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'''日本の歴史'''(にほんのれきし)、'''日本史'''(にほんし)とは、[[日本]]または[[日本列島]]における[[歴史]]のこと。本項では世界的観点を交え日本の歴史を概観する。
 
 
 
各時代の詳細は、各時代区分項目(各節の冒頭のリンク先)を参照。
 
 
 
== 時代区分 ==
 
[[日本]]の歴史における時代区分には様々なものがあり、定説と呼べるものはない。([[原始]]・)[[古代]]・[[中世]]・[[近世]]・[[近代]](・[[現代 (時代区分)|現代]])とする時代区分法が歴史研究では広く受け入れられている。この場合でも、各時代の画期をいつに置くかは論者によって大きく異なる。
 
 
 
古代の始期については古代国家の形成時期をめぐって見解が分かれており、[[3世紀]]説、[[5世紀]]説、[[7世紀]]説があり、研究者の間で七五三論争と呼ばれている。中世については、中世通じての社会経済体制であった[[荘園公領制]]が時代の指標とされ、始期は[[11世紀]]後半〜[[12世紀]]の荘園公領制形成期に、終期は荘園公領制が消滅した[[16世紀]]後半の[[太閤検地]]にそれぞれ求められる。近世は、太閤検地前後に始まり、[[明治維新]]前後に終わるとされる。近代の始期は一般に[[幕末]]期〜明治維新期とされるが、[[18世紀]]前半の[[家内制手工業]]の勃興を近代の始まりとする考えもある。さらに、第二次世界大戦での敗戦をもって近代と現代を区分することもあるが、最近は日本史においても、近代と現代の境目は冷戦構造が崩壊して、[[バブル崩壊]]で右肩上がりの経済成長が終わった[[1990年]]前後に変更すべきという意見もある。(以上の詳細→'''[[古代]]'''、'''[[中世#日本|中世]]'''、'''[[近世#日本|近世]]'''、'''[[近代#日本|近代]]'''、'''[[現代 (時代区分)#アジア|現代]])'''
 
 
 
上記のような時代区分論は、[[発展段階史観]]の影響を少なからず受けており、歴史の重層性・連続性にあまり目を向けていないという限界が指摘されている。そのため、'''時代を区分する対象ではなく移行するものとして捉える「時代移行論」を提唱する研究者も現れ始めている。'''
 
 
 
一般によく知られている時代区分は、主として政治センターの所在地に着目した時代区分である。この時代区分は明確な区分基準を持っている訳ではなく、歴史研究上の時代区分としては適当でない。単に便宜的に用いられているに過ぎない時代区分である。文献史料がなく考古史料が残る時代は、[[考古学]]上の時代区分に従い、[[旧石器時代 (日本)|旧石器時代]]・[[縄文時代]]・[[弥生時代]]・[[古墳時代]]と区分する。文献史料がある程度残る時代以降は政治センターの所在地に従って、[[飛鳥時代]]・[[奈良時代]]・[[平安時代]]・[[鎌倉時代]]・[[室町時代]]・[[安土桃山時代]]・[[江戸時代]]と区分するが、これだけでは必ずしも十分でないため[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]・[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]という区分を設けており、これらは中国史の時代区分からの借用である。江戸時代の次は、天皇の在位に従って[[明治|明治時代]]・[[大正|大正時代]]・[[昭和|昭和時代]]・[[平成|平成時代]]と呼ばれている。これらのうち、[[明治維新]]から[[第二次世界大戦]]までの時代(明治時代・大正時代・戦前昭和時代)は、政体(憲法)に因んで「[[大日本帝国]]時代」と呼ぶ例もある<ref>[[由井正臣]]著、岩波ジュニア新書『大日本帝国の時代―日本の歴史〈8〉』</ref>。また、北海道・北東北、南西諸島などの周縁部については、これらとは異なる時代区分が用いられている(詳細→'''[[日本史時代区分表]]''')。
 
 
 
また、文化面に着目して、縄文文化・弥生文化・古墳文化・[[飛鳥文化]]・[[白鳳文化]]・[[天平文化]]・[[弘仁・貞観文化|弘仁貞観文化]]・[[国風文化]]・[[院政期文化]]・[[鎌倉文化]]・[[北山文化]]・[[東山文化]]・[[桃山文化]]・[[元禄文化]]・[[化政文化]]などが用いられる。
 
 
 
== 概説 ==
 
=== 旧石器時代 ===
 
{{main|日本列島の旧石器時代}}
 
 
 
[[ファイル:Japan glaciation.png|right|thumb|約2万年前の[[氷河期]]最後の[[更新世]]後期の日本の高度地図
 
{{legend|darkorange|海面上の地域}}
 
{{legend|white|植物の生息していない地域}}
 
{{legend|aqua|海}}
 
黒線は現代の海岸線を示す]]
 
 
 
[[日本列島]]において確認されている[[人類]]の歴史は、約10万年前までさかのぼる<ref>[http://www.47news.jp/CN/200909/CN2009092901000679.html 日本最古の旧石器か、島根で発見 12万年前の地層から]</ref>。ただしこれは[[デニソワ人]]などの旧人の遺したものと考えられる<ref>現生人類の出アフリカが約6万年前であるため</ref>。
 
 
 
現生人類の最初の到来は4~3.5万年前と考えられている。
 
 
 
古く北海道と九州方面は大陸と地続きであり[[ナイフ形石器]]と呼ばれる[[石器]]が列島全域で広く使用された。このナイフ型石器は北海道では発掘されていない。
 
約2万年前には[[シベリア]]から新たに[[細石刃]]と呼ばれる石器が主に[[東日本]]に広まった。しばらく東日本の細石刃文化と西日本のナイフ形石器文化が併存したが、ほどなく細石刃が[[西日本]]にも広まり、約1万5千年前ごろ、ナイフ型石器は急速に姿を消した。
 
また、約4~3万年前にかけて世界最古とされる[[磨製石器]]([[局部磨製石斧]])が多数発見されており、すでに列島では独自の磨製石器の使用が見られる。
 
[[岩戸遺跡]]から約2万4千年前のものとみられるこけし型の岩偶が出土したことで、旧石器時代にも何らかの信仰があったことがうかがえる。
 
 
 
約1万2千年前頃、[[最終氷期]]が終わり急激な温暖化による海面上昇が始まると、日本列島はアジア大陸から分離した。これにより、人々の文化や生活に大きな変化が生じ、[[南西諸島]]を除いて、次の縄文時代へ移行していった。
 
 
 
旧石器時代人の遺伝子として[[ハプログループD1b (Y染色体)]]が想定されている<ref name=崎谷>崎谷満『DNA・考古・言語の学際研究が示す新・日本列島史 日本人集団・日本語の成立史』(勉誠出版 2009年)</ref>。
 
{{clear}}
 
 
 
=== 縄文時代 ===
 
[[File:Yoshibumi-shel-mound,katori-city,japan.JPG|thumb|left|[[良文貝塚]]]]
 
 
 
