徳川慶喜

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徳川慶喜
時代 江戸時代末期 - 大正時代
生誕 天保8年9月29日1837年10月28日
死没 大正2年(1913年11月22日
幕府 江戸幕府 第15代征夷大将軍
(在任1867年 - 1868年
氏族 徳川氏
水戸家一橋家将軍家慶喜家

徳川 慶喜(とくがわ よしのぶ)は、江戸幕府第15代征夷大将軍(在職:慶応2年12月5日(1867年1月10日) ‐ 慶応3年12月9日(1868年1月3日))。江戸幕府最後の将軍かつ日本史上最後の征夷大将軍。

徳川将軍の中で、在任中に江戸入城を果たさなかった唯一の将軍であり、また家康を上回って最も長命だった将軍である。

御三卿一橋徳川家の第9代当主時に将軍後見職禁裏御守衛総督など要職を務めた。徳川宗家を相続した約4ヶ月後に第15代将軍に就任。大政奉還新政府軍への江戸開城を行なった。明治維新後に従一位勲一等公爵貴族院議員

生涯

幼年期

天保8年(1837年9月29日江戸・小石川の水戸藩邸にて第9代藩主・徳川斉昭の七男として生まれた[注釈 1]。 母は正室・吉子女王[注釈 2]幼名は松平七郎麻呂(まつだいら しちろうまろ)[注釈 3]

尊敬する第2代藩主・光圀の教育方針を踏襲している斉昭の「子女は江戸の華美な風俗に馴染まぬように国許(水戸)で教育する」という教育方針に則り、天保9年(1838年)4月(生後7ヶ月)に江戸から水戸に移る。弘化4年(1847年)8月に幕府から一橋徳川家相続の含みで江戸出府を命じられるまで、9年間を同地で過ごした。この間、藩校・弘道館会沢正志斎らに学問・武術を教授された。七郎麻呂の英邁さは当時から注目されていたようで、斉昭も他家の養子にせず長男・慶篤の控えとして暫時手許に置いておこうと考えていた。この間、七郎麻呂は父斉昭から偏諱を頂き、昭致と名乗る。

一橋家相続

弘化4年(1847年8月1日、老中・阿部正弘から水戸藩に昭致を御三卿・一橋家の世嗣としたいとの第12代将軍・徳川家慶の思召(意向)が伝えられる。思召を受けて昭致は8月15日に水戸を発ち9月1日に一橋家を相続。12月1日に家慶から偏諱を賜わり慶喜と名乗る。

家慶はたびたび一橋邸を訪問するなど、慶喜を将軍継嗣の有力な候補として考えていたが、阿部正弘に諫言されて断念している。

将軍継嗣問題

嘉永6年(1853年)、黒船来航の混乱の最中に将軍・家慶が病死し、その跡を継いだ第13代将軍・徳川家定は病弱で男子を儲ける見込みがなく将軍継嗣問題が浮上する。慶喜を推す斉昭や阿部正弘、薩摩藩主・島津斉彬一橋派と、紀州藩主・徳川慶福を推す彦根藩主・井伊直弼や家定の生母・本寿院を初めとする大奥南紀派が対立した。

阿部正弘・島津斉彬が相次いで死去すると一橋派は勢いを失い、安政5年(1858年)に大老となった井伊直弼が裁定し、将軍継嗣は慶福(家茂)と決した。

同年、直弼は勅許を得ずに日米修好通商条約を調印。慶喜は斉昭、福井藩主・松平慶永らと共に登城し直弼を詰問し翌・安政6年(1859年)に隠居謹慎処分が下る(安政の大獄)。この日は三卿の登城日であり斉昭や慶永と違って不時登城ではなく、罪状は不明のままの処分であった。

なお、慶喜本人は将軍継嗣となることに乗り気ではなかったのか「骨が折れるので将軍に成って失敗するより最初から将軍に成らない方が大いに良い」という主旨の手紙を斉昭に送っている[注釈 4]

将軍後見職

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禁裏御守衛総督時代の慶喜

安政7年(1860年3月3日桜田門外の変における井伊直弼の死を受け、万延元年(1860年)9月4日に謹慎を解除される。

文久2年(1862年)、島津久光と勅使・大原重徳が薩摩藩兵を伴って江戸に入り、勅命を楯に幕府の首脳人事へ介入、7月6日、慶喜を将軍後見職に、松平春嶽政事総裁職に任命させることに成功した。慶喜と春嶽は文久の改革と呼ばれる幕政改革を行ない、京都守護職の設置、参勤交代の緩和などを行った。

文久3年(1863年)、攘夷の実行について朝廷と協議するため、徳川家茂が将軍としては230年ぶりに上洛することとなったが、慶喜はこれに先駆けて上洛し、将軍の名代として朝廷との交渉にあたった。慶喜は朝廷に対し、攘夷実行を含めた国政全般を従来通り幕府へ委任するか、政権を朝廷に返上するかの二者択一を迫った。しかし朝廷からは、幕府への大政委任を認める一方で「国事に関しては諸藩に直接命令を下すことがあり得る」との見解が表明され、逆に幕府は攘夷の実行を命じられるなど、交渉は不成功に終わった。春嶽が朝廷の要求に反発して政事総裁職の辞表を出す一方で、慶喜はこれを受け入れる姿勢をとり、江戸の幕閣の猛反発を招いた。しかし攘夷の実行は慶喜の本心ではなく、孝明天皇石清水八幡宮へ行幸しての攘夷祈願において将軍が天皇から節刀を拝受してしまえば攘夷を決行せざるを得なくなるので「風邪発熱」(仮病)と称して家茂の拝謁を急遽取りやめさせている。

江戸に戻った慶喜は、攘夷拒否を主張する幕閣を押し切り、攘夷の実行方策として横浜港の鎖港方針を確定させる。八月十八日の政変長州藩を中心とする尊皇攘夷派が排斥されたのち、公武合体派諸候・幕閣による参預会議に参加すべく再び上洛するが、ここでも横浜鎖港に反対する参預諸候の島津久光・松平春嶽らと慶喜は対立した。薩摩藩による朝廷の主導を警戒した慶喜は、参預諸候を朝廷から排除する動きをみせ、中川宮朝彦親王らとの酒席で故意に泥酔し、同席していた伊達宗城、春嶽、久光を罵倒、さらに中川宮に対し「島津からいくらもらっているんだ?」などと暴言を発して体制を崩壊に追い込むなど、手段を選ばぬ交渉を行なった。

禁裏御守衛総督

参預会議解体後の元治元年(1864年)3月25日、慶喜は将軍後見職を辞任し、朝臣的な性格を持つ禁裏御守衛総督に就任した。以降、慶喜は京都にあって武田耕雲斎ら水戸藩執行部や鳥取藩主・池田慶徳岡山藩主・池田茂政(いずれも徳川斉昭の子。慶喜の兄弟)らと提携し、幕府中央から半ば独立した勢力基盤を構築していく。江戸においては、盟友である政事総裁職・松平直克と連携し、朝廷の意向に沿って横浜鎖港を引き続き推進するが、天狗党の乱への対処を巡って幕閣内の対立が激化し、6月に直克は失脚、慶喜が権力の拠り所としていた横浜鎖港路線は事実上頓挫する[2]

同年7月に起こった禁門の変において慶喜は御所守備軍を自ら指揮し、鷹司邸を占領している長州藩軍を攻撃する際は歴代の徳川将軍の中で唯一、戦渦の真っ只中で馬にも乗らず敵と切り結んだ。禁門の変を機に慶喜はそれまでの尊王攘夷派に対する融和的態度を放棄し、会津藩桑名藩らとの提携が本格化することとなる(一会桑体制[3]。また老中本庄宗秀阿部正外が兵を率いて上洛し、慶喜を江戸へ連行しようとしたが、失敗した。一方、長期化していた天狗党の乱の処理を巡っては、慶喜を支持していた武田耕雲斎ら水戸藩勢力を切り捨てる冷徹さを見せた。それに続く第一次長州征伐が終わると、欧米各国が強硬に要求し、幕府にとり長年の懸案事項であった安政五カ国条約の勅許を得るため奔走した。慶喜は自ら朝廷に対する交渉を行い、最後には自身の切腹とそれに続く家臣の暴発にさえ言及、一昼夜に渡る会議の末に遂に勅許を得ることに成功したが、京都に近い兵庫の開港については勅許を得ることができず、依然懸案事項として残された。

将軍職

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ナポレオン3世から贈られた軍服姿の慶喜

慶応2年(1866年)の第二次長州征伐では、薩摩藩の妨害を抑えて慶喜が長州征伐の勅命を得る。しかし薩長同盟を結んだ薩摩藩の出兵拒否もあり、幕府軍は連敗を喫した。その第二次長州征伐最中の7月20日、将軍・家茂が大坂城で薨去する。慶喜は朝廷に運動して休戦の詔勅を引き出し、会津藩や朝廷上層部の反対を押し切る形で休戦協定の締結に成功する。

家茂の後継として、老中の板倉勝静小笠原長行は江戸の異論[注釈 5]を抑えて慶喜を次期将軍に推した。慶喜はこれを固辞し、8月20日徳川宗家は相続したものの将軍職就任は拒み続け、12月5日に将軍宣下を受けようやく将軍に就任した。これは言わば恩を売った形で将軍になることで政治を有利に進めていく狙いがあったと言われるが、就任固辞が「政略」によるとみなせる根拠も「政略」説を否定する根拠もないのが実情である[5]。 この頃の慶喜ははっきりと開国を指向するようになっており、将軍職就任の受諾は開国体制への本格的な移行を視野に入れたものであった[6]

慶喜政権は会津藩・桑名藩の支持のもと、朝廷との密接な連携を特徴としており、慶喜は将軍在職中一度も畿内を離れず、多くの幕臣を上洛させるなど、実質的に政権の畿内への移転が推進された。また、慶喜は将軍就任に前後して上級公家から側室を迎えようと画策しており、この間、彼に関白・摂政を兼任させる構想が繰り返し浮上した[7]。 一方、これまで政治的には長く対立関係にあった小栗忠順ら改革派幕閣とも連携し、慶応の改革を推進した。

慶喜はフランス公使・レオン・ロッシュを通じてフランスから240万ドルの援助を受け、横須賀製鉄所や造・修船所を設立し、ジュール・ブリュネを始めとする軍事顧問団を招いて軍制改革を行った。老中の月番制を廃止し、陸軍総裁海軍総裁・会計総裁・国内事務総裁・外国事務総裁を設置した。また、実弟・昭武をパリ万国博覧会に派遣するなど幕臣子弟の欧州留学も奨励した。兵庫開港問題では朝廷を執拗に説いて勅許を得て、勅許を得ずに兵庫開港を声明した慶喜を糾弾するはずだった薩摩・越前・土佐・宇和島の四侯会議を解散に追い込んだ。

薩長が武力倒幕路線に進むことを予期した慶喜は慶応3年(1867年10月14日、政権返上を明治天皇に奏上し翌日勅許された(大政奉還)。従来の通説的見解によれば、慶喜は当時の朝廷に行政能力が無いと判断し、列侯会議を主導する形での徳川政権存続を模索していたとされる。慶喜は緊迫する政治情勢下で内乱の発生を深く懸念しており[8]、大政奉還による政治体制の再編はその打開策であった。

戊辰戦争

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月岡芳年『徳川治績年間紀事 十五代徳川慶喜公』
船で大坂を脱出する慶喜を描いた錦絵

大政奉還後の政治体制については諸侯会議によって定められるはずであったが、12月、薩摩藩らは政変を起こし朝廷を制圧し慶喜を排除して新政府樹立を宣言(王政復古)。会議において「慶喜の辞官(内大臣・辞職)納地(幕府領・奉納)」が決定する[注釈 6]。 慶喜は衝突を避けるべく会津・桑名藩兵とともに大坂城に退去し、諸外国の公使らを集めて自身の正当性を主張した。慶喜は越前藩・土佐藩に運動して辞官納地を温和な形とし、年末には自身の議定就任(新政府への参画)がほぼ確定する。

しかし、翌・慶応4年(1868年)に薩摩藩の挑発に乗った慶喜は、会津・桑名藩兵とともに京都に向け進軍し、薩摩藩兵らとの武力衝突に至る。1月3日に勃発した鳥羽・伏見の戦いにおいて旧幕府軍が敗退し形勢不利になったと見るや、まだ兵力を十分に保持しているにも関わらず、自らが指揮する旧幕府軍の兵に「千兵が最後の一兵になろうとも決して退いてはならぬ」と厳命する一方、自分は陣中に伴った側近や妾、老中の板倉勝静と酒井忠惇、会津藩主松平容保、桑名藩主松平定敬らと共に開陽丸で江戸に退却した[注釈 7]。 なお、この時、開陽丸艦長の榎本武揚には江戸への退却を伝えず、武揚は戦地に置き去りにされた[10]

勝利の可能性が十分あったにも関わらず、慶喜がこのような敵前逃亡にも等しい行動をとった動機については幾つかの説がある。近年の研究では、慶喜政権が天皇の権威を掌中に収め、それに依拠することによってのみ成立していた政権であったとし、それを他勢力に譲り渡した時点で彼の政治生命は潰え、一連の行動に繋がったとする説が提唱されている[7]。また、薩摩を討つ覚悟はあっても、朝敵の汚名を恐れて天皇(を擁した官軍)に対峙する覚悟が無かったとする説もある[11]

しかし、結局のところ慶喜を朝敵とする追討令が正式に下り、東征大総督有栖川宮熾仁親王に率いられた新政府軍が東征を開始する。慶喜は、小栗忠順を初めとする抗戦派を抑えて朝廷への恭順を主張。2月には勝海舟に事態収拾を一任して自らは上野の寛永寺大慈院において謹慎する。また、徳川宗家の家督は養子である田安亀之助(後の徳川家達)に譲ることになった。

江戸総攻撃の前に行なわれた勝と新政府軍参謀西郷隆盛との交渉により、江戸城は4月11日に新政府軍に明け渡された。彰義隊や旧幕臣の暴発を恐れた慶喜は4月11日午前3時に寛永寺大慈院を出て水戸へ向かった。水戸では弘道館の至善堂にて引き続き謹慎した後、7月に徳川家が駿府に移封されると、慶喜も駿河の宝台院に移って謹慎した。これにより、徳川家による政権は幕を閉じた。

以後、幕府制度や征夷大将軍の官職は廃止され、慶喜は日本史上最後の征夷大将軍となった。

余生

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晩年の有爵者大礼服を着た慶喜

明治2年(1869年)9月、戊辰戦争の終結を受けて謹慎を解除され[12]、引き続き、駿府改め静岡に居住した。生存中に将軍職を退いたのは11代・家斉以来であるが、過去に大御所として政治権力を握った元将軍達とは違い、政治的野心は全く持たず、潤沢な隠居手当を元手に写真狩猟投網囲碁謡曲など趣味に没頭する生活を送り、「ケイキ様」と呼ばれて静岡の人々から親しまれた。一方で旧幕臣の訪問を受けても渋沢栄一など一部の例外を除いては、ほとんど会おうとしなかった。共に静岡に移り住んだ旧家臣達の困窮にも無関心で、「貴人情を知らず」と怨嗟の声も少なくなかった。

明治30年(1897年)11月に東京巣鴨に移り住む。翌年には有栖川宮威仁親王の仲介により、皇居となった旧江戸城に参内して明治天皇に拝謁もしている。

明治34年(1901年)12月に小石川区小日向第六天町(現在の文京区春日2丁目)の高台の屋敷に転居し、ここが終焉の地となった。現在、敷地の大半は国際仏教学大学院大学になっている。明治35年(1902年)には公爵に叙せられ、徳川宗家とは別に徳川慶喜家を興し、貴族院議員にも就いて、35年振りに政治に携わることになった。

明治43年(1910年12月8日、七男の慶久に家督を譲って貴族院議員を辞し、隠居。再び趣味に没頭する生活をおくる。

大正2年(1913年11月22日感冒(急性肺炎を併発した)にて死去[13]。享年77(満76歳25日)。徳川歴代将軍としては最長命であった。

年譜

※明治5年までは天保暦長暦の月日表記。

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慶応3年(1867年)大阪での慶喜

栄典

人物

名前

幼名七郎麻呂(しちろうまろ、七郎麿とも)。元服後、初めは実父・徳川斉昭の1字を受けて松平昭致(あきむね)と名乗っていた。その後、一橋徳川家を継ぐ際に当時の将軍・徳川家慶から偏諱(「慶」の1字)を賜い、(「慶」の字が「よろこぶ」の意味を持つことから「よろこぶ」が2つでめでたいの意で)慶喜と改名した。

「慶喜」は「よしのぶ」あるいは通称として「けいき」(有職読み)とも読む。出身地である水戸では「よしのぶ」と呼ばれることが多いが、余生を送った静岡では「けいき」と呼ばれることが多い。

生前の慶喜を知る人によると、慶喜本人は「けいき様」と呼ばれるのを好んだらしく、弟・徳川昭武に当てた電報にも自分のことを「けいき」と名乗っている。慶喜の後を継いだ七男・慶久も慶喜と同様に周囲の人々から「けいきゅう様」と呼ばれていたといわれる。「けいき様」と「けいきさん」の2つの呼び方が確認でき、現代においても少なくなりつつあると思われるが「けいきさん」の呼び方が静岡に限らず各地で確認できる。司馬遼太郎は「『けいき』と呼ぶ人は旧幕臣関係者の家系に多い」とするが、倒幕に動いた肥後藩の関係者も「けいき」と呼んでいたことや福沢諭吉の『福翁自伝』でも、「慶喜さん」と書いて「けいき」と振り仮名を振っている箇所(313頁)が確認できる。

また、将軍在職中、江戸幕府の公式な文書等には「よしひさ」と読んだとの記録が残っている。本人によるアルファベット署名英字新聞にも「Yoshihisa」の表記が残っている[注釈 9](他、『永代日用新選明治節用無尽蔵[注釈 10]』という節用集には、「のりよし」という訓みが記されている。)。このように「喜」を「ひさ」と読む説についてはこの字を与えられた以下の二名についても同じことが言える。

偏諱を与えた人物

幼年時代

  • 武芸や学問を学ぶことに関しては最高の環境で生まれ育ち、様々な武術の中から手裏剣術に熱心で、手裏剣の達人だった。大政奉還後も、毎日額に汗して手裏剣術の修練を行ない、手裏剣術の達人たちの中で最も有名な人物に数えられる。
  • 寝相が悪く、躾に厳しかった父の斉昭が、寝相を矯正するために寝る際には枕の両側に剃刀の刃を立てさせた。本人は眠った時を見計らって剃刀は取り外すだろうと察知していたが、寝心地は悪く、これを繰り返していくうちに寝相の悪さを克服できた[19]。このことは、側近であった澁澤榮一の残す『昔夢会筆記』にも記述がある。慶応2年、29歳で将軍に就任したのちも、緊張感を保つためにこの習慣を続けていたという[20]。一方、成人してからは寝る際に暗殺対策として、妻妾二人とYの字になるよう三人で同衾していた[注釈 11]という逸話も伝えられる。また、利き手である右腕を守れるよう、右肩を下にして寝ていたともいう[20]
  • 幼少の頃の慶喜とされる写真が存在するが、彼が幼少の頃の日本に写真機はまだなかったと考えられるため、本人のものであるかどうかは疑わしい。

一橋家当主として

  • 病に倒れた家茂の見舞いに訪れたことがあり、その時は普通に会話したという。
  • 文久3年(1863年)末から翌年3月まで京都に存在した、雄藩最高実力者の合議制であった参預会議の体制は、参預諸侯間の意見の不一致からなかなか機能しなかったが、これを危惧した朝廷側の中川宮は、問題の不一致を斡旋しようと2月16日参預諸侯を自邸に招き、酒席を設けた。この席上、泥酔した慶喜は中川宮に対し、島津久光・松平春嶽・伊達宗城を指さして「この3人は天下の大愚物・大奸物であり、後見職たる自分と一緒にしないでほしい」と暴言を吐いた。この発言によって久光が完全に参預会議を見限る形となり、春嶽らが関係修復を模索するが、結局体制は崩壊となった。

将軍として

  • 英邁さで知られ、実父・斉昭の腹心・安島帯刀は、慶喜を「徳川の流れを清ましめん御仁」と評し、幕威回復の期待を一身に背負い鳴物入りで将軍位に就くと、「権現様の再来」とまでその英明を称えられた。慶喜の英明は倒幕派にも知れ渡っており、特に長州藩の桂小五郎は「一橋慶喜の胆略はあなどれない。家康の再来をみるようだ」と警戒していた。
  • 鳥羽・伏見の戦い後の「敵前逃亡」など惰弱なイメージがあったが、大政奉還後に新たな近代的政治体制を築こうとしたことなどが近年クローズアップされ、加えて大河ドラマの放送などもあり、再評価する動きもある。
  • 慶応の改革の一環として建築された横須賀製鉄所は明治政府に引き継がれ、現在もその一部が在日米軍利用されている。また同時期に幕府陸軍の人員増強やフランス軍事顧問団の招聘が行われたことで、多くの幕臣が西洋式の軍事教育を受ける機会に恵まれた。その中から山岡鉄舟大鳥圭介津田真道など、のちに明治政府の官吏・軍人として活躍する人材が輩出されており、明治維新により事実上頓挫した慶応の改革は日本の近代化に少なからず貢献した。
  • 坂本龍馬は大政奉還後の政権を慶喜が主導することを想定していたと指摘する研究者もいる[21]。司馬遼太郎の作品では「大樹(将軍)公、今日の心中さこそと察し奉る。よくも断じ給へるものかな、よくも断じ給へるものかな。予、誓ってこの公のために一命を捨てん」との龍馬の評価が引用された。これは坂崎紫瀾が著した容堂伝『鯨海酔候』や渋沢栄一らによって書かれた『徳川慶喜公伝』で紹介されている。ただし、慶喜自身が龍馬の存在を知ったのは明治になってからと言われる。

新政府軍との戦い

  • 鳥羽・伏見の戦いの最中に大坂から江戸へ退去したことは「敵前逃亡」と敵味方から大きく非難された。この時、家康以来の金扇の馬印は置き忘れたが、お気に入りの愛妾は忘れずに同伴していた、と慶喜の惰弱さを揶揄する者もあった。しかしこの時、江戸や武蔵での武装一揆に抗する必要があったことや、慶喜が朝敵となったことによって諸大名の離反が相次いでおり、たとえ大坂城を守れても長期戦は必至で、諸外国の介入を招きかねなかったことから、やむを得なかったという見方もある。
  • 新政府から「朝敵」とされるとすぐに寛永寺に謹慎した事などから、天皇や朝廷を重んじていたと考えられる(尊王思想である水戸学や、母親が皇室出身であることなどが多分に影響していると思われる)。

明治維新後

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弓を引く慶喜。弓術は毎日150本射るのを日課としていた。晩年医者にやり過ぎを指摘され100本に減らし、100本射るのに3時間かかったと言う。
  • 実業家の渋沢栄一は一橋家の当主だった頃に家臣である平岡円四郎の推挙によって登用した家臣で、明治維新後も親交があった。渋沢は慶喜の晩年、慶喜の伝記の編纂を目指し、渋る慶喜を説得して直話を聞く「昔夢会」を開いた。これをまとめたのが『昔夢会筆記』である。座談会形式で記録されている一部の章では、老齢の慶喜のいわば肉声に触れることができる。「島津久光はあまり好きじゃなかった」「鍋島直正はずるい人だった」と本音を漏らすなど、彼の性格と当時の心境が窺える。慶喜の死後、こうした資料を基に『徳川慶喜公伝』が作られた。
  • 恭順謹慎、江戸無血開城などにより、無血革命に近い状態で政権移譲できたことから、近代日本の独立性が守られ、維新への功績は大きいと評価された。
    • 渋沢栄一、萩野由之は、慶喜の恭順により、京都や江戸が焦土なることをまぬがれ、また、フランスの援助を拒絶したため、外国の介入がなかったとし、維新最大の功績者の一人であったと述べ、特に渋沢は安政の大獄と明治維新の際の謹慎の態度も高く評価している[22][23]
    • 鳥谷部春汀は第二の関ヶ原の戦いを回避できたのは慶喜の功績であるなど、行跡・人格・才能とともに日本史上最大の人物の一人と記している[24]
    • 勝海舟は、皇居参内の翌日、慶喜がわざわざ訪ねて来て、礼を言われたため、生きていた甲斐があったとうれし涙をこぼし、品位を保ちむやみに旧大名と行き来しないようという忠告には、その通りにします、と言われ、書も頼まれたため、うれし涙を飲み込み、さすが水戸家で養育された方だけある、と感心した[25]
    • 菊池謙二郎は『水戸学論藪』において「ああ他人をして慶喜公の地位に在らしめたらどうであったろう。(略)一意皇室を思い国家を憂えられた其の至誠は、何人が企及し得る所であろうか」と評価している[26]
  • 朝敵とされた自分を赦免した上、華族の最高位である公爵を親授した明治天皇に感謝の意を示すため、慶喜は自分の葬儀を仏式ではなく神式で行なうよう遺言した。このため、慶喜の墓は徳川家菩提寺である増上寺でも寛永寺でもなく、谷中霊園に皇族のそれと同じような円墳が建てられた。京都で歴代天皇陵が質素であることを見て感動したためである[27]。したがって凡例の「寛永寺」は誤りである。

逸話

  • 父・斉昭と同じく薩摩産の豚肉が好物で、豚一様(ぶたいちさま、「豚肉がお好きな一橋様」の意)と呼ばれた。西洋の文物にも関心を寄せ、晩年はパンと牛乳を好み、カメラによる写真撮影・釣り・自転車・顕微鏡・油絵・手芸(刺繍)などの趣味に興じた。
  • 将軍時代の慶応3年(1867年)3月から、西周フランス語を習い、すぐに初歩は理解したが、多忙なため学習を断念した[27]
  • 攘夷論をめぐり、孝明天皇の側近である中川宮が前日の会談での発言を撤回していることを知った26歳の時、茶碗5杯ほどの冷酒を飲み、帯刀して馬で親王家に押し入り、「殺しに来た!」と詰め寄るもなだめられ、お茶を勧められると「自分で買って飲む」と言った。
  • 鳥羽・伏見の戦いにおいて軍艦開陽丸で江戸へ退却後、江戸城に入った慶喜は、蒲焼を取り寄せるように奥詰の者に命じ、二分の金を渡したが、時期はずれで一両でなければ入手できず、自らの金を加えて買いもとめた。また慶喜からの刺身を食べたいとの指示があったが、食中毒をおそれて刺身を食膳にあげた例はなく、そのため刺身を味噌づけにして食膳にそなえた。
  • 静岡に住んでいる時、家臣達と一緒に愛用の自転車でサイクリングした(家臣達は走っていた)。その自転車を購入した自転車店は、現在の静岡市葵区紺屋町にあり、近年まで営業していた。
  • 東京・墨田区の向島百花園には慶喜が書いた「日本橋」の文字が彫られた石柱が保存されている。実際に橋として使われていたものである。
  • 趣味としての写真撮影を日常としたがあまり上達しなかった。写真雑誌にもたびたび投稿したが、なかなか採用されなかった。こうした趣味に没頭する生活の中で実弟・昭武との交流を深めていった。なお、曾孫の徳川慶朝はフリーのカメラマンであり、彼によって慶喜の撮影分も含めて徳川慶喜家に所蔵されていた写真類が発見され、整理と編集を行なった上で出版された。写真家の長野重一によれば腕前はセミプロ並みとの評価であるが写真集『将軍が撮った明治』(朝日新聞社)を見る限り、写真が芸術性を帯びてくるのは晩年からであり、単に日記代わりとして撮っていたと、評価している。
  • 油絵にも嗜み、慶喜作とされる油彩画が10点弱確認されている[注釈 12]。最初は武家のならいで、狩野派狩野探淵に絵を学んだ後、静岡では開成所で西洋画法を身につけた中島仰山(鍬次郎)を召して油絵を学んだ。当時は元将軍であっても西洋画材は入手しづらく、時には似たもので代用したという。慶喜の絵は、複数の手本を寄せ集めて絵を構成しており、その結果遠近法陰影法が不揃いで、画面全体の統一を欠くことが多い。反面、樹の枝や草、岩肌、衣の襞など、細部描写は丁寧で、現代の目では不思議な印象を与える絵となっている。モチーフに川や山がよく登場する事や、絵から絵を作る作画方法から、油絵という西洋の画法を使いつつも、作画姿勢は山水画を貴ぶ近世の文人の意識が強く残っているといえる。なお、慶喜の風景画の殆どに決まって橋が描かれており、近世から近代への橋渡しをした慶喜と故ありげな符号である[28]
  • 北海道江差町の国道229号に、名前に因んだ「慶喜トンネル」が存在する。
  • 大正5年(1916年)に徳川慶久により「徳川慶喜公歌集」が編纂され、平成25年(2013年)に松戸市戸定歴史館から解題等を付けた復刻本が限定500部で刊行された[29]
  • 関東大震災で多数の蔵書を焼失した東京大学附属図書館のため、紀州徳川家の蔵書を基とした10万点に及ぶ『南葵文庫』が、当時の当主徳川頼倫により寄贈された。この時一緒に慶喜筆の『南葵文庫』という額が送られ、現在も同館の1階に懸けられている[30]

家庭・親族

正室の美賀子は権大納言今出川公久の女だが、いったん関白一条忠香の養女となってから慶喜に嫁いだため、明治天皇の皇后となった忠香の三女一条美子の義姉にあたる。。この正室のとの間には安政5年に生後5日で夭折した女子がいるのみで、明治になって誕生した10男11女はすべて二人の側室新村信中根幸との間に儲けた子女である。

徳川慶喜公爵家を継いだのは七男・慶久で、この慶久の長女が昭和天皇の次弟高松宮宣仁親王に嫁いだ喜久子妃である。

  • 正室:一条美賀(維新後に美賀子と改名、安政2年12月3日結婚、今出川公久女、一条忠香養女、天保6年7月19日 - 明治27年7月9日)
    • 女子:瓊光院殿池水影現大童女(安政5年7月16日 - 20日)
  • 側室:一色須賀(一色貞之助定住女、天保9年4月26日 - 昭和4年10月7日)
  • 側室:新村信(松平政隆女、新村猛雄養女、嘉永5年頃 - 明治38年2月8日)
    • 長男:敬事(明治4年6月29日 - 明治5年5月22日)
    • 長女:鏡子(明治20年3月23日結婚、徳川達孝室、明治6年6月2日 - 明治26年9月29日)
    • 三女:鉄子(明治23年12月30日結婚、徳川達道一橋茂栄の子)室、明治8年10月27日 - 大正10年12月10日)
    • 五男:仲博(鳥取藩主家池田氏第14代当主、侯爵・貴族院議員、大正天皇侍従長、明治23年2月25日池田輝知養子、明治10年8月28日 - 昭和23年1月1日)
    • 六男:斉(明治11年8月17日 - 11月28日)
    • 六女:良子(明治13年8月24日 - 9月29日)
    • 九女:経子(明治30年1月9日結婚、伏見宮博恭王妃、明治15年9月23日 - 昭和14年8月18日)
    • 七男:慶久(公爵・貴族院議員、華族世襲財産審議会議長、明治17年9月2日 - 大正11年1月22日)
    • 十一女:英子(明治44年4月29日結婚、徳川圀順室、明治20年3月22日 - 大正13年7月5日)
    • 十男:(伯爵、浅野セメント重役、明治32年1月20日勝海舟婿養子、明治21年8月23日 - 昭和7年7月11日)
  • 側室:中根幸(中根芳三郎長女、嘉永4年頃 - 大正4年12月29日)
    • 次男:善事(明治4年9月8日 - 明治5年3月10日)
    • 三男:琢磨(明治5年10月5日 - 明治6年7月5日)
    • 四男:(男爵・貴族院議員、東明火災保険取締役、明治7年2月21日 - 昭和5年6月12日)
    • 次女:金子(明治8年4月3日 - 明治8年7月22日)
    • 四女:筆子(明治28年12月26日結婚、蜂須賀正韶室、明治9年7月17日 - 明治40年11月30日)
    • 五女:脩子(明治11年8月17日 - 明治11年10月8日)
    • 七女:浪子(明治28年12月7日結婚、松平斉松平斉民の九男)室、明治13年9月17日 - 昭和29年1月13日)
    • 八女:国子(明治34年5月7日結婚、大河内輝耕大河内輝声の長男)室、明治15年1月23日 - 昭和17年9月11日)
    • 十女:糸子(明治39年5月19日結婚、四条隆愛室、明治16年9月18日 - 昭和28年10月11日)
    • 死産:男子(明治17年8月22日死産)
    • 八男:寧(明治18年9月22日 - 明治19年7月2日)
    • 九男:(男爵・貴族院議員、明治20年10月31日 - 昭和43年11月11日)
    • 死産:女子(明治24年6月2日死産)
  • 外妾:お芳新門辰五郎女)

テンプレート:徳川慶喜の系譜

徳川慶喜を主題とした作品

小説
テレビドラマ

脚注

注釈

  1. 慶喜は初代高松藩主・松平頼重の四男・松平頼侯(よりとし)の男系男子。
  2. 父の正室が生母である将軍は第3代・家光以来。
  3. 「水戸様系譜」(『徳川諸家系譜』収録)など一部史料には「七郎麿」と表記されているが慶喜自身は「七郎麻呂」と署名している。また御三家・御三卿の当主と嫡男以外は松平姓を称えることになっていた。
  4. 原文は「骨折れ候故、(中略)天下を取り候て後、仕損じ候よりは、天下を取らざる方、大いに勝るかと存じ奉り候」[1]
  5. 家茂が後継に指名した田安亀之助(後の徳川家達)を推す大奥を中心とする反慶喜勢力や慶喜の将軍就任を強硬に反対する水戸藩の動きなど、慶喜に向けられた強い反感が将軍職固辞に大きく関わっていた[4]
  6. ただし400万石全納を松平春嶽らが努力し200万石半納にする。
  7. 後に慶喜は回顧録の中で、「討薩表はあの時分勢いで実はうっちゃらかしておいた」と語っている[9]
  8. 徳川慶喜 叙正二位位記袖書
    從三位源慶喜

      右可正二位
    中務受將家系揚武威名亦抽忠誠能護禁闕
    宜授榮爵式表殊恩可依前件主者施行
    慶應二年十二月五日

    (訓読文)従三位源慶喜(徳川慶喜 同日、権中納言から権大納言に転任)、右正二位にすべし、中務、将家系(将軍家当主)を受け、武威の名を揚げ、亦忠誠に抽んで能(よ)く禁闕(きんけつ 朝廷)を護る、宜しく栄爵を授くべし、式(もっ)て殊恩(しゅおん)を表はす、前件に依り主者施行すべし、慶応2年(1866年)12月5日

    — 平田職修日記
  9. 例えば、太田才次郎編集、明治三八年博文館発行の『新式いろは引節用辞典』(内題による)835ページに「よしひさ」という訓読みがみられる。 明治八年十一月の『仮名傍訓 公布の写』(鈴邨憲章輯)はすべて「とくがは よしひさ」の振り仮名で通す。 日新真事誌を創刊したジョン・レディ・ブラックによる『YOUNG JAPAN. YOKOHAMA AND YED. (1880)』の巻頭に添えられた写真には“HIS HIGHNESS THE LAST SHOGUN.”というキャプションとともに、“…Hitotsubashi, Yoshi-nobu, Yoshi-hisa; and subsequently known as Keikisama.…”という紹介がつけられている[17]
  10. 風月荘左衛門という京都府平民が編集・出版した節用辞書。本文のものは明治十六年刊。「十五代 慶喜(ノリヨシという訓 ※筆写註) 水戸斉昭六男中納言 ●二年 ○四十才」という記述がある。十二代将軍は「家慶(イヘノリ)」[18]
  11. 部屋のどこから刺客が入ってきても、始め誰かに当たり刺客到来にいち早く気づけるため。
  12. 公的機関にある作品として、「蓮華之図」(寛永寺蔵)、「西洋雪景図」(福井市郷土歴史資料館蔵、明治3年慶喜から松平春嶽に送られた作品)、「河畔風景」(茨城県立歴史館蔵)、「西洋風景」「日本風景」(共に久能山東照宮蔵)、「風景」(静岡県立美術館蔵)の他、個人蔵が数点ある。

