平兼盛

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平 兼盛(たいら の かねもり)は、平安時代中期の貴族歌人光孝平氏大宰大弐平篤行の三男。官位従五位上駿河守三十六歌仙の一人。

経歴

臣籍降下前は兼盛王と称す。文章生を経て、天慶9年(946年従五位下叙爵天暦4年(950年平朝臣姓を与えられて臣籍降下すると共に、越前権守に任ぜられる。

応和元年(961年山城介。応和3年(964年大監物として京官に復し、康保3年(966年)従五位上に叙せられる。円融朝の天元2年(977年)駿河守に任ぜられ再び地方官に転じた。

正暦元年(991年)12月28日卒去。享年は明らかでないが、父・篤行王の生没年を勘案すると80歳位まで生存したと推定される。最終官位は前駿河守従五位上。

拾遺和歌集』・『後拾遺和歌集』における代表的な歌人の一人であり、『後撰和歌集』以降の勅撰和歌集に約90首が採録。家集に『兼盛集』がある。その歌風は一首一首を深く考えてつくるというものであったが、難解になることもなく、比較的わかりやすい素直な表現の歌が多い。

逸話

兼盛といえば「天徳内裏歌合」における壬生忠見との対決(この時の歌が百人一首にも取られた「しのぶれど 色にいでにけり わが恋は 物や思ふと 人のとふまで」である)が一番有名であるが、「天徳内裏歌合」を始めとするさまざまな歌合、歌会、屏風歌の有力歌人として知られる。生存中から様々な挿話、逸話の主人公として知られていた。

兼盛が妻と離婚した際、妻は既に妊娠しており、赤染時用と再婚した後に娘を出産したため、兼盛が娘の親権を主張して裁判で争ったが認められなかったとの逸話が伝わる。なお、その娘は赤染衛門として大江匡衡に嫁ぎ、その血脈は大江広元大江姓毛利氏にも流れている。

官歴

『三十六人歌仙伝』による。