{{main|縄文時代}}
 
縄文時代(じょうもんじだい)は、年代でいうと今から約1万6,500年前(紀元前145世紀)から約3,000年前(紀元前10世紀)、地質年代では更新世末期から完新世にかけて日本列島で発展した時代であり、世界史では中石器時代ないし新石器時代に相当する時代である。旧石器時代と縄文時代の違いは、土器の出現や竪穴住居の普及、貝塚の形式などがあげられる。
 
草創期・早期・前期・中期・後期・晩期の6期に区分される。この頃の日本列島人は[[縄文土器]]を作り、早期以降定住化が進んで主に[[竪穴式住居]]に住んだ。縄文式土器については、青森県[[大平山元I遺跡]]にて約1万6500年前の世界最古と言われる土器が発見されている。[[弓矢]]を用いた[[狩猟]]、[[貝塚]]に見られる[[漁撈]]、[[植物]]の採集などで生活を営み、[[打製石器]]、[[磨製石器]]、[[骨角器]]などを用いた。
 
 
 
[[雑穀]]や[[種実類|堅果]]などの[[栽培]]も行われたとする仮説も提示されており、野生のイヌビエから穀物の[[ヒエ]]への栽培化のプロセスが追跡できるとする研究や、[[クリ]]の選択が行われて栽培化の動向がうかがわれるとされる研究も公表されている。[[稲作]]については、約6000年前の岡山県朝寝鼻(あさねばな)貝塚から稲作を行っていた証拠が見つかり、縄文時代前期から稲作が行われていた。
 
[[日本書紀]]の記述によれば、日本国の建国はこの時代の終わりに行われたとされる。
 
 
 
[[縄文人]]の主要な遺伝子として、[[ハプログループD1b (Y染色体)]]、[[ハプログループC1a1 (Y染色体)]]が想定されている<ref name=崎谷/>。
 
 
 
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=== 弥生時代 ===
 
[[ファイル:Yoshinogari-iseki kita-naikaku.JPG|thumb|[[吉野ヶ里遺跡]]北内郭の大型建物]]
 
{{main|弥生時代}}
 
[[紀元前9世紀]]頃から[[3世紀]]頃までは[[弥生時代]]と呼ばれる。時代区分名称は、この時期に特徴的に見られた[[弥生土器]]に由来する。
 
[[弥生時代]]の開始期に大陸から[[ハプログループO1b2 (Y染色体)]]に属す[[弥生人]]が到達した<ref name=崎谷/>。
 
 
 
[[稲作]]を中心とする農耕社会が成立し、北部九州から本州最北端以北を除く日本列島各地へ急速に広まった。農耕社会の成立によって地域集団が形成された。農耕社会の発展とともに地域集団は大型化していき、その中心部には[[環濠集落]]が営まれた。当時多く築造された[[弥生時代の墓制#墳丘墓|墳丘墓]]は大型地域集団の首長墓と見られ、[[身分]]差が生じ始めていたことの現れだと考えられている。
 
 
 
当時の日本列島は[[中国]]から[[倭]]・[[倭国]]と呼ばれた。大型地域集団の中には中国王朝と通交するものもあり中国から「国」と称された。紀元前後には100前後の「国」が中国と通交していたとされる。倭の[[奴国]]王は[[後漢]]へ通使し[[金印]]を授与された。大型地域集団は次第に政治的な結合を強めていき、倭国連合と呼びうる政治連合体を[[2世紀]]初頭頃に形成した。その盟主は倭国王と称し、最初期の倭国王に[[帥升]]がいる。しばらく倭国は政治的に安定していたが、2世紀後半に[[倭国大乱]]と呼ばれる内乱が生じ、その後[[邪馬台国]]の[[卑弥呼]]が倭国王となった。卑弥呼は[[魏 (三国)|魏]]との通交により倭国連合の安定を図った。
 
 
 
[[北海道]]・北[[東北地方]]においては水田耕作が受容されず[[続縄文時代]]に移行した。
 
 
 
弥生時代以降、[[ハプログループO2 (Y染色体)]]の[[渡来人]]が到達したとされる<ref name=崎谷/>。
 
 
 
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=== 古墳時代 ===
 
{{main|古墳時代}}
 
 
 
[[ファイル:Hira-ide Historic Site Park reconstructed Kofun period (600 AD) house.jpg|thumb|left|[[平出遺跡]]公園にある、復原された古墳時代(西暦600年)の住居。]]
 
 
 
[[3世紀]]中後半から[[7世紀]]頃までは[[古墳時代]]と呼ばれる。3世紀中頃に[[畿内]]に出現した[[前方後円墳]]とそれに伴う墓制が急速に列島各地に広まっており、このことは[[畿内]](ヤマト)・[[北部九州]]([[筑紫]])・[[北関東]]([[毛野]])・[[山陽地方|山陽]]([[吉備]])・[[山陰]]([[出雲]])に並立していた地域政治集団が糾合して[[ヤマト王権]]を形成したことを表していると考えられている。ただし、これは初期国家と呼べる段階にはなく、王権の連合(連合王権)と見るのが適切とされている。この王権が後に国家としての体制を整え、さらに大和朝廷と称される政権に発展するが、どの時期以降をもって朝廷と呼ぶべきかに関しては、なお議論がある。
 
 
 
[[4世紀]]後半からヤマト王権は、列島主要部の支配を固めるとともに武器・農具の原料である鉄資源を求めて[[朝鮮半島]]への進出を開始し、半島諸国の国際関係にも介入するようになったが、これを契機として[[朝鮮]]や[[中国]]の技術と文物が倭国へ流入した。高句麗とも戦争を繰り返した。([[倭・高句麗戦争]])
 
 
 
[[5世紀]]に入るとヤマト王権は本拠を[[河内平野]]へ移し、[[朝貢]]することで朝鮮半島諸国との関係を優位にすべく、その目的にふさわしい[[官爵]]を求めて中国の[[南北朝時代_(中国)#南朝|南朝]]との通交を活発に行った。中国史書に名の残るこの時期のヤマト王権の首長を[[倭の五王]]という。
 
 
 
倭の五王最後の倭王武に現時点で比定されているのは、大泊瀬幼武尊(おおはつせわかたけるのみこと)であり、後世[[雄略天皇]](470年頃治世)と[[諡]](おくりな)されている人物である。このころより、[[大王_(ヤマト王権)|大王]]や[[治天下大王]]と称するようになる。また朝鮮半島での勢力拡大を思うように行えなかったことから、それを目的にしていた中国の王朝への朝貢も行われなくなった。この時期の[[前方後円墳]]は、特に規模が巨大化しており強力な王権の存在を示している。
 
 
 
倭の五王の後、5世紀後半から[[6世紀]]前半にかけて、ヤマト王権では混乱が見られた。しかし北陸・近江根拠地の傍系王族から即位した[[継体天皇]]の登場と統治により、ヤマト王権の列島支配が強まり、これ以後は現天皇に繋がる体制が確立した。なお、継体天皇期には、北九州で[[磐井の乱]]などが起こっているが、ヤマト王権と北九州豪族[[筑紫君磐井|磐井]]の関係については不明の点が多い。
 
 
 
