「日本国との平和条約」の版間の差分

提供: miniwiki
移動先:案内検索
(1版 をインポートしました)
(内容を「 '''日本国との平和条約'''(にっぽんこくとのへいわじょうやく、{{Lang-en-short|Treaty of Peace with Japan}}、昭和27年条約第5号) サン...」で置換)
(タグ: Replaced)
 
1行目: 1行目:
{{Pathnav|第二次世界大戦|frame=1}}
 
{{条約
 
|題名 =日本国との平和条約
 
|画像 =Yoshida signs San Francisco Peace Treaty.jpg
 
|画像キャプション =日本国との平和条約に署名する[[吉田茂]]首席全権と全権委員<ref group="注釈">[[池田勇人]](蔵相)、[[苫米地義三]](国民民主党)、[[星島二郎]](自由党)、[[徳川宗敬]](参議院緑風会)、[[一万田尚登]](日銀総裁)。</ref>
 
| image_width        = 280px
 
|通称 =「サンフランシスコ条約」など
 
|起草 =
 
|署名 =1951年9月8日<br>([[アメリカ合衆国]]・[[カリフォルニア州]]<br>[[サンフランシスコ|サン・フランシスコ市]])
 
|効力発生 =1952年4月28日
 
|寄託者 =[[アメリカ合衆国連邦政府|アメリカ合衆国政府]]
 
|番号 =昭和27年条約第5号
 
|言語 =[[英語]]<br>[[フランス語]]<br>[[スペイン語]]<br>[[日本語]]
 
|内容 =[[第二次世界大戦]]における[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]と[[日本]]の間の平和条約
 
|関連 =
 
|ウィキソース =日本国との平和条約
 
|リンク =[http://www.geocities.jp/nakanolib/joyaku/js27-5.htm 中野文庫]
 
}}
 
{{Wikisource|日本国との平和条約}}
 
  
'''日本国との平和条約'''(にっぽんこくとのへいわじょうやく、{{Lang-en-short|Treaty of Peace with Japan}}、昭和27年条約第5号)は、[[第二次世界大戦]]における[[アメリカ合衆国]]をはじめとする[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]諸国と[[日本]]との間の戦争状態を終結させるために締結された[[平和条約]]。この条約を[[批准]]した連合国は日本国の[[主権]]を承認した<ref group="注釈">第1条(b)</ref>。[[国際法]]上はこの条約の発効により日本と、多くの連合国との間の「[[戦争|戦争状態]]」が終結した。連合国構成国である[[ソビエト連邦]]は会議に出席したが条約に署名しなかった。連合国構成国の植民地継承国である[[インドネシア]]は会議に出席し条約に署名したが、議会の批准はされなかった。連合国構成国である[[中華民国]]および連合国構成国の植民地継承国である[[インド]]は会議に出席しなかった。その後、日本はインドネシア、中華民国、インドとの間で個別に講和条約を締結・批准している。
+
'''日本国との平和条約'''(にっぽんこくとのへいわじょうやく、{{Lang-en-short|Treaty of Peace with Japan}}、昭和27年条約第5号)
  
本条約はアメリカ合衆国の[[サンフランシスコ|サンフランシスコ市]]において署名されたことから、'''サンフランシスコ条約'''、'''サンフランシスコ平和条約'''、'''サンフランシスコ講和条約'''などともいう。[[1951年]](昭和26年)[[9月8日]]に[[全権委員]]によって署名され、同日、[[日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約]]も署名された。翌年の[[1952年]](昭和27年)[[4月28日]]に発効するとともに「昭和27年条約第5号」として[[公布]]された。
+
サンフランシスコ講和条約,対日平和条約ともいう。第2次世界大戦の戦争状態を終結し,国交を回復するため,日本とアメリカ,イギリスなど 48ヵ国との間に締結された条約。 1951年9月8日サンフランシスコで署名され,52年4月 28日に発効した。前文および 27ヵ条から成り,ほかに若干の諸国との議定書,国際条約への加入および戦死者の墳墓に関する2つの単独宣言が付属している。領土処理については,朝鮮の独立承認,台湾,澎湖諸島,千島列島,南樺太,新南群島に対する日本の一切の権利,権原および請求権の放棄,南太平洋旧委任統治諸島をアメリカを単独施政権者とする信託統治のもとにおく旨の協定の承認,琉球,小笠原諸島を信託統治地域とすることの予定およびアメリカによる施政権行使ならびに日本による残存 (潜在) 主権の保持などを規定している。賠償については,日本の債務履行能力に限界があることの是認,在外日本資産の差押え,留置,精算あるいは役務賠償の原則の確定,日本の相手締約国に対する請求権の一切の放棄を規定した ([[対日賠償問題]] ) 。また安全保障については,日本が[[国連憲章]]第 51条の個別的,集団的自衛権を有することの是認などを定めている。中国代表権については,アメリカ,イギリス間で意見が一致せず,中華民国も中華人民共和国も会議に招請されなかった。 ([[第2次世界大戦講和条約]] )
  
== 正文 ==
+
{{テンプレート:20180815sk}}
この条約の後文には「千九百五十一年九月八日にサン・フランシスコ市で、ひとしく[[正文]]である[[英語]]、[[フランス語]]及び[[スペイン語]]により、並びに[[日本語]]により作成した」との一文があり、日本語版は正文に準じる扱いとなっている<ref group="注釈">日本語では「及び」と「並びに」の違いがわかりにくいが、英文では明解で“{{lang|en|DONE at the city of San Francisco this eighth day of September 1951, in the English, French, and Spanish languages, '''all being equally authentic''', and in the Japanese language}}”(太字編者)となっている。この太字の文言が「ひとしく正文である」にあたり、仮に日本語も正文だとするとこの部分は文章の最後にくることになる。</ref>。これは当時[[国際連合|国連]][[公用語]]だった英語・フランス語・スペイン語・[[ロシア語]]・[[中国語]]の5カ国語<ref group="注釈">アラビア語が国連公用語に加わるのは後になってからのことである。</ref>のうち[[ソビエト連邦]]と[[中華民国]]がこの条約には加わらなかったことからロシア語版と中国語版が作成されなかったことによるもので、また日本語が加えられているのは当事国であるためである。日本では外務省に英文を和訳させ、これを正文に準ずるものとして締約国の承認を得たうえで条約に調印した。現在条約締結国に保管されている条約認証謄本は日本語版を含む4カ国語のものである。
+
   
 
 
== 内容 ==
 
[[ファイル:Kowa sakurano hi.jpg|thumb|230px|講和桜之碑(東京都大田区下丸子)]]
 
* 日本と連合国との[[戦争]]状態の終了(第1条(a))
 
* 日本国民の主権の回復(第1条(b))
 
 
 
=== 領土の放棄または信託統治への移管 ===
 
{{See also|カイロ宣言}}
 
* [[朝鮮]]の独立を承認。済洲島、巨文島及び欝陵島を含む朝鮮に対する全ての[[権利]]、[[権原]]及び[[請求権]]の放棄(第2条(a))
 
* [[台湾]]・[[澎湖諸島]]の権利、権限及び請求権の放棄(第2条(b))
 
* [[千島列島]]・[[樺太|南樺太]]の権利、権限及び請求権の放棄(第2条(c))
 
* [[国際連盟]]からの[[委任統治]]領であった[[南洋諸島]]の権利、権限及び請求権の放棄。同諸島を[[国際連合]]の[[信託統治]]領とする1947年4月2日の[[国際連合安全保障理事会]]決議を承認(第2条(d))
 
* [[南極]]([[大和雪原]]など)の権利、権限及び請求権の放棄(第2条(e))
 
* [[南沙諸島|新南群島]](スプラトリー諸島)・[[西沙諸島|西沙群島]](パラセル諸島)の権利、権原及び請求権の放棄(第2条(f))
 
* [[南西諸島]](北緯29度以南。[[琉球諸島]]・[[大東諸島]]など)・南方諸島([[孀婦岩]]より南。[[小笠原諸島]]・[[西之島]]・[[火山列島]])・[[沖ノ鳥島]]・[[南鳥島]]をアメリカ合衆国の信託統治領とする同国の提案があればこれに同意(第3条)
 
 
 
=== 戦前の国際協定に基づく権利等の放棄 ===
 
* [[サンジェルマン条約]]、[[ローザンヌ条約]]及び[[モントルー条約]]に基づく[[ボスポラス海峡]]・[[マルマラ海]]・[[ダーダネルス海峡]]に関する権利及び利益の放棄(第8条(a))
 
* [[ヤング案]]に基づく諸協定や[[国際決済銀行]]条約など、[[第一次世界大戦]]の[[連合国 (第一次世界大戦)|連合国]]として有していた対[[ヴァイマル共和政|ドイツ]]賠償に関わる権利、権原及び利益の放棄(第8条(a))
 
