「日向国」の版間の差分

提供: miniwiki
移動先:案内検索
ja>Saigen Jiro
(戻し:「譬武伽」の慎重な検討を有する理由として「天孫降臨には筑紫の日向との地名も見られることから」という理由明示はないです(典拠改鼠に該当)。)
 
 
(同じ利用者による、間の2版が非表示)
13行目: 13行目:
 
|一宮    = [[都農神社]](宮崎県[[児湯郡]][[都農町]])
 
|一宮    = [[都農神社]](宮崎県[[児湯郡]][[都農町]])
 
}}
 
}}
'''日向国'''(ひゅうがのくに)は、かつて[[日本]]の地方行政区分だった[[令制国]]の一つ。[[西海道]]に属する。
+
'''日向国'''(ひゅうがのくに)
  
== 「日向」の由来 ==
+
現在の宮崎県。[[西海道]]の一国。中国。日向は「ひむか」で日に向う意。「記紀」の神話ではニニギノミコトが高天原からこの地に降臨したと伝えるが,考古学的には肯定できない。「記紀」にみえる[[熊襲]] (くまそ) の居住地であったとみられる。日向という地名は,古くは,のちの薩摩,大隅をも含む南九州の総称として用いられた時代もあったらしい。『続日本紀』和銅6 (713) 年4月の条には当国の4郡をさいて大隅国をおくとある。国府,国分寺ともに西都市三宅。『延喜式』には臼杵 (うすき) ,児湯 (こゆ) ,宮崎などの5郡,『和名抄』では 28郷,田 4800町を載せている。鎌倉時代初期,建久8 (1197) 年の『[[建久図田帳]]』には 8064町の田を載せているが,その大部分は荘園であり,特に近衛家の島津荘,宇佐八幡宮領,八条女院領国富荘はそれぞれ 1000町をこえる大規模なものであった。鎌倉時代の守護としては初め島津氏が任じられたが,中期以降には北条氏がこれに代った。南北朝時代には畠山氏,一色氏が守護に任じられたが,室町時代には再び島津氏の支配が続いた。その後地頭から台頭した伊東氏が勢力を有したが,やがて豊臣秀吉の勢力のもとに島津氏も屈した。江戸時代には佐土原に島津氏,高鍋に秋月氏,延岡に内藤氏,飫肥 (おび) に伊東氏,宇土に細川氏が封じられて,幕末にいたった。明治4 (1871) 年の廃藩置県後,美々津県,都城県となり,1873年宮崎県に統合された。その後,76年鹿児島県に併合,83年宮崎県を分置した。
『[[日本書紀]]』には「日向」の語源説話として、[[景行天皇]]と[[ヤマトタケル|日本武尊]]の征西説話において、「是の国は直く日の出づる方に向けり」と言ったので、「日向国」と名づけたと記述されている<ref>『日本書紀』景行天皇17年3月12日条(訓は『宮崎県の歴史』(山川出版社)p. 54による)。</ref>。
+
 
 
「日向」の読みについては、『日本書紀』に「宇摩奈羅麼、'''譬武伽'''能古摩(うまならば、ひむかのこま = 馬ならば日向の駒)」とあり<ref>『日本書紀』推古天皇20年正月7日条。</ref>、古くは「'''ひむか'''」と呼ばれたと考えられている<ref name="地名56">『日本歴史地名体系 宮崎県の地名』(平凡社)p. 56。</ref>。ただし、この「譬武伽」を日向国とするには検討が必要と指摘される<ref name="地名56"/>。
 
 
 
== 沿革 ==
 
日向国は[[7世紀]]中期以降、[[律令制]]の成立に伴って成立した<ref name="地名56"/>。成立当初は現在の[[宮崎県]]と[[鹿児島県]]の[[九州]]本土部分を含む広域に渡っていた<ref name="地名56"/>。
 
 
 
[[大宝 (日本)|大宝]]2年([[702年]])の[[薩摩国|薩摩]]・[[多褹国|多褹]]叛乱を契機に、現在の鹿児島県部分の西部が唱更国(後の[[薩摩国]])として分立。その後、[[和銅]]6年([[713年]])4月3日に[[肝属郡|肝杯郡]]、[[曽於郡|贈於郡]]、[[大隅郡]]、姶羅郡(現代の[[姶良郡]]とは別)の4郡が、移管し[[大隅国]]として分立した。以後、[[明治]]初期まで日向国の領域([[臼杵郡]]、[[児湯郡]]、[[宮崎郡]]、[[那珂郡 (日向国)|那珂郡]]、[[諸県郡]]の5郡)に変化はなかった。ただし、米良・椎葉地域が肥後との間で[[近世]]初期まで曖昧であった等、領域の変化はあった<ref name="地名56"/>。
 
