった。
 
 
 
[[1905年]]には[[京釜線]]が全通、翌[[1906年]]には[[日露戦争]]の軍事輸送を目的として[[京義線]]を日本が全通させた。
 
 
 
京釜線・京義線は日露戦争後に日本が得た[[南満州鉄道]](満鉄)への接続を図り、大陸進出の足がかりとしての役目を担うようになっていき、[[1910年]]の韓国併合で日本が[[朝鮮]]の統治権を得ると、[[京元線]]や[[中央線 (韓国)|中央線]]・[[湖南線]]などを敷設した。
 
 
 
路線数が少なかった[[1925年]](大正14年)までは、朝鮮での鉄道経営を一体化する目的で[[南満州鉄道]]に[[委託]]したこともあったが、その後は朝鮮総督府の直轄の[[朝鮮総督府鉄道]]となって、地域経済の発展や住民の足を確保するために多くの路線が建設されていった。
 
 
 
朝鮮総督府鉄道は朝鮮への観光客の誘致にも力を入れ、[[ウェスティン朝鮮ホテル|朝鮮ホテル]]などの近代的な西洋風[[ホテル]]の建築も行った。また、朝鮮王朝末期には大部分で道路の舗装などが行われていなかった京城は区画整理が行われ、[[路面電車]]が敷設された。
 
 
 
=== 自動車 ===
 
日本の統治下に入った後に[[フォード・モーター]]や[[ジェネラル・モーターズ]]の販売代理店が営業を開始し、初めて導入された乗合自動車やタクシーが走っていた。
 
 
 
=== 船 ===
 
 
 
日本内地と朝鮮の間には、[[関釜連絡船]]([[釜山広域市|釜山]]・[[下関市|下関]]間)を始めとする多くの航路が運航されていた。
 
 
 
=== 航空 ===
 
日本の[[フラッグ・キャリア]]の[[日本航空輸送]](とそれを引き継いだ[[大日本航空]])が日本内地から釜山、[[蔚山広域市|蔚山]]、京城などの間を結んだほか、満州国の[[満州航空]]が乗り入れていた。朝鮮独自の[[航空会社]]は存在しなかった。{{-}}
 
 
 
== 日本内地との関係 ==
 
=== 朝鮮人の日本内地への移入 ===
 
[[李氏朝鮮]]時代から貧しかった南朝鮮から、職を求める多くの朝鮮人が日本に移入した<ref name=M2006090419432107004&/><ref name=txt00103/>。日本への渡航には渡航証明書が必要だったが<ref name=asahi19391121>大阪朝日新聞・南鮮版 1939年11月21日付『渡航證明書を偽造し 不敵、巨利を博す 惡運つきて遂に捕へらる』</ref>、多くの朝鮮人が日本内地へ密航した<ref name=mikko>{{cite web
 
| author = [[水野直樹]]
 
| url = http://www.zinbun.kyoto-u.ac.jp/~mizna/cgi-bin/shinbun/shinbuns.cgi?midashi=%CC%A9%B9%D2&shinbun=&local1=&local2=&bunrui=&_ymd=no&year1=&month1=&beforeyear=&beforemonth=&afteryear=&aftermonth=&karayear=&karamonth=&madeyear=&mademonth=&perpage=100&page=1
 
| title = 戦前日本在住朝鮮人関係新聞記事検索1868-1945
 
| publisher = 朝鮮近代史研究のページ (水野直樹のホームページ)
 
| date = 2008-06-25
 
| accessdate = 2010-08-06
 
}}</ref>。多くの密航業者が密航を斡旋し、巨万の富を築いた<ref name=asahi19391121/><ref name="mainichi19360926"/>。2,000人を密航させた密航業者は一万数千円を荒稼ぎして妾を10人抱えるほどであった<ref name="mainichi19360926">『数年間に二千人世話し一万数千円を捲あぐ/十人の妾をもち住所を転々/密航ブローカーの巨頭、犯行自白』 [[大阪毎日新聞]] 1936年9月26日</ref>。密航は1930年代に入ると激増し、毎日のように摘発されるようになった<ref name=mikko/>。このため、[[1934年]]には[[岡田内閣]]は朝鮮人の密航の取り締まりを強化するために「朝鮮人移住対策ノ件」を閣議決定したがその後も密航は増加していった<ref name=M2006090419432107004&/><ref name=txt00103/><ref name=mikko/><ref>大阪朝日新聞・南鮮版 1939年1月31日付{{quotation|密航朝鮮人送還<br>三十日朝釜山入航の關釜聯絡船で福岡縣から密航朝鮮人四十六名が送還されて来たが、厳重な警戒を潜つて内地へ密航をなし送還されて来たもので新年に入つてから僅か一か月間に三百名に上つてゐる}}  </ref>。余りの密航の多さに日本政府は渡航制限を緩和したが<ref>大阪朝日新聞・南鮮版 1940年4月5日付『朝鮮人労働書の 内地渡航漸次緩和 林総督府社会課長談』</ref><ref name=asahi19390622/>、渡航条件を満たさないものたちによる密航は止まらなかった<ref name=asahi19390622>大阪朝日新聞・北鮮版 1939年6月22日付{{quotation|『論旨の渡航者一萬九千餘人』<br>半島人の内地渡航に対する取締は本春以来著しく緩和されて来たが、漫然渡航者に対しては依然として厳重取締を実施してゐる  本年一月以降五月末までに内地渡航証明下付を出願した半島人は全鮮で四萬四百八十五人、漫然渡航せんとして釜山桟橋の監視所で論旨された者一萬九千百十人に達してゐる、このほか密航ブローカーの魔手にかゝり南鮮沿岸から密航せんとして発見された者約二千名に達してゐる}} </ref>。第二次世界大戦中にも密航が行われており、密航朝鮮人が検挙されている<ref>『内地密航増加/釜山水上署で厳罰』 大阪毎日新聞 1943年6月15日</ref>。
 
 
 
[[朝日新聞]]の取材によって遠賀工業所で雇われていた朝鮮人鉱夫が高待遇で雇用されていたことが明らかにされている<ref>大阪朝日新聞・南鮮版 1940年5月28日付『朝鮮人鉱夫の物凄い稼高 遠賀工業所で推賞の的』</ref><ref>大阪朝日新聞・中鮮版 1940年4月21日付『朝鮮人鉱夫に特別の優遇設備 まるで旅館住まひ同様』</ref>。一方で旅費負担や高賃金などを謳った甘言募集に乗せられ、低賃金の中で宿代や食費など様々な名目で天引きされ、実際に自由に使える金額はほとんど無かったとする主張もある。<ref>[[金賛汀]]『証言朝鮮人強制連行』新人物往来社、1975年。p41〜42 </ref><ref>「強制連行はなかった」論と戦時下の朝鮮/樋口雄一[http://sengosekinin.peacefully.jp/data/data2/data2-2.html]</ref>。
 
 
 
[[1944年]]9月から[[1945年]][[3月]]にかけては[[国民徴用令]]により[[徴用]]された朝鮮人が渡航した<ref name=asahi19590713>『朝日新聞』 1959年7月13日 2面{{quotation|『大半、自由意思で居住 外務省、在日朝鮮人で発表 戦時徴用は245人』<br>在日朝鮮人の北朝鮮帰還をめぐって韓国側などで「在日朝鮮人の大半は戦時中に日本政府が強制労働をさせるためにつれてきたもので、いまでは不要になったため送還するのだ」との趣旨の中傷を行っているのに対し、外務省はこのほど「在日朝鮮人の引揚に関するいきさつ」について発表した。これによれば在日朝鮮人の総数は約六十一万人だが、このうち戦時中に徴用労務者として日本に来た者は二百四十五人にすぎないとされている。主な内容は次の通り。一、戦前(昭和十四年)に日本内地に住んでいた朝鮮人は約百万人で、終戦直前(昭和二十年)には約二百万人となった。増加した百万人のうち、七十万人は自分から進んで内地に職を求めてきた個別渡航者と、その間の出生によるものである。残りの三十万人は大部分、工鉱業、土木事業の募集に応じてきた者で、戦時中の国民徴用令による徴用労務者はごく少数である。また、国民徴用令は日本内地では昭和十四年七月に実施されたが、朝鮮への適用はさしひかえ昭和十九年九月に実施されており、朝鮮人徴用労務者が導入されたのは、翌年三月の下関-釜山間の運航が止まるまでのわずか七か月間であった。一、終戦後、昭和二十年八月から翌年三月まで、希望者が政府の配船、個別引揚げで合計百四十万人が帰還したほか、北朝鮮へは昭和二十一年三月、連合国の指令に基く北朝鮮引揚計画で三百五十人が帰還するなど、終戦時までに在日していた者のうち七五%が帰還している。戦時中に来日した労務者、復員軍人、軍属などは日本内地になじみが薄いため終戦後、残留した者はごく少数である。現在、登録されている在日朝鮮人は総計六十一万人で、関係各省で来日の事情を調査した結果、戦時中に徴用労務者としてきた者は二百四十五人にすぎず、現在、日本に居住している者は犯罪者を除き、自由意思によって残留したものである}}</ref>。
 
 
 
[[1951年]]に講和条約が締結され連合軍による占領が終了すると日本に在留していた朝鮮人は[[朝鮮籍]]となり、1948年に建国された[[韓国]]の国籍を取得する者もいた。朝鮮から渡航した人々の多くが九州、中国、近畿地方に在留していたため、戦後に韓国から密航した朝鮮人もこれらの地方に住む場合が多かった。これらの朝鮮人は[[在日韓国・朝鮮人]]となった。
 
 
 
在日1世2世の中には朝鮮総督府による[[土地調査事業]]や日本軍などによる食料の収奪(徴用・供出)などにより生活に困窮し、日本に来たのだと主張する者もいる<ref>在日本大韓民国民団民団公式サイト[http://www.mindan.org/front/newsDetail.php?category=0&newsid=11532][http://www.mindan.org/front/newsDetail.php?category=0&newsid=9838]</ref>。
 
 
 
== 朝鮮人の政治参加 ==
 
[[ファイル:Park Choon-Geum shouts Banzai with his supporters.JPG|thumb|200px|衆議院議員当選を祝う[[朴春琴]]]]
 
1910年の[[韓国併合|大韓帝国の併合]]により[[大韓帝国]]の統治権は日本国皇帝に譲与され、大韓帝国により編纂されていた戸籍は日本国政府が担任することとなった。朝鮮は併合の経緯から大韓帝国を日本国皇帝が譲与され統治することとなったため、「併合」([[韓国併合ニ関スル条約|併合条約]]2条)とはしたものの、一つの帝国のもとに二つの国家が存在するかのような状態であり、なおかつ連邦的なものではなく保護国・被保護国を前提とした従属的国家結合にとどまり、選挙法など統治関連法は内地のものは直接適用されなかった。併合条約締結の直後である1910年8月29日には[[s:韓國ノ國號ヲ改メ朝鮮ト稱スルノ件|韓国ノ国号ヲ改メ朝鮮ト称スルノ件]](明治43年勅令第318号)が発せられ即日施行されている。
 
 
 
朝鮮人は「帝国臣民」に編入され、日本人の朝鮮移住も進んでおり1910年12月末時点で朝鮮在留日本人は50,992戸(171,543人)に上っていた。併合後の朝鮮統治は朝鮮総督府が直裁しており、朝鮮在住の「協力的朝鮮人」はむろん、在朝日本人さえ朝鮮半島における政治への参政権をもっていない状況にあった。1913年には日本人社会の居留民団が解体され、事実的な自治権は剥奪された。1920年代以降の協力的朝鮮人を含む植民地朝鮮での参政権問題は政治的課題となり、ひとつの方法として日本国内の縁故地で衆議院議員として選出をめざし「植民地政策決定過程」に介入する手段を目指した<ref>「植民地朝鮮と多木久米次郎」金玄(神戸大学文化学研究科 港湾都市研究2009.03)[http://www.lib.kobe-u.ac.jp/repository/81000953.pdf][http://www.lib.kobe-u.ac.jp/infolib/meta_pub/G0000003kernel_81000953]</ref>。朝鮮半島では1931年に制限選挙による地方議会が開設された<ref>「日本統治下末期の朝鮮における日本語普及・強制政策」井上薫(北海道大学教育学部紀要1997.6)[http://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/bitstream/2115/29532/1/73_P105-153.pdf]PDF-P.13</ref>が、議会選挙などの政治参加は戦争体制のため事実上凍結された<ref>「植民地統治と朝鮮人の対応」森山茂徳(ソウル・韓日歴史共同研究委員会2005.1.29)[http://www.jkcf.or.jp/history/first/3/04-0j_moriyama_j.pdf]PDF-P.3,4[http://www.jkcf.or.jp/history/first/3/004_activities_j.pdf]</ref>。
 
 
 
朝鮮人も帝国臣民の地位が付与されたため、内地に居住していれば参政権・被参政権とも認められており(→1925年[[普通選挙法]])衆議院選挙に参加することは可能であった。唯一朝鮮人として[[朴春琴]]が衆議院議員に選出されている。それまでは内地の選挙区からしか出馬できなかったが、1945年(昭和20年)4月1日に改正された衆議院議員選挙法によって台湾と朝鮮にも帝国議会の議席が与えられ、選挙によって外地からも衆議院に議員を送ることが出来るようになった。ただし有権者は1年以上直接国税15円以上の納税という制限が課されており普通選挙ではなかった。また議席数は、衆議院の定数466に対し台湾5名、朝鮮22名とされた。また1943年(昭和18年)に内地に編入された樺太でも同時に3名の議席が認められた。しかし敗戦のため実施されずに終わった。また貴族院でも台湾と朝鮮から勅撰議員を選出することが決められ台湾、朝鮮から合わせて10名の議員が選出された。そのほか地方議会の議員を務めたり、中央官庁や地方公共団体に勤務する者もいた<ref>[[杉本幹夫]]『「植民地朝鮮」の研究』</ref>。その外にも多数のロビイストが「朝鮮通」として朝鮮統治に関するあらゆる法案や議案について提言をおこなっていた<ref>金玄2009.03</ref>。
 
 
 
[[1933年]]5月11日の朝鮮朝日(朝日新聞の外地版)によれば、朝鮮の[[十三道制|13の道(日本で言えば「都道府県」)]]の当選議員のうち、約80%が朝鮮人となっている。
 
 
 
== 朝鮮人の独立運動 ==
 
{{See also|朝鮮独立運動}}
 
 
 
義兵闘争<ref>この過程において、日本側の戦死者は1907年8月から1910年までの3年半の間に133人、義兵側の死者は17,688人である(「朝鮮暴徒討伐誌」、1913年)。</ref>などに見られるように、併合以前から日本の朝鮮支配計画に反抗する朝鮮人の運動は存在していたが、[[第一次世界大戦]]終結後には[[アメリカ合衆国|アメリカ]]系キリスト教会の宣教師により[[アメリカ合衆国大統領|アメリカ大統領]][[ウッドロウ・ウィルソン|ウィルソン]]の提唱する[[民族自決]]理念が伝わり、更に高宗の死によって独立を求める朝鮮人による運動は高まった。
 
 
 
[[ファイル:Provisional Government of the Republic of Korea.jpg|thumb|200px|大韓民国臨時政府の記念写真(1919年10月11日)]]
 
[[File:Yfj.jpg|thumb|200px|[[上海天長節爆弾事件]]の実行犯[[尹奉吉]]]]
 
[[ファイル:Nikolayevsk Incident-1.jpg|thumb|200px|[[尼港事件]]で焼け落ちた日本領事館]]
 
1919年には[[三・一独立運動]]が起こって大規模な暴動にまで発展し、朝鮮中を巻き込んだ。この独立運動は約一年間続き、暴動と総督府側による取締りによって多くの死傷者がでた(運動家に殺害された者も多い)。事件直後に行われた調査結果を記した資料によれば、8,437人が逮捕された。しかし逮捕者への刑罰は主犯でも最高で懲役3年以下という軽いものであった。死者数は553人(運動家に殺されたものも含む)、負傷数は1,409人である。当時[[上海市|上海]]に[[亡命]]中の[[朴殷植]]は『韓国独立運動之血史』に46,948人が逮捕され、7,509人が死亡し、15,961人が負傷したと記している<ref>死傷者数は伝聞によるものであると『韓国独立運動之血史』の本書中で朴殷植は断っているが、韓国の教科書や研究者の一部はこの犠牲者数を参照としている。「[[エンサイクロペディア・ブリタニカ]]」では『韓国独立運動之血史』を参考にしており、デモの続いた一年間の間に7000人が日本の警察と軍隊により殺されたとある。</ref><ref>{{cite book | last = Lee | first = Ki-Baik | coauthors = Translated by Edward W. Wagner with Edwar J. Shultz | title = A New History of Korea (韓国史新論) | publisher = Ilchorak/Harvard University Press | date = 1999 | pages = p. 1080 | doi = | isbn = 0-674-61575-1}}</ref><ref>{{cite web | title=March First Movement | work=Encyclopedia Britannica Premium Service | url=http://www.britannica.com/eb/article-9050797?query=march%20first%20movement&ct=|accessdate=2006-03-01}}</ref>。女学生・[[柳寛順]](ユ・ガンスン)は三・一独立運動を扇動した罪で投獄・拷問され16才で殺された<ref>[http://www1.korea-np.co.jp/sinboj/j-2004/06/0406j0412-00001.htm 「朝鮮近代史の中の苦闘する女性たち 烈士・柳寛順(下)朝鮮新報 2004.4.12]</ref>とされ、しばしば日本の蛮行についての象徴的物語として扱われることがある。なお「[[柳寛順]]の物語には誇張が多く史実の裏づけに乏しい」との批判が、現在の韓国国内からもある<ref>中央日報「柳寛順への日本の蛮行、誇張多い」2002.2.26[http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=24426&servcode=400&sectcode=400]</ref>。
 
 
 
三・一独立運動時、暴徒と化した民衆によって警察署や村役場のみならず、小学校や病院なども襲撃され、放火や投石、破壊、暴行、殺人などの犯罪行為が多数行われている。こうした暴動を鎮圧し治安を維持する為に警察や軍隊が武力を使うことは、内地でも行われていたことであり、またどこの国でも普通に行われることである<ref>名越二荒之助『日韓2000年の真実』国際企画</ref>。
 
 
 
こうした中、いくつかの悲劇が発生した。最も有名な「[[堤岩里事件]]」は、[[4月15日]]に小学校焼き討ちと警察官2名の殺害の容疑で堤岩里の成人男性住民30余名を教会堂に集めたところ、取調べ中に容疑者1名が逃げようとし憲兵に斬殺され、それを見た他の容疑者が暴徒化した為に全員が射殺され、放火などにより15村落317戸が延焼し、39人が死亡した事件である。その違法性については日本側も認識していたらしく「検挙官憲ノ放火ノ為類焼セルモノモ尠カラザルコトヲ確メタリ。…之が処分ニ就テハ殺生ハ止ムヲ得ザルモノニシテ放火ハ公然之ヲ認ムルハ情勢上適当ナラザルヲ以テ火災ヲ表面上全部失火ト認定スルコトトセリ」(憲兵司令官より大臣宛電報4/21付け)と上部に報告している。
 
 
 
三・一独立運動は、独立運動組織の[[大韓民国臨時政府]]樹立のきっかけとなり、また満州や[[沿海州]]を拠点とし、中朝国境では抗日ゲリラ組織の活性化にもつながり[[1920年]]の[[尼港事件]]のように、規模に劣る日本軍の部隊を[[全滅]]させることもあった。一方総督府も、過酷な統治だけでは植民地体制を持続させることはできないとして、「文治政治」と呼ばれる一連の懐柔策を打ち出した。内地でもなかったこととして朝鮮における憲兵警察制度は廃止され、限定的ながら言論や結社の自由が与えられた。
 
 
 
三・一独立運動後に活発となった満州や沿海州における朝鮮独立を掲げた抗日ゲリラは国境地帯で、良民や官公吏への襲撃・殺害といったゲリラ行為を繰り返すようになり、ついには[[1920年]]10月に[[満州]]の[[琿春市|琿春]]で、[[馬賊]]の襲撃により、領事館警察署長を含む日本人13人が殺害される事件([[間島事件]])が発生した。これにより総督府は中華民国側と折衝して吉林省都督から作戦の許可を取り付け、ゲリラ掃討を開始した([[青山里戦闘]])。彼らが潜んでいるとされた村に対する焼き討ちや村民処刑なども含む態度で臨み、[[キリスト教]]の[[宣教師]]などからの抗議を受けたこともあるが、徹底的な討伐戦の結果、抗日ゲリラのほとんどはソ連領内へと逃げ込み中朝国境からは一時姿を消した<ref>姜徳相『現代史資料(28) 朝鮮(四) 独立運動(二)』みすず書房出版、</ref>。朝鮮人武装勢力は1921年6月28日には[[スヴォボードヌイ]]にいたが、ロシアの[[赤軍]]と衝突しほとんどが壊滅した([[自由市惨変]])。その後、1937年に[[普天堡の戦い|普天堡]]が襲撃される事件も起きている。
 
 
 
大韓民国臨時政府は大東亜戦争後に「第二次世界大戦において、1941年12月9日に連合国側に立ち[[ナチス・ドイツ|ドイツ]]と日本に対して[[宣戦布告]]を行い、軍事部門である朝鮮解放軍は東南アジアの一部や中国等で[[中国国民党]]や[[中国共産党]]の軍隊に加わり、日本軍との戦闘に参加した」と主張している{{要出典|date=2010年12月}}。
 
 
 
しかしこの主張には根拠がなく、実際に具体的にどのようにして宣戦布告を行ったかも不明であり、宣戦布告も戦争相手国の日本とドイツには伝わっていないばかりか、中華民国やイギリス、アメリカやオランダなどの連合国側も確認しておらず、さらに1945年8月に至る大戦期間中に、大韓民国臨時政府が組織的に日本軍と戦闘した記録は日本と連合国のどちらからも全く見つかっていない。そのため戦後に韓国が連合国により「戦勝国」として国際的には認められることはなかった
 
<ref>{{cite news
 
| url = http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2010&d=0415&f=politics_0415_007.shtml
 
| title = 「竹島は日本領」…中国、“独島”の名称なしで日本の主張を報道
 
| newspaper = [[サーチナ]]
 
| date = 2010-04-15
 
| accessdate = 2010-04-15
 
}}</ref>。
 
 
 
== 行政 ==
 
{{Main|朝鮮総督府}}
 
[[File:Keisho-Nan Provincial Office.JPG|thumb|200px|[[慶尚南道 (日本統治時代)|慶尚南道]]庁]]
 
[[File:Kankyo-Hoku Provincial Office.JPG|thumb|200px|[[咸鏡北道 (日本統治時代)|咸鏡北道]]庁]]
 
[[File:Heian-Hoku Provincial Office.JPG|thumb|200px|[[平安北道 (日本統治時代)|平安北道]]庁]]
 
総督府は朝鮮半島の行政・司法・立法をすべて総覧し、[[朝鮮軍 (日本軍)|朝鮮半島駐留の日本軍]]の統率・防備権限を付与されていた([[朝鮮総督府官制]]3条)。総督府は鉄道や通信事業を経営し[[朝鮮銀行]]の監督権を有した(1924年まで)。また林野事業(営林廠)や専売事業(タバコ・塩・朝鮮人参)などを経営していた。[[日本統治時代の朝鮮の行政区画|朝鮮十三道]]には道長官(1919年から知事)が任命されそれぞれの支所で行政任務に従事した。総督府令により1年以下の懲役もしくは禁錮、拘留、200円以下の罰金または科料の罰を課すことが認められていた(4条)が、それ以上の罪過あるいは総督府令によらない法令については日本内地の制定法による必要があった。政務のすべては内閣総理大臣を経て天皇に直接上奏すれば良い(3条)とされたが、実際の実務は[[拓務省]]や[[内務省 (日本)|内務省]]など内地行政機関の依命通牒<ref>直接の権限はないが、上位職の指示命令により通知(アドバイス)する文書</ref>に従うことが多かった。
 
[[李氏朝鮮]]時代の[[朝鮮八道]]は[[高宗 (朝鮮王)|高宗]]32年([[1895年]])に[[二十三府制|二十三府]]となり、続く高宗33年([[1896年]])に制定された[[十三道制]]を引き続き行政区画とした。
 
 
 
* [[京畿道 (日本統治時代)|京畿道]]
 
* [[江原道 (日本統治時代)|江原道]]
 
* [[忠清北道 (日本統治時代)|忠清北道]]
 
* [[忠清南道 (日本統治時代)|忠清南道]]
 
* [[全羅北道 (日本統治時代)|全羅北道]]
 
* [[全羅南道 (日本統治時代)|全羅南道]]
 
* [[慶尚北道 (日本統治時代)|慶尚北道]]
 
* [[慶尚南道 (日本統治時代)|慶尚南道]]
 
* [[平安南道 (日本統治時代)|平安南道]]
 
* [[平安北道 (日本統治時代)|平安北道]]
 
* [[黄海道 (日本統治時代)|黄海道]]
 
* [[咸鏡南道 (日本統治時代)|咸鏡南道]]
 
* [[咸鏡北道 (日本統治時代)|咸鏡北道]]
 
 
 
また、これら13道の下には'''{{仮リンク|label=府|府 (朝鮮)|ja|日本統治時代の朝鮮の行政区画}}'''・[[郡#朝鮮の郡|'''郡''']]が置かれ、郡の下に'''[[邑 (朝鮮)|邑]]'''・'''[[面 (朝鮮)|面]]'''が置かれた。なお、13道は[[内地]]の[[都道府県#戦前の都庁府県|都庁府県]]に、府・邑・面は内地の市町村にそれぞれ相当する。
 
 
 
* 戦後、韓国では[[京畿道]]の一部がソウル特別市に、[[全羅南道]]の一部が済州道(後に[[済州特別自治道]]へ改組)に分離し、北朝鮮では[[咸鏡南道]]の一部が[[両江道]]に、[[平安北道]]の一部が[[慈江道]]に、[[黄海道]]が[[黄海南道|南]][[黄海北道|北]]に分離した。
 
 
 
==警察==
 
{{main|朝鮮総督府警察}}
 
[[1905年]](明治38年)11月、韓国統監府に警察を設置。[[1910年]](明治43年)7月、[[大韓帝国]]より警察権の全面委託を受け、中央に[[朝鮮総督府警務局|警務総監部]]、地方に警務部を置いた。このときに[[憲兵警察制度 (朝鮮総督府)|憲兵警察制度]]も採用した。一般警察と憲兵が同一の地域に混在していたわけではなく、[[フランス]]の[[フランス国家憲兵隊]](ジャンダルムリ)のように担当の地域が決まっていた。軍警の地域分担は、おおむね以下の通りであった。
 
* 一般警察 - 鉄道沿線、港、都市部
 
* 憲兵 - 軍事上枢要の地、国境、一般警察が整備されていない地域
 
 
 
[[1910年]](明治43年)8月韓国併合。この年、「憲兵警察」と「一般警察」を合わせた人数は、7712名(その内、朝鮮人は4440名)。うち「憲兵警察」は2019名(その内、憲兵補助員としての朝鮮人が1012名)であった<ref>水田直昌監修『統監府時代の財政』122頁</ref>。[[1915年]](大正4年)3月、中央の警務総監部直轄だった[[京城府]]の警察事務を京畿道警務部に移譲。[[1919年]](大正8年)3月、[[三・一運動]]が起こる。同年8月には警務総監部を廃止し、[[朝鮮総督府警務局|警務局]]を置く。地方の道に警察権を移譲し、道庁に警察部を置き、また、三・一運動後、朝鮮総督府の「武断統治」に批判が高まったこと、日本の警察制度としては異例の形態であったことから憲兵警察制度を廃止した。
 
 
 
警察組織や道知事職は三・一運動後人気が高まり、例えば1922年の巡査職の競争率は約2.1倍水準だったが、文化統治が本格化した1920年代中盤以後は競争率が10倍を上回った<ref>{{Cite news |title=일제 때 조선통독부는 선망의 직장(?) (日帝時代の朝鮮総督府は羨望の職場?)|newspaper=[[聯合ニュース]] |date=2009-05-14 |language={{ko icon}} |url=http://www.yonhapnews.co.kr/culture/2009/05/14/0906000000AKR20090514142000005.HTML |accessdate=2014-02-28}}</ref>。
 
 
 
[[1945年]](昭和20年)8月の終戦により、朝鮮総督府は解体され、朝鮮総督府警察は南北朝鮮の国家の警察に引き継がれた。
 
 
 
==軍事==
 
{| class="wikitable" align=right  style="margin:5px;"
 
|+'''朝鮮人志願兵'''<ref>水間政憲『朝日新聞が報道した「日韓併合」の真実』徳間書店 2010年。p182 ISBN 978-4-19-862990-8</ref>
 
|-
 
| 年次
 
| 志願者
 
| 合格者
 
| 志願倍率
 
|-
 
| 1938
 
| 2,946
 
| 406
 
| 7.3
 
|-
 
| 1939
 
| 12,348
 
| 613
 
| 20.1
 
|-
 
| 1940
 
| 84,443
 
| 3,060
 
| 27.6
 
|-
 
| 1941
 
| 144,743
 
| 3,208
 
| 45.1
 
|-
 
| 1942
 
| 254,273
 
| 4,077
 
| 62.4
 
|-
 
| 1943
 
| 303,394
 
| 6,300
 
| 48.2
 
|-
 
| 合計
 
| 799,201
 
| 17,664
 
| 45.2
 
|}
 
[[File:Park Chung-hee, Manchu Shinmun.jpg|thumb|200px|left|[[朴正煕]]小学校[[訓導]](後[[韓国大統領]])は年齢により採用条件不適合者であったが血書による志願書などを三度に渡り提出するなどして満州国士官学校に入校した。満洲新聞1933年3月31日付<ref>{{cite web
 
| url = http://www.hani.co.kr/arti/society/society_general/386107.html
 
| title = 일 육사 졸업 뒤 항일연합군 공격“임정 입장서 박정희는 적군 장교”민족문제연구소 ‘박정희 친일 행적’ 신문 공개
 
| publisher = [[ハンギョレ]]
 
| date = 2009-11-05
 
| accessdate = 2010-12-17
 
}}</ref>]]
 
{{see also|朝鮮人日本兵|朝鮮軍 (日本軍)|間島特設隊|満州国軍}}
 
 
 
[[日露戦争]]を機に[[大韓帝国]]に駐留した韓国駐剳軍(ちゅうさつぐん)を前身とし、[[明治]]43年([[1910年]])の[[韓国併合]]に伴い朝鮮駐剳軍に名称変更、[[大正]]7年([[1918年]])に朝鮮軍となった。[[司令部]]は当初漢城の城内に置かれたが、後に郊外の[[京城府]]龍山(現・[[ソウル特別市]][[龍山区 (ソウル特別市)|龍山区]])に移転した。
 
 
 
[[1937年]]に日中戦争が勃発すると、朝鮮人からも志願兵を募集<ref name=asahi370908/>市多くの朝鮮人がこれに応じた。実際に、[[1942年]]に行われた朝鮮出身者に対しての募兵では募集4,077名に対し、254,273名の朝鮮人志願兵が集まり、倍率は62.4倍に達した<ref name=ajirekiB20020312847/>。ほか軍属として戦地に赴いた者も存在した。1944年4月の法改正によって[[1944年]]9月からは朝鮮人にも徴兵が適用されたが、入営は1945年1月から7月の間に限られたため、訓練期間中に終戦を迎え、実戦に投入されることはなかった<ref name=mizuma2010-188/>。
 
 
 
[[昭和]]20年([[1945年]])2月、戦況逼迫に伴い[[第17方面軍 (日本軍)|第17方面軍]]が設けられ朝鮮軍は廃止されたため、管轄区域の朝鮮軍管区は第17方面軍司令部が兼ねた朝鮮軍管区司令部が管轄した。
 
 
 
{{節stub|統治時代に朝鮮に存在した軍事・警察組織についてまとめるための節}}
 
 
 
== 文化 ==
 
[[File:Korea Exhibition 1929.JPG|thumb|200px|[[朝鮮博覧会]]]]
 
;博覧会
 
1915年には[[始政五年記念朝鮮物産共進会]]、1929年には[[朝鮮博覧会]]が総督府主催で開催された。
 
 
 
;名産品
 
朝鮮の白菜、山七面鳥([[ノガン|野雁]])、金剛山の[[イワタケ|岩茸]]、光洲の林檎、大邱の梨が嘉物として評価されていた<ref name="bimi-kyushin">[http://books.google.co.jp/books?id=Ez_TgFhmKG4C&pg=frontcover 美味求真] 木下謙次郎 1925年</ref>。
 
 
 
また、白頭山特産のツルチュク([[クロマメノキ]])飲料水が高評価を得ていた。
 
 
 
;文学
 
{{see|朝鮮文学#開化期・日本統治時代}}
 
1920年には[[タクチ本]]が多数出版され、読書が朝鮮半島で大衆化・近代化する決定的な契機になった。
 
<ref>http://www.chosunonline.com/news/20100718000004</ref>
 
<ref>
 
http://www.chosunonline.com/news/20100718000005
 
</ref>
 
 
 
 
 
;映画
 
{{see|日本映画#朝鮮|日本統治時代の朝鮮の映画作品の一覧}}
 
 
 
; 演劇 舞踊 音楽
 
日本の影響で[[新派|新派劇]]や[[新劇]]が興った。舞踊では[[崔承喜]]が世界的に活躍した。音楽では日本の演歌と酷似した[[トロット]]が流行した<ref>[http://www.kovaent.jp/141260#17 "MBCスペシャル"終わっていない、終わらない私たちの人生の"トロット"]</ref><ref>[http://www.hani.co.kr/arti/culture/book/388885.html 민중 어르고 달랜 ‘뽕짝 80년사’]</ref>。
 
 
 
;美術
 
[[高羲東]]({{lang|ko|[[:ko:고희동]]}})や[[金観鎬]]({{lang|ko|김관호}})が日本に留学して洋画を学び、朝鮮に洋画をもたらした。朝鮮総督府が[[朝鮮美術展覧会]](鮮展)({{lang|ko|[[:ko:조선미술전람회]]}})を開催した。
 
 
 
;スポーツ
 
{{See|朝鮮のスポーツ}}
 
[[孫基禎]]が、ベルリンオリンピックのマラソンに日本代表として出場し、金メダルを獲得した。
 
 
 
; 放送
 
[[社団法人]][[朝鮮放送協会]]が日本語と朝鮮語の両方で[[ラジオ|ラジオ放送]]をしていた。
 
 
 
== 流行 ==
 
=== 名前 ===
 
内地の影響を受けて旧来の命名習慣が廃れていき、京城においては日本内地のように女性に「何子」と名づけるようなことが一般的となった<ref>[http://books.google.co.jp/books?id=b_AjVvczkAEC&printsec=frontcover 朝鮮の姓名氏族に関する研究調査] 朝鮮総督府中枢院 1934年</ref> ([[:ko:사미자|史美子]]、[[:ko:김명자|金明子]]、[[:ko:이경자 (1939년)|李敬子]]、[[:ko:이광자|李光子]]、[[:ko:이미자|李美子]]、[[:ko:이민자 (배우)|李民子]]など)。
 
 
 
=== 飲料 ===
 
[[大日本麦酒]]と地元資本の共同出資により朝鮮麦酒 (現[[ハイトビール]])が設立された。また、[[麒麟麦酒]]子会社として昭和麦酒 (現[[OBビール]])が設立された。朝鮮麦酒と昭和麦酒により、朝鮮でビールが普及した。
 
 
 
=== スパイ ===
 
北鮮の国境地帯では、[[豆満江]](図們江)を挟んで、日ソのスパイ戦が行われていた<ref>[http://books.google.co.jp/books?id=c2bQkL5GKrwC&pg=frontcover 大陸縦断] 山本実彦 1938年</ref>。
 
 
 
== 行楽地 ==
 
交通の発達によって、行楽地への関心が広まった<ref>[http://books.google.co.jp/books?id=wwsR-_-mRxgC&pg=frontcover 朝鮮旅行案内記] 朝鮮総督府鉄道局</ref>。
 
 
 
;花名所
 
{| width="1000px"
 
|- valign=top
 
|width="25%"|
 
* 東莢温泉
 
* 大邱 達城公園
 
* 水原 西湖付近 華虹門
 
* 京城 昌慶苑 奨忠壇
 
* 素砂 其付近
 
* 仁川 月尾島
 
* 開城 鉄道公園 彩霞洞
 
|width="25%"|
 
* 桂東 成佛寺
 
* 平壌 牡丹臺
 
* 義州 統軍亭
 
* 鎮南浦 三和花園
 
* 扶餘 其付近
 
* 群山 公園
 
|width="25%"|
 
* 長城 公園
 
* 木浦 儒達山
 
* 場山 市街一帯
 
* 鎮海 市街一帯
 
* 全州 吉野山
 
* 全南光州 公園
 
|width="25%"|
 
* 東村 其付近
 
* 蔚山 鶴城公園
 
* 倉洞 牛耳洞
 
* 元山 市街一帯
 
* 会文 駅付近
 
* 松興温泉
 
|}
 
;海水浴場
 
{| width="1000px"
 
|- valign=top
 
|width="25%"|
 
* 釜山 松島
 
* 水営
 
* 海雲臺
 
* 仙川 月尾島
 
|width="25%"|
 
* 木浦 儒達ヶ浦 外達島
 
* 馬山
 
* 鎮海 千代ヶ濱
 
* 浦項
 
|width="25%"|
 
* 松田
 
* 元山 葛麻半島 松濤園
 
* 西湖津
 
* 夢金浦
 
|width="25%"|
 
* 九味浦
 
* 大川 軍入里
 
* 熊川 武昌浦
 
|}
 
;水郷
 
{| width="1000px"
 
|- valign=top
 
|width="25%"|
 
* 新灘津 錦江岸
 
* 梅浦 錦江岸
 
|width="25%"|
 
* 安養プール
 
* 東林 瀑布 薬水
 
|width="25%"|
 
* 白馬 三橋川
 
* 東村 駅付近
 
|width="25%"|
 
* 三防峽 瀑布 薬水
 
* 釋王寺 薬水
 
|}
 
;新緑と紅葉の名所
 
{| width="1000px"
 
|- valign=top
 
|width="25%"|
 
* 霊驚山
 
* 金井山
 
* 伽倻山
 
* 俗離山
 
* 鶏龍山
 
* 冠岳山
 
|width="25%"|
 
* 天魔山
 
* 牡丹臺
 
* 白馬山
 
* 妙香山
 
* 内蔵山
 
|width="25%"|
 
* 白羊寺
 
* 邊山
 
* 智異山
 
* 金剛山
 
* 道峯山望月寺
 
|width="25%"|
 
* 逍遥山
 
* 三防峽
 
* 釋王寺
 
* 七宝山
 
* 長壽山
 
|}
 
;温泉
 
{| width="1000px"
 
|- valign=top
 
|width="25%"|
 
* 海雲臺温泉
 
* 平山温泉
 
* 龍岡温泉
 
* 陽徳温泉
 
* 馬金山温泉
 
|width="25%"|
 
* 金剛山温井里温泉
 
* 業億温泉
 
* 松興温泉
 
* 朱乙温泉
 
|width="25%"|
 
* 湯陽温泉
 
* 白川温泉
 
* 延安温泉
 
* 信川温泉
 
|width="25%"|
 
* 三泉温泉
 
* 松禾温泉
 
* 安岳温泉
 
* 達泉温泉
 
|}
 
;登山
 
{| width="1000px"
 
|- valign=top
 
|width="25%"|
 
* [[鶏龍山]]
 
* [[冠岳山]]
 
* [[北漢山]]
 
* [[天魔山]]
 
|width="25%"|
 
* [[妙香山]]
 
* [[内蔵山]]
 
* [[智異山]]
 
* [[金剛山_(朝鮮)|金剛山]]
 
|width="25%"|
 
* [[逍遥山]]
 
* [[七宝山]]
 
* [[長壽山]]
 
|width="25%"|
 
* [[白頭山]]
 
* [[冠帽山]]
 
* [[道峯山]]
 
|}
 
;スキー場
 
{| width="1000px"
 
|- valign=top
 
|width="25%"|
 
* 三防スキー場
 
* 外金剛スキー場
 
|width="25%"|
 
* 元山新豊里スキー場
 
* 川内里スキー場
 
|width="25%"|
 
* 旺場スキー場
 
* 城津スキー場
 
|width="25%"|
 
|}
 
;キャンプ場
 
{| width="1000px"
 
|- valign=top
 
|width="25%"|
 
* 海雲臺
 
* 智異山
 
* 天魔山麓
 
|width="25%"|
 
* 長壽山
 
* 逍遥山
 
|width="25%"|
 
* 三防
 
* 元山
 
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* 松田
 
* 金剛山
 
|}
 
 
 
== 評価 ==
 
{{Main|韓国併合#評価と争点}}
 
 
 
日本統治時代の朝鮮における日本の役割については、日本と韓国、北朝鮮の間で[[歴史認識]]論争となっている。
 
 
 
== 年表 ==
 
=== 日本統治前 ===
 
* 1860年 - ([[オランダ領東インド]]の問題を描いた小説「マックス・ハーフェラール」がオランダで出版される。英語版は1868年、日本語版(朝倉純孝訳)は1942年2月に出版されている。)
 
* 1862年 - (フランスの植民地[[サイゴン]]でフランス語のみが公用語化され、漢字の代わりにラテン文字を元にした[[クオック・グー]]の導入も開始、1887年の[[フランス領インドシナ]]成立後も続く)
 
* 1876年 - [[日朝修好条規]]締結、[[釜山港]]開港
 
* 1878年6月 - [[第一銀行|第一国立銀行]]が釜山浦支店を開設<ref name="open-50th">[http://books.google.co.jp/books?id=SuOKVgCOVr0C&pg=frontcover 開国五十年史] [[大隈重信]]</ref>
 
* 1879年8月 - 釜山[[商法会議所]]設立、1893年1月に釜山港日本商業会議所へと改名、1908年に釜山商業会議所へと改名<ref name="shougyou"/>
 
* 1880年5月 - 日朝修好条規に基づき[[元山港]]開港
 
* 1880年5月 - 第一国立銀行が元山に出張所を開設<ref name="open-50th"/>
 
* 1880年5月23日 - 元山に総領事館を開設<ref name="shougyou"/>
 
* 1881年1月14日 - 元山に港会議所を設立、10月23日に居留民総代役所と商法会議所に分かれる。商法会議所は1891年に在元山日本人商業会議所へと改名、1893年に元山日本人商業会議所へと改名<ref name="shougyou"/>
 
* 1882年8月30日 - [[日朝修好条規続約]]締結、日本の公使館員が朝鮮各地に行けるようになり、その後、特命全権公使と韓国外部大臣の交渉によって開市場や居住地を広げていく。
 
* 1883年1月 - 日朝修好条規に基づき[[仁川港]]開港、仁川日本人商業会議所設立<ref name="shougyou"/>
 
* 1883年3月 - 日朝間海底線敷設に関する条約を締結<ref>[http://books.google.co.jp/books?id=nLbLlhjBhEYC&pg=frontcover 第四十四回逓信省年報: 昭和六年度] 逓信省 1933年</ref>
 
* 1883年11月 - 第一国立銀行が仁川に出張所を開設、1888年には支店に<ref name="open-50th"/>。
 
* 1883年 - 第一国立銀行が釜山・元山・仁川で海関税収納事務の取扱を開始<ref name="open-50th"/>
 
* 1886年 - ([[イギリス領インド帝国]]で後期中等教育開始)
 
* 1887年2月 - 在留邦人によって京城に商業議会が設立され、1892年4月に京城日本人商業会議所へと改名<ref name="shougyou">[http://books.google.co.jp/books?id=hBKH-TVUyhgC&printsec=frontcover 日本商業会議所之過去及現在] [[商業会議所連合会]]</ref>
 
* 1888年 - 第一国立銀行が京城に出張所を開設
 
* 1890年9月12日 - [[商業会議所]]条例が公布される (朝鮮内の商業会議所もこの条例に準じた定款で領事の許可を得て設立している<ref name="shougyou"/>)
 
* 1891年 - 帝国生命保険(現[[朝日生命保険]])が釜山に代理店を設置
 
* 1894年 - [[甲午農民戦争]](東学党の乱)が発生、政府軍と[[褓負商]]の商兵<ref name="sasha-to-usha"/>が東学軍と戦う
 
* 1896年 - 第一国立銀行が第一銀行になる。
 
* 1899年6月 - [[仁川米豆取引所]]設立
 
* 1900年 - 平壌日本人商話会設立するも1904年に解散、1907年に平壌日本人商業会議所設立するも1909年に解散、1911年に平壌実業協会設立<ref name="shougyou"/>
 
* 1901年 - ([[オランダ領東インド]]で倫理政策が始まる)
 
* 1902年 - 釜山に日本商品陳列所設立<ref name="shougyou"/>
 
* 1902年 - 在鮮日本人商業会議所を統合して、[[商業会議所朝鮮総合会]]設立<ref name="shougyou"/>
 
* 1902年 - 第一銀行が[[日本銀行券]]に交換可能な第一銀行券を発行開始
 
* 1904年 - 釜山に商品陳列館建設<ref name="shougyou"/>
 
* 1905年 - 第一銀行券が韓国政府公認となる
 
* 1905年 - 朝鮮人によって[[京城商業会議所]]設立<ref name="shougyou"/>
 
* 1905年5月28日 - [[京釜線|京釜鉄道]]開通式
 
* 1905年11月17日 - [[第二次日韓協約]](乙巳保護条約)締結
 
* 1906年 - 釜山で[[日韓博覧会]]開催<ref name="shougyou"/>
 
* 1906年2月1日 - [[韓国統監府]]設置
 
* 1906年12月7日 - 大邱日本人商業会議所設立、1910年9月に[[大邱商業会議所]]へと改名<ref name="shougyou"/>
 
* 1907年6月25日 - [[ハーグ密使事件]]
 
* 1907年7月20日 - [[高宗 (朝鮮王)|高宗]]退位、[[純宗 (朝鮮王)|純宗]]即位。翌年にかけて[[日本軍]]は[[反日義勇軍]]1万4千人との1,774回の戦闘を行った<!--<ref>『国史大辞典』第3巻、吉川弘文館1984年P.813臼井勝美「韓国併合」の項。</ref>-->。
 
* 1907年8月1日 - 韓国軍解散
 
* 1908年4月1日 - [[韓国標準時]]制定
 
* 1908年10月 - 仁川に朝鮮人商業会議所が設立される<ref name="shougyou"/>
 
* 1908年9月 - 朝鮮皇室博物館(現[[韓国国立中央博物館]])設立
 
* 1908年12月18日 - [[東洋拓殖|東洋拓殖会社]]設立
 
* 1909年7月6日 - 日本、[[韓国併合]]方針を閣議決定
 
* 1909年10月 - 韓国銀行条例に基づき韓国銀行設立、第一銀行の中央銀行業務を引き継ぎ、金貨と日本銀行券に交換可能な韓国銀行券発行
 
* 1909年10月26日 - [[ハルビン]]で[[伊藤博文]]が[[暗殺]]される
 
* 1909年12月4日 - 韓国の[[一進会]]より「[[韓日合邦を要求する声明書]]」の上奏文が提出される
 
* 1910年3月14日 - 土地調査事業開始
 
* 1910年6月30日 - 憲兵警察制度発足
 
 
 
=== 日本統治時代 ===
 
* 1910年8月22日 - [[韓国併合ニ関スル条約]](日韓併合条約)調印
 
* 1910年8月29日 - 朝鮮総督府設置
 
* 1911年 - 朝鮮銀行法に基づき、韓国銀行が[[朝鮮銀行]]に。
 
* 1911年5月1日 - 褓負商本部が設立される<ref name="sasha-to-usha"/>
 
* 1911年8月23日 - 第一次朝鮮教育令。国語を日本語にする。
 
* 1912年1月1日 - [[標準時]]を韓国標準時から[[日本標準時]]に変更
 
* 1912年4月 - [[普通学校用諺文綴字法]]が確定
 
* 1914年3月1日 - 地方行政区画改正(府・郡・面制)
 
* 1915年10月1日 - [[朝鮮商業会議所令]]施行、各地の日本人の商業会議所と朝鮮人の商業会議所が合併されていく。
 
* 1915年12月1日 - 朝鮮皇室博物館が朝鮮総督府博物館に改名
 
* 1916年11月 - [[親日団体]]の[[大正親睦会]]が設立される
 
* 1918年9月19日 - 第一回[[朝鮮商業会議所総合会]]開催
 
* 1919年1月21日 - 高宗死去
 
* 1919年3月1日 - [[三・一独立運動]]。褓負商復興の機会として、褓負商団(商務研究会、総商社、総商協会、商務社)が鎮圧に協力<ref name="sasha-to-usha">[http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10070786&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1 朝鮮雑記 左社と右社 長風山人] 台湾日日新報 1934年9月6日-1934年9月7日</ref>。
 
* 1919年8月12日 - 斎藤実、第3代総督に就任
 
* 1919年8月20日 - 憲兵警察制度廃止
 
* 1919年10月5日 - [[金性洙]]、[[京紡|京城紡織株式会社]]設立
 
* 1920年3月5日 - [[朝鮮日報]]創刊
 
* 1920年4月1日 - [[東亜日報]]創刊
 
* 1920年5月 - [[京城株式現物取引市場]](京取市場)設立、8月15日より開業
 
* 1920年6月4日:朝鮮半島初の大衆浴場が平壌で開業<ref>[https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180604-00000000-yonh-kr 今日の歴史(6月4日)]</ref>
 
* 1920年12月27日 - 総督府、[[朝鮮産米増殖計画|産米増殖計画]]立案
 
* 1921年 - [[朝鮮産業調査委員会]]設置
 
* 1922年5月 - 第1回[[朝鮮美術展覧会]]開催
 
* 1925年4月 - 朝鮮総督府図書館開設 (現[[韓国国立中央図書館]])
 
* 1926年4月1日 - [[京城帝国大学]]開設
 
* 1927年2月16日 - [[社団法人]][[朝鮮放送協会|京城放送局]]、[[ラジオ|ラジオ放送]]開始
 
* 1927年5月2日 - 朝鮮窒素株式会社設立
 
* 1928年1月 - [[商工会議所法]]施行
 
* 1929年9月12日 [[朝鮮博覧会]]開催 ( - 10月31日)
 
* 1929年10月 - ([[世界恐慌]])
 
* 1929年11月3日 - [[光州学生事件]]( - 1930年3月)
 
* 1930年5月30日 - [[間島共産党暴動]]
 
* 1930年 - [[諺文綴字法]]制定
 
* 1931年1月8日 - [[韓人愛国団|愛国団]]員・[[李奉昌]]、[[東京市|東京]]で[[昭和天皇|天皇]]暗殺未遂事件([[桜田門事件]])
 
* 1931年4月29日 - 愛国団員・[[尹奉吉]]、上海爆弾テロ事件([[上海天長節爆弾事件]])
 
* 1931年7月2日 - [[万宝山事件]]
 
* 1931年7月3日 - [[朝鮮排華事件]]
 
* 1931年9月18日 - [[満州事変]]勃発
 
* 1931年11月2日 - [[朝鮮取引所令]]施行、仁川米豆取引所と京城株式現物取引市場が合併して[[朝鮮取引所]]に。
 
* 1932年 - 朝鮮総督府が農村の[[自力更生運動]]を唱道<ref>[http://books.google.co.jp/books?id=oYjSOIlWgq0C&pg=frontcover 施政二十五年史] 1935年10月1日 朝鮮総督府</ref>
 
* 1932年 - 朝鮮総督府が[[北鮮開拓事業]]に着手
 
* 1932年4月7日 - 社団法人京城放送局、社団法人朝鮮放送協会に改組
 
* 1932年7月21日 - [[新興満蒙博覧会]]が京城府で開催 ( - 9月8日)
 
* 1933年5月13日 - [[朝鮮産業懇談会]]開催 ( - 14日)
 
* 1934年7月1日 - [[石油業法]]施行
 
* 1935年6月25日 - [[朝鮮石油]]設立
 
* 1935年4月20日 - [[朝鮮産業博覧会]]開催 ( - 6月10日)
 
* 1936年 - [[鮮満拓殖]]設立
 
* 1936年8月9日 - [[孫基禎]]、[[ベルリンオリンピック]][[マラソン]]で優勝
 
* 1937年 - 朝鮮重工業(現[[韓進重工業]])設立
 
* 1937年 - [[水豊ダム]]建設開始
 
* 1937年6月1日 - [[金日成]]、[[普天堡の戦い|普天堡襲撃事件]]を起こす
 
* 1937年7月7日 - [[日中戦争]]勃発
 
* 1937年10月2日 - 「皇国臣民の誓詞」制定。
 
* 1938年2月26日 - [[志願兵|陸軍特別志願令]]公布
 
* 1938年3月4日 - 朝鮮教育令改正、[[朝鮮語]]の授業必須から外れる
 
* 1940年2月11日 - [[創氏改名]]実施
 
* 1940年8月 - [[朝鮮映画令]]施行
 
* 1941年3月31日 - [[国民学校]]規定改正、朝鮮語の授業廃止
 
* 1941年12月8日 - [[太平洋戦争]]勃発
 
* 1942年10月1日 - 朝鮮語学会事件
 
* 1944年4月1日 - 第1回徴兵検査開始
 
* 1944年8月23日 - [[女子挺身隊]]勤労令公布
 
* 1945年8月9日 - [[ソビエト連邦|ソ連]]対日参戦、[[豆満江]]を越える。
 
* 1945年8月13日 - [[ソビエト連邦軍|ソ連軍]]、[[清津市|清津府]]を[[占領]]。(実質的に日本の統治から外れた最初の街)
 
* 1945年8月15日 - 日本政府、[[ポツダム宣言]]受諾。[[呂運亨]]、[[朝鮮建国準備委員会]](建準)結成
 
* 1945年8月21日 - ソ連軍、[[平壌|平壌府]]進駐
 
* 1945年8月25日 - [[アメリカ軍]]、[[仁川広域市|仁川府]]上陸
 
* 1945年9月2日 - 日本政府、[[降伏文書]](休戦協定)に調印
 
* 1945年9月6日 - 呂運亨らは[[朝鮮人民共和国]]の樹立を宣言
 
* 1945年9月7日 - アメリカ極東軍司令部、朝鮮における[[占領行政|軍政]]を宣言(即時独立否認)
 
* 1945年9月9日 - 総督府、降伏文書に調印<ref>[http://japanese.yonhapnews.co.kr/misc/2009/08/17/9000000000AJP20090817002700882.HTML 今日の歴史(9月9日)] 聯合ニュース 2009/09/09 </ref>。
 
 
 
== 京城首都化計画説 ==
 
元韓国国土開発研究院長[[金儀遠]]は、日本政府が朝鮮人を満洲に追放して[[ソウル特別市|ソウル]]を日本の首都することが決められており、そのために朝鮮半島を開発したのであると、自身が発見したとする古文書を根拠に韓国[[中央日報]]で発表している<ref name=iten>[http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=116468&servcode=A00&sectcode=A10 「日本は朝鮮人を満州に追い出して韓半島に住もうとした」] 中央日報 2009.06.10</ref>。金によると、日本は1943年の国土計画[[中央計画素案]]で、京城府、日本の岡山、福岡の3カ所を大東亜圏の首都移転候補地に決めたとしている<ref name=iten/>。
 
 
 
日本の[[国土地理院]]はこの中央計画素案は地域格差の是正、国土防衛を兼ねて産業と人口の大都市集中をさける配慮がなされていたと評価している<ref name=kokudo>[http://www.gsi.go.jp/atlas/archive/j-atlas-kokudo-d_j_00_2.pdf 国土計画・地域計画の歩み 1.戦前の国土計画][国土地理院</ref>。中央計画素案は昭和18年の[[国土計画策定要綱]]で勧められたが、日米関係の悪化などの事情で計画はもっぱら緊急不可欠の課題にのみ対応され、昭和17年大東亜国土計画大綱素案、昭和20年戦時国土計画素案が立案されたが[[閣議決定]]はなされず、以降終戦まで国土計画は中止された<ref name=kokudo/>。
 
 
 
また当時の日本政府は、朝鮮人が日本内地に密航して治安を悪化させている状況を打開するために、朝鮮半島の開発に力を入れていたことが閣議決定文書で明らかにされている<ref name=M2006090419432107004&/><ref name=txt00103/>。
 
 
 
== 日本統治時代の朝鮮を舞台にした作品 ==
 
;映画
 
* [[将軍の息子]] 三部作(1990年 - 1992年)
 
* [[愛の黙示録]](1997年)
 
* [[ロスト・メモリーズ]](2002年) - 21世紀の現代も日本統治が続いている設定の作品。
 
* [[マイウェイ 12,000キロの真実]](2011年)
 
* [[道〜白磁の人〜]](2012年)
 
* [[暗殺 (2015年の映画)|暗殺]](2015年)
 
* [[お嬢さん (2016年の映画)|お嬢さん]](2016年)
 
* [[ラスト・プリンセス 大韓帝国最後の皇女]](2016年)
 
* [[密偵 (映画)|密偵]](2016年)
 
;テレビドラマ
 
* [[野人時代]](2002年)
 
* [[砂漠の泉]](2003年)
 
* [[虹を架ける王妃]](2006年)
 
* [[京城スキャンダル]](2007年)
 
;演劇
 
* [[ソウル市民]]三部作(1989年 - 2006年)
 
;小説
 
* 梶山季之著川村湊編『李朝残影―梶山季之朝鮮小説集』インパクト出版会 2002年10月ISBN 978-4755401268
 
* ヨーコ・カワシマ・ワトキンス 著&監訳『[[竹林はるか遠く-日本人少女ヨーコの戦争体験記]]』 都竹恵子 翻訳、ハート出版、2013年7月19日。ISBN 978-4-89295-921-9。
 
 
 
== 脚注 ==
 
{{脚注ヘルプ}}
 
{{Reflist}}
 
 
 
== 参考文献 ==
 
* {{Citebook|和書|author=阿部洋|authorlink=阿部洋|others=|year=1971|month=7|title=「日本統治下朝鮮の高等教育-京城帝国大学と民立大学設立運動を巡って」|publisher=『思想』565号|isbn=}}
 
* {{Citebook|和書|author=李榮薫|authorlink=李榮薫|others=[[永島広紀]]訳|year=2009|month=3|title=大韓民国の物語 韓国の「国史」教科書を書き換えよ|publisher=文藝春秋|isbn=978-4-16-370310-7}}
 
* {{Citebook|和書|author=井上薫|authorlink=井上薫|others=|year=1997|month=6|title=「[http://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/bitstream/2115/29532/1/73_P105-153.pdf 日本統治下末期の朝鮮における日本語普及・強制政策]」|publisher=北海道大学教育学部紀要|isbn=}}
 
* {{Citebook|和書|author=カーター・J・エッカート|authorlink=カーター・J・エッカート|others=[[小谷まさ代]]訳|year=2004|month=1|title=日本帝国の申し子 高敞の金一族と韓国資本主義の植民地起源1876-1945|publisher=草思社|isbn=978-4-7942-1275-7}}
 
* {{Citebook|和書|editor=[[岡本達明]]・[[松崎次夫]]編|year=1990|month=7|title=植民地は天国だった|series=聞書水俣民衆史|volume=第5巻|publisher=草風館|isbn=}}
 
** {{Citebook|和書|editor=岡本達明・松崎次夫編|year=1997|month=2|title=植民地は天国だった|edition=2版|series=聞書水俣民衆史|volume=第5巻|publisher=草風館|isbn=4-88323-034-1}}
 
* {{Citebook|和書|author=糟谷憲一|authorlink=糟谷憲一|year=1996|month=12|title=朝鮮の近代|series=世界史リブレット 43|publisher=山川出版社|isbn=4-634-34430-0}}
 
* {{Citebook|和書|author=ブルース・カミングス|authorlink=ブルース・カミングス|others=[[横田安司]]・[[小林知子]]訳|year=2003|month=10|title=現代朝鮮の歴史 世界のなかの朝鮮|publisher=明石書店|isbn=4-7503-1794-2}}
 
* {{Citebook|和書|author=姜在彦|authorlink=姜在彦|year=1983|month=2|title=日本による朝鮮支配の40年|series=朝日カルチャーブックス 17|publisher=大阪書籍|isbn=4-7548-1017-1}}
 
** {{Citebook|和書|author=姜在彦|authorlink=姜在彦|year=1992|month=9|title=日本による朝鮮支配の40年|series=朝日文庫|publisher=朝日新聞社|isbn=4-02-260724-6}}
 
* {{Citebook|和書|author=姜在彦|authorlink=姜在彦|year=1987|month=2|title=朝鮮の歴史と文化|series=朝日カルチャーブックス 72|publisher=大阪書籍|isbn=4-7548-1072-4}}
 
** {{Citebook|和書|author=姜在彦|authorlink=姜在彦|year=1993|month=3|title=朝鮮の歴史と文化|edition=新版|publisher=明石書店|isbn=4-7503-0490-5}}
 
* {{Citebook|和書|author=姜徳相|authorlink=姜徳相|year=2002|month=6|title=朝鮮三・一独立運動|series=呂運亨評伝 1|publisher=新幹社|isbn=4-88400-024-2}}
 
* {{Citebook|和書|editor=[[姜徳相]]編|year=1972|title=朝鮮 4 独立運動 2|series=現代史資料 28|publisher=みすず書房|isbn=}}
 
** {{Citebook|和書|editor=姜徳相編|year=2004|month=8|title=朝鮮 4 独立運動 2|series=現代史資料 28|publisher=みすず書房|isbn=4-622-06128-7}} - 1989年刊(第5刷)を原本とした[[オンデマンド印刷|オンデマンド版]]。
 
*{{Citebook|和書|author=金完燮|authorlink=金完燮|others=[[荒木和博]]・[[荒木信子]]訳|year=2002|month=7|title=親日派のための弁明|publisher=草思社|isbn=4-7942-1152-X}}
 
** {{Citebook|和書|author=金完燮|authorlink=金完燮|others=荒木和博・荒木信子監修・訳、[[星野知美]]訳|year=2004|month=11|title=親日派のための弁明|series=扶桑社文庫|publisher=扶桑社|isbn=4-594-04833-1}}
 
* {{Citebook|和書|author=黄文雄|authorlink=黄文雄 (評論家)|year=1998|month=8|title=歪められた朝鮮総督府 だれが「近代化」を教えたか|series=カッパ・ブックス|publisher=光文社|isbn=4-334-00634-5}}
 
** {{Citebook|和書|author=黄文雄|authorlink=黄文雄 (評論家)|year=2006|month=9|title=朝鮮半島を救った日韓併合 いつまで彼らは"被害者"を続けるのか|series=徳間文庫|publisher=徳間書店|isbn=4-334-00634-5}} - 「歪められた朝鮮総督府」(光文社1998年刊)の改題。
 
* {{Citebook|和書|author=國分麻里|authorlink=國分麻里|others=|year=2011|month=01|title=植民地期朝鮮の歴史教育―「朝鮮事歴」の教授をめぐって|publisher=新幹社|isbn=978-4884000936}}
 
* {{Citebook|和書|author=佐野通夫|authorlink=佐野通夫|year=2006|month=2|title=日本植民地教育の展開と朝鮮民衆の対応|publisher=社会評論社|isbn=978-4-7845-0288-2}}
 
* {{Citebook|和書|author=杉本幹夫|authorlink=杉本幹夫|year=2002|month=6|title=「植民地朝鮮」の研究 日本支配36年 謝罪するいわれは何もない|publisher=展転社|isbn=4-88656-214-0}}
 
* {{Citebook|和書|author=高橋哲哉|authorlink=高橋哲哉|year=2001|month=1|title=歴史/修正主義|series=思考のフロンティア|publisher=岩波書店|isbn=4-00-026434-6}}
 
* {{Citebook|和書|author=多田井喜生|authorlink=多田井喜生|others=|year=1997|month=|title=大陸に渡った円の興亡(上下)|publisher=東洋経済新報社|isbn=}}
 
* {{Citebook|和書|author=多田井喜生|authorlink=多田井喜生|others=|year=2002|month=|title=朝鮮銀行 - ある円通貨圏の興亡|publisher=PHP研究所〈PHP新書〉|isbn=}}
 
* {{Citebook|和書|others=[[田中宏 (経済学者)|田中宏]]・[[板垣竜太]]編|year=2007|month=1|title=日韓新たな始まりのための20章|publisher=岩波書店|isbn=978-4-00-024244-8}}
 
* {{Citebook|和書|author=崔基鎬|authorlink=崔基鎬|year=2001|month=11|title=韓国堕落の2000年史 日本に大差をつけられた理由|publisher=祥伝社|isbn=4-396-61135-8}}
 
** {{Citebook|和書|author=崔基鎬|authorlink=崔基鎬|year=2006|month=6|title=韓国堕落の2000年史 日本に大差をつけられた理由|series=祥伝社黄金文庫|publisher=祥伝社|isbn=4-396-31407-8}}
 
* {{Citebook|和書|editor=朝鮮史研究会編|year=1995|month=2|title=朝鮮の歴史|edition=新版|publisher=三省堂|isbn=4-385-35469-3}}
 
* {{Citebook|和書|editor=[[朝鮮総督府]]編|year=1944|month=3|title=朝鮮総督府統計年報|volume=昭和17年|publisher=朝鮮総督府|isbn=}}
 
* {{Citebook|和書|author=朝鮮總督府農林局|authorlink=朝鮮總督府|year=1935|month=2|title=米穀關係法規・朝鮮米穀要覧|publisher=朝鮮總督府農林局|url=http://opac.ndl.go.jp/recordid/000003545801/jpn}}
 
* {{Citebook|和書|editor=朝鮮駐箚軍司令部編|year=|month=|title=朝鮮暴徒討伐誌|publisher=山本栄一|url=http://opac.ndl.go.jp/recordid/000001082979/jpn}}
 
* {{Citebook|和書|author=中野正剛|authorlink=中野正剛|year=1915|title=我が観たる満鮮|publisher=政教社|url={{近代デジタルライブラリーURL|43022064}}}}
 
** [[中野正剛]]「我が観たる満鮮」、{{Citebook|和書|others=[[小島晋治]]監修|year=1999|month=4|title=大正中国見聞録集成|volume=第1巻|publisher=ゆまに書房|isbn=4-89714-665-8|url=http://opac.ndl.go.jp/recordid/000002786684/jpn}}
 
* {{Citebook|和書|author=中村哲|authorlink=中村哲|others=|year=2000|month=10|title=近代東アジア史像の再構成|publisher=桜井書店|isbn=}}
 
* {{Citebook|和書|editor=[[名越二荒之助]]編著|year=1997|month=7|title=日韓2000年の真実 写真400枚が語る両国民へのメッセージ |publisher=国際企画|isbn=4-916029-12-7}}
 
** {{Citebook|和書|editor=名越二荒之助編著|year=2002|month=5|title=日韓共鳴二千年史 これを読めば韓国も日本も好きになる|publisher=明成社|isbn=4-944219-11-3}} - 「日韓2000年の真実」(国際企画1997年刊)の改題。
 
* {{Citebook|和書|author=朴泰赫|authorlink=朴泰赫|year=1993|month=3|title=醜い韓国人 われわれは「日帝支配」を叫びすぎる|series=カッパ・ブックス|publisher=光文社|isbn=4-334-00532-2}}
 
* {{Citebook|和書|author=朴泰赫|authorlink=朴泰赫|coauthors=[[加瀬英明]]|year=1995|month=3|title=醜い韓国人 歴史検証編 これは本当のことではないのか|series=カッパ・ブックス|publisher=光文社|isbn=4-334-01296-5}}
 
* [[水田直昌]]「統監府時代の財政」監修、{{Citebook|和書|editor=友邦協会編|year=2000|month=12|title=朝鮮近代史料研究|series=友邦シリーズ|volume=第2巻(財政)|publisher=クレス出版|isbn=4-87733-121-2}}
 
* {{Citebook|和書|editor=[[水野直樹]]・[[藤永壯]]・[[駒込武]]編|year=2001|month=11|title=日本の植民地支配 肯定・賛美論を検証する|series=岩波ブックレット no.552|publisher=岩波書店|isbn=4-00-009252-9}}
 
*  {{Citebook|和書|author=朴贊雄|authorlink=|coauthors=|year=2010|month=8|title=日本統治時代を肯定的に理解する 韓国の一知識人の回想|series=|publisher=[[草思社]]|isbn=978-4794217752}}
 
* {{Citebook|和書|author=水間政憲|authorlink=水間政憲|year=2010|month=7|title=朝日新聞が報道した「日韓併合」の真実 韓国が主張する「七奪」は日本の「七恩」だった|publisher=徳間書店 |isbn=978-4-19-862990-8}}
 
* {{Citebook|和書|author=宮田節子 |authorlink=宮田節子 |year=1985|month=7|title=朝鮮民衆と「皇民化」政策|series=朝鮮近代史研究双書 2|publisher=未来社|isbn=978-4-624-42017-8}}
 
* {{Citebook|和書|author=安田敏朗|authorlink=安田敏朗|year=1998|month=8|title=植民地のなかの「国語学」|edition=新装版|publisher=三元社|isbn=4-88303-040-7}}
 
* [[山下達也 (教育学者)|山下達也]]「植民地朝鮮における「内地人」教員の多様性――招聘教員と朝鮮で養成された教員の特徴とその関係―」、{{Citebook|和書|year=2007|month=10|title=日本の教育史学|series=教育史学会紀要 50|publisher=教育史学会|isbn=978-4-906194-24-7}}
 
* {{Citebook|和書|author=山本有造|authorlink=山本有造|year=1992|month=2|title=日本植民地経済史研究|publisher=名古屋大学出版会|isbn=4-8158-0174-}}
 
* {{Citebook|和書|editor=[[吉田光男]]編著|year=2004|month=3|title=韓国朝鮮の歴史と社会|series=放送大学教材 2004|publisher=放送大学教育振興会|isbn=4-595-23759-6}}
 
*「初期韓国教会の民族教会的性格」李徳周(翻訳常石希望)(愛知大学言語と文化No.16 2007年)[http://leo.aichi-u.ac.jp/~goken/bulletin/pdfs/No16/09TsuneishiN.pdf][http://leo.aichi-u.ac.jp/~goken/bulletin/pdfs/NO17/TsuneishiN.pdf][http://leo.aichi-u.ac.jp/~goken/bulletin/pdfs/NO18/08TsuneishiN.pdf]
 
*「日本統治下末期の朝鮮における日本語普及・強制政策」井上薫(北海道大学教育学部紀要1997.6)[http://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/bitstream/2115/29532/1/73_P105-153.pdf]
 
*「植民地朝鮮における朝鮮総督府の観光政策」李良姫(北東アジア研究第13号2007年3月 島根県立大学北東アジア地域研究センター)[http://www.u-shimane.ac.jp/36near/41kenkyu/file/13_09_lee.pdf][http://ci.nii.ac.jp/naid/40015705574/]
 
*「日本植民地研究の回顧と展望:朝鮮史を中心に」板垣竜太、戸邉秀明、水谷智(同志社大学社会科学2010.8)[http://ci.nii.ac.jp/naid/110007645004][http://doors.doshisha.ac.jp/webopac/bdyview.do?bodyid=TB12054580&elmid=Body&lfname=007000880002.pdf&loginflg=on]
 
* {{Citebook|和書|author=申明直 |translator=[[岸井紀子]]、[[古田富建]] |year=2005|month=7|title= 幻想と絶望〜漫文漫画で読み解く日本統治時代の京城 |series= |volume=|publisher=[[東洋経済新報社]]|isbn=978-4492061398}}
 
 
 
== 関連項目 ==
 
{{Commonscat|Korea under Japanese rule}}
 
{{Colbegin}}
 
* [[朝鮮の歴史観]]
 
* [[朝鮮総督府]]
 
* [[京城府]]
 
* [[武断統治]]
 
* [[朝鮮総督府警察]]
 
* [[憲兵警察制度 (朝鮮総督府)]]
 
* [[朝鮮人日本兵]]
 
* [[朝鮮銀行]]
 
* [[朝鮮放送協会]]
 
* [[韓国併合]]
 
* [[国家神道]]-[[朝鮮神宮]]
 
* [[日本の慰安婦]]
 
* [[3・1独立運動]]-[[提岩里事件]]
 
* [[光復節 (韓国)|光復節]]
 
* [[皇民化教育]]
 
* [[植民地]]
 
* [[日本統治時代]]
 
* [[日本統治時代の台湾]]
 
* [[日本語に由来する日本国外の地名一覧]]
 
* [[親日派のための弁明]]
 
* [[チンイルパ]]
 
* [[反日]]
 
* [[嫌韓]]
 
* [[李栄薫]]
 
* [[万国公法]]
 
{{Colend}}
 
 
 
== 外部リンク ==
 
*「韓国国有林における伐出・育林事業の展開過程に関する史的研究」白乙善(北海道大学農学部演習林研究報告1990-02)[http://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/bitstream/2115/21313/1/47(1)_P1-70.pdf]
 
*「戦前朝鮮の地場銀行と特殊金融機関」金珍奎(大分大学経済論集 56巻第6号)[http://ir.lib.oita-u.ac.jp/dspace/bitstream/10559/6929/1/53-6-1.pdf]
 
*[http://www.travelfilmarchive.com/item.php?id=11943 1930年代のソウル]Travel Film Archive
 
*[https://archive.org/stream/faceofmanchuriak00kemp#page/67 The Face of Korea] - 日本統治数日前から朝鮮を旅したエミリー・ケンプの滞在記
 
{{朝鮮}}
 
{{先代次代|[[朝鮮の歴史]]|1910年 - 1945年|[[大韓帝国]]|[[連合軍軍政期 (朝鮮史)|連合軍軍政期]]}}
 
 
 
{{DEFAULTSORT:にほんとうちしたいのちようせん}}
 
[[Category:日本統治時代の朝鮮|*]]
 

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