「張衡 (科学者)」の版間の差分

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[[ファイル:Zhang Heng.jpg|200px|right|thumb|張衡の切手(1955年発行)]]
 
[[ファイル:EastHanSeismograph.JPG|right|thumbnail|205px|張衡の地動儀(模型)]]
 
'''張 衡'''(ちょう こう、[[78年]] - [[139年]])は、[[後漢]]代の政治家・天文学者・数学者・地理学者・発明家・製図家・文学者・詩人。[[字]]は'''平子'''。[[南陽郡]]西鄂県(現在の[[河南省]][[南陽市 (河南省)|南陽市]][[臥竜区]])の人。
 
  
==経歴==
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'''張 衡'''(ちょう こう、[[78年]] - [[139年]]
没落した[[官僚]]の家庭に生まれた。祖父張堪は地方[[官吏]]だった。青年時代洛陽と長安に遊学し、[[太学]]で学んだ。[[永元 (漢)|永元]]十四年(102年)、張衡24歳の時,南陽郡守の幕僚(南陽郡主簿)となった。[[永初 (漢)|永初]]元年(107年)には、29歳で洛陽を描いた「東京賦」と長安を描いた「西京賦」を著した(これらを総称して「二京賦」という)。当初は南陽で下級官吏となった。永初五年(111年)、張衡34歳の時、京官の郎中として出仕した。[[元初]]三年(116年)張衡38歳の時、暦法機構の最高官職の[[太史令]]についた。[[建光 (漢)|建光]]二年(122年),公車馬令に出任した。[[永建 (漢)|永建]]三年から[[永和 (漢)|永和]]元年(128年-136年)の間、再び太史令を勤めた。最後は[[尚書省|尚書]]となった。
 
  
30歳くらいで、天文を学び始め、「霊憲」「霊憲図」「渾天儀図注」「算罔論」を著した。彼は歴史と暦法の問題については一切妥協しなかった為、当時争議を起こした。[[順帝 ()|順帝]]の時代の[[宦官]]政治に我慢できず、朝廷を辞し、河北に去った。南陽に戻り、138年に朝廷に招聘されたが、139年に死去した。文学作品としては他に、「帰田賦」「四愁詩」「同声歌」がある。
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中国,後漢の文学者,科学者。南陽郡西鄂 (河南省南陽) の人。字,平子。安帝に召されて郎中となり,侍中から河間相となって治績をあげ,のち尚書に移ってまもなく没した。広く学問に通じ,若いときから文名が高く,10年の歳月をかけてつくったさながら長安と洛陽の風俗史を思わせる『西京賦』『東京賦』や,抒情的な『思玄賦』などが有名。その『四愁詩』は作者の明らかな七言詩としては最も早い作品。再度にわたって天文の太史令をつとめて,天文,暦算に詳しく,蓋天論を説いた天文書『霊憲』を著わしたほか,[[渾天儀]],候風地動儀 (地震計) を発明した。
  
張衡は力学の知識と歯車を発明に用いた。彼の発明には、世界最初の水力[[渾天儀]](117年)、[[水時計]]、候風と名付けられた世界初の[[地動儀]](132年)、つまり地震感知器などがある。地動儀は500キロメートル離れた地点の地震を感知することができた。ある日、地動儀の設置場所からみて西北方向の地震の揺れを感知したが、人々は少しの揺れも感じないことがあった。一部の人は地動儀の誤りを疑った。しかし数日後、甘粛から急使が来て、地震の発生のことを報告した。このことがあって以来、地動儀の正確性を疑うことはなくなったという<ref name="千八百">{{Cite journal|和書|author=[[今村明恒]]|year=1936|title=地震漫談 (其の30)、千八百年前の地動儀|journal=地震 第1輯|volume=8|issue=7|pages=347-352|publisher=[[日本地震学会]]|issn=0037-1114|doi=10.14834/zisin1929.8.347|format=PDF|accessdate=2014-9-1}}</ref>。
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{{テンプレート:20180815sk}}
 
 
そのほか、彼は[[円周率]]も計算し、2500個の星々を記録し、月と太陽の関係も研究した。著書の「霊憲」において月を球形と論じ、月の輝きは太陽の反射光だとした。「霊憲」には以下の記述がある。
 
<blockquote>月光生于日之所照,魄生于日之所蔽;当日則光盈,就日則光尽也。</blockquote>
 
また続いて以下の記述があり、
 
<blockquote>当日之冲,光常不合者,蔽于地也,是謂暗虚,在星則星微,遇月則月食。</blockquote>
 
張衡が[[月食]]の原理を理解していたことがわかる。
 
 
 
月の直径も計算したとされ、太陽の1年を、365日と1/4と算出した。[[小惑星]]([[張衡 (小惑星)|1802 張衡]])には、彼の名がつけられている。なお、彼の天文の研究や地震計の発明には、2世紀に入り、後漢に天災が多発しだした時代背景がある。
 
 
 
==関連項目==
 
*[[中国の科学技術史]]
 
 
 
張衡を扱った作品に1983年中国映画「張衡」がある。
 
== 脚注 ==
 
=== 註釈 ===
 
<references group="注"/>
 
=== 出典 ===
 
{{脚注ヘルプ}}
 
{{reflist}}
 
 
 
== 外部リンク ==
 
{{Commons&cat|Zhang Heng}}
 
*[http://www.cnet-ta.ne.jp/p/pddlib/photo/stamp/chidogi.htm 地動儀]
 
*[http://www.cnet-ta.ne.jp/p/pddlib/photo/stamp/kontengi.htm 渾天儀]
 
*[http://www.chinaviki.com/china-culture/gdkxj/8864.html 張衡【中国古代科学者】]
 
*[http://www.chinaviki.com/china-travel/attrations/Henan/Nanyang/Tomb-of-Zhangheng/ 張衡墓園]
 
 
 
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{{Politician-stub}}
 
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[[Category:中国の天文学者]]
 
[[Category:中国の天文学者]]

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張 衡(ちょう こう、78年 - 139年

中国,後漢の文学者,科学者。南陽郡西鄂 (河南省南陽) の人。字,平子。安帝に召されて郎中となり,侍中から河間相となって治績をあげ,のち尚書に移ってまもなく没した。広く学問に通じ,若いときから文名が高く,10年の歳月をかけてつくったさながら長安と洛陽の風俗史を思わせる『西京賦』『東京賦』や,抒情的な『思玄賦』などが有名。その『四愁詩』は作者の明らかな七言詩としては最も早い作品。再度にわたって天文の太史令をつとめて,天文,暦算に詳しく,蓋天論を説いた天文書『霊憲』を著わしたほか,渾天儀,候風地動儀 (地震計) を発明した。



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