 
 
また日向国について「五郡八院」という呼称があり、上記の5郡による行政区画と、[[真幸院]]、[[三俣院]]、[[穆佐院]]、[[新納院]]、[[飫肥院]]、[[土持院]]、[[櫛間院]]、[[救仁院]]の8院による租税区画に分けられ統治されていた。
 
 
 
[[1883年]](明治16年)宮崎県再置の際、諸県郡が新設宮崎県に属する[[北諸県郡]]と鹿児島県に残った[[南諸県郡]](志布志郷、大崎郷、松山郷の3郷)に分割され、さらに翌年、北諸県郡が北諸県郡・[[西諸県郡]]・[[東諸県郡]]、那珂郡が[[北那珂郡]]・[[南那珂郡]]、臼杵郡が[[東臼杵郡]]・[[西臼杵郡]]にそれぞれ分割された。
 
 
 
== 歴史 ==
 
=== 伝承 ===
 
==== 神話 ====
 
『[[古事記]]』の[[国産み|国産み神話]]においては、[[筑紫島]](九州)の4面に[[筑紫国]]、[[豊国]]、[[肥国]]、[[熊襲|熊曽国]]が見えるが、日向の記載はない<ref>『古事記』神代記。</ref><ref group="注">日向の扱いには肥国説と熊曽国説がある。肥国説では、肥国の名「建日向日豊久士比泥別」に基づいて日向を含むと見る(西宮秀紀「記紀神話における日向」(『日本の神話 3 天孫降臨』(ぎょうせい)pp. 136-137)等)。一方熊曽国説では、筑紫国(筑前国・筑後国)、豊国(豊前国・豊後国)、肥国(肥前国・肥後国)として、残った日向・大隅・薩摩3国を熊曽国と見る(『日本歴史地名体系 宮崎県の地名』(平凡社)p. 27等)</ref>。なお、『日本書紀』にはこの記述はなく、『先代旧事本紀』では[[筑紫国]]、[[豊国]]、[[肥国]]、日向国の4面を挙げている<ref>『先代旧事本紀』[[神代本紀]]。</ref>。
 
 
 
続いて日向地域は『古事記』『[[日本書紀]]』の「日向神話」と呼ばれる神話の舞台となった<ref name="地名27">『日本歴史地名体系 宮崎県の地名』(平凡社)p. 27。</ref>。この中で、[[アマテラス]]の孫の[[ニニギ]]が高千穂に降臨し([[天孫降臨]])、子の[[ホオリ]]が兄・[[ホデリ]]を懲らしめた旨とともに兄の子孫の[[隼人]]が今も天皇に仕える由来だと述べ([[山幸彦と海幸彦]])、ホオリの子・[[ウガヤフキアエズ]]は初代天皇・カムヤマトイワレビコ([[神武天皇]])の父である旨を記している。のち、神武天皇は日向から東征に赴くこととなる([[神武東征]])。
 
 
 
現在、これらの日向神話は歴史的事実そのままとは考えられておらず、その由来には諸説がある。特に『古事記』『日本書紀』が成立するまで、すなわち[[7世紀]]後半から[[8世紀]]前半の南九州における対隼人の政治情勢との密接な関係が指摘される<ref name="地名27"/>。隼人が名を表すのは天武天皇の時代からで、7世紀末から8世紀前期に4回の反乱を起こしている<ref name="地名27"/>。そして天皇家による南九州における統治を正当化し、隼人が服属すべき理由を過去にさかのぼって説明するものと考えられている<ref>『日本歴史地名体系 宮崎県の地名』(平凡社)p. 28。</ref>。
 
 
 
==== 征西説話 ====
 
『古事記』[[景行天皇]]段では、天皇の子・[[ヤマトタケル|小碓命]]が熊曽討伐を命じられるという征西説話が記述されている。この中で小碓命は熊曽建を討ち、以後「倭建命」を名乗った。
 
 
 
『日本書紀』では景行天皇自ら熊襲の平定に赴いており、高屋宮を拠点として襲国を平定し、子・[[豊国別皇子]]が初代[[日向国造]]に任じられている。のちに再び熊襲が反乱を起こした際、天皇の子・日本童男が川上梟帥を討ち「日本武尊」を名乗った。
 
 
 
なお『[[国造本紀]]』(『[[先代旧事本紀]]』第10巻)では、豊国別皇子の三世孫・老男が応神天皇期に日向国造に任じられたと記しており、『[[天皇本紀]]』(『先代旧事本紀』第7巻)では、豊国別皇子は日向諸県君らの祖と記している。
 