出典

  1. 奈良, p. 238.
  2. 奈良, p. 240.
  3. 7.0 7.1 奈良, p. 323.
  4. 新人物往来社『徳川十五代将軍グラフティー』 P.143
  5. 角川まんが学習シリーズ『日本の歴史 12 』p.47
  6. 新人物往来社『徳川十五代将軍グラフティー』 P.144
  7. 「第942 徳川慶喜ノ謹慎ヲ免ス」『法令全書 明治2年』内閣官報局、p.384
  8. 篠田達明『徳川将軍家十五代のカルテ』(新潮新書2005年5月、ISBN 978-4106101199)より。また、謎解き!江戸のススメBS-TBS2015年3月9日放送)でも紹介された。
  9. 『官報』第5091号、明治33年6月23日。
  10. 『官報』第7272号「叙任及辞令」1907年9月23日。
  11. 『官報』第398号「叙任及辞令」1913年11月25日。
  12. 山田俊雄『ことば散策』岩波書店,1999,p182
  13. 山田[1999],pp182-183)
  14. 渋沢栄一『徳川慶喜公伝 第4巻』平凡社〈東洋文庫 107〉、1968年、p416。田中彰『明治維新の敗者と勝者』1980年、日本放送出版協会〈NHKブックス368〉。『人物日本の歴史19』小学館、1974年、『徳川慶喜―将軍家の明治維新(増補版)』9頁
  15. 20.0 20.1 【トリビアの泉】徳川慶喜は寝相を直すため 枕の両脇にカミソリを立てて寝ていた
  16. 松浦玲『坂本龍馬』
  17. 渋沢栄一. “『至誠と努力』「故徳川慶喜公の大偉勲」”. 国立国会図書館近代デジタルライブラリー. . 2015-3-8閲覧.
  18. 萩野由之. “『読史の趣味』「徳川慶喜公の偉大なる功績」”. 国立国会図書館近代デジタルライブラリー. . 2015-3-8閲覧.
  19. 『春汀全集』・3巻収録「徳川慶喜公」”. 国立国会図書館近代デジタルライブラリー. . 2015-3-8閲覧.
  20. 楫東正彦. “『海舟言行録』「徳川慶喜公」”. 国立国会図書館近代デジタルライブラリー. . 2015-3-8閲覧.
  21. 水戸学論藪”. 国立国会図書館近代デジタルライブラリー. . 2015-3-8閲覧.
  22. 27.0 27.1 渋沢栄一. “『徳川慶喜公伝』1918年版”. 国立国会図書館近代デジタルライブラリー. . 2015-3-8閲覧.
  23. 山梨絵美子 「徳川慶喜」(辻惟雄編集 『幕末・明治の画家たち 文明開化のはざまに』 ぺりかん社、1992年12月、pp.131-161。 静岡市美術館ほか編集 『NHK静岡放送局開局80周年記念 静岡市美術館開館記念展:2 家康と慶喜 徳川家と静岡展』図録、2010年。
  24. ““最後の将軍”の159首復刻 「慶喜公歌集」を新装版に 1世紀経てネットで発掘 松戸・戸定歴史館”. 千葉日報. (2013年12月9日). オリジナル2015年3月7日時点によるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20150307202715/http://www.chibanippo.co.jp/news/local/169825 . 2013閲覧. 
  25. 東京大学総合図書館『歴史を物語るものたち(1階)』, 平成28年7月22日閲覧。

参考文献

  • 渋沢栄一編 『昔夢会筆記―徳川慶喜公回想談』、大久保利謙校訂、平凡社〈平凡社東洋文庫〉、1966年 ISBN 4-582-80076-9
  • 渋沢栄一編 『徳川慶喜公伝』 平凡社東洋文庫 全4巻、1976-78年
    • 『徳川慶喜公伝 史料篇』 日本史籍協会編、東京大学出版会、新装版1997年、なお初版は1918年
  • 徳川慶喜写真、徳川慶朝監修 『将軍が撮った明治―徳川慶喜公撮影写真集』 朝日新聞社、1986年 ISBN 4-02-255559-9
  • 徳川慶朝 『徳川慶喜家の食卓』 文藝春秋〈文春文庫〉、2008年
    • 『徳川慶喜家にようこそ わが家に伝わる愛すべき「最後の将軍」の横顔』 文藝春秋〈文春文庫〉、2003年
    • 『徳川慶喜家カメラマン二代目』 角川oneテーマ新書、2007年
  • 松浦玲 『徳川慶喜―将軍家の明治維新 増補版』 中央公論社〈中公新書〉、1997年 ISBN 4-12-190397-8
  • 家近良樹 『徳川慶喜』 吉川弘文館〈幕末維新の個性1〉、2004年 ISBN 4-642-06281-5
  • 家近良樹 『徳川慶喜』 吉川弘文館(人物叢書)、2014年 ISBN 4642052704
  • 家近良樹 『その後の慶喜 大正まで生きた将軍』 講談社選書メチエ、2005年。ISBN 4-06-258320-8
    • 『その後の慶喜 大正まで生きた将軍』 筑摩書房〈ちくま文庫〉、2017年 ISBN 978-4-480-43422-7
  • 奈良勝司 『明治維新と世界認識体系』 有志舎、2010年。ISBN 978-4-903426-35-8。
  • 星亮一、遠藤由紀子 『最後の将軍徳川慶喜の無念 大統領になろうとした男の誤算』 光人社、2007年
  • 小西四郎編 『徳川慶喜のすべて』 新人物往来社、1984年、新装版1997年
  • 久住真也 『幕末の将軍』 講談社選書メチエ、2009年-幕末歴代将軍4人を扱う。
  • 田中惣五郎 『最後の将軍徳川慶喜』 中央公論社〈中公文庫〉、1997年、初版1939年
  • 岩下哲典編 『徳川慶喜 その人と時代』 岩田書院、1999年

関連項目

日本の爵位
先代:
叙爵
公爵
徳川(慶喜)家初代
1902年 - 1910年
次代:
徳川慶久

テンプレート:一橋徳川家

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