またこの時代には、朝鮮半島諸国の国際関係への介入は大きく後退した。こうした内向政な時期を経て、ヤマト王権による日本列島支配体制はさらに強化されていった。同時期に[[オホーツク海]]沿岸地域では、[[オホーツク文化]]が成立し、およそ[[13世紀]]まで続いた。
 
 
 
この時代(場合により次の飛鳥時代を含めて)を、[[大和時代]]と呼ぶことがあったが、現在は古墳時代とするのが一般的である。
 
 
 
最大の古墳は[[大仙陵古墳]](仁徳天皇陵)全長525m、墳丘体積210万立方メートル
 
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=== 飛鳥時代 ===
 
{{main|飛鳥時代}}
 
 
 
[[ファイル:Horyu-ji08s3200.jpg|thumb|法隆寺金堂と五重塔は国宝。法隆寺は、奈良県斑鳩町にある聖徳宗の寺院。ユネスコ世界文化遺産『法隆寺地域の仏教建造物』の一部。]]
 
 
 
[[6世紀]]後半から[[8世紀]]初頭までは、ヤマト王権の本拠が[[飛鳥]]に置かれたことから[[飛鳥時代]]と呼ばれる。6世紀後半にはヤマト王権の国内支配が安定し、むしろ王権内部の[[皇位継承|王位継承]]抗争が目立った。この時期には[[百済]]から[[仏教]]が伝来し、後の[[飛鳥文化]]・[[白鳳文化]]などの仏教文化へと発展していった。
 
 
 
6世紀末、400年ぶりに中国を統一した[[隋]]の登場は、東アジア諸国の政治権力の集中化をもたらした。倭国でも[[7世紀]]前半にかけて[[推古天皇]]とその甥厩戸王([[聖徳太子]])が、[[王殺し#日本における例|王殺し]]<!--大学の教科書には出てくるキーワード-->である[[蘇我馬子]]を牽制しながら天皇主権を確立しようとした。第1次[[遣隋使]]派遣の反省から、[[冠位十二階]]制定・[[十七条憲法]]導入などの国政改革が行われた。しかし豪族層の抵抗も根強く、権力集中化はその後も企図されたが、その動きは伸び悩んだ。
 
第2次遣隋使では[[小野妹子]]が派遣され、中国の皇帝[[煬帝]]へ親書を渡した。その親書には「日出ずる国の天子より日の没する国の天子へ」<ref>隋書 東夷伝 第81巻列伝46): "日出处天子至书日没处天子无恙" </ref>とあり、あくまで朝貢外交の枠内ではあったものの、中国と冊封を受けずに自立した君主であることを認めさせることで、朝鮮諸国に対して優位性を示す意図があった。
 
 
 
7世紀中頃の[[大化の改新]]も権力集中化の動きの一つであり、一定の進展を見せている。しかし、権力集中化への最大の契機は、7世紀後半の百済復興戦争における敗北(→[[白村江の戦い]])であり、倭国内の諸勢力は国制整備を進めることで一致し、権力集中化が急速に進み始めた。さらに[[壬申の乱]]に勝利した[[天武天皇]]は権力集中を徹底し、天皇の神格化を図った。[[天皇]]号の制定時期は天武期と考えられている。併せて、天皇支配を具現化するために[[律令制]]の導入を進め、8世紀初頭の[[大宝律令]]制定に結実した。[[日本]]という国号もまた、大宝律令制定の前後に定められている。天武天皇の詔勅に基づき日本最古の文献史料となる[[日本書紀]]の編纂が開始される。
 
 
 
なお、この時期[[北海道]]中西南部・[[青森県]]北部においては[[擦文時代]]を迎える。
 
 
 
=== 奈良時代 ===
 
{{main|奈良時代}}
 
 
 
[[ファイル:Tōdai-ji Kon-dō.jpg|thumb|left|[[東大寺]]金堂、奈良県奈良市。]]
 
 
 
[[8世紀]]初頭から末にかけては[[奈良時代]]と呼ばれ、奈良に[[都城]]([[平城京]])が置かれた。そして[[遣唐使]]を盛んに派遣し、律令国家体制の形成と深化が図られた。<!--遣唐使の律令持ち出しが禁じられていたという榎本論文が、律令政治の発展に寄与したという通説を覆すほどに重いかは疑問-->[[王土王民思想]]に基づく律令制は、天皇とその官僚による一元的な支配を志向しており、民衆に対しては[[編戸制]]・[[班田制]]・[[租庸調]]制・[[軍団 (古代日本)|軍団兵士制]]などの支配が行われた。8世紀前半は、律令制強化への動きが積極的に展開しており、[[三世一身法]]・[[墾田永年私財法]]などの農地拡大政策もこうした律令制強化の一環だったと考えられている。しかし、この時期[[聖武天皇]]のときに[[中宮]]職が設置されるなど政治の中枢が変化し始めていた。また8世紀後半に入ると[[百姓]]階層の分化が始まり、[[逃散]]増加で税収が減るなどして律令支配の転換を迫る状況が生じていった。
 
 
 
また、新羅を蕃国とし、東北地方の[[蝦夷]]・南九州の[[隼人]]を化外民とする中華意識が高まり、日本は、新羅へ朝貢を要求するとともに、蝦夷・隼人らを「教化」して律令支配へと組み込もうとしていった。この頃の北方の領土は日本海側沿いの拠点にとどまり、領土拡大につとめる日本は蝦夷に対して、帰順する蝦夷を優遇する一方、反抗する蝦夷は軍事力で制圧するという二面性の政策を取った。
 
 
 
文化面では、『[[日本書紀]]』・『[[万葉集]]』・『[[風土記]]』などが編まれた他、遣唐使がもたらした大陸文化に影響を受けた[[天平文化]]が栄えた。仏教は政府により厳しく統制されたものの[[鎮護国家]]思想が強まり、聖武天皇の発願で[[東大寺]]・[[国分寺]]が国家護持の名目で建立された。工芸品では[[正倉院]]宝物が有名。[[孝謙天皇|称徳天皇]]が作らせた[[百万塔]]におさめられた[[百万塔陀羅尼]]は、現存する世界最古の印刷物と言われている。
 
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=== 平安時代 ===
 
{{main|平安時代}}
 
 
 
[[File:Ichijoji Kasai13bs4272.jpg|thumb|180px|[[一乗寺]]三重塔 (国宝), [[兵庫県]][[加西市]]。1171年建立の[[和様建築]]。]]
 
 
 
