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{{政治家
 
{{政治家
 
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'''広田 弘毅'''(ひろた こうき、旧字体:'''廣田'''、[[1878年]]([[明治]]11年)[[2月14日]] - [[1948年]]([[昭和]]23年)[[12月23日]])は、[[日本]]の[[外交官]]、[[政治家]]。[[勲等]]は[[勲一等旭日大綬章|勲一等]]。旧名は'''丈太郎'''(じょうたろう)。
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'''広田 弘毅'''(ひろた こうき、旧字体:'''廣田'''、[[1878年]]([[明治]]11年)[[2月14日]] - [[1948年]]([[昭和]]23年)[[12月23日]]
  
[[外務大臣 (日本)|外務大臣]](第[[齋藤内閣|49]]・[[岡田内閣|50]]・[[廣田内閣|51]]・[[第一次近衛内閣|55]]代)、[[内閣総理大臣]]([[廣田内閣|第32代]])、[[貴族院 (日本)|貴族院]]議員などを歴任した。[[第二次世界大戦]]後の[[極東軍事裁判]]で[[文官]]としては唯一の[[A級戦犯]]として有罪判決を受け死刑となった。
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外交官,政治家。東京大学を卒業し,1906年に外務省に入った。1926~30年駐オランダ公使,1930~32年駐ソ大使。
  
== 生涯 ==
+
1933~36年[[斎藤実]][[岡田啓介]]両内閣の外相として,穏和な対外政策を唱えながら,軍部の強硬方針を抑えられなかった。 1936~37年首相。日独防共協定を締結。
=== 生い立ち ===
 
[[File:The_Birthplace_of_the_Prime_minister_HIROTA_Kohki.jpg|200px|left|thumb|「廣田弘毅先生 生誕之地」の石碑]]
 
[[1878年]]([[明治]]11年)2月14日、[[福岡県]][[那珂郡 (福岡県)|那珂郡]]鍛冶町(のち[[福岡市]][[中央区 (福岡市)|中央区]][[天神 (福岡市)|天神]]三丁目)の[[石材]]店を営む[[広田徳平]](通称:広徳)の息子として生まれた。初名は丈太郎(じょうたろう)。徳平は[[箱崎 (福岡市)|箱崎]]の[[農家]]の息子で、広田家に徒弟で入り真面目さと仕事熱心が買われ、子どもがいなかった広田家の養子になった。[[File:The statue of Emperor Kameyama in Azuma park (1).jpg|thumb|亀山上皇像の銘板]]今日でも福岡市の[[東公園 (福岡市)|東公園]]内にある[[亀山天皇|亀山上皇]]像の[[銘板]]には設置に功績があった石工として徳平の名が刻まれている(右画像参照)。『広田弘毅伝』などによると、当時の広田家はひどく貧しかったというが、親族によるとそれほど貧しくはなかったという。また徳平は[[条約改正]]に反対し、[[大隈重信]]に爆弾を投げつけて重傷を負わせた[[来島恒喜]]のために立派な墓碑を寄贈した。来島は[[玄洋社]]の社員であり、広田家と玄洋社の間につながりがあったことを示している<ref>服部、13-14p</ref>。
 
  
福岡市立大名小学校、高等小学校卒業後、予科を経て福岡県立修猷館(のち[[福岡県立修猷館高等学校]])に入学した。同窓生には同期で外交官となった[[平田知夫]]がいる。広田は幼少期から[[柔道]]、[[書道]]を得意としており、玄洋社の所有する柔道場で稽古をしていた。後に柔道場が新築された時の落成式では総代を務めている。このころ玄洋社の社員となった<ref group="注釈">広田弘毅伝記刊行会編『広田弘毅』などでは正式な社員とならなかったとしており、『落日燃ゆ』などでも踏襲されているが、服部龍二は玄洋社記念館の館報『玄洋』第2号の記述から広田が正式な社員になったとしている(服部、4-6、16p)。また東京裁判開廷前の[[キャルプーン・フェルプス]]大尉による尋問では「イギリスから帰ったとき青年教育のために入社するよう求められ、改めて社員になった」と供述している(服部、229-230p、『国際検察局尋問調書』第28巻よりの引用)。</ref>。
+
1937~38年第1次[[近衛文麿]]内閣の外相。 1945年6月には和平工作のため駐日ソビエト大使 Y. A.マリクと会談したが,不成功に終った。
  
当初は家計への負担をかけないために[[陸軍士官学校 (日本)|陸軍士官学校]]への進学を志望していたが、修猷館時代に起きた[[三国干渉]]に衝撃を受け、外交官を志した<ref>服部、16p</ref>。修猷館卒業直前、帰依している[[禅宗]]の[[僧侶]]に相談に行き、「おまえが自分で自分に責任を持てると思うなら自分で名前を考えろ」と言われ「弘毅」と改名した。「弘毅」は『[[論語]]』巻四 泰伯第八にある「士不可以不弘毅」(士はもって弘毅(「弘」とは広い見識、「毅」とは強い意志力)ならざるべからず)から採った。当時は改名が難しく1年間は僧籍に入る必要があったが、1年間寺に入ったということにしてもらった。
+
第2次世界大戦後,[[極東国際軍事裁判]]によって,[[A級戦犯]]として絞首刑を言い渡され,文官でただ1人処刑された。
 
 
修猷館卒業後、平田とともに上京し[[第一高等学校 (旧制)|第一高等学校]]、[[東京大学|東京帝国大学]]法学部政治学科に学んだ。学費は玄洋社の[[平岡浩太郎]]が提供している<ref>服部、17p</ref>。また[[頭山満]]の紹介で[[副島種臣]]、[[山座円次郎]]、[[内田良平 (政治運動家)|内田良平]]や[[杉山茂丸]]の知遇を得た<ref>服部、17-19p</ref>。内田の紹介で[[講道館]]に入り、また山座には特に気に入られた。山座は広田らに外交関連の小冊子の発行を依頼し、[[1903年]](明治36年)には[[満州]]・[[朝鮮半島|朝鮮]]の視察を命じている。[[日露戦争]]時には[[捕虜収容所]]で通訳を行い、ロシア情報の収集に当たった。大学卒業後の[[1905年]](明治38年)に[[高等文官試験]]外交科を受けるが、[[英語]]が苦手で落第、ひとまず[[韓国統監府]]に籍を置いて試験に備えた。帝大同期の[[佐分利貞男]]は首尾よく合格している。赴任直前に玄洋社幹部・[[月成功太郎]]の次女で、広田らの下宿生活の手伝いをしていた静子と結婚した。静子との結婚前には元外相・[[加藤高明]]の紹介で[[三菱財閥]]の令嬢との縁談が持ち上がったが、これを断っている<ref>服部、22-23p</ref>。翌年の高等文官試験外交科では、合格者11人のうち、首席で合格して外務省に入省した。同期に[[吉田茂]]、[[武者小路公共]]、[[池邊龍一]]、[[林久治郎]]らがいる。
 
 
 
=== 外交官時代 ===
 
[[ファイル:Mr and Mrs. Koki Hirota.jpg|thumb|200px|[[1909年]]、[[妻]]の廣田静子(右)と]]
 
[[1907年]](明治40年)、[[清|清国]]公使館付外交官補として[[北京]]に在勤、その後は三等書記官として[[ロンドン]]の在[[イギリス|英]]大使館に赴任。1913年([[大正]]2年)6月、本省の通商局第一課長となり[[第一次世界大戦]]後、中国への「[[対華21ヶ条要求]]」の条文作製に参加するものの[[最後通牒]]の形で出すことには強く反対した。[[1919年]](大正8年)、[[ワシントンD.C.]]に赴任することとなり、その際[[サンフランシスコ]]に着くと外務省の役人として初めて日本人移民村の視察を行い、移民たちから歓迎を受ける。その後、新設された情報部の課長、次長を経て[[1923年]](大正12年)9月、[[第2次山本内閣]]発足にともない欧米局長となる。次の[[加藤高明内閣]]では国際協調を重んじる「[[幣原外交]]」のもとで欧米局長として対ソ関係の改善に取り組み、[[1925年]](大正14年)の[[日ソ基本条約]]締結により国交回復にこぎつける。当時、広田は党派を超え広く外部と交際しており「外務省には[[幣原喜重郎|幣原]]、[[出淵勝次|出淵]]、広田の3人の大臣がいる」と言われるほどであった。
 
 
 
[[1926年]](大正15年)11月、[[オランダ]]公使を拝命(任地[[ハーグ]]着任は[[1927年]](昭和2年)6月)。[[1930年]](昭和5年)10月、駐[[ソビエト連邦]][[特命全権大使]]を拝命(任地[[モスクワ]]着任は12月)し、[[1932年]](昭和7年)にかけて務めた。着任後、[[満州事変]]が勃発。政府は軍を直ちに撤兵させる旨を各国政府に通告するよう駐在大使・公使に訓令を出したが広田は慎重な態度をとり、ソ連に通告を出さなかった。[[関東軍]]は撤兵することなく永久占領の形で[[チチハル]]に居座り、駐在大使・公使が各国政府の信頼を失う中、モスクワだけが例外となった。
 
 
 
=== 協和外交 ===
 
[[ファイル:Koki Hirota posing.jpg|thumb|left|200px|政治家のころ]]
 
[[1933年]](昭和8年)[[9月14日]]、[[斎藤内閣]]の[[外務大臣 (日本)|外務大臣]]に就任。これは前任者の[[内田康哉]]の人選によるものである。このとき、各国の駐日大公使を招いて新任挨拶をした際、駐日米国大使[[ジョセフ・グルー]]の信頼を得る。斉藤内閣で5回にわたり開かれた五相会議では、対ソ強硬意見を唱える陸軍大臣・[[荒木貞夫]]と海軍大臣・[[大角岑生]]を相手によく渡り合い、[[大日本帝国陸軍|陸軍]]の提出した「皇国国策基本要綱」を骨抜きにした。
 
 
 
[[1934年]](昭和9年)[[4月17日]]、外務省情報部長・[[天羽英二]]が中国大陸([[中華民国]])に対する外国の干渉を退けるという趣旨の会見を行った([[天羽声明]])。この発言を欧米諸国は「[[アジア・モンロー主義|東亜モンロー主義]]」であるとして激しく非難し、外務省内部からも反発された。天羽の発言は広田名義で駐華公使・[[有吉明]]に宛てた[[公電]]であったが、この公電の内容を指示したのは外務次官の[[重光葵]]であった。広田はグルーなどに第三国の利益を害するものではないと釈明を行ったが、天羽や重光が処分されることはなかった<ref>服部、75-80頁</ref>。
 
 
 
同年7月3日、斎藤内閣は総辞職したが、続いて[[岡田内閣]]でも外相に留任し、当時ソ連との間で懸案となっていた、[[東清鉄道|東支鉄道]]買収交渉を妥結、条約化し、鉄道をめぐる紛争の種を取り除いた。また、ソ連との間で国境画定と紛争処理の2つの小委員会をもつ委員会を設けることを取り決め、のちに自身の内閣で国境紛争処理委員会として設置される。
 
 
 
[[1935年]](昭和10年)1月22日、帝国議会において広田は日本の外交姿勢を「協和外交」と規定し万邦協和を目指し、「私の在任中に戦争は断じてないと云うことを確信致して居ります」と発言した。この発言は[[蒋介石]]や[[汪兆銘]]からも評価された。その後、中国に対する外交姿勢は高圧的なものから融和的なものに改められ、[[治外法権]]の撤廃なども議論されるようになった。さらに在華日本代表部を公使から大使に昇格させた。諸外国もこの動きに追随したため、中華民国政府は広田外交を徳とし大いに評価した。しかし、軍部は満州国の承認がない状態での対華融和に反対であり、特にこの動きは軍部への根回しがほとんど行われなかった。また軍部は衝突が起こるたびに独自に中国側と交渉し、[[梅津・何応欽協定]]や[[土肥原・秦徳純協定]]を結ばせた。中華民国側は外務省に仲介を求めたが、「本件は主として停戦協定に関聯せる軍関係事項なるを以て、外交交渉として取り扱うに便ならず」として拒絶した<ref>服部、93-94p</ref>。
 
 
 
中華民国政府内の親日派は日本との提携関係を具体化すべく、同年5月から広田と協議を始めた。中華民国側は「日中関係の平和的解決、対等の交際、排日の取締」の3条件を提示し、さらに満州国の承認取り消しを求めないという条件を伝えた。しかし広田はこれに納得せず、新たな「広田三原則」を提示した。
 
 
 
#支那(中華民国)側をして排日言動の徹底的取締りを行いかつ欧米依存より脱却すると共に対日親善政策を採用し、諸政策を現実に実行し、さらに具体的問題につき帝国と提携せしむること。
 
#支那側をして[[満州国]]に対し、窮極において正式承認を与えしむること必要なるも差当り満州国の独立を事実上黙認し、反満政策を罷めしむるのみならず少なくともその接満地域たる北支方面においては満州国と間に経済的および文化的の融通提携を行わしむること。
 
#外蒙等より来る赤化勢力の脅威が日満支三国の脅威たるに鑑み、支那側をして外蒙接壌方面において右脅威排除のためわが方の希望する諸般の施設に協力せしむること。
 
この三原則は外務・陸・海の3大臣の了解事項となり、首相・[[岡田啓介]]、大蔵大臣・[[高橋是清]]もこれを了承した<ref>服部、96-97p</ref>。これは対中外交の大枠を決定することにより、実質的に軍部を牽制するものであった。しかし中華民国側には失望を以て受け止められた。「中国側の原則はまだしも相互主義的であったが、広田三原則は一見して明らかなとおり、日本側の一方的な要求に終始していた。」と[[日中歴史共同研究]]の日本側研究者は結論つけている<ref>外務省『日中歴史共同研究』http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/china/rekishi_kk.html 戸部良一「第2部第1章:満洲事変から日中戦争まで 」http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/china/pdfs/rekishi_kk_j-2.pdf</ref>。
 
 
 
また、軍の国防問題講演会や[[国体明徴]]講演会に対抗するため、吉田茂ら待命の大公使に国内各地で外交問題講演会を開かせた。
 
 
 
=== 内閣総理大臣 ===
 
[[ファイル:The Hirota Cabinet.jpg|thumb|200px|[[1936年]][[3月9日]]、[[廣田内閣]]の閣僚らと]]
 
[[File:List of Ideological Criminal Probation offices in Imperial Japan (思想犯保護観察所一覧、大日本帝国).jpg|thumb|200px|1936年5月29日成立の[[思想犯保護観察法]]によって設置された思想犯保護観察所の一覧。この他、[[仏教会]]等も思想犯保護観察団体であった。]]
 
[[ファイル:Hirota_and_Terauchi_during_the_Kappuku-mondou.jpg|thumb|200px|[[1937年]][[1月21日]]、[[衆議院]]本会議にて[[衆議院議員]][[濱田國松]]の質問に答弁する[[陸軍大臣]]・[[寺内寿一]](手前)と廣田(奥)]]
 
{{See also|廣田内閣}}
 
 
 
[[二・二六事件]]が発生すると岡田内閣は総辞職した。当時の[[内閣総理大臣|総理大臣]]は最後の[[元老]]であった[[西園寺公望]]が[[天皇]]の下問を受けて推薦していた。このとき西園寺はまず[[近衛文麿]]を推し、初めに近衛に組閣命令が下ったが、近衛は病気を名目に辞退した。そのため[[枢密院 (日本)|枢密院]]議長・[[一木喜徳郎]]が広田を推した。西園寺もこれを了承し、近衛を介して吉田茂を説得役として派遣した。広田は拒み続けたがついには承諾した。
 
 
 
[[昭和天皇]]は広田が総理になることについて、西園寺に「広田は名門の出ではない。それで大丈夫か」と尋ねた。広田は名家出身でないのはもとより、親類・縁者にもこれといった人がなかった。当時の日本は[[業績主義]]が徹底し、出自に関わらず軍学校を経て高級軍人や帝国大学を経て高等文官への道が開かれていた<ref group="注釈">[[伊藤博文]]、[[原敬]]を代表するように、明治以降は[[業績主義]]が徹底していたが、首相は[[士族]]や富農の出がほとんどである。</ref>。
 
これを後で聞いた広田は「陛下は自分に対して信任がないのではないか」ととても気にしていた。[[1936年]](昭和11年)[[3月5日]]、天皇から組閣大命が下る。この際、天皇から新総理への注意として歴代総理に与えられた3ヵ条の注意、
 
* 第一に憲法の規定を遵守して政治を行なうこと。
 
* 第二に外交においては無理をして無用の摩擦を起こすことのないように。
 
* 第三に財界に急激な変動を与えることのないように。
 
の他に「第四に名門を崩すことのないように」という1ヵ条が特に付け加えられた<ref group="注釈">当時は[[貴族院 (日本)|貴族院]]改革が問題となっており、華族議員の削減が議論となっていた。服部龍二は天皇の発言をこの問題をふまえたものではないかとしている。服部、190-191p</ref>。
 
これにより広田は「自分は50年早く生まれ過ぎたような気がする」と語ったという。
 
 
 
組閣にあたって陸軍から閣僚人事に関して不平がでた。好ましからざる人物として指名されたのは吉田茂(外相)、[[川崎卓吉]](内相)、[[小原直]](法相)、[[下村海南]]、[[中島知久平]]である。吉田は英米と友好関係を結ぼうとしていた自由主義者であるとされ、結局吉田が辞退し広田が外務大臣を兼務し(かわりに吉田は駐英大使に任命される)小原、下村らも辞退、川崎を商工相に据えることになり[[3月9日]]、広田内閣が成立した。
 
 
 
就任後は二・二六事件当時の[[陸軍次官]]、[[軍務局長]]、陸軍大学校長の退官・更迭、軍事参事官全員の辞職、陸軍大臣・[[寺内寿一]]ら若手3人を除く陸軍大将の現役引退、計3千人に及ぶ人事異動、事件首謀者の将校15人の処刑など大規模な粛軍を実行させた。しかし[[軍部大臣現役武官制]]を復活させ、軍備拡張予算を成立させるなど軍部の意見を広範に受け入れることとなる。
 
 
 
また粛軍と共に「庶政刷新」に取り組み、以下の広田内閣の七大国策・十四項目を決定した。
 
#国防の充実
 
#教育の刷新改善
 
#中央・地方を通じる税制の整備
 
#国民生活の安定
 
#*(イ)災害防除対策、(ロ)保護施設の拡大、(ハ)農漁村経済の更生振興及び中小商工業の振興
 
#産業の統制
 
#*(イ)電力の統制強化、(ロ)液体燃料及び鉄鋼の自給、(ハ)繊維資源の確保、(ニ)貿易の助長及び統制、(ホ)航空及び海運事業の振興、(ヘ)邦人の海外発展援助
 
#対満重要国策の確立、移民政策([[二十カ年百万戸送出計画]])及び投資の助長等
 
#行政機構の整備改善
 
具体的には[[義務教育]]期間を6年から8年へ延長、地方財政調整交付金制度の設立、発送電事業の国営化、[[母子保護法]]などの法案化を決定した。11月には[[日独防共協定]]を締結した。これについて広田は頭山満の死後、頭山を「大徳」と呼び「英米の東洋圧迫が露骨化して来たころ、陰ながら先生が独大使との間に尽され斡旋された」とその内幕を書いている<ref>昭和19年10月6日『毎日新聞』7面「国事に尽くした90年、無官の国士逝く」広田弘毅</ref>。
 
また自ら天皇にも働きかけ、[[文化勲章]]を制定した。
 
 
 
一方で軍部の自由行動を押さえ、[[統帥]]の一元化をはかるために[[大本営]]を設置する案を持っていた。しかしこれは正式に提案されることはなかった<ref>服部、137-139p</ref>。
 
 
 
[[1937年]](昭和12年)1月、議会で[[浜田国松]]と寺内寿一の間で「[[腹切り問答|割腹問答]]」が起こった。激怒した寺内は広田に[[衆議院解散]]を要求、しかし政党出身の4閣僚がこれに反対し、海軍大臣・[[永野修身]]も解散には否定的であった。このため広田は閣内不統一を理由に[[内閣総辞職]]を行った<ref group="注釈">総辞職直前の閣議前に、「閣議で陸海軍大臣が論争するようなことがあっては面白くない」と西園寺の秘書[[原田熊雄]]に語っている。(服部、145p、原田熊雄『西園寺公と政局』よりの引用)</ref>。
 
広田の後任として[[大命降下|組閣大命]]を受けたのは[[宇垣一成]]であったが、陸軍が反対し軍部大臣現役武官制によって陸軍大臣が得られずに組閣できずに終わる。かわって[[林銑十郎]]に組閣大命が下り、[[2月2日]]に[[林内閣]]が成立した。
 
 
 
=== 近衛内閣外相 ===
 
[[File:Fumimaro Konoe First Cabinet.jpg|thumb|200px|[[1937年]]、[[内閣総理大臣]][[近衛文麿]](最前列右から1人目)ら[[第一次近衛内閣]]の閣僚らと]]
 
辞職後しばらくは[[鵠沼]]の別荘で恩給生活を送る。5月31日には[[貴族院 (日本)|貴族院]]の勅選[[国会議員|議員]]となった<ref>『官報』第3121号、昭和12年6月1日。</ref>。6月4日に近衛文麿を首相とする[[第一次近衛内閣]]が成立すると、近衛の要請で外務大臣となった。しかし組閣後間もない[[7月7日]]に[[盧溝橋事件]]が勃発し、中華民国との間で戦闘状態が発生した。当初、広田は不拡大方針を主張し、現地交渉による解決を目指した。南京駐在の参事官・[[日高信六郎]]を通して国民政府外交部長・[[王寵恵]]に対し次のように要求させた。
 
{{Quotation|帝国政府ハ去七月十一日声明ノ方針通、飽迄事態不拡大ノ方針ヲ堅持スト雖モ其ノ後二於ケル国民政府ノ態度二鑑ミ左記ヲ要求ス
 
: 1. 有ラユル挑戦的言動ノ即時停止
 
: 2. 現地両国間二行ハレツツアル解決交渉ヲ妨害セサルコト
 
右ハ概ネ七月十九日ヲ期シ回答ヲ求ム <ref group="注釈">広田弘毅の訓電を受けた[[日高信六郎]]は7月17日夜、王寵恵外交部長を訪ねて公文を手渡し「日支間の平和を維持するためには、何はともあれ7月11日の現地停戦協定を実行して事件の拡大を阻止することが最緊要である。また現地におげる日支両軍の兵力は、日本側が比較にならぬほど少ない(支那駐屯軍・5774名)ものであるから、事件の勃発以来、現地の事態が切迫したために日本側では居留民の保護を十分にするためだけ ではなく、駐屯軍の安全のためにも増援部隊を送る必要に迫られているのである。従ってまず、現地で停戦協定を実行して空気を緩和することが重要である。こういう時に当たって南京政府が北支に増兵することは事態拡大の危険性をもっとも多く含むものである。ゆえに現在、盛んに北上しつつある国民政府・中央軍を速やかに停止して欲しい」と述べた。これは英訳して「在南京の英米大使」にも送られた。</ref>。}}
 
しかし戦果に対して世論が沸き立つと、徐々に妥協的になり、陸軍の求める増派や休戦条件を了承するようになった<ref>服部、156-160p</ref>。
 
この時の内務大臣・[[馬場えい一|馬場鍈一]]は、「広田外務大臣の如きはあまりに消極的で、こういう大事な時に進んでちっとも発言しない」とし、近衛も「外務省は広田さんの消極的な態度にはほとんどあきれ返って、下の者がまるでサボタージュというような状態だ」と語っている<ref>服部、161p</ref>。この時、広田の部下であった東亜局長・[[石射猪太郎]]と東亜一課長・[[上村伸一]]は辞表を提出したが、広田に慰留されている。不拡大を実現したい陸軍作戦部長・[[石原莞爾]]は何度も首脳外交を提案するが、外交のプロを自認する広田は動かず、外務省は石射を中心に、北支からの撤退を基本とする和平条件を作り陸海軍の了承を得るが、実現しなかった。
 
 
 
閣議で不拡大方針が放棄された後も、日華和平の動きは続いた。当初、広田が南京に派遣されるという案があったが、実行されなかった。最終的には元外相・[[有田八郎]]を中国に派遣して[[国民政府]]との交渉の糸口をつかもうとした<ref group="注釈">この時有田に対し「黙っていても、上海に来ている、南京側の者をはじめ、いろいろな人が、自然君に接近してくるだろう。そんなところから蒋介石との交渉の端緒をつかみたいと思っている」と語っている。服部、164p(有田八郎『馬鹿八と人はいう』より引用)</ref>。
 
また駐日ドイツ大使{{仮リンク|ヘルベルト・フォン・ディルクセン|en|Herbert von Dirksen}}<ref group="注釈">広田とディルクセンは同時期に駐ソ大使を務めており、両者の間には交友があった。</ref>、駐華ドイツ大使[[オスカー・トラウトマン]]を介して事変の解決を働きかけたが、日本軍の占領地域が拡大すると「先に我方条件に付御話したるが、その後一ヶ月余りも経過し戦局多いに進捗し、今日に至りては日本国民の支那に対する考え方にも変化を生じ、日支関係の根本的建直しを求め居る」<ref>服部、175p「北平大使館記録」よりの引用</ref>として条件を付加し、交渉はまとまらなかった。交渉中止の決定を受け、「国民政府を対手とせず」という[[近衛声明]]が発せられた。{{Main|トラウトマン和平工作}}
 
 
 
[[1938年]](昭和13年)1月22日、広田は帝国議会で「到底事変解決の見込ないことが明かとなったのであります」と述べ、「帝国と真に提携するに足る新興支那政権の成立発展を期待」するとした<ref>服部、190-191p</ref>。この後、南京に日本の支援で「[[中華民国維新政府]]」が設立されたが、蒋介石率いる重慶国民政府との交渉ルートは失われ、和平は絶望的になった。5月26日、路線転換を図った近衛は内閣改造を行い、広田は外相を辞任した。後任はかつて広田内閣後の首相候補となった宇垣一成であった。
 
 
 
外相時代にはそのほか、上海での[[ヒューゲッセン事件]]、揚子江の[[パナイ号事件]]、[[蕪湖]]の[[レディバード (砲艦)#レディバード号事件|レディバード号事件]]に善処し、英国大使・[[ロバート・クレイギー]]と米国大使・ジョセフ・グルーから高く評価された。また[[企画院]]による総理直属の対華中央機関である対支局設置構想に外交の一元主義を破壊するとして反対している。
 
 
 
=== 戦時中===
 
外相辞任後は貴族院議員として過ごした。[[1939年]](昭和14年)の[[平沼内閣]]総辞職後には近衛が広田を首相候補としてあげた。一方で広田は近衛を推薦したが、西園寺は[[阿部信行]]を奏薦した<ref>服部、201-202p</ref>。
 
阿部の後の[[米内内閣]]では請われて[[内閣参議]]となった。米内内閣が倒れると元首相として[[重臣会議]]に出席し、[[第2次近衛内閣]]の成立に関わった。この時、広田は当初「この際やはり軍に諒解のある、軍に近い者がいい。従って軍人がいいけれども、適当な人がなければ、やはり近衛より他あるまい」<ref>服部、204p(原田熊雄『西園寺公と政局』第八巻よりの引用)</ref>と消極的ながら賛成した。しかし近衛が[[松岡洋右]]を外相としようとすると、「松岡では危ない。[[東郷茂徳|東郷]]を起用するがよい」と反対した。しかし近衛は松岡を外相とし、日独伊三国条約([[日独伊三国軍事同盟]])を締結した。広田は三国条約が英米を敵にすることとして反対している<ref>服部、</ref>。
 
 
 
[[1940年]](昭和15年)10月の[[大政翼賛会]]発足後には[[後藤文夫]]、東郷茂徳、[[石黒忠篤]]、[[松本烝治]]とともに貴族院院内会派[[無所属倶楽部]]を組織した。[[1941年]](昭和16年)の[[第3次近衛内閣]]の成立には難色を示したものの、[[東條内閣]]成立には賛成している。この時対米交渉に悩んだ東郷外相が辞職して事態打開を図ろうとしたが、広田はこれを慰留している。
 
 
 
[[第二次世界大戦]]([[太平洋戦争]]・[[日中戦争]])開始時の広田の反応はさまざまなものが伝えられている。[[1941年]](昭和16年)11月29日に開かれた重臣会議では、東条英機が「戦争に訴えざるを得ざる理由」を述べた。『大本営陸軍部戦争指導班 機密戦争日誌』では「阿部(信行)、林(銑十郎)、広田は首相の決意を諒とせるが如し」と、東条に同意したように描写している。一方で『[[木戸幸一日記]]』では会議で「危機に直面して直に戦争に突入するは如何なるものにや」「仮令(たとい)打ち合いたる後と雖も、常に細心の注意を以て機会を捉えて外交々渉にて解決の途をとるべきなりと思う」と発言したとされる。後に昭和天皇は広田の発言を「全く外交官出身の彼としては、思いもかけぬ意見を述べた」と評している<ref>服部、211-212p(昭和天皇の発言は『昭和天皇独白録 寺崎英成・御用掛日記』よりの引用)</ref>。
 
 
 
[[1942年]](昭和14年)6月、[[日泰攻守同盟条約]]慶祝答礼のため、[[特派大使]]として[[矢田部保吉]][[特命全権大使]]、[[水野伊太郎]][[特命全権公使]]、[[朝海浩一郎]][[書記官]]、[[東光武三]]書記官らとともに[[タイ王国]]に派遣される<ref>[http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID00501949&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1 「泰へ同盟慶祝答礼使節 特派大使、広田弘毅氏 補佐に矢田部全権大使 近く出発」]『大阪毎日新聞』1942年6月21日付。神戸大学経済経営研究所「新聞記事文庫」収録</ref>。
 
 
 
戦況が悪化した[[1943年]](昭和18年)頃の広田を、広田と面会した学生が「軍部の横暴に憤られ、それに抗しきれぬ東条内閣の無策を非難され、戦争は絶対勝てぬから早く終息させねばならぬとおっしゃり、日夜その方策に奔走されているようでした」と回想している<ref>服部、215p(『玄洋』14号、末永信夫『広田先生と浩々居時代の私』よりの引用)</ref>。
 
[[1944年]](昭和19年)に東條内閣が倒れると、[[小磯内閣]]によって[[最高戦争指導会議]]が設置された。9月4日に開かれた会議では、和平仲介のため広田を特使としてソ連に派遣する決定を下した。しかしソ連外相[[ヴャチェスラフ・モロトフ]]によって特使受け入れは拒絶されている。[[1945年]](昭和20年)6月にはソ連を通じた和平交渉を探っていた東郷茂徳の意を受けて、[[箱根]]の[[強羅ホテル]]に疎開していたソ連大使[[ヤコフ・マリク]]と非公式の接触を図る。広田は私的な来訪を装ってソ連の条件を探り出そうとしたが、ソ連は既に対日参戦の方針を固めていたことにくわえ、日本側の条件を明確にしなかったこともあり、東郷が期待した返答を得ることはできなかった。6月29日の3度目の面談(東京のソ連大使館で実施)がマリクとの最後の接触となり、7月14日に再度の会見をソ連大使館に電話で申し入れた広田をマリクは拒絶して交渉は終結した<ref>[[長谷川毅]]『暗闘(上)』[[中公文庫]]、2011年、p225 - 227</ref>。8月10日の重臣会議では「無条件降伏も亦已むを得ない」と発言し<ref>服部、225p(『昭和天皇独白禄 寺崎英成・御用係日記』よりの引用)</ref>、日本の降伏を迎えた。
 
 
 
=== A級戦犯 ===
 
==== 逮捕 ====
 
大戦終結後、進駐してきた[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]軍により[[A級戦犯|A級戦争犯罪人]]容疑者として逮捕される。[[巣鴨プリズン]]に収容された広田に対し、GHQの組織した国際検察局が、[[極東国際軍事裁判]]の訴追対象とするかどうかを決定するための尋問を行った<ref group="注釈">尋問調書が米国の国立公文書館に保存されている。以下、内容については2007年8月13日放送の[[NHKスペシャル]]「A級戦犯は何を語ったのか ~東京裁判・尋問調書より~」による。尋問調書は英文で180ページに及ぶ。</ref>。
 
 
 
この中で国際検察局側は、組閣時に閣僚人事に軍の干渉を受けたことや、首相時代に軍部大臣現役武官制を復活した点を重視した。広田は後者については「この決定が現在の情勢を招いたとは思わない」と回答している。ただし、「軍の活動が緊迫したものになると外交政策はそれに引きずられてしまうことが多い。そうなると外務大臣などほとんど無力化されてしまう」と[[統帥権]]の独立を盾に政府に圧力をかける軍への対応に苦慮したことも率直に明かしている。支那事変当時、追加派兵の予算を認めた点を「陸軍の活動を承認したことにならないか」と問われたことには「事実はその通り」とも答えた。
 
 
 
==== 訴追 ====
 
こうした広田の回答から、国際検察局は広田を「広田氏は軍国主義者ではないものの、政府を支配しようとする陸軍の圧力に屈しており、侵略を容認し、その成果に順応することでさらなる侵略に弾みをつけた者達の典型である」として、「日本が膨張を遂げていく上での積極的な追随者」「共同謀議の一端を担った」と認め、訴追対象に加えた<ref>服部、232-233p(『国際検察局尋問調書』第28巻よりの引用)</ref>。
 
なお、広田は尋問の最後で「自分の処罰を軽くするための弁明を行っているとは思わないでほしい。過ちだと判定される事柄については、私は責任を取る」と述べている。
 
 
 
この結果、「対アジア侵略の共同謀議」や「非人道的な行動を黙認した罪」等に問われて起訴された。最も大きな罪状とされたのは[[日中戦争]]を始めたことについてである。[[南京大虐殺|南京虐殺事件]]に関しては、外務省が陸軍に対して改善を申し入れていたが、連合国側は残虐行為が8週間継続したこと、そして広田が閣議にこの問題を提議しなかったことで<ref group="注釈">当時駐華大使館の参事官であった[[日高信六郎]]は閣議に持ち出すことは「逆効果であったろう」として、広田が最も有効な手段をとったとしている。服部、184-185p(広田弘毅伝記刊行会編『広田弘毅』よりの引用)</ref>、広田が事件を黙認したものと認定した。
 
 
 
広田は公判では沈黙を貫いた。弁護人の一人である[[ジョージ山岡]]が統帥権の独立の元では官僚は軍事に口を出せなかったことを弁明した際にも、広田はそれについて語ろうとしなかった。外国人の弁護士と日本人の弁護士がついて「このままあなたが黙っていると危ないですよ。あなたが無罪を主張し、本当の事を言えば重い刑になることはないんですから」としきりに勧め、同じA級戦犯の[[佐藤賢了]]も同様に広田に無罪を主張するよう促していた。にもかかわらず東京裁判で広田が沈黙を守り続けたのは、天皇や自分と関わった周囲の人間に累が及ぶことを一番心配していたからだとされる。広田は御前会議にも重臣会議にも出席しており、日中戦争が始まる時にも天皇を交えた話し合いがもたれていた。
 
 
 
広田の場合は、裁判において軍部や近衛に責任を負わせる証言をすれば、死刑を免れる事ができた、という分析も多く、広田とは対照的に軍部に責任を擦り付ける発言に終始した[[木戸幸一]]は、後に広田の裁判における姿勢について「立派ではあるけどもだ、…つまらん事だと思うんだ」と評している<ref group="注釈">木戸は裁判で終身刑になっている。ただし、木戸が弁明に努めた背景には、「天皇側近の木戸に対する判決は天皇への判決に等しい意味を持つ」と木戸らが見ていたこともある。</ref>。
 
 
 
==== 死刑判決 ====
 
[[ファイル:Japanese War Crimes Trials. Manila - NARA - 292617.jpg|right|200px|thumb|[[1948年]]、[[極東国際軍事裁判]]にて裁判長[[ウィリアム・ウェブ]]から死刑宣告を聞かされる廣田]]
 
広田は最終弁論を前に、弁護人を通じて「高位の官職にあった期間に起こった事件に対しては喜んで全責任を負うつもりである」という言葉を伝えている。
 
 
 
広田は55の訴因で訴えられていたが、そのうち「侵略戦争の共同謀議」、「満州事変以降の侵略戦争」、「戦争法規遵守義務の無視」の三つの訴因で有罪と判定された。判決では首相期の国策基準、日独防共協定、特に支那事変期の外相としての責任が言及された。支那事変について、「広田はこれらの計画をすべて十分に知っており、そしてこれを支持した」「外交交渉で日本の要求が満たされるに至らないときは、武力を行使することに終始賛成していた」とした。また南京事件に関しては「かれがとることができた他のどのような措置もとらなかったということで、広田は自己の義務に怠慢であった」と指摘し、「彼の不作為は、犯罪的な過失に達するものであった」としている<ref>服部、256-262p</ref>。
 
 
 
この有罪言い渡しの後、法廷はしばらく休廷に入った。この時弁護人の[[花井忠]]に「量刑というものは情状で軽くなるものでしょうか」と聞き、花井が「そうです」と答えると「困ったナァ、長くつながれるのが一番困る」と述べた。その後、再開した法廷で広田には[[死刑]]宣告が行われた。この後、広田に「残念でなりません」と語りかけてきた元[[ドイツ]][[大使]]の[[大島浩]]に対しては、「[[雷]]に打たれた様なものだ」と飄々とした表情で返答したという<ref>服部、259-265p</ref>。
 
 
 
なお、11人の裁判官中3人([[インド連邦 (ドミニオン)|インド]]、[[オランダ]]、[[フランス]])が[[無罪]]、2人([[オーストラリア]]、[[ソビエト連邦|ソ連]])が[[禁錮]]刑を主張している。[[オランダ]]の[[ベルト・レーリンク]][[判事]]は「広田が戦争に反対したこと、そして彼が平和の維持とその後の平和の回復に最善を尽くしたということは疑う余地が無い」と明確に無罪を主張している。
 
 
 
近衛文麿が自決していたために、文官の大物戦犯である広田は注目されていた。そんな中で文官で唯一の死刑判決に広く衝撃が走った。「戦争を止めようとしていた」という印象を国民の間にも強く持たれていた広田に対する死刑判決には、多くの疑問の声が上がった。占領軍の決定に対する反対運動などが皆無だった当時において、減刑するように全国から数十万という署名<ref group="注釈">特に多かったのが郷里である福岡での7万2千、東京での3万人。</ref>が集められた程である<ref group="注釈">広田自身は息子を通して、嘆願書は絶対に出してはいけないという声明を出した。</ref>。
 
また、死刑を求刑していたはずの[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]の検察側からですら判決は意外だったとの声もあり、最終弁論で「彼らは誰一人として、人類の品位というものを尊重していない」と被告人達に罵詈雑言を浴びせた首席検事の[[ジョセフ・キーナン]]ですら「なんという馬鹿げた判決か。どんなに重い刑罰を考えても終身刑までではないか」とのコメントを残している。
 
 
 
また玄洋社に対して、GHQの調査分析課長であった[[エドガートン・ハーバート・ノーマン]]が「日本の[[国家主義]]と[[帝国主義]]のうちで最も気違いじみた一派」という見解を示していたことや、大陸で工作活動をした[[黒龍会]]を設立した[[内田良平 (政治運動家)|内田良平]]と広田が友人であったこと、1944年(昭和19年)に没した頭山満の葬儀委員長を務めたことなどから(副委員長は[[緒方竹虎]])、「広田=[[右翼]]」という先入観があったと見る説もある。
 
 
 
なお広田の妻・静子は東京裁判開廷前の1946年(昭和21年)5月18日に鵠沼の別邸で服毒自殺している。自殺の理由として、国粋団体の幹部を親に持つ自分の存在が夫の裁判に影響を与えると考えていたためとされている。死因は初め狭心症と発表されており、自殺であったことは1953年(昭和28年)の広田の追悼記念会で公にされた<ref>[[竹内正浩]]『「家系図」と「お屋敷」で読み解く歴代総理大臣 昭和・平成篇』(実業之日本社、2017年)p.57</ref>。
 
 
 
==== 死刑執行 ====
 
1948年(昭和23年)12月23日の午前0時21分、[[巣鴨拘置所|巣鴨プリズン]]内で[[刑罰の一覧|絞首刑]]を執行される。享年71。なお広田は文官であったが、[[昭和殉難者]]として[[靖國神社|靖国神社]]に合祀されている。
 
 
 
=== その後 ===
 
[[2001年]]([[平成]]13年)当時首相であった[[小泉純一郎]]が靖國神社に参拝したことをきっかけにA級戦犯分祀論が注目を集めた。その際、広田の孫の弘太郎(当時67歳)は[[2006年]](平成18年)[[7月27日]]付[[朝日新聞]]をはじめとする[[マスメディア]]の取材に対し、「広田家が[[1978年]](昭和53年)の合祀に同意した覚えはない」、「私が合祀を聞いた時にはびっくりした。そんなはずはないと、間違えて祀ったと」、「靖国神社は確信犯としてやったのでしょうね。勝手に祀られたというか、びっくりしたということに加えて言うとすれば、不快感まで言っていいのかわからないが決して喜んではいないし、できれば取り消して欲しい」、「家族としては英霊として祀られることを希望しません。特に靖国神社に。英霊だとみなして頂くことが、うれしいことではない。靖国神社というものはお国のために戦死した兵隊とか軍人とか、そういう方を祀るためにできた神社であって、軍人でもなければ戦死者でもない広田弘毅が靖国神社に祀られる資格さえない。私どもから希望したりお願いしたことはありません。神社の方から同意を求めるということもありませんでした」、「祖父は軍人でも戦没者でもなかったので靖国神社と広田家はそもそも縁がない。また、首相であったので何らかの責任はある」という見解を述べている。
 
 
 
[[2015年]]には[[小説家]]の[[城山三郎]]が小説「[[落日燃ゆ]]」の取材で訪れた際も、叔母たち(広田弘毅の娘たち)は立ち会わず、ふすま越しにやりとりを聞いていたことや、父母などに  「おじいさんは立派な人だった。おまえもああいう人を目指しなさい」「顔が似てる」と言われていたと振り返り、「靖国神社で祭られる方は戦死した兵隊や軍人だが、祖父は軍人でも戦死者でもないので[[菩提寺]]で十分だと思っている」と述べ、靖国神社に日本国民として慰霊の気持ちでお参りしていることを明かしている。そして「日本国民の代表である首相がお参りするのは当然で隣国に何か言われるから参拝しないのは、とんでもない話だと思います」「東京裁判がどういう経緯で判決に至ったか。審理されなかった証拠は山ほどあり、研究する意義はあります。時を経て記憶が薄れるのは仕方ない。でもせめて私の子供の世代ぐらいまでは東京裁判を含め現実の歴史がきちんと伝わってくれればよいのですが…」と語った<ref>{{Cite news |url=http://www.sankei.com/life/news/151230/lif1512300011-n3.html |title=東京裁判で処刑された唯一の文官、広田弘毅元首相の孫・弘太郎さん語る 「評価は歴史がする」|newspaper=産経新聞 |publisher=産経新聞社}} </ref><ref group="注釈">東條英機の孫娘・[[東條由布子]]も「東條英機は不当な東京裁判の犠牲者であり、英霊として靖国神社に祀られるべき。分祀には絶対反対」と述べている。</ref>。
 
 
 
== 評価 ==
 
広田が外相・首相を務めた期間は、日中が散発的な衝突を繰り返しつつ、やがて全面的な戦争に突入していく時期と重なっている。広田が強硬な大陸政策を取る軍部の方針に反対でありながら抵抗出来ず、東京裁判で文官でありながら唯一絞首刑となった点をとらえ、悲劇の外政家としての側面を描き出したのが、[[城山三郎]]の『落日燃ゆ』であり、今日におけるような、広田に対する同情的な見方が広まるのに一役買っている。
 
 
 
しかし絞首刑の是非はともかく、広田が外相・首相という責任ある立場にありながら、悪化していく状況にほとんど有効な手を打てないどころか消極的に追随していったのは事実であり、外交の専門家からの評価は概して厳しい。例えば、盧溝橋事件の際に外相の広田の煮え切らない態度に外務省の部下は失望している。第一次近衛内閣の外相時の対応について、当時の外務省東亜局長であった[[石射猪太郎]]は「この人が平和主義者であり、国際協調主義者であることに少しも疑いを持たなかったが、軍部と右翼に抵抗力の弱い人だというのが、私の見る広田さんであった」「広田外務大臣がこれ程御都合主義な、無定見な人物であるとは思わなかった」<ref>服部、155p(石射猪太郎『外交官の一生』よりの引用)</ref>と回想している。
 
 
 
政治学者の[[猪木正道]]も、[[トラウトマン和平工作]]時の広田の姿勢を厳しく批判して「駐日ドイツ大使に和平のあっせんを頼みながら、南京攻略後の閣議では真っ先に条件のつり上げを主張する<ref group="注釈">広田は閣議で「犠牲を多く出したる今日、斯くの如き軽易なる条件を以ては之を容認し難き」と述べている。175-176p(『支那事変戦争指導史』よりの引用)。</ref><ref group="注釈">トラウトマン工作提示の際に、広田は戦争が継続される場合にはこの条件ははるかに加重されるであろうと強調した(「日独伊三国同盟の研究」85・86ページ)。</ref>など、あきれるほど無責任、無定見である」とし、「一九三六年のはじめごろから、広田は決断力を失ったと思う」と評している。猪木の著作を読んだ[[昭和天皇]]は「猪木の書いたものは非常に正確である。特に近衛と広田についてはそうだ」と猪木の評価を肯定している<ref>服部、194-195p(『猪木正道著作集』第四巻、[[岩見隆夫]]『陛下の御質問 昭和天皇と戦後政治』よりの引用)</ref>。
 
 
 
『昭和天皇独白録』によると、昭和天皇は広田についてきわめて批判的な見解をもっていたことがわかる。天皇は広田を「[[玄洋社]]出身の人物」と明確に述べており、その思想に必要以上に警戒心をもっていたようである。広田が戦争の長期化や軍部ファシズム化にむしろ積極的な役割を果たしていたとさえ感じている節がある。『昭和天皇独白録』をめぐる座談会において、天皇のこの広田への見解が連合軍の広田の心証形成に影響を与え(独白録が記録されたのは1946年〔昭和21年〕3月から4月にかけてである)[[東京裁判]]での広田の判決につながったとする可能性を[[半藤一利]]と[[秦郁彦]]が指摘しているが、[[伊藤隆 (歴史学者)|伊藤隆]]と[[児島襄]]はその可能性なしとして否定反論している。
 
 
 
広田が首相時代に締結した[[日独防共協定]]は、日本をナチス・ドイツに接近させ、日米対立を決定的にさせた[[日独伊三国同盟]]の締結に繋がることになる。また、同じく首相時代に[[軍部大臣現役武官制]]を復活させたことにより、軍部の要求を受け入れない内閣が次々と倒れるなど、軍部による政治干渉を決定的なものとする事となった。その結果、内閣は軍部の対外強硬的な要求を受け入れざるを得なくなり、太平洋戦争に突入することになった。そのため真の戦犯であり、[[東条英機]]よりも罪ははるかに重いとみる見方もある。
 
 
 
== 逸話 ==
 
[[ファイル:Hirota Kohki statue.jpg|150px|right|thumb|福岡市にある広田の銅像]]
 
*「石屋の倅から総理大臣へ」としばしば言われるように、立身出世の典型として誉高かった{{要出典|date=2015年11月12日 (木) 10:46 (UTC)}}。
 
* 現在の[[国会議事堂]]は広田が首相の当時の1936年(昭和11年)に「帝国議会議事堂」として完成しており、現在の議事堂に初めて登壇した首相でもある。
 
* 戦前唯一の福岡県出身の首相であり、2008年(平成20年)に[[麻生太郎]]が就任するまで唯一の福岡県出身首相であった。
 
* 福岡市[[中央区 (福岡市)|中央区]]の[[福岡市美術館]]前に広田の銅像が設置されている。この像は玄洋社最後の社長であり、戦後には[[福岡市長]]を務めた[[進藤一馬]]の呼びかけで建立された。
 
* 首相・外相としては批判されることの多い広田であるが、大使時代の外交官としての能力や評価は高く、東京裁判でのオランダ出身の[[ベルト・レーリンク]]判事の広田無罪論に結びついた。レーリンクは著書で[[国際連合]]で後に広田弘毅の外交が世界のルールになったことに触れ、広田弘毅を有罪で死刑になったことを1977年でも間違っていたと語っている<ref>ベルト・レーリンク『レーリンク判事の東京裁判―歴史的証言と展望 』1996年</ref>。
 
[[File:Name plate of Suikyo Shrine.jpg|150px|thumb|水鏡天満宮鳥居の題額]]
 
[[File:Suikyo shrine 2.jpg|150px|thumb|石碑「水鏡神社」]]
 
* 能筆家であり、福岡市天神の[[水鏡天満宮]]鳥居の題額は小学校の時、日清戦争戦勝を祝して建立された石碑「水鏡神社」は、広田が17歳のときに揮毫したものである(各右画像参照)<ref group="注釈">長らく、「天満宮」の扁額が広田11歳の筆になるものと言い伝えられてきた。水鏡天満宮外の説明板には小学校1年生の時に「天満宮」の扁額を書いたと記されている。</ref>。
 
* [[重光葵]]によると、広田は[[巣鴨拘置所|巣鴨プリズン]]収監中に受けた揮毫の依頼には何十篇でも「物來順応 弘毅書」と書き、まるで自身の経文であるかのようで筆跡も見事なものだったという<ref>『巣鴨日記』(「[[文藝春秋 (雑誌)|文藝春秋]]」[[1952年|昭和27年]]8月号掲載)より。</ref>。
 
* 前記のように名門出身でないことから色々と苦労した広田だが、首相時代に[[江戸時代]]の身分ではさらに下になる[[全国水平社]]出身の[[衆議院|衆議院議員]]・[[松本治一郎]]から「([[被差別部落]]民に対する)差別観念の撤廃には[[華族]]制度の廃止が不可欠」と質問され、「華族制度は[[宮内省]]の管轄<ref group="注釈">当時の宮内省は内閣から独立していた。</ref>なので答弁を差し控えたい」と答えたことがある。
 
* 巣鴨拘置所に自由に出入りし得た唯一の日本人である[[花山信勝]]の著『平和の発見-巣鴨の生と死の記録』によると花山が絞首刑前の感想を求めたところ「すべては無に帰して、言うべきことは言ってつとめ果たすという意味で自分は来たから、今更何も言うことは事実ない。自然に生きて自然に死ぬ」と言い、後に評論家・[[唐木順三]]はそれを引き「[[東條英機|東條]]らと比べ虚飾がなく態度ができている」と評した。
 
* 処刑に際し、先に執行された東條らの万歳三唱について「いま、『マンザイ』をやっていたのでしょう」と花山に問いかけている。これについては広田の出身地である福岡では「バ」と「マ」が混同しやすいことから生じた聞き間違いではないかとも言われている<ref group="注釈">言語学的には「B」と「M」は共に口唇音であり、「さびしい」が「さみしい」へと変化したように混同しやすいとされている。</ref>。なお、福岡出身の漫画家[[小林よしのり]]は自著『いわゆるA級戦犯』の中で「単なる駄洒落ではないか」との説を提唱しているが確証は存在しない。また小林も引用している[[城山三郎]]の『[[落日燃ゆ]]』では「文官の自分が処刑されるのは漫才のようなもの」との皮肉を込めた発言としている。終戦後にも関わらず万歳をした東條らへの皮肉とも受け取ることができるが確証はない。また、後から処刑執行された広田らの組も万歳をしたが、城山三郎は、広田は万歳に加わらなかったと書いている。しかし花山信勝は、一同で万歳三唱したと書いており、広田はしなかったとの記述はない。
 
* 次男が[[旧制高等学校|旧制高校]]に2浪して落ち三男と一緒に[[早稲田大学|早稲田]]の[[大学予科|予科]]を受けたが、三男が受かって次男が落ち自殺している(自殺後に、補欠合格の通知が届く)。
 
 
 
== 栄典 ==
 
* [[1911年]](明治44年)[[8月24日]] - [[瑞宝章|勲五等瑞宝章]]<ref>『官報』第8454号「叙任及辞令」1911年8月25日。</ref>
 
* [[1918年]](大正7年)[[9月26日]] - [[ファイル:JPN Zuiho-sho (WW2) blank BAR.svg|50px]] [[瑞宝章|勲四等瑞宝章]]<ref>『官報』第1846号「叙任及辞令」1918年9月27日。</ref>
 
* 1933年 - [[ファイル:JPN Zuiho-sho (WW2) blank BAR.svg|50px]] [[勲一等瑞宝章]]。
 
* 1934年 - [[ファイル:Order of the Rising Sun Ribbon.png|50px]][[勲一等旭日大綬章]]。
 
 
 
== 参考文献 ==
 
* [[吉田裕 (歴史学者)|吉田裕]] 『昭和天皇の終戦史』 岩波書店〈岩波新書〉、1992年。
 
* [[服部龍二]] 『広田弘毅―「悲劇の宰相」の実像』  中央公論新社〈中公新書〉、2008年、ISBN 4121019512)
 
* [[松本健一]] 『頭山 満の「場所」 雲に立つ』 文芸春秋社、1996年。
 
 
 
=== 伝記 ===
 
* 岩崎栄 『広田弘毅伝』新潮社、1936年。
 
* 吉井魯斎 『児童の鑑 広田弘毅さん』 尚文館、1936年。
 
* 沢田謙 『広田弘毅伝』 歴代総理大臣伝記刊行会、1936年。
 
* 永松浅造 『新日本の巨人を語る:人間・広田弘毅(他三編)』 森田書房、1936年。
 
* [[北川晃二]] 『黙してゆかむ:広田弘毅の生涯』 講談社、1975年。[[講談社文庫]]、1987年、ISBN 4061840959。
 
* 広田弘毅伝記刊行会編 『広田弘毅』 広田弘毅伝記刊行会、1966年。複製版: 葦書房、1992年5月、ISBN 4751204270
 
* [[渡邊行男]] 『秋霜の人 広田弘毅』 [[葦書房]]、1998年、ISBN 475120730X
 
 
 
=== 伝記小説 ===
 
* [[城山三郎]] 『[[落日燃ゆ]]』 新潮社、1974年、ISBN 4103108045。新潮文庫、1986年、ISBN 4101133182。単行本新装版: 2002年、ISBN 4103108142
 
 
 
== 広田弘毅を演じた俳優  ==
 
* [[滝沢修]] - 『[[落日燃ゆ]]』 [[1976年]]、NETテレビ(のち[[テレビ朝日]])
 
* [[武内文平]] - 『[[山河燃ゆ]]』([[大河ドラマ]]) [[1984年]]、[[日本放送協会|NHK]]
 
* [[田村高廣]] - 『悲劇の宰相 広田弘毅』 [[1993年]]、[[フジテレビジョン|フジテレビ]]系
 
* [[名川貞郎]] - 『[[プライド・運命の瞬間]]』 [[1998年]]、[[東映]]
 
* [[寺田農]] - 『[[南京の真実]] 第1部「七人の死刑囚」』 [[2008年]]
 
* [[北大路欣也]] - 『[[落日燃ゆ]]』 [[2009年]]、テレビ朝日
 
* [[佐野史郎]] - 『[[負けて、勝つ 〜戦後を創った男・吉田茂〜]]』 [[2012年]]、NHK 
 
  
 
== 脚注 ==
 
== 脚注 ==
=== 注釈 ===
+
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=== 出典 ===
 
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== 関連項目 ==
 
== 関連項目 ==
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* [[重臣会議]]
 
* [[重臣会議]]
 
* [[広田判例]]
 
* [[広田判例]]
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* [[レオ・シロタ]]
 
* [[レオ・シロタ]]
 
* [[ベアテ・シロタ・ゴードン]]
 
* [[ベアテ・シロタ・ゴードン]]
* [[大陸浪人#大陸浪人とされる人物|大陸浪人とされる人物]]
 
* [[将校志望を断念した日本の人物の一覧]]
 
* [[浩浩居]]
 
  
== 外部リンク ==
 
* [http://ndl.go.jp/portrait/datas/183.html 広田弘毅 | 近代日本人の肖像]
 
* [http://www.c20.jp/p/hkoki.html 広田 弘毅 / クリック 20世紀]
 
* [https://sites.google.com/site/kokokyohomepage 財団法人浩浩居]
 
* [http://chinaalacarte.web.fc2.com/hitokoto-08-08.html 『落日燃ゆ』(著:城山三郎。新潮文庫)と『広田弘毅』(著:服部龍二。中公新書)の比較]
 
 
 
{{日本国歴代内閣総理大臣
 
|当代=[[広田内閣|32]]
 
|在任期間=1936年3月9日 - 1937年2月2日
 
|前代=[[岡田内閣|31]]
 
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{{外務大臣|1933年-1936年,1937年-1938年}}
 
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Koki Hirota posing cropped.jpg

広田 弘毅(ひろた こうき、旧字体:廣田1878年明治11年)2月14日 - 1948年昭和23年)12月23日

外交官,政治家。東京大学を卒業し,1906年に外務省に入った。1926~30年駐オランダ公使,1930~32年駐ソ大使。

1933~36年斎藤実岡田啓介両内閣の外相として,穏和な対外政策を唱えながら,軍部の強硬方針を抑えられなかった。 1936~37年首相。日独防共協定を締結。

1937~38年第1次近衛文麿内閣の外相。 1945年6月には和平工作のため駐日ソビエト大使 Y. A.マリクと会談したが,不成功に終った。

第2次世界大戦後,極東国際軍事裁判によって,A級戦犯として絞首刑を言い渡され,文官でただ1人処刑された。

脚注

関連項目