 
 
現在の考古学では実在天皇の可能性は応神天皇以降に求められており、上記の記述は歴史的事実とはされていない<ref name="地名56"/>。むしろ応神・仁徳の記述の伏線と捉えるのが妥当とする考えがなされている<ref name="地名27"/>。
 
 
 
=== 律令制以前 ===
 
日向地域では、[[弥生時代]]には[[青銅器]]の欠如と抉り入り方形石包丁の存在という特色が見られていたが<ref>『宮崎県の地名』(山川出版社)p. 30。</ref>、[[4世紀]]以降は新田原・茶臼原・[[西都原古墳群|西都原]]・本庄・六野原・[[生目古墳群|生目]]といった畿内型古墳群が展開した<ref>『国史大辞典』(吉川弘文館)日向国項。</ref>。こうした古墳群の存在は、その首長と近畿地方の政治勢力とが政治的関係にあったことを示している<ref name="地名56"/>。
 
 
 
『古事記』『日本書紀』の応神天皇・仁徳天皇の記述には諸県君を巡る説話があるが、こうした政治関係を背景として成立したと見られ、5世紀代に豪族が出仕したものと推測されている<ref name="地名57">『日本歴史地名体系 宮崎県の地名』p. 57。</ref>。
 
 
 
[[6世紀]]から[[7世紀]]中期にかけては、史書では推古天皇期の「馬ならば日向の駒」という記載程度しかなく、中央と日向との関係の実態は明らかでない<ref name="地名57"/>。
 
 
 
=== 飛鳥・奈良・平安時代 ===
 
「日向国」の文献上の初見は、『[[続日本紀]]』文武天皇2年([[698年]])9月28日条である。成立時期は明らかでないが、律令制成立に伴い[[7世紀]]中期以降に設けられたと見られている<ref name="地名56"/>。当初は薩摩国・大隅国を含む領域を有しており、7世紀末の段階では日向国は対隼人の最前線に位置づけられていた<ref name="地名57"/>。[[大宝 (日本)|大宝]]2年 ([[702年]]) に[[唱更国]](後の[[薩摩国]])、[[和銅]]6年 ([[713年]])に[[大隅国]]が分立した。
 
 
 
令制では大上中下のうちの[[中国 (令制国)|中国]]とされ、中央から[[国司|守]]、[[国司|介]]、[[掾]]、[[目 (国司)|目]]の[[四等官]]とそれを補佐する[[史生]]が派遣された。中国では通常欠員とされる介が正式におかれ四等官がそろっている。なお、史書に残るものは左遷人事が多い。遠国であったため、掾以下の人事や[[四度使]]の監査など、[[大宰府]]の強い管理下に置かれた。
 
 
 
弘仁6年([[815年]])には[[軍団 (古代日本)|軍団]]1団500人の兵士を持っていた。この年以前には軍毅1人が指揮したが、以降は補佐に1人を加えて大毅1人、少毅1人になった。
 
 
 
=== 鎌倉時代 ===
 
[[1185年]]([[文治]]元年)[[惟宗忠久]]が主筋である[[近衛家]]の[[島津荘]](南九州にあった大荘園で、[[万寿]]年間([[1024年]]~[[1027年]])に諸県郡の島津院を中心に[[大宰府]][[大監]][[平季基]]が開拓し、[[関白]][[藤原頼道]]に寄進したことに始まる)の[[下司職]]に補任され、その地名から島津(嶋津)左衛門尉と称したのが[[島津氏]]の始まりとされる。島津氏は[[1197年]]([[建久]]8年)に[[薩摩国|薩摩]]・[[大隅国|大隅]]にあわせ日向の初代[[守護]]職に任じられた。また、忠久は島津荘の[[地頭]]職も兼任した。しかし、忠久が、[[1203年]]([[建仁]]2年)、[[比企能員の変]]に[[連座]]し、三州守護職と薩摩国を除く地頭職を剥奪されると、日向国守護職及び日向島津荘の地頭職は、[[北条氏]][[北条氏 (赤橋流)|赤橋家]]に伝えられることとなった。
 
 
 
日向国北部一帯を有した[[宇佐神宮]]の宇佐宮荘においては、東部の縣(読み:あがた、現在の[[延岡市]]周辺。市内には安賀多の地名が残っている)一帯を[[土持氏]]が、西部山間部(現在の[[高千穂町]]周辺)を[[大神氏 (豊後国)|大神氏]]の流れをくむ[[三田井氏]]が地頭として勢力を有していたが、[[鎌倉幕府|鎌倉]][[御家人]]の[[伊東氏]]が地頭職を得、既存在地勢力と対立しつつ、支配を定着させていった。
 
