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[[画像:Zhang zuolin.jpg|thumb|300px|爆破現場の状況、右下の残骸があるところが爆破地点]]
 
'''張作霖爆殺事件'''(ちょうさくりんばくさつじけん)は、[[1928年]]([[昭和]]3年、[[民国紀元|民国]]17年)[[6月4日]]、[[中華民国]]・[[奉天市|奉天]](現[[瀋陽市]])近郊で、[[日本]]の[[関東軍]]によって[[奉天派|奉天軍閥]]の指導者[[張作霖]]が[[暗殺]]された事件。別名「'''奉天事件'''<ref>[http://kotobank.jp/word/%E5%A5%89%E5%A4%A9%E4%BA%8B%E4%BB%B6 奉天事件][[コトバンク]]</ref>」。中華民国や[[中華人民共和国]]では、事件現場の地名を採って、「'''皇姑屯事件'''」とも言う。終戦まで事件の犯人が公表されず、日本政府内では「'''満洲某重大事件'''(まんしゅうぼうじゅうだいじけん)<ref>[http://kotobank.jp/word/%E6%BA%80%E5%B7%9E%E6%9F%90%E9%87%8D%E5%A4%A7%E4%BA%8B%E4%BB%B6 満州某重大事件]コトバンク</ref>」と呼ばれていた。
 
  
== 背景 ==
+
'''張作霖爆殺事件'''(ちょうさくりんばくさつじけん)
[[画像:ZhangZuolinHacia1928.jpg|thumb|200px|張作霖]]
 
  
[[馬賊]]出身の張作霖は[[日露戦争]]で協力したため日本の庇護を受け、日本の関東軍による支援の下で[[段芝貴]]を[[失脚]]させて[[満洲]]での実効支配を確立、有力な軍閥指導者になっていた。
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中華民国陸海軍大元帥張作霖が、関東軍高級参謀河本大作(こうもとだいさく)大佐の謀略により爆殺された事件。1928年(昭和3)国民革命軍の北伐が北京(ペキン)に迫ったため、張は6月3日京奉(けいほう)線の特別列車で北京を退去し、奉天(ほうてん)(現瀋陽(しんよう))に向かった。関東軍は、この機会に張を下野させ、満州(東三省)を中国から独立させようと謀り、錦州(きんしゅう)方面に出動する態勢をとったが、田中義一(ぎいち)首相は武力行使を承認しなかった。このため河本は出動の口実を得ようと、4日早朝、奉天近郊で張の列車を爆破した。張は爆死したが、関東軍は事前の打合せが不十分で出動しなかった。真相は日本国民に秘匿されたが、満州某重大事件として疑惑をよび、田中内閣の倒壊を招いた。
  
張作霖は日本の満洲保全の意向に反して、中国本土への進出の野望を逞しくし、[[1918年]](大正7年)3月、[[段祺瑞]]内閣が再現した際には、[[長江]]奥地まで南征軍を進めた。[[1920年]]8月、[[安直戦争]]の際には[[直隷派]]を支援して勝利するが間もなく直隷派と対立。[[1922年]]、第一次[[奉直戦争]]を起こして敗北すると、張は[[東三省]]の独立を宣言し、日本との関係改善を声明した。鉄道建設、産業奨励、朝鮮人の安住、土地商祖などの諸問題解決にも努力する姿勢を示したが、次の戦争に備えるための方便にすぎなかった<ref name="iboshi">井星英「張作霖爆殺事件の真相」</ref>。
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[[第一次国共合作]]([[1924年]])当時の諸外国の支援方針は、主に次の通りであった。
 
* 奉天軍(張作霖) ← 日本
 
* [[直隷派]] ← [[欧米]]
 
* [[中国国民党]] ← [[ソビエト連邦|ソ連]](実質は党内の[[中国共産党|共産党]]員への支持)
 
 
 
[[1924年]](大正13年)の第二次奉直戦争では、[[馮玉祥]]の寝返りで大勝し、翌年、張の勢力範囲は長江にまで及んだ。[[1925年]]11月22日、最も信頼していた部下の[[郭松齢]]が叛旗を翻し、張は窮地に陥った。関東軍の支援で虎口を脱することができたが、約束した商租権の解決は果たされなかった。郭の叛乱は馮玉祥の教唆によるもので、馮の背後にはソ連がいたため、張作霖は[[呉佩孚]]と連合し、「赤賊討伐令」を発して馮玉祥の西北国民軍を追い落とした<ref name="iboshi"/>。[[1927年]]4月には[[北京]]のソビエト連邦大使館を襲撃し、中華民国とソ連の国交は断絶した。
 
 
 
国民党の[[北伐]]で直隷派が壊滅([[1926年]])した後、張作霖は中国に権益を持つ欧米([[イギリス]]、[[フランス]]、[[ドイツ]]、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]など)の支援を得るため、日本から欧米寄りの姿勢に転換。権益を拡大したい欧米、特に大陸進出に出遅れていた米国が積極的に張作霖を支援した。
 
 
 
同時期、国民党内でも欧米による支援を狙っていたが、1927年4月独自に上海を解放した労働者の動向を憂慮した[[蒋介石]]が[[中国共産党]]員とそれに同調する一部の労働者を粛清し、[[国共合作]]が崩壊。北伐の継続は不可能となったが、この[[粛清]]以降、蒋介石は欧米勢力との連合に成功した。
 
 
 
1926年12月、ライバル達が続々と倒れていったため、これを好機と見た張作霖は奉天派と呼ばれる配下の部隊を率いて北京に入城し[[大元帥]]への就任を宣言、「自らが中華民国の主権者となる」と発表した。大元帥就任後の張作霖は、更に[[反共主義|反共]]・抗日独立的な欧米勢力寄りの政策を展開する。張作霖は欧米資本を引き込んで南満洲鉄道に対抗する鉄道路線網を構築しようとし<ref>つくる会「新版 新しい歴史教科書」[[自由社]]刊 198頁 2009年</ref>、南満洲鉄道と関東軍の権益を損なう事になった。この当時の支援方針は次の通りである。
 
* 奉天軍(張作霖) ← 欧米・日本
 
* 国民党
 
* 中国共産党 ← ソ連
 
 
 
満洲における張作霖の声望は低下し民心は離反した。「今日のごとき軍閥の苛政にはとうてい堪えることはできない。……この不平は至るところに満ちており、この傾向は郭松齢事件以後、今日ではさらに濃厚になっている」と奉天東北大学教授らは述べている。奉天政府の財政は破綻の危機に瀕しており、[[1926年]]の歳出に占める軍事費の比率は97%で、収支は赤字であった。張政権は不換紙幣を濫発し、[[1917年]]には邦貨100円に対し奉天紙幣110元だったのが、[[1925年]]には490元、[[1927年]]には4300元に暴落した<ref name="iboshi"/>。
 
 
 
[[1928年]]4月、蒋介石は欧米の支援を得て、再度の北伐をおこなう。 この当時の支援方針は次のような構図に変化していた。
 
 
 
* 奉天軍(張作霖)
 
* 国民党 ← 欧米
 
* 共産党 ← ソ連
 
 
 
当時の中華民国では民族意識が高揚し、[[抗日]]活動が多発した。蒋介石から「山海関以東(満洲)には侵攻しない」との言質を取ると、国民党寄りの動きもみせ、関東軍の意向にも従わなくなった張作霖の存在は邪魔になってきた。
 
 
 
また関東軍首脳は、この様な中国情勢の混乱に乗じて「居留民保護」の名目で軍を派遣し、両軍を武装解除して満洲を支配下に置く計画を立てていた。しかし[[南満州鉄道|満州鉄道]](満鉄)沿線外へ兵を進めるのに必要な[[勅命]]が下りず、この計画は中止された。
 
 
 
1928年、以下のような記事が新聞発表された。
 
 
 
電報 昭和3年6月1日
 
参謀長宛 「ソ」連邦大使館付武官
 
第47号
 
 
5月26日「チコリス」軍事新聞「クラスヌイオイン」は24日上海電として左の記事を掲載せり
 
張作霖は[[楊宇霆]]に次の条件に依り日本と密約締の結すべきを命ぜり
 
 
一.北京政府は日本に対し山東本島の99年の租借を許し
 
二.その代償として日本は張に五千万弗の借款を締結し
 
三.尚日本は満洲に於ける鉄道の施設権の占有を受く
 
 
 
[[1928年]][[6月4日]]、国民党軍との戦争に敗れた張作霖は、北京を脱出し、本拠地である[[瀋陽|奉天]](瀋陽)へ列車で移動する。この時、日本側の対応として意見が分かれる。
 
 
 
* [[田中義一]]首相
 
: 陸軍少佐時代から張作霖を見知っており、「張作霖には利用価値があるので、[[東三省]]に戻して再起させる」という方針を打ち出す。
 
* 関東軍
 
: 軍閥を通した間接統治には限界があるとして、社会[[インフラストラクチャー|インフラ]]を整備した上で[[傀儡政権]]による間接統治([[満洲国]]建国)を画策していた。「張作霖の東三省復帰は満州国建国の障害になる」として、排除方針を打ち出した。
 
 
 
[[4月19日]]、北伐が再開されると、日本は居留民保護のために第二次[[山東出兵]]を決定し、[[5月3日]]、[[済南事件]]が起こった。さらに日本は、満洲から混成第28旅団を山東に派遣し、代わりに朝鮮の混成第40旅団を満洲に派遣した。[[5月16日]]、もし満洲に進入したら南北両軍の武装解除を行うことを閣議決定し、17日、英米仏伊の四カ国の[[大使]]を招いて、この方針を伝達し、18日、この内容を張作霖と蒋介石に通告した。19日、[[鈴木荘六]][[参謀総長]]は[[田中義一]]首相と協議して、首相が上奏し[[奉勅命令]]を伝宣する時期を21日と決定した<ref name="iboshi"/>。
 
 
 
[[5月18日]]、アメリカから「日本は満洲に対して何らかの積極的行動に出るのではないか、もしそうなら事前にアメリカにその内容を示してほしい」という要求があり、また19日には、アメリカの[[フランク・ビリングス・ケロッグ|ケロッグ]][[アメリカ合衆国国務長官|国務長官]]が記者団に対し、「満州は中華民国の領土である」とし、同国の領土保全を定めた[[九カ国条約]]を提示した。のちにケロッグ国務長官は、日本を非難したように曲解されたことは非常に遺憾である旨を[[松平恒雄]]駐米大使に述べた。[[斉藤恒]]関東軍参謀長の日記によると、24日、アメリカ公使が[[芳沢謙吉]]公使に、日本独力にて満洲の治安維持を為さんとするとせば重大なる結果を来す、と告げた<ref name="iboshi"/>。
 
 
 
[[5月20日]]から関係当局の会議が開かれ、25日にようやく既定方針で進むことが決定されたが、[[有田八郎]][[アジア大洋州局|アジア局]]長と[[阿部信行]][[軍務局長]]が[[腰越]]の別荘にいた田中首相に決裁を求めると、田中首相は「まだええだろう」と答え、関東軍宛てに「錦州出動予定中止」が打電された。[[河本大作]]は「松平駐米大使からの報告に基づいて、田中首相がアメリカの輿論に気兼ねをし、既定の方針の敢行をためらった」と発言し、[[石原莞爾]]中佐は「出淵(松平の誤り)の電報一本で参謀本部が腰を抜かしたのだ」と語ったという<ref name="iboshi"/>。
 
 
 
[[村岡長太郎]]関東軍司令官は国民党軍の北伐による混乱の余波を防ぐためには、奉天軍の武装解除および張作霖の下野が必要と考え、関東軍を[[錦州]]まで派遣することを軍中央部に強く要請していたが、最終的に田中首相は出兵を認めないことを決定した。そこで村岡司令官は張作霖の暗殺を決意した。[[河本大作]]大佐は初め村岡司令官の発意に反対したが、のちに独自全責任をもって決行したという。
 
 
 
河本大作を満洲に送り込んだのは[[一夕会]]の画策であったと[[土橋勇逸]]は証言している<ref>土橋勇逸『軍服生活四十年の想出』</ref>。
 
 
 
== 列車爆破 ==
 
[[画像:Huanggutun Incident.jpg|thumb|270px|張作霖が乗車していた列車]]
 
 
 
1928年(昭和3年)6月4日の早朝、蒋介石の率いる北伐軍との[[決戦]]を断念して満洲へ引き上げる途上にいた張作霖の乗る特別列車が、奉天([[瀋陽市|瀋陽]])近郊、[[皇姑区|皇姑屯]](こうことん)の[[京哈線|京奉線]](けいほうせん)と[[満鉄連京線|満鉄連長線]]の[[立体交差]]地点を10[[キロメートル毎時|km/h]]程で通過中、上方を通る満鉄線の[[橋脚]]に仕掛けられていた[[下瀬火薬|黄色火薬]]300[[キログラム|kg]]が爆発した。列車は大破[[炎上]]し、交差していた[[鉄橋]]も崩落した。
 
 
 
張作霖は両手両足を吹き飛ばされた。現場で虫の息ながら「日本軍がやった」と言い遺したという。奉天城内の統帥府にかつぎこまれたときには絶命していたが、関東軍に新政府を作らせまいと6月21日に発表した。
 
 
 
また[[警備]]・[[側近]]ら17名が死亡した。同列車には張作霖の元に日本から派遣された[[軍事顧問]]の[[儀我誠也]]少佐も同乗していたがかすり傷程度で難を逃れた。事件直後に張作霖配下の[[荒木五郎]]奉天警備司令に激怒した話が伝わっている<ref>『朝日新聞』 2008年6月15日付朝刊 10面</ref>。張作霖の私的軍事顧問で予備役大佐の[[町野武馬]]は張作霖に要請されて同道したが、[[天津]]で下車した。また、[[山東省]]督軍の[[張宗昌]]将軍も天津で下車した。[[常蔭槐]]は先行列車に乗り換えた。
 
 
 
車両に乗車していた奉天軍側警備と線路を守っていた奉天軍兵士は爆発の直後やたらと[[発砲]]し始めたが日本人[[将校]]の指示によって落ち着き、[[射撃]]を中止した<ref name=LT19280606>[[タイムズ|タイムズ紙]] 1928年6月6日16面</ref>。
 
 
 
同乗していた儀我が事件直後に語ったところによると、列車は全部で20輌であり、張作霖の乗っていたのは8輌目であった<ref>「[[タイムズ]]」誌は「張作霖の使った列車は[[貴賓車]]22輌からなるもので爆破は[[蒸気機関車|機関車]]から11輌目を吹き飛ばし、続く4輌を焼失させた」と伝えている。 1928年6月5日16面</ref>が、爆破によりその前側車輌が大破し、先頭方の6輌は200メートル程走行して[[転覆 (鉄道車両)|転覆]]し、列車の後半は[[列車火災事故|火災]]を起こした。8輌目では張作霖の隣に[[呉俊陞]]、その次に儀我が座って会談していたが、呉が張と儀我に寒いからと勧めるので張は[[外套]]を着ようと立った瞬間に大爆音と同時にはね上げられ、爆発物が頭上から降ってくるために儀我は直ちに列車から飛び降り、張は鼻柱と他にも軽症を負い[[護衛]]の兵に助けられて降りた。近くに[[日本の国旗]]を立てている[[小屋]]があるので儀我は張にそこで休むことを勧めたが、この時には「何、大丈夫だ」と答えていた。やがて奉天軍[[憲兵]][[司令]]が[[ウマ|馬]]で到着し、現場は憲兵で[[警護]]され、[[自動車]]が到着すると張は自動車でその場を離れ[[大師府]]に入った<ref>『[[東京日日新聞]]』1928年6月5日付夕刊、一面</ref>。
 
 
 
関東軍司令部では、国民党の犯行に見せ掛けて張作霖を[[暗殺]]する計画を、関東軍司令官[[村岡長太郎]]中将が発案、河本大作大佐が全責任を負って決行する。河本からの指示に基づき、6月4日早朝、爆薬の準備は、現場の守備担当であった[[独立守備隊]]第四中隊長の[[東宮鉄男]][[大尉]]、同第二大隊付の[[神田泰之助]][[中尉]]、[[朝鮮軍 (日本軍)|朝鮮軍]]から[[関東軍]]に派遣されていた[[桐原貞寿]][[工兵]][[中尉]]らが協力して行った。
 
 
 
現場[[指揮]]は、現場付近の鉄道警備を担当する独立守備隊の東宮鉄男大尉がとった。2人は張作霖が乗っていると思われる第二列車中央の貴賓車を狙って、独立守備隊の監視所から爆薬に[[点火]]した。そのため、爆風で上から鉄橋(南満洲鉄道所有)が崩落して[[客車]]が押しつぶされた上に炎上したものである。なお張作霖が乗車していた貴賓車は、かつて[[清朝]]末期に権勢を振るっていた[[西太后]]が[[お召し列車]]用として使用していたものであった<ref name="tetsudou">『[[鉄道ジャーナル]]』2009年7月号記事より。</ref>。
 
 
 
河本らは、予め[[買収]]しておいた[[中国人]][[アヘン]][[薬物依存症|中毒患者]]3名を現場近くに連れ出して[[銃剣]]で刺突、[[死体]]を放置し「犯行は蒋介石軍の便衣隊([[ゲリラ]])によるものである」と発表、この事件が国民党の工作隊によるものであるとの[[偽装]][[工作]]を行っていた<ref>[[大江志乃夫]]『張作霖爆殺』、中央公論社(中公新書)、1989年 ISBN 4-12-100942-8</ref><ref>[[秦郁彦]]『昭和史の謎を追う (上)』、文藝春秋(文春文庫)、1999年 ISBN 4-16-745304-5</ref>。しかし3名のうち1名は死んだふりをして現場から逃亡し、[[張学良]]のもとに駆け込んで事情を話したため真相が中国側に伝わったものである。なお、張作霖の側近として同列車に同乗して事件で負傷した[[張景恵]]は後に[[満洲国]][[国務総理大臣]]に就任している。
 
 
 
=== 爆破事件の直接首謀者 ===
 
* 関東軍参謀 河本大作大佐(計画立案)
 
* 奉天独立守備隊 東宮鉄男大尉(直接担当)
 
* 朝鮮軍龍山の亀山工兵隊 桐原貞寿工兵中尉(爆弾設置工事等)
 
 
 
=== 事後調査 ===
 
[[画像:Huanggutun Incident in railway.JPG|thumb|270px|爆破箇所における現場検証(交差していた鉄橋は崩落している)]]
 
[[林久治郎]]奉天[[総領事]]は6月4日の事件発生直後、[[内田五郎]][[領事]]に対し、現場へ急行し奉天警察側との合同調査班を結成するよう命じた。内田は八ヶ代副領事らとともに、奉天交渉署関第一科長、安第三科長らとの合同現場検証チームを編成した。日本と奉天軍閥の共同調査が行われ、爆発後に集めた破片から爆弾はロシア製と判断された<ref name=LT19280606/>。事件当初から「[[日本軍]]の仕業」とする説が流布された。当初は国民党の便衣兵による犯行であるとされたこと<ref>『東京朝日新聞』1928年6月5日付朝刊、二面</ref>、また現場は張作霖の通過ということで奉天軍側は前日に警備の交替を日本側に申し出て奉天軍閥兵士50名で張が利用する京奉鉄道側を守り<ref>『読売新聞』1928年6月5日付朝刊、二面</ref>、日本軍は満洲鉄道側を警備していたため無関係との理解が得られ、日本に対する疑念は薄らいだ<ref>[[ニューヨーク・タイムズ|ニューヨーク・タイムズ紙]] 1928年6月6日7面</ref>。
 
 
 
奉天軍閥側は事件の発生した場所が本来日本側の管理区域であることから日本側の責任を主張したが、日本側は奉天軍閥側が自ら求めて張の到着のために警備を行った点を主張した。6月15日には日中共同調査の報告書に調印されることとなっていたが、奉天軍閥側は折衝を重ねた経緯があるにも関わらず当日調印を拒否した<ref>共同調査報告の内容は現場の状況、事件当日の日中特別警備協定、中国国民党の便衣隊による事件であること、爆薬装填箇所を特定する結論からなり、便衣隊については折衝により承認がなされ、爆薬装填箇所についても大部分も合意されていたが中国側は各項目全部の不承認を訴えた(『東京朝日新聞』1928年6月17日付夕刊一面)</ref>。日本側の記録には事件の際に外部の爆弾を用いて張作霖のいる車両のみならず、その場所まで特定して暗殺することは不可能であり、予め車両の天井部分に用意した爆弾を走行中に機関車からの電気配線を用いて爆破させた方法が実施されたとする根拠が記されている<ref name=B02031915100>{{Cite web|url=http://www.jacar.go.jp/|title=外務省記録『張作霖爆死事件 松本記録』|pages=【 レファレンスコード 】 B02031915100|publisher=アジア歴史資料センター|accessdate=2009-05-17}}</ref>。
 
 
 
現場調査を行った[[立憲民政党|民政党]]代議士[[松村謙三]]は、爆破に使用した[[電線]]が橋台から日本軍の監視所まで引き込まれていることを奉天軍閥側に指摘されて、「これで完全に参った」との記述を残している<ref>松村謙三『三代回顧録』、東洋経済新報社、1964年</ref>。事件直後現場に行って、事件に関わった安達隆成から詳細な話を聞いた工藤鉄三郎(工藤忠。のち溥儀から「忠」名を与えられて改名)が急いで帰国し、[[小川平吉]][[鉄道省|鉄道大臣]]に対し、口頭説明の後、書簡「奉天に於ける爆発事件の真相」でも説明し、田中首相にも口頭説明をした。白川義則陸相がなかなか信じなかったため、田中首相・小川鉄相・森恪外務政務次官が連携したとみられるが、「特別調査委員会」を設置し<ref name=B02031915100/>、陸軍に調査を促した結果、峯憲兵司令官が派遣され調査し、現場で発見された「中国人2人」の死体は実は日本側の工作であったことなどが確認された。工藤は、田中首相・小川鉄相・白川陸相・森次官のいずれとも関係があった人物であり、工藤の報告は田中内閣の実情調査・事実確認で決定的な意味をもった<ref>山田勝芳『溥儀の忠臣・工藤忠  忘れられた日本人の満洲国』(朝日新聞出版、朝日選書、2010年)</ref>。峯憲兵司令官も[[朝鮮]]にて桐原中尉を尋問、事件の主犯は河本大佐ら日本側軍人であるとの確証を得、その旨を田中首相に報告した。
 
 
 
また河本自身が事件の2ヶ月前に[[大阪陸軍地方幼年学校]]時代以来の後輩である[[磯谷廉介]]に「張作霖の一人や二人ぐらい、野垂れ死にしても差し支えないじゃないか。今度という今度は是非やるよ」と<ref>読売新聞戦争責任検証委員会編著『検証戦争責任II』、[[中央公論新社]]、[[2006年]] 8~9頁 ISBN 4-12-003772-X</ref>、張に対する実力行使を手紙で事前に告げていた。しかし同じ手紙の最初のほうに、「[[満蒙問題]]の解決は理屈ではとてもできぬ、少しぐらいの恩恵を施す術策も駄目なり、[[武力]]のほか道なし、ただ武力を用いるとするも名義と幡じるしの選択が肝要なり、ここにおいてか少しでも理屈ある時に一大痛棒を喰わせて根本的に彼らの対日観念を変革せしむる要あり」とあり、また、奉天[[特務機関]]長[[秦真次]]少将と張作霖首席軍事顧問[[土肥原賢二]]中佐が、張作霖親衛隊長[[黄慕]](荒木五郎)に謀反を起こさせようとした謀略を阻止したことが書かれており、「もし土肥原なんかのすることを放任していたら、陸軍はもう世間に顔出しならぬこととなっていよう」とあり、「張作霖の一人や二人ぐらい、野垂れ死にしても差し支えないじゃないか。今度という今度は是非やるよ」は必ずしも張作霖殺害を意味しない、という説もある<ref name="iboshi"/>。
 
 
 
斉藤恒関東軍[[参謀長]]は「張作霖列車爆破事件に関する所見」で、爆源は橋脚上部か列車内にあったのではないかと報告している。また、列車が現場に近づくや時速10キロ程度にスピードを落としたのはなぜか、と疑問を投げかけている。そして、列車内より橋脚上部の爆薬を爆破させようとしたら、列車内に小爆薬を装置し、これを爆破して逓伝爆破によって行えば容易なり、と述べている。さらに、橋脚壁は黒の[[煤煙]]で覆われ、黄色粉末を見ず、使用爆薬は[[黒色火薬|黒色]]または「ヂナミット」である、としている。[[内田五郎]][[領事]]の報告書<ref>「昭和三年六月四日満鉄京奉交叉点地点列車爆破事件調査報告」『張作霖爆殺ファイル』(A6-1-5-2)外交史料館所蔵</ref>では、爆薬は、[[展望車]]後方部か[[食堂車]]前部の車内上部か、または橋脚鉄桁と石崖との間の空隙個所に装置されたものと認められる、とされている。さらに、[[松村謙三]]は、爆破の状況をみるに、上のガードの下に火薬を装充して爆破したものらしい、と述べている<ref>松村謙三『三代回顧録』</ref>。
 
 
 
しかし、河本大作は線路脇の[[土嚢]]の土を火薬にすりかえたと証言しており<ref>森克己『満洲事変の裏面史』(森克己著作選集第6巻)国書刊行会、1976年</ref>、[[秦郁彦]]は、線路脇の資材置場に積んであった土嚢と黄色火薬詰めの[[麻袋]]と差し替えたとしており<ref>秦郁彦『昭和史の謎を追う』上巻</ref>、満鉄線陸橋から奉天側へ数メートルほど離れた地点としている<ref>秦郁彦「張作霖爆殺事件の再考察」(『政策研究』第44巻第1号)</ref>。また、[[松本清張]]は、満鉄路線脇の歩哨の[[トーチカ]]に麻袋3個分の火薬がつめこまれたとしている<ref>松本清張『昭和史発掘』2巻</ref>。さらに、[[相良俊輔]]は、陸橋の橋脚から15メートル手前の線路際に積んであった土嚢の土をのぞき、火薬をつめたとしている<ref>相良俊輔『赤い夕陽の満州野ヶ原で』</ref>
 
 
 
=== 田中内閣総辞職 ===
 
[[東京裁判]]関係[[資料]]から発見された「厳秘 内奏写」(栗谷憲太郎『東京裁判論』所収、大月書店)によれば、田中首相は[[昭和天皇]]にたいし同年12月24日「矢張関東軍参謀河本大佐が単独の発意にて、其計画の下に少数の人員を使用して行いしもの」と河本大佐の犯行を認めたうえで、関係者の処分を行う旨の上奏を行った。しかし田中はその後、陸軍ならびに閣僚・重臣らの強い反対にあった。[[白川義則]]陸相は三回にわたって天皇に関東軍に大きな問題はない旨を上奏し、陸軍は[[軍法会議]]開廷を回避して[[行政処分]]で済ませるため、5月14日付で河本高級参謀を内地へ異動させたので、河本をふくめた関係者の処分を断念。「この問題はうやむやに葬りたい」との上奏を行うこととなった。
 
 
 
[[6月27日]]、田中首相は「陸相が奏上いたしましたように関東軍は爆殺には無関係と判明致しましたが、警備上の手落ちにより責任者を処分致します」と上奏した。これに対し天皇は「それでは前と話が違ふではないか」と田中を叱責し、田中首相が恐懼し弁解をしようとしたが、[[鈴木貫太郎]]侍従長に「田中総理の言ふことはちつとも判らぬ。再びきくことは自分は厭だ。」と話す<ref>原田熊雄著『西園寺公と政局 第一巻』岩波書店、1950年。</ref>。鈴木侍従長から天皇の言葉を聞かされた田中は引責辞任の腹を決め、[[7月1日]]付で村岡長太郎関東軍司令官を依願予備役、河本大作陸軍歩兵大佐を停職、斉藤恒前関東軍参謀長を譴責、[[水町竹三]]満州独立守備隊司令官を譴責とする行政処分を発表し、[[7月2日]]に田中内閣は総辞職した。しかし、大佐クラスの独断で出来る規模の謀略ではなく関東軍司令官からの命令であったと言われていたにも係らず、河本は主な責任を問われ、[[1929年]](昭和4年)4月に[[予備役]]、第九師団司令部附となり金沢に講せられ、同年8月[[懲戒処分|停職]]処分と言う形で軍を追われた。
 
 
 
=== 易幟 ===
 
また、奉天軍閥を継いだ張作霖の息子・[[張学良]]も程なく真相を知って激怒し、国民政府と和解して日本と対抗する政策に転換。[[1928年]](昭和3年)[[12月29日]]朝、奉天城内外に一斉に[[青天白日満地紅旗]]が掲げられた([[易幟]])。結果、日本は満洲への影響力を弱める結果となった。
 
 
 
これが後の[[満洲事変]]の背景の1つとなる。
 
 
 
== 異説 ==
 
=== ソ連特務機関犯行説 ===
 
張作霖爆殺事件は、ロシアの歴史作家[[ドミトリー・プロホロフ]]により、スターリンの命令にもとづいて[[ナウム・エイチンゴン|ナウム・エイティンゴン]]が計画し、日本軍の仕業に見せかけたものだとする説も存在している。2005年に邦訳が出版された[[ユン・チアン]]『[[マオ 誰も知らなかった毛沢東]]』でも簡単に紹介され、プロホルフは産経新聞においても同様のことを語っている<ref>2006年2月28日 産経新聞</ref>。
 
 
 
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=== その他 ===
 
在中全権大使を務めたアメリカの外交官・[[ジョン・ヴァン・アントワープ・マクマリー]]の覚書によると、[[郭松齢]]の反乱以降、張学良が父[[張作霖]]との関係がうまくいっていなかったこと、日本と張作霖の関係は完全に満足のゆくものではなかったが、どうしようもない状態ではなかったことから、日本人が張作霖を爆殺したという説は理解できないとしている<ref>[[ジョン・ヴァン・アントワープ・マクマリー]]『平和はいかに失われたか』</ref>。瀧澤一郎も同様に日本側は張作霖を重視しており、殺害するメリットはなく、デメリットしかないことが明らかで、日本側が犯行を犯したという言説に疑問を呈している<ref>『正論』2006年5月号「張作霖を「殺った」ロシア工作員たち」</ref>。また、[[加藤康男 (編集者)|加藤康男]]は『謎解き「張作霖爆殺事件」』で、「ソ連特務機関犯行説」とともに「張学良犯行説」に言及している。
 
 
 
== 現状 ==
 
現場の線路は現役であり<ref name="tetsudou"/>、張作霖列車が大破した下線は[[瀋陽北駅]]から北京に向かう高速電車などに使われ、上線は[[瀋陽駅]]から吉林方面に向かう列車などに使用。上下線の交差付近の斜面上に「皇姑屯事件」と事件跡を示す石碑がある<ref name="tetsudou"/>が、鉄道施設内にあるため一般人の立ち入りはできず線路脇からしか見ることができない。
 
 
 
なお、張作霖が向かっていた瀋陽駅は[[線形 (路線)|線形]]が変更されたため、張作霖列車が使っていた線路では入線することができない<ref name="tetsudou"/>。
 
 
 
== 備考 ==
 
張作霖爆殺事件の首謀者とされる河本大作であるが、また事件後、関東軍時代の伝手を用いて南満洲鉄道の理事、ついで[[満州炭坑]]の理事長と就任できたのも事件への関与が評価されていたと言える。
 
 
 
== 脚注 ==
 
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== 参考文献 ==
 
; 概説書、研究文献
 
* 井星英「張作霖爆殺事件の真相」(『芸林』昭和57年3月号より5回連載)
 
* [[稲葉正夫]]「張作霖爆殺事件」(参謀本部『昭和三年支那事変出兵史』所収)
 
* [[大江志乃夫]]『張作霖爆殺』(中公新書)
 
* [[秦郁彦]]「張作霖爆殺事件」(文春文庫『昭和史の謎を追う』(上)所収)
 
* 秦郁彦「張作霖爆殺事件の再考察」(日本大学法学会『政経研究』2007.5)=「ソ連陰謀説」への批判。
 
* 益井康一「満州事変の真相」(光人社NF文庫「なぜ日本は戦争を始めたのか」所収)
 
* 『昭和・平成日本のテロ事件史』(別冊宝島)
 
* 植民地文化学会 中国東北淪陥14年史総編室『「満洲国」とは何だったのか―日中共同研究』[[小学館]] [[2008年]]
 
 
 
== 張作霖爆殺事件を描いた作品 ==
 
; 小説
 
* 『満州の陰謀者 <small>河本大作の運命的な足あと</small>』(日本、[[平野零児]]、[[自由国民社]]、1959年)
 
* 『[[虎口からの脱出]]』(日本、[[景山民夫]] [[新潮文庫]] ISBN 4101102120 、1990年)
 
* 『赤い夕陽の満州野が原に』 (日本、[[相良俊輔]]、[[光人社]]NF文庫、1996年)
 
* 『マンチュリアン・リポート』 (日本、[[浅田次郎]]、[[講談社]]、 ISBN 4062165007、2010年)
 
; 映画
 
* 『[[戦争と人間 (映画)|戦争と人間]] 第一部 運命の序曲』(日本、[[山本薩夫]]監督、1970年)
 
 
 
== 関連項目 ==
 
{{Commonscat|Huanggutun Incident}}
 
*[[張作霖]]
 
*[[柳条湖事件]]
 
*[[満州事変]]
 
*[[満州国]]
 
  
 
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張作霖爆殺事件(ちょうさくりんばくさつじけん)

中華民国陸海軍大元帥張作霖が、関東軍高級参謀河本大作(こうもとだいさく)大佐の謀略により爆殺された事件。1928年(昭和3)国民革命軍の北伐が北京(ペキン)に迫ったため、張は6月3日京奉(けいほう)線の特別列車で北京を退去し、奉天(ほうてん)(現瀋陽(しんよう))に向かった。関東軍は、この機会に張を下野させ、満州(東三省)を中国から独立させようと謀り、錦州(きんしゅう)方面に出動する態勢をとったが、田中義一(ぎいち)首相は武力行使を承認しなかった。このため河本は出動の口実を得ようと、4日早朝、奉天近郊で張の列車を爆破した。張は爆死したが、関東軍は事前の打合せが不十分で出動しなかった。真相は日本国民に秘匿されたが、満州某重大事件として疑惑をよび、田中内閣の倒壊を招いた。



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