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[[ファイル:140531 Heijo-kyo Nara Japan01bs.jpg|thumb|300px|平城宮跡]]
 
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'''平城京'''(へいじょうきょう/へいぜいきょう)は、[[奈良時代]]の[[日本]]の都城。[[唐]]の都[[長安城]]や[[北魏]][[洛陽|洛陽城]]などを模倣して建造されたとされ、現在の[[奈良県]][[奈良市]]及び[[大和郡山市]]近辺に位置していた。
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'''平城京'''(へいじょうきょう/へいぜいきょう)
  
==歴史==
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「へいぜいきょう」ともいう。元明天皇が[[藤原京]]から遷都した和銅3 (710) 年から桓武天皇が山城[[長岡京]]に移った延暦3 (784) 年までの 74年間の都。奈良市から大和郡山市にまたがる地に営まれた。唐の長安京の都城制を模してつくられ,南北9条 (約 4.8km) ,東西8坊 (約 4.3km) の面積をもち,全域 72坊に区画設定されている。中央北域に[[大内裏]]をおき,大内裏から南に走る[[朱雀大路]]によって東側は左京,西側は右京に分けられた。その一部の遺跡は 1954年から発掘が行われている。
[[藤原京]]から平城京への[[遷都]]は[[文武天皇]]在世中の[[707年]](慶雲4年)に審議が始まり、[[708年]](和銅元年)には[[元明天皇]]により遷都の詔が出された。しかし、[[710年]](和銅3年)[[3月10日 (旧暦)]]に遷都された時には、[[内裏]]と[[大極殿]]、その他の官舎が整備された程度と考えられており<ref>平城宮の施設が遷都の時点でどの程度整備されたかについては、その直前の和銅3年の元旦の儀式が工事中の平城宮の大極殿で開かれたか、現時点の宮殿である藤原宮で開かれたかの論争がある(市大樹「平安遷都直前の元旦朝賀と賜宴」吉村武彦 編『日本古代の国家と王権・社会』塙書房、2014年 ISBN 978-4-8273-1268-3)。</ref>、[[寺院]]や邸宅は、[[山城国]]の[[長岡京]]に遷都するまでの間に、段階的に造営されていったと考えられている。[[恭仁京]]や[[難波京]]への遷都によって平城京は一時的に放棄されるが、[[745年]](天平17年)には、再び平城京に遷都され、その後[[784年]](延暦3年)、長岡京に遷都されるまで政治の中心地であった。山城国に遷都したのちは'''[[南都]]'''(なんと)とも呼ばれた。
 
 
 
[[810年]](弘仁元年)[[9月6日]]、[[平城天皇|平城上皇]]によって[[平安京]]を廃し平城京へ再び遷都する詔が出された。これに対し[[嵯峨天皇]]が迅速に兵を動かし、[[9月12日]]、平城上皇は剃髪した([[薬子の変]])。これによって平城京への再遷都は実現することはなかった。
 
 
 
==名称==
 
平城を「へいじょう」と読むか、「へいぜい」と読むかについては議論がある。
 
 
 
戦後の学校の教科書において、平城京には「へいじょうきょう」と振り仮名が振られていた<ref name="kyokasho" />。その後、少なくとも1980年代には「へいじょうきょう」とともに「へいぜいきょう」の併記が、一部の出版社に見られるようになる<ref name="kyokasho">[http://www.excite.co.jp/News/bit/E1263828899143.html 「平城京の読み方って「へいぜいきょう」だったっけ?」](東京書籍株式会社の話) Excite Bit コネタ 2010年1月22日(ただし小学校では、学習上の混乱を避け、「へいじょうきょう」だけになっているものもある)。</ref>。これは[[平城天皇]]が「へいぜい」と読むことや、[[漢字]]音で「平」が[[漢音]]の“へい”と[[呉音]]の“ひょう”、「城」が漢音の“せい”と呉音の“じょう”があり、この音を漢音に統一すると“へいぜい”になることによるものと見られている<ref name="kyokasho" />。ただし「京」を“きょう”と読むのは呉音である<ref name="kyokasho" />。
 