 
 
=== 室町時代 ===
 
[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]においては、[[北朝 (日本)|北朝]]方より南九州の大将として[[畠山直顕]]が日向国に派遣され、[[南朝 (日本)|南朝]]方の勢力と対立したが、島津氏など在地勢力は北朝と南朝との間を転々することにより、畠山直顕の支配に抵抗した。直顕は[[観応の擾乱]]において[[足利直義]]に味方し、[[足利尊氏]]方に味方した[[島津氏]]と争い敗れた。その後も[[九州探題]]が南九州に影響を伸ばそうとするも失敗し、やがて日向国の守護職は島津氏が世襲するようになる。ただし、全国の例に違わず、日向国も群雄割拠の状況となり、南北朝から[[室町時代]]中期にかけては、北部は[[土持氏]]、中央部は[[伊東氏]]、南西部は[[北原氏]]、南東部は[[豊州家|豊州島津氏]]、[[北郷氏]]、[[新納氏]]といった[[島津氏|島津]]一族を中心として、各地の[[国人]]領主を吸収しながらの勢力争いが展開された。
 
 
 
そのうち、土持氏が伊東氏に攻められ勢力を縮小、伊東氏に糾合されたり[[豊後国|豊後]]の[[大友氏]]に臣従するようになる。[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]になると、新納氏が[[薩州家|薩州島津氏]]により領地を追われ、北原氏は姻戚関係にあった[[伊東義祐]]により、[[禅宗]]と[[浄土真宗|真宗]]で家中が二分している中での家督問題に附け込まれて、[[大隅国]]にまで拡がっていた全領地を乗っ取られる。更に義祐により豊州島津氏が[[飫肥]]から追い出されたため、伊東氏が日向国の主要部分を支配するに至ったが、[[1572年]]の[[木崎原の戦い]]により伊東氏の主要な臣下が多数失われ、また義祐の奢侈により領内に隙が生じており、そこを突くように[[薩摩国|薩摩]]・[[大隅国|大隅]]の統一を果たした[[伊作家|島津氏]]が北上してきた。滅亡の危機に立った義祐は豊後の[[大友義鎮]]を頼ったが、島津氏が[[1578年]]の[[耳川の戦い]]において大友氏に大勝し、日向国一円を支配することとなった。しかし、[[1587年]][[豊臣秀吉|秀吉]]の[[九州征伐]]を受け、島津氏が降伏すると、日向国は功のあった大名に分知された。
 
 
 
=== 江戸時代 ===
 
日向国に大きな大名は置かれず、[[天領]]と小藩に分割された。[[延岡藩]]、[[高鍋藩]]、[[佐土原藩]](薩摩藩支藩)、[[飫肥藩]]。この他、隣の[[大隅国]]から大きくはみ出るように[[薩摩藩]]が南部の大部分を占める諸県郡を領有し、肥後国の[[人吉藩]]も領地を持った。
 
 
 
=== 近世以降の沿革 ===
 
* 「[[旧高旧領取調帳]]」に記載されている[[明治]]初年時点での国内の支配は以下の通り(417,393石2斗5升)。'''太字'''は郡内に藩庁が所在。国名のあるものは[[飛地]]領。
 
** [[臼杵郡]](42,290石余) - [[天領|幕府領]]([[西国筋郡代]]・[[人吉藩]][[預地]])、'''[[延岡藩]]'''、[[高鍋藩]]
 
** [[児湯郡]](59,552石余) - 幕府領(西国筋郡代)、'''高鍋藩'''、[[佐土原藩]]
 
** [[那珂郡 (日向国)|那珂郡]](107,494石余) - 幕府領([[飫肥藩]]預地)、[[地方知行|旗本領]]、'''飫肥藩'''、'''佐土原藩'''、高鍋藩
 
** [[宮崎郡]](39,982石余) - 幕府領(飫肥藩預地)、旗本領、延岡藩、飫肥藩
 
** [[諸県郡]](168,073石余) - 幕府領(西国筋郡代)、旗本領、高鍋藩、[[薩摩国|薩摩]][[鹿児島藩]]
 
* [[慶応]]4年
 
** [[閏]][[4月25日 (旧暦)|4月25日]]([[1868年]][[6月15日]]) - 人吉藩預地を除く幕府領が'''[[富高県]]'''の管轄となる。
 
** [[8月17日 (旧暦)|8月17日]](1868年[[10月2日]]) - 富高県の管轄区域が'''[[日田県]]'''の管轄となる。
 
* 明治4年
 
** 2月 - 領知替えにより、日田県の管轄区域が延岡藩領となる。人吉藩預地が日田県の管轄となる。
 
** 6月 - 日田県の管轄地域が人吉藩領となる。
 
** [[7月14日 (旧暦)|7月14日]]([[1871年]][[8月29日]]) - [[廃藩置県]]により、'''[[延岡県]]'''、'''[[高鍋県]]'''、'''[[佐土原県]]'''、'''[[飫肥県]]'''および[[人吉県]]、[[鹿児島県]]の飛地となる。
 
