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'''忍藩'''(おしはん)は、[[武蔵国]][[埼玉郡]]に存在した[[藩]]の一つ。藩庁は[[忍城]](現在の[[埼玉県]][[行田市]]本丸)に置かれた。
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'''忍藩'''(おしはん)
  
== 藩史 ==
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江戸時代,[[武蔵国]]埼玉郡忍地方 (埼玉県) を領有した藩。慶長5 (1600) 年,松平忠吉が尾張 (愛知県) 清洲に移ってのち,酒井忠勝5万石,松平信綱3万石を経て,寛永 16 (39) 年阿部忠秋が3万石で入封したが,阿部氏は元禄7 (94) 年までに 10万石に達し,文政6 (1823) 年陸奥白河 (福島県) に転封するまで続き,代って家門松平忠堯が伊勢 (三重県) 桑名より入封,廃藩置県まで同氏が在城した。[[松平氏]]は江戸城溜間詰。
=== 深溝・東条松平家統治時代 ===
 
忍城は代々国人領主の[[成田氏]]の居城であった。[[上杉氏]]と[[後北条氏]]の係争地だったため、重要拠点として整備され、低湿地の沼沢を濠とし、その中に浮かんだ島を曲輪として利用した堅城になった。そして、成田氏は[[永禄]]12年([[1569年]])の[[越相同盟]]によって正式に[[後北条氏]]に属することになった。[[天正]]18年([[1590年]])の[[小田原征伐]]の際には[[石田三成]]率いる豊臣軍の攻撃を受けたが、落城することはなかった(小田原落城後に開城)。
 
 
 
後北条氏滅亡後、関東に入った[[徳川家康]]は忍城に四男の[[松平忠吉]]を10万石で入れた。しかし忠吉は11歳という幼年であったため、[[松平家忠]](松平深溝氏(まつだいらふこうずし))が1万石で入る。家忠は三成の水攻めのために荒廃した忍城と城下町を修築し、代官の[[伊奈忠次]]の助けも受けて領内に検地を実施した。[[文禄]]元年([[1592年]])に家忠は[[下総国]]上代1万石に移され、忠吉は忍に入ったがまだ若年のため、家老の[[小笠原吉次]]が実際の政務を代行した。吉次は兵農分離、家臣団編成、新田開発、[[利根川]]の治水工事で手腕を見せた。
 
 
 
[[慶長]]5年([[1600年]])の[[関ヶ原の戦い]]で、忠吉は[[井伊直政]]と共に[[島津義弘]]軍と戦って負傷しながらも武功を挙げたため、[[尾張国|尾張]][[尾張藩]]52万石に加増移封された。その後しばらく、忍藩は廃されて[[天領]]となり、[[代官]]の忠次や[[大河内久綱]]らが治めた。
 
 
 
=== 大河内松平家統治時代 ===
 
[[寛永]]10年([[1633年]])、『知恵伊豆』で有名な[[松平信綱]](久綱の子)が3万石で入る。信綱は[[老中]]に昇進して[[島原の乱]]鎮圧では総大将として幕府軍を率いて乱を鎮圧し、寛永16年([[1639年]])にはその武功により[[武蔵国|武蔵]][[川越藩]]6万石に加増移封された。
 
 
 
=== 阿部氏統治時代 ===
 
代わって信綱と同じく[[徳川家光]]のもとで小姓から老中にまで栄進した[[阿部忠秋]]が5万石で入る。信綱・忠秋が相次いで老中に就任した結果、忍藩は「老中の藩」として政治的・軍事的にも幕府の重要拠点と見なされるようになったが、これが逆に藩主家の経費増加にもつながり、次第に忍藩の年貢は重くなっていったと言われている。忠秋は[[正保]]4年([[1647年]])に1万石、[[寛文]]3年([[1663年]])に2万石を加増され、合計8万石を領する[[大名]]となった。
 
 
 
その後も阿部氏は[[阿部正能|正能]](9万石)、[[阿部正武|正武]](10万石)、[[阿部正喬|正喬]]というように、歴代藩主が老中に就任している。特に正武は[[徳川綱吉]]の厚い信任を得て23年間も老中を務めて10万石に加増され、忍城の修築や家臣団の規律制定など、藩政の固めに尽力している。正喬の後は[[阿部正允|正允]]、[[阿部正敏|正敏]]、[[阿部正識|正識]]、[[阿部正由|正由]]と継がれたが、これらの藩主も老中・[[京都所司代]]・[[大坂城代]]などの要職を歴任した。
 
 
 
しかし藩政においては、[[寛保]]2年([[1742年]])に領内を襲った大洪水や[[天明]]3年([[1783年]])の[[浅間山]]噴火と[[天明の大飢饉]]、その3年後の大洪水などで大被害に遭う。加えて、歴代藩主が幕府の要職に就いたため出費が重なって、藩財政は大きく逼迫した。このような中で[[宝暦]]2年([[1752年]])と[[明和]]元年([[1764年]])に藩内で一揆が起こるなど、藩政は不安定化の一途をたどった。[[文政]]6年([[1823年]])、[[阿部正権|正権]](正由の子)のとき、阿部氏は[[陸奥国]][[白河藩]]へ移封となった。
 
 
 
=== 奥平松平家統治時代 ===
 
代わって[[伊勢国]][[桑名藩]]より奥平[[松平忠堯]]が10万石で入る(なお、この際に桑名藩領の一部が忍藩領になっており、陣屋([[大矢知村|大矢知]]陣屋)が置かれていた)。奥平松平家は元禄期に起こした騒動で知行を減らされていたにもかかわらず、石高に較べて家臣団が多くいたため、藩財政は早くから逼迫していた。このため、入部した翌年の文政7年([[1824年]])には藩内に重い御用金を課している。
 
 
 
忍藩第3代藩主・[[松平忠国 (武蔵国忍藩主)|忠国]]は所領10万石のうち5万石を上総・[[安房国|安房]]に移されたため、異国船の警備を任じられた。[[1853年]]([[嘉永]]6年)、[[ペリー]]艦隊が来航して幕府に開国要求が迫り、幕府は約8ヶ月の工期で品川砲台(現在の[[お台場]])を完成させると、品川砲台のうち[[第三台場]](現在、[[台場公園]]として整備されている)を忍藩に担当させている。ところが、これが原因でさらに財政は逼迫し、[[安政]]2年([[1855年]])の[[安政の大地震]]と安政6年([[1859年]])の大洪水で領内が大被害を受け、出費がさらに重なり、遂には家臣の俸禄を6分も減らさざるを得なくなった。この頃の奧平松平家の借金は、76万両という途方もないものであった。
 
 
 
[[慶応]]3年([[1867年]])の[[大政奉還]]後、第4代藩主・[[松平忠誠 (武蔵国忍藩主)|忠誠]]は幕府と新政府のどちらに与するかを迷い、藩論もそれによって分裂する。翌年、[[戊辰戦争]]が起こると前藩主・忠国の登場もあって藩論は新政府側に与することで決し、忍藩は東北に出陣した。第5代藩主・[[松平忠敬|忠敬]]は[[明治]]2年([[1869年]])の[[版籍奉還]]で[[知藩事]]となり、明治4年([[1871年]])7月の[[廃藩置県]]で忍藩は廃藩、代わって'''忍県'''が設置された。忍県設置3ヶ月後の明治4年(1871年)11月14日の第1次府県統合により[[埼玉県]]に統合された。
 
 
 
== 歴代藩主 ==
 
=== 松平(深溝)家 ===
 
1万石。[[譜代大名|譜代]]。
 
# [[松平家忠]](いえただ)<不詳>
 
 
 
=== 松平(東条)家 ===
 
10万石。[[親藩]]。
 
# [[松平忠吉]](ただよし)<従三位。左近衛権中将。侍従>
 
 
 
=== 松平(大河内)家 ===
 
3万石。譜代。
 
# [[松平信綱]](のぶつな)<従四位下。伊豆守>
 
 
 
=== 阿部家 ===
 
5万石→6万石→8万石→10万石。譜代。
 
# [[阿部忠秋]](ただあき)<従四位下。豊後守。侍従>
 
# [[阿部正能]](まさよし)<従四位下。播磨守>
 
# [[阿部正武]](まさたけ)<従四位下。豊後守。侍従>
 
# [[阿部正喬]](まさたか)<従四位下。豊後守。侍従>
 
# [[阿部正允]](まさちか)<従四位下。豊後守。侍従>
 
# [[阿部正敏]](まさとし)<従四位下。能登守>
 
# [[阿部正識]](まさつね)<従五位下。豊後守>
 
# [[阿部正由]](まさよし)<従四位下。豊後守。侍従>
 
# [[阿部正権]](まさのり)<不詳>
 
 
 
=== 松平(奥平)家 ===
 
10万石。譜代。
 
# [[松平忠堯]](ただたか)<従四位下。民部大輔>
 
# [[松平忠彦]](たださと)<従四位下。式部大輔。侍従>
 
# [[松平忠国 (武蔵国忍藩主)|松平忠国]](ただくに)<従四位下。下総守。侍従。少将>
 
# [[松平忠誠 (武蔵国忍藩主)|松平忠誠]](ただざね)<従四位下。下総守。侍従。少将>
 
# [[松平忠敬]](ただのり)<従三位>
 
 
 
== 幕末の領地 ==
 
* [[武蔵国]]
 
** [[埼玉郡]]のうち - 78村(うち1村を[[浦和県]]に編入)
 
** [[足立郡]]のうち - 6村
 
** [[男衾郡]]のうち - 1村
 
** [[榛沢郡]]のうち - 8村([[岩鼻県]]に編入)
 
** [[秩父郡]]のうち - 22村
 
** [[大里郡]]のうち - 6村
 
** [[幡羅郡]]のうち - 9村
 
* [[伊勢国]]
 
** [[員弁郡]]のうち - 20村
 
** [[朝明郡]]のうち - 35村
 
** [[三重郡]]のうち - 17村
 
* [[播磨国]]
 
** [[加古郡]]のうち - 4村
 
** [[多可郡]]のうち - 7村
 
** [[加西郡]]のうち - 4村
 
 
 
[[明治維新]]後に埼玉郡6村(旧[[天領|幕府領]]1村、[[地方知行|旗本領]]5村)が加わった。
 
 
 
== 関連項目 ==
 
* [[十万石まんじゅう]] - 行田市に本社を置く「十万石ふくさや」が販売する菓子。忍藩の石高にちなむ。
 
* [[石城日記]] - 幕末期の忍藩士・尾崎石城による絵日記。
 
* [[新郷川俣関所]]
 
 
 
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[[Category:藩]]
 
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2019/5/1/ (水) 21:51時点における最新版

忍藩(おしはん)

江戸時代,武蔵国埼玉郡忍地方 (埼玉県) を領有した藩。慶長5 (1600) 年,松平忠吉が尾張 (愛知県) 清洲に移ってのち,酒井忠勝5万石,松平信綱3万石を経て,寛永 16 (39) 年阿部忠秋が3万石で入封したが,阿部氏は元禄7 (94) 年までに 10万石に達し,文政6 (1823) 年陸奥白河 (福島県) に転封するまで続き,代って家門松平忠堯が伊勢 (三重県) 桑名より入封,廃藩置県まで同氏が在城した。松平氏は江戸城溜間詰。



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