 
 
研究者を中心に「へいぜい」の読みが見受けられ<ref name="kyokasho" /><ref>歴史学者の[[坂本太郎 (歴史学者)|坂本太郎]]も「ヘイゼイ」が古来の読み方であることを強調している(『史書を読む』中公文庫、1987年、15頁。)</ref>、『国史大辞典』の見出しも「へいぜいきょう」であるが<ref>『国史大辞典』(吉川弘文館、第12巻、1991)。</ref>、一般には「へいじょう」が普及しており、奈良県の進める[[平城遷都1300年記念事業]]も「へいじょう」と発音されている。
 
 
 
このように、平城京は現代においては[[音読み]]で「へいじょうきょう」または「へいぜいきょう」と読むが、かつては奈良京(寧楽京、ならのみやこ)と呼ばれた。762年の正倉院文書の記述に加え、平城京への遷都当時の造成土から「奈良京」と書かれた木簡が発掘されている。<ref>2015年4月30日 遷都当初から「奈良」でした 平城京跡で記載木簡(共同通信)[ http://www.47news.jp/CN/201504/CN2015043001001595.html ] </ref>
 
 
 
==都市計画==
 
 
 
===都市計画の概要===
 
[[ファイル:Heijokyo.jpg|right|400px|平城京 条坊図]]
 
平城京は南北に長い長方形で、中央の[[朱雀大路]]を軸として[[右京]]と[[左京]]に分かれ、さらに左京の傾斜地に[[外京]](げきょう)<ref>現在の奈良市中央部に相当する。</ref>が設けられている。東西軸には一条から九条大路(十条については後述)、南北軸には朱雀大路と左京一坊から四坊、右京一坊から四坊の大通りが設置された[[条坊制]]の都市計画である。各大通りの間隔は約532メートル、大通りで囲まれた部分(坊)は、堀と築地(ついじ)によって区画され、さらにその中を、東西・南北に3つの道で区切って町とした。京域は東西約4.3キロメートル(外京を含めて6.3キロメートル)、南北約4.7キロメートル(北辺坊を除く)に及ぶ。
 
 
 
平城京の市街区域は、大和盆地中央部を南北に縦断する[[大和の古道]][[大和の古道#下ッ道|下ツ道]]・[[大和の古道#中ッ道|中ツ道]]を基準としている。下ツ道が朱雀大路に当たり、中ツ道が左京の東を限る東四坊大路(ただし少しずれる)に当たる。二条大路から五条大路にかけては、三坊分の条坊区画が東四坊大路より東に張り出しており、これを外京と呼ぶ。また、右京の北辺は二町分が北に張り出しており、これを北辺坊と称する。
 
 
 
市街地の宅地は、位階によって大きさが決められ、貴族が占める12町の物を筆頭として、2町・1町・1/2町・1/4町・1/8町・1/16町・1/32町などの宅地が与えられた。土地は公有制であるため、原則的には天皇から与えられた物であった。 平城宮の東側の一坊大路と二坊大路の間には、4町の宅地を占有した藤原不比等、長屋王、藤原仲麻呂の邸が集まっていた。 唐の都の長安を模倣して作られたというのが一般的な定説である。しかし先行する藤原京の場合大内裏に当たる部分が中心に位置しており、北端に置いたのは北魏洛陽城などをモデルとした、日本独自の発展形ではないかという見方もある。しかし、中国の辺境の異民族の侵略を重く見た軍事的色彩の濃いものでなく、極めて政治的な都市であった。
 
 
 
===平城京の建築物===
 
[[ファイル:HeijokyusekiDaigokuden.jpg|thumb|大極殿(再建)]]
 
[[平城宮]]([[内裏]])は[[朱雀大路]]の北端に位置し、そこに[[朱雀門]]が設置された。平城宮は平城京造営当初から同じ位置に存在した。その中心建物で、朱雀門の北にあった[[大極殿]]は[[740年]]の恭仁京遷都の際に取り壊され、745年の平城京遷都後に旧位置の東側(壬生門の北)に再建された。朱雀大路の南端には羅城門があり、九条大路の南辺には京を取り囲む羅城があった。ただし、実際には羅城は羅城門に接続する極一部しか築かれなかったのではないかとする説が有力である。
 
 
 
寺院建築は非常に多い。京内寺院の主要なものは、[[大安寺]]、[[薬師寺]]、[[興福寺]]、[[元興寺]](以上を四大寺と称した)で、これらは藤原京から遷都に際して移転されたものである。[[東大寺]]は東京極大路に接した京域の東外にあり、聖武天皇によって[[天平勝宝]]4年([[752年]])に創建、[[西大寺 (奈良市)|西大寺]]は右京の北方に位置し、称徳天皇により天平神護元年(765年)に創建された。これらに[[法隆寺]]を加えて七大寺([[南都七大寺]])と称する。この他、[[海龍王寺]]、[[法華寺]]、[[唐招提寺]]、[[菅原寺]]([[喜光寺]])、[[新薬師寺]]、[[紀寺]](子院が残る)、[[西隆寺]](廃寺)などがあった。
 
 
 
[[2006年]][[3月10日]]、[[大和郡山市]][[教育委員会]]らが、平城京が十条大路まで造られていたのは確実であると発表した。下三橋遺跡で発見された道路の遺構に加え、[[羅城]](城壁)跡の一部が発見されたことに依る。この羅城は中国の[[都城]]の様な土壁ではなく、南面だけは高い築地塀があったが他は簡単な瓦葺きの板塀ではないかと推定されている。
 
 
 
==発掘・調査==
 
[[北浦定政]]が、自力で平城京の推定地を調査し、[[水田]]の[[畦]]や[[道路]]に街の痕跡が残ることを見つけ、[[1852年]](嘉永5)『平城宮大內裏跡坪割之図』<ref name="kitaura">{{cite book|和書|title = 平城宮大内裏跡坪割之図 (写)| url = http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/ru11/ru11_01175/index.html|author = 北浦定政|others = 嘉永5年考正の写|accessdate = 2017-10-13 }}黒川家旧蔵。黒川真道蔵書、表装に黒川真前の印。軸装、彩色、一部朱書きあり。101.0×68.8cm (外装150.0×74.0cm)。</ref>にまとめた。さらに[[関野貞]]は、[[大極殿]]の基壇を見つけ、[[平城宮]]の復元研究を深めて、その成果を『平城宮及大内裏考』として1907年(明治40年)に発表した<ref>{{cite journal|和書|title =平城宮及大内裏考| author=関野貞|publisher = 東京帝国大学| year = 1907| work = 東京帝国大学紀要 ; 工科第3冊| url =http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/993848| accessdate =2017-10-13}}</ref>。
 
[[棚田嘉十郎]]によって「奈良大極殿保存会」が設立され、1924年から[[平城宮]]の発掘調査が行われた。
 
1959年以降は、[[奈良国立文化財研究所]]が発掘を継続しており、2004年現在では、約30%が発掘されている。
 
 
 
[[大内裏]]に相当する辺りは現在の[[近畿日本鉄道|近鉄]][[近鉄奈良線|奈良線]][[大和西大寺駅]]と[[新大宮駅]]の中間にあり、[[1922年]]には[[史跡]]に指定、[[1952年]]には[[特別史跡]]('''[[平城宮跡]]'''(へいじょうきゅうせき))として保存されている。
 
 
 
1967年に、平城宮東の張り出し部分に奈良時代の庭園が発見された。東西70メートル、南北100メートルにわたるもので、その中に、池を掘り、橋をかけ、建物を建てていた。「[[続日本紀]]」にある「東院の玉殿、葺くに瑠璃の瓦を以てす」という記事のとおり、釉薬をかけた瓦がまとまって出土した。このことから、発見された庭園は、平城宮東院庭園と呼ばれ国の特別名勝の指定を受けている<ref name="shitei">{{cite web|url = http://www.city.nara.lg.jp/www/contents/1225868740461/index.html#4|title = 国指定 史跡・名勝・天然記念物一覧|publisher = 奈良市|accessdate = 2017-10-13}}</ref>。
 
 
 
さらに1978年に宮域外ではあるが平城京左京三条二坊宮跡庭園が1978年に国の特別史跡、および1992年に[[特別名勝]]<ref name="shitei"/><ref name="teien">{{cite web|url = http://www.city.nara.lg.jp/www/contents/1159403572341/|title = 平城京左京三条二坊宮跡庭園|publisher = 奈良市|accessdate = 2017-10-13}}</ref>、また朱雀大路の一部(二条-三条あたり)は1984年に史跡に指定されている<ref name="shitei"/>。
 
 
 
平城宮のすぐ東南、宮跡庭園の北に隣接する左京三条二坊に、敷地4町の長屋王の邸宅があった。「[[奈良そごう]]」(当時)建設に際した発掘調査で1988年に出土した木簡<ref>{{cite journal|和書|editor = 奈良文化財研究所|title = 平城京左京二条二坊・三条二坊発掘調査報告―長屋王邸・藤原麻呂邸の調査(本文編)(図版編)|work = 奈良国立文化財研究所学報 |number = 54|year =1995}}</ref><ref>{{cite journal |和書|title = 平城京木簡一―長屋王家木簡一 |editor = 奈良文化財研究所|work = 奈良国立文化財研究所史料 | number = 41|year = 1995}}</ref><ref>{{cite web|url = http://hiroba.nabunken.go.jp/home/tenji04_01_05.html|title = 木簡ひろば・遺構|publisher = 奈良文化財研究所|accessdate = 2017-10-13}}</ref>は3万点を超える数であり、その解読の結果、長屋王家の生活が明らかになった。米を管理する大炊司、氷を貯蔵する氷室の管理をする水取司などの家政機関や使用人の居住区、倉庫などがあった。倉庫には、米・麦・鮑など、さまざまな物資が運び込まれていた。また、木簡から、当時の皇族や貴族が食べたという乳製品である蘇(そ)も長屋王家の食卓にあがっていたことが分かっている。
 
 
 
==脚注==
 
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== 参考文献 ==
 
  
 
==関連項目==
 
==関連項目==
 
 
*[[日本の首都]]
 
*[[日本の首都]]
 
*[[古都奈良の文化財]]
 
*[[古都奈良の文化財]]
 
*[[奈良時代]]
 
*[[奈良時代]]
*[[平城遷都1300年記念事業]]
 
*[[平城宮]]
 
*[[木簡]]
 
*[[二行八門制]]
 
*[[京奈和自動車道]]・大和北道路
 
 
== 外部リンク ==
 
  
 
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2018/8/19/ (日) 13:33時点における最新版

平城宮跡

平城京(へいじょうきょう/へいぜいきょう)

「へいぜいきょう」ともいう。元明天皇が藤原京から遷都した和銅3 (710) 年から桓武天皇が山城長岡京に移った延暦3 (784) 年までの 74年間の都。奈良市から大和郡山市にまたがる地に営まれた。唐の長安京の都城制を模してつくられ,南北9条 (約 4.8km) ,東西8坊 (約 4.3km) の面積をもち,全域 72坊に区画設定されている。中央北域に大内裏をおき,大内裏から南に走る朱雀大路によって東側は左京,西側は右京に分けられた。その一部の遺跡は 1954年から発掘が行われている。

関連項目

先代:
藤原京
日本の首都
710年 - 740年
次代:
恭仁京
先代:
紫香楽宮
日本の首都
745年 - 784年
次代:
長岡京


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