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(ページの作成:「日本列島がいかにして更新世のアジア大陸から分離し、その過程でいかにして最初の人類がこの列島に住みついたかについて…」)
 
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日本列島がいかにして更新世のアジア大陸から分離し、その過程でいかにして最初の人類がこの列島に住みついたかについては、地球の歴史の領域に譲らざるをえない。第2次世界大戦後、その存在が証明された旧石器時代に始る日本人のもつ長い歴史も、西暦紀元以前はまったく記録を欠き、記録された歴史は紀元後に始る。かつて「大八洲(おおやしま)」と呼び、「倭(わ)」と呼ばれ、「やまと」と称し、大化以降「日本」の国号を用いてきた日本の歴史は、古くから、あるいは天皇中心の国家の理念に照して、あるいは仏教、儒教の世界観に照して論究されたが、明治以降はさらに近代ヨーロッパの歴史学の成果を吸収しつつ、研究され、論述されて今日にいたった。とりわけ第2次世界大戦後は、長い間神話やタブーによって直視できなかった分野も忌憚なく研究され、日本歴史の展開は、世界史の一環として、その展開に即して再構成されるようになった。その成果は、時代区分の仕方にもはっきりと現れた。
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日本にいつ頃から人類が定住し始めたかについては,1~3万年前の石器が発見されているものの確証はない。伝承では前660年,初代の神武天皇の即位をもって建国のときとしているが,史料では最初の統一国家である大和朝廷が出現したのは 4世紀末,あるいは 5世紀初頭である。この大和期に仏教が朝鮮半島を経由して伝来した。以後数世紀の間,日本は中国文化から強い影響を受けた。8世紀には中国を模倣した宮廷が奈良,続いて京都に誕生した。しかし 9世紀になると日本は大陸とのつながりを断ち始め,学んだものを翻案するようになった。政治的には,天皇はしだいに廷臣たちに従属するようになった。なかでも有力貴族の藤原氏は 11世紀を通じて絶大な勢力を保った。
  
かつて広く採用された時代区分は神代と人代に分け、人代を政権の所在地を基準として大和時代、奈良時代、平安時代、鎌倉時代、室町時代、安土・桃山時代、江戸時代に分け、東京時代の代りに明治・大正・昭和の元号による時代区分を加えたものであり、また、ヨーロッパでルネサンス以降広く用いられた古代・中世・近代(近世)にならって、上世(上代)・中世・近世の呼び名を用いてこれに最近世を加えることもあった。
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しかし同時に,地方では武士階級が勃興し,排他的な政治力を蓄えつつあった。建久3(1192)年,[[源頼朝]]は初の武家政権である鎌倉幕府を樹立した。この政体が,途中幾度かの内部抗争を経ながらも慶応3(1867)年まで続くことになる。鎌倉時代(1192~1333)の文永11(1274)年と弘安4(1281)年の 2度にわたるモンゴルの侵略(元寇)は,偶然の台風によって撃退されたが,この侵攻に備えるための負担が鎌倉幕府の倒壊につながった。続く将軍足利氏による室町時代(1336~1573)は有力氏族による抗争と南北両朝の並立を特徴とする。織田信長によって緒についた政治的統一は天正18(1590)年,豊臣秀吉によって達成された。しかし,完全な意味での国家の統一は秀吉の死後,徳川家康の関ヶ原の戦い(1600)での勝利を待って実現した。
  
