旗本

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旗本(はたもと)は、中世から近世日本における武士の身分の一つ。主として江戸時代徳川将軍家直属の家臣団のうち石高が1万未満で、儀式など将軍が出席する席に参列する御目見以上の家格を持つ者の総称。旗本格になると、世間的には「殿様」と呼ばれる身分となった。旗本が領有する領地、およびその支配機構(旗本領)は知行所と呼ばれた[1]

元は中世(戦国時代)に戦場で主君の軍旗を守る武士団を意味しており、主家からすると最も信頼できる「近衛兵」の扱いであった。

戦国時代の旗本

戦国時代には、主君の指揮下に属する直属部隊の家臣を指す場合もある。おもに譜代の家臣で編成され、戦闘時には主君の本陣備を構成した。

戦国大名家における幕下層(国人領主等)は軍事的に大名家に従属していたものの独立的軍団を構成しており、領国経営においても独立性が強く、離反も珍しくなかった。これに対し、直属の家臣であった旗本は主君にとって信頼できる存在で、戦国大名家の政治権力においても中心的な役割を果たしたと考えられる。例えば、上杉謙信の家臣の千坂景親のように戦闘時に常に本陣周辺に配置されるため、華々しい戦果を残すことはあまりないが、大名家の家臣団の中枢を担ったのは旗本家臣層であった。

江戸幕府の旗本

概要

江戸時代の旗本は、三河から勃興した徳川氏の家臣が代表的である。ほかに北条武田今川の遺臣、大名の一族や、改易大名の名跡を継ぐ者、遠隔地の豪族で大名になりきれなかった名族、かつて戦国大名や、守護大名などであった赤松畠山別所北条富樫最上山名、武田、今川、大友織田金森滝川筒井土岐福島正則の嫡流、庶流の末裔などから構成されている。また幕初から中期にかけては、大名や旗本が幕府に認められて、分知によって分家の旗本家を作ることが盛んに行われた。

知行地の石高が高い者は、特に「大身旗本」と呼ばれる。彼らや旧家の子孫である旗本は寄合と呼ばれる家格に位置づけられ、旗本の中でも特別扱いを受けた。

旗本の中には参勤交代を認められた家があり、特に交代寄合と呼ばれる。交代寄合は石高が多い家が多いが、徳川将軍家の本家筋に当たる松平郷松平家(420石)や米良家(無高、米良山支配)など石高が少ない家もあった。

儀礼等を司る役目を負う吉良・畠山・今川・武田等の旧名門の家格出身者は、家臣団とは別格の高家と呼ばれた。高家は初め吉良家など3家であったが、次第に増加して26家となった。高家は1,000石級の者が多く、家柄や官位に比して家禄は少ないことが多かった。高家肝煎は10万石級の大名と同じ官位が与えられることもあったが、石高は最高でも5,000石未満であった。また、高家は他の幕府役職に就くことが出来ず、寄合にも入らなかった。

この他特殊な旗本として、千村家山村家がある。この両氏は木曾家の家臣の出自で、幕府の旗本でありながら、御三家尾張藩徳川氏の家臣でもあるという特殊な待遇であった。

旗本の生活

旗本・御家人は武家諸法度により統制され、高家や交代寄合などの例外を除いて若年寄の支配下に置かれた。江戸集住(定府)が原則であったが、知行所支配に関する権限は本来大名と同一であり[2]、特に交代寄合は大名と同じく参勤交代を許されているため、知行所に陣屋を構えた。また一般に、知行が諸国に散在せずまとまった知行を有していれば、陣屋(代官所、役所とも)を構えて代官を派遣し、行政権司法権を行使した。ただし、知行所が一箇所で千石足らずの場合には、代官を派遣すると費用負担が財政を圧迫するため、在地代官や大庄屋を取り立てて統治させたり、知行所村々の庄屋に代官と同様の職務を命じる場合も少なくなかった。大名家から分知により成立した旗本の場合には、本家に知行所統治を委託する場合も多かった。幕府の代官や郡代に年貢収納業務を含む知行所統治を委託した場合もある。一方、知行が200石に満たない場合には禄米支給とされ、200石を超える場合でも、個別の事情により禄米支給とされた場合がある。また、大名家からの分知旗本の場合、一部の新田藩と同様に、内分分知すなわち明確な分知領の指定がなく、本家からの禄米支給によって財政が賄われるケースもあった。

