「日本の鉄道事故 (1949年以前)」の版間の差分

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<!-- 事故調が調査報告を出している事故は報告書の表題を使うと良いと思います。JR九州(2002)、名鉄(2002)などはそうしていました。一部歴史的な事故でなかば固有名詞化しているものはその名前を採用していますが適宜加筆修正してください。-->
 
{{Ambox |image=[[File:Question book-4.svg|50x40px]] |type=content |text = 年表に鉄道事故を追加記載する場合は、'''出典の明記'''をお願いします。<br />もし独立記事もなく''未出典のまま''項目が追加されていましたら、出典の追加記載にご協力お願いします。}}
 
{{参照方法|date=2016年1月}}
 
{{Notice|各項目の見出し(事故の名称)を変更する場合は、ほかの記事から<nowiki>[[</nowiki>日本の鉄道事故 (1949年以前)<nowiki>#○○事故|○○事故]]</nowiki>などの形でリンクされていることがありますので、リンク元の記事のリンクも確認・修正してください。}}
 
  
'''日本の鉄道事故'''(にほんのてつどうじこ)では、1949年以前に発生した日本の[[鉄道事故]]について記述する。
 
*1950年から1999年までに発生した日本の鉄道事故については[[日本の鉄道事故 (1950年から1999年)]]を参照。
 
*2000年以降に発生した日本の鉄道事故については[[日本の鉄道事故 (2000年以降)]]を参照。
 
*多くの事故は正式名称が無いため、便宜上独自の事故名表記としている。
 
== 事故一覧 ==
 
=== 1870年代 ===
 
==== 新橋駅構内列車脱線事故 ====
 
; [[1874年]](明治7年)[[10月11日]]([[列車脱線事故]])
 
: 午前8時15分、[[汐留駅 (国鉄)|新橋駅]]構内で[[桜木町駅|横濱]]からの列車が到着する際、[[分岐器|ポイント]]通過時に[[機関車]]と[[貨車]]1両が脱線し転覆、客車2両が脱線。負傷者なし。これにより午前中の運行は取りやめ、午後も品川 - 横濱間のみの運転となる。原因はポイントの故障とされる。日本最初の鉄道事故<ref>{{harvnb|鉄道大臣官房文書課|1921a|p=81}}、[{{NDLDC|960214/92}} 国立国会図書館デジタルコレクション]</ref>。
 
 
==== 東海道線西ノ宮列車正面衝突事故 ====
 
; [[1877年]](明治10年)[[10月1日]]
 
: [[東海道本線|東海道線]]・[[住吉駅 (JR西日本・神戸新交通)|住吉駅]] - 西ノ宮駅(現:[[西宮駅 (JR西日本)|西宮駅]])間で上り旅客列車と下り回送列車が正面衝突。
 
: 上下列車は本来西ノ宮駅で行き違う予定だったが、上り旅客列車の直前に臨時列車が設定され、下り回送列車の機関方(機関士)が臨時列車の到着後、旅客列車を待たずに発車したのが事故の原因である。上り旅客列車と正面衝突し、乗務員3人が死亡した。
 
: 従来は駅長同士の電信連絡で列車の運行を管理していたが、事故を機に1区間に1本の列車しか入れないようにする[[閉塞 (鉄道)#票券閉塞式|票券閉塞]]方式の導入が前倒しされた。日本最初の鉄道死亡事故{{sfn|佐々木|網谷|1993|pp=1&ndash;18}}。
 
 
=== 1880年代 ===
 
==== 大森駅構内列車脱線事故 ====
 
; [[1885年]](明治18年)[[10月13日]]([[列車脱線事故]]){{要出典|date=2016年1月}}
 
: 深夜1時頃、東海道線[[大森駅 (東京都)|大森駅]]構内で、到着した新橋発大森行き[[臨時列車]](客車14両編成、[[池上本門寺]]の[[参詣]]客用)を下り線から上り線に転線する作業中、[[分岐器]]上で客車が脱線転覆。乗客1名死亡、1名負傷。当日は池上本門寺の[[お会式]]期間中であった。事故原因は推進運転中の機関士が入換合図を見間違え、開通していない分岐器に進入したためといわれる。日本の鉄道における最初の[[旅客]]死亡事故<ref>久保田博「鉄道の安全はどのようにして守られてきたか」『鉄道ファン』No.295</ref>。
 
<!-- : 構内(蒲田寄の線路内)に木製の慰霊碑が建立されている(平成27年8月8日現在でその存在が確認できない。老朽化が著しかったため撤去されたものと思われる)。 -->
 
 
==== 東海道線工事列車正面衝突事故 ====
 
; 1889年(明治22年)4月11日
 
: 午前11時15分頃東海道線安倍川付近で[[国鉄160形蒸気機関車|15号機関車]]牽引の静岡発工事列車と[[国鉄A3形蒸気機関車|5号機関車]]牽引の焼津発静岡行工事列車が正面衝突し4人が死亡、7人が負傷した。
 
: 死亡した中には名古屋で開かれる第三師団の招魂祭に参列するために乗車していた静岡県知事の[[関口隆吉]]がいた。まだ東海道線が全通しておらず、関口は工事列車に併結された客車に便乗していたが、前の貨車が積載していた鉄材が衝突時の衝撃で客車に突き刺さり、その鉄材に足を挟まれ、足を切断しなければならない状態にもかかわらずそれを拒否したため[[破傷風]]によって傷口が化膿し、5月17日に死亡した{{sfn|日本国有鉄道|1969|p=717}}{{sfn|静岡新聞社|1981|pp=47&ndash;50}}。
 
 
=== 1890年代 ===
 
 
==== 山陽鉄道軍用列車海中転落事故 ====
 
[[File:Sounan Gunjin no Hi.JPG|thumb|250px|right|事故現場付近にある慰霊碑]]
 
; [[1895年]](明治28年)[[7月25日]]{{要出典|date=2017年9月}}
 
: 当時[[山陽鉄道]]の路線だった[[山陽本線]][[尾道駅]] - [[糸崎駅]]間を深夜に走行していた上り[[軍用列車]](蒸気機関車牽引、客車23両、車両は全て鉄道局所有)が、神戸起点225.3[[キロメートル|km]]付近(現在の[[広島県]][[三原市]]と[[尾道市]]の境界)において、折からの暴風雨による満潮時の波浪で、築堤が300[[メートル|m]]にわたって崩壊していた線路に突入したため、機関車と客車6両が[[瀬戸内海]]に脱線転落した。
 
: 軍用列車には[[日清戦争]]に従軍した傷病兵と付添人、乗員ら358名が乗車していたが、11名死亡(うち乗員3名)し、98名が負傷した。事故後[[脚気]]で3名が死亡したため、後述の[[慰霊碑]]では乗客の死者を11名としている。機関車に乗務していた機関士と火夫見習いは殉職したが、火夫は顔面の負傷のみで助かり、海中に転落した客車から傷病兵を救助し、事故発生を知らせるために徒歩で尾道駅に向かった。
 
: 現在、同区間は海岸から少し離れたところに線路があり、海岸との間に[[国道2号]]があるため、同種の災害が起きる危険度は低い。慰霊碑は事故から41年後の1936年に第5師団の手で建立されており、現在も山陽本線才の原踏切([[尾道バイパス]]と鉄道の立体交差地点)の傍らにある。
 
 
参考:[{{NDLDC|1920400/168}} 山陽鉄道大脱線 明治28年7月26日東京日日新聞『新聞集成明治編年史. 第九卷』](国立国会図書館デジタルコレクション){{出典無効|date=2017-09-30}}
 
 
==== 東海道本線工事列車転落事故 ====
 
; [[1897年]](明治30年)[[10月3日]]
 
: 東海道本線(現在の[[御殿場線]])[[駿河小山駅|小山駅]] - [[山北駅]]間([[谷峨駅]]は信号所時代を含め未開業)が、[[台風]]による[[酒匂川]]の氾濫によって不通になり、復旧工事が進められていた。午前5時ごろ、沼津から復旧工事現場に来た工事列車(機関車202号牽引)<!-- 後の7950形7965か -->が停止しようとしてブレーキ操作を誤り、速度超過のため車止めを突き破り築堤下に転落、乗組員3名(うち2名は即死、もう1名も当日内に死亡)及び作業員6人の計9名が死亡し16名が負傷した<ref>{{harvnb|鐵道作業局|1898|pp=115&ndash;116}}、[{{NDLDC|1081145/78}} 国立国会図書館デジタルコレクション]。</ref>。
 
 
==== 九州鉄道蒸気機関車ボイラー破裂事故 ====
 
[[File:Kyushu Railway SL Boiler explosion.jpg|thumb|ボイラーが破裂した機関車]]
 
; [[1898年]](明治31年)[[4月8日]] 8時ごろ
 
: [[九州鉄道]](後に国有化)[[幸袋線]](1969年廃止)の[[幸袋駅]]構内で混合列車を牽引していた蒸気機関車(タンク式、後の[[国鉄3300形蒸気機関車|3300形蒸気機関車]]、1893年アメリカ合衆国[[ボールドウィン・ロコモティブ・ワークス|ボールドウィン社]]製造)が、貨車入れ替え作業中にボイラーが破裂し大破。乗務員2名と駅員1名が殉職し、踏切にいた歩行者4名、民家内に居た1名が負傷したほか、吹き飛んだ車体で400[[尺]](約120m)離れた地点までの民家3軒も破損した。事故は外火室が破裂したものであったが、原因不明<ref>{{harvnb|逓信省鉄道局 |1900|pp=175&ndash;178}}、[{{NDLDC|805399/98}} 国立国会図書館デジタルコレクション]。</ref>。
 
 
==== 箒川鉄橋列車転落事故 ====
 
; [[1899年]](明治32年)[[10月7日]]
 
: 当時[[日本鉄道]]の路線だった[[東北本線]][[矢板駅]] - [[野崎駅 (栃木県)|野崎駅]]間で発生した明治時代最大の鉄道事故である。当日17時頃、折からの[[台風]]接近による強い風雨をついて、[[上野駅|上野]]発[[福島駅 (福島県)|福島]]行きの[[貨車]][[客車]]混合第375列車(機関車2両+貨車11両+客車7両)は矢板駅を約1時間遅れで発車した。箒川鉄橋を通過中突風にあおられ、この瞬間貨車最後尾の[[車掌車|緩急車]]の連結が外れて緩急車とその後ろの客車7両が鉄橋上で転覆、そのまま[[箒川]]へ転落した。増水した川の濁流で貨車・客車は砕かれ、一部の遺体は下流の[[烏山町]]まで流された。死者19名、負傷者38名{{sfn|佐々木|網谷|1995|pp=1&ndash;22}}。
 
{{Main|箒川鉄橋列車転落事故}}
 
 
=== 1900年代 ===
 
==== 東海道線山崎駅 - 高槻駅間列車脱線事故 ====
 
; [[1900年]](明治33年)[[8月4日]] 19時45分頃([[列車脱線事故]])
 
: [[東海道本線|東海道線]][[山崎駅 (京都府)|山崎駅]] - [[高槻駅]]間(当時[[島本駅]]は未開業)で下り第105混合列車(蒸気機関車、客車12両、貨車11両)が走行中突然、前から11両目の客車と次位の貨車3両が脱線し、その4両のうち2両が築堤下に転落し1人が死亡、2名が負傷した。事故原因は不明とされてきたが、後年の[[二軸車 (鉄道)|二軸貨車]]の[[競合脱線]]事故の最初のものと考えられている<ref>{{harvnb|鉄道大臣官房文書課|1921b|p=208}}、[{{NDLDC|960215/136}} 国立国会図書館デジタルコレクション]。</ref>。
 
 
==== 横川駅 - 軽井沢駅間乗務員乗客転落事故 ====
 
; [[1901年]](明治34年)[[7月13日]]([[鉄道人身障害事故]])
 
: [[横川駅 (群馬県)|横川駅]]を発車し、[[軽井沢駅]]へ向かって登坂中の[[長野駅|長野]]行き第51列車において、20時40分頃[[国鉄3950形蒸気機関車|1C1形蒸気機関車]]の蒸気管が突然破裂し、噴出した蒸気によって機関助士2名が車外に飛ばされて重軽傷を負った。機関士は非常制動をかけたが[[ブレーキ]]が効かず、列車は重力によって自然停止した後に退行しはじめた。このとき乗客は40人おり、うち1人が退行前に飛び降りて無事に軽井沢駅にたどり着いたが、退行開始後に飛び降りた[[日本鉄道]]副社長[[男爵]]の[[毛利重輔]]とその息子の2人が列車に巻き込まれて死亡した。技術者だった毛利は[[碓氷峠]]の急勾配で退行し始めたことは制動不能になったと判断、その恐ろしさを知っていたため、他の乗客にも飛び降りることを勧めて飛び降りたという。列車は約1.9km退行したが、機関士の必死の操作により停車に成功し残った乗客は無事だった<ref>{{harvnb|鉄道大臣官房文書課|1921b|p=209}}、[{{NDLDC|960215/136}} 国立国会図書館デジタルコレクション]。</ref>{{sfn|清水|2015|pp=116&ndash;120}}。
 