[[8世紀]]末頃から[[12世紀]]末頃までは[[平安時代]]と呼ばれ、[[桓武天皇]]の築いた[[平安京]]が都とされた。平安前期には古墳時代の地方首長層に出自する古来の[[国造]]一族から任命された[[郡司]]階層の没落と[[百姓]]階層の分化が一層進み、前代から引き続いた律令国家体制に限界が生じていた。そこで[[朝廷]]は[[11世紀]]初頭頃から地方分権的な国家体制改革を精力的に推進し、[[王朝国家|王朝国家体制]]と呼ばれる体制が成立した。王朝国家では、朝廷から大幅に統治権限を委譲された[[受領]]とその[[国衙]]機構による地方支配が展開した。この受領・国衙支配のもと、収取体系は従来の律令体制における、[[戸籍]]による個別人民把握と[[郡司]]層の[[百姓]]層に対する首長権に裏付けられた、[[人頭税]]方式の課税から、土地単位の課税と有力百姓階層や土着した元国司子弟などの富豪層への農地経営請負委託を組み合わせた、[[負名]]体制へと変貌した。地方統治を裏付ける軍事面においては、[[国衙軍制]]を通じて武芸の家として武装と武力の行使を公認された官人層である[[武士]]階層が、[[契丹]]の台頭に呼応した[[承平天慶の乱]]や[[刀伊の入寇]]<!--世界的観点-->などといった内外の軍事的危機の解決に与ったことを機会に台頭した。また、中央政治においては11世紀に[[藤原北家]]が[[皇室|天皇家]]の[[外戚]]として政権中枢を担う[[摂関政治]]が成立した。
 
 
 
12世紀に入ると王朝国家のあり方に変化が生じ、12世紀末から[[13世紀]]にかけて[[荘園 (日本)|荘園]]の量的増加と、経営単位として自律した[[一円領地]]化という質的変化が著しくなり、[[権門]]を[[荘園領主]]とする荘園と、[[国衙]]が支配する公領が対等な存在として拮抗して並び立ち、このそれぞれにおいて荘園・公領間の武力紛争に耐えられる武士が現地の管理者として在地領主化する、[[荘園公領制]]と呼ばれる中世的な支配体制が確立した。同時期には[[太上天皇|上皇]]が[[治天の君]]として政務に当たる[[院政]]が開始しており、この時期が[[古代]]から[[中世]]への画期であるとされている。平安末期には[[保元の乱|保元]]・[[平治の乱|平治]]両乱を経て武士の軍事力が中央政界の政争の帰趨を左右するようになり、その結果、中央政界で政治の主導権を握った[[伊勢平氏]]によって原初的な[[武家政権]]と評価される[[平氏政権]]が登場した。
 
 
 
[[奈良時代]]から漸次的に進んでいた文化の日本化が[[国風文化]]として結実し、[[漢字]]を元に生み出された[[平仮名]]・[[片仮名]]が使われていくようになり、『[[源氏物語]]』・『[[枕草子]]』に代表される物語文学などが花開いた。[[密教]]や[[末法思想]]が広く信じられ、[[神仏習合]]が進み、[[寺院]]が多く建てられた。
 
 
 
東北地方では、11世紀頃から[[安倍氏 (奥州)|安倍氏]]・[[出羽清原氏|清原氏]]・[[奥州藤原氏]]などの半独立政権が興亡し、中央から派遣された[[鎮守府将軍]]をも交えてしばしば抗争した([[前九年の役]]・[[後三年の役]])。[[南西諸島]]においては、12世紀頃から[[グスク時代]]に入る。以降の詳細は、北から[[奄美群島の歴史]]、[[沖縄県の歴史]]、[[先島諸島#先島の歴史|先島諸島の歴史]]などを参照のこと。
 
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=== 鎌倉時代 ===
 
[[ファイル:Takeshi DSC 7846 (4833374859).jpg|thumb|left|150px|[[鎌倉大仏]]]]
 
{{main|鎌倉時代}}
 
 
 
[[12世紀]]末頃から[[14世紀]]頃までは[[鎌倉時代]]と呼ばれ、中央の[[朝廷|公家政権]]と関東の[[武家政権]]が並立した。[[源頼朝]]を首長とする[[鎌倉幕府]]は、[[治承・寿永の乱]]で勝利して平氏政権を打倒し、その過程で[[守護]]・[[地頭]]補任権を獲得し、[[朝廷]](公家政権)と並びうる政権へと成長した。[[13世紀]]前半の[[承久の乱]]の結果、公家政権は武家政権に従属した。その後、[[御家人]]筆頭である[[北条氏]]が幕府政治を実質的にリードする[[執権政治]]が確立した。
 
 
 
13世紀中期頃から、貨幣経済の浸透と商品流通の活発化、村落の形成、地頭ら武士による荘園公領への侵出といった、大きな社会変動が生じ始めた。これらの動きは13世紀後半の[[元寇]]によって加速した。[[恩賞]]の払えない幕府は[[徳政令]]を発布したり[[得宗専制]]をとったりして急場をしのいだが、一度傾いた[[封建制度#日本|封建制]]<!--地味に世界的観点-->を立て直すことはできなかった。在地社会では混乱に乗じて[[悪党]]・[[惣村]]などが出現し、荘園公領制の変質化が急速に進行した。
 
 
 
文化面では[[運慶]]と[[快慶]]の東大寺南大門金剛力士像など、写実的な美術が展開した。また宗教面ではそれまでの[[鎮護国家]]を目的とする[[顕密体制]]の仏教から発した[[鎌倉新仏教]]の成立により、民衆へ仏教が普及していった。北海道においては、13世紀頃から従来の[[擦文文化]]が、狩猟採集で得られた商品価値に富んだ産品の交易により深く依存を強め、また[[オホーツク文化]]と融合する中、[[アイヌ]]文化へと変遷を遂げた。
 
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=== 南北朝時代 ===
 
{{main|南北朝時代 (日本)}}
 
 
 
[[ファイル:Kouyou of Yoshinoyama.JPG|thumb|南朝のあった[[吉野山]]]]
 
[[File:Kamakura-fu-ja.png|thumb|left|明徳2年/元中8年(1391年)の鎌倉府管轄国地図]]
 
 
 
[[14世紀]]頃は[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]と呼ばれ、[[大覚寺統]]の[[南朝 (日本)|南朝]]と[[足利氏]]が支援する[[持明院統]]の[[北朝 (日本)|北朝]]に朝廷が分かれた。
 
 
 
鎌倉時代中期以降、皇室は[[大覚寺統]]と[[持明院統]]に分かれて皇位継承を巡り争い、[[鎌倉幕府]]の介入により[[両統迭立]]状態となっていた。大覚寺統から即位した[[後醍醐天皇]]は幕府を滅ぼそうとするも失敗し[[隠岐]]に流され、幕府は持明院統の[[光厳天皇]]を即位させたが、後醍醐天皇は隠岐を脱出すると再び討幕を呼びかけ、[[足利尊氏]]や[[新田義貞]]らにより[[鎌倉幕府]]を滅亡させる。
 
 
 
後醍醐天皇は光厳天皇を退け[[建武の新政]]と呼ばれる天皇専制の政治を行うが、[[武士]]層の不満が増すと、尊氏はそれを背景に新政から離反し、持明院統を擁立して大覚寺統を南の[[吉野]]に追った。荘園公領制の変質が、社会各層における対立を顕在化させ、南北朝の争いを大義名分とする全国的な抗争が展開した
 
 
 
文化面では、[[ばさら]]に代表されるように、身分秩序を軽視し華美な振る舞いに走る傾向が見られた。また、[[連歌]]が流行し、『[[二条河原落書]]』など文化の庶民化への動きが見られた。
 
