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{{基礎情報 武士
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[[ファイル:徳川慶喜.jpg|サムネイル]]
| 氏名 = 徳川慶喜
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'''徳川 慶喜'''(とくがわ よしのぶ)
| 画像 =Tokugawa_yoshinobu.jpg
 
| 画像サイズ =250px
 
| 画像説明 = 慶応3年(1867年)頃
 
| 時代 = [[江戸時代]]末期 - [[大正時代]]
 
| 生誕 = [[天保]]8年[[9月29日 (旧暦)|9月29日]]([[1837年]][[10月28日]])
 
| 死没 = [[大正]]2年([[1913年]])[[11月22日]]
 
| 改名 = 七郎麻呂([[幼名]])→ 松平昭致 → 徳川慶喜
 
| 別名 = 字:子邦、号:興山<br />通称:一橋慶喜
 
| 諡号 =
 
| 戒名 = なし
 
| 墓所 = [[寛永寺]]([[谷中霊園]])
 
| 官位 = [[参議]]、[[中納言|権中納言]]、[[正二位]]・[[大納言]]兼<br />[[近衛府|右近衛大将]]、[[征夷大将軍]]、[[内大臣]]、<br />[[従四位]]、正二位、[[従一位]](明治政府)
 
| 幕府 = [[江戸幕府]] 第15代征夷大将軍<br />(在任[[1867年]] - [[1868年]])
 
| 氏族 = [[徳川氏]]<br />([[水戸徳川家|水戸家]]→[[一橋徳川家|一橋家]]→[[徳川宗家|将軍家]]→[[徳川慶喜家|慶喜家]])
 
| 父母 = 父:[[徳川斉昭]]<br />母:[[吉子女王|登美宮吉子女王]]<br />養父:''[[徳川昌丸]]''''[[徳川家茂]]''
 
| 兄弟 = [[徳川慶篤]]、[[池田慶徳]]、'''徳川慶喜'''、<br />[[松平直侯]]、[[池田茂政]]、[[松平武聰]]、<br />[[徳川昭武]]、[[喜連川縄氏]]、[[松平昭訓]]、<br />[[徳川貞子]]([[有栖川宮熾仁親王]]妃)、<br />[[松平忠和 (島原藩主)|松平忠和]]、[[土屋挙直]]、[[松平喜徳]]、<br />[[松平頼之]]<br />義兄弟:''[[徳川茂承]]''、''[[華頂宮博経親王]]''
 
| 妻  = 正室:'''[[一条美賀子]]'''<br />側室:[[一色須賀]]、[[新村信]]、[[中根幸]]、[[#系譜|他]]
 
| 子  = [[徳川厚|厚]]、[[池田仲博]]、'''[[徳川慶久|慶久]]'''、[[徳川誠|誠]]、<br />[[勝精]]、鏡子、[[蜂須賀筆子]] [[#家庭・親族|その他]]<br />養子:'''''[[徳川茂徳|茂栄]]'''''、'''''[[徳川家達|家達]]'''''、[[徳川貞子|貞子]](異母妹)}}
 
  
'''徳川 慶喜'''(とくがわ よしのぶ)は、[[江戸幕府]]第15代[[征夷大将軍]](在職:慶応2年12月5日(1867年1月10日) ‐ 慶応3年12月9日(1868年1月3日))。江戸幕府最後の将軍かつ日本史上最後の征夷大将軍。
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江戸幕府 15代将軍(在職 1866~68)。[[徳川斉昭]]の 7男。母は有栖川宮王女登美宮吉子。幼名は七郎麿。弘化4(1847)年[[一橋家]]を相続。将軍[[徳川家定]]の死後,14代将軍の継嗣をめぐって慶福(のち[[徳川家茂]])を擁立する[[井伊直弼]]ら紀伊派と対立したが敗れた([[将軍継嗣問題]])。[[安政の大獄]]に際しては隠居謹慎を命じられたが,井伊の死後将軍後見役となった。家茂の死後,慶応2(1866)年12月5日将軍宣下。内政,外交にあたり,フランス公使レオン・[[ロッシュ]]の助言をいれて幕政の改革を行ない薩長と対抗したが,同 3年10月14日に政権の朝廷への返還を上表,翌 15日に[[大政奉還]]の勅許を得た。しかし 12月9日,討幕派とその同調者が優勢な御前会議で[[王政復古]]の大号令が発せられた([[小御所会議]])。同 4年1月[[鳥羽・伏見の戦い]]で敗北を喫し,朝廷に恭順。4月,家督を田安亀之助([[徳川家達]])に譲って駿府に移った。1902年公爵,1908年勲一等旭日大綬章。
  
徳川将軍の中で、在任中に江戸入城を果たさなかった唯一の将軍であり、また[[徳川家康|家康]]を上回って最も長命だった将軍である。
+
{{テンプレート:20180815sk}}
 
 
[[御三卿]][[一橋徳川家]]の第9代当主時に[[将軍後見職]]・[[禁裏御守衛総督]]など要職を務めた。[[徳川宗家]]を相続した約4ヶ月後に第15代将軍に就任。[[大政奉還]]や[[官軍|新政府軍]]への[[江戸開城]]を行なった。[[明治維新]]後に[[従一位]][[勲一等]][[公爵]]、[[貴族院 (日本)|貴族院議員]]。
 
 
 
== 生涯 ==
 
=== 幼年期 ===
 
[[天保]]8年([[1837年]])[[9月29日 (旧暦)|9月29日]]、[[江戸]]・小石川の[[水戸藩]]邸にて第9代藩主・[[徳川斉昭]]の七男として生まれた<ref group="注釈">慶喜は初代高松藩主・[[松平頼重]]の四男・[[松平頼侯]](よりとし)の男系男子。</ref>。
 
母は正室・[[吉子女王]]<ref group="注釈">父の正室が生母である将軍は第3代・[[徳川家光|家光]]以来。</ref>幼名は'''松平七郎麻呂'''(まつだいら しちろうまろ)<ref group="注釈">「水戸様系譜」(『徳川諸家系譜』収録)など一部史料には「七郎麿」と表記されているが慶喜自身は「七郎麻呂」と署名している。また御三家・御三卿の当主と嫡男以外は松平姓を称えることになっていた。</ref>。
 
 
 
尊敬する第2代藩主・光圀の教育方針を踏襲している斉昭の「子女は江戸の華美な風俗に馴染まぬように国許(水戸)で教育する」という教育方針に則り、天保9年([[1838年]])4月(生後7ヶ月)に江戸から水戸に移る。[[弘化]]4年(1847年)8月に幕府から一橋徳川家相続の含みで江戸出府を命じられるまで、9年間を同地で過ごした。この間、藩校・[[弘道館]]で[[会沢正志斎]]らに学問・武術を教授された。七郎麻呂の英邁さは当時から注目されていたようで、斉昭も他家の養子にせず長男・[[徳川慶篤|慶篤]]の控えとして暫時手許に置いておこうと考えていた。この間、七郎麻呂は父斉昭から[[偏諱]]を頂き、'''昭致'''と名乗る。
 
 
 
=== 一橋家相続 ===
 
[[弘化]]4年([[1847年]])[[8月1日 (旧暦)|8月1日]]、老中・[[阿部正弘]]から水戸藩に昭致を御三卿・一橋家の世嗣としたいとの第12代将軍・[[徳川家慶]]の思召(意向)が伝えられる。思召を受けて昭致は8月15日に水戸を発ち9月1日に一橋家を相続。[[12月1日 (旧暦)|12月1日]]に家慶から偏諱を賜わり'''慶喜'''と名乗る。
 
 
 
家慶はたびたび一橋邸を訪問するなど、慶喜を将軍継嗣の有力な候補として考えていたが、阿部正弘に諫言されて断念している。
 
 
 
=== 将軍継嗣問題 ===
 
{{main|将軍継嗣問題}}
 
[[嘉永]]6年([[1853年]])、[[黒船来航]]の混乱の最中に将軍・家慶が病死し、その跡を継いだ第13代将軍・[[徳川家定]]は病弱で男子を儲ける見込みがなく[[将軍継嗣問題]]が浮上する。慶喜を推す斉昭や阿部正弘、[[薩摩藩]]主・[[島津斉彬]]ら[[一橋派]]と、[[紀州藩]]主・[[徳川家茂|徳川慶福]]を推す[[彦根藩]]主・[[井伊直弼]]や家定の生母・[[本寿院 (徳川家慶側室)|本寿院]]を初めとする[[大奥]]の[[南紀派]]が対立した。
 
 
 
阿部正弘・島津斉彬が相次いで死去すると一橋派は勢いを失い、[[安政]]5年([[1858年]])に[[大老]]となった井伊直弼が裁定し、将軍継嗣は慶福(家茂)と決した。
 
 
 
同年、直弼は勅許を得ずに[[日米修好通商条約]]を調印。慶喜は斉昭、[[福井藩]]主・[[松平春嶽|松平慶永]]らと共に登城し直弼を詰問し翌・安政6年([[1859年]])に隠居謹慎処分が下る([[安政の大獄]])。この日は三卿の登城日であり斉昭や慶永と違って不時登城ではなく、罪状は不明のままの処分であった。
 
 
 
なお、慶喜本人は将軍継嗣となることに乗り気ではなかったのか「骨が折れるので将軍に成って失敗するより最初から将軍に成らない方が大いに良い」という主旨の手紙を斉昭に送っている{{Refnest|group="注釈"|原文は「骨折れ候故、(中略)天下を取り候て後、仕損じ候よりは、天下を取らざる方、大いに勝るかと存じ奉り候」<ref>{{要追加記述範囲|date=2016年12月|title=家近氏の書籍が2つ示されておりどちらかわからない。|家近p.22}}</ref>。}}。
 
 
 
=== 将軍後見職 ===
 
[[ファイル:Tokugawa_Yoshinobu_with_rifle.jpg|thumb|200px|禁裏御守衛総督時代の慶喜]]
 
安政7年([[1860年]])[[3月3日 (旧暦)|3月3日]]の[[桜田門外の変]]における井伊直弼の死を受け、[[万延]]元年(1860年)[[9月4日 (旧暦)|9月4日]]に謹慎を解除される。
 
 
 
[[文久]]2年([[1862年]])、[[島津久光]]と勅使・[[大原重徳]]が薩摩藩兵を伴って江戸に入り、勅命を楯に幕府の首脳人事へ介入、7月6日、慶喜を[[将軍後見職]]に、[[松平春嶽]]を[[政事総裁職]]に任命させることに成功した。慶喜と春嶽は[[文久の改革]]と呼ばれる幕政改革を行ない、[[京都守護職]]の設置、[[参勤交代]]の緩和などを行った。
 
 
 
文久3年([[1863年]])、攘夷の実行について朝廷と協議するため、[[徳川家茂]]が将軍としては230年ぶりに上洛することとなったが、慶喜はこれに先駆けて上洛し、将軍の名代として[[朝廷]]との交渉にあたった。慶喜は朝廷に対し、攘夷実行を含めた国政全般を従来通り幕府へ委任するか、政権を朝廷に返上するかの二者択一を迫った。しかし朝廷からは、幕府への大政委任を認める一方で「国事に関しては諸藩に直接命令を下すことがあり得る」との見解が表明され、逆に幕府は攘夷の実行を命じられるなど、交渉は不成功に終わった。春嶽が朝廷の要求に反発して政事総裁職の辞表を出す一方で、慶喜はこれを受け入れる姿勢をとり、江戸の幕閣の猛反発を招いた。しかし攘夷の実行は慶喜の本心ではなく、[[孝明天皇]]が[[石清水八幡宮]]へ行幸しての攘夷祈願において将軍が天皇から[[節刀]]を拝受してしまえば攘夷を決行せざるを得なくなるので「風邪発熱」(仮病)と称して家茂の拝謁を急遽取りやめさせている。
 
 
 
江戸に戻った慶喜は、攘夷拒否を主張する幕閣を押し切り、攘夷の実行方策として[[横浜港]]の鎖港方針を確定させる。[[八月十八日の政変]]で[[長州藩]]を中心とする[[尊皇攘夷派]]が排斥されたのち、[[公武合体]]派諸候・幕閣による[[参預会議]]に参加すべく再び上洛するが、ここでも横浜鎖港に反対する参預諸候の島津久光・松平春嶽らと慶喜は対立した。薩摩藩による朝廷の主導を警戒した慶喜は、参預諸候を朝廷から排除する動きをみせ、[[久邇宮朝彦親王|中川宮朝彦親王]]らとの酒席で故意に泥酔し、同席していた[[伊達宗城]]、春嶽、久光を罵倒、さらに中川宮に対し「島津からいくらもらっているんだ?」などと暴言を発して体制を崩壊に追い込むなど、手段を選ばぬ交渉を行なった。
 
 
 
=== 禁裏御守衛総督 ===
 
参預会議解体後の元治元年(1864年)3月25日、慶喜は将軍後見職を辞任し、朝臣的な性格を持つ[[禁裏御守衛総督]]に就任した。以降、慶喜は京都にあって[[武田耕雲斎]]ら水戸藩執行部や[[鳥取藩]]主・[[池田慶徳]]、[[岡山藩]]主・[[池田茂政]](いずれも徳川斉昭の子。慶喜の兄弟)らと提携し、幕府中央から半ば独立した勢力基盤を構築していく。江戸においては、盟友である政事総裁職・[[松平直克]]と連携し、朝廷の意向に沿って横浜鎖港を引き続き推進するが、[[天狗党の乱]]への対処を巡って幕閣内の対立が激化し、6月に直克は失脚、慶喜が権力の拠り所としていた横浜鎖港路線は事実上頓挫する{{sfn|奈良|p=238}}。
 
 
 
同年7月に起こった[[禁門の変]]において慶喜は御所守備軍を自ら指揮し、鷹司邸を占領している長州藩軍を攻撃する際は歴代の徳川将軍の中で唯一、戦渦の真っ只中で馬にも乗らず敵と切り結んだ。禁門の変を機に慶喜はそれまでの尊王攘夷派に対する融和的態度を放棄し、[[会津藩]]・[[桑名藩]]らとの提携が本格化することとなる([[一会桑政権|一会桑体制]]){{sfn|奈良|p=240}}。また[[老中]]の[[松平宗秀|本庄宗秀]]・[[阿部正外]]が兵を率いて上洛し、慶喜を江戸へ連行しようとしたが、失敗した。一方、長期化していた天狗党の乱の処理を巡っては、慶喜を支持していた武田耕雲斎ら水戸藩勢力を切り捨てる冷徹さを見せた。それに続く[[長州征討|第一次長州征伐]]が終わると、欧米各国が強硬に要求し、幕府にとり長年の懸案事項であった[[安政五カ国条約]]の勅許を得るため奔走した。慶喜は自ら朝廷に対する交渉を行い、最後には自身の切腹とそれに続く家臣の暴発にさえ言及、一昼夜に渡る会議の末に遂に勅許を得ることに成功したが、京都に近い兵庫の開港については勅許を得ることができず、依然懸案事項として残された。
 
 
 
=== 将軍職 ===
 
[[ファイル:TokugawaYoshinobu.jpg|thumb|200px|ナポレオン3世から贈られた軍服姿の慶喜]]
 
[[慶応]]2年([[1866年]])の[[長州征討#第二次長州征討|第二次長州征伐]]では、薩摩藩の妨害を抑えて慶喜が長州征伐の勅命を得る。しかし[[薩長同盟]]を結んだ薩摩藩の出兵拒否もあり、幕府軍は連敗を喫した。その第二次長州征伐最中の[[7月20日 (旧暦)|7月20日]]、将軍・家茂が[[大坂城]]で薨去する。慶喜は朝廷に運動して休戦の詔勅を引き出し、会津藩や朝廷上層部の反対を押し切る形で休戦協定の締結に成功する。
 
 
 
家茂の後継として、老中の[[板倉勝静]]、[[小笠原長行]]は江戸の異論{{Refnest|group="注釈"|家茂が後継に指名した田安亀之助(後の[[徳川家達]])を推す大奥を中心とする反慶喜勢力や慶喜の将軍就任を強硬に反対する水戸藩の動きなど、慶喜に向けられた強い反感が将軍職固辞に大きく関わっていた<ref>{{要追加記述範囲|date=2016年12月|title=家近氏の書籍が2つ示されておりどちらかわからない。|家近p.p.113-117}}</ref>。}}を抑えて慶喜を次期将軍に推した。慶喜はこれを固辞し、[[8月20日 (旧暦)|8月20日]]に[[徳川将軍家|徳川宗家]]は相続したものの将軍職就任は拒み続け、[[12月5日 (旧暦)|12月5日]]に将軍宣下を受けようやく将軍に就任した。これは言わば恩を売った形で将軍になることで政治を有利に進めていく狙いがあったと言われるが、就任固辞が「政略」によるとみなせる根拠も「政略」説を否定する根拠もないのが実情である<ref>{{要追加記述範囲|date=2016年12月|title=家近氏の書籍が2つ示されておりどちらかわからない。|家近p.116。}}</ref>。
 
この頃の慶喜ははっきりと開国を指向するようになっており、将軍職就任の受諾は開国体制への本格的な移行を視野に入れたものであった<ref>{{要追加記述範囲|date=2016年12月|title=家近氏の書籍が2つ示されておりどちらかわからない。|家近pp.140-141。}}</ref>。
 
 
 
慶喜政権は会津藩・桑名藩の支持のもと、朝廷との密接な連携を特徴としており、慶喜は将軍在職中一度も畿内を離れず、多くの幕臣を上洛させるなど、実質的に政権の畿内への移転が推進された。また、慶喜は将軍就任に前後して上級公家から側室を迎えようと画策しており、この間、彼に関白・摂政を兼任させる構想が繰り返し浮上した{{sfn|奈良|p=323}}。
 
一方、これまで政治的には長く対立関係にあった[[小栗忠順]]ら改革派幕閣とも連携し、[[慶応の改革]]を推進した。
 
 
 
慶喜はフランス公使・[[レオン・ロッシュ]]を通じてフランスから240万ドルの援助を受け、[[横須賀製鉄所]]や造・修船所を設立し、[[ジュール・ブリュネ]]を始めとする[[軍事顧問]]団を招いて軍制改革を行った。老中の月番制を廃止し、[[陸軍総裁]]・[[海軍総裁]]・会計総裁・国内事務総裁・外国事務総裁を設置した。また、実弟・昭武を[[パリ万国博覧会 (1867年)|パリ万国博覧会]]に派遣するなど幕臣子弟の欧州留学も奨励した。兵庫開港問題では朝廷を執拗に説いて勅許を得て、勅許を得ずに兵庫開港を声明した慶喜を糾弾するはずだった薩摩・越前・土佐・宇和島の[[四侯会議]]を解散に追い込んだ。
 
 
 
薩長が武力倒幕路線に進むことを予期した慶喜は慶応3年([[1867年]])[[10月14日 (旧暦)|10月14日]]、政権返上を[[明治天皇]]に奏上し翌日勅許された('''[[大政奉還]]''')。従来の通説的見解によれば、慶喜は当時の朝廷に行政能力が無いと判断し、列侯会議を主導する形での徳川政権存続を模索していたとされる。慶喜は緊迫する政治情勢下で内乱の発生を深く懸念しており<ref>{{要追加記述範囲|date=2016年12月|title=家近氏の書籍が2つ示されておりどちらかわからない。|家近p.177。}}</ref>、大政奉還による政治体制の再編はその打開策であった。
 
{{main|大政奉還}}
 
 
 
=== 戊辰戦争 ===
 
{{main|戊辰戦争}}
 
[[ファイル:Tokugawa Yoshinobu's escape.jpg|thumb|340px|[[月岡芳年]]『徳川治績年間紀事 十五代徳川慶喜公』<br>船で大坂を脱出する慶喜を描いた[[錦絵]]]]
 
大政奉還後の政治体制については諸侯会議によって定められるはずであったが、12月、薩摩藩らは[[クーデター|政変]]を起こし朝廷を制圧し慶喜を排除して新政府樹立を宣言([[王政復古 (日本)|王政復古]])。会議において「慶喜の辞官(内大臣・辞職)納地([[天領|幕府領]]・奉納)」が決定する<ref group="注釈">ただし400万石全納を松平春嶽らが努力し200万石半納にする。</ref>。
 
慶喜は衝突を避けるべく会津・桑名藩兵とともに大坂城に退去し、諸外国の公使らを集めて自身の正当性を主張した。慶喜は越前藩・土佐藩に運動して辞官納地を温和な形とし、年末には自身の[[議定]]就任(新政府への参画)がほぼ確定する。
 
 
 
しかし、翌・慶応4年([[1868年]])に薩摩藩の挑発に乗った慶喜は、会津・桑名藩兵とともに京都に向け進軍し、薩摩藩兵らとの武力衝突に至る。[[1月3日 (旧暦)|1月3日]]に勃発した[[鳥羽・伏見の戦い]]において旧幕府軍が敗退し形勢不利になったと見るや、まだ兵力を十分に保持しているにも関わらず、自らが指揮する旧幕府軍の兵に「千兵が最後の一兵になろうとも決して退いてはならぬ」と厳命する一方、自分は陣中に伴った側近や妾、老中の板倉勝静と[[酒井忠惇]]、会津藩主[[松平容保]]、桑名藩主[[松平定敬]]らと共に[[開陽丸]]で江戸に退却した{{Refnest|group="注釈"|後に慶喜は回顧録の中で、「討薩表はあの時分勢いで実はうっちゃらかしておいた」と語っている<ref>新人物往来社『徳川十五代将軍グラフティー』 P.143</ref>。}}。
 
なお、この時、開陽丸艦長の[[榎本武揚]]には江戸への退却を伝えず、武揚は戦地に置き去りにされた<ref>角川まんが学習シリーズ『日本の歴史 12 』p.47</ref>。
 
 
 
勝利の可能性が十分あったにも関わらず、慶喜がこのような[[敵前逃亡]]にも等しい行動をとった動機については幾つかの説がある。近年の研究では、慶喜政権が天皇の権威を掌中に収め、それに依拠することによってのみ成立していた政権であったとし、それを他勢力に譲り渡した時点で彼の政治生命は潰え、一連の行動に繋がったとする説が提唱されている{{sfn|奈良|p=323}}。また、薩摩を討つ覚悟はあっても、[[朝敵]]の汚名を恐れて天皇(を擁した官軍)に対峙する覚悟が無かったとする説もある<ref>新人物往来社『徳川十五代将軍グラフティー』 P.144</ref>。
 
 
 
しかし、結局のところ慶喜を朝敵とする追討令が正式に下り、[[東征大総督]]・[[有栖川宮熾仁親王]]に率いられた新政府軍が東征を開始する。慶喜は、小栗忠順を初めとする抗戦派を抑えて朝廷への恭順を主張。2月には[[勝海舟]]に事態収拾を一任して自らは上野の[[寛永寺]]大慈院において謹慎する。また、徳川宗家の家督は養子である田安亀之助(後の[[徳川家達]])に譲ることになった。
 
 
 
江戸総攻撃の前に行なわれた勝と新政府軍参謀[[西郷隆盛]]との交渉により、江戸城は4月11日に新政府軍に明け渡された。彰義隊や旧幕臣の暴発を恐れた慶喜は4月11日午前3時に[[寛永寺]]大慈院を出て水戸へ向かった。水戸では弘道館の至善堂にて引き続き謹慎した後、7月に徳川家が[[駿府]]に移封されると、慶喜も駿河の[[宝台院]]に移って謹慎した。これにより、徳川家による政権は幕を閉じた。
 
 
 
以後、幕府制度や征夷大将軍の官職は廃止され、慶喜は日本史上最後の征夷大将軍となった。
 
 
 
=== 余生 ===
 
[[ファイル:Yoshinobu Tokugawa 2.jpg|thumb|200px|晩年の有爵者[[大礼服]]を着た慶喜]]
 