 
==== 大阪駅清水太右衛門殉職事故 ====
 
[[File:Shimizu Taemon died at his post Kamishibai.jpg|thumb|清水太右衛門を描いた紙芝居「鉄路の華」]]
 
; [[1907年]](明治40年)[[5月31日]] 18時ごろ([[鉄道人身障害事故]])
 
: [[大阪駅]]の駅員の[[清水太右衛門]]が同駅西第一踏切で踏切番として勤務中、遮断機をくぐり線路に入った幼女を発見、その時[[西成線]]の上下列車が同時に迫って来た。太右衛門も踏切内に飛び込み間一髪で幼女を救ったが、太右衛門は列車と接触し重傷を負い、幼女を気遣いながらも22時間後に入院先で死亡した。死亡前には事故の目撃者の1人から10円もの寄付があり、大阪駅長が発起人となって義捐金を集め太右衛門に贈ろうとしていた<ref>『[[大阪朝日新聞]]』1907年6月2日付「感心なる踏切番」・5日付「興風会と殉職踏切番」</ref>。
 
: この踏切は大阪駅[[高架]]化に伴い[[1934年]]5月に廃止された<ref>[http://www.sankei.com/west/news/140628/wst1406280073-n1.html 踏切の少女を救い、自らははねられ最期まで「危急」と叫び続けた「駅夫・清水太右衛門」の魂は語り継がれる…大阪駅にひっそり殉職碑、JR職員は手を合わせる]産経WEST、2016年8月10日閲覧。</ref>。
 
: 太右衛門の功績をたたえるため、同年10月に現場付近(現在の[[北区 (大阪市)|北区]]梅田三丁目)に「清水太右衛門殉職碑」が建立された。[[1945年]]の[[大阪大空襲]]で破壊されたため、[[1956年]]に国鉄総裁[[十河信二]]の[[揮毫]]で再建された。[[2007年]]に大阪駅の改装工事のため、[[阪神高速]]池田線梅田出入口付近に移設、これ以来JR社員によって数十年ぶりに命日に慰霊式が行われるようになった<ref>{{Cite news |title = 捨てられかけた巨大駅 JR大阪駅 |newspaper = [[朝日新聞]] |date = 2008-04-05 |author = 千葉正義 |url = http://www.asahi.com/kansai/travel/ensen/OSK200804050015.html |accessdate = 2015-04-05 }}</ref>。[[2011年]]1月、[[ノースゲートビルディング]]と立体駐車場をつなぐ通路に移設された<ref>{{Cite news |title = 104年前殉職駅員の碑に新入社員ら献花 JR大阪駅 |newspaper = 朝日新聞 |date = 2011-05-31 |author = 千葉正義 |url = http://www.asahi.com/kansai/travel/news/OSK201105310051.html |accessdate = 2015-04-05 }}</ref>。
 
: [[1942年]](昭和17年)に太右衛門の行為を描いた紙芝居が大阪鉄道局によって制作された。慰霊碑移設の新聞記事を見た作者の1人の遺族から[[2011年]]6月にJR西日本に寄贈され、同社は大阪駅に展示して安全教育に役立てるとしている<ref>『[[読売新聞]]』2011年6月26日付朝刊「104年前の鉄道員の勇気語る紙芝居 作者の息子がJR西に寄贈へ」</ref>。
 
: 参考文献
 
:* {{Cite book |和書 |editor = 朝日新聞大阪本社社会部 |year = 1980 |title = 大阪駅物語 |publisher = [[交通新聞社|弘済出版社]] |pages = 48 - 50 }}
 
:* {{Cite book |和書 |editor = 日本国有鉄道総裁室文書課 |year = 1962 |title = 鉄道碑めぐり |publisher = [[日本国有鉄道]] |pages = 137 - 139 }}
 
: 関連項目:[[山崎栄]]、[[塩狩峠]]
 
 
==== 九州線中原駅構内列車衝突事故 ====
 
; [[1908年]](明治41年)[[5月17日]]([[列車衝突事故]])
 
: 九州線(前年に[[九州鉄道]]を国有化したもの)[[中原駅]]で、混合列車と駅に停留中の貨車が衝突。この衝撃で貨車2両がプラットホームに乗り上げ駅舎を破壊、待合室にいた2名が死亡、6名が負傷した<ref>{{harvnb|鉄道大臣官房文書課|1921c|p=285}}、[{{NDLDC|960216/170}} 国立国会図書館デジタルコレクション]。</ref>。
 
 
==== 東海道線蒲郡駅構内列車衝突事故 ====
 
; [[1908年]](明治41年)[[9月2日]]([[列車衝突事故]])
 
: [[東海道本線|東海道線]][[蒲郡駅]]で、旅客列車と貨物列車が衝突、双方の機関車及び客車3両と貨車4両が脱線し破壊、乗客5名と職員1名が死亡し、8名が負傷した<ref>{{harvnb|鉄道大臣官房文書課|1921c|pp=285&ndash;286}}、[{{NDLDC|960216/170}} 国立国会図書館デジタルコレクション]。</ref>。
 
 
==== 奥羽線赤岩信号所構内列車転覆事故 ====
 
; [[1909年]](明治42年)[[6月12日]]([[列車脱線事故]])
 
: [[奥羽本線|奥羽線]][[赤岩駅|赤岩信号所]]で発生した列車転覆事故。赤岩信号所を発車した列車が急勾配の第13号隧道内において空転を頻発した。その際に後部補助機関車内の機関手及び機関助手は蒸気により窒息し、昏倒。異常に気づいた本務機関車の機関手は非常制動をしようとしたができず遂に後退し始めた。そのまま列車は赤岩信号所構内に侵入、脱線転覆した。木造の客貨車は粉砕され、旅客は1人死亡27人負傷、職員は3人死亡、3人が負傷した{{sfn|進藤|2001|p=34}}。
 
 
=== 1910年代 ===
 
==== 北陸線東岩瀬駅列車正面衝突事故 ====
 
; [[1913年]]([[大正]]2年)[[10月17日]]
 
: 午前4時23分頃、[[北陸本線]]東岩瀬駅(現在の[[東富山駅]]<ref group="注">[[富山ライトレール富山港線]]にある[[東岩瀬駅]]は当時未開業で、[[1924年]](大正13年)に越中岩瀬駅として開業した。</ref>)で、上り列車と行き違いを行う予定の下り臨時[[貨物列車]]第43列車が[[オーバーラン]]を起こして[[本線]]に進入、上り対向転轍機外方約24mの箇所に停車した。手信号による退行中に、[[今庄駅]]前運送店主催の善光寺参詣の旅行者を乗せた<ref name=":12">草卓人編、『鉄道の記憶』、2006年(平成18年)2月、桂書房</ref>、上り臨時[[団体専用列車|団体旅客列車]]第700列車が停止信号を冒進し衝突、客車6両が転覆脱線、客車2両が破損、貨車1両が脱線。旅客24名が死亡(うち18名即死<ref name=":0">富山市史編修委員会、『富山市史』第二巻、1960年(昭和35年)4月、富山市役所</ref>)、旅客106名、職員1名が負傷した。
 
: 下り列車のオーバーラン、上り列車の[[鉄道信号機|停止信号]]の見落とし、またはブレーキ操作の遅れが衝突の原因とされている。
 
: この事故による関係者の処分は、緩急車へのブレーキ管の接続が不完全だったにもかかわらず(つながってはいたが、ブレーキはかからない状態だった)発車させ、その際に虚偽報告をした富山駅助役が減俸処分<ref>『交通世界』大正4年2月15日号</ref>、旅客列車運転士が禁錮8か月、貨物列車運転士が罰金200円とされた。
 
: 旅客列車側の処罰が重い理由は、明治42年制定の列車運行及信号取扱心得第168条において「遠方信号機が確認できない場合は当該信号機に最大の制限のある危害信号(現在の停止信号)の現示があるものとして徐行し、必要に応じて停車しなければならず、場内信号機が停止信号であるならばその手前で停車しなければならない」との規定に違反していたためである。
 
: この事故を機に[[安全側線]]が採用され、日本全国に整備された。安全側線は低速でのオーバーランに対しては有効であるが、運転士が停車操作を行わない場合は安全に停車できず、有効長が短いため砂利盛りに乗り上げるなどして脱線転覆して結局本線を支障することがある。その例として、後年に発生した[[参宮線]][[六軒事故|六軒駅列車脱線事故]]、[[常磐線]][[三河島事故]]などがある。これらの事故を教訓に[[自動列車停止装置|ATS]]、[[自動列車制御装置|ATC]]などのさらなる安全設備が進展した{{sfn|佐々木|網谷|1993|pp=19&ndash;38}}。
 
<!--
 
*[{{NDLDC|961146/14}} 写真 第十八図D]、[{{NDLDC|961146/66}}  『鉄道物語』](国立国会図書館デジタルコレクション)
 
-->
 
 
==== 東海道線西ノ宮駅列車脱線事故 ====
 
; [[1914年]](大正3年)[[3月16日]]([[列車脱線事故]]){{要出典|date=2016年1月}}
 
: 午前3時半頃、[[神戸駅 (兵庫県)|神戸駅]]発[[大阪駅|大阪]]行の貨物第579列車が[[西宮駅 (JR西日本)|西ノ宮駅]]付近で脱線した。37両中、14両が脱線。
 
 
==== 東北線列車正面衝突事故 ====
 
; [[1916年]](大正5年)[[11月29日]]
 
: [[東北本線]](現在の[[青い森鉄道線]])[[下田駅]] - 古間木駅(現・[[三沢駅 (青森県)|三沢駅]])間(当時[[向山駅]]は未開業)で、下り臨時旅客列車と上り貨物列車が正面衝突。[[軍隊]]入営兵士ら39名が死亡した<ref>{{harvnb|鉄道省大臣官房研究所|1922|pp=452&ndash;454}}、[{{NDLDC|959812/274}} 国立国会図書館デジタルコレクション]。</ref>。
 
: 当時、東北本線は[[単線]]で[[閉塞 (鉄道)#タブレット閉塞式|通票閉塞方式]]をとっていた。当日夜、古間木駅助役と駅員1人が勤務時間中に外出し飲酒した。先に戻ってきた駅員は下り臨時旅客列車の運転の連絡を受け閉塞扱いをしたのち就寝し、後に駅に戻った助役も寝てしまった。その後、下り臨時旅客列車の運転を知らされていない別の駅員が、到着した上り貨物列車に渡す通票が見当たらないために助役を起こして指示を仰いだところ、泥酔した助役は閉塞機から通票が取り出せないのは故障だと判断し、針金を差し込む不正操作で通票を取り出して上り貨物列車に渡し発車させてしまった。当時の閉塞機は通票が引っかかって取り出せなくなる故障が時として起こっており、その際は針金などを差し込んで通票を取り出していたが、この事故を機に、不正扱いが出来ないよう閉塞機の改良が進んだ{{sfn|佐々木|網谷|1993|pp=39&ndash;61}}。
 
<!--
 
事故写真[{{NDLDC|966227/16}} 『歴史写真. 大正6年1月號』](国立国会図書館デジタルコレクション)
 
-->
 
 
==== 岩越線雪崩事故 ====
 
; [[1917年]](大正6年)1月22日 - 23日
 
: 1月22日、岩越線(現・[[磐越西線]])[[徳沢駅|徳沢]] - [[豊実駅|豊実]]間で旅客列車の一部の車両が雪崩により埋没、無事だった客車で乗客を避難させた。翌23日、この列車の救援に向かった機関車が堆雪により停車、除雪作業中に[[雪崩]]の直撃を受けた<ref>{{harvnb|鉄道省大臣官房研究所|1922|pp=262&ndash;265}}、[{{NDLDC|959812/147}} 国立国会図書館デジタルコレクション]。</ref>。死者9名{{Sfn|丸山久一|1977|pp=150-156}}。なお同線では同年3月にも雪崩による鉄道事故と、[[松野トンネル崩壊事故]]が発生している。
 
 
==== 信越本線熊ノ平駅列車脱線事故 ====
 
[[File:EC40 Usui touge accident.jpg|thumb|事故現場]]
 
; [[1918年]](大正7年)3月7日([[列車脱線事故]])
 
: [[熊ノ平駅]]を軽井沢方面へ発車した貨第191列車([[国鉄EC40形電気機関車|10000形電気機関車]]2両+貨車10両+有蓋緩急車1両)の本務機関士が、第20号[[トンネル]]通過中に異臭・異音を感じ、緊急停車した。故障は軽微であったことから運行継続を決断し、再発車しようとしたが起動せず、碓氷峠の急勾配を退行し始めた。機関士は制動を試みたが発電ブレーキが故障して効かず、10箇所のトンネルを通過暴走して熊ノ平駅の引込線に突っ込み、第10号トンネル終点側出口付近の岩壁に衝突した。列車は転覆して大破、これにより乗務員1名、熊ノ平駅転轍手1名の計2名が即死、補助機機関士、後部車掌の2名が重傷後死亡で計4名が犠牲となり、その他4名が負傷した<ref>{{harvnb|鉄道省大臣官房研究所|1922|pp=471&ndash;477}}、[{{NDLDC|959812/283}} 国立国会図書館デジタルコレクション]。</ref>。
 
{{Main|信越本線熊ノ平駅列車脱線事故}}
 
 
==== 下関駅構内爆発事故 ====
 
; 1918年(大正7年)7月26日
 
: 山陽本線[[下関駅]](旧)構内で[[関門連絡船]]に積込み中の弾薬搭載の貨車が爆発。作業員ら34名が死亡、51名が負傷した。さらに鉄道貨車7両が粉砕し118両が脱線したうえに、下関駅構内にいた急行列車の客車窓ガラスも破壊されたため、列車の乗員乗客55名も負傷した<ref>{{harvnb|鉄道省大臣官房研究所|1923|pp=352&ndash;355}}、[{{NDLDC|959813/212}} 国立国会図書館デジタルコレクション]。</ref>。
 
 
=== 1920年代 ===
 
==== 磐越西線小島山トンネル列車脱線火災事故 ====
 
; [[1921年]](大正10年)3月20日 18時8分
 
: [[磐越西線]]の[[五十島駅]] - [[馬下駅]]間(当時[[東下条駅]]・[[咲花駅]]は未開業)にある小島山トンネルの東側出口で、雪混じりの土砂が堆積しているところに上り列車が突入し脱線。多数の重軽傷者が発生する中、郵便係員用のストーブから出火し全車両に延焼した<ref>{{harvnb|鉄道省大臣官房研究所|1925|pp=220&ndash;222}}、[{{NDLDC|959815/117}} 国立国会図書館デジタルコレクション]。</ref>。死者9名{{Sfn|丸山久一|1977|pp=150-156}}。
 
 
==== 北陸線列車雪崩直撃事故 ====
 
[[File:北陸線列車雪崩直撃事故現場写真 東京日日新聞大正11年2月7日9面.jpg|thumb|280px|北陸線列車雪崩直撃事故現場写真 ([[東京日日新聞]]大正11年2月7日) 床しか残っていない]]
 
; [[1922年]](大正11年)2月3日
 
: 北陸本線(現・[[えちごトキめき鉄道日本海ひすいライン]])[[親不知駅]] - [[青海駅 (新潟県)|青海駅]]間にあった勝山トンネル西口で65列車([[国鉄2100形蒸気機関車|蒸気機関車2296(2120形)]]牽引、6両編成)が[[雪崩]]の直撃を受け客車2両が脱線大破した。乗員乗客200名のうち、乗客89名、鉄道職員1名、あわせて90名が死亡した。
 
: 事故原因は豪雪による積雪が季節外れの大雨によって緩んだために発生した雪崩に巻き込まれたものだった。雪崩による鉄道事故の犠牲者数では、現在に至るまで日本で最悪の数字である{{sfn|佐々木|網谷|1993|pp=63&ndash;84}}。
 
 
{{main|北陸線列車雪崩直撃事故}}
 
 
==== 参宮線列車転覆事故 ====
 
; [[1923年]](大正12年)[[4月16日]]
 
: 参宮線(現在の[[紀勢本線]])の[[下庄駅]] - [[一身田駅]]間([[亀山駅 (三重県)|亀山駅]]から約8.1km地点)で、湊町(現在の[[JR難波駅|JR難波]])発[[鳥羽駅|鳥羽]]行き急行62列車が脱線転覆した事故。死者15名、負傷者約160ないし200名。
 
: この日は先発の第60列車が定員オーバーにより連結器が破損して2時間以上遅れ、その間に、名古屋方面から来た乗客を乗せるため亀山駅より臨時列車が第60列車のダイヤに沿って発車(臨時60列車)、遅れて到着した第60列車は第62列車のダイヤに沿って運転、さらにその後ろを走っていた第62列車は下庄駅で上り第310列車を待ち合わせたため、32分遅れで発車した。
 
: 事故現場ではこの第310列車の通過後40分間列車が来ないことになっており、この間にレールを交換する予定であった。しかし、それを知らせる標識は一切出しておらず、レールを外し終わったところに62列車が差しかかり脱線、転覆した。
 
: 機関車は線路の敷かれていた築堤上に停車、しかし木造客車7両のうち4輪単車の1 - 3両目は築堤の下に落ちて大破、同じく4輪単車の4,5両目も折り重なるようにして大破、線路上に残っていたボギー車の6,7両目も破損した。そして築堤下に落ちたうちの1両は写真では一切確認できないほど大破した{{sfn|佐々木|網谷|1993|pp=85&ndash;101}}<ref>{{harvnb|鉄道省大臣官房研究所|1927|pp=141&ndash;142}}、[{{NDLDC|1139762/95}} 国立国会図書館デジタルコレクション]。</ref>。
 
 
==== 根府川駅列車転落事故 ====
 
[[画像:Nunber 977.JPG|thumb|250px|right|事故機関車のナンバープレート]]
 
{{Double image aside|right|Nebukawa Station earthquake passenger car left.jpg|240|Nebukawa Station sunken wheel1933.jpg|240|海岸に残った客車のうちの1両。台車が外れ、車体が歪んでいる。|海底に沈んだ車輪の周りを泳ぐ魚<br />(読売新聞1933年8月28日付)}}
 
; 1923年(大正12年)[[9月1日]]([[関東大震災]])
 
: 熱海線(現在の[[東海道本線]])[[根府川駅]]のホームに停止しようとしていた下り[[真鶴駅]]行き列車([[国鉄5300形蒸気機関車#960形|960形蒸気機関車]]977牽引、乗客約150名)が、[[関東地震#大正関東地震|関東地震]]によって引き起こされた地滑りに遭遇し、ホームごとおよそ45m下の海中に転落、客車8両のうち最後部の2両<ref group="注">一部の資料では1両。</ref>が波打ち際に残ったほかは海中に没した。鉄道省の記録{{sfn|鉄道省|1927}}では、列車の乗客と乗務員合わせて111名が死亡、更に、ホームにいた駅員3名が死亡、乗客約20名が行方不明、これも合計すると死者行方不明者は約130名となっているが、死者数は資料によって異なっている{{sfn|武村雅之|2010|p=124}}。
 
: また、根府川駅で下り事故列車と交換するはずであった[[東京駅]]行き上り列車は、遅延していたため寒ノ目山トンネルを出た所で地滑りに遭遇し、客車6両をトンネル内に残して[[国鉄5300形蒸気機関車#960形|960形蒸気機関車]](979{{sfn|鉄道省|1927|p=818}})が埋没、職員4名と乗客2名が死亡した{{sfn|鉄道省|1927}}。
 
: 関東大震災では12件の鉄道事故が発生し、犠牲者が出た事故は7件あったが、根府川駅における事故が最大の犠牲者を出していた{{sfn|佐々木|網谷|1993|pp=103&ndash;120}}。
 
{{main|根府川駅列車転落事故}}
 
 
==== 箱根登山鉄道電車脱線転落事故 ====
 
; [[1926年]](大正15年)[[1月16日]]([[列車脱線事故]]){{要出典|date=2016年1月}}
 
: 小田原電気鉄道(現・[[箱根登山鉄道]])[[小涌谷駅]] - [[宮ノ下駅]]間の80[[パーミル|‰]]の下り勾配を走行していた箱根湯本行き単行電車([[小田原電気鉄道チキ1形電車|チキ1型]]チキ5)のブレーキが利かなくなり、加速してカーブで脱線し、築堤から12m下に落下し、民家2軒(留守で誰もいなかった)を半壊させた。この事故で17名が死亡、10名が負傷した。唯一無傷だったのは途中で飛び降りた乗客1名のみだった。
 
: 事故原因は鉄道省による調査では線路、車両とも異常はみつからず、電車の運転士が速度制御に失敗したと推定されたが、重傷の運転士は当時の記憶を喪失しており、詳細を調査できず原因不明として処理された{{sfn|箱根登山鉄道|1978|pp=113&ndash;116}}。
 
: 事故車のチキ5は廃車となった。その後、[[1950年]]にチキ1型の台車等を流用したモハ1形が製造されたが、車両番号は台車の流用元の番号に100を足したものとされたため、105号が当初から存在しない状態となっている。
 
 
==== 山陽線特急列車脱線事故 ====
 
[[File:Sanyo line Limited express Aki-nakano Derailment Accident.jpg|thumb|250px|めり込み粉砕した木造客車]]
 
; 1926年(大正15年)[[9月23日]]
 
: [[山陽本線]][[安芸中野駅]] - [[海田市駅]]間で、豪雨により築堤が崩壊し線路が浮き上がっていた場所に東京発下関行きの下り[[特別急行列車|特急第1列車]](事故後の[[1929年]](昭和4年)に「[[富士 (列車)|富士]]」と命名)がさしかかり、築堤下に脱線転覆。34名が死亡した。
 
: 事故列車は[[ヨーロッパ]] - [[アジア]]間[[連絡運輸|国際連絡運輸]]の一部を担うものであり、著名人が多数犠牲となった。木造客車の車体強度の弱さが指摘され、この事故と参宮線における事故により木造車両の製造を中止し、翌年から鋼製客車が製造されるようになった{{sfn|佐々木|網谷|1993|pp=121&ndash;142}}。
 
{{main|山陽本線特急列車脱線事故}}
 
 
==== 阪急十三駅三重衝突事故 ====
 
; 1926年(大正15年)[[10月14日]]
 
: [[阪急電鉄|阪急]][[阪急神戸線|神戸線]][[十三駅]]構内を走行中、神戸(後に[[上筒井駅]]に改称され廃止)発[[梅田駅|梅田]]行列車([[阪急300形電車|500形]]508+509+510)が[[阪急宝塚線|宝塚線]]の引き上げ線に誤進入。その後、電動貨車1208号が510号と接触。さらに、神戸行列車([[阪急600形電車|600形]]604+602+606)が510号と接触し、三重衝突事故となった<ref name="asahi hankyu1">『大阪朝日新聞』1926年10月15日付朝刊(『[[鉄道ファン (雑誌)|鉄道ファン]]』2012年11月号に再録)</ref>。
 
: 事故車両はすべて鋼製車両だったため、死者はなく、負傷者3人のみにとどまった。
 
 
==== 東京市電大曲衝突事故 ====
 
; [[1928年]](昭和3年)[[7月3日]]
 
: 当日朝、[[東京市電]]の21系統[[厩橋]]発[[早稲田]]行きの電車([[東京市電気局1471形電車#2200形|1600形]]1632号)が竹町停留所付近にて空気ブレーキの故障を起こし、同停留所で客扱いを中止して早稲田車庫への回送を決定。春日町停留所まで単独運行した後に大塚行きの電車との連結運転で伝通院停留所へ到着。同停留所から次の早稲田行きの電車に連結するために早稲田方面の線路に侵入したところ、安藤坂の自然傾斜により電車は暴走を始める。
 
: 同車の監督運転士が暴走する電車に飛び乗り、運転士と共に電車を制動させようとするも失敗し、坂下の大曲交差点に差し掛かっていた38系統早稲田発[[錦糸町|錦糸堀]]行きの電車([[東京市電気局1121形電車|1000形]]1056号)の運転士が回送車の監督運転士の危険を知らせる絶叫に気づいて電車を発進させるも<ref>『東京朝日新聞』1928年7月5日付朝刊</ref>、間に合わずに側面に衝突。
 
: 朝ラッシュで乗客を満載していた錦糸堀行き電車は民家の板塀を突き破った状態で横倒しとなり、回送車は運転台をもぎ取られた状態で停止。回送車の監督運転士が即死し、33名が重軽傷を負った。<ref>『東京朝日新聞』1928年7月4日付朝刊</ref>
 
 
==== 北陸線柳ヶ瀬トンネル窒息事故 ====
 
; [[1928年]](昭和3年)[[12月6日]]
 
: [[北陸本線]][[刀根駅]] - [[柳ヶ瀬駅]]間(後に新線切り替えに伴い当該区間は[[柳ヶ瀬線]]に分離、[[1964年]]廃止)にある[[柳ヶ瀬トンネル]](単線)を走行していた上り556貨物列車([[国鉄D50形蒸気機関車|D50形]]蒸気機関車2両、前部本務機D50 64、後部補機D50 206)が、トンネル内の25[[パーミル|‰]]の登り坂で車輪が空転し速度が低下し、トンネル内に煤煙が充満したため、出口から25mの地点で走行不能になった。そのため上り貨物列車の乗員10名が窒息したが、かろうじて前部本務機の乗務員3名がはい出て昏倒した。
 
: トンネル直前にあった雁ヶ谷信号所で待機していた下り553貨物列車の機関車が救助のために牽引し、トンネル外に押し出したが、下り機関車の乗務員2名も昏倒した。結果上下の貨物列車の乗務員12名全員が窒息し、上り貨物列車の車掌・荷扱手、[[火夫|機関助士]]見習の3名が死亡した(一部に5名死亡の記録もある)。
 
: 事故原因は、2日前に別の鉄道事故で1日間不通になったことにより滞貨していた貨物を大量に牽引していたため、重量が超過していたこと、レールに積雪があり車輪が空転していたこと、風が貨物列車にとって追い風となり、煤煙がまとわりついて拡散しなかったことがあげられている。しかし、最大の原因は柳ヶ瀬トンネルが1884年に開通したトンネルであり、明治時代の小さな蒸気機関車にあわせたトンネル幅の規格(後年の標準規格の71%のサイズしかなかった)で建設されていたことである。そのため、昭和時代になって大型蒸気機関車が通行すると、空間に余裕がなく煤煙が充満し当該窒息事故が発生した。
 
: 事故対策として、全国の長大トンネルで列車が入ると煤煙にまかれないように遮断幕を下ろす設備が整備されたほか、蒸気機関車の運転室に煤煙が入らないように、集煙装置が付けられるようになった{{sfn|佐々木|網谷|1993|pp=143&ndash;164}}
 
 
<!--妥当な呼称が不明なので、適当な名称で書きます-->
 
==== 大鉄電車三重衝突事故 ====
 
[[File:Kaminotaishi Station accident.jpg|thumb|240px|吉野行き2両編成(右端)が後退し久米寺行き単行(中央)に衝突、更に吉野行き4両編成(左端)に玉突き]]
 
; [[1929年]](昭和4年)[[4月14日]]
 
: [[3月29日]]に開業したばかりの[[大阪鉄道 (2代目)|大阪鉄道]](現在の[[近鉄南大阪線]])[[上ノ太子駅]] - [[二上山駅]]間(上ノ太子駅東方250m{{sfn|佐竹三吾|1952|p=123}})で、花見客で満員の[[大阪阿部野橋駅|大阪阿部野橋]]発[[吉野駅 (奈良県)|吉野]]行き電車(6両編成、最後尾[[大阪鉄道デニ500形電車|デニ500形]]529号<ref>『大阪朝日新聞』による。『[[大阪毎日新聞]]』では「17号」。</ref>)が上り急勾配で故障して停車。2時間修理を試みるも直らず、午後12時10分、[[古市駅 (大阪府)|古市駅]]から派遣された検車係が2両ずつ発車させようと連結器を切り離したところ、最後部の2両が突然後退し始めた。乗務員が乗り合わせていなかったためブレーキ操作はされず<ref name="asahi daitetsu1">『大阪朝日新聞』1929年4月15日付朝刊1・5面</ref>、あるいはすぐ飛び乗りエアブレーキ、ハンドブレーキを必死にかけたが効かず<ref name="asahi daitetsu2">『大阪毎日新聞』1929年4月15日付朝刊7面</ref>、急勾配で加速し、上ノ太子駅に停車中の久米寺行き後続電車(デハ100形114号)に衝突、後方3尺の所に停車していた吉野行き後続電車(4両連結、先頭[[大阪鉄道デニ500形電車|デニ500形]]502号)を巻き込み三重衝突となった。
 
: 吉野行き電車運転士が死亡、乗客12名が重傷、80名余りが軽傷を負った<ref name="asahi daitetsu1" />。新聞報道には無いが、『大鐵全史』(1952年)によれば乗客も1名死亡している。[[橿原神宮前駅|久米寺]]行き電車は全鋼車ではなかったため大きく破壊されたが、後退して来る電車を発見して窓から逃げ出し難を逃れた乗客も多かった。一方、後続の吉野行き電車では気付けず前部から多くの重傷者が出た。上ノ太子駅員や車掌、運転士は激怒する乗客たちに圧倒され現場を捨てて逃げ出したという。
 
: 1両の定員が132名にも関わらず400名以上を乗せており、上り急勾配に当時の電鉄界最初の試みという6両連結は無理があったのではないか、と問題視された。この日は朝から急勾配で数分または数十分立ち往生する電車が頻発し、午前10時頃には二十数両が数珠繋ぎとなり、機関車2両を出動させて片付けたほどであった<ref name="asahi daitetsu1" />。
 
: 後の調査で、検車係は許可が出る前に独断で後部車両を切り離したことと、設置したという[[手歯止め]]が現場周辺から見つからず、虚偽の証言をしていたことが明らかになった。[[手歯止め]]と[[ハンドブレーキ]]をかけず、エアーシリンダーの気圧も確かめずに後部車両を切り離したために後退したとされる<ref>『大阪毎日新聞』1929年4月16日付夕刊2面</ref>。
 
: この事故の2日後の[[4月16日]]には嵐山電車(現・[[京福電気鉄道北野線]])[[御室仁和寺駅|御室駅]] - [[妙心寺駅]]間で[[閉塞 (鉄道)#タブレット|タブレット]]の扱いの誤りにより正面衝突事故(運転士1名死亡)が発生した。度重なる事故に「平常[[鉄道省]]が私設鉄道の監督を怠っている結果」と世間の非難が高まり、鉄道省は両社に検査官を派遣、その後警告をすることにした<ref>『大阪毎日新聞』1929年4月21日付夕刊2面</ref>。
 
: 事故に関わった車両のうち車番が判明している3両はいずれも[[1942年]](昭和17年)時点で既に廃車されており、事故廃車と思われる<ref group="注">『大鐵全史』掲載の「車輌内訳表 昭和17年9月末現在」ではデハ100形101-115のうち104、'''114'''、デニ500形501-535のうち'''502'''、520、'''529'''が欠番となっている。</ref><ref group="注">『[[レイル (雑誌)|レイル]]』1979年10月号の58 - 61ページによると、502、529は1939年に制御車フイ616、618として復帰し、関西急行鉄道に吸収されたときに、ク6686、6688に改番され、別の事故で520→617→6687となっている。このため、533、534、535が6602、6620、6629と改番されている。</ref>。
 
<!--[[大阪鉄道デニ500形電車]]には事故が与えた影響が書かれているが、出典が無いので転記出来ない-->
 
 
=== 1930年代 ===
 
==== 久大線機関車ボイラー破損事故 ====
 
; [[1930年]](昭和5年)[[4月6日]]
 
: [[久大本線]][[鬼瀬駅]] - [[小野屋駅]]間で、後進牽引(ボイラー側を客車に向けて牽引)していた機関車のボイラが破裂。煙室扉が開き、熱水([[飽和蒸気]]または[[水性ガス]]の説あり)が客車内に吹き込み、23名が死亡した。この事故を機に、後進牽引を極力抑えるため、終点駅への[[転車台]]設置が進められた{{sfn|佐々木|網谷|1993|pp=165&ndash;182}}。
 
 
==== 山陽線急行列車脱線転落事故 ====
 
[[File:Sanyo train derailment accident at Kochi Station.jpg|thumb|240px|事故現場]]
 
; [[1931年]](昭和6年)[[1月12日]]午前3時57分
 
: [[山陽本線]][[河内駅]]を通過中の上り急行列車(13両編成)が分岐器で脱線。機関車([[国鉄C53形蒸気機関車|C53 24]])が横転して後位の客車5両が駅前方の椋梨川鉄橋から川に転落し、7名が死亡、179名が重軽傷を負った<ref group="注">死傷者数は『続・事故の鉄道史』による。『東京朝日新聞』1931年1月13日付夕刊では「肝腎の機関手が絶命して原因取調に支障」とあるが誤報で、実際は重傷を負いながらも生存している。</ref>。横転して鉄橋を塞いでいた機関車は川に突き落として撤去された<ref>『大阪朝日新聞』1931年1月13日付朝刊</ref>。
 
: 分岐器通過の際の速度超過が原因とされ<ref>「山陽線椿事の原因と大塚副参事以下の責任判明」『[[國民新聞|国民新聞]]』1931年4月12日。[http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=00102432&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1 神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫]</ref>、速度制限標の設置が進められた。前年に発生した[[石山駅#東海道線石山駅急行列車脱線転覆事故|東海道線石山駅急行列車脱線転覆事故]]とは駅の前か後かの違いで状況が類似している。
 
: なお、事故の原因については分岐器の設置ミスとの説もある{{sfn|佐々木|網谷|1995|pp=43&ndash;61}}。
 
 
==== 東海道線瀬田川鉄橋急行列車脱線転覆事故 ====
 
[[File:Setagawa bridge derailment.jpg|thumb|240px|事故現場]]
 
[[File:Setagawa railway bridge accident distant view.jpg|thumb|270px|遠景]]
 
; [[1934年]](昭和9年)[[9月21日]]([[室戸台風]])
 
: [[東海道本線]][[草津駅 (滋賀県)|草津駅]] - [[石山駅]]間(現在の[[瀬田駅 (滋賀県)|瀬田駅]] - 石山駅間、当時瀬田駅と[[南草津駅]]は未開業)の[[瀬田川]]橋梁上を徐行運転していた下り急行列車(11両編成)が[[室戸台風]]の強風により脱線。3両目以降の9両の客車が橋梁上に転覆し、11名が死亡、202名が負傷した。
 
: 橋梁上での強風による客車の脱線という点では後年の[[余部橋梁#余部鉄橋列車転落事故|余部鉄橋列車転落事故]]と類似しているが、こちらは複線橋梁で、客車がもう片方の線路がある側に倒れて寄りかかったため転落(水没)という最悪の事態は避けられた。通過各駅に掲示された暴風警報(気象告知板)や、本来は通過駅の草津駅で臨時停車して受けた警告<ref>『大阪朝日新聞』1934年9月23日朝刊2面</ref>を考慮せず列車を運行していたため、[[京都地方検察庁|京都地検]]は不可抗力では無く乗務員の過失と認定<ref>「過失と認定愈よ起訴 京都地検で慎重審理の結果 瀬田川列車顛覆事件」『[[神戸又新日報]]』1934年10月10日。[http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=00103165&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1 神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫]</ref>し起訴を決定した。
 
: 事故を機に、風速計が設置され、防風設備の研究が進められた。
 
: [[鉄道電話]]が通じず5時間も鉄道省は死傷者の氏名すら把握出来ず、鉄道省は空中架線に問題があるとして鉄道無電の整備を逓信省に要望した<ref>『大阪朝日新聞』1934年10月4日朝刊3面「台風に煽られて切実に無電欲 鉄道、警察に必須論 通信統制から逓信省は反対」</ref>。
 
: この事故の直前に[[東海道本線]][[摂津富田駅]]付近で列車が脱線転覆し25名が死傷、また同線[[野洲駅]] - [[守山駅 (滋賀県)|守山駅]]間の野洲川橋梁で貨物列車が転落、水没している。国鉄の強風への対策不足が露呈する結果となった<ref>「”鉄道の大演習” 欠陥暴露に驚いた内田鉄相 規定も改正を命ず」『大阪毎日新聞』1934年9月27日。[http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=00103157&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1 神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫]</ref>。
 
: なお同日午前には、[[大阪電気軌道]]奈良線(現・[[近鉄奈良線]])でも[[大阪府]][[布施町]](現・[[東大阪市]])内で電車([[大阪電気軌道デボ1形電車|デボ1形5]])が脱線転覆した。負傷者は20名、復旧に8日を要した。
 
: 寝台車マイネフ37200が大破し復旧困難であったことから翌年5月廃車となったが、[[1937年]]に[[試験車]]として改造され復活、[[1975年]]まで在籍した。[[国鉄オハ31系客車]]を参照。
 
{{Double image aside|left|Setagawa railway bridge accident postcard.jpg|240|Near Settsu-Tonda Station accident by 1934 Muroto typhoon.jpg|180|湾曲したレールに注目|[[摂津富田駅]]付近で脱線転覆した列車}}
 
 
==== 山陽本線特別急行列車追突事故 ====
 
[[File:Okayama Station accident C51.jpg|thumb|260px|展望車に機関車がめり込んでいる]]
 
; [[1937年]](昭和12年)[[7月29日]]
 
: [[山陽本線]][[岡山駅]]構内で4分遅れで発車しようとしていた下り特別急行1列車「[[富士 (列車)|富士]]」号([[国鉄C53形蒸気機関車|C53形]]62号機牽引・客車11両編成)に後続の臨時普通1101列車([[国鉄C51形蒸気機関車|C51形]]77号機牽引・客車8両編成)が追突し、臨時普通列車の機関車が特急富士の一等[[展望車]]の展望室内に突っ込み大破、普通列車の先頭木造客車も機関車炭水車に突っ込み大破し双方の列車の乗客6名が死亡(内3名は救助後死亡)、乗客・乗務員64名が負傷した。原因は岡山駅信号所係員の信号取り扱いのミス<ref>久保田博「鉄道の安全はどのように守られてきたか 鉄道保安要史 その5」交友社 [[鉄道ファン]]1986年3月号88頁 </ref>。
 
 
==== 東神奈川駅軍用列車歓送客轢死事故 ====
 
; 1937年(昭和12年)[[10月27日]]([[鉄道人身障害事故]]){{要出典|date=2016年1月}}
 
: 東海道本線[[東神奈川駅]]付近で、軍用列車歓送の人波に押し出された[[国防婦人会]]の女性ら25名が列車にひかれ死亡。
 
 
==== 鹿児島線列車火災事故 ====
 
; 1937年(昭和12年)[[12月27日]]([[列車火災事故]])
 