{{clear}}
 
 
 
=== 室町時代 ===
 
[[ファイル:Yoshimitsu Ashikaga cropped.jpg|thumb|180px|3代将軍[[足利義満]]]]
 
[[ファイル:Kinkakuji174a.jpg|thumb|left|鹿苑寺金閣(北山文化)]]
 
 
 
{{main|室町時代}}
 
[[14世紀]]頃から[[16世紀]]頃までは[[室町時代]]と呼ばれ、[[京都]]の室町に[[幕府]]が置かれた。[[足利尊氏]]が南朝に対して北朝を擁立し[[室町幕府]]を開いた。京都に本拠を置いた幕府は、朝廷の権能を次第に侵食したため、朝廷(公家政権)は政治実権を失っていった。各国に置かれた守護も[[半済]]等の経済的特権の公認や[[守護請]]の拡大などを通じて、国内支配力を強め、[[国衙]]機能を取り込んでいき、[[守護大名]]へと成長して、[[守護領国制]]と呼ばれる支配体制を築いた。<!--こうして幕府と守護大名が構築した相互補完的な支配体制を[[室町幕府-守護体制]]という。--><!--川岡勉以外にこの体制を主張している学者が見当たらないし、普通に考えると守護領国制の守護勝手な時代のイメージに合わない-->
 
 
 
[[足利義満]]は[[明徳の和約|南北朝合一]]を遂げ、また[[日明貿易]]を行い明皇帝から[[日本国王]]に[[冊封]]された。義満は[[守護大名]]の勢力抑制に努めたが、守護大名の拡大指向は根強く、幕府対守護の戦乱が多数発生した。幕府-守護体制は[[15世紀]]中葉まで存続したが、[[応仁の乱]]によって大きく動揺すると[[明応の政変]]を契機としてついに崩壊し、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]へと移行した。
 
[[1419年]]、[[李氏朝鮮]]が対馬に侵攻した。([[応永の外寇]])
 
[[1429年]]に[[尚巴志王]]が[[琉球王国]]を作り上げ、日本や明などと国交を結び盛んに貿易を行った。本州から現在の北海道南部に進出した人々は[[道南十二館]]などの居住地を作り、和人と呼ばれた。アイヌと和人は交易をしたが、和人がアイヌを圧迫したため、[[1457年]]に大首長コシャマインを中心に蜂起するも([[コシャマインの戦い]])、[[蠣崎氏]]によりしずめられた。
 
 
 
この時代の社会原則は[[自力救済]]であり、各階層内において連帯の動き=[[一揆]]が浸透した。村落社会の自立化が進み[[惣村|惣村・郷村]]が各地に成立した。[[西日本]]では交易が活発化すると、その活動は朝鮮・中国に及んだ([[倭寇]])。文化面では、[[連歌]]・[[猿楽]]・[[喫茶]]など身分を超えた交流に特徴付けられる[[室町文化]]([[北山文化]]・[[東山文化]])が栄えた。この文化は[[禅宗]]の影響を受け、簡素さと深みという特徴も持っていた。
 
 
 
=== 戦国時代 ===
 
[[ファイル:Himeji Castle The Keep Towers.jpg|thumb|[[姫路城]]]]
 
[[ファイル:Matsumoto Castle 1-1.jpg|thumb|[[松本城]]]]
 
 
 
{{main|戦国時代 (日本)}}
 
[[15世紀]]後期から[[16世紀]]後期にかけての時期を[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]と呼ぶ。この時代は、[[守護大名]]や[[守護代]]、[[国人]]などを出自とする[[戦国大名]]が登場し、それら戦国大名勢力は中世的な支配体系を徐々に崩し、[[分国法]]を定めるなど各地で自立化を強めた。[[一円知行|一円支配]]された領国は地域国家へと発展し、日本各地に地域国家が多数並立した。この地域国家内における一元的な支配体制を[[大名領国制]]という。地域国家間の政治的・経済的矛盾は、武力によって解決が図られた。16世紀半ばに登場した[[織田信長]]は、[[楽市楽座]]令を出したり、[[自治都市]]の[[堺]]を直轄領にしたりして流通政策と海外交易を担い<!--安部龍太郎 信長の流通政策と海外交易 (財務省「夏季職員セミナー」) ファイナンス : 財務省広報誌 48(8), 48-55, 2012-11-->、強大な軍事力を手にした。
 
 
 
この時代は、農業生産力が向上するとともに、地域国家内の流通が発達すると、各地に都市が急速に形成されていった。また、[[ヨーロッパ]]との交易([[南蛮貿易]])が始まり、[[火縄銃]]や[[キリスト教]]などが伝来すると、それまでの戦術や日本の宗教観念が変化した。南蛮貿易は江戸幕末まで日本の政治・経済に影響を与え続けた。
 
 
 
=== 安土桃山時代 ===
 
{{main|安土桃山時代}}
 
 
 
[[織田信長]]は室町将軍[[足利義昭]]を放逐すると、室町幕府に代わる畿内政権を樹立した。信長が[[本能寺の変]]により自害すると、[[天下統一]]の事業は[[豊臣秀吉]]が継承することとなった。
 
 
 
秀吉は、信長の畿内政権を母体として東北から[[九州]]に至る地域を平定し、統一事業を完了した。秀吉も中世的支配体系・支配勢力の排除・抑制に努め、[[中世]]をおわらせた。[[刀狩]]や[[太閤検地]]の実施を通し、[[兵農分離]]を進めて[[荘園公領制]]・[[職の体系]]を消滅させたのである。秀吉による天下統一により、政治や経済の安定がもたらされると[[大名]]・[[武士]]を中心として豪壮な[[桃山文化]]が栄えた。
 
 
 
この時代の世界情勢と秀吉の外交に臨む態度は[[サン=フェリペ号事件]]に見ることができる。船員に提示された秀吉の書状によると、秀吉は[[英葡永久同盟]]下にあるポルトガルから聞いて、フィリピンが武力制圧されていたことを知っていた([[フィリピン#スペイン植民地時代]])。処刑された[[日本二十六聖人]]は[[フランシスコ会]]であったが、[[宗教改革]]の時節柄[[カトリック教会]]であった。[[近世日本国民史]]によると、スペイン国王は宣教師を世界中に派遣し、布教とともに征服を事業としているということであった。しかし、この文献は当世のものでない。このときのスペイン国王は[[フェリペ2世 (スペイン王)|フェリペ2世]]であった。次の事実は世界的観点から特に重要である。[[ハプスブルク家]]出身であるフェリペ2世は、英葡同盟下にあるポルトガル国王を兼ね、さらに[[フランチェスコ・デ・タシス2世|帝国郵便]]の維持費を負担していた。
 
 
 
秀吉は[[文禄・慶長の役|朝鮮への出兵]]を実行したが、その最中に死去。後継者問題も抱えていた豊臣政権は弱体化していった。
 
 
 
=== 江戸時代 ===
 
[[画像:Mitsubaaoi.svg|thumb|left|150px|徳川家の三葉葵家紋。日本では家紋で使用されない緑色バージョン。]]
 
[[画像:KumamotoCastle EdoPeriod 02.JPG|thumb|江戸期の熊本城]]
 
 
 
[[慶長]]8年([[1603年]])から[[慶応]]3年([[1867年]])までは[[江戸時代]]と呼ばれ、[[江戸]]に[[江戸幕府]]が置かれた。
 
 
 
秀吉の死後、[[徳川家康]]は[[関ヶ原の戦い]]に勝利して権力を掌握すると江戸に幕府を開き、[[大坂の役]]で[[豊臣氏]]を滅ぼした。この後幕府は、[[17世紀]]中葉までに[[武家諸法度]]の発布、[[参勤交代]]の義務化、有力大名の[[改易]]などを通して、諸大名との主従制を確固たるものとし、また朝廷統制を強め、幕府官僚機構を整備した。並行して、[[キリスト教]]の制限と貿易の管理強化を進め、社会の安定化に努めた。そうした中勃発した[[島原の乱]]は、[[キリスト教]]禁止の徹底と[[出島]]での管理貿易による[[鎖国]]の完成へとつながる。日本の境界領域である[[琉球王国]]と[[蝦夷地]]([[和人地]]である[[渡島半島]]を除く[[北海道]]、[[樺太]]及び[[千島列島]])の支配は大名を通じて行なわれた。
 
 
 
一方で、社会の安定化に伴って耕地開発の大事業が各地で実施され、倍増した耕地面積は食糧増産と人口増加をもたらすと、[[村請]]を通じて幕府財政や藩財政を支えるとともに、全国的な流通経済を大きく発展させた。以上のように、江戸時代前期に確立した支配体制を[[幕藩体制]]という。社会の安定と経済の成長は、都市の発展を支え、17世紀後半の[[元禄文化]]に結実した。
 
 
 
[[18世紀]]に入り金銀が流出して[[海舶互市新例]]を出すようになり<!--世界的観点-->、[[徳川吉宗]]は幕府権力の再強化と財政再建([[享保の改革]])を推し進めた。その後も体制維持および財政再建の努力([[寛政の改革]]、[[天保の改革]]等)は行なわれるが成功はしなかった。この頃に都市町人を中心とする[[化政文化]]が花開いた。ところが、商品経済の発達による社会各層での貧富の拡大とそれに伴う身分制の流動化、そして[[幕末の通貨問題]]<!--世界的観点-->を背景に、幕藩体制は次第に動揺していった。
 
 
 
[[19世紀]]中頃までに、国内の社会矛盾と国外からの圧力([[ロシア]]、[[イギリス]]、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]船の接近)に抗するため、幕府は[[フランス]]の[[ソシエテ・ジェネラル]]から貸付を受けて軍備を増強した<!--世界的観点-->。しかし同世紀後半の[[黒船来航]]と[[日米和親条約]]締結による開国を契機として幕府の管理貿易([[鎖国]])は解かれた。そして不平等な[[安政五カ国条約]]<!--世界的観点と、日米間にとどまらない点での正確性-->を勅許なしに締結してしまい、幕府の威信は低下した。[[朝廷]]の権威が増大することになり、幕府は[[大政奉還]]により権力の温存を図ったが、倒幕派の[[薩摩藩]]、[[長州藩]]、[[土佐藩]]らとの内戦([[戊辰戦争]])に敗北後、瓦解した。
 
 
 
江戸時代は文化の担い手が庶民にまで拡がり、[[歌舞伎]]、[[俳諧]]、[[浮世絵]]、[[お陰参り]]などが盛んになったほか、[[寺子屋]]や[[藩校]]で広く教育が行われた。当世の教育機関は明治になって財政支援に乏しい[[学制]]の普及に活用された。
 
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=== 明治時代 ===
 
{{main|明治|日本近代史}}
 
 
 
[[画像:Higasiaimon-cho Street in Toyama City in late Meiji era.jpg|thumb|明治末期の富山市・東四十物町通り]]
 
 
 
[[明治]]年間([[1868年]] - [[1912年]])は[[明治|明治時代]]と呼ばれる。倒幕派の諸藩を中心とする維新政府は[[戊辰戦争]]を経て旧幕府勢力を退けてから、[[王政復古 (日本)|王政復古]]により明治新政府を樹立した。新政府は[[岩倉使節団]]の世界視察に基づいて欧米の諸制度を積極的に導入した。<!--世界的観点-->[[明治維新]]と呼ばれる一連の改革は、[[廃藩置県]]、[[四民平等]]化、[[六法]]・[[郵便#日本の郵便の歴史|郵便]]・[[日本の鉄道開業|鉄道]]・[[水道]]等の整備にまで及んだ。その過程で日本の境界領域であった[[琉球王国]]や、[[樺太]]を除く[[蝦夷地]]([[北海道]]の大部分と[[千島列島]])、[[小笠原諸島]]を完全に日本の領域内に置き、国境を画定した。安政五カ国条約を改正するため、[[帝国議会]]の設置や[[大日本帝国憲法]]の制定など国制整備に努める一方で、産業育成([[殖産興業]])と軍事力強化([[富国強兵]])を国策として推進した。[[日清戦争]]と[[日露戦争]]に勝利したことで条約改正を果した。日清戦争では[[三国干渉]]により、割譲された[[遼東半島]]を清に返還。日露戦争では賠償金を得られず大きな負債が残った。[[大北電信会社|電信]]における主権は1967年まで回復できなかった。<!--世界的観点-->また、一方では[[日本統治時代の台湾|台湾統治]]や[[韓国併合]]を行い領土を拡大した。
 
 
 
文化面では、欧米から新たな学問・芸術・文物が伝来すると、その有様は[[文明開化]]と呼ばれ、江戸時代以前とは大きく異なった文化が展開した。[[言文一致]]や[[変体仮名]]の整理、[[標準語]]の普及が進められ、近代的な[[日本語]]が成立した。宗教面では従来の神仏混交が改められ([[神仏分離]])、[[寺請制度]]が廃止された。神社は行政組織に組み込まれ、皇室を中心とする[[国家神道]]に再編されていった。これにより仏教は弾圧された([[廃仏毀釈]])。キリスト教は欧米側の事情として制度・資本両面の輸出に成功し布教の理由が薄れてなお、[[同志社大学]]などの教育機関に社会的地位を占めるようになった。
 
 
 
世界的観点においては、明治維新の途中から日清戦争までが[[大不況 (1873年-1896年)]] 期にあたる。このときは[[オリエンタル・バンク]]が日本の[[外債]]を引受けた。日露戦争ではシ団が[[ロスチャイルド]]などの個人銀行に変わり、その意味で幕末の方針に回帰した。 
 
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[[1875年]]、横浜の山手に駐屯していた[[英仏横浜駐屯軍]]が完全撤退した。
 
 
 
=== 大正時代 ===
 
{{main|大正|日本近代史}}
 
 
 
[[File:Emperor Taishō.jpg|thumb|150px|left|[[大正天皇]]]]
 
 
 
[[大正]]年間([[1912年]] - [[1926年]])は[[大正|大正時代]]と呼ばれる。[[護憲運動]]を経て大衆の政治参加が進み、[[政党政治]]が確立した時期である([[大正デモクラシー]])。1925年(大正14年)には男子[[普通選挙]]が実現した。
 
 
 
一方で政党政治家には大衆の人気取りのため乱暴な対外政策に走る傾向があり、[[大隈重信]]政権は[[1914年]](大正3年)の[[第一次世界大戦]]には直接国益に関与しないにも関わらず[[日英同盟]]を根拠に参戦。同じ連合国である[[中華民国]]の[[袁世凱]]政権に[[対華21カ条要求]]を突きつけ、帝国主義的野望を露骨に示した。戦争の結果、[[1919年]]([[大正]]8年)に[[パリ講和会議]]でドイツの山東省権益を獲得したが[[ワシントン会議 (1922年)|ワシントン会議]]で返還された。太平洋のドイツ領であった[[南洋群島]]は、[[国際連盟]]からの委任を受けて統治することとなった。
 
 
 
日本は大戦特需と[[海底ケーブル]]需要<!--世界的観点。フジクラ等の企業も関わっており、最近のビッグビジネスを理解するために必要な指摘。-->により工業生産が激増し、未曾有の好景気となる([[大戦景気 (日本)|大戦景気]])。[[財閥]]は資本の集積・集中を進め巨大[[コンツェルン]]を築いたり、国際[[カルテル]]に参加したりした<!--世界的観点-->。政府は[[社会政策]]の面ではほとんど無策であり、農村から労働者が流入した大都市では[[スラム|貧民窟]]が形成されるなど[[貧困]]が広がった。大戦が終わると大戦中の反動による深刻な不景気に苦しんだ。そこに[[関東大震災]]が混迷する状況に追い討ちをかけて、[[JPモルガン]]などに巨額の外債を引受けられたり、[[金解禁]]により正貨が流出したりした<!--世界的観点-->。
 
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=== 昭和時代 ===
 
{{main|昭和|日本近代史}}
 
 
 
[[File:Bank run during the Showa Financial Crisis.JPG|thumb|left|150px|[[昭和金融恐慌]]時の取り付け騒ぎ]]
 
[[File:Founding Ceremony of the Hakko-Ichiu Monument.JPG|thumb|150px|[[八紘之基柱]]竣工式]]
 
[[File:Fumimaro Konoe.jpg|thumb|150px|left|[[近衛文麿]]、[[大政翼賛会]]総裁(初代)などを歴任した。]]
 
 
 
[[昭和]]年間([[1926年]] - [[1989年]])は[[昭和|昭和時代]]と呼ばれる。大正期から続いた不景気に[[世界恐慌]]が直撃し、社会不安が増大した。金解禁に失敗した[[政党政治]]に代わって[[日本軍|軍部]]が力を持つようになり、外債に頼らない国家運営を展開した<!--世界的観点-->。[[関東軍]]は独断で[[満州]]を占領して[[満州国]]を樹立し、これが[[アメリカ合衆国|アメリカ]]や[[イギリス]]の反発を招いて[[国際連盟]]を脱退した。その後、[[第二次上海事変]]等により[[中華民国]]との戦争状態([[日中戦争]]・[[支那事変]])に発展した。日本は[[枢軸国]]の一員として[[ナチス・ドイツ]]、[[イタリア王国]]と[[日独伊三国同盟|三国同盟]]を結び、[[真珠湾攻撃]]でアメリカ合衆国と開戦して[[第二次世界大戦]]([[太平洋戦争]]・[[大東亜戦争]])に突入した。開戦当初は優勢だった[[日本軍]]は[[アメリカ軍]]の生産力と[[通商破壊]]に圧倒され、各地で敗北を重ねた。戦争末期には主要都市を軒並み[[戦略爆撃]]で焼け野原にされ、広島と長崎には[[原子爆弾]]を投下されて敗れた。
 
 
 
[[File:Bundesarchiv Bild 183-L09218, Berlin, Japanische Botschaft.jpg|thumb|150px|同盟締結を記念してベルリンの日本大使館に掲げられた三国の国旗(1940年9月)]]
 
[[ファイル:Nagasakibomb.jpg|right|thumb|150px|1945年8月6日に広島、同年8月9日に長崎に[[原子爆弾]]が投下された。]]
 
[[戦後]]、[[連合国軍最高司令官総司令部]] (GHQ) の占領政策に基づいた[[象徴天皇制]]、[[国民主権]]、[[平和主義]]を定めた[[日本国憲法]]を新たに制定した。「侵略戦争の経済的基盤」を無力化するために[[農地改革]]と[[財閥解体]]が断行された。解体された財閥はコンツェルンとしての形から企業グループとなった。企業グループとは、[[アメリカ対日協議会]]の圧力により[[過度経済力集中排除法]]が適用されないことになった「トップのいない企業結合体」である。無力化の対象となった[[寄生地主制]]と財閥は、戦中より産業合理化の障害としても論じられていた<ref>Freda Utley ''[[:en:Freda Utley#Books|Japan's Feet of Clay]]'', Faber & Faber, London (1937)</ref>。そこで[[傾斜生産方式]]という合理化が推進された。1952年、日本は[[世界銀行]]と[[国際通貨基金]]に加盟した。このころは[[新円切替]]や[[正力マイクロ波事件]]<!--通信史における重要な世界的観点-->などが国民生活を脅かした。
 
 
 
[[File:Yoshida signs San Francisco Peace Treaty.jpg|thumb|left|[[サンフランシスコ平和条約]]に署名する[[吉田茂]]と日本全権委員団。]]
 
 
 
[[1950年代]]にさしかかるころから[[逆コース]]が進展した。[[朝鮮戦争]]では占領軍の指令に基づき掃海部隊や港湾労働者を朝鮮半島に送り込むなど韓国支援活動を行った<ref name=ishimaru>{{cite web|url =http://www.nids.go.jp/publication/senshi/pdf/200803/03.pdf|title =朝鮮戦争と日本の関わり―忘れ去られた海上輸送―|publisher =[[防衛研究所]]|author =防衛研究所戦史部[[石丸安蔵]]|accessdate =2011-08-02|archiveurl =https://web.archive.org/web/20110323030422/http://www.nids.go.jp///publication/senshi/pdf/200803/03.pdf|archivedate =2011年3月23日|deadlinkdate =2017年10月}}</ref>。[[1952年]](昭和27年)に[[日本国との平和条約|サンフランシスコ平和条約]]により主権を回復した後、外債の導入により<!--世界的観点-->急速に戦後復興を進め、財閥は企業グループとして形を変えて復活した。[[冷戦]]下の西側陣営として[[日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約|日米安全保障条約]]を締結した。独立後の日本は西側諸国の中でも特に米国寄りの立場をとったが、[[日本国憲法第9条]]を根拠に軍事力の海外派遣を行わなかった。サンフランシスコ平和条約発効直前に発生した韓国による[[竹島問題|竹島軍事占領]]を除き、戦後の日本は諸外国からの軍事的実力行使にさらされることがなかった。[[自民党]]と[[日本社会党|社会党]]の保革[[55年体制]]ができた翌年、日本は[[日ソ共同宣言]]と[[国際連合]]加盟を果した。[[1972年]](昭和47年)には[[日中国交正常化]]と[[沖縄返還]]が行われた。それぞれに関しては[[中華民国]]の国家性と[[西山事件]]が未解決である。
 
 
 
[[1960年代]]、日本の[[国民総生産]]は[[証券不況]]にあえぎながらも[[高度経済成長]]をとげた。[[1966年]](昭和41年)に[[フランス]]を、[[1967年]](昭和42年)に[[英国]]を、[[1968年]](昭和43年)には[[西ドイツ]]をそれぞれ追い抜いた。これをもって[[米国]]・[[ソビエト連邦]]に次ぐ世界第3位にのぼりつめ、日本は[[先進国]]となった。[[1970年代]]は[[ニクソン・ショック]]と[[オイルショック]]の二重苦にもかかわらず軟着陸できたので[[安定成長期]]と呼ばれた。重化学工業から[[自動車]]・[[電機]]へと産業の主役が移る[[産業構造の転換]]が進んだ。一方、傾斜生産方式から安定成長に至るまで[[公害病]]問題が深刻化していた。また、日本企業の輸出攻勢は[[貿易摩擦]]をもたらした。そして数年にわたり報道された[[ロッキード事件]]は日本の[[グローバル化]]を象徴した。<!--世界的観点-->昭和末期、[[日本の民営化の一覧#中曽根内閣(1982-1987)|中曽根内閣の民営化政策]]が推進され始めてほどなく[[プラザ合意]]がなされた。これにより[[円高不況]]がおこり、そこでゆきすぎた[[金融緩和]]がなされて[[リクルート事件]]のころに[[バブル景気]]が到来した。
 
 
 
[[歴史学]]界は戦前・戦中に弾圧されていた思想や研究が解禁されて、古代史や[[考古学]]の研究が進んだ。GHQ 占領下でも戦前・戦中とは違った方針で検閲が行われた。昭和期の学者は国内文献を渉猟するにあたり時々の趨勢に左右された。国外文献、とりわけアメリカ側の保有する戦時史料は、次の平成に[[情報公開法]]が充実し、また公開期限も到来して、堰を切ったように研究が進んだ。
 
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=== 平成時代 ===
 
[[ファイル:Tokyo Tower at night 8.JPG|thumb|東京タワー(六本木ヒルズより)]]
 
[[ファイル:Yoyogi Park from Hyatt.jpg|thumb|[[世界都市]]となった[[東京]]。2014年に[[国家戦略特別区域]]となった。パークハイアットのニューヨークギルから見る[[代々木公園]]及び[[明治神宮]]。]]
 
{{main|平成|日本近代史}}
 
[[平成]]年間([[1989年]] - )は[[平成|平成時代]]と呼ばれる。[[社債]]の規制緩和が続く中で<!--世界的観点-->[[バブル崩壊|バブル景気が崩壊]]し、[[失われた10年]]あるいは[[失われた20年]]と呼ばれる慢性不況が到来した。[[金融ビッグバン]]<!--世界的観点-->などの[[構造改革]]が進められたが、財政は借換債と[[財投債]]で[[日本国債#国債残高の推移|国債残高の累積]]を許した。政治面では[[冷戦]]終結にともない変革を求める声が高まった。自社両党による55年体制が崩壊し、短命の[[非自民・非共産連立政権|非自民連立内閣]]が成立した。そして2009年と2012年にも[[政権交代]]が起こった。
 
 
 
このように社会不安が高まる中で、[[阪神淡路大震災]]や[[地下鉄サリン事件]]、[[東日本大震災]]及び[[福島第一原子力発電所事故]]などの大規模な災害が発生し、危機管理に対する意識が高まるきっかけとなった。
 
 
 
世界的観点において平成初期は、合衆国などの余剰家計を[[ミューチュアル・ファンド]]が吸い上げてグローバルな投資活動を展開し注目を浴びた。21世紀に入り、[[BRICs|BRICS]]などの[[新興国]]が台頭。日本を含む先進国の[[空洞化|産業空洞化]]、国家財政や年金会計における債務超過、通貨危機、中流階級の[[ワーキングプア|貧困層への転落]]などの傾向が顕著になり、従来世界経済において圧倒的に大きな影響力を持っていた日本や欧米の経済的・政治的先進性は疑義をもたれるようになった。
 
 
 
[[1994年]]から、アメリカ政府は日本政府に対して[[年次改革要望書]]を出した。年次改革要望書は[[2008年]]に終了。
 
 
 
[[インターネット]]、[[携帯電話]]は世の中を換えつつある。また[[人工知能]]や[[自動運転]]、[[ロボット]]などの新技術が人間の仕事を代替していく見通しが出されている。
 
 
 
== 歴史認識・歴史叙述 ==
 
{{main|日本史学史|日本の歴史書}}
 
 
 
日本においては、[[漢字]]が導入された古代から歴史認識および歴史叙述の展開が見られた。中世には[[歴史物語]]の盛行により庶民層にも国家単位の歴史認識が流布する。近世には合理的・実証的な歴史研究が民間に広がり、近代には西欧から近代的歴史観が本格的に導入された。
 
 
 
== 脚注 ==
 
{{脚注ヘルプ}}
 
{{reflist}}
 
 
 
== 参考文献 ==
 
* 『朝日百科 日本の歴史』 全12巻、[[朝日新聞社]]
 
* 『岩波講座 日本通史』 全21巻・別巻4巻、[[岩波書店]]、[[1993年]] - [[1996年]]
 
* 『日本の歴史』 全26巻、[[講談社]]、[[2000年]] - [[2003年]]
 
* 『日本の歴史』 全32巻、[[小学館]]、[[1973年]] - [[1976年]]
 
* 『大系日本の歴史』 全15巻、小学館、[[1987年]] - [[1989年]]
 
* 『日本の歴史』 全26巻・別巻5巻、[[中央公論社]]、[[1965年]] - [[1967年]]
 
* 『講座日本歴史』 全13巻、東京大学出版会、[[1984年]] - [[1985年]]
 
* 『日本歴史大系』 全6巻 [[山川出版社]]、[[1984年]] - [[1990年]]
 
* 『日本の時代史』 全30巻、[[吉川弘文館]]、[[2002年]] - [[2004年]]
 
* 『国史大辞典』 全15巻、吉川弘文館、[[1979年]] - [[1993年]]
 
* 『日本史大事典』 全7巻、[[平凡社]]、[[1992年]] - [[1994年]]
 
* 『日本歴史大事典』 全3巻、小学館、[[2000年]] - [[2001年]]
 
* その他、[[Portal:歴史学/日本史]]も参照のこと。
 
 
 
== 外部リンク ==
 
 
 
{{デフォルトソート:にほんのれきし}}
 
[[Category:東アジア史]]
 
[[Category:日本の歴史|*]]
 
[[Category:日本|れきし]]
 

2018/8/17/ (金) 13:52時点における最新版

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