俗に「旗本八万騎」と呼ばれたが、1722年の調査では総数約5,000人、御目見以下の御家人を含めても約17,000人の規模であった。ただし、旗本・御家人の家臣を含めると、およそ80,000人になるといわれている(これに対して、10万石の大名に許された兵力は2,155人である)。

旗本で5,000石以上の者は、交代寄合を含み約100人。3,000石以上の者は約300人であり、旗本の9割は500石以下である。

なお、宝永年間の記録によれば、旗本の地方高(知行地を与えられていた者の総禄高)は275.4万石で全体の64%を占め、切米・蔵米・扶持受給が石高換算で153.4万石を占めていた。知行地は全国に広がっているものの、関東地方が全体の8割を占め、特に江戸のある武蔵国が全国の旗本知行地の21%、近隣の上総国が12.5%、下総国が11.0%を占めていた。旗本家の多くは知行数百石程度であり、それらの知行地が関東に集中したため諸領が極端に細分化されてしまった。統一した支配が困難で治安悪化の原因となったため、後に関東取締出役が設置されることとなった。

旗本は石高が低いわりには軍役負担が大きく、また石高調整のために相給が行なわれることが多く、極端な場合では13名の旗本が1村を分割知行するなどその支配は困難を極め、さらに江戸集住の原則から知行取・蔵米取を問わず早くから消費者化が進んだ。幕府成立から30年後の寛永年間には、早くも「旗本の窮乏化」が問題とされている。寛政の改革棄捐令の背景も、こうした事情があった。

また、小禄や無役の旗本は将軍に拝謁の資格があったものの、実際に拝謁できたのは家督相続・跡式相続のときのみであった。

江戸時代初期には無頼化した旗本奴が存在し、男伊達を称して徒党を組み、市井の町奴と対立し、歌舞伎講談の題材にもなった。

旗本の役職

江戸では江戸城の警備や将軍の護衛を行う武官(番方)、文官(役方、行政・司法・財政を担当)である町奉行勘定奉行大目付目付などの役職に就いた。無役の旗本は3,000石以上は寄合、それ以下は小普請組に編入された。

旗本の最高の役職は江戸城留守居である。8代将軍吉宗御三卿を創設してからは、その家老職も江戸城留守居に準ずる地位とされたが、1,000石級の旗本から抜擢されることも珍しくなかった。御三卿は江戸城内に屋敷を持ち、将軍家の家族として取り扱われたため、御三卿の家老は陪臣ではない。

この他、5,000石以上の大身旗本は、将軍側衆御側御用取次、大番頭、書院番頭、小姓組番頭、駿府城代に就任することができた。

幕府が重要都市に置いた遠国奉行は1,000石級の旗本から任じられたが、伏見奉行は譜代大名からも任じられた別格のポストであった。東海道から京に入る要所であり、大名と朝廷を近づけないために、参勤交代の途中で伏見より京側に進むことは認められていなかった。また、将軍の行幸があった日光奉行も、他の遠国奉行よりやや格が高かった。猟官運動が盛んに行なわれたのは長崎奉行であり、貿易に絡む賄賂に近い副収入が見込めたことで人気が高かった。長崎奉行となって大きな財産を築いた旗本もいた。

一方、100石から200石程度の小禄の旗本は、小十人の番士、納戸、勘定、代官、広敷、祐筆、同朋頭、甲府勤番支配頭、火之番組頭、学問所勤番組頭、徒(徒士)目付の組頭、数寄屋頭、賄頭、蔵奉行金奉行林奉行普請下奉行畳奉行材木石奉行、具足奉行、弓矢槍奉行、吹上奉行膳奉行書物奉行、鉄砲玉薬奉行、寺社奉行吟味物調役、勘定吟味改役、川船改役をはじめとする諸役職に就いた。旗本の下位の役職には、御家人が就任することもあった。

広敷の役人、賄頭、勘定吟味改役は、小禄の旗本の中から有能な者が選ばれていた。

江戸時代中期以降になると、軍事・警備部門で御家人から旗本に昇進する例はほとんどなくなった。その一方で、広敷や勘定奉行の下役人となり、旗本に昇進した者が出た。

旗本の資格がない者が旗本になる場合は、布衣以上の役職に就任するか旗本の役職に3代続けて就任することが原則であったが、将軍に謁見が許されれば御目見得の士として直ちに旗本として認められた。