: [[鹿児島本線]][[小倉駅 (福岡県)|小倉駅]] - 上戸畑信号場(現・[[九州工大前駅]]付近)間を走行していた上り12列車(7両編成)の4号車車内で爆発音が聞こえ火炎が上がったため車掌弁で急停車。火災は火元前後の客車に類焼し9名が死亡、36名が負傷した。乗客が玩具製造の[[セルロイド]]管の束を客車に持ち込み下車の際網棚から降ろしたときに自身のくわえタバコの火がセルロイド管に引火したのが原因<ref>久保田博「鉄道の安全はどのように守られてきたか 鉄道保安要史 その5」交友社 [[鉄道ファン]]1986年3月号88-89頁 </ref>。
 
 
==== 山陽線列車脱線転覆事故 ====
 
; [[1938年]](昭和13年)[[6月15日]] 午前3時56分頃
 
: [[山陽本線]][[熊山駅]] - [[和気駅]]間を走行していた下関発京都行きの上り110列車(13両編成)が走行中、築堤が崩壊し機関車と前4両が脱線転覆。その直後に走行してきた京都発宇野行きの下り801列車が下り線を塞いでいた110列車の5両目の側面に衝突した。この事故で25名が死亡し、108名が負傷した。
 
: 110列車の機関車乗務員2名が殉職したほか、機関車の次位に増結されていた木造車両が粉砕し、多くの死傷者が出たが、この増結車両には[[厳島|宮島]]への[[修学旅行]]に行った帰りだった[[和歌山県]]橋本[[高等小学校]]の生徒一行が乗車しており、多くの生徒が犠牲になった。また引率していた教員3名全員が殉職したが、瀕死の状態でありながら、自分の身よりも生徒達の安否を尋ねていたという最期の様子が世間の同情を集めたという。
 
: 事故原因については、急曲線改良工事のために新たに盛土した築堤が、梅雨による長雨のために伏流水が増大し、[[国鉄C53形蒸気機関車|C53形蒸気機関車]]の重量に耐え切れなくなり崩壊したというものだった。そのため設計ミスで水抜きが充分ではなく盛土工事の施工不良が原因とされた。事故原因は天災よりも人為的ミスの割合が高かったとされた{{sfn|佐々木|網谷|1995|pp=63&ndash;76}}。
 
 
==== 魚梁瀬森林鉄道車両転落事故 ====
 
; [[1939年]](昭和14年)[[6月4日]]{{要出典|date=2016年1月}}
 
: [[高知県]]にあった[[魚梁瀬森林鉄道]]で、山火事消火のために村民ら80名を乗せた列車が、[[北川村]]釈迦地区のカーブで機関車と客車の連結器が破断。村人を振り落としながら客車は谷底に転落。14名が死亡した。原因は通常運行の2倍以上とも言われている機関車の過速度運転にあったとされている。
 
 
==== 中勢鉄道青谷車両脱線事故 ====
 
; 1939年(昭和14年)[[11月1日]]{{要出典|date=2016年1月}}
 
: [[中勢鉄道]]の[[ガソリンカー]]が、津市の青谷でカーブを曲がりきれず脱線。当日は[[興亜奉公日]]であり車内は女学校の生徒で満員であったため女子生徒2名が死亡、50名が重軽傷という大惨事になった。
 
: この事故で運行会社は安全面を問われ、平行路線である参宮急行電鉄(現・[[近鉄名古屋線]])の開通によって衰退していたうえに、さらなるダメージとなり、間もなく廃止に追い込まれた。
 
: 運転手は[[往来を妨害する罪#汽車電車転覆罪|汽車電車転覆罪]]で起訴されたが、[[被告人]][[弁護人]]が[[刑法 (日本)|刑法]]125条の「鉄道又ハ其標識ヲ損壊シ又ハ其他ノ方法ヲ以テ汽車又ハ電車ノ往来ノ危険ヲ生セシメタル者ハ二年以上ノ有期懲役ニ処ス(平成7年改正前の文語体による条文。ただし改正された刑法125条の主旨は同じ)」が言うところの「汽車又ハ電車」には、ガソリンカーは含まれないと裁判で主張した。それに対し裁判所は「汽車又ハ電車」という文言自体に捕らわれず、立法趣旨に鑑みて本質的にガソリンカーも汽車に含まれると判断し、有罪判決を下した([[大審院]]、昭和15年8月22日判決)。そのため刑法学ではこの事故の裁判は、法律学上[[罪刑法定主義]]で禁じられている[[類推解釈]]の例外である、論理解釈かつ拡張解釈の一例とされている。
 
 
=== 1940年代 ===
 
<!--妥当な呼称が不明なので、適当な名称で書きます-->
 
==== 武藏野鉄道線列車正面衝突事故 ====
 
; [[1940年]](昭和15年)[[1月2日]]{{要出典|date=2016年1月}}
 
: 武蔵野鉄道武蔵野線(現・[[西武池袋線]])[[秋津駅]] - [[所沢駅]]間で、下り電車と上り貨物列車が正面衝突し、下り電車の乗客ら11人が死亡した。原因は下り電車が5分ほど遅れていたにもかかわらず貨物列車が所沢駅を勝手に発車してしまったということであるが、当時の所沢駅はライバルである旧西武鉄道(現・[[西武新宿線]])の管轄駅であり、所沢駅職員が意図的に信号を操作し、武蔵野鉄道の運行を妨害したのではという憶測が流れたと言う。所沢駅では以前から乗客の取り合いで両社の駅員が殴り合いのけんかをしたこともあったほどで、この事故を契機に[[堤康次郎]]による武蔵野鉄道と旧西武鉄道の合併(現・[[西武鉄道]])への流れとなった。
 
 
==== 西成線列車脱線火災事故 ====
 
[[File:Ajikawaguchi derail 1940.jpg|thumb|280px|消火活動中の事故現場]]
 
; 1940年(昭和15年)[[1月29日]] 6時56分([[列車火災事故]])
 
: 西成線(現・[[桜島線|JRゆめ咲線(桜島線)]])[[安治川口駅]]構内で、駅員の誤操作により列車通過中にポイントが転換したため、通勤客で満員の[[気動車#ガソリンカーの出現|ガソリン動車]](ガソリンカー)3両編成のうち最後尾の1両([[国鉄キハ07形気動車|キハ42000形42056号車]])が2対のレールにまたがったまま走行し、[[踏切]]付近の構築物に衝突して脱線・転覆。[[燃料]]の[[ガソリン]]への引火により火災が発生し、満員のまま横転した車両で189名が死亡・69名が負傷した。{{sfn|佐々木|網谷|1993|pp=183&ndash;208}}
 
 
{{main|西成線列車脱線火災事故}}
 
 
==== 米坂線列車転落事故 ====
 
; 1940年(昭和15年)[[3月5日]] 8時45分
 
: [[米坂線]][[玉川口駅]]([[小国駅]] - [[越後金丸駅]]間、[[1995年]]に廃止)の小国駅側にある荒川橋梁が雪崩の直撃を受けて崩壊した。その直後に[[米沢駅]]発[[坂町駅]]行きの下り103混合列車(蒸気機関車48639(8620形)牽引、客車3両、貨車2両)がさしかかり、最後尾の客車1両以外は崩壊した橋梁から下を流れる荒川に転落した{{Sfn|丸山久一|1977|pp=150-156}}。乗客・職員(鉄道郵便職員も含む)11名が死亡、負傷者30名(慰霊碑の記録)を出した。雪崩対策が不充分であった可能性が指摘されている{{sfn|佐々木|網谷|1993|pp=209&ndash;227}}。
 
 
==== 東海道線塚本駅列車衝突事故 ====
 
; [[1941年]](昭和16年)[[3月26日]]
 
: [[東海道本線]][[塚本駅]]構内で、[[北方貨物線]]経由で進行してきた[[国鉄D50形蒸気機関車|D50形269号蒸気機関車]]牽引下り貨物283列車が下り本線への合流地点で信号機を誤認して安全側線へ進入したために脱線転覆した。当該事故で脱線した車両が下り線の内線・外線を支障して、下り711列車([[国鉄C51形蒸気機関車|C51形]]259号機牽引・客車6両編成)・3201電車([[国鉄42系電車|クモハ43028、クロハ59022]])と相次いで衝突する三重衝突事故となり、3人が死亡した。
 
: 夜が更けた時間帯で発生した事故であったため、衝突した列車の乗客が少なく、犠牲者が少なかった。奇しくもこの事故から21年後に発生した[[三河島事故]]とほぼ類似パターンの事故であった<ref>久保田博「鉄道の安全はどのように守られてきたか 鉄道保安要史 その5」交友社 [[鉄道ファン]]1986年3月号89-90頁</ref>。
 
: 被災した電車は[[国鉄63系電車]]の先行改造車として、[[1943年]]に原型の2扉クロスシートから4扉ロングシートに改造されて復旧している<ref>沢柳健一「63形の時代」電気車研究会 [[鉄道ピクトリアル]]1995年9月号55-63頁 </ref>。
 
 
==== 山陽線網干駅列車衝突事故 ====
 
; 1941年(昭和16年)[[9月16日]] 18時8分{{sfn|毎日新聞社|1980|p=157}}
 
: [[山陽本線]][[網干駅]]構内で、下関発東京行き上り急行8列車([[国鉄C53形蒸気機関車|C53形]]77号機牽引・客車11両編成)が駅[[日本の鉄道信号#場内信号機|場内信号機]]の停止信号を[[冒進]]して駅構内に進入し、停車中の下関発京都行き普通116列車([[国鉄C57形蒸気機関車|C57形]]128号機牽引・客車9両編成)に追突。双方の列車各3両が大破、85名が死亡、71名が負傷した{{sfn|毎日新聞社|1980|p=157}}。
 
: 当時は橙信号など中間現示には速度制限がなかったので、橙信号下で減速せず走行したことから次閉塞区間の停止信号で停車できずに事故を招いたとされた。
 
: この事故を機に、中間現示制限が試行され、それがダイヤ維持に悪影響のないことも分かり、橙信号下では30[[キロメートル毎時|km/h]]制限などの変遷を経て45km/h以下(改良線55km/h以下)に落とす規定となった。
 
: また、塚本駅事故とも合わせて、東海道・山陽・鹿児島線に連続コード速度照査式[[自動列車停止装置|ATS]]設置工事を開始したが、受信機が運用直前に爆撃を受けて使えなくなり頓挫、戦後は連合国軍に工事再開を拒否されそのままとなった<ref>久保田博「鉄道の安全はどのように守られてきたか 鉄道保安要史 その5」交友社 [[鉄道ファン]]1986年3月号90頁 </ref>。
 
 
==== 豊肥線列車脱線転落事故 ====
 
; 1941年(昭和16年)[[10月1日]]{{sfn|荘田啓介|1987|pp=65&ndash;69}}
 
: [[豊肥本線]][[竹中駅]] - [[中判田駅]]を走行していた下り列車([[国鉄8620形蒸気機関車|8620形]]蒸気機関車牽引)が、連日の豪雨で路盤が軟弱化していた河原内鉄橋付近で機関車と客車4両すべてが脱線し、機関車と客車2両が立小野川に転落した。[[大分県立大分上野丘高校|大分中学校]]の生徒を中心に44名が死亡、72名が負傷した。後に大分鉄道管理局局長になった人物も、この列車に乗り合わせ軽傷を負った。
 
 
==== 常磐線土浦駅列車衝突事故 ====
 
[[ファイル:Train accident at Tsuchiura station in 1943.png|thumb|事故直後の現場の様子]]
 
; [[1943年]](昭和18年)[[10月26日]]{{sfn|佐賀純一|1984|}}
 
: [[常磐線]][[土浦駅]]構内で、入換中の貨車が上り本線に進入し、同駅を通過した上り貨物列車と衝突。貨物列車は脱線して下り本線を支障し、下り普通列車と衝突した。普通列車の客車4両が脱線転覆、そのうち1両が[[桜川 (茨城県南部)|桜川]]へ水没し、最終的に110名が死亡、107名が負傷した。
 
: 貨第294列車は18時40分頃土浦駅上り1番線に到着、入換のため貨車41両を持ち引上線に引上げたところ、信号掛が転轍器を異方向に転換したため異線に進入、上り本線から分岐する転轍器を割出して18時48分に進路を支障した。18時51分30秒、貨第254列車が場内信号機の進行指示によって進行したため支障車両に衝突、牽引機関車は貨車に食込み、直後の貨車14両は脱線転覆し、下り本線を支障した。18時54分、下り本線に進入した客第241列車は、貨第254列車に接触し脱線顛覆。客車2両は脱線傾斜し、3両目は桜川橋梁上から脱線傾斜、4両目は桜川に転落水没した。5両目以下は橋梁手前で転落は免れた。
 
: 原因は車両入換で信号掛と操車掛の打合せ不良と操車掛の進路確認不良のため車両を異線に進入させ上り本線を支障させたことと、信号掛が列車防護措置をとらなかったことである。操車掛は接近中の貨第254列車を停止すべく北部信号所に向かったが約500mの距離があり、間に合わなかったとされる。
 