* [[北京議定書]](付属書、書簡、文書含む)の廃棄。同議定書に由来する利得及び特権を含む中国における全ての特殊の権利及び利益を放棄(第10条)
 
 
 
=== 国際協定の受諾 ===
 
* [[世界人権宣言]]の実現に向けた努力(前文)
 
* [[国際連合憲章]]第2条に掲げる義務を受諾(第5条(a))
 
:「主権平等」「国際紛争の平和的解決」「領土問題と独立問題の平和的解決」「国連の強制行動への支援、強制行動対象国への支援の自粛」「非加盟国が原則に従って行動することの保証」「憲章が負わせる義務の履行」「加盟国の国内問題への不干渉(但し[[枢軸国]]へのそれを除く)」の7大原則に従うことを指す
 
* [[第二次世界大戦]]([[ポーランド侵攻]]を受けてイギリスとフランスが[[ドイツ国]]に宣戦した[[1939年]][[9月1日]]を開戦日と本条約では定義する)を終了させるために現に締結されもしくは将来締結される条約、連合国が平和の回復またはこれに関連して行う取極の完全な効力を承認(第8条(a))
 
* 国際連盟及び[[常設国際司法裁判所]]を廃止するための取極を受諾(第8条(a))
 
* [[極東国際軍事裁判|極東国際軍事裁判所]]並びに日本国内及び国外の他の連合国戦争犯罪法廷(例として南京軍事法廷、[[ニュルンベルク裁判]])の判決を受諾(第11条)
 
 
 
=== 賠償 ===
 
* 日本が行うべき賠償は役務賠償のみとし、賠償額は個別交渉する(第14条(a)1 など)
 
* 日本の[[商標]]・文学的及び美術的[[著作権]]は連合国各国の一般的事情が許す限り日本に有利に取り扱う(第14条(a)2-III-v)
 
* 連合国は、連合国の全ての賠償請求権、戦争の遂行中に日本国及びその国民がとった行動から生じた連合国及びその国民の他の請求権、占領の直接軍事費に関する連合国の請求権を放棄(第14条(b))
 
 
 
=== 安全保障 ===
 
* 連合国は、日本が主権国として国連憲章第51条に掲げる個別的自衛権または[[集団的自衛権]]を有すること、日本が集団的安全保障取り決めを自発的に締結できることを承認(第5条(c))
 
 
 
=== その他 ===
 
* 連合国日本占領軍は本条約効力発生後90日以内に日本から撤退。'''ただし日本を一方の当事者とする別途二国間協定または多国間協定により駐留・駐屯する場合はこの限りではない'''<ref group="注釈">アメリカはこれにより[[日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約]]、[[日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約]]を締結して[[在日米軍]]を駐留させ現在に至る。</ref>(第6条(a))
 
* 連合国は、本条約効力発生後1年以内に、戦前に日本と結んだ二国間条約・協約を引き続いて有効としまたは復活させることを希望するかを日本に通告。通告された条約・協約は、通告日の3ヶ月後に、本条約に適合させるための必要な修正を受け、国際連合事務局に登録された上で有効または復活する。通告がなされなかった対日条約・協約は廃棄される(第7条(a))
 
* 日本は、占領期間中に、占領当局の指令に基き、もしくはその結果として行われ、または当時の日本の法律によって許可された全ての作為または不作為の効力を承認。前述の作為又は不作為を理由として連合国民を民事責任または刑事責任に問わない(第19条(d))
 
* 日本は、連合国による在日[[ナチス・ドイツ|ドイツ]]財産処分のために必要な措置を取り、財産の最終的処分が行われるまでその保存・管理に責任を負う(第20条)
 
 
 
== 条約解釈と諸問題 ==
 
=== 領土 ===
 
ポツダム宣言の8項([[カイロ宣言]]は履行されるべきこと)を受けて規定された条項である。日本には[[領域 (国家)|領土]]の範囲を定めた一般的な国内法が存在せず、本条約の第2条が領土に関する[[法 (法学)|法規範]]の一部になると解されている。国際法的には、「日本の全ての権利、権原及び請求権の放棄」とは、処分権を連合国に与えることへの日本の同意であると[[イアン・ブラウンリー]]は解釈している<ref>[[#ブラウンリー1992|ブラウンリー 1992]], p. 121</ref>。例えば台湾は、連合国が与えられた処分権を行使しなかったため条約後の主権は不確定とし、他国の黙認により中国の請求権が凝固する可能性を指摘している<ref>[[#ブラウンリー1992|ブラウンリー 1992]], p. 100</ref>。
 
 
 
==== 竹島問題 ====
 
[[竹島 (島根県)|竹島]]の扱いについては草案から最終版までに下記の変遷を辿っている<ref>[http://en.wikisource.org/wiki/Draft_Treaty_of_Peace_With_Japan Wikisourceの竹島に関するサンフランシスコ平和条約草案の変遷(英語)]参照。</ref>。
 
* '''1947年3月19日版以降''' 日本は[[済州島]]、[[巨文島]]、[[鬱陵島]]、[[竹島 (島根県)|竹島]]の4島を放棄すること。
 
** 1949年11月14日、アメリカ駐日政治顧問[[ウィリアム・ジョセフ・シーボルド]]による竹島再考の勧告。「これらの島への日本の主張は古く、正当なものと思われる。そして多分そこにアメリカの気象観測所やレーダー基地を設置することもできるようだから安保的に望ましいことだ。」<ref>{{Cite book|author=United States Department of State|title=Foreign relations of the United States, 1949. The Far East and Australasia (in two parts)|url=http://digicoll.library.wisc.edu/cgi-bin/FRUS/FRUS-idx?type=turn&entity=FRUS.FRUS1949v07p2.p0314&id=FRUS.FRUS1949v07p2&isize=M|year=1976|volume=Volume VII, Part 2|pages=pp. 898-900|language=英語}}([[アメリカ合衆国国務省]]『合衆国の外交関係:1949年』―「極東とオーストララシア」、1976年)</ref>
 
* '''1949年12月29日版以降''' 日本は済州島、巨文島、及び、鬱陵島を放棄すること。日本の保有領土の項に竹島を明記。
 
* '''1951年6月14日版以降''' 日本は済州島、巨文島、及び、鬱陵島を放棄すること。(日本の保有領土の項は無くなる)
 
** 1951年7月19日、韓国政府、日本が済州島、巨文島、鬱陵島、竹島 (韓国名:独島 )、及び、[[波浪島]]を放棄すること条約に盛り込むことを求める<ref group="注釈">独島と波浪島の位置について問われた韓国大使は「大体鬱陵島の近くで日本海にある小島である」と返答。(しかしその後の米調査では「ワシントンの総力を挙げた」("{{lang|en|tried all resources in Washington}}") にも関わらず、これらの島を発見することはできなかった。その後、独島については竹島に同定されることになったが、波浪島は現在に至るまで発見されていない。)[[ジョン・フォスター・ダレス|ダレス]]米大使はこれらの島が日本の併合前から韓国の領土であったかと尋ねたところ、韓国大使はこれを肯定、ダレスはもしそうであればこれらの島を日本の放棄領土とし韓国領とするに問題はないと答えた。</ref>。
 
* '''1951年9月8日版(最終版)''' 日本は済州島、巨文島、及び、鬱陵島を放棄すること。
 
 
 
==== 沖ノ鳥島に関する記述 ====
 
この条約においては、沖ノ鳥島の存在、取り扱いについて明記されている。
 
==== 北方領土問題 ====
 
{{See|北方領土問題}}
 
第二章第二条(c)において日本が放棄した[[千島列島]]の範囲について、特に[[南千島]]([[択捉島]]、[[国後島]])を含むかどうかに解釈上の争いがある。
 
 
 
=== 「外地人」の日本国籍喪失 ===
 
{{Main|在日韓国・朝鮮人|平和条約国籍離脱者}}
 
条約に基づき領土の範囲が変更される場合は当該条約中に[[国籍]]の変動に関する条項が入ることが多いが、本条約には明文がない。しかし、国籍や[[戸籍]]の処理に関する指針を明らかにした[[1952年]](昭和27年)[[4月19日]][[法務府]]民事局長通達・民事甲第438号「平和条約の発効に伴う朝鮮人台湾人等に関する国籍及び戸籍事務の処理について」により本条約第2条(a)(b)の解釈として朝鮮人及び台湾人は日本国籍を失うとの解釈が示された。[[昭和]]36年の[[最高裁判所 (日本)|最高裁判所]]判決でも同旨の解釈を採用した<ref>[http://www.courts.go.jp/app/hanrei_jp/detail2?id=53529 最大判昭和36年4月5日民集15巻4号657頁]</ref>。もっとも、台湾人の国籍喪失時期については本条約ではなく[[日本国と中華民国との間の平和条約|日華平和条約]]の発効時とするのが最高裁判例である<ref>[http://www.courts.go.jp/app/hanrei_jp/detail2?id=56979 最大判昭和37年12月5日刑集16巻12号1661頁]</ref>。
 
