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{{基礎情報 令制国
 
|国名    = 志摩国
 
|画像    = {{令制国地図 (令制国テンプレート用)|志摩国}}
 
|別称    = 志州(ししゅう)<ref>{{Citation | ref = none | title = 泰平年表 | author1 = 竹内秀雄 | author2 = 続群書類従完成会 | publisher = 八木書店 | year = 1989 | publication-date = 1989-08 | isbn = 9784797104912 | page = 74}}</ref>
 
|所属    = [[東海道]]
 
|領域    = [[三重県]]東部([[志摩半島]]東端)
 
|国力    = [[下国]]
 
|距離    = [[近国]]
 
|郡      = 2郡14郷
 
|国府    = 三重県[[志摩市]]
 
|国分寺  = 三重県志摩市(志摩国分寺跡)
 
|国分尼寺 = (未詳)
 
|一宮    = [[伊雑宮]](三重県志摩市)<br/>[[伊射波神社]](三重県[[鳥羽市]])
 
}}
 
'''志摩国'''(しまのくに)は、かつて[[日本]]の地方行政区分だった[[令制国]]の一つ。[[東海道]]に属する。
 
  
== 沿革 ==
+
'''志摩国'''(しまのくに)
[[ファイル:Shima Province.png|サムネイル|当初は桃色の地域も志摩国に含まれていた。]]
 
律令制以前は[[島津国造]]の領域であったとされ、令制国設置に伴い当国域をも含む[[伊勢国]]が成立した。その後7世紀後半から8世紀初めに志摩国として分立したとされるが、伊勢国の隷属下に置かれたという。8世紀初めまで、'''嶋国'''、'''志麻国'''とも書かれた<ref>舘野和己「『古事記』と木簡に見える国名表記の対比」、『古代学』4号、2012年、17-19頁。</ref>。
 
  
飛鳥・奈良時代には、代々内膳司を勤めていた[[高橋氏]]などが国司であったが、志摩に赴くことはなかったという。志摩国は面積が小さい上に平地がほとんどないことから[[稲米]]の収穫量が少なかったため、伊勢国や[[尾張国]]の田を志摩国の[[口分田]]とし、国衙や国分寺の費用を伊勢国・尾張国・[[三河国]]が負担した。海産物を贄として、宮中へ貢ぐ[[御食国]]の一つと推定される。
+
現在の三重県志摩市。[[東海道]]の一国。下国。『[[旧事本紀]]』には島津国とあり,国造が置かれたという。『[[古事記]]』に「嶋の速贄 (はやにへ) 」,『[[万葉集]]』に「御食 (みけ) つ国志麻」とあり,古代における海産物を主とした食料品供給の要地であったことを示す。そのため内膳司 (天皇の食料を調達する役所) の長官である奉膳 (ぶぜん) の高橋氏が国守に任じられるのが例であった。養老2 (718) 年4月3日の『平城宮出土木簡文書』に志摩郡とあるが,ほかに記録がないので詳細は明らかでない。『[[続日本紀]]』には答志 (たふし) 郡とあり,同3年には佐芸郡が分割されている。国府,国分寺ともに志摩市阿児町に置かれた。『[[延喜式]]』には答志,英虞 (あこ) の2郡があり,『和名抄』には郷 14,田 124町を載せている。水田が狭小であったため,口分田 (くぶんでん) ,公廨料 (くがいりょう) など,伊勢,尾張の諸国によっていた。伊勢神宮に近く,その別宮である伊雑宮 (いざわのみや) が鎮座し,神宮の封戸が 66戸置かれ,[[御厨]] (みくりや) も定められ,神宮の[[神饌]] (しんせん) を供進するなど神宮の勢力が強かった。したがって鎌倉時代には有力な武家の台頭はみられなかったが,室町時代には伊勢の北畠氏が支配し,安土桃山時代にいたり[[九鬼嘉隆]]が波切 (なきり) ,鳥羽によって水軍として名を知られ,伊勢,志摩両国で3万石を領した。江戸時代初期には引き続き九鬼氏が支配したが,のち内藤氏,土井氏,松平氏,稲垣氏が領し,鳥羽藩として幕末にいたった。明治4 (1871) 年廃藩置県で,7月に鳥羽県となり,11月に度会 (わたらい) 県に併合され,さらに 1876年,三重県となった。
  
[[平城京]]発掘で出土した木簡に'''伊雑郷'''・'''名錐郷'''・'''船越郷'''などの表記が見られ、これらの地域から海産物を貢租していたことは確実である。船越郷は、名錐郷に隣接する船越とする説があるが、現在の[[度会郡]][[南伊勢町]]船越と解釈するのが一般的である。
+
{{テンプレート:20180815sk}}  
 