** [[11月14日 (旧暦)|11月14日]](1871年[[12月25日]]) - 第1次府県統合により、臼杵郡・児湯郡および那珂郡・宮崎郡・諸県郡の各一部(概ね[[大淀川]]以北)が'''[[美々津県]]'''、那珂郡・宮崎郡・諸県郡の各残部が'''[[都城県]]'''の管轄となる。
 
* 明治5年([[1872年]]) - [[肥後国]][[球磨郡]]小川村・越野尾村・銀鏡村・上揚村・八重村・中尾村・村所村・板谷村・竹原村・横野村・上米良村・寒川村・中之又村・尾八重村の所属郡が児湯郡に変更<ref>「旧高旧領取調帳」では明治5年に肥後国球磨郡から所属郡が変更された14村も児湯郡として記載されている。</ref>。
 
* 明治6年([[1873年]])[[1月15日]] - 全域が'''[[宮崎県]]'''(第1次)の管轄となる。
 
* 明治9年([[1876年]])[[8月21日]] - 第2次府県統合により'''鹿児島県'''の管轄となる。
 
* 明治16年([[1883年]])[[5月9日]] - 諸県郡の一部を除いて'''宮崎県'''(第2次)の管轄となる。鹿児島県諸県郡が[[南諸県郡]]となる。
 
* 明治30年([[1897年]])[[4月1日]] - 南諸県郡・[[大隅国]][[東囎唹郡]]の区域をもって大隅国[[曽於郡|囎唹郡]]が発足。旧・南諸県郡域が大隅国の所属となる。
 
 
 
== 国内の施設 ==
 
=== 国府 ===
 
[[File:Terasaki iseki.JPG|thumb|200px|right|寺崎遺跡([[宮崎県]][[西都市]])<br />日向国府跡。]]
 
[[国府]]は『色葉字類抄』によると、児湯郡にあった。[[西都市]]大字右松の寺崎遺跡と推定されていたが、国衙も発見、児湯郡内で国庁の建物が調査されている。
 
 
 
=== 国分寺・国分尼寺 ===
 
; [[日向国分寺]]
 
: 宮崎県西都市妻町三宅国分。
 
 
 
=== 神社 ===
 
; [[延喜式内社]]
 
: 『[[延喜式神名帳]]』には、以下に示す小社4座4社が記載されている。大社はない。
 
* [[児湯郡]] [[都農神社]] (児湯郡[[都農町]]川北)
 
* 児湯郡 [[都萬神社]] (西都市妻)
 
* [[宮埼郡]] [[江田神社 (宮崎市)|江田神社]] ([[宮崎市]]阿波岐原町)
 
* [[諸県郡]] [[霧島神社]] - 論社4社。
 
これら4社は「日向四社」と呼ばれ、日向国内で特に格式の高い神社とされている。
 
 
 
; [[総社]]・[[一宮]]以下
 
* 総社 [[都萬神社]]
 
* 一宮 '''[[都農神社]]'''
 
二宮以下は不詳であるが、都萬神社が二宮であるとする説もある。
 
 
 
=== 安国寺利生塔 ===
 
* 安国寺 - 宮崎県日南市飫肥にあった。
 
 
 
== 地域 ==
 
=== 郡 ===
 
* [[臼杵郡]]
 
* [[児湯郡]]
 
* [[那珂郡 (日向国)|那珂郡]]
 
* [[宮崎郡]]
 
* [[諸県郡]]
 
 
 
=== 江戸時代の藩 ===
 
*[[延岡藩]]、[[高橋氏#筑後高橋氏|高橋家]](5万石)→[[肥前有馬氏|有馬家]](5万石→5.3万石)→[[三浦氏#義村流|三浦家]](2.3万石)→[[三河牧野氏|牧野家]](8万石)→[[内藤氏#内藤氏(三河系)|内藤家]](7万石)
 
:現[[延岡市]]を中心とした県北一帯。[[飛地]]として、現宮崎市北部。
 
*[[高鍋藩]]、[[秋月氏|秋月家]](3万石→2.7万石)
 