 
 
=== 東京裁判の受諾問題 ===
 
{{See|日本国との平和条約第11条の解釈|東京裁判}}
 
[[東京裁判]]の「受諾」について書かれた11条について議論が行われている<ref>日暮吉延『東京裁判』講談社現代新書,2008年</ref>。
 
 
 
=== 著作権保護期間の戦時加算 ===
 
戦時中は連合国・連合国民の有する[[著作権]]の日本国内における保護が十分ではなかったとの趣旨から、本条約第15条(c)の規定に基づき[[連合国及び連合国民の著作権の特例に関する法律]]が制定され、[[著作権法]]に規定されている保護期間に関する特例が設けられている<ref>[[戦時加算 (著作権法)]]</ref>。
 
 
 
== 経緯 ==
 
=== 冷戦と朝鮮戦争 ===
 
[[第二次世界大戦]]終結後、ソ連とアメリカは対立するようになり、[[冷戦]]構造が戦後の国際社会で形成されてゆく。中国大陸では[[中国国民党|国民党]]政権と[[中国共産党|共産党]]政権が対立し、[[国共内戦|内戦]]に発展した。内戦中、ソ連は中国共産党政権を支援した。1949年9月末の時点で、共産党政権は、中華民国(国民党政権)が主張する領域のうち、[[チベット]]と[[新疆省]]を除く大陸部を占領した。1949年10月に北平(今の[[北京]])において共産党政権は[[中華人民共和国]]の建国を宣言し、12月に国民党政権は台湾に移った。
 
 
 
その後、[[1950年]]に[[朝鮮戦争]]が勃発した。ソ連と中国共産党政権は[[北朝鮮]]を支援し、アメリカ、イギリスなどは[[大韓民国]]を支援した。こうした背景があり、ソ連とアメリカの関係は悪化し、連合国構成国間の講和条約締結にむけた交渉は混迷した。最終的にソ連の代表は講和会議に出席したものの講和条約には署名しなかった。中華民国(国民党政権)および共産党政権の代表は招待されなかった。
 
 
 
=== 単独講和と全面講和論 ===
 
こうした国際情勢を受けて日本国内では、アメリカとの'''単独講和'''と、[[第二次世界大戦]]当時の日本の交戦国でありかつ連合国であったソ連や中華民国(国民党政権)も締結すべきとする'''全面講和'''論とが対立した<ref name="ito">伊藤祐子「[http://www.asia-u.ac.jp/kokusai/Kiyou.files/pdf.files/11-1/11-1-5.pdf 日米安保体制の50年-日米安全保障政策と日本の安全保障観の変容]」[[亜細亜大学]]国際関係紀要第11巻第1号,2001年</ref>。
 
 
 
単独講和とは[[自由主義]]([[資本主義]])国家陣営に属し、またアメリカとの二国間軍事同盟を締結して[[アメリカ軍]]部隊のみ「[[在日米軍]]」とし駐留を引き続き維持させる立場。実際には52国が講和条約に参加しており、そのため'''多数講和'''または'''部分講和'''ともいわれる<ref name="iwabun"/>。この他、片方の陣営とのみ講和を結ぶという立場から'''片面講和'''という言い方もある<ref>[http://www.jicl.jp/now/jiji/backnumber/1951.html 1951年 サンフランシスコ講和条約・日米安全保障条約の調印](法学館憲法研究所)</ref>。
 
 
 
全面講和論は自由主義と[[共産主義]]国家の[[冷戦]]構造のなかで中立の立場をとろうとするもの。いずれもソ連と中国を含むか含まないかが争点となった<ref name="turu">都留重人「講和と平和」『世界』1951年10月号</ref>。全面講和論者の[[都留重人]]は、単独講和とは、共産主義陣営を[[仮想敵国]]とした日米軍事協定にほかならないとしている<ref name="turu"/>。
 
 
 
[[内閣総理大臣]][[吉田茂]]は'''単独講和'''を主張していたが、これに対して[[1946年]]3月に[[貴族院 (日本)|貴族院]]議員となっていた[[南原繁]]([[東京帝国大学]]教授)がソビエト連邦などを含む'''全面講和論'''を掲げ、論争となった。また[[日本共産党]]、[[労働者農民党]]らは[[全面講和愛国運動協議会]]を結成、[[日本社会党|社会党]]も全面講和の立場をとった。南原は1949年12月にはアメリカのワシントンでの米占領地教育会議でも国際社会が自由主義陣営と共産主義陣営に二分していることから将来の戦争の可能性に言及しながら、日本は「厳正なる中立」を保つべきとする全面講和論を主張した<ref name="iwabun"/>。1950年4月15日には南原繁、[[出隆]]、[[末川博]]、[[上原専禄]]、[[大内兵衛]]、[[戒能通孝]]、[[丸山真男]]、[[清水幾太郎]]、[[都留重人]]らが[[平和問題談話会]]を結成し、雑誌『[[世界 (雑誌)|世界]]』([[岩波書店]])1950年3月号<ref name="ito"/>などで全面講和論の論陣を組んだ<ref>[http://kotobank.jp/word/%E5%85%A8%E9%9D%A2%E8%AC%9B%E5%92%8C%E6%84%9B%E5%9B%BD%E9%81%8B%E5%8B%95%E5%8D%94%E8%AD%B0%E4%BC%9A KOTOBANK全面講和愛国運動協議会]([[世界大百科事典]])、[[日立ソリューションズ]]。</ref><ref>『岩波書店と文藝春秋』(毎日新聞社1995年)p52-57.</ref>。
 
 
 
こうした全面講和論に対して1950年5月3日の[[自由党 (日本 1950-1955)|自由党]]両院議員秘密総会において吉田茂首相は「[[永世中立国|永世中立]]とか全面講和などということは、云うべくして到底行なわれないこと」で、「それを南原総長などが政治家の領域に立ち入ってかれこれ言う事は曲学阿世<ref group="注釈">[[訓読]]文では「学を曲げ世に阿る」、つまり「世間に迎合するため、学問的真理を曲げる」という意味</ref>の徒に他ならない」と批判した<ref name="yosida">[http://www.c20.jp/1950/05yosid.html クリック20世紀「吉田首相、南原東大総長の全面講和論を「曲学阿世」論と非難」] 2013年1月27日閲覧。[[信夫清三郎]]『戦後日本政治史Ⅳ』[[勁草書房]],p.1112</ref><ref name="iwabun">『岩波書店と文藝春秋』(毎日新聞社1995年)p64-68</ref>。南原は吉田の批判に対して「学者にたいする権力的弾圧以外のものではない」「官僚的独善」と応じ<ref name="iwabun"/>、「全面講和は国民の何人もが欲するところ」と主張した<ref name="yosida"/>。当時、自由党幹事長だった[[佐藤栄作]]は、南原にたいし「党は政治的観点から現実的な問題として講和問題をとりあげているのであって」「ゾウゲの塔(象牙の塔)にある南原氏が政治的表現をするのは日本にとってむしろ有害である」と応じた<ref name="yosida"/>。また[[小泉信三]]は、単独講和を米軍による占領継続よりも優るとして「米ソ対立という厳しい国際情勢下において、真空状態をつくらないことが平和擁護のためにもっとも肝要」であり、全面講和論はむしろ占領の継続を主張することになると批判し、単独講和を擁護した<ref name="ito"/><ref>『[[文藝春秋]]』1952年1月号</ref>。他に[[津田左右吉]]は、平和を脅かす本源はソ連であると述べており、[[田中美知太郎]]は、安心していい講和など考えるほうがどうかしているとして「小生は悲憤慷慨の仲間入りをする気はしません」と述べている<ref>{{Cite |和書 |author=[[竹内洋]]|title=革新幻想の戦後史 |date=2011 |publisher=[[中央公論新社]]|isbn=9784120043000|ref={{Harvid|竹内洋|2011}}}}p86</ref>。
 
 
 
『[[世界 (雑誌)|世界]]』=平和問題談話会は、「講和問題についての平和問題談話会声明」で、単独講和に反対、全面講和を主張したが、『[[朝日新聞]]』が1950年9月下旬におこなった世論調査(「講和と日本再武装」、1950年11月15日掲載)は、
 
* 単独講和=45.6%
 
* 全面講和=21.4%
 
* わからない=33.0%
 
単独講和支持が、全面講和支持の2倍以上であり、社会党支持者でも全面講和支持が32%に対して、単独講和支持が53%もいる。全面講和は一般世論はもちろん社会党支持者でも支持されていない<ref>{{Cite |和書 |author=[[竹内洋]]|title=革新幻想の戦後史 |date=2011 |publisher=[[中央公論新社]]|isbn=9784120043000|ref={{Harvid|竹内洋|2011}}}}p100</ref>。
 
 
 