 
当初の志摩国の領域は、現在の三重県の[[鳥羽市]]・[[志摩市]]だけではなく、度会郡[[南伊勢町]]、[[大紀町]]の錦地区、[[北牟婁郡]][[紀北町]]、[[尾鷲市]]全域までが志摩国[[英虞郡]]に含まれていた。
 
 
 
[[天正]]10年([[1582年]])、紀伊[[新宮城]]主の[[堀内氏善]]と伊勢国司の[[織田信雄|北畠信雄]]が[[荷坂峠]]を境として、それぞれが紀伊国[[牟婁郡]]と伊勢国[[度会郡]]に編入したため、志摩国は現在の三重県の鳥羽市・志摩市だけの地域に限定された。
 
 
 
=== 近世以降の沿革 ===
 
* 「[[旧高旧領取調帳]]」の記載によると、[[明治]]初年時点では国内の全域が'''[[鳥羽藩]]'''領であった。(56村・21,535石余)
 
** [[答志郡]](37村・13,003石余)、[[英虞郡]](19村・8,532石余)
 
* 明治4年
 
** [[7月14日 (旧暦)|7月14日]]([[1871年]][[8月29日]]) - [[廃藩置県]]により'''[[鳥羽県]]'''の管轄となる。
 
** [[11月22日 (旧暦)|11月22日]]([[1872年]][[1月2日]]) - 第1次府県統合により'''[[度会県]]'''の管轄となる。
 
* 明治9年([[1876年]])[[4月18日]] - 第2次府県統合により'''[[三重県]]'''の管轄となる。
 
 
 
== 国内の施設 ==
 
=== 国府 ===
 
国府は、『[[和名抄]]』および『[[拾芥抄]]』に、英虞郡とある。志摩市阿児町国府に比定されている。
 
 
 
=== 国分寺・国分尼寺 ===
 
* 志摩国分寺
 
*: 志摩市阿児町国府字御堂の後にあった。
 
 
 
* 志摩国分尼寺
 
*: 志摩市阿児町国府字大堂にあった。
 
 
 
=== 神社 ===
 
; [[延喜式内社]]
 
: 『[[延喜式神名帳]]』には、以下に示す大社2座1社・小社1座1社の計3座2社が記載されている([[志摩国の式内社一覧]]参照)。大社1社は[[名神大社]]ではない。
 
* [[答志郡]]
 
** 粟島坐伊射波神社 二座 - '''式内大社'''。『[[大日本国一宮記]]』に「伊射波神社志摩国[[答志郡]]」とあるのが初見である。[[伊雑宮]]と[[伊射波神社]]が論社(後述)
 
** 同島坐神乎多乃御子神社 - [[佐美長神社]](伊雑宮境外所管社)に比定
 
 
 
; [[総社]]・[[一宮]]
 
* 総社:不詳
 
* 一宮
 
** '''[[伊雑宮]]''' (いざわのみや、志摩市[[磯部町上之郷]]) - [[伊勢神宮]]別宮
 
** '''[[伊射波神社]]''' (いざわじんじゃ、[[鳥羽市]][[安楽島町]])
 
: 伊雑宮と伊射波神社は、ともに式内大社の「粟島坐伊射波神社」論社であり、両社ともが志摩国一宮とされている。伊射波神社は「加布良古明神」とも呼ばれており、[[中世]]以前の史料では加布良古明神が伊射波神社と称したものは見つかっていない。これについては、伊雑宮が神宮別宮であるため、[[近世]]以降に加布良古明神を伊射波神社と称して一宮としたものとする説もあるが、[[安永]]4年([[1775年]])の『大神宮儀式解』では「或人の説」として、「延喜式では伊雑宮は大神宮式の中に収められており、安楽島の伊射波神社が神名帳に記されたのである。よって志摩国一宮の伊射波神社は加布良古明神である」と記している。一宮を真清田大明神とする史料もあるが、志摩国に該当する[[神社]]はなく、尾張国一の宮の[[真清田神社]]が誤って記述されたと思われる。
 
 
 
二宮以下はなし。
 
 
 
=== 守護所 ===
 
守護代所が、室町時代に答志郡泊浦、現在の鳥羽市鳥羽にあったと考えられている。ただし、室町時代は守護は伊勢・志摩両国で一人だったともいう。
 
 
 
=== 安国寺利生塔 ===
 
* 安国寺 - 三重県志摩市沓掛
 
 
 
== 地域 ==
 
=== 郡 ===
 
志摩国は飛鳥時代には志摩郡のみであったが、奈良時代に入り佐芸郡、答志郡の二郡に分けられた。佐芸郡はすぐに[[英虞郡]]に改名された。
 
 
 
*1郡制 飛鳥時代
 
**[[志摩郡 (三重県)|志摩郡]] - 現在の[[鳥羽市]]と[[志摩市]]にあたる。
 
 
 
*2郡制 天平時代 志摩郡を分割。
 
**[[英虞郡]](佐芸郡) - 天平時代に志摩郡から分かれてすぐは「佐芸郡」(さきぐん) 現在の英虞湾周辺の地域で志摩市[[阿児町]]の立神、甲賀、志島、[[大王町]]全域、[[志摩町 (三重県)|志摩町]]全域がこの地域にあたる。
 
**[[答志郡]] -現在の[[鳥羽市]]、志摩市[[磯部町 (三重県)|磯部町]](成基地区を除く)、[[浜島町]]全域、阿児町の北部がこの地域に当たる。
 
 
 
=== 江戸時代の藩 ===
 
{| class="wikitable"
 
|+ 志摩国の藩の一覧
 
! 藩名 !! 居城 !! 藩主
 
|-
 
! [[鳥羽藩]]
 
| [[鳥羽城]]
 
||
 
*[[九鬼氏|九鬼家]](5万5千石→5万6千石、1600年 - 1632年)。摂津[[三田藩]]3万6千石・丹後[[綾部藩]]2万石へ転封
 
*[[内藤氏|内藤家]](3万5千石、1632年 - 1680年)。改易
 
*[[天領]](1680年 - 1681年)
 
*[[土井利益]](7万石、1681年 - 1691年)。肥前[[唐津藩]]7万石へ転封
 
*[[松平乗邑]](6万石、1691年 - 1710年)。[[伊勢亀山藩]]6万石へ転封
 
*[[板倉重治]](5万石、1710年 - 1717年)。[[伊勢亀山藩]]5万石へ転封
 
*[[松平光慈]](7万石、1717年 - 1725年)。信濃[[松本藩]]6万石へ転封
 
*[[三河稲垣氏|稲垣家]](3万石、1725年 - 1871年)。
 
|}
 
 
 
== 人物 ==
 
=== 守護 ===
 
==== 鎌倉幕府 ====
 
*[[1322年]] - [[北条貞顕]]
 
 
 
==== 室町幕府 ====
 
伊勢国守護と兼任だったとされている。[[伊勢国#室町幕府|伊勢国]]を参照。
 
 
 
=== 戦国時代 ===
 
*戦国大名
 
**[[北畠氏]](伊勢国司)
 
*織豊政権の大名
 
**[[九鬼嘉隆]]:[[鳥羽城]]3万5千石、1569年 - 1600年。関ヶ原の戦い後、息子の[[九鬼守隆]]が[[鳥羽藩]]主となる
 
 
 
=== 武家官位としての志摩守 ===
 
==== 江戸時代以前 ====
 
*[[蒲池鑑広]]:戦国時代の筑後国の武将。上妻郡に8千町(8万石)を領した
 
*[[氏家行継]]:戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、[[豊臣政権]]の大名(近江国・伊勢国内1万5000石)
 
 
 
==== 江戸時代 ====
 
*肥後人吉藩[[相良氏|相良家]]
 
**[[相良頼福]]:第4代藩主
 
**[[相良頼峯]]:第7代藩主
 
**[[相良頼徳]]:第12代藩主
 
*[[松平直政|直政]]系[[越前松平家]]出雲[[母里藩]]分家
 
**[[松平直員]]:第3代藩主
 
**[[松平直方 (母里藩主)|松平直方]]:第7代藩主
 
**[[松平直興]]:第8代藩主
 
**[[松平直温 (母里藩主)|松平直温]]:第9代藩主
 
*[[蝦夷地|蝦夷]][[松前藩]][[松前氏|松前家]]
 
**[[松前公広]]:第2代藩主
 
**[[松前矩広]]:第5代藩主
 
**[[松前邦広]]:第6代藩主
 
**[[松前道広]]:第8代藩主
 
**[[松前昌広]]:第11代藩主
 
**[[松前徳広]]:第13代藩主
 
*美作[[美作勝山藩|勝山藩]]三浦家
 
**[[三浦正次]]:勝山藩三浦家初代。下総[[矢作藩]]主、下野[[壬生藩]]初代藩主
 
**[[三浦安次]]:勝山藩三浦家2代。壬生藩第2代藩主
 
**[[三浦義理]]:勝山藩三浦家5代。三河[[刈谷藩]]第3代藩主、三河[[西尾藩]]初代藩主
 
**[[三浦明次]]:勝山藩三浦家6代。西尾藩第2代藩主、美作勝山藩初代藩主
 
**[[三浦矩次]]:勝山藩三浦家7代。勝山藩第2代藩主
 
**[[三浦前次]]:勝山藩三浦家8代。勝山藩第3代藩主
 
**[[三浦朗次]]:勝山藩三浦家13代。勝山藩第8代藩主
 
*その他
 
**[[菅沼定仍]]:上野[[阿保藩]]主、伊勢[[長島藩]]初代藩主
 
**[[寺沢広高]]:肥前[[唐津藩]]初代藩主
 
**[[内藤忠重]]:志摩[[鳥羽藩]]初代藩主
 
**[[内藤正興]]:信濃[[岩村田藩]]第4代藩主
 
**[[内藤正誠]]:岩村田藩第7代主
 
**[[皆川隆庸]]:常陸[[常陸府中藩|府中藩]]第2代藩主
 
**[[森長孝]]:播磨[[赤穂藩]]第2代藩主
 
**[[山崎治祇]]:備中[[成羽藩]]第2代藩主
 
**[[山崎俊家]]:讃岐[[丸亀藩]]第2代藩主
 
 
 
== 志摩国の合戦 ==
 
*[[1181年]]:[[熊野海賊菜切攻め]]、反平家方(熊野の僧) x [[平家]]方(伊豆江四郎)
 
*[[1600年]]:[[鳥羽城]]の戦い、東軍([[九鬼守隆]]) x 西軍([[九鬼嘉隆]])
 
 
 
== 脚注 ==
 
{{Reflist}}
 
 
 
== 参考文献 ==
 
* 『磯部町史』
 
* 『阿児町史』
 
* 『大王町史』
 
* 『志摩町史』
 
* 『南勢町史』
 
* [[角川日本地名大辞典]] 24 三重県
 
* [http://www.rekihaku.ac.jp/up-cgi/login.pl?p=param/kyud/db_param 旧高旧領取調帳データベース]
 
 
 
== 関連項目 ==
 
{{Commonscat|Shima Province}}
 
* [[令制国一覧]]
 
* [[志摩弁]]
 
* [[鳥羽市]]
 
* [[志摩市]]
 
 
 
{{令制国一覧}}
 
{{志摩国の郡}}
 
  
 
{{デフォルトソート:しまのくに}}
 
{{デフォルトソート:しまのくに}}

2019/6/13/ (木) 16:12時点における最新版

志摩国(しまのくに)

現在の三重県志摩市。東海道の一国。下国。『旧事本紀』には島津国とあり,国造が置かれたという。『古事記』に「嶋の速贄 (はやにへ) 」,『万葉集』に「御食 (みけ) つ国志麻」とあり,古代における海産物を主とした食料品供給の要地であったことを示す。そのため内膳司 (天皇の食料を調達する役所) の長官である奉膳 (ぶぜん) の高橋氏が国守に任じられるのが例であった。養老2 (718) 年4月3日の『平城宮出土木簡文書』に志摩郡とあるが,ほかに記録がないので詳細は明らかでない。『続日本紀』には答志 (たふし) 郡とあり,同3年には佐芸郡が分割されている。国府,国分寺ともに志摩市阿児町に置かれた。『延喜式』には答志,英虞 (あこ) の2郡があり,『和名抄』には郷 14,田 124町を載せている。水田が狭小であったため,口分田 (くぶんでん) ,公廨料 (くがいりょう) など,伊勢,尾張の諸国によっていた。伊勢神宮に近く,その別宮である伊雑宮 (いざわのみや) が鎮座し,神宮の封戸が 66戸置かれ,御厨 (みくりや) も定められ,神宮の神饌 (しんせん) を供進するなど神宮の勢力が強かった。したがって鎌倉時代には有力な武家の台頭はみられなかったが,室町時代には伊勢の北畠氏が支配し,安土桃山時代にいたり九鬼嘉隆が波切 (なきり) ,鳥羽によって水軍として名を知られ,伊勢,志摩両国で3万石を領した。江戸時代初期には引き続き九鬼氏が支配したが,のち内藤氏,土井氏,松平氏,稲垣氏が領し,鳥羽藩として幕末にいたった。明治4 (1871) 年廃藩置県で,7月に鳥羽県となり,11月に度会 (わたらい) 県に併合され,さらに 1876年,三重県となった。



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