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(内容を「 '''徳川 斉昭'''(とくがわ なりあき) 江戸時代後期の水戸藩主。治紀の3男。幼名は虎三郎,敬三郎。字は子信。号は景山,潜...」で置換)
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{{基礎情報 武士
 
| 氏名 = 徳川斉昭
 
| 画像 = Tokugawa Nariaki.jpg
 
| 画像サイズ = 250px
 
| 画像説明 =
 
| 時代 = [[江戸時代]]後期
 
| 生誕 = [[寛政]]12年[[3月11日 (旧暦)|3月11日]]([[1800年]][[4月4日]])
 
| 死没 = [[万延]]元年[[8月15日 (旧暦)|8月15日]]([[1860年]][[9月29日]])
 
| 改名 = 虎三郎、敬三郎([[幼名]])→紀教(初名)→斉昭
 
| 別名 = 子信、景山、潜龍閣
 
| 諡号 = 烈公
 
| 神号 = 押健男国之御楯命、奈里安紀良之命
 
| 墓所 = [[瑞龍山]]
 
| 官位 = [[従三位]]・[[近衛府|左近衛権中将]]兼[[衛門府|左衛門督]]<br/>[[参議]]、[[中納言|権中納言]]、贈[[従二位]]・[[大納言|権大納言]]<br/>贈[[従一位]]、贈[[正一位]]
 
| 幕府 = [[江戸幕府]]:海防参与、軍制改革参与
 
| 主君 = [[徳川家斉]]→[[徳川家慶|家慶]]→[[徳川家定|家定]]
 
| 藩  = [[常陸国]][[水戸藩]]主
 
| 氏族 = [[徳川氏]]([[水戸徳川家]])
 
| 父母 = 父:[[徳川治紀]]、母:[[瑛想院]]([[外山家|外山氏]])<br/>養父:''[[徳川斉脩]]''
 
| 兄弟 = [[徳川斉脩]]、[[松平頼恕]]、'''徳川斉昭'''<br/>[[松平頼かた|松平頼筠]]、[[徳川申之允|申之丞]]
 
| 妻  = 正室:[[有栖川宮織仁親王]]女・[[吉子女王|登美宮吉子女王]]<br />側室:万里小路睦子 [[#家系|ほか]]
 
| 子  = '''[[徳川慶篤]]'''、[[池田慶徳]]、[[徳川慶喜]]、<br>[[松平直侯]]、[[池田茂政]]、[[松平武聰]]、<br>[[喜連川縄氏]]、[[松平昭訓]]、[[松平忠和 (島原藩主)|松平忠和]]、<br>[[土屋挙直]]、[[徳川昭武]]、[[松平喜徳]]、<br>[[松平頼之]] [[#家系|ほか]]
 
| 特記事項 =
 
}}
 
[[画像:Nariaki.jpg|thumb|250px|茨城県水戸市の千波公園にある徳川斉昭と息子の七郎麿(後の将軍徳川慶喜)の像]]
 
  
'''徳川 斉昭'''(とくがわ なりあき)は、[[江戸時代]]後期の[[大名]]([[親藩]])。[[常陸国|常陸]][[水戸藩]]の第9代藩主。[[江戸幕府]]第15代(最後)の[[征夷大将軍|将軍]]・[[徳川慶喜]]の実父である。
+
'''徳川 斉昭'''(とくがわ なりあき)
  
== 略歴 ==
+
江戸時代後期の水戸藩主。治紀の3男。幼名は虎三郎,敬三郎。字は子信。号は景山,潜龍閣。諡は烈公。少年時代に会沢正志斎 (会沢正) などの指導を受け,文政 12 (1829) 年水戸藩主となる。朱子学的,尊攘的行動が多かった。[[藤田東湖]]らを登用して藩政の刷新をはかり,藩校[[弘道館]]を設立したほか,反射炉を那珂湊に設けて鉄砲を鋳造するなど藩政改革に努力した。しかしこれら斉昭の活動は尊攘的行動とみなされ,幕臣鳥居耀蔵 (ようぞう) らの排撃にあって,弘化1 (44) 年5月隠居謹慎を命じられ一時幽閉された。嘉永2 (49)年3月幽閉を解かれ幕政に参与してからは[[将軍継嗣問題]]で大老[[井伊直弼]]と対立し,安政6 (59) 年8月水戸に永蟄居を命じられた。
第7代藩主・[[徳川治紀]]の三男として生まれる。母は公家([[日野家]]一門)の[[外山家|外山氏]]。[[幼名]]は'''虎三郎'''、'''敬三郎'''。初めは父・治紀より[[偏諱]]を受けて'''紀教'''(としのり)、藩主就任後は第11代将軍[[徳川家斉]]より偏諱を賜い'''斉昭'''と名乗った(本項ではすべて「斉昭」で統一する)。[[諡号]]は'''烈公'''、[[字]]は子信、[[号 (称号)|号]]は景山、潜龍閣。
 
 
 
神号は「押健男国之御楯命」(おしたけおくにのみたてのみこと)・「奈里安紀良之命」(なりあきらのみこと)など。[[官位]]は[[従三位]][[中納言|権中納言]]だが、薨後、[[正一位]][[大納言|権大納言]]が贈られている。
 
 
 
[[藩政改革]]に成功した幕末期の[[名君]]の一人である。しかし[[将軍継嗣問題|将軍継嗣争い]]で[[井伊直弼]]との政争に敗れて永蟄居となり、そのまま死去した。
 
 
 
== 生涯 ==
 
=== 家督相続 ===
 
[[寛政]]12年([[1800年]])3月11日、[[水戸藩]][[江戸]][[小石川]][[江戸藩邸|藩邸]]で生まれる。治紀の子息たちの侍読を任されていた[[会沢正志斎]]のもとで[[水戸学]]を学び、聡明さを示した。
 
 
 
治紀には成長した男子が4人いた。長兄の[[徳川斉脩|斉脩]]は次代藩主であり、次兄の[[松平頼恕]]は[[文化 (元号)|文化]]12年([[1815年]])に[[高松松平家|高松藩松平家]]に養子に、弟・[[松平頼かた|松平頼筠]]は[[文化 (元号)|文化]]4年([[1807年]])に[[宍戸藩]]松平家に養子に(両松平家とも水戸家の[[御連枝|連枝]])、と早くに行く先が決まったが、三男の斉昭は30歳まで部屋住みであり、斉脩の控えとして残されたと思われる。なお、生前の治紀から、「他家に養子に入る機会があっても、[[譜代大名]]の養子に入ってはいけない。譜代大名となれば、朝廷と幕府が敵対したとき、幕府について朝廷に弓をひかねばならないことがある」と言われていたという(『武公遺事』)。
 
 
 
[[文政]]12年([[1829年]])、第8代藩主・斉脩が継嗣を決めないまま病となった。大名昇進を画策する[[御附家老|附家老]]の[[中山信守]]を中心とした門閥派より、第11代将軍・[[徳川家斉]]の第20子で斉脩正室・[[峰姫]]の弟である恒之丞(のちの[[紀州藩]]主[[徳川斉彊]])を[[養子]]に迎える動きがあったが、学者や下士層は斉昭を推し、斉昭派40名余りが無断で江戸に上り陳情するなどの騒ぎとなった。斉脩の死後ほどなく遺書が見つかり、斉昭が[[家督]]を継いだ。
 
 
 
=== 藩政改革 ===
 
[[天保]]2年([[1832年]])、[[有栖川宮織仁親王]]の娘・[[吉子女王|登美宮吉子]]と結婚する。
 
 
 
藩政では[[藩校]]・[[弘道館]]を設立し、門閥派を押さえて、下士層から広く人材を登用することに努めた。こうして、[[戸田忠太夫]]、[[藤田東湖]]、[[安島帯刀]]、会沢正志斎、[[武田耕雲斎]]、[[青山延于|青山拙斎]]ら、斉昭擁立に加わった比較的軽輩の藩士を用い[[藩政改革]]を実施した。
 
 
 
斉昭の改革は、[[水野忠邦]]の[[天保の改革]]に示唆を与えたといわれる。天保8年([[1837年]])7月、斉昭は、
 
# 「経界の義」(全領検地)
 
# 「土着の義」(藩士の土着)
 
# 学校の義(藩校弘道館及び郷校建設)
 
# 「総交代の義」(江戸[[定府|定府制]]の廃止)
 
を掲げた。また、「追鳥狩」と称する大規模軍事訓練を実施したり、農村救済に稗倉の設置をするなどした。さらに国民皆兵路線を唱えて西洋近代兵器の国産化を推進していた。 蝦夷地開拓や大船建造の解禁なども幕府に提言している。その影響力は幕府のみならず全国に及んだ。またこれにより水戸、紀州、[[尾張藩|尾張]]の[[御附家老|附家老]]5家の大名昇格運動は停滞する。
 
 
 
宗教の面では、寺院の釣鐘や仏像を没収して大砲の材料とし、廃寺や道端の地蔵の撤去を行った。また、村ごとに神社を設置することを義務付け、従来は僧侶が行っていた[[人別改]]など民衆管理の制度を神官の管理へと移行した。このような仏教抑圧及び神道重視の政策は、明治初期の[[神仏分離]]・[[廃仏毀釈]]の先駆けとなった。この政策は、藩政を牛耳る家老たちと、藩政改革を進めようとする中級・下級の藩士たちの間で激しい派閥抗争が繰り広げられた中、藩を一つにまとめる必要もあって行われた。
 
 
 
しかし、[[弘化]]元年([[1844年]])に鉄砲斉射の事件をはじめ、前年の[[仏教]]弾圧事件などを罪に問われて、幕命により家督を嫡男の[[徳川慶篤|慶篤]]に譲った上で強制[[隠居]]と謹慎処分を命じられた。その後、水戸藩は門閥派の[[結城朝道|結城寅寿]]が実権を握って専横を行なうが、斉昭を支持する下士層の復権運動などもあって弘化3年([[1846年]])に謹慎を解除され、[[嘉永]]2年([[1849年]])に藩政関与が許された。
 
 
 
=== 幕政参与 ===
 
嘉永6年([[1853年]])6月、[[マシュー・ペリー|ペリー]]の[[浦賀]]来航に際して、[[老中]]首座・[[阿部正弘]]の要請により海防参与として幕政に関わったが、水戸学の立場から斉昭は強硬な[[攘夷論]]を主張した。このとき江戸防備のために大砲74門を鋳造し弾薬と共に[[江戸幕府|幕府]]に献上している(うち1門が水戸の[[常磐神社]]に現存)。また、江戸の石川島で洋式軍艦「[[旭日丸]]」を建造し、幕府に献上した。
 
 
 
[[安政]]2年([[1855年]])に軍制改革参与に任じられるが、同年の[[安政の大地震]]で藤田東湖や戸田忠太夫らのブレーンが死去してしまうなどの不幸もあった。安政4年([[1857年]])に阿部正弘が死去して[[堀田正睦]]が名実共に老中首座になると、さらに開国論に対して猛反対し、開国を推進する[[井伊直弼]]と対立する。
 
 
 
さらに第13代将軍・[[徳川家定]]の[[将軍継嗣問題]]で、[[徳川家茂|徳川慶福]]を擁して[[南紀派]]を形成する井伊直弼らに対して、息子である[[徳川慶喜|一橋慶喜]]を擁して[[一橋派]]を形成して直弼と争った。しかしこの政争で斉昭は敗れ、安政5年([[1858年]])に直弼が[[大老]]となって[[日米修好通商条約]]を独断で調印し、さらに慶福(家茂)を第14代将軍とした。
 
 
 
このため、安政5年([[1858年]])6月に将軍継嗣問題及び条約調印をめぐり、[[越前藩|越前藩主]]・[[松平春嶽|松平慶永]]と[[尾張藩|尾張藩主]]・[[徳川慶勝|徳川慶恕]]、一橋慶喜らと[[江戸城]]無断登城の上で井伊直弼を詰問したため、逆に直弼から7月に江戸の水戸屋敷での謹慎を命じられ、幕府中枢から排除された。
 
 
 
安政6年([[1859年]])には、[[孝明天皇]]による[[戊午の密勅]]が水戸藩に下されたことに井伊直弼が激怒、水戸での永蟄居を命じられることになり、事実上は政治生命を絶たれる形となった([[安政の大獄]])。
 
 
 
=== 最期 ===
 
[[万延]]元年([[1860年]])8月15日、蟄居処分が解けぬまま水戸で急逝した。[[享年]]61(満60歳没)。満月を観覧し、厠に立った後に倒れたと伝えられ、壮年の頃から[[狭心症]]の症状がみられることから、死因は[[心筋梗塞]]と推定されている<ref>『水戸市史 中巻(四)』 第二一章・第七節「斉昭の生涯」</ref>。
 
 
 
3月に起こった[[桜田門外の変]]から間もない時期であったために、[[彦根藩]]士に暗殺されたのではないかとの風説があったが、当時の彦根藩の調査では否定されている。
 
 
 
== 人物・逸話 ==
 
{{複数の問題|ソートキー=人1860年没
 
|section = 1
 
| 出典の明記 = 2012年5月
 
| 独自研究 = 2012年5月
 
}}
 
[[画像:徳川斉昭揮毫.jpg|thumb|250px|right|徳川斉昭の筆跡]]
 
* 諡号の「烈公」にもあるように、まさに幕末をその荒々しい気性で生き抜いてきた人物であった。
 
* 斉昭は単に艶福家であったのみならず、女色に淫すること甚だしく、先代藩主である兄の正室で養母であった[[峰姫|峯寿院峰姫]](徳川家斉の娘)の上臈、[[唐橋 (大奥女中)|唐橋]](元大奥女中)に手を出したと言われる(峯寿院の御殿では大奥の風習がそのまま持ち込まれており、上臈は生涯不犯の“お清”であった)。その他に、長男の慶篤の正室・[[幟子女王|線姫]]の急逝に対し、斉昭が線姫に手を出したために自害したなどという噂もあった。また[[大奥]]の女性達に対して、今で言う[[セクシャルハラスメント|セクハラ]]まがいの発言も多かったと指摘されている<ref>{{Cite web |url= {{NDLDC|964289/212}}|author=[[三田村鳶魚]]|title= 『大名生活の内秘』「水戸侯斉昭の内寵」|publisher=[[国立国会図書館]]近代デジタルライブラリー |accessdate=2015-3-8}}</ref>。加えて、大奥の浪費を嫌っており、大奥と密接な関係を持っていた仏教寺院にも否定的であった。このため、大奥の女性達に忌み嫌われており、息子である慶喜の将軍継承争いにも影響したとされる。なお、斉昭は生涯に男女あわせて37人の子供をもうけたが、その多くが各地の藩主になったり、藩主に嫁いだりしている。
 
* 礼儀作法に厳しい性格であるため、幼い頃、寝相が悪かった息子の慶喜が寝る際に、枕の両脇に剃刀を立てて寝かせていた<ref>
 
* 渋沢栄一『徳川慶喜公伝 第4巻』平凡社〈東洋文庫 107〉、1968年、p416
 
* 田中彰『明治維新の敗者と勝者』1980年、日本放送出版協会〈NHKブックス368〉
 
* 『人物日本の歴史19』小学館、1974年。</ref>。
 
* 幼少期から水戸学の影響を受けたため、開国には猛反対していたが、西洋の物品に対しては大いに興味を示したといわれる<ref name="suzuki">鈴木一夫『水戸黄門―江戸のマルチ人間・徳川光圀』中公文庫</ref>。
 
* 幕末期に人材の少なかった徳川家では唯一のカリスマ性と行動力を持ち合わせた人物であり、その死は幕府にとって痛手となった。斉昭の死後、水戸藩では内紛が起こり、彼が見出した人材はことごとく自滅することとなる<ref name="suzuki"/>。
 
* [[徳川光圀]]と共に、茨城県の[[常磐神社]]に祭神として祀られている。<ref>[http://komonsan.jp/mitukuni-and-nariaki/ 水戸光圀公と斉昭公]、常磐神社公式HP</ref>
 
* 斉昭の詠んだ歌から水戸藩中屋敷址に[[弥生 (文京区)|弥生]]という地名が生まれたため、[[弥生時代]]の間接的な名付け親である。<ref>[http://oogiya.abcjapon.co.jp/yayoishikidoki.html 弥生式土器発掘ゆかりの地]</ref>
 
* 斉昭は寵愛していた側室の地位を引き上げた。その側室は大喜びして金を無心したので斉昭は理由を尋ねた。すると「今までより地位が上がりましたので、衣装に費用が多くかかりますから」と答えた。斉昭は「それには及ばぬ。これまでの衣装で我が前に務めよ」と申し渡したが、側室は「それでは体面が保てず、奉公が務まりません」と答えた。すると斉昭は激怒し「このようなときにおねだりするとは心違いも甚だしい。奉公が務まらないというならば出仕は無用だ」と述べて出て行った。その後、斉昭はその側室の目通りを許さなかったという<ref>{{Cite web
 
|url= {{NDLDC|1767733/85}}|author=[[大郷信斎]]|title=『続道聴塗説』|publisher=国立国会図書館近代デジタルライブラリー |accessdate=2015-3-8 }}</ref>。
 
* 水戸家は毎年幕府から1万両の援助金を受けていた。だが斉昭は「[[徳川頼房|祖公]]以来、35万石で暮らすことが本意であり、倹約するのはこの石高で暮らすためである。以後は奢侈を固く禁止し節約を心がけて拝領した石高で暮らすべきである。その事始めとして、1万両は幕府に返上し、持高に応じた忠勤に励むよう。諸役人はこの趣旨に沿って生計をたてよ」と述べた<ref name="Kassiyawa">『[[甲子夜話]]』[[松浦清]]、続編</ref>。
 
* 水戸家を相続して間もない頃、家臣らは先代藩主の兄である斉脩が食べていたものと同じ食事を用意した。斉昭はそれを見て「余はこれまで日陰者であったが、兄が亡くなってはからずも水戸家を継いだ。御三家の格式は非常に重いので表向きのことは変更できないだろうが、内向きのことである食事などには金などかけることはない」と述べ、翌日から部屋住みの頃の食事に変えさせた<ref name="Kassiyawa"/>。
 
* 武術にも堪能で、自ら神発流[[砲術]]、常山流[[薙刀術]]を創始し、弘道館で指導させた<ref>[[綿谷雪]]・山田忠史 編『増補大改訂 武芸流派大事典』 東京コピイ出版部 1978年</ref>。
 
* 大の肉好きとして知られており、[[彦根藩]]から[[近江牛|近江の牛]]を贈られた時には、返礼の手紙を書いている<ref>{{Cite news|title=肉食のルーツ 彦根城はなぜ残ったのか|newspaper=[[朝日新聞]]|date=2014-7-17|author=ジュラ・高橋洋|url=http://www.asahi.com/shopping/travel/SDI201407140704.html|accessdate=2014-07-27|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150308032906/http://www.asahi.com/shopping/travel/SDI201407140704.html|archivedate=2015年3月8日|deadlinkdate=2017年10月}}</ref>。
 
* 水戸藩領内の景勝地『[[水戸八景]]』を選定した。<ref>{{cite web|title=【文化財講座】水戸八景講座|url=http://www.city.hitachinaka.ibaraki.jp/soshiki/56/mitoha.html|work=ひたちなか市公式ホームページ|publisher=ひたちなか市|accessdate=2016-7-14}}</ref>
 
 
 
== 官職および位階等の履歴 ==
 
※日付=明治5年12月2日までは旧暦
 
* [[寛政]]12年([[1800年]])3月11日 - 誕生。虎三郎を称す。
 
* [[文政]]12年([[1829年]])
 
** 10月 - 世継ぎとなる。敬三郎と改める。
 
** 11月 - [[水戸徳川家]]の家督を相続し、藩主となる。
 
** 11月18日 - [[従三位]]に叙し、[[近衛府|左近衛権中将]]に任官し、[[衛門府|左衛門督]]を兼任。
 
* 文政13年([[1830年]])12月1日 - [[参議]]に補任。
 
* [[天保]]8年([[1837年]])2月28日 - [[中納言|権中納言]]に転任。
 
* 天保15年([[1844年]])5月6日 - 隠居。
 
* [[万延]]元年([[1860年]])8月15日 - 薨去。
 
* [[文久]]2年([[1862年]])閏8月5日 - 贈[[従二位]][[大納言|権大納言]]。
 
* [[明治]]2年([[1869年]])12月20日 - 追贈[[従一位]]。
 
* 明治36年([[1903年]])6月27日 - 追贈[[正一位]]。
 
 
 
== 家系 ==
 
* 正室:[[吉子女王|登美宮吉子]]・文明夫人 ([[有栖川宮織仁親王]]女)
 
** 長男:[[徳川慶篤|慶篤]] (1832年 - 1868年)- 水戸藩10代藩主
 
** 次男:[[徳川二郎麿|二郎麿]](1833年 - 1834年)
 
** 五女:以以姫(1835年 - 1835年)
 
** 七男:[[徳川慶喜|慶喜]](昭致)(1837年 - 1913年) - [[一橋徳川家]]当主、のち第15代[[征夷大将軍|将軍]]徳川慶喜
 
* 側室:古與 (糸魚川藩家臣[[萩原恊盛]]女)
 
** 長女:賢姫(佐加子)(1822年 - 1839年) - 宇和島藩主[[伊達宗城]]婚約者
 
** 次女:色許姫(1825年 - 1826年)
 
** 三女:祝姫(欽子、本岐姫)(1827年 - 1853年) - 家老[[山野辺義正]]室
 
* 側室:直 (家老[[山野辺義質]]女、[[徳川宗翰]]の曾孫)
 
** 四女:比呂姫(1834年 - 1835年)
 
** 四男:[[徳川四郎麿|四郎麿]](1835年 - 1836年)
 
** 七女:庸姫(1837年 - 1843年)
 
** 八男:[[松平直侯]](昭融)(1839年 - 1861年) - [[川越藩]]主松平直侯
 
** 八女:一葉姫(1840年 - 1843年)
 
** 十男:[[松平武聰]](昭音)(1842年 - 1882年) - [[浜田藩]]主松平武聰
 
** 十三男:[[徳川余三麿|余三麿]](1844年 - 1844年)
 
* 側室:貞子(仙洞御所侍[[松波光寧]]女)
 
** 三男:[[徳川三郎麿|三郎麿]](1835年 - 1837年)
 
** 六女:松姫(明子)(1836年 - 1903年) - 盛岡藩主[[南部利剛]]室
 
** 五男:[[池田慶徳]](昭徳)(1837年 - 1877年) - [[鳥取藩]]主池田慶徳
 
** 九男:[[池田茂政]](昭休)(1839年 - 1899年) - 初め[[忍藩]]主[[松平忠国 (武蔵国忍藩主)|松平忠国]]の養子・松平忠矩、後廃嫡。その後[[岡山藩]]主池田茂政。
 
** 九女:八代姫(孝子)(1841年 - 1869年) - 仙台藩主[[伊達慶邦]]室
 
** 十二男:[[徳川余二麿|余二麿]](1844年 - 1844年)
 
* 側室:登聞([[柳原隆光|柳原中納言隆光]]女)
 
** 六男:[[徳川六郎麿|六郎麿]](1837年 - 1838年)
 
* 側室:利子(水戸藩士[[立原杏所]]女)
 
** 十女:静姫(1843年 - 1844年)
 
** 十一男:[[喜連川縄氏]](昭縄)(1844年 - 1874年) - [[喜連川藩]]主喜連川縄氏
 
* 側室:睦子([[万里小路建房|万里小路大納言建房]]女)
 
** 十四男:[[松平昭訓]](1848年 - 1863年)
 
** 十一女:茂姫([[徳川貞子|貞子]])(1850年 - 1872年) - [[有栖川宮熾仁親王]]室
 
** 十七男:[[土屋挙直]](昭邦)(1852年 - 1892年) - [[土浦藩]]主土屋挙直
 
** 十八男:[[徳川昭武]](昭徳)(1853年 - 1910年) - [[清水徳川家]]当主、のち水戸藩11代藩主
 
** 二十男:[[徳川廿麿|廿麿]](1856年 - 1858年)
 
** 二十二男:[[松平頼之]](昭鄰)(1858年 - 1873年) - [[守山藩]]主松平頼之
 
* 側室:徳子([[高丘永季|高丘参議永季]]女)
 
** 十五男:[[徳川余五麿|余五麿]](1849年 - 1849年)
 
** 十六男:[[松平忠和 (島原藩主)|松平忠和]](昭嗣)(1851年 - 1917年) - [[島原藩]]主松平忠和
 
** 十二女:愛姫(愛子)(1852年 - 1914年) - [[下総]][[高岡藩]]主[[井上正順]]室
 
** 二十一男:[[徳川廿一麿|廿一麿]](1856年 - 1856年)
 
* 側室:道子(旗本[[高橋重賢]]女)
 
** 十三女:久姫(1853年 - 1853年)
 
* 側室:悦子(旗本[[高橋高明]]女)
 
** 十九男:[[松平喜徳]](昭則)(1855年 - 1891年) - 初め[[会津藩]]主[[松平容保]]の養子、後[[守山藩]]主[[松平喜徳]](異母弟・頼之継嗣)
 
** 十四女:寧姫(1857年 - 1859年)
 
** 十五女:正姫(正子)(1858年 - 1873年) - 初め[[英勝寺]]住持、のち異母兄・[[池田慶徳]]養女となり[[池田徳澄]]室
 
 
 
== 脚注 ==
 
{{Reflist}}
 
 
 
== 参考文献 ==
 
* 但野正弘『水戸烈公と藤田東湖『弘道館記』の碑文』(錦正社、2002年8月) ISBN 978-4-7646-0261-8
 
* 安見隆雄『水戸斉昭の『偕楽園記』碑文』(錦正社、2006年7月) ISBN 978-4-7646-0271-7
 
* 宮田正彦『水戸学の復興―幽谷・東湖そして烈公―』(錦正社、2014年7月) ISBN 978-4-7646-0118-5
 
 
 
== 関連項目 ==
 
* [[吉原殿中]]
 
* [[水府流剣術]]
 
* [[水戸八景]]
 
 
 
=== 人物 ===
 
* [[立原翠軒]]
 
* [[立原杏所]]
 
* [[遠山重寛]]
 
 
 
=== 文献 ===
 
* 『徳川斉昭・[[伊達宗城]]往復書翰集』 校倉書房 1993年
 
 
 
=== 登場するフィクション作品 ===
 
* [[最後の将軍 徳川慶喜]](小説、[[司馬遼太郎]])
 
* [[建国史 尊王攘夷]](映画、1927年、演:[[山本嘉一]])
 
* [[花の生涯 (NHK大河ドラマ)|花の生涯]](NHK[[大河ドラマ]]、1963年、演:[[嵐寛寿郎]])
 
* [[江戸を斬る]]シリーズ([[TBS]][[ナショナル劇場]]、演:[[森繁久彌]])
 
** [[江戸を斬る (西郷輝彦)|江戸を斬るII]](1975年 - 1976年)
 
** [[江戸を斬る (西郷輝彦)|江戸を斬るIII]](1977年)
 
** [[江戸を斬る (里見浩太朗)|江戸を斬るVII]](1987年)
 
** [[江戸を斬る (里見浩太朗)|江戸を斬るVIII]](1994年)
 
* [[翔ぶが如く (NHK大河ドラマ)|翔ぶが如く]](NHK大河ドラマ、1990年、演:[[金子信雄]])
 
* [[動天]](映画、1991年、演:[[芦田伸介]])
 
* [[幕末のスパシーボ]](アニメーション映画、1997年、声:[[池田勝]])
 
* [[徳川慶喜 (NHK大河ドラマ)|徳川慶喜]](NHK大河ドラマ、1998年、演:[[菅原文太]])
 
* [[篤姫 (NHK大河ドラマ)|篤姫]](NHK大河ドラマ、2008年、演:[[江守徹]])
 
* [[桜田門外ノ変]](映画、2010年、演:[[北大路欣也]])
 
* [[八重の桜]](NHK大河ドラマ、2013年、演:[[伊吹吾郎]])
 
* [[西郷どん]](NHK大河ドラマ、2018年、演:[[伊武雅刀]])
 
 
 
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徳川 斉昭(とくがわ なりあき)

江戸時代後期の水戸藩主。治紀の3男。幼名は虎三郎,敬三郎。字は子信。号は景山,潜龍閣。諡は烈公。少年時代に会沢正志斎 (会沢正) などの指導を受け,文政 12 (1829) 年水戸藩主となる。朱子学的,尊攘的行動が多かった。藤田東湖らを登用して藩政の刷新をはかり,藩校弘道館を設立したほか,反射炉を那珂湊に設けて鉄砲を鋳造するなど藩政改革に努力した。しかしこれら斉昭の活動は尊攘的行動とみなされ,幕臣鳥居耀蔵 (ようぞう) らの排撃にあって,弘化1 (44) 年5月隠居謹慎を命じられ一時幽閉された。嘉永2 (49)年3月幽閉を解かれ幕政に参与してからは将軍継嗣問題で大老井伊直弼と対立し,安政6 (59) 年8月水戸に永蟄居を命じられた。



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