=== アメリカとの事前交渉 ===
 
[[1950年]][[6月21日]]から27日にかけて国務長官顧問の[[ジョン・フォスター・ダレス]]が来日した<ref name="yosida"/>。また[[1951年]][[1月29日]]には吉田・ダレス会談が行われている<ref>「[http://www.ioc.u-tokyo.ac.jp/~worldjpn/ 講和問題に関する吉田茂首相とダレス米大使会談,日本側記録]」東大東洋文化研究所田中明彦研究室「サンフランシスコ平和会議関連資料集」所収。原資料は外務省、[[外交史料館]]所蔵。</ref>。
 
 
 
吉田は[[朝鮮戦争]]勃発を講和の好機到来と直感し、秘密裏に外務省の一部に講和条約のたたき台を作らせていた。更に表向きは経済交渉という触れ込みで[[池田勇人]]を訪米させ、この講和条約案を直接アメリカ国務省と国防省の高官に内示することにより、講和促進を図ったことが明らかになっている<ref group="注釈">この時の池田訪米に秘書官として同行した[[宮澤喜一]]の述懐による。</ref>。
 
 
 
=== 講和会議への招請 ===
 
[[1951年]](昭和26年)[[7月20日]]、[[アメリカ合衆国|米]][[イギリス|英]]共同で日本を含む全50ヶ国に招請状を発送した。[[8月22日]]、[[フランス]]の要求を容れ[[インドシナ]]三国([[ベトナム国|ベトナム]]、[[ラオス]]、[[カンボジア]])にも招請状が発送された。連合国構成国の中華民国(中国国民党政権)、それと対立する中国共産党政権の両代表は招請されなかった(後述)。
 
 
 
==== 非参加国 ====
 
インド、[[ビルマ]]、[[ユーゴスラビア]]は招請に応じず、講和会議に参加しなかった。[[インド]]首相の[[ジャワハルラール・ネルー]]は、条約に外国軍の駐留事項を除外すること、日本が千島列島や[[樺太]]の一部をソ連に、[[澎湖諸島]]や台湾を中国に譲渡する必要があること、沖縄や小笠原諸島の占領継続などを理由に、日本に他の国と等しく名誉と自由が与えられていないとして、不参加を決めたとされる<ref name="ner">{{Cite journal|和書|author=[[中村麗衣]]|title=日印平和条約とインド外交|url=http://ci.nii.ac.jp/naid/110006607658|format=PDF|journal=史論|publisher=東京女子大学学会史学研究室 / 東京女子大学史学研究室|year=2003|issue=56|naid=110007411152|pages=pp.56-73}}</ref>。
 
 
 
==== 中華民国・中国共産党政権 ====
 
[[蒋介石]]率いる[[中華民国]]は[[第二次世界大戦]]中[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]の一員として日本と戦い勝利に貢献した。しかし条約締結当時、中華民国と[[中華人民共和国|中国共産党政権]]は内戦状態にあり、{{要出典|いずれを代表政権にするかついては米英の意見が一致しなかった。アメリカは中華民国のみを国家として承認していたため中華民国のみの参加を主張した。それに対してイギリスは、当時中華民国との国交を維持しながらも中華人民共和国を「承認」しており、中華人民共和国の参加も主張した。一方また[[1950年]][[6月25日]]から発生した[[朝鮮戦争]]において中華人民共和国と[[ソ連]]は[[北朝鮮]]を支援し、英米韓などの連合軍と交戦状態にあった(朝鮮戦争は[[1953年]][[7月27日]]に[[休戦]])。結局、日中間の講和については独立後の日本自身の選択に任せることにして「中国」の招請は見送られた。|date=2016年9月}}
 
 
 
講和会議直前の[[1951年]][[8月15日]]に、中国共産党政権の[[周恩来]]外相はサンフランシスコ平和会議開催に対し批判する声明を発表した。対日平和条約の内容が[[連合国共同宣言]]、[[カイロ宣言]]、[[ヤルタ協定]]、[[ポツダム宣言]]、降伏後の対日基本政策などの国際協定にいちじるしく違反しているとし、同条約がソ連を抜きにして米英側で決められたこと、中国共産党政権も講和会議に参加する権利があることを主張した<ref>[http://www.ioc.u-tokyo.ac.jp/~worldjpn/ 「対日講和問題に関する周恩来中国外相の声明」] 東京大学東洋文化研究所田中明彦研究室「サンフランシスコ平和会議関連資料集」所収。外務省アジア局中国課監修「日中関係基本資料集」p19-25.</ref>。
 
 
 
==== 韓国の参加要求と拒否 ====
 
[[大韓民国]]は、「署名国」としての参加を度々表明し、一時は署名国リストにも掲載されていたが、当時の[[大韓帝国]]は日本に併合され、[[大韓民国臨時政府]]を承認した国も存在せず、また他の[[亡命政府]]のような「大韓民国臨時政府」の指揮下にある軍も存在しておらず、日本と交戦していなかったため招請されなかった。
 
韓国が「講和条約署名国としての資格がある」とアメリカ側へ訴え、これを受けて[[1949年]](昭和24年)[[12月3日]]、駐韓アメリカ大使[[ジョン・ジョセフ・ムチオ]]は、中国国民党軍の朝鮮人部隊、[[大韓民国臨時政府]]の存在、「韓国を署名国にすれば非現実的な対日請求要求を諦めさせることができること」等を理由に韓国の参加をアメリカ国務省に要請した。これを受けて[[1949年]](昭和24年)12月29日の条約草案では、韓国が締結国のリストに一旦加えられた。
 
 
 
日本政府としては、「在日朝鮮人を連合国民として扱わないことが保証されるならば、韓国の条約の署名への反対に固執しない」と[[ジョン・フォスター・ダレス]]国務長官補に述べた<ref>[[:s:韓国政府の要求に対する1951年5月9日付米国側検討意見書]], 4. 在日韓国人は連合国国民の地位を与えられるべき.</ref>。[[1950年]][[6月25日]]に[[朝鮮戦争]]が勃発し英米も参戦するなか、[[1951年]](昭和26年)5月の米英協議等において、第二次世界大戦において韓国が日本と戦争をしていなかったことを理由に、イギリスが韓国の条約署名に反対した。イギリスの方針表明を受けて、アメリカも大戦中に韓国臨時政府を承認したことがないことから方針は変更された。
 
 
 
[[1949年]][[1月7日]]、韓国の[[李承晩]]政権は[[対馬]]領有を宣言し、日本に対馬返還を要求した<ref>[http://japanese.yonhapnews.co.kr/headline/2009/01/07/0200000000AJP20081222003300882.HTML 今日の歴史(1月7日)] [[聯合ニュース]] 2009/01/07</ref>。さらに[[李承晩]]
 
[[1951年]](昭和26年)7月9日、ダレス国務長官補は韓国大使との会談で「韓国は日本と戦争状態にあったことはなく、[[連合国共同宣言]]にも署名していない」ことを理由に、韓国は講和条約署名国となれないことを再度正式に通知した。
 
 
 
この会談で、韓国側は日本の在朝鮮半島資産の韓国政府および[[在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁|米軍政庁]]への移管、[[竹島 (島根県)|竹島]]・[[波浪島]]の韓国領編入、[[マッカーサー・ライン]]の継続などを記した要望書を提出したうえで「十分な信頼と信任により平和を愛する世界の国々との機構への日本人の受け入れに反対する」と、日本を国際社会に復帰させようとする対日講和条約締結に反対した<ref>[[wikisource:ja:1951年7月19日付エモンズによる会談覚書|エモンズによる会談覚書]]、および[[竹島問題外交交渉史]]参照。</ref>。これに対しアメリカは[[1951年]][[8月10日]]に[[ラスク書簡]]で最終回答を行い、在朝鮮半島の日本資産の移管についてのみ認め、韓国のほかの要求を拒否した。
 
 
 
しかしこの通知後も韓国は「署名国」としての地位の要求を継続した。これに対してダレスは、[[1951年]](昭和26年)[[8月22日]]に韓国大使の署名要求を再度拒否するとともに、講和会議へのオブザーバー資格での参加も拒否した。ただ「非公式の参加は可能」<ref>「非公式に代表を送るのであれば宿泊や会場入場等の便宜をはかる」との回答。塚本1992</ref>と回答した<ref>{{Cite book
 
|author=United States Department of State
 
|title=United States Department of State / Foreign relations of the United States, 1951. Asia and the Pacific (in two parts)
 
|year=1951
 
|volume=VI, Part 1
 
|pages=p. 1296
 
|url=http://digital.library.wisc.edu/1711.dl/FRUS.FRUS1951v06p1
 
}}</ref><ref>{{Cite book|和書
 
|author=[[塚本孝]]
 
|title=レファレンス
 
|year=1992
 
|month=3
 
|publisher=国立国会図書館調査立法考査局
 
|volume=494
 
|pages=pp. 95-101
 
|chapter=韓国の対日平和条約署名問題
 
}}</ref>。
 
 
 
=== 講和会議と条約調印 ===
 
[[9月4日]]から[[9月8日|8日]]にかけて、サンフランシスコ市の中心街にあるオペラハウス({{仮リンク|ウォーメモリアル・オペラ・ハウス|en|War Memorial Opera House}}<ref group="注釈">なお「{{lang|en|War Memorial}}」は「戦没者追悼記念」ではなく、正確には「[[第一次世界大戦]]従軍兵記念」を意味する。また日本語での一般的な表記は現地・日本ともに「サンフランシスコ・オペラハウス」「ウォーメモリアル・オペラハウス」または単に「オペラハウス」。</ref>)において全52カ国の代表が参加して講和会議が開催された。
 
 
 
日本の全権団は首席全権の[[吉田茂]]([[内閣総理大臣|首相]])、全権委員の[[池田勇人]](蔵相)・[[苫米地義三]]([[国民民主党 (日本 1950-1952)|国民民主党]]最高委員長)・[[星島二郎]]([[自由党 (日本 1950-1955)|自由党]]常任総務)・[[徳川宗敬]](参議院[[緑風会]]議員総会議長)・[[一万田尚登]]([[日本銀行|日銀]]総裁)の6人。吉田はできるだけ「超党派」の全権団にしたいと考えていたため、野党国民民主党の主張する臨時国会の召集要求を呑むなど、妥協の末、委員参加を取りつけた。また、[[日本社会党]]に対しても全権委員参加を要請したが、左翼陣営は基本的に「[[全面講和]]」を主張していたため不参加となった。
 
 
 
[[9月7日]]、吉田茂首相により、条約を受諾する演説が日本語でなされた。英語で行う予定で準備されていたが、直前になって日本語で行うことになり、急遽原稿が差し替えられ、長大な[[巻物]]式の急造原稿は現地のメディアからトイレットペーパー<ref>[[吉田茂]]参照</ref>とも言われた<ref>([http://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/qa/sengo_03.html 外務省 外交史料 Q&amp;A 昭和戦後期])。原稿は、[[#mofa1970|外務省(1970年]]118~122ページ)、[[#tanakand|田中(刊日不明)]]で閲覧可。</ref>。
 
 
 
セイロン代表[[ジュニウス・リチャード・ジャヤワルダナ]]は、戦争中の空襲を指摘した上で、責任の所在・謝罪・反省を受け入れて、心の問題としての憎しみの連鎖が戦争に成る事を戒めた「憎悪は憎悪によって止むことはなく、慈愛によって止む」という[[仏陀]]の言葉を引用して、日本に対する賠償請求を放棄する演説を行った。
 
 
 
[[ソビエト連邦|ソ連]]、[[ポーランド]]、[[チェコスロバキア]]の共産圏3国は講和会議に参加したものの、同じ[[共産主義]]国の中華人民共和国の不参加を理由に会議の無効を訴え署名しなかった。
 
 
 
[[9月8日]]、条約に49カ国が署名し講和会議は閉幕した。調印は、国名の英語表記のアルファベット順にこれを行い、講和当事国の日本が最後に調印した。署名は各国とも全権として会議に参加した者全員でこれを行った。
 
 
 
==== 署名国及び批准状況 ====
 
{| class="wikitable" style="font-size:100%;"
 
|-
 
!style="white-space: nowrap;"|国名!!批准日!!批准の外務省告示日!!告示番号!! 国務省回章
 
|-
 
 
 
|| {{ARG}} || 1952年4月9日 || 1952年4月28日 || 第10号 ||
 
|-
 
|| {{AUS}}([[イギリス連邦]]) || 1952年4月10日 || 1952年4月28日 || 第10号 ||
 
|-
 
|| {{BEL}} || 1952年8月22日 || 1952年10月13日 || 第59号 ||
 
|-
 
|| {{BOL}} || 1977年8月11日 || 1980年9月25日 || 第330号 || 1980年2月12日
 
|-
 
|| {{BRA1889}} || 1952年5月20日 || 1952年7月14日 || 第28号 ||
 
|-
 
|| {{KHM}}([[フランス連合]]) || 1952年6月2日 || 1952年8月26日 || 第41号 ||
 
|-
 
|| {{CAN1921}}(イギリス連邦) || 1952年4月17日 || 1952年4月28日 || 第10号 ||
 
|-
 
|| {{DOC}}(イギリス連邦) || 1952年4月28日 || 1952年5月10日 || 第14号 ||
 
|-
 
|| {{CHL}} || 1954年4月28日 || 1954年6月7日 || 第61号 || 1954年5月7日
 
|-
 
|| {{COL}} ※ || || || ||
 
|-
 
|| {{CRI}} || 1952年9月17日 || 1952年10月27日 || 第64号 ||
 
|-
 
|| {{CUB}} || 1952年8月12日 || 1952年10月13日 || 第59号 ||
 
|-
 
|| {{DOM}} || 1952年6月6日 || 1952年8月26日 || 第41号 ||
 
|-
 
|| {{ECU}} || 1955年12月20日 || 1956年2月11日 || 第18号 || 1956年1月16日
 
|-
 
|| {{EGY1922}}王国 || 1952年12月30日 || 1953年3月7日 || 第11号 ||
 
|-
 
|| {{SLV}} || 1952年5月6日 || 1952年7月23日 || 第31号 ||
 
|-
 
|| {{ETH1897}} || 1952年6月12日 || 1952年8月26日 || 第41号 ||
 
|-
 
|| {{FRA1946}} || 1952年4月18日 || 1952年4月28日 || 第10号 ||
 
|-
 
|| {{GRC1828}} || 1953年5月19日 || 1953年7月6日 || 第54号 || 1953年6月4日
 
|-
 
|| {{GTM}} || 1954年9月20日 || 1954年11月6日 || 第131号 || 1954年10月11日
 
|-
 
|| {{HTI}} || 1953年5月1日 || 1953年7月6日 || 第54号 || 1953年6月4日
 
|-
 
|| {{HND}} || 1953年9月4日 || 1953年11月24日 || 第130号 ||
 
|-
 
|| {{IDN}} ※ || || || ||
 
|-
 
|| {{IRN1933}}帝国 || 1956年8月29日 || 1956年9月17日 || 第103号 ||
 
|-
 
|| {{IRQ1924}}王国 || 1955年8月18日 || 1955年9月16日 || 第105号 || 1955年8月23日
 
|-
 
|| {{LAO1949}}(フランス連合) || 1952年6月20日 || 1952年8月26日 || 第41号 ||
 
|-
 
|| {{LBN}} || 1954年1月7日 || 1954年2月22日 || 第23号 || 1954年4月5日
 
|-
 
|| {{LBR}} || 1952年12月29日 || 1953年3月7日 || 第11号 ||
 
|-
 
|| {{LUX}}大公国 ※ || || || ||
 
|-
 
|| {{MEX1934}} || 1952年3月3日 || 1952年4月28日 || 第10号 ||
 
|-
 
|| {{NLD}} || 1952年6月17日 || 1952年8月26日 || 第41号 ||
 
|-
 
|| {{NZL}}(イギリス連邦) || 1952年4月10日 || 1952年4月28日 || 第10号 ||
 
|-
 
|| {{NIC}} || 1952年11月4日 || 1952年12月13日 || 第77号 ||
 
|-
 
|| {{NOR}} || 1952年6月19日 || 1952年8月26日 || 第41号 ||
 
|-
 
|| {{Flagicon|PAK}} [[パキスタン (ドミニオン)|パキスタン]](イギリス連邦) || 1952年4月17日 || 1952年4月28日 || 第10号 ||
 
|-
 
|| {{PAN}} || 1953年4月10日 || 1953年5月21日 || 第34号 || 1953年4月29日
 
|-
 
|| {{PRY}} || 1953年1月15日 || 1953年3月7日 || 第11号 ||
 
|-
 
|| {{PER}} || 1952年6月17日 || 1952年7月14日 || 第29号 ||
 
|-
 
|| {{PHL}} || 1956年7月23日 || 1956年7月25日 || 第79号 ||
 
|-
 
|| {{SAU}} || 1954年3月13日 || 1954年4月24日 || 第42号 || 1954年4月5日
 
|-
 
|| {{SYR1932}} || 1952年12月29日 || 1953年3月7日 || 第11号 ||
 
|-
 
|| {{TUR}} || 1952年7月24日 || 1952年9月10日 || 第48号 ||
 
|-
 
|| {{ZAF1928}}(イギリス連邦王国) || 1952年9月10日 || 1952年10月13日 || 第59号 ||
 
|-
 
|| {{Flagicon|GBR}} [[イギリス|グレートブリテン及び北アイルランド連合王国]](イギリス、英国) || 1952年1月3日 || 1952年4月28日 || 第10号 ||
 
|-
 
|| {{USA}}(米国) || 1952年4月28日 || 1952年4月28日 || 第10号 ||
 
|-
 
|| {{URY}} || 1952年12月2日 || 1952年12月22日 || 第79号 ||
 
|-
 
|| {{VEN1930}} || 1952年6月20日 || 1952年8月26日 || 第41号 ||
 
|-
 
|| {{QVI}} || 1952年6月18日 || 1952年8月26日 || 第41号 ||
 
|-
 
|| {{JPN1947}} || 1951年11月28日 || 1952年4月28日 || 第10号 ||
 
|-
 
|}
 
 
 
※は、調印はしたが批准はしていない国。なお上記の国名はいずれも調印時におけるものである。
 
 
 
平和条約は第23条1の規定により、日本及びアメリカ合衆国が批准書を寄託し、かつ、主たる占領国{{efn|オーストラリア、カナダ、セイロン、フランス、インドネシア、オランダ、ニュー・ジーランド、パキスタン、フィリピン、グレート・ブリテン及び北部アイルランド連合王国及びアメリカ合衆国。}}の過半数が批准書を寄託した時に、その時に批准書を寄託しているすべての国に関して効力を生ずるとなっている。従って条約の発効の告示(昭和27年4月28日付内閣告示第1号、昭和27年4月28日付外務省告示第10号)においても「1952年4月28日 日本標準時で22時30分(アメリカ合衆国東部標準時で8時30分)に条約が発効した」と時間まで入れて告示している。なお内閣告示は条約の発効の旨のみであるが、外務省告示は、発効までに批准書を寄託した国及びその批准書を寄託した日も告示している。
 
 
 
セイロンは、アメリカ合衆国の批准書を寄託したと同じ日の1952年4月28日のアメリカ合衆国東部標準時で13時30分に批准書を寄託した。条約が発効後に批准書を寄託した国については、批准書の寄託の日に効力を生ずるとなっているが、セイロンについて4月28日のどの時点で発効したかは不明である{{efn|セイロンが批准書を寄託した旨の1952年5月10日付け外務省告示第14号は、セイロンが1952年4月28日のアメリカ合衆国東部標準時で13時30分に批准書を寄託した旨を告示するのみで発効日については言及していない。}}
 
 
 
以後の外務省告示は批准書を寄託した日のみを告示していたが、フィリピン、イラン、ボリビアについての告示は、批准書を寄託した日及びその日に効力が生じた旨を告示している。
 
 
 
パナマが批准書を寄託した旨の告示(1953年5月21日付け外務省告示第34号)以後の告示においては、批准についての通報(アメリカ合衆国国務省回章)がその日付と併せて告示されている。ただしフィリピン、イランの告示にはない。
 
 
 
=== 日米安保条約(旧)締結 ===
 
同[[9月8日]]、講和条約に続いて日本とアメリカ合衆国の代表は、サンフランシスコ市内のプレシディオ陸軍基地<ref group="注釈">1989年に廃止・閉鎖。跡地はゴールデンゲート国立レクリエーション地域の一部になっている</ref>内にある下士官集会所に移動、[[日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約]]に調印した。
 
 
 
日米安全保障条約には首席全権代表・[[吉田茂]]が単独で署名した。吉田は無理に同行した[[池田勇人]]蔵相に対して、「この条約はあまり評判がよくない。君の経歴に傷が付くといけないので、私だけが署名する」と言い、署名の場に同席することは許さなかった。
 
 
 
== 条約締結後 ==
 
[[1951年]](昭和26年)[[10月26日]]、[[衆議院]]が締結を承認。[[11月18日]]には[[参議院]]が締結を承認、内閣が条約を批准した。[[11月19日]]、奈良において[[昭和天皇]]が批准書を認証。[[11月28日]]にはアメリカ合衆国政府に批准書が寄託された。
 
 
 
条約第23条第1項の{{efn|この条約は、日本国を含めて、これに署名する国によつて批准されなければならない。この条約は、批准書が日本国により、且つ、主たる占領国としてのアメリカ合衆国を含めて、次の諸国、すなわちオーストラリア、カナダ、セイロン、フランス、インドネシア、オランダ、ニュー・ジーランド、パキスタン、フィリピン、グレート・ブリテン及び北部アイルランド連合王国及びアメリカ合衆国の過半数により寄託された時に、その時に批准しているすべての国に関して効力を生ずる。この条約は、その後これを批准する各国に関しては、その批准書の寄託の日に効力を生ずる。}}の規定により、アメリカ合衆国が批准書を寄託した[[1952年]](昭和27年)[[4月28日]] [[日本標準時]]で22時30分([[東部標準時|アメリカ合衆国東部標準時]]で8時30分)に条約が発効した<ref>昭和27年4月28日付内閣告示第1号、昭和27年4月28日付外務省告示第10号</ref>。
 
 
 
=== 講和条約批准国以外との国際関係(含む 批准前の国交回復) ===
 
日本国との平和条約、および[[日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約|日米安全保障条約(旧)]]の2条約の締結を以って日本は[[自由主義]]陣営の一員として国際社会に復帰した。他方で、[[共産主義]]陣営の[[ソ連]]と中国共産党政権、北朝鮮との間では軋轢が続いた。
 
 
 
日本は同平和条約締結後、インド、中華民国と個別に[[平和条約|講和条約]]を締結した。ソ連との間は1956年に[[日ソ共同宣言|共同宣言]]に合意し[[国交]]回復したが、依然として現在まで講和条約は結ばれていない。中国共産党政権との間は1972年に[[日本国政府と中華人民共和国政府の共同声明|共同宣言]]に合意し国交を結び、1978年に[[日中平和友好条約]]を締結し共同宣言の内容に国際法上の拘束力を与えた。
 
 
 
*ユーゴスラビアとの間では1952年1月23日に書簡が交わされ、平和条約発効の日(1952年4月28日)をもって両国間の戦争状態が終了することが合意された<ref>[http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/treaty/pdfs/A-S38(3)-284.pdf 〔備考〕外交関係の回復に関する書簡について] - 外務省</ref>。
 
*中華民国との間では、日本国との平和条約の発効日と同じ[[1952年]][[4月28日]]に[[日華平和条約]]を調印<ref>[[1952年]](昭和27年)[[8月5日]]発効。</ref>。
 
*[[ビルマ連邦]]は[[1952年]]4月30日に日本との戦争状態を終結する声明を出している<ref>[http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/treaty/pdfs/A-S38(1)-033.pdf 日本国とビルマ連邦との間の平和条約] - 外務省</ref>。
 
*[[1952年]][[6月9日]](昭和27年)にインドは全ての賠償請求権を放棄するとともに日本は対印投資を約する[[日印平和条約]]が東京で締結された<ref name="ner"/><ref name="Singhspeech20050429">[http://pmindia.nic.in/speech/content.asp?id=114 Dr. Manmohan Singh's banquet speech in honour of Japanese Prime Minister] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20051212010734/http://pmindia.nic.in/speech/content.asp?id=114 |date=2005年12月12日 }} National Informatics Centre
 
Contents Provided By Prime Minister's Office April 29, 2005</ref>。[[2005年]]の演説でインドの[[マンモハン・シン]]首相は講和条約に関する日印関係を思い出されるべき重要なことと語った<ref name="Singhspeech20050429"/>。
 
*チリは、1954年4月28日に批准しているが、それ以前の1952年10月17日に公文の交換により国交を回復した<ref>1953年7月1日付け官報第7945号付録資料版</ref>。
 
*ボリビアは、条約署名から26年後の1977年8月11日に批准しているが、それ以前の1952年12月20日に公文の交換により国交を回復した<ref>1953年7月1日付け官報第7945号付録資料版、1972年3月8日付け官報第13561号付録資料版</ref>。
 
*ルクセンブルグは、条約に署名したが批准せず1953年3月10日に公文の交換により国交を回復した<ref>1956年8月15日付け官報第8890号付録資料版、1972年3月8日付け官報第13561号付録資料版</ref>。
 
*イランは、1956年8月29日に批准しているが、それ以前の1953年11月に公文の交換により国交を回復した<ref>1956年8月15日付け官報第8890号付録資料版</ref>。
 
*コロンビアは、条約に署名したが批准せず1954年5月28日に公文の交換により国交を回復した<ref>1956年8月15日付け官報第8890号付録資料版、1972年3月8日付け官報第13561号付録資料版</ref>。なお、1957年7月22日付け官報第9172号付録資料版によるとコロンビアは1941年12月8日に日本との国交を断絶したが最後まで日本に宣戦を布告せず、戦争状態にはなかった。
 