: この事故は戦時中のため大きく報道されることはなかった。
 
: 第1の事故は貨車入換中に発生したもので、入換作業は操車掛の進路要求により信号掛が進路構成し操車掛が機関士に指示することで開始するが、この事故では信号掛が異進路を構成し、操車掛が入換標識を確認せず入換を開始したことに起因する。当時土浦駅の信号機は腕木式で、転轍器を割出しても自動的に場内信号機に停止信号を現示することはできなかったとされる。信号掛は戦時中に列車運行を阻害する事故を発生させたことに気が動転したのか、北部信号所に連絡するなど上り列車抑止手配を取らなかったため、第2の事故が発生した(列車防護不適切)。南信号所で対応可能であった下り場内信号機に停止信号を現示していれば第3の事故は防止可能であった(列車防護不適切)。{{sfn|佐々木|網谷|1993|pp=229&ndash;252}}
 
: またこのときの事故車両(支障貨物に衝突した機関車)の[[国鉄D51形蒸気機関車|D51 651]]は修理後運用復帰し、[[1949年]]に[[下山事件]]で[[下山定則]]初代国鉄総裁を轢断している。
 
:尚、[[歌手]]の[[坂本九]]が幼少時代、母親と疎開のためにこの事故の巻き添えになった客第241列車に乗車して笠間に向かっていた。同事故で川に転落して多数の犠牲者を出した車両に当初は乗り合わせていたが、事故発生直前に別の車両に移っていたために難を逃れている<ref group="注">なお、これがきっかけで[[笠間稲荷神社]]を信仰するようになったとされる。</ref>(後に[[日本航空123便墜落事故]]に遭遇して命を落としている)。
 
 
==== 山田線列車転落事故 ====
 
; [[1944年]](昭和19年)[[3月12日]]午前8時7分ごろ発生<ref>{{Cite book|和書|author=[[曽根悟]](監修)|title=週刊 歴史でめぐる鉄道全路線 国鉄・JR|editor=朝日新聞出版分冊百科編集部(編集)|publisher=[[朝日新聞出版]]|series=週刊朝日百科|volume=21号 釜石線・山田線・岩泉線・北上線・八戸線|pages=13-19|date=2009-12-06|page=18}}</ref>
 
: [[山田線]]の[[平津戸駅|平津戸]] - [[川内駅 (岩手県)|川内]]間を走行していた盛岡発・釜石行下り貨物465列車(宮古機関区所属[[国鉄C58形蒸気機関車|C58形283号蒸気機関車]]牽引・現車13両・換算14.8両・重量148トン)が、雪崩で崩壊した[[鉄橋]]に突っ込み谷底へ転落、機関士が死亡し機関助士が負傷した。
 
: 当該列車は大雪の影響により、平津戸駅に定刻より2時間遅れの[[3月12日]]午前0時20分到着したが、先行する宮古行下り旅客15列車が豪雪により川内駅で立ち往生した為、足止めとなり、午前7時56分に平津戸駅を発車したが、第二小滝トンネルを出た直後に小雪崩が機関車を直撃し、運転台前面窓を突き抜けて、雪が運転台になだれ込み、乗務員が身動きを取りにくい状況と吹雪で視界を奪われた状態で崩落した鉄橋に突っ込んだと思われる。
 
: 機関士が瀕死の重傷を負いながら事故拡大防止のため、機関助士に緊急連絡を指示し息絶えた美談について、[[東映]]が[[大川博]]社長の企画で[[三國連太郎]]の主演により『[[大いなる旅路]]』([[1960年]])という題名で映画化して世に広く知られることとなった。また、現場付近には慰霊碑が建てられている。
 
: 当時の山田線は、戦争による海上輸送が困難となった釜石製鉄所への軍需物資である鉄鉱石・石炭及び鉄鋼輸送のため、昼夜関係なく24時間体制で重量物を運ぶ貨物列車がダイヤの限界まで設定されていたが、当日の荒天による大雪のため、山田線の各列車に大幅な遅れが生じていた。
 
: [[国鉄C58形蒸気機関車|C58形283号蒸気機関車]]は、事故後しばらく経ってから現場から引き上げ、修理後に運用復帰し、[[1970年]](昭和45年)[[2月]]に山田線の無煙化により、蒸気機関車お別れ列車を牽引している。
 
 
==== 明石駅構内列車脱線転覆事故 ====
 
; 1944年(昭和19年)[[6月22日]]
 
: 午前8時26分頃、[[山陽本線]][[明石駅]]構内に進入しようとしていた上り急行2列車(蒸気機関車[[国鉄C59形蒸気機関車|C59形]]60号機牽引・客車14両編成)が脱線。牽引機関車および次位の客車5両が転覆大破し死者32名、負傷36名の惨事となった。原因は何者かによる軌道上への[[置石]]<ref name="RF1986-03 P91">久保田博「鉄道の安全はどのように守られてきたか 鉄道保安要史 その5」交友社 [[鉄道ファン]]1986年3月号91頁 </ref>。
 
 
==== 山中渓駅構内電車衝突事故 ====
 
; 1944年(昭和19年)[[6月27日]]
 
: [[阪和線]][[山中渓駅]] - [[紀伊駅]]の上り勾配で下り5125電車(2両編成)が減速して自然に停止し、運転士が原因を調べている最中に逆走し始め、空気ブレーキが使用不能のため手ブレーキで減速に努めたものの、山中渓駅に停車していた後続の5517電車(2両編成)に衝突した。4名が死亡、128名が負傷した。
 
: 原因は先行電車運転士が床下の空気管のコックの取扱を誤ったことで空気ブレーキが使用不能になったこと、また転動防止処置が不十分で逆走したことである<ref name="RF1986-03 P91"/>。
 
 
==== 高野山電気鉄道電車脱線転覆事故 ====
 
; 1944年(昭和19年)[[9月3日]]{{要出典|date=2016年1月}}
 
: [[高野山電気鉄道]](現在の[[南海電気鉄道|南海電鉄]][[南海高野線|高野線]])[[紀伊細川駅]] - [[上古沢駅]]の登り勾配を走行していた下り[[極楽橋駅]]行き電車(2両編成)が、床下より出火し急停車した。点検していたところ停止ブレーキのかけ方に不備があったため、50[[パーミル|‰]]の急勾配を電車は逆走し曲線区間で脱線転覆した。71名が死亡、138名が負傷した。
 
: なお、事故の引き金になった出火原因であるが、戦中戦後の戦時強制合併とその解消など鉄道会社の変遷の激しかった時期ということもあり、記録が残っておらず不明である。
 
 
==== 山陽線列車追突事故 ====
 
; 1944年(昭和19年)[[11月19日]]
 
: [[山陽本線]][[上郡駅]] - [[三石駅]]を走行していた下り233旅客列車([[国鉄C57形蒸気機関車|C57形]]45号機牽引・客車11両編成)が閉塞信号の停止現示で停止していたところ、午前1時56分に後続の下り345貨物列車([[国鉄D52形蒸気機関車|D52形]]蒸気機関車牽引)が追突し、追突した機関車と貨車56両中4両と、旅客列車11両中5両が脱線し大破した。38名が死亡、59名が負傷した。
 
: 事故は、後続の貨物列車の乗務員が居眠りし、信号[[冒進]]したためだった。なお後続列車の乗務員は生存していたが、自責の念から後に蒸気機関車の火室で焼身自殺した<ref>久保田博「鉄道の安全はどのように守られてきたか 鉄道保安要史 その5」交友社 [[鉄道ファン]]1986年3月号91-92頁 </ref>。
 
 
==== 沖縄県営鉄道輸送弾薬爆発事故 ====
 
; 1944年(昭和19年)[[12月11日]]
 
: [[沖縄県営鉄道]][[沖縄県営鉄道糸満線|糸満線]]において兵員と弾薬を輸送していた列車が爆発事故を起こし、乗務員や兵士、同乗していた旅客など約220人が犠牲となった。
 
{{main|沖縄県営鉄道輸送弾薬爆発事故}}
 
 
==== 高山線列車脱線事故 ====
 
; [[1945年]](昭和20年)[[1月10日]]{{要出典|date=2016年1月}}
 
: [[高山線]][[飛騨金山駅]] - [[焼石駅]]間(当時[[福来信号場]]は未設置)にある益田川第三鉄橋を走行中の下り303列車([[国鉄C58形蒸気機関車|C58形]]蒸気機関車牽引)が[[競合脱線]]を起こし、客車6両のうち2両目と3両目が脱線のうえ、下の益田川(現在の公式名称は[[飛騨川]])に転落した。死者43名、負傷者56名。
 
: 競合脱線の原因として戦時体制下のため、客車やレールなどの鉄道施設が荒廃していたことが背景にある。
 
 
==== 飯田線電車脱線転覆事故 ====
 
; 1945年(昭和20年)[[2月17日]]
 
: [[飯田線]][[三河槙原駅]] - [[三河川合駅]]間(当時[[柿平駅]]は一時廃止中)を走行中の201電車([[三信鉄道の電車|三信デ306]]+[[伊那電気鉄道の電車|伊那電気サハユニフ100]])が山腹から突然落下してきた巨大な岩石の直撃を受け、2両編成の電車は脱線転覆し三輪川に転落した<ref name="JRC611">{{Cite journal|和書 |title=鳳来峡に消えた木造電車2両 |journal = RAIL FAN |date = 2003-09-01 |issue = 9 |volume = 50 |publisher = 鉄道友の会 |pages = 12-13}}</ref>。直撃を受けた車両が木造車であったため大破し、死者20名、負傷者23名という惨事になったが、戦時中であったためほとんど報道されなかった<ref name="JRC611"/>。
 
 
==== 北条線列車脱線転覆事故 ====
 
[[ファイル:Abiki-jyunnan.jpg|thumb|240px|[[網引駅]]付近にある「列車転覆事故殉難の地」碑]]
 
; 1945年(昭和20年)[[3月31日]]
 
: [[北条鉄道北条線|北条線]](現・北条鉄道)[[網引駅]] - [[法華口駅]]間([[田原駅]]は未開業)で、[[鶉野飛行場]]を離陸した[[大日本帝国海軍|日本海軍]]の[[戦闘機]]「[[紫電改]]」がエンジンストールのため水田に不時着したものの乗員は死亡した。この不時着の際に、紫電改の尾輪が線路を引っかけて軌道を変えてしまった。この直後に来た上り旅客列車([[国鉄C12形蒸気機関車|C12 189号機]]牽引)が変わってしまった軌道に進入して脱線転覆した。「[[紫電改]]」搭乗員と、乗客のうち11人が死亡し104人が負傷<ref>[http://www.kobe-np.co.jp/rensai/200504ishizue/10.html 礎-現代が残したもの- 10.海軍鶉野飛行場跡(加西市)] - 神戸新聞、2005年8月25日(リンク切れ)</ref><ref>[http://www.kobe-np.co.jp/kobenews/sougou/030808ke120160.html  庶民の悲劇、後世に 大戦末期の北条鉄道脱線転覆] - 神戸新聞、2003年8月8日(リンク切れ)</ref>。[[航空事故]]が鉄道事故を誘発した珍しい事例である。
 
:目撃者によると、駆けつけた兵隊たちは乗客を助けるよりも先に戦闘機に田んぼのワラを被せて隠蔽を図ったという<ref>[http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/hyogo/feature/kobe1388501593845_02/news/20140110-OYT8T01470.htm 「駅ものがたり(10)戦争の悲劇伝える駅舎」]2014年1月20日閲覧(読売新聞2014年1月15日阪神版31面掲載){{リンク切れ|date=2015年4月}}</ref>。軍の機密として戦闘機不時着は公表されず、地元紙の[[神戸新聞]]ですら、脱線転覆事故が発生したということと、死傷者数、死者氏名を掲載したのみだった。
 
: 2011年になって、事故機関車の動輪が[[交通科学博物館]]で保存展示されていることが判明した<ref>『[[神戸新聞]]』2011年2月12日朝刊姫路・西播磨版「北条線列車転覆事故の動輪、大阪で発見 高砂の上谷さん」</ref>{{sfn|神戸新聞総合出版センター|2011|p=220}}。
 
 
==== 富山地方鉄道線列車正面衝突事故 ====
 
; 1945年(昭和20年)[[5月17日]]
 
: [[富山地方鉄道]]本線[[越中三郷駅]] - [[東新庄駅]]間で、下り電車と上り電車が正面衝突し、乗客ら45人が死亡、重傷者85人、軽傷者115人を出した。原因は三郷駅 - 東新庄駅間の信号が故障しており、下り電車が東新庄駅を発車しているにもかかわらず、三郷駅の駅員が失念し、上り電車に発車の指示を与えてしまったためといわれている。くわえて当日は小雨が降り濃霧がたちこめ、現場は見通しの悪い防風林に囲まれた曲線の勾配部分という悪条件が重なり、大惨事となった{{sfn|富山地方鉄道|1983|p=363}}。
 
 
==== 肥薩線列車退行事故 ====
 
; 1945年(昭和20年)[[8月22日]]
 
: [[肥薩線]][[吉松駅]] - [[真幸駅]]間の山神第二トンネル内において、蒸気機関車(D51形重連)牽引の上り人吉方面行き806列車(客車6両・貨車6両)が、粗悪石炭使用のため出力が不足して勾配を登りきれずに停止。トンネル内に充満した煙に耐えられなくなった復員者などが列車から降りて出口へ向かって歩いていたところへ列車が逆走し始め、多くの乗客が[[轢死]]した。死者53名。
 