:現[[児湯郡]][[高鍋町]]周辺や[[美々津]]。飛地として、[[串間市]]周辺と宮崎市の一部。
 
*[[飫肥藩]]、[[伊東氏#日向伊東氏|伊東家]](5.7万石→5.4万石→5.1万石)
 
:現[[日南市]]、宮崎市南部
 
*[[薩摩藩#支藩(佐土原藩)|佐土原藩]](薩摩藩支藩、3万石→2.7石)
 
:現宮崎市佐土原町及び周辺地域一帯、西都市南部
 
*[[天領]]:現[[宮崎市]]周辺(宮崎市[[佐土原町]]一帯を除く)、[[日向市]]、[[国富町]]本庄、[[西都市]]北部
 
** [[西国筋郡代]](役所は[[日田代官所]])配下、出張所として[[富高陣屋]](現日向市)を置き、支配にあたった。
 
 
 
その他、以下が日向国に領地を有していた。
 
*[[薩摩藩]]([[島津氏]]):現宮崎県南西部一帯および鹿児島県[[志布志市]]、[[大崎町]]など。
 
** 都城領主館 [[北郷氏|都城島津氏(北郷氏)]] :現[[都城市]]
 
* [[人吉藩]]([[相良氏]]):現宮崎県西部山間部
 
* [[交代寄合]]の[[米良氏|米良家]]の米良陣屋:現[[西米良村]]、西都市西部、[[木城町]]中之又。[[美々津県]]時代に八代県[[球磨郡]]から移管。
 
 
 
== 人物 ==
 
=== 国司 ===
 
{{節スタブ}}
 
==== 日向守 ====
 
* [[安倍黒麻呂]] [[761年]]([[天平宝字]]5年)頃。[[藤原広嗣の乱]]における広嗣捕縛([[740年]]([[天平]]12年)の功をひくものか?)
 
* [[大津大浦]]、[[天平神護]]元年([[765年]])[[任官]]、左遷人事
 
* [[犬上望成]]、[[大同 (日本)|大同]]4年([[809年]])任官
 
* [[甘南備浜吉]]、[[弘仁]]5年([[814年]])任官
 
* [[八田桑田麻呂]]、弘仁6年([[816年]])任官
 
* [[香山全継]]、弘仁14年([[828年]])任官
 
* [[秦氏継]]、[[承和 (日本)|承和]]9年([[842年]])任官
 
* [[淡海真浄]]、承和12年([[845年]])任官
 
* [[継岑王]]、[[嘉祥]]3年([[850年]])任官
 
* [[藤原頴基]]、[[斉衡]]2年([[855年]])任官
 
* [[阿部弘行]]、[[元慶]]5年([[881年]])任官
 
* [[大江玉淵]]、[[仁和]]2年([[886年]])任官
 
* [[源重之]]
 
* [[藤原保昌]]
 
* [[信西|藤原通憲(信西)]]
 
* [[惟宗基言]]
 
 
 
==== 日向介・権介 ====
 
* [[三形王]] [[782年]]([[天応 (日本)|天応]]2年)[[任官]]、左遷人事。
 
* [[藤原末茂]] [[784年]]([[延暦]]3年)任官、左遷人事。
 
* [[百済王俊哲]] [[787年]](延暦6年)任官、左遷人事。
 
 
 
==== 日向掾・権掾 ====
 
* [[藤原乙縄]] [[757年]]([[天平宝字]]元年)任官、左遷人事。
 
* [[藤原粟作]] [[842年]]([[承和 (日本)|承和]]9年)任官、左遷人事。
 
 
 
=== 守護 ===
 
==== 鎌倉幕府 ====
 
* 1197年 - 1203年 - [[島津忠久]]
 
* 1280年 - ? - [[北条久時]]
 
* ? - 1333年 - 北条氏
 
 
 
==== 室町幕府 ====
 
* 1333年 - 1335年 - [[島津貞久]]
 
* 1335年 - 1336年 - [[細川頼春]]
 
* 1337年 - [[大友氏泰]]
 
* 1338年 - ? - 島津貞久
 
* 1345年 - 1352年 - [[畠山直顕]]
 
* 1353年 - ? - [[一色直氏]]
 
* 1357年 - 1364年 - [[一色範親]]
 
* 1375年 - ? - [[島津氏久]]
 
* 1383年 - 1384年 - [[大友親世]]
 
* 1384年 - ? - [[今川貞世]]
 
* 1391年 - 1411年 - [[島津元久]]
 
* 1411年 - 1425年 - [[島津久豊]]
 
* 1425年 - 1470年 - [[島津忠国]]
 
* 1470年 - 1474年 - [[島津立久]]
 
* 1474年 - 1507年 - [[島津忠昌]]
 
* 1507年 - 1515年 - [[島津忠治]]
 
* 1515年 - 1519年 - [[島津忠隆]]
 
* 1519年 - 1527年 - [[島津勝久]]
 
* 1527年 - 1566年 - [[島津貴久]]
 
 
 
=== 戦国時代 ===
 
==== 戦国大名 ====
 
*[[伊東氏#日向伊東氏|日向伊東氏]]:日向の最大勢力。島津氏に敗れ1576年に一時没落するが、豊臣秀吉の[[九州征伐]]で戦功をあげた功績により、再び大名として復活を成し遂げる。
 
*[[土持氏]]:日向守護代。日向北部に勢力を持ち、後に伊東氏と対抗した。1580年、[[大友宗麟]]に敗北し滅亡。
 
*[[北郷氏]];島津氏の支流。都城付近を領有し、北原氏・伊東氏と争った。
 
*[[北原氏]]:[[真幸院]](現[[えびの市]]・[[小林市]])と周辺を領有していたが、伊東氏の謀略により衰退。
 
*[[島津氏]]:日向・大隅・薩摩守護。1576年に日向を征服、さらに進出し九州統一目前までせまるが、豊臣秀吉の[[九州征伐]]により敗走し、薩摩・大隅2カ国の大名に戻ってしまう。
 
 
 
==== 豊臣政権の大名 ====
 
*[[伊東祐兵]]:清武・曾井2万8千石→[[飫肥城|飫肥]]5万7千石、1587年 - 1600年(関ヶ原の戦い後も本領安堵、[[飫肥藩]]に)
 
*[[秋月種長]]:串間3万石、1587年 - 1600年(関ヶ原の戦い後も本領安堵、政庁を移し[[高鍋藩]]に)
 
*[[高橋元種]]:縣([[延岡城|延岡]])5万3千石、1587年 - 1600年(関ヶ原の戦い後も本領安堵、[[延岡藩]]に)
 
*[[島津豊久]]:[[佐土原城|高城]]2万8千石、1587年 - 1600年(豊久は関ヶ原の戦い後で戦死するが、[[島津以久]]が跡をつぎ、[[薩摩藩]]支藩[[佐土原藩]]に)
 
 
 
=== 武家官位としての日向守 ===
 
==== 江戸時代以前 ====
 
*[[蒲池武久]]
 
*[[三好長逸]]
 
*[[飯森盛春]]
 
*[[明智光秀]] [[1575年]](天正3年)[[任官]]。
 
 
 
==== 江戸時代 ====
 
*[[水野氏|水野家]]宗家([[備後国|備後]][[備後福山藩|福山藩]]・[[下総国|下総]][[結城藩]]藩主)
 
**[[水野勝成]]:初代藩主
 
**[[水野勝貞]]:第3代藩主
 
**[[水野勝政]]:第7代藩主
 
**[[水野勝庸]]:第8代藩主
 
**[[水野勝前]]:第9代藩主
 
**[[水野勝起]]:第10代藩主
 
**[[水野勝剛]]:第11代藩主
 
**[[水野勝愛]]:第12代藩主
 
**[[水野勝進]]:第13代藩主
 
**[[水野勝任]]:第14代藩主
 
**[[水野勝知]]:第15代藩主
 
*[[伊勢国|伊勢]][[伊勢亀山藩|亀山藩]][[石川氏|石川家]]
 
**[[石川総純]]:第3代藩主
 
**[[石川総博]]:第4代藩主
 
**[[石川総紀]]:第8代藩主
 
**[[石川成之]]:第11代藩主
 
*[[下野国|下野]][[宇都宮藩]][[戸田氏|戸田家]]
 
**[[戸田忠真]]:下総[[佐倉藩]]、[[越後国|越後]][[高田藩]]主、下野[[宇都宮藩]]初代藩主、老中
 
**[[戸田忠余]]:第2代藩主
 
**[[戸田忠盈]]:第3代藩主、[[肥前国|肥前]][[島原藩]]初代藩主
 
**[[戸田忠延]]:(第二期)第3代藩主
 
*[[摂津国|摂津]][[高槻藩]][[永井氏|永井家]]
 
**[[永井直清]]:初代藩主
 
**[[永井直種]]:第3代藩主
 
**[[永井直達]]:第4代藩主
 
**[[永井直進]]:第9代藩主
 
**[[永井直諒]]:第13代藩主
 
*越後[[糸魚川藩]][[越前松平家|松平家]]
 