太平の世が続くと、番方と呼ばれる警備や軍事に関する役職は家柄で選ばれる一方で、役方と呼ばれた行政職(文官)は能力主義を加味した人事が行なわれる傾向が出てきた。こうした中で200石以上500石未満の旗本の場合は、老中直属の会計検査役で勘定奉行の次席格でもある勘定吟味役か、幕府収入の4分の1を消費した大奥の庶務責任者として出納の権限や出入り業者の選定権を持った広敷用人となるのが、一応の出世の到達点とされた。一方で実力によって昇進する旗本もおり、役職に釣り合う家禄に加増され、中には大名となる者も現れた。時代が下ると財政難から加増は困難になり、一時的に役料を支給する足高の制も導入された。

なお、番方は小姓組書院番大番新番小十人組の5つに分類される。これを五番(方)という。

町奉行所附きの与力は馬上が許され、200石(200俵)以上の俸禄を受ける者も少なからずいたが、旗本ではなかった。

旗本の仕組みに大きな変化を見せるのは、開国後の安政3年(1856年)に老中阿部正弘築地講武所を開いて、西洋の銃術・砲術を含めた集団戦の訓練を旗本に命じてからである。続く文久の改革によって銃術・砲術を修めた旗本たちの中から、実力主義によって士官が選抜されるなど急速な軍制改革が行なわれるようになった。だが、既に財政的に窮乏状態にあった旗本には、軍役を負担するだけの余力は失われていた。そこで、ついに慶応3年(1867年)9月、旗本に対する軍役が事実上廃止され、知行所からの収益金の半分を軍役金に徴収(年4回の分納)することになった(慶応の改革)。この制度は1回目の納付の途中で大政奉還を迎えてしまい、十分に機能する前に幕府が崩壊することになるが、もしこの制度が機能していれば、軍役を失った旗本の存在は幕府の「士官候補生」・「官僚予備軍」にしか過ぎなくなり、仮に江戸幕府が存続していたとしても旗本の意味合いは大きく変質していたであろう[3]

江戸幕府の旗本の定義

歴史教科書では、江戸幕府(徳川将軍家)の旗本は1万石未満の将軍直属の家臣で、将軍との謁見資格(御目見得以上)を持つ者と定義されており、この定義が一般的に知られている。しかし、厳密にはより幅広い用法であったとされる。

狭義では、200石(200俵)以上、1万石未満の将軍直属の家臣で、交代寄合・高家を除くというものであった。

広義では、上記狭義の旗本に加えて、200石(200俵)未満で、雪駄履きで馬上となる資格がなく、将軍に謁見できる直参も含まれる。なお1万石未満の喜連川家(源流は足利氏)は大名扱いをされたので、広義の旗本にも含まれない。

また、親藩や譜代大名の家臣は陪臣であるから、将軍に謁見できないのが原則であるが、由緒ある家系に対しては、特別に旗本の格式が与えられることがあった。この場合、将軍に謁見の資格を持ち、参勤交代のときに関所で下馬することを免除された。したがって最広義の旗本とは、大名および大名の扱いを受ける者以外で、将軍に謁見の資格をある者を指す。

著名な旗本 (生前に大名となった者を除く)

明治維新後

明治維新後、新政府は旗本たちに対して①徳川家達に従い静岡に移住して静岡藩士②朝臣③帰農商の3つの選択肢を与えた。このうち②の朝臣を選択したものたちは、維新前の身分と石高によって中大夫(旧高家および旧交代寄合)、下大夫(1000石以上)、上士(1000石未満)の身分を与えた。だが1869年にはこれらの身分を廃止して士族に統一し、領地も没収して禄米支給となった[4]。やがて①も②も秩禄処分の対象となり、公債と引き換えに禄も失うこととなった。

脚注

  1. なお、御目見以下の家格の者は御家人、その領地は給地と呼ばれた。
  2. 新見吉次「旗本」日本歴史叢書16 1967年、吉川弘文館
  3. 熊澤徹 「幕末の旗本と軍制改革」(吉田伸之・渡辺尚志 編『近世房総地域史研究』(東京大学出版会、1993年) ISBN 4-13-026056-1)
  4. 『戊辰戦争の新視点』、吉川弘文館、2018年、p102

関連項目

外部リンク