: 終戦直後の混乱期における、劣悪な輸送状況を象徴する一つの例として挙げられることがある<ref name="RF1986-05 P115-116">久保田博「鉄道の安全はどのように守られてきたか 鉄道保安要史 その6」交友社 [[鉄道ファン]]1986年5月号115-116頁 </ref>。
 
{{main|肥薩線列車退行事故}}
 
 
==== 八高線列車正面衝突事故 ====
 
[[画像:Hachikosen.JPG|thumb|250px|right|くじら運動公園に置かれた八高線衝突事故車両の車輪]]
 
; 1945年(昭和20年)[[8月24日]] 7時40分頃
 
: [[八高線]][[小宮駅]] - [[拝島駅]]間の[[多摩川橋梁 (八高線)|多摩川橋梁]]中央部において上り6列車([[国鉄8850形蒸気機関車|8850形]]8869号機牽引・客車5両編成)と下り3列車([[国鉄8850形蒸気機関車|8850形]]8853号機牽引・客車5両編成)が正面衝突し、客車が川に転落。少なくとも105名の死亡、67名の重軽傷者が確認された。終戦直後の混乱期のため、列車は通勤通学客に復員兵や疎開先からの帰宅者も加えて満員で、その多数の乗客が衝突により多摩川の濁流に流された。当日は激しい雷雨により多摩川が川幅いっぱいに増水していたこともあり、遺体が海まで流されて確認されなかった死者も相当数いるのではないかと言われている。
 
: 原因は、小宮駅 - 拝島駅間での列車の運転の連絡不備による人為的なものとされている。当日は朝から暴風雨で、さらに信号故障、激しい風雨が原因と見られる通信途絶が重なり、駅間の連絡が取れないためダイヤが大幅に乱れていた。小宮駅では通信途絶で[[閉塞 (鉄道)|通票閉塞]]が使用できなかったため、代用閉塞の一つである指導式により列車を運転することとし、上り列車の指導員となる駅務員を徒歩で拝島駅へ向かわせた。
 
: ところがその後八王子から小宮に下り回送機関車が到着し、さらに下り旅客列車が続行するとみられたことから、小宮駅長は下り旅客列車を先行させることとし、その旨の連絡を携えた別の駅務員を機関車に乗り込ませて拝島駅に派遣した。機関車は途中で先に出発した駅務員を拾い上げ拝島駅に到着したが、拝島駅は第1の駅務員の連絡を正とし、それと矛盾する第2の連絡は列車番号の誤記だと解釈した。結果として拝島駅では最初の連絡に従い上り列車を小宮駅に向け発車させ、小宮駅では変更した運転順序の連絡ができていると思い込み、下り列車を拝島駅に向け発車させた。本来、指導式は、閉塞区間両端駅の駅長が相互に連絡を取り、閉塞区間内に列車が無いことを確認した上でタブレット(もしくはスタフ)の代替となるただ1人の指導員を列車に添乗させて運行する方式である。つまり、その区間で一人だけ選任される指導員の乗った列車のみがその閉塞区間内を運行可能となるが、この時は原則に反した取り扱いがなされるとともに、双方の駅長が連絡が不十分で、両者の思い込みが食い違ったために正面衝突事故を引き起こした{{sfn|舟越健之輔|1985}}。
 
: 2001年に当時の車両の車輪が川の中州から引き上げられ、2004年に河原の公園脇に設置された(由来が当事故以外には考えられないため、当事故の遺物と認知されている)。
 
 
==== 中央線笹子駅構内脱線転覆事故 ====
 
; 1945年(昭和20年)[[9月6日]]
 
: 中央線[[笹子駅]]構内で、スイッチバックのため折り返し線に午前3時41分に到着した下り403列車([[国鉄ED16形電気機関車|ED16形]]4号機牽引)が車止めを突破し、機関車と客車9両のうち3両が大破転覆した。死者60名、負傷者91名。
 
: 原因は機関車の乗務員の居眠り運転とされている<ref>「乗務員の居眠り 中央線笹子駅の事故」1945年9月8日付『朝日新聞』(東京) 聞蔵IIビジュアル(朝日新聞)</ref>。
 
: [[藤居寛]](元帝国ホテル社長)の両親が事故に巻き込まれ死亡した<ref>『[[日経MJ|日経流通新聞]]』1990年7月5日</ref>。
 
 
==== 神戸有馬電気鉄道電車脱線転覆事故 ====
 
; 1945年(昭和20年)[[11月18日]]<ref name="sone14">{{Cite book|和書|author=[[曽根悟]](監修)|title=週刊 歴史でめぐる鉄道全路線 公営鉄道・私鉄|editor=朝日新聞出版分冊百科編集部(編集)|publisher=[[朝日新聞出版]]|series=週刊朝日百科|volume=14号 神戸電鉄・能勢電鉄・北条鉄道・北近畿タンゴ鉄道|date=2011-06-19|pages=11-13}}</ref>
 
: 神戸有馬電気鉄道(現・[[神戸電鉄]])[[神戸電鉄有馬線|有馬線]]鷹取道駅(現・[[丸山駅 (兵庫県)|丸山駅]]) - [[長田駅 (神戸電鉄)|長田駅]]間を走行中の神戸行き上り電車(2両編成)が33[[パーミル|‰]]の下り勾配でブレーキ制御が不能になり、長田付近の曲線で脱線転覆した<ref name="sone14"/>。死者48名、負傷者180名<ref name="sone14"/>。
 
: 事故原因として電車運転士の制御ミスとされているが、終戦直後のため電車の整備状態も悪かったことも背景にあるとされる<ref name="RF1986-05 P115-116"/>。
 
 
==== 津山線列車脱線事故 ====
 
; 1945年(昭和20年)[[11月27日]]{{要出典|date=2017年10月}}
 
: [[津山線]][[建部駅]] - [[金川駅]]間を走行中の上り第611客車列車([[国鉄C56形蒸気機関車|C56形]]127号機牽引・4両編成)において、機関士が後部確認の際に2両目客車が異常に傾いているのを発見、列車を止めて調べたところ車内で乗客5人が死亡、6人が負傷していた。
 
: 前位車輪が車軸の破損により脱線分離しており、終戦直後の物資の不足が背景にあったとされている。
 
 
==== 富士山麓電鉄正面衝突事故 ====
 
; [[1946年]](昭和21年)[[1月13日]]{{要出典|date=2016年1月}}
 
: 富士山麓電鉄(現・[[富士急行]])の[[山梨県]][[大月町 (山梨県)|大月町]](現・[[大月市]])にあるトンネル入口で午後5時過ぎ頃に乗客200名を乗せた大月発吉田行き電車(3両)が、田野倉発の電車(2両)と正面衝突。双方とも先頭車両が大破して死亡26名、負傷者多数。
 
 
==== 東武日光線衝突事故 ====
 
; 1946年(昭和21年)[[1月21日]]{{要出典|date=2016年1月}}
 
: [[栃木県]][[上都賀郡]][[落合村 (栃木県)|落合村]](現・[[日光市]])にある東武日光線の[[下小代駅]]のポイント部分を午前7時30分、東武日光発の浅草行の電車が差し掛かったところブレーキ故障で減速できず、そのまま高速でポイントに乗り上げて脱線転覆。乗客7名が死亡。東武日光線は現在全線複線だが、戦争に伴う鉄供出のため、事故当時は一部単線だった。
 
 
==== 東急小田原線列車脱線転覆事故 ====
 
; 1946年(昭和21年)[[1月28日]]
 
: 当時[[東京急行電鉄]]の路線だった[[小田急小田原線|小田原線]]大根駅(おおねえき、現・[[東海大学前駅]])から[[渋沢駅]]までの区間は、上り勾配が延々と続いており、事故の発端はここで発生した。
 
: 事故を起こしたのは、東京急行(現・小田急電鉄)[[新宿駅]]を午前7時50分に発車した[[小田原駅]]行き2両編成の電車(第294列車)で、この電車が停電のため15分遅れで大秦野駅(現・[[秦野駅]])を発車したところ、駅から約500mの地点で再び停電し、運転士は制動機をかけて停車したが、まもなく送電。その際、制動機故障により電車がひとりでに逆行し始めたので、運転士と車掌が下車して車体点検を行ったが、電車は徐々に速度を増し、運転士と車掌は取り残されてしまった。逆行した電車の速度は約90km/hにも達し、鶴巻駅(現・[[鶴巻温泉駅]])の急カーブで小田原側の車両が脱線し、転覆した。死者30人、重軽傷者165人<ref>久保田博「鉄道の安全はどのように守られてきたか 鉄道保安要史 その6」交友社 [[鉄道ファン]]1986年5月号116-117頁 </ref>。
 
 
==== 国府津駅構内列車追突事故 ====
 
; 1946年(昭和21年)[[5月8日]]
 
: 1946年5月8日午前2時頃、東海道本線国府津駅に24分遅れで到着し、20分延発予定で停車中の1761貨物列車、([[国鉄EF10形電気機関車|EF10 5]]牽引、現車61両)に、 後続の臨時旅客3801列車([[国鉄EF57形電気機関車|EF57 12]]牽引、現車9両)が、機関士及び機関助士の居眠りが原因で場内信号の停止を見落とし激突(追突)した。
 
: 牽引のEF57形12号機は1761列車の後部貨車に乗り上げ、ついで左側に脱線転覆した。貨物列車の貨車は後部2両と、16両目を粉砕し他7両が脱線した。この事故で貨物列車の後部車掌が即死し、3801列車の機関士と乗客6名が負傷した。
 
: この事故で大破したEF57 12は修復されず1948年に除籍、事故廃車となった。
 
: この事故の後、連合軍総司令部から特別指示(1.自動閉塞区間での緩急車の連結及び車掌の乗務の省略の禁止、2.信号注視は機関士のみならず機関助士にも義務付け、信号確認時には機関士、機関助士は信号の現示状態を喚呼応答すること、3.列車防護をブレーキ距離によって3種類に区別、4.列車監視は乗務員のみならず駅職員も行うこと)が出ている<ref name="RF1986-05 P115-116"/>。
 
 
==== 中央線乗客転落事故 ====
 
; 1946年(昭和21年)[[6月4日]]
 
: [[中央本線]][[大久保駅 (東京都)|大久保駅]] - [[東中野駅]]間で、東京行き上り800B電車(6両編成)の4両目の中央扉が満員の乗客の圧力により外れたため、乗客3名が車外に投げ出され[[神田川 (東京都)|神田川]]に転落して死亡した。
 
: 応急対策として扉に外れ止めが取り付けられ、恒久策としては鋼製扉への取替えが進められた。だが、皮肉にも、外れない鋼製扉が[[桜木町事故]]での被害増大を招くこととなる<ref>久保田博「鉄道の安全はどのように守られてきたか 鉄道保安要史 その6」交友社 [[鉄道ファン]]1986年5月号117頁</ref>。
 
 
==== 東海道本線山科駅構内列車脱線転覆事故 ====
 
; 1946年(昭和21年)[[6月12日]]{{要出典|date=2016年1月}}
 
: 1946年6月12日午後1時52分頃、[[東海道本線]][[山科駅]]構内において蒸気機関車牽引138列車([[国鉄C59形蒸気機関車|C59 59]]牽引、現車10輌換算45.5輌)が京都駅16分延発・山科駅20分延着予定で進入の際、構内第20号[[転轍機]]付近に[[トロリー]][[列車]]の[[車輪]]が置かれていたため、これに接触し牽引機関車が脱線転覆したほか、次位に連結されていた客車2両も脱線する事故となった。死者2名、負傷4名。
 
: トロリー列車車輪が放置されていた理由は不明であるが、何者かによる妨害によるものと見られている。
 
 
==== 尾道鉄道電車脱線転覆事故 ====
 
; 1946年(昭和21年)[[8月13日]]
 
: [[尾道鉄道]]([[1964年]]に全線廃止)の[[尾道駅]]発[[市駅 (広島県)|市(いち)駅]]行電車(尾道鉄道デキ1)が、途中駅である[[石畦駅|石畦(いしぐろ)駅]]を午後1頃に発車し尾道鉄道第五トンネルの登り急勾配にさしかかった際に、突如集電ポールが外れ停止、やがて猛烈な速度で退行しはじめ約1kmほど逆走し急カーブで脱線、山腹に衝突し大破した。「カーブに差し掛かり電車の屋根が電柱に衝突、屋根と車体が真っ二つになったうえ、車両は川下へ転落」という証言もある{{sfn|尾道学研究会|2011|p=36}}。車両長約10mの単行車両に約150名の乗客という超満員状態だったこともあり、死者37名および負傷者100名以上<ref group="注">会社側資料による。当時の新聞発表では死者45名および重軽傷者56名。</ref>を出すという惨事となった。
 
: 当時の新聞発表によると、事故原因は運転士の経験が浅く適切な対処ができなかったこと、およびブレーキの不具合を原因に挙げている。この事故をうけ、尾道鉄道は車両の[[集電装置]]をトロリーポールからビューゲルを経てパンタグラフへと変更した。
 