**[[松平堅房]]:第3代藩主
 
**[[松平直紹]]:第4代藩主
 
**[[松平直益]]:第5代藩主
 
**[[松平直春]]:第6代藩主
 
**[[松平茂昭]]:第7代藩主、[[越前国|松平]][[福井藩]]第17代藩主
 
**[[松平直静]]:第8代藩主
 
*その他
 
**[[有馬温純]]:越前[[丸岡藩]]主
 
**[[石川家成]]:[[美濃国|美濃]][[大垣藩]]主
 
**[[佐久間安長]]:[[信濃国|信濃]][[飯山藩]]主
 
**[[牧野貞喜]]:[[常陸国|常陸]][[笠間藩]]主
 
**[[松平信之]]:[[播磨国|播磨]][[明石藩]]、[[大和国|大和]][[郡山藩]]、下総[[古河藩]]主、老中
 
**[[水野忠幹 (松本藩主)|水野忠幹]]:信濃[[松本藩]]主
 
 
 
== 日向国での合戦 ==
 
* [[1572年]] : [[木崎原の戦い]]
 
* [[1578年]] : [[耳川の戦い]]
 
* [[1587年]] : [[根白坂の戦い]]
 
* [[1592年]] : [[梅北一揆]]
 
* [[1599年]] : [[庄内の乱]]
 
 
 
== 脚注 ==
 
; 注釈
 
{{reflist|group="注"}}
 
 
 
; 出典
 
{{reflist}}
 
 
 
== 参考文献 ==
 
* [[角川日本地名大辞典]] 45 宮崎県
 
* [http://www.rekihaku.ac.jp/up-cgi/login.pl?p=param/kyud/db_param 旧高旧領取調帳データベース]
 
 
 
== 関連項目 ==
 
{{Commonscat|Hyuga Province}}
 
* [[三国名勝図会]]
 
* [[令制国一覧]]
 
* [[日向 (戦艦)]]
 
* [[ひゅうが (護衛艦)]]
 
* [[ひゅうが (列車)]]
 
* [[ひむか (小惑星)]]
 
  
 
{{令制国一覧}}
 
{{令制国一覧}}
 
{{日向国の郡}}
 
{{日向国の郡}}
 +
{{テンプレート:20180815sk}}
 
{{DEFAULTSORT:ひゆうかのくに}}
 
{{DEFAULTSORT:ひゆうかのくに}}
 
[[Category:日本の旧国名]]
 
[[Category:日本の旧国名]]
303行目: 26行目:
 
[[Category:宮崎県の歴史]]
 
[[Category:宮崎県の歴史]]
 
[[Category:日向国|*]]
 
[[Category:日向国|*]]
 +
<references group="注"/>

2018/10/19/ (金) 00:21時点における最新版

日向国(ひゅうがのくに)

現在の宮崎県。西海道の一国。中国。日向は「ひむか」で日に向う意。「記紀」の神話ではニニギノミコトが高天原からこの地に降臨したと伝えるが,考古学的には肯定できない。「記紀」にみえる熊襲 (くまそ) の居住地であったとみられる。日向という地名は,古くは,のちの薩摩,大隅をも含む南九州の総称として用いられた時代もあったらしい。『続日本紀』和銅6 (713) 年4月の条には当国の4郡をさいて大隅国をおくとある。国府,国分寺ともに西都市三宅。『延喜式』には臼杵 (うすき) ,児湯 (こゆ) ,宮崎などの5郡,『和名抄』では 28郷,田 4800町を載せている。鎌倉時代初期,建久8 (1197) 年の『建久図田帳』には 8064町の田を載せているが,その大部分は荘園であり,特に近衛家の島津荘,宇佐八幡宮領,八条女院領国富荘はそれぞれ 1000町をこえる大規模なものであった。鎌倉時代の守護としては初め島津氏が任じられたが,中期以降には北条氏がこれに代った。南北朝時代には畠山氏,一色氏が守護に任じられたが,室町時代には再び島津氏の支配が続いた。その後地頭から台頭した伊東氏が勢力を有したが,やがて豊臣秀吉の勢力のもとに島津氏も屈した。江戸時代には佐土原に島津氏,高鍋に秋月氏,延岡に内藤氏,飫肥 (おび) に伊東氏,宇土に細川氏が封じられて,幕末にいたった。明治4 (1871) 年の廃藩置県後,美々津県,都城県となり,1873年宮崎県に統合された。その後,76年鹿児島県に併合,83年宮崎県を分置した。





楽天市場検索: