「後藤新平」の版間の差分

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{{政治家
+
[[ファイル:後藤新平.jpg|サムネイル]]
|人名 = 後藤 新平
 
|画像 = Shimpei Gotō.jpg
 
|画像サイズ = 200px
 
|画像説明 =
 
|国略称 = {{JPN}}
 
|生年月日 = [[1857年]][[7月24日]]
 
|出生地 = [[陸奥国]][[胆沢郡]]鹽竈村<br />(現:[[岩手県]][[奥州市]]水沢)
 
|没年月日 = {{死亡年月日と没年齢|1857|7|24|1929|4|13}}
 
|死没地 = {{JPN}} [[京都府]]
 
|出身校 = [[公立岩瀬病院|須賀川医学校]]
 
|前職 =
 
|現職 =
 
|所属政党 =
 
|称号・勲章 = [[正二位]]<br />[[勲一等旭日桐花大綬章]]<br />[[伯爵]]
 
|親族(政治家) = [[鶴見祐輔]](娘婿)<br />[[椎名悦三郎]](甥)
 
|配偶者 = 後藤和子
 
|サイン =
 
|ウェブサイト =
 
|サイトタイトル =
 
|国旗 = JPN
 
|職名 = 第18・20代[[逓信省|逓信大臣]]
 
|内閣 = [[第2次桂内閣]] (18)<br />[[第3次桂内閣]] (20)
 
|就任日 = [[1908年]][[7月14日]]
 
|退任日 = [[1911年]][[8月30日]] (18)
 
<!-- ↓省略可↓ -->
 
|就任日2 = [[1912年]][[12月21日]]
 
|退任日2 = [[1913年]][[2月20日]] (20)
 
|国旗3 = JPN
 
|職名3 = 第34・39代[[内務大臣 (日本)|内務大臣]]
 
|内閣3 = 寺内内閣 (34)<br />[[第2次山本内閣]] (39)
 
|就任日3 = [[1916年]][[10月9日]]
 
|退任日3 = [[1918年]][[4月23日]] (34)
 
|就任日4 = [[1923年]][[9月2日]]
 
|退任日4 = [[1924年]][[1月7日]] (39)
 
|国旗5 = JPN
 
|職名5 = 第33代[[外務大臣 (日本)|外務大臣]]
 
|内閣5 = [[寺内内閣]]
 
|就任日5 = 1918年4月23日
 
|退任日5 = 同[[9月29日]]
 
|国旗6 = JPN
 
|その他職歴1 = 初代[[鉄道省|内閣鉄道院]]総裁
 
|就任日6 = 1908年[[12月5日]]
 
|退任日6 = 1911年8月30日
 
|国旗7 =
 
|その他職歴2 =
 
|就任日7 =
 
|退任日7 =
 
|国旗8 =
 
|その他職歴3 =
 
|就任日8 =
 
|退任日8 =
 
|国旗9 =
 
|その他職歴4 =
 
|就任日9 =
 
|退任日9 =
 
|国旗10 =
 
|その他職歴5 =
 
|就任日10 =
 
|退任日10 =
 
|国旗11 =
 
|その他職歴6 =
 
|就任日11 =
 
|退任日11 =
 
|国旗12 =
 
|その他職歴7 =
 
|就任日12 =
 
|退任日12 =
 
|国旗13 =
 
|その他職歴8 =
 
|就任日13 =
 
|退任日13 =
 
|国旗14 =
 
|その他職歴9 =
 
|就任日14 =
 
|退任日14 =
 
|国旗15 =
 
|その他職歴10 =
 
|就任日15 =
 
|退任日15 =
 
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}}
 
  
'''後藤 新平'''(ごとう しんぺい、[[安政]]4年[[6月4日 (旧暦)|6月4日]]([[1857年]][[7月24日]]) - [[昭和]]4年([[1929年]])[[4月13日]])は、[[日本]]の[[医師]]・[[官僚]]・[[政治家]]。[[位階]][[勲等]][[爵位]]は[[正二位]][[勲一等旭日桐花大綬章|勲一等]][[伯爵]]。
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'''後藤 新平'''(ごとう しんぺい、[[安政]]4年[[6月4日 (旧暦)|6月4日]]([[1857年]][[7月24日]]) - [[昭和]]4年([[1929年]])[[4月13日]]
  
[[台湾総督府]]民政長官。[[南満州鉄道|満鉄]]初代総裁。[[逓信大臣]]、[[内務大臣 (日本)|内務大臣]]、[[外務大臣 (日本)|外務大臣]]。[[東京市]]第7代市長、[[ボーイスカウト日本連盟]]初代総長。東京放送局(のちの[[日本放送協会]])初代総裁。[[拓殖大学]]第3代学長を歴任した。
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政治家。帰農した伊達藩士の子。当初医師。[[児玉源太郎]]のもとで台湾経営に顕著な働きをみせた。のち,1906年南満州鉄道初代総裁。1908年逓信大臣兼鉄道院総裁,拓殖局副総裁,1918年外務大臣,1920~23年東京市長などを歴任。経世家としてのその才能には一定の評価がある。
  
計画の規模の大きさから「[[風呂敷|大風呂敷]]」とあだ名された、[[植民地]]経営者であり、[[都市計画家]]である。[[台湾総督府]]民政長官、満鉄総裁を歴任し、[[日本]]の大陸進出を支え、[[鉄道省|鉄道院]]総裁として国内の鉄道を整備した。[[関東大震災]]後に内務大臣兼[[帝都復興院]]総裁として[[東京]]の[[震災復興再開発事業|帝都復興計画]]を立案した([[都市計画]]の項も参照推奨)。
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{{テンプレート:20180815sk}}
<!--内務大臣や拓大学長を経験していることからもわかるように、きわめて保守的・右派的・独裁的な人物であり、地主の私有財産権を否定するような国家社会主義者の顔も持っていた。田中康夫はこのような後藤新平の素顔をよく知らずに、後藤を信奉・礼賛している。-->
 
 
 
甥に政治家の[[椎名悦三郎]]、娘婿に政治家の[[鶴見祐輔]]<ref name="日本の有名一族 177、179"/>、孫に[[社会学者]]の[[鶴見和子]]<ref name="日本の有名一族 177、179"/>、[[哲学者]]の[[鶴見俊輔]]<ref name="日本の有名一族 177、179"/>、[[演出家]]の[[佐野碩]]、義孫に法学者の[[内山尚三]]<ref>『日本の有名一族』、179頁。</ref>、曾孫に歴史家の[[鶴見太郎]]をもつ<ref>『日本の有名一族』、178-179頁。</ref>。
 
 
 
== 生涯 ==
 
=== 生い立ち・医師時代 ===
 
[[仙台藩]][[水沢城]]下に、仙台藩一門[[留守氏|留守家]]の家臣・[[後藤実崇]]と利恵の長男として生まれる<ref name="日本の有名一族 177、179">『日本の有名一族』、177頁、179頁。</ref>。江戸時代後期の[[蘭学者]]・[[高野長英]]は遠縁に当たる。
 
 
 
[[胆沢県]]大参事であった[[安場保和]]にみとめられ、後の海軍大将・[[斎藤実]]とともに13歳で書生として引き立てられ県庁に勤務した。15歳で上京し、東京太政官少史・荘村省三のもとで門番兼雑用役になる。安場との縁はその後も続き、安場が岩倉使節団に参加して帰国した直後に福島県令となると後藤は安場を頼り、16歳で福島洋学校に入った。
 
 
 
後藤本人も最初から政治家を志していたとされるが、[[蛮社の獄|高野長英への弾圧]]等の影響もあって医者を勧められ、恩師・安場や岡田(阿川)光裕の進めもあって、17歳で[[公立岩瀬病院|須賀川医学校]]に気の進まないまま入学。ただし同校では成績は優秀で、卒業後は山形県鶴岡の病院勤務が決まっていたが、安場が愛知県令をつとめることになり、それについていくことにして[[愛知県]]医学校(現・[[名古屋大学]][[医学部]])の医者となる。ここで彼はめざましく昇進し24歳で学校長兼[[名古屋大学医学部附属病院|病院]]長となり、病院に関わる事務に当たっている。またこの間、[[岐阜市|岐阜]]で[[岐阜事件|遊説中に暴漢に刺され負傷]]した[[板垣退助]]を診察している。この際、後藤は「閣下、御本懐でございましょう」と言ったという。後藤の診察を受けた後、板垣は「彼を政治家にできないのが残念だ」と口にしたという。またこの時期に安場の次女・和子を妻にもらう。
 
 
 
[[明治]]14年(1881年)、愛知県千鳥ヶ浜に[[海水浴場]]が開かれるが、これは後藤の指導によると伝えられている。この前年に開設された日本最古の医療目的の海水浴施設沙美海岸([[岡山県]][[倉敷市]])に次ぎ、同じ年に開設された富岡海岸([[横浜市]][[金沢区]])、[[兵庫県]]須磨海岸に並ぶもので、医療としての海水浴に先見の明を持っていた。
 
 
 
医師として高い評価を受ける一方で、先進的な機関で西洋医学を本格的に学べないまま医者となったことに、強い劣等感を抱いていたとも伝わっている。
 
 
 
明治15年([[1882年]])2月、愛知県医学校での実績や才能を見出され、軍医の[[石黒忠悳]]に認められて[[内務省 (日本)|内務省]][[衛生局]]に入り、医者としてよりも[[官僚]]として病院・衛生に関する行政に従事することとなった。
 
 
 
明治23年([[1890年]])、[[ドイツ]]に留学。西洋文明の優れた部分を強く認める一方で同時にコンプレックスを抱くことになったという。帰国後、留学中の研究の成果を認められて医学[[博士号]]を与えられ、明治25年([[1892年]])12月には[[長與專齋]]の推薦で内務省衛生局長に就任した。
 
 
 
明治26年([[1893年]])、[[相馬事件]]に連座して5ヶ月間にわたって収監され最終的には無罪となったものの衛生局長を非職となり失脚し、長與專齋にも見捨てられる破目となった。
 
 
 
=== 「生物学の原則」に則った台湾統治 ===
 
内務省衛生局員時代に局次長として上司だった[[陸軍省]]医務局長兼[[大本営]]野戦衛生長官の石黒忠悳が、陸軍次官兼[[軍務局|軍務局長]]の[[児玉源太郎]]に後藤を推薦したことによって、明治28年([[1895年]])4月1日、[[日清戦争]]の帰還兵に対する[[検疫]]業務を行う[[似島検疫所|臨時陸軍検疫部]]事務官長として官界に復帰し、[[広島市|広島]]・[[広島港|宇品港]][[似島]]([[似島検疫所]])で検疫業務に従事して、その行政手腕の巧みさから、臨時陸軍検疫部長として上司だった児玉の目にとまる。
 
 
 
明治31年([[1898年]])3月、その児玉が[[台湾総督府|台湾総督]]となると後藤を抜擢し、自らの補佐役である[[台湾総督府#総務長官|民政局長]](1898年6月20日に民政長官)とした。そこで後藤は、徹底した調査事業を行って現地の状況を知悉した上で経済改革と[[インフラストラクチャー|インフラ]]建設を強引に進めた。こういった手法を後藤は自ら「[[生物学]]の原則」に則ったものであると説明している(比喩で「[[ヒラメ]]の目を[[鯛|タイ]]の目にすることは出来ない」と語っている)。それは「社会の習慣や制度は、生物と同様で相応の理由と必要性から発生したものであり、無理に変更すれば当然大きな反発を招く。よって現地を知悉し、状況に合わせた施政をおこなっていくべきである」というものだった。
 
 
 
==== 台湾の調査事業 ====
 
まず台湾における調査事業として[[臨時台湾旧慣調査会]]を発足させ、[[京都大学|京都帝国大学]]教授で民法学者の[[岡松参太郎]]を招聘し、自らは同会の会長に就任した。また同じく京都帝大教授で行政法学者の[[織田萬]]をリーダーとして、当時まだ研究生であった中国哲学研究者の[[狩野直喜]]、中国史家の[[加藤繁]]などを加えて、[[清|清朝]]の法制度の研究をさせた。これらの研究の成果が『[[清国行政法]]』であり、その網羅的な研究内容は近世・近代[[中国史]]研究に欠かせない資料となっている。
 
 
 
==== 人材の招聘 ====
 
開発と同時に人材の招聘にも力を注いだ。アメリカから[[新渡戸稲造]]を招いた際には、病弱を理由に断る新渡戸を執務室にベッドを持ち込むことなどの特別な条件を提示して結局承諾させている。スカウトされた新渡戸は、[[台湾総督府#組織|殖産局]]長心得、臨時台湾糖務局長として台湾での[[サトウキビ]]や[[サツマイモ]]の普及と改良に大きな成果を残している。また、生涯の腹心となった[[中村是公]]と出会ったのも台湾総督府時代だった。また、欧州留学中に知り合った[[林学者]]の[[河合鈰太郎]]を招聘し<ref>{{Zh-tw icon}}[http://blog.xuite.net/sujaushi/twblog1/119021667-%E8%A2%AB%E9%81%BA%E5%BF%98%E7%9A%84%E6%AD%B7%E5%8F%B2%E8%AC%8E%E5%9C%98++++%E9%98%BF%E9%87%8C%E5%B1%B1%E6%A3%AE%E6%9E%97%E9%90%B5%E8%B7%AF%E8%AA%95%E7%94%9F%E7%9A%84%E7%9C%9F%E7%9B%B8 被遺忘的歷史謎團 阿里山森林鐵路誕生的真相]2011-03-01,[[蘇昭旭]]</ref><ref>[https://kotobank.jp/word/%E6%B2%B3%E5%90%88+%E9%88%B0%E5%A4%AA%E9%83%8E-1642704 河合 鈰太郎] [[コトバンク]]</ref>、河合は[[阿里山]]の森林資源調査、ひいては[[阿里山森林鉄路]]の開通に多大な成果をもたらしている。
 
 
 
==== 阿片漸禁策 ====
 
当時は中国本土と同様に台湾でも[[アヘン|阿片]]の吸引が庶民の間で普及しており、これが大きな社会問題となっていた。また、「日本人は阿片を禁止しようとしている」という危機感が抗日運動の引き金のひとつともなっていった。これに対し後藤は、阿片を性急に禁止する方法をとらなかった。
 
 
 
後藤はまず、阿片に高率の税をかけて購入しにくくさせるとともに吸引を免許制として次第に常習者を減らしていく方法を採用した。この方法は成功し、阿片常習者は徐々に減少した。総督府の統計によると、明治33年(1900年)には16万9千人いた阿片常習者は大正6年(1917年)には6万2千人、昭和3年(1928年)には2万6千人にまで減少している。こののち総督府では昭和20年(1945年)に阿片吸引免許の発行を全面停止、施策の導入から50年近くをかけて台湾では阿片の根絶が達成された。
 
 
 
しかし後藤の阿片政策には、後藤自身が、[[杉山茂丸]]らをパートナーとして阿片利権・裏社会との関わりを深めていったという見方も存在する。さらに後藤はまた、台湾総督府の阿片専売収入増加を図るために、阿片吸食者に売る阿片煙膏の[[モルヒネ]]含有量を極秘裡に減らして、より高い阿片煙膏を売り付けることを行い、その秘密を守り通すため、総督府専売局が、後藤と癒着した[[星製薬]](創立者の[[星一]]が後藤の盟友である杉山茂丸の書生出身)以外の製薬業者による粗製モルヒネの分割払い下げ運動を強硬に拒んだことから、星製薬をめぐる疑獄事件である台湾阿片事件が発生したことが明らかにされている<ref>劉明修『台湾統治と阿片問題』(山川出版社、1983年)81-116頁、189-190頁、194-195頁。</ref>。
 
 
 
=== 満鉄総裁 ===
 
明治39年([[1906年]])、[[南満洲鉄道]]初代総裁に就任し、[[大連市|大連]]を拠点に[[満洲]]経営に活躍した。ここでも後藤は中村是公や岡松参太郎ら台湾時代の人材を多く起用するとともに30代、40代の若手の優秀な人材を招聘し、満鉄のインフラ整備、衛生施設の拡充、大連などの都市の建設に当たった。また満洲でも「生物学的開発」のために調査事業が不可欠と考え、満鉄内に[[満鉄調査部|調査部]]を発足させている。
 
 
 
当時、清朝の官僚の中で満州に大きな関心を持っていたのは[[袁世凱]]を中心とする北洋軍閥であり、明治40年([[1907年]])4月の[[東三省]]建置に当たっては彼の腹心である人物が多く要職に配置された。彼らは日本の満州における権益独占を好まず[[アメリカ合衆国|アメリカ]]を盛んに引き込もうとし、その経済力を以って満鉄に並行する路線を建設しようとした。これは大連を中心に満鉄経営を推し進めていた日本にとって大きな脅威であった。
 
 
 
そこで後藤は袁に直接書簡を送ってこれが条約違反であることを主張し、この計画を頓挫させた。ただし満鉄への連絡線の建設の援助、清国人の満鉄株式所有・重役就任などを承認し、[[抗日]]勢力の懐柔を図ろうとしている。また北満州に勢力を未だ確保していた[[ロシア帝国]]との関係修復にも尽力し、満鉄のレールをロシアから輸入したり[[伊藤博文]]とロシア側要路者との会談も企図している(ただしこの会談は伊藤が[[ハルビン市|ハルビン]]で暗殺されたため実現しなかった)。
 
 
 
当時の日本政府では満州における日本の優先的な権益確保を唱える声が主流であったが、後藤はむしろ日清露三国が協調して互いに利益を得る方法を考えていたのである。
 
 
 
=== 拓殖大学学長 ===
 
[[Image:大正14年卒業生.jpg|thumb|220px|拓殖大学の昭和4年の卒業写真。中央が後藤新平学長。左隣は[[永田秀次郎]]次期学長]]
 
[[Image:Shimpei Gotō 2.jpg|thumb|220px|後藤新平]]
 
 
 
[[大正]]8年([[1919年]])、[[拓殖大学]](前身は[[桂太郎]]が創立した[[台湾協会学校]])学長に就任(在職:大正8年(1919年)[[8月2日]]-昭和4年([[1929年]])[[4月13日]])。拓殖大学との関係は台湾総督府民政長官時代、設立間もない「台湾協会学校」の良き理解者としてたびたび入学式や卒業式で講演をし物心両面において支援していたが、大正8年(1919年)より第3代学長として直接拓殖大学の経営に携わることとなった。そして当時発令された[[大学令]]に基づく「大学([[旧制大学]])」に昇格すべく各般の整備に取りかかり、大正11年([[1922年]])6月、大学昇格を成し遂げるなど亡くなる昭和4年(1929年)4月まで学長として拓殖大学の礎を築いた。 学内での様子は当時の記録として「後藤先生は学生に対しては慈愛に満ちた態度を以て接せられ、学生もまた親しむべき学長先生として慈父に対するような心安さを感じていました」と当時の記録にあるように学生達に心から慕われていた。大正9年([[1920年]])5月12日には、[[早稲田大学]]の科外講師として「吾が国大学生の覚悟」と題する講義を行っている<ref>早稲田大学百年史第三巻 P482</ref>。当時の邸宅は、水道橋駅から後楽園方面に降りて秋葉原方向の坂道を登る途中にある、[[昭和第一高等学校|昭和第一高校]]の前の公園であった。
 
 
 
=== 関東大震災と世界最大規模の帝都復興計画 ===
 
{{see also|震災復興再開発事業#関東大震災|関東大震災#復興}}
 
 
 
[[第2次桂内閣]]で逓信大臣・初代[[内閣鉄道院]][[総裁]](在職:明治41年([[1908年]])[[7月14日]] - 明治44年([[1911年]])[[8月30日]])、[[寺内内閣]]で[[内務大臣 (日本)|内務大臣]](在職:大正5年([[1916年]])[[10月9日]] - 大正7年([[1918年]])[[4月23日]])・[[外務大臣 (日本)|外務大臣]](大正7年(1918年)[[4月23日]] - [[9月28日]])、しばし国政から離れて[[東京市長]](大正9年([[1920年]])[[12月17日]] - 大正12年([[1923年]])[[4月20日]])、[[第2次山本内閣]]で再び内務大臣(大正12年(1923年)[[9月2日]] - 大正13年([[1924年]])[[1月7日]]、後述)等を歴任した。
 
 
 
鉄道院総裁の時代には、職員人事の大幅な刷新を行った。これに対しては内外から批判も強く「汽車がゴトゴト(後藤)してシンペイ(新平)でたまらない」と揶揄された。今日の[[九州旅客鉄道|JR九州]]の[[肥薩線]]にその名前を取った[[いさぶろう・しんぺい|「しんぺい」号]]が走っている。
 
 
 
[[関東大震災]]の直後に組閣された第2次山本内閣では、内務大臣兼[[帝都復興院]]総裁として[[震災復興再開発事業|震災復興計画]]を立案した。それは大規模な区画整理と公園・幹線道路の整備を伴うもので、13億円という当時としては巨額の予算(国家予算の約1年分)のため、財界等からの猛反対に遭った上、後藤のお膝元の帝都復興院も、積極派の副総裁・[[松木幹一郎]]、建築局長・[[佐野利器]]らと、消極派で拙速主義を取り予算を削減しようとする副総裁・[[宮尾舜治]]、計画局長・[[池田宏 (内務官僚)|池田宏]]らとに割れ、総裁である後藤には両派の対立を調停するだけの力がなかった{{Sfn|駄場|2007|pp=174-176}}。結局議会が承認した予算は5億7500万円に過ぎず、当初計画を縮小せざるを得なくなった。それでも、後述するように、現在の[[東京]]の[[都市骨格]]、公園や公共施設の整備の骨格は、今なおこの復興計画に負うところが大きい。震災復興計画の方法について、後藤は、19世紀中葉の[[フランス]]で[[ナポレオン3世]]治下の[[セーヌ県]]知事[[ジョルジュ・オスマン|オスマン]]が行ったいわゆる[[パリ改造]]を参考に、土地を地権者から大胆に収用する手法をとろうとした。ところが、日本は土地に対する絶対的な私有感覚が極めて強く、[[財産権]]の内在的・外在的制約(大日本帝国憲法27条2項、日本国憲法29条2項3項)に対する理解が存在しないため、意外にも19世紀フランスにおけるよりもよほど激しい地主・地権者の抵抗を受けることとなった。中でも「銀座の大地主」と呼ばれた[[伊東巳代治]]が反対運動の中心になった。
 
 
 
道路建設に当たっては、東京から放射状に伸びる道路と[[環状道路]]の双方の必要性を強く主張し、計画縮小されながらも実際に建設された。南北軸としての[[昭和通り (東京都)|昭和通り]]、東西軸としての[[靖国通り]](当初の名称は「大正通り」)、環状線の基本となる[[明治通り (東京都)|明治通り]](環状5号線)など、一定の街路は、曲がりなりにも実際に建設が行われている。当初の案では、主要街路の幅員は広い[[歩道]]を含め70mから90m、中央または車・歩間に[[緑地帯]]を持つという大規模なもので、自動車が普及する以前の時代ではその意義が理解されにくかった。
 
 
 
現在、それに近い形で建設された姿を[[東京都道404号皇居前東京停車場线|行幸通り]]などで見ることができる。現在の東京の幹線道路網の大きな部分は後藤に負っていると言ってよく、特に[[下町]]地区では帝都復興事業以降に新たに街路の新設が行われておらず、帝都復興の遺産が現在インフラとしてそのまま利用されている。また、昭和通りの地下部増線に際し、拡幅や立ち退きを伴わず工事を実施でき、その先見性が改めて評価された事例もある。しかし、昭和通りは、建設当初は[[大阪市|大阪]]の[[御堂筋]]に匹敵するような、街路樹や緑地帯を備えた東京の顔にふさわしい道路であったにも関わらず、前述の交差点の地下立体交差や[[首都高速道路]]の高架道路の建設により、後藤の意図したようなゆったりした緑の多い街路としての性質は、昭和40年代以降完全に失われてしまった<ref>[[越沢明]]「東京の都市計画」(岩波新書、1991年、58~86頁)。越澤明「東京都市計画物語」(ちくま学芸文庫、2001年、44~64頁)。</ref>。
 
 
 
{{要出典範囲|一方で、後藤による都市計画は、東京の都市機能拡充の引き換えに[[江戸]]以来の[[情緒]]を喪失させ、「東京を無機質な町に変質させてしまった。」との批判もある|date=2016年1月}}。しかし、帝都復興事業が行われた区域は震災の大火災によって灰燼と化した地域に限定されており、帝都復興事業施行街区には、大正12年(1923年)9月の段階で、そもそも江戸の情緒を残す町並みは殆ど残されていなかったこと、震災前の東京は交通や衛生など現在にも共通する多くの[[都市問題]]を抱えていたことなどを考慮すると、「江戸の情緒を喪失させた」という批判は必ずしも的を射たものではない。
 
 
 
緑地政策に関しては、[[隅田公園]]、[[浜町公園]]など、近代的な公園緑地を建設することも忘れなかったが、比較的小規模なものにならざるを得ず、[[ロンドン]]、[[ニューヨーク]]、[[パリ]]等の大都市と比しても圧倒的に森が少なくなってしまったことが批判されている。また、後藤は地方自治のプロとして、[[小学校]]を地域の中核とする地域コミュニティの再編を進めたが、後藤が帝都復興計画の模範としたパリ大改造は、為政者にとって厄介なものだった[[フランス革命]]以来のパリの地域コミュニティを破壊することを隠れた目的としていたため、街路整備に不可避的に付随して、旧来の地域コミュニティの結束点をかなりの部分破壊してしまったという問題を指摘する者もいる。
 
 
 
=== ソ連外交とその後 ===
 
大正12年([[1923年]])、東京市長時代に国民外交の旗手として後藤・ヨッフェ会談を伊豆の[[熱海市|熱海]]で行い、成立せんとしていた[[ソビエト連邦]]との国交正常化の契機を作った。[[アドリフ・ヨッフェ|ヨッフェ]]は当時モスクワに滞在していた[[アメリカ共産党]]員・[[片山潜]]の推薦を受けて派遣されたもので、[[黎明会]]を組織した[[内藤民治]]と[[田口運蔵]]等の社会主義者だけでなく、[[右翼]]団体である[[黒龍会]]の[[内田良平 (政治運動家)|内田良平]]も、北京にいるヨッフェに使者を送って仲立ちにあたった。一部から後藤は「赤い[[男爵]]」といわれたが、あくまで日本とロシアの国民の友好を唱え、[[共産主義]]というイデオロギーは単なるロシア主義として恐れず、むしろソビエト・ロシアの体制を軟化させるために、[[日露関係]]が正常化される事を展望していた。
 
 
 
大正13年([[1924年]])、社団法人[[東京放送局]]が設立され、初代総裁となる。試験放送を経て翌大正14年([[1925年]])[[3月22日]]、日本で初めてのラジオ仮放送を開始。総裁として初日挨拶を行った<ref>「無線放送に対する予が抱負」、社団法人東京放送局編『ラヂオ講演集 第一輯』日本ラジオ協会、1925年11月、1~7頁。</ref>。大正15年([[1926年]])、東京放送局は大阪放送局、名古屋放送局と合併し、社団法人[[日本放送協会]]に発展的解消する)。
 
[[Image:Shinpei Goto in the Aoyama Cemetery.JPG|thumb|200px|後藤新平の墓([[青山霊園]])]]
 
 
 
昭和3年(1928年)、後藤はソ連を訪問し[[ヨシフ・スターリン|スターリン]]と会見、国賓待遇を受ける。[[ボーイスカウト日本連盟|少年団日本連盟]]会長として渡航。その際、少年達1人が1粒を送った米による握り飯を泣きながら食べ渡航したという。当時の情勢的に日中露の結合関係の重要性(新旧大陸対峙論)は後藤が暗殺直前の伊藤博文にも熱く語った信念であり、[[田中義一内閣]]が拓務省設置構想の背後で構想した満洲[[委任統治]]構想、もしくは満洲における[[緩衝国]]家設立を打診せんとしたものとも指摘されるが、詳細は未だに不明である。後の満鉄総裁・[[松岡洋右]]が[[日ソ中立条約]]締結に訪ソした際「後藤新平の精神を受け継ぐものは自分である」と、ソ連側から[[盗聴]]されていることを知りつつわざと大声で叫んだとされる。
 
 
 
なお、しばしば総理大臣候補として名前が取り沙汰されながら結局就任できなかった原因として、[[第3次桂内閣]]の逓信大臣当時の[[護憲運動|第一次憲政擁護運動]]で前首相にして[[政友会]]総裁の[[西園寺公望]]の失脚を画策し、最後の[[元老]]となった西園寺に嫌われていたことが大きいと[[徳富蘇峰]]が語っている。
 
 
 
=== 晩年 ===
 
明治36年(1903年)、貴族院勅選議員となり、終生在籍した。晩年は[[政治の倫理化]]{{Sfn|後藤|1926}}を唱え各地を遊説した。昭和4年(1929年)、遊説で[[岡山]]に向かう途中、[[醒ケ井駅]]付近を走行中の列車内で[[脳溢血]]で倒れ、[[京都府立医科大学]]病院に入院するが、[[4月13日]]に逝去した。戒名は天真院殿祥山棲霞大居士<ref>[[服部敏良]]『事典有名人の死亡診断 近代編』(吉川弘文館、2010年)126頁</ref>。
 
 
 
[[三島通陽]]の『スカウト十話』によれば、後藤が倒れる日に三島に残した言葉は「'''よく聞け、金を残して死ぬ者は下だ。仕事を残して死ぬ者は中だ。人を残して死ぬ者は上だ。よく覚えておけ'''」であったという。
 
 
 
== 栄典 ==
 
;位階
 
* [[1886年]](明治19年)[[7月8日]] - [[従六位]]<ref>『官報』第907号「賞勲叙任」1886年7月10日。</ref>
 
* [[1892年]](明治25年)
 
** [[2月22日]] - [[正六位]]<ref>『官報』第2591号「叙任及辞令」1892年2月23日。</ref>
 
** [[12月12日]] - [[従五位]]<ref>『官報』第2839号「叙任及辞令」1892年12月13日。</ref>
 
* [[1897年]](明治30年)[[8月20日]] - [[正五位]]<ref>『官報』第4242号「叙任及辞令」1897年8月21日。</ref>
 
* [[1898年]](明治31年)[[5月30日]] - [[従四位]]<ref>『官報』第4473号「叙任及辞令」1898年5月31日。</ref>
 
* [[1903年]](明治36年)[[7月10日]] - [[正四位]]<ref>『官報』第6007号「叙任及辞令」1903年7月11日。</ref>
 
* [[1906年]](明治39年)[[11月30日]] - [[従三位]]<ref>『官報』第7028号「叙任及辞令」1906年12月1日。</ref>
 
* [[1911年]](明治44年)[[7月20日]] - [[正三位]]<ref>『官報』第8424号「叙任及辞令」1911年7月21日。</ref>
 
* [[1929年]](昭和4年)[[4月13日]] - [[正二位]]<ref>『官報』第685号「叙任及辞令」1929年4月15日。</ref>
 
 
 
;勲章等
 
* [[1895年]](明治28年)[[11月30日]] - [[旭日章|勲六等単光旭日章]]<ref>『官報』号外「叙任及辞令」1895年12月18日。</ref>
 
* [[1901年]](明治34年)[[6月27日]] - [[瑞宝章|勲三等瑞宝章]]<ref>『官報』第5395号「叙任及辞令」1901年6月28日。</ref>
 
* [[1902年]](明治35年)[[12月4日]] - [[旭日章|勲二等旭日重光章]]<ref>『官報』第5829号「授爵・叙任及辞令」1902年12月6日。</ref>
 
* [[1903年]](明治36年)[[11月20日]] - [[議員記章|貴族院議員章]]<ref>『官報』第6118号「帝国議会 - 貴族院」1903年11月21日。</ref>
 
* [[1906年]](明治39年)
 
**[[4月11日]] - [[男爵]]<ref>『官報』第6832号「授爵・叙任及辞令」1906年4月12日。</ref>
 
**[[11月13日]] - [[旭日章|勲一等旭日大綬章]]<ref>『官報』第7014号「叙任及辞令」1906年11月14日。</ref>
 
* [[1908年]](明治41年)[[11月24日]] - [[賞杯|金盃一組]]<ref>『官報』第7626号「叙任及辞令」1908年11月26日。</ref>
 
* [[1912年]](大正元年)[[8月1日]] - [[記念章|韓国併合記念章]]<ref>『官報』第205号・付録「辞令」1913年4月9日。</ref>
 
* [[1915年]](大正4年)[[11月10日]] - [[記念章|大礼記念章]]<ref>『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。</ref>
 
* [[1920年]](大正9年)[[9月7日]] - [[勲一等旭日桐花大綬章|旭日桐花大綬章]]<ref>『官報』第2431号「授爵・叙任及辞令」1920年9月8日。</ref>
 
* [[1922年]](大正11年)[[9月25日]] - [[子爵]]<ref>『官報』第3047号「授爵・叙任及辞令」1922年9月26日。</ref>
 
* [[1928年]](昭和3年)[[11月10日]] - [[伯爵]]<ref>『官報』号外「授爵・叙任及辞令」1928年11月10日。</ref>
 
* [[1929年]](昭和4年)[[4月13日]] - [[記念章#賞勲局所管の記念章|帝都復興記念章]]<ref>『官報』第1499号・付録「辞令二」1931年12月28日。</ref>
 
 
 
; 外国勲章佩用允許
 
* [[1908年]](明治41年)
 
** [[2月3日]] - [[プロイセン王国]]:王冠第一等勲章<ref>『官報』第7389号「叙任及辞令」1908年2月17日。</ref>
 
** [[9月14日]] - [[ロシア帝国]]:白鷲大綬章
 
* [[1910年]](明治43年)[[7月15日]] - [[ブラウンシュヴァイク公国]]:ハインリヒ・デス・レーウェン第一等勲章<ref>『官報』第8152号「叙任及辞令」1910年8月23日。</ref>
 
* [[1918年]](大正7年)[[7月13日]]
 
** [[イギリス帝国]]:[[大英帝国勲章]]一等
 
** [[台湾の歴史|支那共和国]]:一等大綬嘉禾章
 
* [[1919年]](大正8年)[[12月26日]] - [[ベルギー|ベルギー王国]]:王冠第一等勲章
 
 
 
== 逸話 ==
 
[[Image:Gotō_Shinpei.jpg|thumb|220px|ボーイスカウト制服姿の後藤新平]]
 
* 内務大臣に在任中、度かさなる雑誌発禁処分により窮した[[大杉栄]]の不意の訪問を受ける。「いま非常に生活に困っているんです。少々の無心を聞いてもらえるでしょうか」と言う大杉に対して後藤は「あなたは実にいい頭を持ってそしていい腕を持っているという話ですがね。どうしてそんなに困るんです。」と応え、「政府が僕らの職業を邪魔するからです。」「が、特に私のところへ無心にきたわけは。」「政府が僕らを困らせるんだから、政府へ無心にくるのは当然だと思ったのです。そしてあなたならそんな話は分かろうと思ってきたんです。」「そうですか、分かりました。」というようなやりとりの後、300円を大杉に手渡している。大杉によれば、[[伊藤野枝]]の遠縁にあたる[[頭山満]]から紹介された[[杉山茂丸]]に[[台華社]]での交渉で[[山口孤剣]]と[[白柳秀湖]]を例に挙げて「[[国家社会主義]]ぐらいのところになれ」と軟化を迫られ、すぐその家を辞したものの、杉山の口から後藤新平の名前がたびたび出たことから後藤への無心を思いついたと語っている(『[[大杉栄]]自叙伝』より)
 
* 金権政治家の典型で、「黄金万能主義の権化」といった形で度々批判された。問題にされがちだったのは台湾民政長官時代に[[樟脳]]の[[専売]][[利権]]で結びついた、「政商」と言われた[[金子直吉]]の率いる[[鈴木商店]]との関係であった<ref>[http://www.tkfd.or.jp/admin/files/tsutsui_file.pdf 筒井清忠「関東大震災と後藤新平・復興院の挫折」]。</ref>。
 
* 東京市長時代、[[永田秀次郎]]・[[池田宏 (内務官僚)|池田宏]]・[[前田多門]]の3名の補佐役を「畳屋」と称した。畳屋の由来は"畳"の旧字体(3つの"田"の下に"宜"がある)をもじって、3人の補佐役がいずれも名前の中に"田"の字を含んでおり、「東京市政は永'''田'''・池'''田'''・前'''田'''の3人に任せておけば'''宜'''(よろ)しい」の意である<ref>越澤明『後藤新平 -大震災と帝都復興』ちくま新書、2011年、p.193。</ref>。他にも「サンタクロース」(『三田苦労す』の捩り)という別名もある。
 
* 日本の[[ボーイスカウト]]活動に深い関わりを持ち、ボーイスカウト日本連盟の初代総長を務めている。スカウト運動の普及のために自ら10万円の大金を日本連盟に寄付し、さらに全国巡回講演会を数多く実施した。ボーイスカウトの半ズボンの制服姿の写真が現在も残っている。制服姿の後藤が集会に現れると、彼を慕うスカウトたちから「僕等の好きな総長は、白いお髭に鼻眼鏡、団服つけて杖もって、いつも元気でニコニコ」と歌声が上がったという。
 
* 上記の巡回の一環で同じ水沢出身で[[朝鮮総督]]の[[斎藤実]]を訪ねた際の挨拶では、「吾輩がかような子供っぽい服装をして来たのは偶然ではない。理由がある。今この会長をやっているため普及宣伝ということもあるが、朝鮮であろうが、内地だろうが常にこうである。そのわけは大政治家は、しかつめらしいことばかり言っていては、だめだ。稚気がないといかんということを念頭においているので、自分を律する意味においても、常にこういう服装をしているのだ。こどもにならんと本当の大政治家にはなれんよ」と語った<ref>『回花仙史隨談』p91-92 [[阿部千一]]、ラジオ岩手編 昭和33年</ref>。
 
* 晩年は[[ソビエト連邦]]との国交回復に尽力する一方、[[数の論理]]で支配される[[政党政治]]を批判し、倫理確立による[[選挙粛正]]を唱え全国を遊説した。
 
* [[シチズン時計]]の名付け親でもある(後藤と親交のあった社長から新作[[懐中時計]]の命名を頼まれ、「市民から愛されるように」とCITIZENの名を贈った)。
 
* [[虎ノ門事件]]の責任を取らされ[[内務省 (日本)|内務省]]を辞めた[[正力松太郎]]が[[読売新聞]]の経営に乗り出したとき、上司(内務大臣)だった後藤は自宅を抵当に入れて資金を調達し、何も言わずに貸した。その後、事業は成功し借金を返そうとしたが、もうすでに彼は死亡していた。そこで、正力はその恩返しとして後藤の故郷である[[水沢町]](当時)に借りた金の2倍近い金を寄付した。この資金を使って、[[1941年]]に日本初の[[公民館]]が建設された。
 
* [[地下鉄]]の父・[[早川徳次 (東京地下鉄道)|早川徳次]]の「東京に地下鉄を作りたい」という構想に理解を示し、支援者に名を連ねたひとりであった。
 
* 現在の[[中国]][[大使館]]は後藤邸の跡地である。
 
* [[美濃部亮吉]]は東京都知事時代に「私は後藤新平とよく政策とかが似ているといわれるが、どうしても都知事と総理大臣の給料を同じにすることができなかった」と発言したが、後藤は東京市長の給料を全額東京市に寄付していた。
 
 
 
=== 反米左翼 ===
 
{{Harvtxt|駄場|2007|pp=261-266}}は、戦間期の日本において最も有力な[[反米]]親ソの政治家だった後藤新平<ref>後藤新平は、その最後の訪ソで1928年1月7日にスターリンと会見した際、スターリンに対して「日本ニハ未ダ英米政策ノ追従者アリ。然レドモ日本ハ既ニ独立ノ対外政策ヲ確立スル必要ニ迫ラレツヽアリテ、ソノタメニハ露国トノ握手ヲ必要トシツヽアルナリ」と述べている(鶴見祐輔『後藤新平 第四巻』勁草書房復刻版、1967年、865頁)。</ref>は、下に見るように、親族に多くの著名な[[左翼]]活動家を持つ反米左翼の庇護者であり、その影響力は後藤の死後、現在まで続いており、そのため、米ソ対立の[[冷戦]][[イデオロギー]]の下、親ソ派であるか否かが、その人物に対する優劣・善悪の判断と直結しがちであった戦後日本の学界において、後藤を実績以上に高く評価する方向へ学界世論が導かれたのではないか、としている。また同書では、このことと、後藤直系官僚から、[[岩永裕吉]]([[同盟通信社]]社長)、[[下村宏]]([[朝日新聞社]]副社長)、[[岡實]]([[毎日新聞社|大阪毎日新聞社]]会長)、[[正力松太郎]]([[読売新聞社]]社長)、[[前田多門]](東京朝日新聞社論説委員)が中央マスメディア企業の幹部に転じ、また後藤の盟友[[杉山茂丸]]の[[玄洋社]]における後輩[[緒方竹虎]]が朝日新聞社[[主筆]]として社長をしのぐ実力を持ったことにより、後藤系の勢力がマスメディア業界に牢固たる地盤を築いたことが相俟って、戦後の言論界で、後藤が過大評価される原因になったのではないか、としている。また、日本で左翼というと「反[[皇室]]」というイメージを抱かれがちであるが、下の[[鶴見和子]]と[[皇后美智子|美智子皇后]]、[[鶴見良行]]と[[秋篠宮文仁親王]]の関係に見られるように、後藤新平に由来する反米左翼勢力は、[[皇族]]と太いパイプを持っている。
 
 
 
; 佐野学
 
: 獄中転向で有名な[[日本共産党]]中央委員長[[佐野学]]は、後藤新平の女婿佐野彪太の弟で、[[東京大学|東京帝国大学]][[法学部]]、大学院で学び、[[日本勧業銀行]]に勤めた後、後藤の伝手で[[南満州鉄道|満鉄]][[東亜経済調査局]][[嘱託社員]]となり、さらに[[早稲田大学]][[商学部]]講師となった。佐野学は[[1922年]]7月に日本共産党([[第一次共産党 (日本)|第一次共産党]])に入党し、翌年2月の党大会(市川大会)で執行委員・国際幹事に選出された。そして[[アドリフ・ヨッフェ|ヨッフェ]]来日中の同年5月末、[[第一次共産党事件]]([[6月5日]])による検挙を逃れて[[ソビエト連邦|ソ連]]に亡命したが、その際、後藤は、佐野学の亡命に関する情報をヨッフェ経由でソ連に流し、亡命を援助した<ref>駄場裕司「日本海軍の北樺太油田利権獲得工作」(海軍史研究会編『日本海軍史の研究』吉川弘文館、2014年)59-60頁。</ref>。佐野学が第一次共産党事件の検挙を免れたことについては、当時から、後藤が援助したのではないかと、[[立憲政友会|政友会]]が議会で[[第2次山本内閣]][[内務大臣 (日本)|内務大臣]]の後藤を追及していた<ref>駄場『後藤新平をめぐる権力構造の研究』208-209頁。</ref>。佐野学は[[1925年]]7月に帰国して共産党を再建(第二次共産党)。1925年1月の日ソ基本条約調印によりソ連[[大使館]]が開設され、そこに[[商務官]]の肩書きで派遣されていた[[コミンテルン]]代表の[[カール・ヤンソン]]から活動資金を得て、『[[無産者新聞]]』の[[主筆]]を務めた。[[1926年]]3月、第一次共産党事件で[[禁錮]]10ヶ月の判決を受け、同年末まで下獄した佐野学は、[[1927年]]12月に共産党中央委員長に就任、労働運動出身の[[鍋山貞親]]とともに党を指導した。さらに佐野学は、[[1928年]]の[[三・一五事件]]でも、その前日に日本を発って訪ソして一斉検挙を逃れ<ref>佐野学が2度の共産党一斉検挙をタイミングよく免れていることから、佐野学を後藤新平・公安警察が共産党に送り込んだスパイであるとする者もあるが、そう断定する証拠は示されていない(近現代史研究会編『実録 野坂参三 共産主義運動“スパイ秘史”』マルジュ社、1997年)。</ref>、コミンテルン第6回大会に日本共産党首席代表として出席。後藤最後の訪ソ時にもモスクワにおり、その半年後にコミンテルン常任執行委員に選任された。この頃のことについて佐野学は、ヨッフェの「自殺のまへ、ヨッフェの困つてゐる最中に、[[グリゴリー・ジノヴィエフ|ジノヴィエフ]]は私をよびつけてヨッフェの滞日中の生活態度を根ほり葉ほり聞いた。私はヨッフェに同情してゐたので知らないの一点ばりをやつた」、また[[ヨシフ・スターリン|スターリン]]に面会し、「[[27年テーゼ|二七年テーゼ]]を[[プラウダ]]に出してくれるやうに頼んだが、後藤新平が今モスコーに来てゐるから見合せておく」と言われたと回想している<ref>佐野学「共産主義指導者の回想」(佐野学著作集刊行会編・発行『佐野学著作集 第一巻』1957年)999-1000頁。</ref>。しかし後藤新平死去直後の[[1929年]]6月に中国・[[上海市|上海]]で検挙され、[[1932年]]10月に[[東京地方裁判所]]で[[治安維持法]]違反により[[無期懲役]]の判決を受けた。翌[[1933年]]6月に鍋山貞親とともに共同転向声明を発表した佐野学は、[[1934年]]5月の東京[[控訴院]]判決で懲役15年に減刑されて控訴審判決が確定し、[[1943年]]10月に出獄した。
 
; 佐野碩
 
:「[[インターナショナル (歌)|インターナショナル]]」の訳詞者の一人として知られる共産党系の演劇人、[[佐野碩]]は佐野彪太の長男で、後藤新平の初孫であるため可愛がられ、後藤は佐野碩のことを、「自分の孫が[[マルクス主義]]者として大正時代、女装して逃げ回っていたんですからね、おもしろいじゃないですか。そういうことをとても喜んでいた」と[[鶴見俊輔]]が証言している<ref>鶴見俊輔「〈コメント〉祖父・後藤新平について」(『環』第21号、2005年4月)265頁。</ref>。後藤新平の生前、稽古場として佐野碩らの左翼演劇活動の拠点となったのは、[[小石川]]駕籠町にある佐野彪太邸で、彪太は息子の活動に資金援助も行った<ref>千田是也『もうひとつの新劇史――千田是也自伝』(筑摩書房、1975年)121-124頁、藤田富士男『ビバ!エル・テアトロ! 炎の演出家 佐野碩の生涯』(オリジン出版センター、1989年)70-75頁、岡村春彦『自由人佐野碩の生涯』(岩波書店、2009年)32-35頁、46-47頁、51頁。</ref>。しかし後藤新平が死去した翌1930年5月、佐野碩は「[[共産党シンパ事件]]」で[[治安維持法]]違反容疑により逮捕された。碩の父彪太と母静子(後藤新平の長女)は、まだ没して間もない後藤新平の息のかかった政界・検察関係者に裏工作を行い、「直接にも間接にも日本共産党を支持する行為あるいはこれに類する行動を一切しない」と誓約して、他の逮捕者とは別に、一人、起訴猶予で保釈された<ref>藤田『ビバ!エル・テアトロ!』117-118頁、岡村『自由人佐野碩の生涯』88-89頁。</ref>。そして[[1931年]]6月からモスクワで始まる[[国際労働者演劇同盟]](IATB)第1回拡大評議員総会への出席を求める[[ドイツ共産党]]員の演劇人[[千田是也]]からの手紙を機に、同年5月に出国し、以後、二度と日本に戻らなかった。
 
; 平野義太郎
 
:「[[講座派]]三太郎」の一人である[[平野義太郎]]は、後藤新平の岳父[[安場保和]]の孫娘で後藤にとっては義理の姪にあたる嘉智子の夫で、平野は後藤の「晩年屡々鍼灸する機会をもつた」と述べている<ref>平野義太郎『民族政治学の理論』(日本評論社、1943年)81頁。</ref>。平野は[[第一高等学校 (旧制)|第一高等学校]]時代、後藤の女婿[[鶴見祐輔]]の弟で外交官となる[[鶴見憲]]([[鶴見良行]]の父)と同期で、弁論部に入り、鶴見憲と一緒に、鶴見祐輔が自宅で開いた「火曜会」に出席した。平野に嘉智子との結婚を勧めたのは鶴見憲だった<ref>鶴見憲「一高時代の平野君の思い出」(平野義太郎 人と学問編集委員会編『平野義太郎 人と学問』大月書店、1981年)20-22頁。</ref>。[[1921年]]3月に東京帝国大学法学部を卒業し、同年5月に同学部助手、[[1923年]]6月に同学部助教授となった平野は、[[1927年]]から[[フランクフルト大学]]社会研究所に留学し、ソ連に傾倒する[[ヘンリク・グロスマン]]に師事した。しかし後藤新平が死去した翌[[1930年]]1月に帰国した平野は、佐野碩と同様に、同年5月の「共産党シンパ事件」で検挙され、7月に依願免官となった。平野は、鶴見祐輔の下で後藤新平の正伝『後藤新平』全4巻(後藤新平伯伝記編纂会、1937-1938年)編纂作業に参加し、鶴見祐輔の[[太平洋協会]]では企画部長、弘報部長などを務め、敗戦で同協会が解散する際には、元調査部長[[山田文雄]]と協会の資産を二分した<ref>陸井三郎「戦中・戦争直後の平野先生 一九四三-四六年」(『平野義太郎』)82頁、86頁。</ref>。これが、鶴見和子・俊輔姉弟らが雑誌『[[思想の科学]]』を刊行する機構的・財政的基盤となった<ref>安田常雄「『思想の科学』・『芽』解題」(安田常雄・天野正子編『復刻版『思想の科学』・『芽』別巻 戦後「啓蒙」思想の遺したもの』久山社、1992年)215頁。</ref>。平野は1958年、後に鶴見俊輔らが「[[ベトナムに平和を!市民連合]]」(ベ平連)事務局長に起用した、当時、共産党専従活動家の[[吉川勇一]]が結婚する際の仲人を務めている<ref>新村猛「平野義太郎さんを偲ぶ」(『平野義太郎』)77頁。</ref>。
 
; 鶴見和子
 
:後藤新平の女婿鶴見祐輔の長女である[[社会学者]]の[[鶴見和子]]は、戦後、[[武田清子]]、[[武谷三男]]、[[都留重人]]、鶴見俊輔、[[丸山真男]]、[[渡辺慧]]らが[[思想の科学研究会]]を結成する中心人物となり<ref>安田「『思想の科学』・『芽』解題」215頁、[http://www.iwanami.co.jp/shiso/1021/kotoba.html 鶴見俊輔「思想の言葉 態度と知識――『思想の科学』小史」(『思想』2009年第5号)]。</ref>、共産党に入党して1950年ごろまで党員だったが<ref>鶴見俊輔・上野千鶴子・小熊英二『戦争が遺したもの 鶴見俊輔に戦後世代が聞く』(新曜社、2004年)291-292頁。</ref>、その後、親中派に転じた<ref>鶴見和子は「私は後藤新平さんから受け継いだのは、反面教師としては権力志向は嫌いというのですが、もう一つは中国への関心ですね。後藤新平さんは、中国を安定させるためにロシアと結ぼうとしたのです」と、自らの親中的スタンスが後藤新平譲りであると述べている(鶴見和子「祖父・後藤新平」『コレクション 鶴見和子曼荼羅 Ⅶ 華の巻――わが生き相』藤原書店、1998年、33頁)。</ref>。そして筋金入りの反米主義者で[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]シンパの[[武者小路公秀]]を所長として[[上智大学]]に国際関係研究所が設立される際、武者小路の招きを受けて、[[1969年]]4月に[[成蹊大学]][[文学部]]助教授から上智大学[[外国語学部]]教授・国際関係研究所員に転じ<ref>「ゼミでしたこと 出会った人々――鶴見先生インタヴュー――」(『コレクション 鶴見和子曼荼羅 Ⅸ 環の巻――内発的発展論によるパラダイム転換』藤原書店、1999年)321-322頁。</ref>、[[1989年]]3月の定年までその職にあった。同年6月の[[六四天安門事件|天安門事件]]における[[中国共産党]]政府・[[中国人民解放軍|人民解放軍]]の[[民主化]]運動武力弾圧を西側諸国が強く非難し、日本政府も対中借款停止などの外交制裁を実施して日中関係が悪化すると、鶴見和子は同年8月末から9月にかけていち早く、[[江蘇省]]小城鎮研究会の招きで、[[宇野重昭]]、[[石川照子]]とともに訪中している<ref>能澤壽彦作成・鶴見和子校閲「『鶴見和子研究』年譜」(『鶴見和子曼荼羅 Ⅸ』)410頁。</ref>。また[[1949年]]に新制東京大学の第1期生として入学した吉川勇一は、[[世田谷区]][[成城]]の自宅に[[柳田國男]]が創設した「民俗学研究所」に通っていたが<ref>[http://www.jca.apc.org/~yyoffice/ryakurekiright.htm#1949 吉川勇一公式サイト内「略歴」1949年]。</ref>、その柳田邸の真向かいに住んでいたのが鶴見祐輔・和子父子で、鶴見和子もしばしば柳田邸を訪ね、もてなしを受けていた<ref>能澤作成・鶴見校閲「『鶴見和子研究』年譜」374頁。</ref>。なお、[[2007年]][[7月28日]]に[[新宿]][[中村屋]]本店で催された鶴見和子の[[一周忌]]の集いには、[[皇后美智子|美智子皇后]]も臨席した<ref>内山章子「一周忌までのご報告」(『環』第31号、2007年11月)69頁。</ref>。鶴見和子本人も生前、[[明仁|今上天皇]]と美智子皇后への深い尊敬の念を語っていた<ref>武者小路公秀・鶴見和子『複数の東洋/複数の西洋 世界の知を結ぶ』(藤原書店、2004年)193頁。</ref>。美智子皇后はその後も、鶴見和子を偲ぶ「山百合忌」に出席している<ref>[http://www.asahi.com/articles/TKY201310250153.html 朝日新聞デジタル:「水俣の苦しみ今も」石牟礼さん、皇后さまに手紙 - 社会]。</ref>。鶴見俊輔によれば、「美智子皇后は姉の和子に対して、彼女の学友だった女官を通して『宮中まで来てほしい』とお呼びになったことがありました。そのとき、『あなたがこのあいだの講演で慰安婦の問題を取り上げてくださって、とてもありがたかった』とおっしゃった。姉が倒れて宇治の施設に入ったときも、『京都に行くから来てくれないか』と連絡が来た。当日は妹に託して、車椅子で姉を御所に上げました。天皇、皇后と姉と三人だけでお話をしたわけです。それだけ今上天皇、皇后は姉に共感をもっておられたんですね」とのことである<ref>鶴見俊輔・上坂冬子「“爽やか”だった大東亜戦争」(『Voice』2008年9月号)163頁。</ref>。「美智子皇后の相談役」として知られる[[精神科医]][[神谷美恵子]]は、鶴見祐輔とともに「新渡戸四天王」と呼ばれた後藤新平側近の一人として数えられる前田多門の長女であり、鶴見俊輔は「神谷美恵子は、聖者である」としている<ref>鶴見俊輔「神谷美恵子管見」(みすず書房編集部編『神谷美恵子の世界』みすず書房、2004年)86頁。</ref>。神谷美恵子の兄の[[フランス文学者]][[前田陽一]]は、[[皇太子]]時代の今上天皇のフランス語の師匠であり、共産党前中央委員会議長[[不破哲三]]のフランス語の師匠でもあった<ref>不破哲三「一高記念祭の思い出など」(「前田陽一 その人その文」編集刊行委員会編・発行『前田陽一 その人その文』1989年)237-240頁。</ref>。そして、やはり「新渡戸四天王」の一人である[[田島道治]]は、戦後、第2代[[宮内府]]長官、初代[[宮内庁]]長官を歴任し、同じく新渡戸門下の後輩である[[三谷隆信]][[侍従長]]とコンビを組んで宮中改革に尽力した。田島は[[宇佐美毅 (宮内庁長官)|宇佐美毅]]に宮内庁長官の座を譲ってからも宮中への影響力を行使し、東宮御教育常時参与の[[小泉信三]]とともに、「東宮様の御縁談について平民からとは怪しからん」とする[[香淳皇后]]らの反対を押し切って、美智子[[皇太子妃]]を実現するのに大きく貢献した<ref>加藤恭子『田島道治――昭和に「奉公」した生涯』(TBSブリタニカ、2002年)388-394頁。</ref>。
 
; 鶴見俊輔
 
: 鶴見和子の弟である[[哲学者]]の[[鶴見俊輔]]は、[[安保闘争#60年安保|60年安保]]時には[[政治学者]]の[[高畠通敏]]とともに「[[声なき声の会]]」を組織して[[第2次岸内閣 (改造)|岸内閣]]による[[日米安全保障条約]]改定に反対<ref>日ソ協会(現・日本ユーラシア協会)によれば、「声なき声の会」のデモの指揮は日ソ協会が行っていた(「回想・日ソ協会のあゆみ」編纂委員会編『回想・日ソ協会のあゆみ』日ソ協会、1974年、96頁)。</ref>。[[ベトナム戦争]]期には高畠らとともに「声なき声の会」を母体として「[[ベトナムに平和を!市民連合]]」(ベ平連)を結成し、代表に作家の[[小田実]]を迎え、事務局長には共産党から除名処分を受けていた吉川勇一を据えて、自らもベ平連の中心的な人物となり、[[ソビエト社会主義共和国連邦閣僚評議会付属国家保安委員会|KGB]]の支援も得て<ref>Koenker, Diane P., and Ronald D. Bachman (ed.), ''Revelations from the Russian archives : Documents in English Translation'', Washington, D.C. : Library of Congress, 1997, pp699-700.</ref>、活発な反米運動を展開した。その際、鶴見俊輔は、杉山茂丸の孫の[[杉山龍丸]]を「玄洋社国際部長」の肩書きでベ平連に取り込んだ<ref>小田実ほか「呼びかけ」1965年4月15日(ベトナムに平和を!市民連合編『資料・「ベ平連」運動 上巻』河出書房新社、1974年)5頁。ただし吉川勇一によると、「杉山さんは、ベ平連の後半では、ベ平連への批判的態度をもつようになったようだ」という。[http://www.jca.apc.org/beheiren/hihanntekibunken-SugiyamaTatsumaru.htm ベ平連への批判的文献]</ref>。
 
; 鶴見良行
 
: [[アジア]]学者・[[人類学者]]の[[鶴見良行]]は、鶴見祐輔の弟の外交官鶴見憲の息子で、鶴見和子・俊輔姉弟の従弟である。日本の知的風土にある親ソ的傾向を是正して日米関係を改善するために[[ロックフェラー財団]]などが資金提供して設立された[[公益財団法人]][[国際文化会館]]<ref>松本重治『聞書・わが心の自叙伝』(講談社、1992年)184頁。</ref>の企画部長であるにも関わらず、鶴見良行がベ平連の「英語使い」<ref>小田実「ヨシユキさん《a concerned citizen》」(『鶴見良行著作集月報』第10号、2002年6月)1-3頁。</ref>、「外務省」<ref>武藤一羊「仮説を生産するヴィジョナリー」(『鶴見良行著作集月報』第10号)4頁。</ref>として反米運動の有力活動家になったことに対し、左右両陣営から文化会館への批判が相次いだが、鶴見良行はベトナム戦争反対の世論をバックに突っ張った。これに窮した国際文化会館理事長の[[松本重治]]は、鶴見良行を企画部長から外して嘱託とする代わりに、満60歳になるまで机と手当を与えた<ref>加固寛子「〈解説〉人間・松本重治について」(『聞書・わが心の自叙伝』)215-216頁。</ref>。[[元老]][[松方正義]]の孫である松本重治は[[高木八尺]](松本重治の親戚)門下で、[[台湾総督府]]時代以来、後藤新平の子分だった[[新渡戸稲造]]の孫弟子であり、やはり松本の親戚で「新渡戸四天王」の後藤新平側近の一人である岩永裕吉の伝手で同盟通信社の前身である[[新聞聯合社]]に入社し、聯合・同盟の[[上海]]支局長を経て同盟通信社初代編集局長となり、敗戦時には同社常務理事を務めていた後藤系マスメディア人だった。[[秋篠宮文仁親王]]は鶴見良行のファンで鶴見良行に直接教えを受け、その強い影響を受けた<ref>江森敬治『秋篠宮さま』(毎日新聞社、1998年)27-34頁。</ref>。
 
 
 
=== フリーメイソンリーとの関係 ===
 
[[文化人類学]]者の[[綾部恒雄]]によれば、後藤新平は[[フリーメイソン]]であった<ref>綾部恒雄『秘密結社』(講談社、2010年)193頁。</ref>。フリーメイソンリーを「国際的なつながりをもつ様々な職業のトップエリートによる最高度の情報交換のネットワーク」とする中田安彦は、後藤新平がドイツ留学中、[[1892年]]の第5回万国[[赤十字社|赤十字]]会議に[[日本赤十字社]]委員として出席するまでにフリーメイソンリーの一員として迎え入れられていたと見ており、「後藤が赤十字という国際結社を通じてフリーメイソンに入会し、その後、日本を代表する“黒幕”として時の権力者に献策を続け、それが時には成功し、時には失敗した」としている<ref>中田安彦「後藤新平は『日本のセシル・ローズ』である」(副島隆彦+SNSI副島国家戦略研究所『フリーメイソン=ユニテリアン教会が明治日本を動かした』成甲書房、2014年)243-246頁、274-275頁。</ref>。[[ボーイスカウト]]運動はフリーメイソンリーとの関係が深いが、後藤新平が「少年団日本連盟」(現在の財団法人[[ボーイスカウト日本連盟]])の初代総裁となったのも、フリーメイソンリーとのつながりからであろうとしている<ref>中田「後藤新平は『日本のセシル・ローズ』である」253頁。</ref>。
 
 
 
== 著作・講演録 ==
 
* 『海水功用論 附海濱療法』(1882年)
 
* 『国家衛生原理』(1889年)
 
* 『日本膨脹論』(1924年)
 
* {{Cite book|和書|last = 後藤 |year = 1926 |first = 新平 |authorlink =  |authormask= - |title = 政治の倫理化 |publisher= 大日本雄弁会 |date = 1926-09-23 |pages = |id= {{NDLJP |1019432}}{{オープンアクセス}} |ref= harv}}
 
* [{{NDLDC|1018823/78}} 「帝都復興と建築資料」] (東京放送局放送講演集 1923年)
 
 
 
== 演じた俳優 ==
 
* [[近藤真彦]](青年期)/[[森繁久彌]] - 「大風呂敷 後藤新平~時代をクリエートした男~」 - [[テレビ東京]]開局25周年記念特別番組。[[1989年]][[4月10日]]放映。
 
* [[津嘉山正種]] - 「復興せよ! 後藤新平と大震災2400日の戦い」 - [[讀賣テレビ放送]]制作のドキュメンタリードラマ。[[2012年]][[1月22日]]放映。
 
 
 
== 脚注 ==
 
{{脚注ヘルプ}}
 
{{Reflist|2}}
 
 
 
== 参考文献 ==
 
=== 伝記 ===
 
* [[鶴見祐輔]]『後藤新平』全4巻(後藤新平伯伝記編纂会、1937-1938年)
 
* 鶴見祐輔、[[一海知義]]校訂『〈決定版〉正伝 後藤新平』全8巻・別巻1(藤原書店、2004-2007年)
 
* [[杉森久英]]『大風呂敷』([[毎日新聞社]]、1965年)
 
=== 小説 ===
 
* {{Cite book|和書|last = 郷 |year = 1999 |first = 仙太郎 |authorlink = 郷仙太郎 |title = 小説 後藤新平‐行革と都市政策の先駆者 |publisher= 学陽書房 |series= 人物文庫 |pages = |id= |isbn= 978-4313750883 |ref= harv}}
 
=== 研究書 ===
 
* [[信夫清三郎]]『後藤新平 科学的政治家の生涯』(博文館、1941年)
 
* [[北岡伸一]]『後藤新平 外交とヴィジョン』([[中公新書]]、1988年) ISBN 9784121008817
 
* [[小林道彦]]『日本の大陸政策 1895-1914 [[桂太郎]]と後藤新平』(南窓社、1996年) ISBN 9784816501944
 
* {{Cite book|和書|last= 駄場|year= 2007|first= 裕司 |authorlink= 駄場裕司 |title= 後藤新平をめぐる権力構造の研究 |publisher= 南窓社 |date= 2007-06 |isbn= 9784816503542 |ref= harv}}
 
* [[浅野豊美]]『帝国日本の植民地法制―<small>法域統合と帝国秩序</small>』(名古屋大学出版会、2008年、ISBN 4-815-80585-7)
 
* {{Cite book|和書|author=ワシーリー・モロジャコフ|authorlink=|translator=[[木村汎]]|year=2009|month=5|title=後藤新平と日露関係史---ロシア側新資料に基づく新見解|publisher=藤原書店|series=|isbn=4894346842}}
 
* [[越澤明]]『後藤新平 大震災と帝都復興』(ちくま新書、2011年)ISBN 9784480066398
 
 
 
=== その他 ===
 
* 季刊誌『環【歴史・環境・文明】』29号(2007年春)、特集「世界の後藤新平/後藤新平の世界」、藤原書店、2007年4月
 
* [[小谷野敦]]『日本の有名一族 <small>近代エスタブリッシュメントの系図集</small>』([[幻冬舎新書]]、2007年9月)ISBN 9784344980556
 
 
 
== 関連項目 ==
 
{{ウィキポータルリンク|スカウト|[[画像:WikiProject Scouting fleur-de-lis dark.svg|none|34px]]}}
 
* [[日本の改軌論争]]
 
* [[震災復興再開発事業]]
 
* [[文装的武備]]
 
* [[新旧大陸対峙論]] - [[松岡洋右]]日本外相や[[ヨアヒム・フォン・リッベントロップ]]ドイツ外相らに先駆けて、後藤新平が抱いていた「[[日独伊ソ四国同盟構想]]([[ユーラシア枢軸構想]])」。
 
* [[郷仙太郎]] - 歴史小説『小説 後藤新平 -行革と都市政策の先駆者-』で後藤を描いている
 
* [[星新一]] - ノンフィクション小説『人民は弱し 官吏は強し』、『明治の人物誌』中で後藤を描いている(星の父[[星一]]は、後藤の盟友[[杉山茂丸]]の書生であった)
 
* [[阿南常一]] - 後藤の側近として帝都復興に参画
 
* [[森戸辰男]] - 社会政策を専攻する森戸と交流があった(森戸辰男とその時代、森戸文書研究会、p14)
 
* [[石黒忠悳]] -後に[[軍医総監]]となる石黒により才能を見出され、[[長與專齋]]への推薦で中央官界入りし、相馬事件で失脚後も石黒の[[児玉源太郎]]への推薦で官界に復帰した。
 
* [[いさぶろう・しんぺい|しんぺい]] - [[九州旅客鉄道|JR九州]][[肥薩線]]の[[人吉駅|人吉]] - [[吉松駅|吉松]]間で運行する列車で、列車名称は後藤に由来。
 
* [[相馬事件]] - この事件に連座して一時収監される
 
 
 
== 外部リンク ==
 
{{Commonscat|Gotō Shinpei}}
 
* [http://goto-shimpei.org/ 後藤新平の会]
 
* [http://www.city.oshu.iwate.jp/shinpei/index.html 後藤新平記念館]
 
* [http://rnavi.ndl.go.jp/kensei/entry/gotoushinnpei.php 国立国会図書館 憲政資料室 後藤新平関係文書(MF:後藤新平記念館蔵)]
 
* [http://www.ndl.go.jp/portrait/datas/79.html?c=5 後藤新平]([http://www.ndl.go.jp/portrait/index.html 近代日本人の肖像]([[国立国会図書館]]))
 
{{-}}
 
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{{Succession box
 
| title  = {{flagicon|JPN}} [[逓信省|逓信大臣]]
 
| years  = 第18代:1908年7月14日 - 1911年8月30日<br />第20代:1912年12月21日 - 1913年2月30日
 
| before = [[堀田正養]]<br />林董
 
| after  = [[林董]]<br />[[元田肇]]
 
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{{Succession box
 
| title  = {{flagicon|JPN}} [[内務大臣 (日本)|内務大臣]]
 
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| after  = [[水野錬太郎]]<br />水野錬太郎
 
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後藤新平.jpg

後藤 新平(ごとう しんぺい、安政4年6月4日1857年7月24日) - 昭和4年(1929年4月13日

政治家。帰農した伊達藩士の子。当初医師。児玉源太郎のもとで台湾経営に顕著な働きをみせた。のち,1906年南満州鉄道初代総裁。1908年逓信大臣兼鉄道院総裁,拓殖局副総裁,1918年外務大臣,1920~23年東京市長などを歴任。経世家としてのその才能には一定の評価がある。



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