[[明治]]2年([[1869年]])9月、戊辰戦争の終結を受けて謹慎を解除され<ref>「第942 徳川慶喜ノ謹慎ヲ免ス」[http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/787949/229 『法令全書 明治2年』内閣官報局、p.384]</ref>、引き続き、駿府改め[[静岡市|静岡]]に居住した。生存中に将軍職を退いたのは11代・[[徳川家斉|家斉]]以来であるが、過去に[[大御所 (江戸時代)|大御所]]として政治権力を握った元将軍達とは違い、政治的野心は全く持たず、潤沢な隠居手当を元手に[[写真]]・[[狩猟]]・[[投網]]・[[囲碁]]・[[謡曲]]など趣味に没頭する生活を送り、「'''ケイキ様'''」と呼ばれて静岡の人々から親しまれた。一方で旧幕臣の訪問を受けても[[渋沢栄一]]など一部の例外を除いては、ほとんど会おうとしなかった。共に静岡に移り住んだ旧家臣達の困窮にも無関心で、「貴人情を知らず」と怨嗟の声も少なくなかった。
 
 
 
明治30年([[1897年]])11月に[[東京市|東京]]の[[巣鴨]]に移り住む。翌年には[[有栖川宮威仁親王]]の仲介により、皇居となった旧江戸城に参内して明治天皇に拝謁もしている。
 
 
 
明治34年([[1901年]])12月に小石川区小日向第六天町(現在の[[文京区]][[春日 (文京区)|春日]]2丁目)の高台の屋敷に転居し、ここが終焉の地となった。現在、敷地の大半は[[国際仏教学大学院大学]]になっている。明治35年([[1902年]])には[[公爵]]に叙せられ、徳川宗家とは別に[[徳川慶喜家]]を興し、[[貴族院 (日本)|貴族院議員]]にも就いて、35年振りに政治に携わることになった。
 
 
 
明治43年([[1910年]])[[12月8日]]、七男の慶久に家督を譲って貴族院議員を辞し、隠居。再び趣味に没頭する生活をおくる。
 
 
 
[[大正]]2年([[1913年]])[[11月22日]]、[[風邪|感冒]](急性[[肺炎]]を併発した)にて死去<ref>[[篠田達明]]『徳川将軍家十五代のカルテ』([[新潮新書]]、[[2005年]][[5月]]、ISBN 978-4106101199)より。また、[[謎解き!江戸のススメ]]([[BS-TBS]]、[[2015年]][[3月9日]]放送)でも紹介された。</ref>。享年77(満76歳25日)。徳川歴代将軍としては最長命であった。
 
 
 
<gallery>
 
Tokugawa Yoshinobu-1.jpg|静岡市葵区にある徳川慶喜公屋敷跡(2018年7月10日撮影)
 
Tokugawa Yoshinobu-2.jpg|同左、石碑(2018年7月10日撮影)
 
</gallery>
 
 
 
== 年譜 ==
 
※明治5年までは[[天保暦]]長暦の月日表記。
 
* [[弘化]]4年([[1847年]])
 
** [[9月1日 (旧暦)|9月1日]]、[[一橋徳川家|一橋家]]を相続する。
 
** [[12月1日 (旧暦)|12月1日]]、慶喜に改名。同日、[[従三位]]・[[近衛府|左近衛権中将]]兼[[刑部省|刑部卿]]叙任。
 
* [[安政]]2年([[1855年]])[[12月3日 (旧暦)|12月3日]]、[[一条忠香]]の養女・[[一条美賀子|美賀]]と結婚。[[参議]]に補任。
 
* 安政4年([[1857年]])、[[徳川家定]]の後継問題で有力候補となる。
 
* 安政6年([[1859年]])[[8月27日 (旧暦)|8月27日]]、[[安政の大獄]]において隠居謹慎蟄居の処分を受ける。
 
* [[万延]]元年([[1860年]])[[9月4日 (旧暦)|9月4日]]、隠居謹慎蟄居解除。
 
* [[文久]]2年([[1862年]])
 
** [[7月6日 (旧暦)|7月6日]]、一橋家を再相続。同日、(勅命を受け)[[将軍後見職]]就任。
 
** 11月1日、[[中納言|権中納言]]に転任。
 
* 文久3年([[1863年]])12月、朝議参預就任。
 
* [[元治]]元年([[1864年]])
 
** [[3月9日 (旧暦)|3月9日]]、朝議参預辞任。
 
** [[3月25日 (旧暦)|3月25日]]、将軍後見職辞任。同日、[[禁裏御守衛総督]]・摂海防禦指揮転職。[[禁門の変]]では、抗戦の指揮をとった。
 
* [[慶応]]元年([[1865年]])、10月12日、従二位権大納言昇叙転任を固辞。
 
* 慶応2年([[1866年]])
 
** 7月晦日、禁裏御守衛総督辞職。
 
** [[8月20日 (旧暦)|8月20日]]、[[徳川将軍家|徳川宗家]]相続。
 
** [[12月5日 (旧暦)|12月5日]]、[[正二位]]・[[大納言|権大納言]]兼[[近衛大将|右近衛大将]]に叙任。同日、[[征夷大将軍]]就任<ref group="注釈">徳川慶喜 叙正二位位記袖書{{quotation|從三位源慶喜
 
  右可正二位<br />
 
中務受將家系揚武威名亦抽忠誠能護禁闕<br />
 
宜授榮爵式表殊恩可依前件主者施行<br />
 
慶應二年十二月五日<br />
 
 
 
(訓読文)従三位源慶喜(徳川慶喜 同日、権中納言から権大納言に転任)、右正二位にすべし、中務、将家系(将軍家当主)を受け、武威の名を揚げ、亦忠誠に抽んで能(よ)く禁闕(きんけつ 朝廷)を護る、宜しく栄爵を授くべし、式(もっ)て殊恩(しゅおん)を表はす、前件に依り主者施行すべし、慶応2年(1866年)12月5日|平田職修日記}}</ref>。
 
[[ファイル:1867_Osaka_Yoshinobu_Tokugawa.jpg|200px|thumb|慶応3年(1867年)大阪での慶喜]]
 
* 慶応3年([[1867年]])
 
** 9月21日、[[内大臣]]転任。右近衛大将如元。
 
** [[10月14日 (旧暦)|10月14日]]、[[大政奉還]]。
 
** [[12月9日 (旧暦)|12月9日]]、征夷大将軍職辞職。
 
* 慶応4年([[1868年]])[[4月11日 (旧暦)|4月11日]]、解官。
 
* [[明治]]2年([[1869年]])[[9月28日 (旧暦)|9月28日]]、謹慎解除。
 
* 明治5年([[1872年]])[[1月6日 (旧暦)|1月6日]]、[[従四位]]に復帰。
 
* 明治13年([[1880年]])[[5月18日]]、正二位昇叙。
 
* 明治21年([[1888年]])[[6月20日]]、[[従一位]]昇叙。
 
* 明治30年([[1897年]])[[11月19日]]、東京・巣鴨に移住。
 
* 明治31年([[1898年]])[[3月2日]]、[[明治天皇]]に30年5ヶ月ぶり(大政奉還以来)謁見。
 
* 明治33年([[1900年]])[[6月22日]]、[[麝香間祗候]]<ref>『官報』第5091号、明治33年6月23日。</ref>。
 
* 明治35年([[1902年]])[[6月3日]]、[[公爵]]受爵。徳川宗家とは別に「[[徳川慶喜家]]」の創設を許された。[[貴族院 (日本)|貴族院議員]]就任。
 
* 明治41年([[1908年]])[[4月30日]]、大政奉還の功により、明治天皇から[[勲一等旭日大綬章]]を授与される。
 
* 明治43年([[1910年]])[[12月8日]]、[[徳川慶久|慶久]]に家督を譲って貴族院議員を辞め、隠居。
 
* [[大正]]2年([[1913年]])[[11月22日]](午前4時10分)死去。同日、[[勲一等旭日桐花大綬章]]を授与される。
 
 
 
== 栄典 ==
 
* [[1906年]](明治39年)[[4月1日]] - [[旭日章|勲四等旭日小綬章]]<ref>『官報』第7272号「叙任及辞令」1907年9月23日。</ref>
 
* [[1913年]](大正2年)[[11月22日]] - [[勲一等旭日桐花大綬章|旭日桐花大綬章]]<ref>『官報』第398号「叙任及辞令」1913年11月25日。</ref>
 
 
 
== 人物 ==
 
=== 名前 ===
 
[[幼名]]は'''七郎麻呂'''(しちろうまろ、'''七郎麿'''とも)。元服後、初めは実父・[[徳川斉昭]]の1字を受けて'''松平昭致'''(あきむね)と名乗っていた。その後、[[一橋徳川家]]を継ぐ際に当時の将軍・[[徳川家慶]]から[[諱#偏諱|偏諱]](「慶」の1字)を賜い、(「慶」の字が「よろこぶ」の意味を持つことから「よろこぶ」が2つでめでたいの意で)'''慶喜'''と改名した。
 
 
 
「慶喜」は「'''よしのぶ'''」あるいは[[通称]]として「'''けいき'''」([[有職読み]])とも読む。出身地である[[水戸市|水戸]]では「よしのぶ」と呼ばれることが多いが、余生を送った[[静岡市|静岡]]では「けいき」と呼ばれることが多い。
 
 
 
生前の慶喜を知る人によると、慶喜本人は「けいき様」と呼ばれるのを好んだらしく、弟・[[徳川昭武]]に当てた[[電報]]にも自分のことを「けいき」と名乗っている。慶喜の後を継いだ七男・[[徳川慶久|慶久]]も慶喜と同様に周囲の人々から「けいきゅう様」と呼ばれていたといわれる。「けいき様」と「けいきさん」の2つの呼び方が確認でき、現代においても少なくなりつつあると思われるが「けいきさん」の呼び方が静岡に限らず各地で確認できる。[[司馬遼太郎]]は「『けいき』と呼ぶ人は旧[[幕臣]]関係者の家系に多い」とするが、[[倒幕]]に動いた[[肥後藩]]の関係者も「けいき」と呼んでいたことや[[福沢諭吉]]の『福翁自伝』でも、「慶喜さん」と書いて「けいき」と振り仮名を振っている箇所(313頁)が確認できる。
 
 
 
また、将軍在職中、江戸幕府の公式な文書等には「'''よしひさ'''」と読んだとの[[記録]]が残っている。本人による[[アルファベット]][[署名]]や[[英字]][[新聞]]にも「Yoshihisa」の表記が残っている{{refnest|group="注釈"|例えば、太田才次郎編集、[[1905年|明治三八年]][[博文館]]発行の『新式いろは引節用辞典』(内題による)835ページに「'''よしひさ'''」という訓読みがみられる。
 
 
 
[[1875年|明治八年]]十一月の『仮名傍訓 公布の写』(鈴邨憲章輯)はすべて「'''とくがは よしひさ'''」の振り仮名で通す。
 
日新真事誌を創刊したジョン・レディ・ブラックによる『YOUNG JAPAN. YOKOHAMA AND YED. (1880)』の巻頭に添えられた写真には“HIS HIGHNESS THE LAST SHOGUN.”というキャプションとともに、“…Hitotsubashi, Yoshi-nobu, '''Yoshi-hisa'''; and subsequently known as Keikisama.…”という紹介がつけられている<ref>山田俊雄『ことば散策』岩波書店,1999,p182</ref>。}}(他、『永代日用新選明治節用無尽蔵{{refnest|group="注釈"|風月荘左衛門という京都府平民が編集・出版した[[節用集|節用辞書]]。本文のものは[[1883年|明治十六年]]刊。「十五代 慶喜(ノリヨシという訓 ※筆写註) 水戸斉昭六男中納言 ●二年 ○四十才」という記述がある。[[徳川家慶|十二代将軍]]は「家慶(イヘノリ)」<ref>山田[1999],pp182-183)</ref>。}}』という節用集には、「'''のりよし'''」という訓みが記されている。)。このように「喜」を「ひさ」と読む説についてはこの字を与えられた以下の二名についても同じことが言える。
 
 
 
==== 偏諱を与えた人物 ====
 
*[[松平喜徳|松平'''喜'''徳]](実弟)
 
*[[細川護久|細川'''喜'''廷]]('''喜'''延とも、のちの細川護久)
 
 
 
=== 幼年時代 ===
 
* [[武芸 (日本)|武芸]]や学問を学ぶことに関しては最高の環境で生まれ育ち、様々な[[武術]]の中から[[手裏剣]]術に熱心で、手裏剣の達人だった。[[大政奉還]]後も、毎日額に汗して手裏剣術の修練を行ない、手裏剣術の達人たちの中で最も有名な人物に数えられる。
 
* 寝相が悪く、躾に厳しかった父の斉昭が、寝相を矯正するために寝る際には枕の両側に[[剃刀]]の刃を立てさせた。本人は眠った時を見計らって剃刀は取り外すだろうと察知していたが、寝心地は悪く、これを繰り返していくうちに寝相の悪さを克服できた<ref>渋沢栄一『徳川慶喜公伝 第4巻』平凡社〈東洋文庫 107〉、1968年、p416。田中彰『明治維新の敗者と勝者』1980年、日本放送出版協会〈NHKブックス368〉。『人物日本の歴史19』小学館、1974年、『徳川慶喜―将軍家の明治維新(増補版)』9頁</ref>。このことは、側近であった[[渋沢栄一|澁澤榮一]]の残す『昔夢会筆記』にも記述がある。[[1865年|慶応2年]]、29歳で将軍に就任したのちも、緊張感を保つためにこの習慣を続けていたという<ref name=":0">[http://blog.livedoor.jp/abacabu-abacabu/archives/37575484.html 【トリビアの泉】徳川慶喜は寝相を直すため 枕の両脇にカミソリを立てて寝ていた]</ref>。一方、成人してからは寝る際に[[暗殺]]対策として、妻妾二人と[[Y]]の字になるよう三人で同衾していた<ref group="注釈">部屋のどこから刺客が入ってきても、始め誰かに当たり刺客到来にいち早く気づけるため。</ref>という逸話も伝えられる。また、[[利き手]]である右腕を守れるよう、右肩を下にして寝ていたともいう<ref name=":0" />。
 
* 幼少の頃の慶喜とされる写真が存在するが、彼が幼少の頃の日本に写真機はまだなかったと考えられるため、本人のものであるかどうかは疑わしい。
 
 
 
=== 一橋家当主として ===
 
* 病に倒れた家茂の見舞いに訪れたことがあり、その時は普通に会話したという。
 
* 文久3年(1863年)末から翌年3月まで京都に存在した、雄藩最高実力者の合議制であった[[参預会議]]の体制は、参預諸侯間の意見の不一致からなかなか機能しなかったが、これを危惧した朝廷側の中川宮は、問題の不一致を斡旋しようと2月16日参預諸侯を自邸に招き、酒席を設けた。この席上、泥酔した慶喜は中川宮に対し、島津久光・松平春嶽・伊達宗城を指さして「この3人は天下の大愚物・大奸物であり、後見職たる自分と一緒にしないでほしい」と暴言を吐いた。この発言によって久光が完全に参預会議を見限る形となり、春嶽らが関係修復を模索するが、結局体制は崩壊となった。
 
 
 
=== 将軍として ===
 
* 英邁さで知られ、実父・斉昭の腹心・[[安島帯刀]]は、慶喜を「徳川の流れを清ましめん御仁」と評し、幕威回復の期待を一身に背負い鳴物入りで将軍位に就くと、「[[徳川家康|権現様]]の再来」とまでその英明を称えられた。慶喜の英明は倒幕派にも知れ渡っており、特に長州藩の[[木戸孝允|桂小五郎]]は「一橋慶喜の胆略はあなどれない。家康の再来をみるようだ」と警戒していた。
 
* [[鳥羽・伏見の戦い]]後の「[[敵前逃亡]]」など惰弱なイメージがあったが、大政奉還後に新たな近代的政治体制を築こうとしたことなどが近年クローズアップされ、加えて[[徳川慶喜 (NHK大河ドラマ)|大河ドラマ]]の放送などもあり、再評価する動きもある。
 
* [[慶応の改革]]の一環として建築された[[横須賀製鉄所]]は明治政府に引き継がれ、現在もその一部が[[在日米軍]]に[[横須賀海軍施設ドック|利用されている]]。また同時期に[[幕府陸軍]]の人員増強やフランス軍事顧問団の招聘が行われたことで、多くの幕臣が西洋式の軍事教育を受ける機会に恵まれた。その中から[[山岡鉄舟]]・[[大鳥圭介]]・[[津田真道]]など、のちに明治政府の官吏・軍人として活躍する人材が輩出されており、[[明治維新]]により事実上頓挫した慶応の改革は日本の近代化に少なからず貢献した。
 
* [[坂本龍馬]]は大政奉還後の政権を慶喜が主導することを想定していたと指摘する研究者もいる<ref>松浦玲『坂本龍馬』</ref>。司馬遼太郎の作品では「大樹(将軍)公、今日の心中さこそと察し奉る。よくも断じ給へるものかな、よくも断じ給へるものかな。予、誓ってこの公のために一命を捨てん」との龍馬の評価が引用された。これは[[坂崎紫瀾]]が著した容堂伝『鯨海酔候』や[[渋沢栄一]]らによって書かれた『徳川慶喜公伝』で紹介されている。ただし、慶喜自身が龍馬の存在を知ったのは明治になってからと言われる。
 
 
 
=== 新政府軍との戦い ===
 
* 鳥羽・伏見の戦いの最中に大坂から江戸へ退去したことは「敵前逃亡」と敵味方から大きく非難された。この時、家康以来の金扇の[[馬印]]は置き忘れたが、お気に入りの愛妾は忘れずに同伴していた、と慶喜の惰弱さを揶揄する者もあった。しかしこの時、江戸や[[武蔵国|武蔵]]での武装一揆に抗する必要があったことや、慶喜が朝敵となったことによって諸大名の離反が相次いでおり、たとえ大坂城を守れても長期戦は必至で、諸外国の介入を招きかねなかったことから、やむを得なかったという見方もある。
 
* 新政府から「朝敵」とされるとすぐに寛永寺に謹慎した事などから、天皇や朝廷を重んじていたと考えられる(尊王思想である水戸学や、母親が皇室出身であることなどが多分に影響していると思われる)。
 
 
 
=== 明治維新後 ===
 
[[ファイル:Yoshinobu Tokugawa 3.jpg|200px|thumb|狩猟姿の慶喜]]
 
[[ファイル:Yoshinobu Tokugawa 7.jpg|200px|thumb|弓を引く慶喜。[[弓術]]は毎日150本射るのを日課としていた。晩年医者にやり過ぎを指摘され100本に減らし、100本射るのに3時間かかったと言う。]]
 
* 実業家の[[渋沢栄一]]は一橋家の当主だった頃に家臣である[[平岡円四郎]]の推挙によって登用した家臣で、[[明治維新]]後も親交があった。渋沢は慶喜の晩年、慶喜の[[伝記]]の編纂を目指し、渋る慶喜を説得して直話を聞く「昔夢会」を開いた。これをまとめたのが『昔夢会筆記』である。座談会形式で記録されている一部の章では、老齢の慶喜のいわば肉声に触れることができる。「島津久光はあまり好きじゃなかった」「[[鍋島直正]]はずるい人だった」と本音を漏らすなど、彼の性格と当時の心境が窺える。慶喜の死後、こうした資料を基に『徳川慶喜公伝』が作られた。
 
* 恭順謹慎、江戸無血開城などにより、無血革命に近い状態で政権移譲できたことから、近代日本の独立性が守られ、維新への功績は大きいと評価された。
 
** 渋沢栄一、[[萩野由之]]は、慶喜の恭順により、京都や江戸が焦土なることをまぬがれ、また、フランスの援助を拒絶したため、外国の介入がなかったとし、維新最大の功績者の一人であったと述べ、特に渋沢は安政の大獄と明治維新の際の謹慎の態度も高く評価している<ref>{{Cite web |url= {{NDLDC|954890/274}}|author=渋沢栄一|title= 『至誠と努力』「故徳川慶喜公の大偉勲」|publisher=国立国会図書館近代デジタルライブラリー |accessdate=2015-3-8}}</ref><ref>{{Cite web |url= {{NDLDC|933652/155}}|author=萩野由之|title= 『読史の趣味』「徳川慶喜公の偉大なる功績」|publisher=国立国会図書館近代デジタルライブラリー |accessdate=2015-3-8}}</ref>。
 
** [[鳥谷部春汀]]は第二の関ヶ原の戦いを回避できたのは慶喜の功績であるなど、行跡・人格・才能とともに日本史上最大の人物の一人と記している<ref>{{Cite web |url= {{NDLDC|778041/88}}|title= 『春汀全集』・3巻収録「徳川慶喜公」|publisher=国立国会図書館近代デジタルライブラリー |accessdate=2015-3-8}}</ref>。
 
** 勝海舟は、皇居参内の翌日、慶喜がわざわざ訪ねて来て、礼を言われたため、生きていた甲斐があったとうれし涙をこぼし、品位を保ちむやみに旧大名と行き来しないようという忠告には、その通りにします、と言われ、書も頼まれたため、うれし涙を飲み込み、さすが水戸家で養育された方だけある、と感心した<ref>{{Cite web |url= {{NDLDC|781218/132}}|author=楫東正彦|title= 『海舟言行録』「徳川慶喜公」|publisher=国立国会図書館近代デジタルライブラリー |accessdate=2015-3-8}}</ref>。
 
** [[菊池謙二郎]]は『水戸学論藪』において「ああ他人をして慶喜公の地位に在らしめたらどうであったろう。(略)一意皇室を思い国家を憂えられた其の至誠は、何人が企及し得る所であろうか」と評価している<ref>{{Cite web |url= {{NDLDC|1038543}}|title=水戸学論藪 |publisher=国立国会図書館近代デジタルライブラリー |accessdate=2015-3-8}}</ref>。
 
* 朝敵とされた自分を赦免した上、華族の最高位である公爵を親授した明治天皇に感謝の意を示すため、慶喜は自分の葬儀を仏式ではなく神式で行なうよう遺言した。このため、慶喜の墓は徳川家菩提寺である[[増上寺]]でも[[寛永寺]]でもなく、[[谷中霊園]]に皇族のそれと同じような円墳が建てられた。京都で歴代天皇陵が質素であることを見て感動したためである<ref name="shibusawa">{{Cite web |url= {{NDLDC|1917763}}|author=渋沢栄一|title=『徳川慶喜公伝』1918年版|publisher=国立国会図書館近代デジタルライブラリー |accessdate=2015-3-8}}</ref>。したがって凡例の「寛永寺」は誤りである。
 
 
 
== 逸話 ==
 
* 父・斉昭と同じく薩摩産の豚肉が好物で、'''豚一様'''(ぶたいちさま、「豚肉がお好きな一橋様」の意)と呼ばれた。西洋の文物にも関心を寄せ、晩年はパンと牛乳を好み、カメラによる写真撮影・釣り・自転車・顕微鏡・油絵・手芸([[刺繍]])などの趣味に興じた。
 
* 将軍時代の慶応3年(1867年)3月から、[[西周 (啓蒙家)|西周]]に[[フランス語]]を習い、すぐに初歩は理解したが、多忙なため学習を断念した<ref name="shibusawa"/>。
 
* 攘夷論をめぐり、孝明天皇の側近である中川宮が前日の会談での発言を撤回していることを知った26歳の時、茶碗5杯ほどの冷酒を飲み、帯刀して馬で親王家に押し入り、「殺しに来た!」と詰め寄るもなだめられ、お茶を勧められると「自分で買って飲む」と言った。
 
* 鳥羽・伏見の戦いにおいて軍艦開陽丸で江戸へ退却後、江戸城に入った慶喜は、[[ウナギ|鰻]]の[[蒲焼]]を取り寄せるように奥詰の者に命じ、二分の金を渡したが、時期はずれで一両でなければ入手できず、自らの金を加えて買いもとめた。また慶喜から[[マグロ|鮪]]の刺身を食べたいとの指示があったが、食中毒をおそれて刺身を食膳にあげた例はなく、そのため刺身を味噌づけにして食膳にそなえた。
 
* 静岡に住んでいる時、家臣達と一緒に愛用の自転車でサイクリングした(家臣達は走っていた)。その自転車を購入した自転車店は、現在の静岡市[[葵区]]紺屋町にあり、近年まで営業していた。
 
* 東京・墨田区の[[向島百花園]]には慶喜が書いた「[[日本橋 (東京都中央区)|日本橋]]」の文字が彫られた石柱が保存されている。実際に橋として使われていたものである。
 
* 趣味としての写真撮影を日常としたがあまり上達しなかった。写真雑誌にもたびたび投稿したが、なかなか採用されなかった。こうした趣味に没頭する生活の中で実弟・昭武との交流を深めていった。なお、曾孫の[[徳川慶朝]]はフリーのカメラマンであり、彼によって慶喜の撮影分も含めて徳川慶喜家に所蔵されていた写真類が発見され、整理と編集を行なった上で出版された。写真家の[[長野重一]]によれば腕前はセミプロ並みとの評価であるが写真集『将軍が撮った明治』(朝日新聞社)を見る限り、写真が芸術性を帯びてくるのは晩年からであり、単に日記代わりとして撮っていたと、評価している。
 
* 油絵にも嗜み、慶喜作とされる油彩画が10点弱確認されている<ref group="注釈">公的機関にある作品として、「蓮華之図」([[寛永寺]]蔵)、「西洋雪景図」([[福井市郷土歴史資料館]]蔵、明治3年慶喜から松平春嶽に送られた作品)、「河畔風景」([[茨城県立歴史館]]蔵)、「西洋風景」「日本風景」(共に[[久能山東照宮]]蔵)、「[http://www.spmoa.shizuoka.shizuoka.jp/_archive/exhibition/yukari_yusaiga.html 風景]」([[静岡県立美術館]]蔵)の他、個人蔵が数点ある。</ref>。最初は武家のならいで、[[狩野派]]の[[狩野探淵]]に絵を学んだ後、静岡では開成所で西洋画法を身につけた[[中島仰山]](鍬次郎)を召して油絵を学んだ。当時は元将軍であっても西洋画材は入手しづらく、時には似たもので代用したという。慶喜の絵は、複数の手本を寄せ集めて絵を構成しており、その結果[[遠近法]]や[[キアロスクーロ|陰影法]]が不揃いで、画面全体の統一を欠くことが多い。反面、樹の枝や草、岩肌、衣の襞など、細部描写は丁寧で、現代の目では不思議な印象を与える絵となっている。モチーフに川や山がよく登場する事や、絵から絵を作る作画方法から、油絵という西洋の画法を使いつつも、作画姿勢は[[山水画]]を貴ぶ近世の[[文人]]の意識が強く残っているといえる。なお、慶喜の風景画の殆どに決まって橋が描かれており、近世から近代への橋渡しをした慶喜と故ありげな符号である<ref>山梨絵美子 「徳川慶喜」([[辻惟雄]]編集 『幕末・明治の画家たち 文明開化のはざまに』 ぺりかん社、1992年12月、pp.131-161。 [[静岡市美術館]]ほか編集 『[[NHK静岡放送局]]開局80周年記念 静岡市美術館開館記念展:2 家康と慶喜 徳川家と静岡展』図録、2010年。</ref>。
 
* [[北海道]]江差町の[[国道229号]]に、名前に因んだ「慶喜トンネル」が存在する。
 
* 大正5年([[1916年]])に[[徳川慶久]]により「徳川慶喜公歌集」が編纂され、平成25年(2013年)に松戸市戸定歴史館から解題等を付けた復刻本が限定500部で刊行された<ref>{{Cite news|url=http://www.chibanippo.co.jp/news/local/169825|title=“最後の将軍”の159首復刻 「慶喜公歌集」を新装版に 1世紀経てネットで発掘 松戸・戸定歴史館|newspaper=千葉日報|date=2013-12-09|accessdate=2013-12-09|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150307202715/http://www.chibanippo.co.jp/news/local/169825|archivedate=2015年3月7日|deadlinkdate=2017年10月}}</ref>。
 
* [[関東大震災]]で多数の蔵書を焼失した[[東京大学|東京大学附属図書館]]のため、[[紀州徳川家]]の蔵書を基とした10万点に及ぶ『[[南葵文庫]]』が、当時の[[家長|当主]][[徳川頼倫]]により[[寄付|寄贈]]された。この時一緒に慶喜筆の『南葵文庫』という額が送られ、現在も同館の1階に懸けられている<ref>[http://www.lib.u-tokyo.ac.jp/sogoto/contents/relic1.html 東京大学総合図書館『歴史を物語るものたち(1階)』], 平成28年7月22日閲覧。</ref>。
 
 
 
== 家庭・親族 ==
 
正室の美賀子は[[大納言|権大納言]][[今出川公久]]の女だが、いったん関白[[一条忠香]]の養女となってから慶喜に嫁いだため、[[明治天皇]]の皇后となった忠香の三女[[昭憲皇太后|一条美子]]の義姉にあたる。<!--「[[明治天皇]]は義理の弟に当たる」とするのはいささか牽強付会かと-->。この正室のとの間には安政5年に生後5日で夭折した女子がいるのみで、明治になって誕生した10男11女はすべて二人の側室[[新村信]]と[[中根幸]]との間に儲けた子女である。
 
 
 
徳川慶喜公爵家を継いだのは七男・慶久<!--[[勝海舟]]の婿養子となった十男・精、[[伏見宮博恭王]]妃となった九女・経子などである。--><!-- 以下に詳述 -->で、この慶久の長女が[[昭和天皇]]の次弟[[高松宮宣仁親王]]に嫁いだ[[宣仁親王妃喜久子|喜久子妃]]である。
 
* 正室:[[一条美賀子|一条美賀]](維新後に美賀子と改名、安政2年12月3日結婚、[[今出川公久]]女、[[一条忠香]]養女、天保6年7月19日 - 明治27年7月9日)
 
** 女子:瓊光院殿池水影現大童女(安政5年7月16日 - 20日)
 
* 側室:[[一色須賀]](一色貞之助定住女、天保9年4月26日 - 昭和4年10月7日)
 
* 側室:[[新村信]](松平政隆女、新村猛雄養女、嘉永5年頃 - 明治38年2月8日)
 
** 長男:敬事(明治4年6月29日 - 明治5年5月22日)
 
** 長女:[[徳川鏡子|鏡子]](明治20年3月23日結婚、[[徳川達孝]]室、明治6年6月2日 - 明治26年9月29日)
 
** 三女:鉄子(明治23年12月30日結婚、[[徳川達道]]([[一橋茂栄]]の子)室、明治8年10月27日 - 大正10年12月10日)
 
** 五男:[[池田仲博|仲博]](鳥取藩主家池田氏第14代当主、侯爵・貴族院議員、[[大正天皇]]侍従長、明治23年2月25日[[池田輝知]]養子、明治10年8月28日 - 昭和23年1月1日)
 
** 六男:斉(明治11年8月17日 - 11月28日)
 
** 六女:良子(明治13年8月24日 - 9月29日)
 
** 九女:[[博恭王妃経子|経子]](明治30年1月9日結婚、[[伏見宮博恭王]]妃、明治15年9月23日 - 昭和14年8月18日)
 
** 七男:[[徳川慶久|慶久]](公爵・貴族院議員、華族世襲財産審議会議長、明治17年9月2日 - 大正11年1月22日)
 
** 十一女:英子(明治44年4月29日結婚、[[徳川圀順]]室、明治20年3月22日 - 大正13年7月5日)
 
** 十男:[[勝精|精]](伯爵、[[浅野セメント]]重役、明治32年1月20日[[勝海舟]]婿養子、明治21年8月23日 - 昭和7年7月11日)
 
* 側室:[[中根幸]](中根芳三郎長女、嘉永4年頃 - 大正4年12月29日)
 
** 次男:善事(明治4年9月8日 - 明治5年3月10日)
 
** 三男:琢磨(明治5年10月5日 - 明治6年7月5日)
 
** 四男:[[徳川厚|厚]](男爵・貴族院議員、東明火災保険取締役、明治7年2月21日 - 昭和5年6月12日)
 
** 次女:金子(明治8年4月3日 - 明治8年7月22日)
 
** 四女:[[蜂須賀筆子|筆子]](明治28年12月26日結婚、[[蜂須賀正韶]]室、明治9年7月17日 - 明治40年11月30日)
 
** 五女:脩子(明治11年8月17日 - 明治11年10月8日)
 
** 七女:浪子(明治28年12月7日結婚、[[松平斉]]([[松平斉民]]の九男)室、明治13年9月17日 - 昭和29年1月13日)
 
** 八女:国子(明治34年5月7日結婚、[[大河内輝耕]]([[大河内輝声]]の長男)室、明治15年1月23日 - 昭和17年9月11日)
 
** 十女:糸子(明治39年5月19日結婚、[[四条隆愛]]室、明治16年9月18日 - 昭和28年10月11日)
 
** 死産:男子(明治17年8月22日死産)
 
** 八男:寧(明治18年9月22日 - 明治19年7月2日)
 
** 九男:[[徳川誠|誠]](男爵・貴族院議員、明治20年10月31日 - 昭和43年11月11日)
 
** 死産:女子(明治24年6月2日死産)
 
* 外妾:[[お芳]]([[新門辰五郎]]女)
 
{{徳川慶喜の系譜}}
 
 
 
== 徳川慶喜を主題とした作品 ==
 
; 小説
 
* 『徳川慶喜』([[山岡荘八]]・作)
 
* 『徳川慶喜の英略』([[谷恒生]]・作)
 
* 『[[最後の将軍 徳川慶喜|最後の将軍-徳川慶喜-]]』([[司馬遼太郎]]・作)
 
* 『君が眠りゆく朝に』([[藤原眞莉]]・作)
 
* 『徳川慶喜』([[羽生道英]]・作)
 
* 『徳川慶喜』([[三好徹]]・作)
 
; テレビドラマ
 
* 『[[徳川慶喜 (NHK大河ドラマ)|徳川慶喜]]』(1998年、NHK大河ドラマ、演・[[本木雅弘]])
 
 
 
== 脚注 ==
 
{{脚注ヘルプ}}
 
=== 注釈 ===
 
{{Notelist}}
 
=== 出典 ===
 
{{Reflist|2}}
 
 
 
== 参考文献 ==
 
{{参照方法|date=2016年12月|section=1}}
 
* [[渋沢栄一]]編 『昔夢会筆記―徳川慶喜公回想談』、[[大久保利謙]]校訂、平凡社〈[[平凡社東洋文庫]]〉、1966年 ISBN 4-582-80076-9
 
* 渋沢栄一編 『徳川慶喜公伝』 [[平凡社]]東洋文庫 全4巻、1976-78年
 
**『徳川慶喜公伝 史料篇』 日本史籍協会編、[[東京大学出版会]]、新装版1997年、なお初版は1918年
 
* 徳川慶喜写真、徳川慶朝監修 『将軍が撮った明治―徳川慶喜公撮影写真集』 [[朝日新聞社]]、1986年 ISBN 4-02-255559-9
 
* [[徳川慶朝]] 『徳川慶喜家の食卓』 文藝春秋〈文春文庫〉、2008年
 
** 『徳川慶喜家にようこそ わが家に伝わる愛すべき「最後の将軍」の横顔』 文藝春秋〈文春文庫〉、2003年
 
** 『徳川慶喜家カメラマン二代目』 角川oneテーマ新書、2007年
 
* [[松浦玲]] 『徳川慶喜―将軍家の明治維新 増補版』 中央公論社〈[[中公新書]]〉、1997年 ISBN 4-12-190397-8
 
* [[家近良樹]] 『徳川慶喜』 [[吉川弘文館]]〈幕末維新の個性1〉、2004年 ISBN 4-642-06281-5
 
* 家近良樹 『徳川慶喜』 吉川弘文館(人物叢書)、2014年 ISBN 4642052704
 
* 家近良樹 『その後の慶喜 大正まで生きた将軍』 講談社選書メチエ、2005年。ISBN 4-06-258320-8
 
** 『その後の慶喜 大正まで生きた将軍』 筑摩書房〈ちくま文庫〉、2017年 ISBN 978-4-480-43422-7
 
* {{Cite book |和書 ||author=[[奈良勝司]] |year=2010 |title=明治維新と世界認識体系 |publisher=有志舎|isbn=978-4-903426-35-8 |ref={{SfnRef|奈良}}}}
 
* [[星亮一]]、遠藤由紀子 『最後の将軍徳川慶喜の無念 大統領になろうとした男の誤算』 [[光人社]]、2007年
 
* [[小西四郎]]編 『徳川慶喜のすべて』 [[新人物往来社]]、1984年、新装版1997年
 
* 久住真也 『幕末の将軍』 [[講談社]]選書メチエ、2009年-幕末歴代将軍4人を扱う。
 
* 田中惣五郎 『最後の将軍徳川慶喜』 中央公論社〈[[中公文庫]]〉、1997年、初版1939年
 
* 岩下哲典編 『徳川慶喜 その人と時代』 岩田書院、1999年
 
 
 
== 関連項目 ==
 
{{Commons|Category:Tokugawa Yoshinobu}}
 
{{Wikisource|德川慶喜征討ノ大號令ヲ發シ諸侯ヲシテ去就ヲ決セシム|徳川慶喜征討令}}
 
{{Wikisource|德川慶喜松平容保以下ヲ寬宥ニ處スルノ詔書|徳川慶喜松平容保以下ヲ寛有ニ処スルノ詔書}}
 
<!--側近-->
 
* [[原市之進]]
 
* [[平岡円四郎]]
 
* [[西周 (啓蒙家)]]
 
* [[土岐朝義]]
 
* [[中根長十郎]]
 
 
 
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{{Succession box
 
| title  = [[公爵]]
 
| years  = [[徳川慶喜家|徳川(慶喜)家]]初代<br />1902年 - 1910年
 
| before = 叙爵
 
| after  = [[徳川慶久]]
 
}}
 
{{End box}}
 
{{一橋徳川家||第9代|1847年 - 1866年}}
 
{{徳川氏歴代当主|徳川宗家|1866年 - 1868年|第15代}}
 
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{{征夷大将軍|1867年 - 1868年}}
 
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徳川慶喜.jpg

徳川 慶喜(とくがわ よしのぶ)

江戸幕府 15代将軍(在職 1866~68)。徳川斉昭の 7男。母は有栖川宮王女登美宮吉子。幼名は七郎麿。弘化4(1847)年一橋家を相続。将軍徳川家定の死後,14代将軍の継嗣をめぐって慶福(のち徳川家茂)を擁立する井伊直弼ら紀伊派と対立したが敗れた(将軍継嗣問題)。安政の大獄に際しては隠居謹慎を命じられたが,井伊の死後将軍後見役となった。家茂の死後,慶応2(1866)年12月5日将軍宣下。内政,外交にあたり,フランス公使レオン・ロッシュの助言をいれて幕政の改革を行ない薩長と対抗したが,同 3年10月14日に政権の朝廷への返還を上表,翌 15日に大政奉還の勅許を得た。しかし 12月9日,討幕派とその同調者が優勢な御前会議で王政復古の大号令が発せられた(小御所会議)。同 4年1月鳥羽・伏見の戦いで敗北を喫し,朝廷に恭順。4月,家督を田安亀之助(徳川家達)に譲って駿府に移った。1902年公爵,1908年勲一等旭日大綬章。



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