 
====富山地方鉄道上滝線電車三重衝突事故====
 
; 1946年(昭和21年)[[9月29日]]
 
: [[富山地方鉄道]][[岩峅寺駅]]にて、[[富山駅]]行きの電車が後部車両の解結を行い出発。解結された電車は、いったん別編成に連結したものの、連結が外れ駅構内の下り勾配に沿って[[富山地方鉄道上滝線|上滝線]]を暴走。暴走車両は、老朽化した代用車でありブレーキが効かなかった。駅員らの機転により、[[上滝駅]]-上滝公園下駅(現[[大川寺駅]])にて、先行する富山駅行き電車を徐行させ暴走する車両を受け止めて停止させることに成功させたが、その直後、岩峅駅から暴走車両を追いかけてきた電車が編成に衝突。結果的に三重衝突事故となった。死者1名、重傷者6名、軽傷者6名。
 
: 事故原因は、連結の不備、車両の老朽化、救援側電車の暴走などとしている{{sfn|大山町|1964|p=700}}。
 
 
==== 八高線列車脱線転覆事故 ====
 
{{Double image aside|right|Hachiko Line Rail Accident in 1947.JPG|240|The Cenotaph of Hachiko Line Rollover Derailment Accident 1.JPG|130|八高線列車脱線転覆事故|八高線事故慰霊碑}}
 
; [[1947年]](昭和22年)[[2月25日]] 7時50分
 
: [[八高線]][[東飯能駅]] - [[高麗川駅]]間の20[[パーミル|‰]]下り勾配で、C57 93が牽引する超満員(屋根の上に乗客を乗せざるを得ないという異常ともいえる運転状態が常態化していた)の乗客を乗せた、八王子発高崎行き([[国鉄C57形蒸気機関車|C57形]]93号機牽引・[[客車]]5両編成)の下り普通3列車が、過速度により半径250mの曲線を曲がりきれずに後部4両が脱線し、築堤上から5.6m下の畑に転落。客車の木造車体が大破し、184名が死亡し495名が負傷するという大事故となった。
 
: 死傷者の大部分は食料買出し目的の乗客だった。列車は超満員の乗客によって加重されたことにより、下り勾配で十分なブレーキが効かず、車両は事故の直前、左右に激しく揺れていた。
 
: 184名という死者は[[1940年]](昭和15年)1月に発生した[[西成線列車脱線火災事故]]に次ぐものであり、負傷者とあわせた被害者数では当時最悪の鉄道事故だった。
 
: この事故で、事故車両が木造客車だったために被害が拡大したことからその脆弱性が問題視され、木造車の淘汰が決定したが、鋼製客車の新規製造のみによる置き換えはコスト的に困難だったため、木造客車の台車と台枠を再利用し、その上に鋼製車体を載せる鋼体化改造が実施されることになった<ref>久保田博「鉄道の安全はどのように守られてきたか 鉄道保安要史 その6」交友社 [[鉄道ファン]]1986年5月号118頁 </ref>。
 
 
==== 室蘭本線列車衝突事故 ====
 
; 1947年(昭和22年)[[3月31日]]
 
: [[室蘭本線]][[静狩駅]] - [[小幌駅|小幌信号場]]間の第二静狩トンネル内において、下り旅客225列車([[国鉄C51形蒸気機関車|C51形蒸気機関車]]・7両編成)と上り臨時貨物5388列車([[国鉄D52形蒸気機関車|D52形蒸気機関車]]・46両編成)が正面衝突したもの。死傷者64名。小幌信号場における指示伝達の錯誤、ならびに貨物列車の信号確認不足が主たる原因とされている。
 
{{main|室蘭本線列車衝突事故}}
 
 
==== 田端駅電車追突事故 ====
 
; 1947年(昭和22年)[[4月24日]]
 
: 8時43分、京浜線(現在の[[京浜東北線]])[[田端駅]]手前で場内信号機の停止現示で停止中の下り[[桜木町駅|桜木町]]行き855A電車(6両編成)に、後続の[[鶴見駅|鶴見]]行き869A電車(6両編成)が追突、両電車の乗務員4名が死亡、乗客114名が負傷した。
 
: 原因は[[自動列車停止装置|ATS]]が無い時代にも関わらず、後続電車運転士の見込み運転とブレーキ操作の遅れであった<ref>久保田博「鉄道の安全はどのように守られてきたか 鉄道保安要史 その6」交友社 [[鉄道ファン]]1986年5月号119頁 </ref>。
 
<!--当時の東京新聞記事を転載した「国鉄電車発達史」(1959年)に先行電車の6両目のクモハ60019に後続電車の1両目のクロハ65054が突っ込んでいる写真が掲載されています。1両目が進駐軍合造車でなければ発生時刻からもっと大きな被害になっていたと思われます。この本、1910年代から1950年代半ばくらいまでの事故記録が載ってるのですけど、転載禁止なんですよ。-->
 
 
==== 名鉄瀬戸線脱線転覆事故 ====
 
; [[1948年]](昭和23年)[[1月5日]]
 
: [[名鉄瀬戸線]]の[[尾張瀬戸駅|尾張瀬戸]]発[[堀川駅 (愛知県)|堀川]](現在は廃止)行き[[急行列車|急行電車]]が、大森駅(現在の[[大森・金城学院前駅]])東側にある半径160mのカーブに差し掛かったところ、後部の車両サ2241形が脱線転覆し大破。そのまま50mほど引きずられ、前方の電動車モ565形も転覆した。この事故により、36人が死亡、153人が負傷するという、瀬戸線史上最悪の事故となった。
 
{{main|名鉄瀬戸線脱線転覆事故}}
 
 
==== 近鉄奈良線暴走追突事故 ====
 
; 1948年(昭和23年)[[3月31日]]
 
: [[近鉄奈良線]]の[[近鉄奈良駅|奈良]]発[[大阪上本町駅|上本町]]行き[[急行列車|急行電車]]([[大阪電気軌道デボ1形電車|デボ1形]]3両編成)が、[[生駒トンネル]]を走行中に[[ブレーキ]]が効かなくなり、トンネル内からの下り坂を加速・暴走、[[河内花園駅]]を発車しかけた前方の[[普通列車|普通電車]]に70 - 100km/hで追突した。木造車体が大破し、特に1両目は原型さえも留めていないほどであった。この事故により49名が死亡した。
 
: 原因は戦中戦後の酷使の結果、老朽状態で放置されていたブレーキホースの破損とされる{{sfn|佐々木|網谷|1995|pp=117&ndash;137}}。
 
{{main|近鉄奈良線列車暴走追突事故}}
 
 
==== 五条駅貨物列車突入事故 ====
 
; [[1949年]](昭和24年)[[1月14日]]{{要出典|date=2016年1月}}
 
: [[奈良県]][[宇智郡]]五条町(現・[[五條市]])の省線[[五条駅 (奈良県)|五条駅]]で王寺発五条川端行の貨物列車(16両)の切替え作業をしていたところ、午後6時10分頃に離された貨車2両が引込み線から暴走して、そのまま駅の待合室に突っ込んだ。この事故により、待合室が倒壊して多数が下敷きとなり、8名が死亡した。
 
<!--妥当な呼称が不明なので、適当な名称で書きます-->
 
 
====阪急今津線暴走事故====
 
[[File:Hankyu Imazu line runs recklessly to Kusugawa.jpg|thumb|阪神久寿川駅でホームに衝突して停車した電車]]
 
; 1949年(昭和24年)[[12月13日]]
 
: [[阪急今津線]]の電車([[阪急600形電車|600形]]2両編成603、608)が、[[阪神国道駅]]でコンプレッサーの故障によりブレーキが緩まなくなったため修理を行った際、誤ってドレンコックを開きエアーが抜けたためブレーキが緩み、電車は40[[パーミル|‰]]{{sfn|阪急電鉄|1980|p=43}}の下り急勾配を走り出した。運転士と乗客が協力してハンドブレーキを回したが効果は無く、[[今津駅 (兵庫県)|今津駅]]の半径60m{{sfn|阪急電鉄|1980|p=43}}の急カーブを曲がり車止めを突破して、当時線路が接続されていた[[阪神本線|阪神線]]にポイントを粉砕して入り込んだ。運転士は乗客に後ろの車両に移るよう指示し、阪神の方が[[建築限界]]が小さかったため隣の[[久寿川駅]]のホームに衝突してようやく止まった。途中で窓から飛び降りた2名が負傷した。
 
: 阪神線の大阪行き急行が通過直後で、1分後には普通電車が迫っていたため、タイミングがずれていれば[[近鉄奈良線列車暴走追突事故]]のような大惨事になっていた恐れがあった。今津線から[[阪急920系電車|920形]]2両編成(924、954)が救援に向かい、久寿川駅で事故車両と連結した際の鮮明な写真が残されている{{sfn|レイルロード|2015|p=93}}。
 
: 『[[朝日新聞]]』大阪本社版で「阪急、阪神に"殴り込み"」と報道された<ref>『朝日新聞』大阪本社版1949年12月14日付夕刊2面。[http://imazukko.sakura.ne.jp/nishinomiya-style/blog/imazukko/V.html 今津いまむかし物語2012/1/31阪急電車暴走事件(5)]</ref><ref group="注">朝日新聞の記事には"阪急、阪神へ不意打乗入れ"とも書かれている。</ref>ため、「'''殴り込み事件'''」という通称がある。事故後、今津駅の[[連絡線]]は車止めを変えたもののレールは接続されたままであった<ref>『[[毎日新聞]]』1949年12月18日阪神版「暴走電車の車止め 阪急今津線に設置」</ref>が、後年分断された<!--1977年とも言われるが、出典不明-->。
 
: この事故を踏まえて、2014年7月に[[阪急5100系電車|阪急5100系]]が改造を受けるため[[尼崎駅 (阪神)|阪神尼崎駅]]まで走行した際に、阪神電鉄が神戸新聞の取材に(阪急の車両が阪神の線路を)「合法的に走るのは初めて」と答えている<ref>[http://www.kobe-np.co.jp/news/backnumber/201407/0009474636.shtml 『神戸新聞』2014年7月17日 「あれ?阪神線路に阪急車両 史上初、ファン興奮」]2015年5月27日閲覧</ref>。
 
 
== 脚注 ==
 
=== 注釈 ===
 
{{Reflist|group="注"}}
 
 
=== 出典 ===
 
{{Reflist|2}}
 
 
== 参考文献 ==
 
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|title    = タイムスリップ・レール…オノテツ
 
|year      = 2011
 
|publisher = 尾道学研究会
 
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|editor    = [[神戸新聞社|神戸新聞総合出版センター]]
 
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|publisher = 富山地方鉄道
 
|year      = 1983
 
|ref      = harv }}
 
* {{Cite book |和書
 
|author    = [[日本国有鉄道]]
 
|title    = [[日本国有鉄道百年史]]
 
|volume    = 第1巻
 
|year      = 1969
 
|publisher = 日本国有鉄道
 
|ref      = harv }}
 
* {{Cite book |和書
 
|author    = 箱根登山鉄道
 
|title    = 箱根登山鉄道のあゆみ
 
|year      = 1978
 
|publisher = 箱根登山鉄道
 
|ref      = harv }}
 
* {{Cite book |和書
 
|editor    = 阪急電鉄
 
|title    = 阪急電車駅めぐり 空から見た街と駅
 
|volume    = 神戸線の巻
 
|publisher = 阪急電鉄総務部広報課
 
|year      = 1980
 
|id        = {{全国書誌番号|82008965}}
 
|ncid      = BN10231027
 
|ref      = harv }}
 
* {{Cite book |和書
 
|author    = 舟越健之輔
 
|title    = 「大列車衝突」の夏
 
|year      = 1985
 
|edition  = 初版
 
|publisher = 毎日新聞社
 
|isbn      = 978-4-620-30505-9
 
|ref      = harv }}
 
* {{Cite book |和書
 
|author    = [[毎日新聞社]]
 
|year      = 1980
 
|title    = 昭和史事典
 
|publisher = 毎日新聞社
 
|series    = 別冊1億人の昭和史
 
|ref      = harv }}
 
* {{Cite journal|和書
 
|author    = 丸山久一
 
|title    = 写真で見る雪崩による鉄道事故について
 
|publisher = [[日本雪氷学会]]
 
|date      = 1977
 
|journal  = 雪氷
 
|volume    = 39
 
|issue    = 3
 
|pages    = 150 - 156
 
|naid      = 130000906947
 
|ref      = harv }}<!--米坂線列車転落事故の日付-->
 
* {{Cite book |和書
 
|editor    = レイルロード
 
|title    = 車両アルバム19 阪急 600
 
|publisher = レイルロード
 
|year      = 2015
 
|ref      = harv }}
 
 
== 関連項目 ==
 
{{Commonscat|Railway accidents in Japan|日本の鉄道事故}}
 
* [[鉄道事故]]
 
 
{{DEFAULTSORT:にほんのてつとうしこ1949}}
 
[[Category:日本の鉄道事故|*1949]]
 
[[Category:鉄道関連一覧|てつとうしこ1949]]
 
 
{{日本の鉄道史|しこ1949}}
 

2018/9/27/ (木) 11:57時点における版