これに対して現在では、考古学の研究成果や、経済・政治・文化が構造的にかかわり合う社会構成の特質を考えて、世界の諸国家・諸民族の歴史との比較可能な基準を求める努力の成果として、原始共産制社会、古代奴隷制社会、中世封建社会、近代資本主義社会、現代帝国主義社会の5分法がかなり普及し、必ずしもこうした区分を文字どおり用いない場合でも、これと従来の区分法とを併用した時代区分を用いることが多くなった。その際、世界史的な意味での中世は、通常、狭義の中世と近世に分けられる。
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江戸時代(1603~1867),幕府は対外的孤立政策をとり,天文18(1549)年,[[イエズス会]]の[[フランシスコ・ザビエル]]が渡来して以来改宗した国内のキリスト教徒は迫害され,外国人は追放され,日本人の海外渡航も禁止された。政府の安定は数世紀ぶりに日本に平和をもたらした。海外との隔絶(鎖国)は固有の文化を開花させたが,それは一方で社会の停滞をもたらした。ことに勃興する商人階級が制約に耐えきれなくなった。19世紀の中頃には幕府はもはや欧米の貿易商人たちを追い払うことができなくなり,政権への支持も崩壊した。
  
こうして、本項目でも、近年広く用いられている原始・古代・中世・近世・近代・現代の6区分を採用し、原始を先縄文文化の時代、縄文文化の時代、弥生文化の時代として、古代に先行する時代を概観したのち、古代を4世紀の大和朝廷の統一から平氏政権の没落まで、中世を鎌倉幕府の成立より室町幕府の滅亡まで、近世を織豊政権(しょくほうせいけん)の成立より江戸幕府の倒壊まで、近代を王政復古より第2次世界大戦の終結までとし、戦後を現代として近代から分立させた。
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明治1(1868)年,天皇の支配権回復(王政復古)が宣言され,明治天皇が即位した。しかし,実際の政治権力は南西部出身の一群の若い指導者たちが掌握していた。彼らは新しい理念と技術を求めて,西ヨーロッパ世界のいたるところに視察団を派遣し,日本の政治・経済・社会制度は西ヨーロッパを模範として体系的に近代化された。その頂点を画するのが 1889年の大日本帝国憲法公布である。
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日本はその後,帝国主義的傾向を強め,中国(日清戦争,1894~1895),ロシア(日露戦争,1904~05)との戦争さらには朝鮮併合(日韓併合,1910)へと突き進んだ。1930年代の世界的な経済困難は,日本の対内的には軍の独裁,対外的には侵略という傾向をいっそう強めた。日本は 1931年,中国から満州の支配権を奪ってこれを独立させ,ナチス・ドイツと同盟し(日独枢軸),1941年にはアメリカ合衆国,イギリスに宣戦布告し太平洋戦争に突入,ハワイとフィリピンのアメリカ軍を攻撃するとともに東南アジアのヨーロッパ諸国植民地を占領した。緒戦では成功を収めたが,日本軍はアメリカならびに連合軍によって徐々に押し戻された。1945年,アメリカは広島と長崎に原子爆弾を投下,両都市は灰塵に帰した。その直後,日本は連合国に降伏した。
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[[アメリカ]]による戦後の占領により 1947年[[日本国憲法]]が与えられ,日本の民主化が進められた。官民一体となった長期的視点に立った通商政策により,日本の製造業は欧米を含むあらゆる海外市場で優位に立った。しかし,1980年代には,貿易不均衡が欧米諸国との緊張を引き起こし始めた。この間,1970年代に日本の経済成長は輸入石油価格の高騰と世界的な景気後退とによって一時的に鈍化した。1980年代の継続的な成長により,日本は 1990年代にも輸出を増加させ続ける。この時点で,日本はすでにアメリカに次ぐ世界第2位の経済大国になっていた。しかし 1980年代末のバブル経済の崩壊後,成長は緩慢となり,成長を牽引してきた自由民主党が野に下るなど,政治的にも不安定となった。
  
 
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2018/7/23/ (月) 22:32時点における版

日本にいつ頃から人類が定住し始めたかについては,1~3万年前の石器が発見されているものの確証はない。伝承では前660年,初代の神武天皇の即位をもって建国のときとしているが,史料では最初の統一国家である大和朝廷が出現したのは 4世紀末,あるいは 5世紀初頭である。この大和期に仏教が朝鮮半島を経由して伝来した。以後数世紀の間,日本は中国文化から強い影響を受けた。8世紀には中国を模倣した宮廷が奈良,続いて京都に誕生した。しかし 9世紀になると日本は大陸とのつながりを断ち始め,学んだものを翻案するようになった。政治的には,天皇はしだいに廷臣たちに従属するようになった。なかでも有力貴族の藤原氏は 11世紀を通じて絶大な勢力を保った。

しかし同時に,地方では武士階級が勃興し,排他的な政治力を蓄えつつあった。建久3(1192)年,源頼朝は初の武家政権である鎌倉幕府を樹立した。この政体が,途中幾度かの内部抗争を経ながらも慶応3(1867)年まで続くことになる。鎌倉時代(1192~1333)の文永11(1274)年と弘安4(1281)年の 2度にわたるモンゴルの侵略(元寇)は,偶然の台風によって撃退されたが,この侵攻に備えるための負担が鎌倉幕府の倒壊につながった。続く将軍足利氏による室町時代(1336~1573)は有力氏族による抗争と南北両朝の並立を特徴とする。織田信長によって緒についた政治的統一は天正18(1590)年,豊臣秀吉によって達成された。しかし,完全な意味での国家の統一は秀吉の死後,徳川家康の関ヶ原の戦い(1600)での勝利を待って実現した。

江戸時代(1603~1867),幕府は対外的孤立政策をとり,天文18(1549)年,イエズス会フランシスコ・ザビエルが渡来して以来改宗した国内のキリスト教徒は迫害され,外国人は追放され,日本人の海外渡航も禁止された。政府の安定は数世紀ぶりに日本に平和をもたらした。海外との隔絶(鎖国)は固有の文化を開花させたが,それは一方で社会の停滞をもたらした。ことに勃興する商人階級が制約に耐えきれなくなった。19世紀の中頃には幕府はもはや欧米の貿易商人たちを追い払うことができなくなり,政権への支持も崩壊した。

明治1(1868)年,天皇の支配権回復(王政復古)が宣言され,明治天皇が即位した。しかし,実際の政治権力は南西部出身の一群の若い指導者たちが掌握していた。彼らは新しい理念と技術を求めて,西ヨーロッパ世界のいたるところに視察団を派遣し,日本の政治・経済・社会制度は西ヨーロッパを模範として体系的に近代化された。その頂点を画するのが 1889年の大日本帝国憲法公布である。

日本はその後,帝国主義的傾向を強め,中国(日清戦争,1894~1895),ロシア(日露戦争,1904~05)との戦争さらには朝鮮併合(日韓併合,1910)へと突き進んだ。1930年代の世界的な経済困難は,日本の対内的には軍の独裁,対外的には侵略という傾向をいっそう強めた。日本は 1931年,中国から満州の支配権を奪ってこれを独立させ,ナチス・ドイツと同盟し(日独枢軸),1941年にはアメリカ合衆国,イギリスに宣戦布告し太平洋戦争に突入,ハワイとフィリピンのアメリカ軍を攻撃するとともに東南アジアのヨーロッパ諸国植民地を占領した。緒戦では成功を収めたが,日本軍はアメリカならびに連合軍によって徐々に押し戻された。1945年,アメリカは広島と長崎に原子爆弾を投下,両都市は灰塵に帰した。その直後,日本は連合国に降伏した。

アメリカによる戦後の占領により 1947年日本国憲法が与えられ,日本の民主化が進められた。官民一体となった長期的視点に立った通商政策により,日本の製造業は欧米を含むあらゆる海外市場で優位に立った。しかし,1980年代には,貿易不均衡が欧米諸国との緊張を引き起こし始めた。この間,1970年代に日本の経済成長は輸入石油価格の高騰と世界的な景気後退とによって一時的に鈍化した。1980年代の継続的な成長により,日本は 1990年代にも輸出を増加させ続ける。この時点で,日本はすでにアメリカに次ぐ世界第2位の経済大国になっていた。しかし 1980年代末のバブル経済の崩壊後,成長は緩慢となり,成長を牽引してきた自由民主党が野に下るなど,政治的にも不安定となった。