*[[1956年]][[10月19日]]、ソ連と日本は講和について合意を行い、[[日ソ共同宣言]]を発した。共同宣言が発効した同年12月12日より国交が正常化し、法的にも両国間の戦争状態が終了した。宣言の第9項では「引き続き平和条約締結交渉を行い、条約締結後にソ連は日本へ[[歯舞群島]]と[[色丹島]]を引き渡す」と明記されたが、[[択捉島]]および[[国後島]]の返還をも求める日本との間で平和条約交渉は停滞しており、[[北方領土問題]]は現在も未解決のままである。
 
*インドネシアは条約に署名したが批准せず、1957年1月20日に署名された[[日本国とインドネシア共和国との間の平和条約]]において正式に講和することになった。同条約は1957年4月15日に発効している<ref>[http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/treaty/pdfs/A-S38(2)-107.pdf 日本国とインドネシア共和国との間の平和条約] - 外務省</ref>。
 
*チェコスロバキアとの間では1957年2月13日に国交回復に関する議定書が締結され、戦争状態終結が合意された。この議定書は1957年5月8日に発効している<ref>[http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/treaty/pdfs/A-S38(1)-057.pdf 日本国とチェッコスロヴァキア共和国との間の国交回復に関する議定書] - 外務省</ref>。
 
*ポーランドとの間では1957年2月8日に国交回復に関する協定が締結され、戦争状態終結が合意された。この協定は1957年5月18日に発効している<ref>[http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/treaty/pdfs/A-S38(2)-184.pdf 日本国とポーランド人民共和国との間の国交回復に関する協定] - 外務省</ref>。
 
*中華人民共和国との間では、[[1972年]]2月の[[ニクソン大統領の中国訪問]]や国際連合での[[アルバニア決議]]案可決を受けて、日本は[[1972年]](昭和47年)[[9月29日]]、[[日本国政府と中華人民共和国政府の共同声明|日中共同声明]]に合意し[[国交]]を結んだ。この声明で日本は中華人民共和国を「中国を代表する唯一の政府」と承認したため、中華民国は日本との関係を断交した。
 
*条約発効直前の1952年[[1月18日]]、会議に招へいすらされなかった韓国政府は突如として[[マッカーサー・ライン]]<ref group="注釈">サンフランシスコ講和条約では[[マッカーサー・ライン]]も廃止される予定であった。</ref>に代わる[[李承晩ライン]]の宣言を一方的に行い、[[竹島 (島根県)|竹島]]に韓国軍が侵略した。背景には韓国国内での[[済州島四・三事件]]、[[保導連盟事件]]及び[[国民防衛軍事件]]等が発生し、韓国政府に対する不満があったともされるが、一方的な宣言である李承晩ラインに対し日米両政府は非難した。その後、険悪になった日韓両国は[[1965年]](昭和40年)の[[日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約|日韓基本条約]]の締結において国交を結んだが、[[竹島問題]]は現在も日韓での外交問題となっている。
 
 
 
=== 全面講和論のその後 ===
 
他方、冷戦構造に対して中立をとろうとする'''全面講和論'''はその後も展開され、[[山川均]]らの[[非武装中立]]論は社会党の党是ともなり、その後の日本をめぐる[[安全保障]]および[[日米同盟]]に関する議論を形成していった<ref name="yone">[http://www2.osipp.osaka-u.ac.jp/~yonehara/dp/dp-2002-j-012.pdf 米原謙「日本型社会民主主義の思想――社会党左派理論の形成と展開」] 大阪大学大学院国際公共政策研究科, 2002</ref>。なお条約の発効をもって[[レッドパージ]]の一環として占領軍により発行を禁止されていた[[しんぶん赤旗]]が再刊された。
 
 
 
非武装中立論を批判する[[永井陽之助]]は長期的目標として非同盟=中立が正しいとしても米ソ中三国の緊張緩和のテンポを考慮するべきだと論じた<ref name="yone"/>。このような議論は講和条約と同日に締結された旧日米安保条約を改定した[[日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約]]が1960年に締結される前後、安保条約に反対する政治運動として[[安保闘争]]が繰り広げられた。
 
 
 
また[[在日米軍]]の問題は、[[在日米軍#在日米軍の抱える課題|沖縄の在日米軍基地問題]]に関して今日の日米関係の重要な外交上の争点となっている。[[沖縄県]]では、条約が発効した1952年4月28日を、引き続き1972年までアメリカの[[占領統治]]下に置かれることになった「屈辱の日」とし<ref>{{Cite news | url = http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-190560-storytopic-11.html | title = 対日講和発効60年/人権蹂躙を繰り返すな 許されぬ米軍長期駐留 | newspaper = [[琉球新報]] | date = 2012-04-28 | accessdate = 2012-11-25 }}</ref><ref>{{Cite news | url = http://mytown.asahi.com/okinawa/news.php?k_id=48000111205010001 | title = 沖縄の40年<屈辱の日> | newspaper = [[朝日新聞デジタル]] | publisher = [[朝日新聞社]] | date = 2012-05-01 | accessdate = 2012-11-25 }}</ref>、2013年4月28日に日本政府主催の[[主権回復の日]]の記念式典について、沖縄から批判的な意見が出た。この問題には、[[昭和天皇]]が御用掛・[[寺崎英成]]を通じてGHQの[[ウィリアム・ジョセフ・シーボルド]]宛てに伝達した、“天皇は租借条約によって沖縄が引き続き―最低でも100年―アメリカ占領下に置かれる事を希望している”旨の、いわゆる「沖縄メッセージ」も深く関係している。{{See|アメリカ合衆国による沖縄統治}}
 
 
 
全面講和論はその後も再評価されることがあり、2001年に[[朝日新聞]]紙上で[[坂本義和]]は当時、全面講和は1951年でなく朝鮮戦争や[[ベトナム戦争]]の休戦協定時点であれば可能であったはずだと主張し、また、日米安保条約を「有事駐留」方式にすれば、ソ連が北方領土を認めた可能性もあるし、また沖縄への米軍基地集中も起こらなかったかもしれないと述べた<ref>「対日講和 50年の意味」『朝日新聞』2001年9月6日</ref>。これに対して伊藤祐子は、戦後の日本はアメリカによって単独占領されており、したがって占領下の日本が独自の外交権も持てずに実質的に制限されていたことを考慮すれば、日本がアメリカの対日政策と無関係にみずから行動を起こすことは不可能であったと考えるべきだと批判した<ref name="ito"/>。また、全面講和が可能になる条件としては、アメリカの[[冷戦]]的思考と枠組みをソ連が受け入れるか、またアメリカが[[共産主義]]諸国を敵視しないことが必要であったが、それらはいずれも不可能であったため、全面講和は実現できなかっただろうと述べた<ref name="ito"/>。
 
 
 
== 記念事業 ==
 
[[画像:Signing of the Peace Treaty 2Yen stamp.JPG|thumb|150px|平和条約調印[[記念切手]]2円 アンダーライン付きの00は[[銭]]]]
 
[[File:Signing of the Peace Treaty 8Yen stamp.jpg|thumb|150px|平和条約調印[[記念切手]]8円 アンダーライン付きの00は[[銭]]]]
 
;記念切手
 
日本国郵政省(現在の[[郵便事業|日本郵便]])は、調印翌日の[[9月9日]]に事前に用意していた[[記念切手]]3種を発行した。2円切手と24円切手には[[キク]]が描かれ、8円切手には国旗が描かれている。1996年4月8日に発行の戦後50年メモリアルシリーズの第1集中1枚は吉田が署名する場面が切手の意匠に採用された<ref>{{Cite web
 
|url=http://yushu.or.jp/s_data/96jpn/96kine/960405c1.html
 
|title=戦後50年メモリアルシリーズ 第1集郵便切手
 
|publisher=[[日本郵趣協会]]
 
|accessdate=2012-06-05
 
}}</ref>。2001年9月7日に調印50年を記念して、会場となったオペラハウスと秋草を描く記念切手を発行した<ref>[http://www.post.japanpost.jp/kitte_hagaki/stamp/tokusyu/2001/0907/index.html サンフランシスコ平和条約50周年記念郵便切手]</ref>。
 
 
 
;署名50周年
 
[[2001年]](平成13年)9月8日(日本時間では[[9月9日]])、講和会議の会場であったオペラハウスにて、北カリフォルニア日本協会 ({{lang|en|the Japan Society of Northern California}}) の主催により「サンフランシスコ平和条約署名50周年記念式典」が開かれた。日本からは[[田中眞紀子]]外務大臣が、米国からは[[コリン・パウエル]]国務長官が出席しそれぞれ演説を行い、日米の同盟関係の更なる強化の必要性を確認し合った。この式典の前にプレシディオ元陸軍基地において、サンフランシスコ平和条約署名50周年記念式典も行われた。
 
 
 
;署名60周年
 
[[2011年]](平成23年)[[2月25日]]、[[自由民主党 (日本)|自民党]]議員が「4月28日を主権回復記念日にする議員連盟」を設立。講和条約発効日である[[4月28日]]を[[主権回復記念日]]と定め、政府主催の記念行事を毎年開催するよう働きかけをおこなっていくとしている<ref>{{Cite news
 
|url = http://sankei.jp.msn.com/politics/news/110225/stt11022511520005-n1.htm
 
  |title = 自民有志、「4月28日」主権回復記念日議連を設立 サンフランシスコ平和条約発効
 
|publisher = MSN産経ニュース([[産経新聞]])
 
|date = 2011-02-25
 
|accessdate = 2011-03-06
 
}}</ref>。
 
 
 
[[2013年]]には[[第2次安倍内閣]]下で、「主権回復・国際社会復帰を記念する式典」が行なわれた。
 
{{-}}
 
 
 
== 現在 ==
 
{{NPOV|date=2015年10月|section=1}}
 
{{独自研究|date=2015年10月|section=1}}
 
=== 中華人民共和国による日本領土縮小案 ===
 
{{See also|中国人による沖縄県への認識}}
 
太平洋戦争における対日本の公式な宣戦布告国家ではなく、且つ条約調印に招聘されなかった周辺国による条約否認・改定への動きもある。[[尖閣諸島問題]]で日中関係が悪化する中、[[2012年]][[11月14日]]に中華人民共和国、韓国、ロシアによる「東アジアにおける安全保障と協力」会議が開かれた。席上、[[中華人民共和国外交部]]直属の中国国際問題研究所副所長郭憲綱は「日本の領土は北海道、本州、四国、九州4島に限られており、北方領土、竹島、尖閣諸島にくわえて沖縄も放棄すべきだ」と公式に演説した。そのためには中華人民共和国、ロシア、韓国による統一共同戦線を組んでアメリカの協力を得たうえで、サンフランシスコ講和条約に代わって日本の領土を縮小する新たな講和条約を制定しなければいけない、と提案した<ref name="china"/>。
 
 
 
[[モスクワ国際関係大学]]国際調査センターのアンドレイ・イヴァノフは、この発言が中華人民共和国外交部の公式機関の幹部で外交政策の策定者から出たことに対し、多かれ少なかれ中華人民共和国指導部の意向を反映していると述べている<ref name="china">{{Cite news|title=反日統一共同戦線を呼びかける中国|date=2012-11-15|author=イリナ・イワノワ|url=http://japanese.ruvr.ru/2012_11_15/94728921/|accessdate=2012-11-25|publisher=[[ロシアの声]]|language=日本語}}[http://megalodon.jp/2013-0128-2057-01/japanese.ruvr.ru/2012_11_15/94728921/]</ref>。
 
 
 
== 関連文献 ==
 
*{{Cite book|和書|author=[[入江啓四郎]]|year=1951|title=日本講和条約の研究|publisher=板垣書店|ref=入江1951}}
 
*{{Cite book|和書|editor=外務省編纂|year=2006|month=1|title=日本外交文書 サンフランシスコ平和条約 準備対策|volume=195|publisher=外務省|url=http://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/bunsho/h17.html|ref=外務省2006}}
 
*{{Cite book|和書|editor=外務省編纂|year=2007|month=3|title=日本外交文書 サンフランシスコ平和条約 対米交渉|volume=198|publisher=外務省|url=http://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/bunsho/h18.html|ref=外務省2007}}
 
*{{Cite book|和書|editor=[[鹿島平和研究所]]編|others=[[鈴木九萬]]監修|year=1973|title=日本外交史 26 終戦から講和まで|publisher=[[鹿島研究所出版会]]|url=http://www.kiip.or.jp/book/nihongaiko.htm|ref=鹿島平和研究所1973}}
 
*{{Cite book|和書|author=[[西村熊雄]]|editor=[[鹿島平和研究所]]編|year=1971|title=日本外交史 27 サンフランシスコ平和条約|publisher=[[鹿島研究所出版会]]|url=http://www.kiip.or.jp/book/nihongaiko.htm|ref=鹿島平和研究所1971}}
 
*{{Cite book|和書|author=[[西村熊雄]]|date=1999-07-18|title=サンフランシスコ平和条約・日米安保条約|series=[[中公文庫]] シリーズ戦後史の証言 占領と講和7|publisher=[[中央公論新社]]|isbn=4-12-203466-3|url=http://www.chuko.co.jp/bunko/1999/07/203466.html|ref=西村1999}}
 
 
 
== 脚注 ==
 
=== 注釈 ===
 
{{脚注ヘルプ}}
 
{{Reflist|group="注釈"}}
 
=== 出典 ===
 
{{Reflist|2}}
 
 
 
== 参考文献 ==
 
* {{Anchor|tanakand|}}{{Cite web|author=外務省条約局法規課|date=1951-09-07|url=http://www.ioc.u-tokyo.ac.jp/~worldjpn/documents/texts/JPUS/19510907.S1J.html|title=平和条約の締結に関する調書VII|work=サンフランシスコ平和会議における吉田茂総理大臣の受諾演説|pages=118-122|publisher=東京大学東洋文化研究所 田中明彦研究室|accessdate=2011-03-20}}
 
* {{Anchor|mofa1970|}}{{Cite web|author=西村熊雄|date=1970-07|url=http://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/heiwa.html|title=平和条約の締結に関する調書|work=VII 昭和26年9月 サン・フランシスコ平和会議|publisher=外務省|accessdate=2012-04-28}}
 
*{{Cite book|和書|author=[[イアン・ブラウンリー|ブラウンリー]]|others=[[島田征夫]]ほか訳|year=1992|month=11|title=国際法学|chapter=第三部 領域主権|edition=補正版|publisher=[[成文堂]]|isbn=4-7923-3106-4|url=http://www.seibundoh.co.jp/pub/search/000902.html|ref=ブラウンリー1992}}
 
 
 
== 関連項目 ==
 
{{Wikisource|日本国との平和条約}}
 
{{Wikisource|日本国との平和条約の説明書}}
 
{{Wikibooks|サンフランシスコ平和条約}}
 
{{Commonscat|Treaty of San Francisco}}
 
* [[終戦の日]]
 
* [[主権回復の日]]
 
* [[条約の一覧]]
 
* [[戦後混乱期]]
 
* [[ドイツ最終規定条約]]
 
* [[日本の戦後補償条約一覧]]
 
* [[パリ条約 (1947年)]]
 
* [[平和条約国籍離脱者]]
 
* [[竹島問題外交交渉史]]
 
* [[連合国軍占領下の日本]]
 
* [[沖縄返還]]
 
 
 
== 外部リンク ==
 
* [http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/treaty/pdfs/B-S38-P2-795_1.pdf 日本国との平和条約](外務省-日本外交文書)
 
* [http://www.geocities.jp/nakanolib/joyaku/js27-5.htm 日本国との平和条約](中野文庫)
 
* [http://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/bunsho/h17.html サンフランシスコ平和条約 '''準備対策'''](外務省-日本外交文書)
 
* [http://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/bunsho/h18.html サンフランシスコ平和条約 '''対米交渉'''](外務省-日本外交文書)
 
 
 
{{日本の条約}}
 
{{Normdaten}}
 
 
{{DEFAULTSORT:にほんこくとのへいわしようやく}}
 
{{DEFAULTSORT:にほんこくとのへいわしようやく}}
 
[[Category:日本の講和条約]]
 
[[Category:日本の講和条約]]

2018/12/22/ (土) 22:11時点における最新版

日本国との平和条約(にっぽんこくとのへいわじょうやく、: Treaty of Peace with Japan、昭和27年条約第5号)

サンフランシスコ講和条約,対日平和条約ともいう。第2次世界大戦の戦争状態を終結し,国交を回復するため,日本とアメリカ,イギリスなど 48ヵ国との間に締結された条約。 1951年9月8日サンフランシスコで署名され,52年4月 28日に発効した。前文および 27ヵ条から成り,ほかに若干の諸国との議定書,国際条約への加入および戦死者の墳墓に関する2つの単独宣言が付属している。領土処理については,朝鮮の独立承認,台湾,澎湖諸島,千島列島,南樺太,新南群島に対する日本の一切の権利,権原および請求権の放棄,南太平洋旧委任統治諸島をアメリカを単独施政権者とする信託統治のもとにおく旨の協定の承認,琉球,小笠原諸島を信託統治地域とすることの予定およびアメリカによる施政権行使ならびに日本による残存 (潜在) 主権の保持などを規定している。賠償については,日本の債務履行能力に限界があることの是認,在外日本資産の差押え,留置,精算あるいは役務賠償の原則の確定,日本の相手締約国に対する請求権の一切の放棄を規定した (対日賠償問題 ) 。また安全保障については,日本が国連憲章第 51条の個別的,集団的自衛権を有することの是認などを定めている。中国代表権については,アメリカ,イギリス間で意見が一致せず,中華民国も中華人民共和国も会議に招請されなかった。 (第2次世界大戦講和条約 )



楽天市場検索: