「川越藩」の版間の差分

提供: miniwiki
移動先:案内検索
ja>右近衛中将
(前橋城から川越城に移転する文章等を変更。)
 
(内容を「'''川越藩'''(かわごえはん) 江戸時代,武蔵国入間 (いるま) 郡川越地方 (埼玉県) を領有した藩。慶長 14 (1609) 年,先に在...」で置換)
(タグ: Replaced)
 
(同じ利用者による、間の1版が非表示)
1行目: 1行目:
'''川越藩'''(かわごえはん)は、[[武蔵国]][[入間郡]](現在の[[埼玉県]][[川越市]])周辺を領した[[藩]]。武蔵国一の大藩。藩庁は[[川越城]]に置かれた。
+
'''川越藩'''(かわごえはん)
  
== 概要 ==
+
江戸時代,[[武蔵国]]入間 (いるま) 郡川越地方 (埼玉県) を領有した藩。慶長 14 (1609) 年,先に在封した酒井氏が2万石で入封,のち4万石となり,松平 (大河内) 氏6万石,柳沢氏7万 2000石,秋元氏5万石 (4代,64年間) と続き,明和4 (1767) 年から越前家支流松平氏が 15万石で在封,慶応2 (1866) 年家門松平 (松井) 氏が8万石で入封し,廃藩置県にいたる。松平 (松井) 氏は江戸城帝鑑間詰。
武蔵国の中央に位置し、古来から軍事上の要所であったため、[[上杉持朝]]の命で[[家宰]]の[[太田道真]]・[[太田道灌]]父子によって城が築かれると、[[上杉氏]]、[[後北条氏]]の武蔵国支配の最重要拠点であり続けた。[[江戸時代]]になると[[大老]]・[[老中]]など幕政の重職についた有力[[譜代大名]]や、[[親藩]]の[[越前松平家]]などが入封した。幕府の老中職に就いた大名の数では徳川諸藩中、[[佐倉藩]]に次いで最多である。[[城下町]]の川越は江戸と[[新河岸川]]の[[舟運]]や[[川越街道]]で結ばれ、江戸の北の守りとして発展、「[[小江戸]]」と称される程であった。
 
 
 
== 藩史 ==
 
=== 16世紀 ===
 
==== 立藩 ====
 
[[天正]]18年([[1590年]])、[[豊臣秀吉]]の[[小田原征伐|北条征伐]]で[[前田利家]]の率いる北国勢によって[[川越城]]は開城し、[[後北条氏]]([[城代]]は[[大道寺氏]])の時代が終焉した。[[徳川家康]]が関東に移封されたのに伴い、[[掛川城|掛川の戦い]]以来の[[三河国|三河]]譜代最古参で[[酒井氏|雅楽頭酒井家]]の祖・[[酒井重忠]]が1万石をもって川越に封ぜられ、川越藩が立藩した(親藩格)。重忠は入封すると諸役免除を実施、楽市政策をとって領内の経済的確立に努めた。重忠は[[文禄・慶長の役|文禄の役]]では[[留守居役]]として家康不在の江戸城を治めた。また家康は、[[高麗郡]]鯨井(現在の川越市鯨井)の5千石を重臣の[[戸田一西]]に与え、[[近江国]][[膳所藩]]に移封になるまで10年間、[[鯨井藩]]となった。
 
 
 
=== 17世紀 ===
 
江戸幕府開府後の[[慶長]]6年([[1601年]])、重忠は[[天海]]僧正の口添えで[[上野国]][[前橋藩|厩橋藩]]に転封となった。川越は江戸防衛の枢要の地であるため後任の決定に紛糾し8年の[[番城]]を経て慶長14年([[1609年]])、重忠の弟で家康の再従弟に当たる[[酒井忠利|忠利]]が[[駿河国]][[田中藩]]より2万石で入封した。忠利は[[大坂の役]]では江戸城留守居役を勤め、[[喜多院]]で[[天台宗]]の論議を聴いた家康の命で、天海の喜多院を再興させた。また忠利は第3代[[徳川将軍家|将軍]]・[[徳川家光]]の信も厚く、老中となり加増を受け、3万7千石となった。[[寛永]]4年([[1627年]])に忠利は死去し、武蔵国[[深谷藩]]5万石の領主で忠利の嫡男・[[酒井忠勝 (若狭国小浜藩主)|忠勝]]が8万石で入封した。忠勝は老中として家光をよく補佐し、寛永9年([[1632年]])2万石の加増を受け、石高は10万石となった。忠勝は[[時の鐘 (川越市)|時の鐘]]建立など城下の整備を進めた。寛永11年([[1634年]])、忠勝は11万3千石で[[若狭国]][[小浜藩]]に移封され、[[国主|国持大名]]にまで上り詰め、[[大老]]も務めた。忠勝時代の藩士は、7千石を筆頭にして百石層の知行が最も多かった。忠勝の後、寛永11年([[1634年]])、[[相馬義胤 (相馬中村藩主)|相馬義胤]]が[[城代]]を務めた。
 
 
 
寛永12年([[1635年]])、[[六人衆|執政六人衆]]の一人で老中の[[堀田正盛]]が3万5千石で入封した。正盛は[[春日局]]の孫に当たり、大老四家である[[堀田氏]]の祖となった。寛永15年([[1638年]])の川越大火で焼失した喜多院など城内・城下の再建を指示、また家光の命で[[仙波東照宮]]創建の造営奉行となった。その後、[[信濃国]][[松本藩]]に転封した。[[水谷勝隆]]が城代となった。
 
 
 
寛永16年([[1639年]])、[[松平信綱]]([[大河内氏|大河内松平家]])が[[島原の乱]]鎮圧の功により、武蔵国[[忍藩]]より3万石加増された6万石で入封した。[[正保]]4年([[1647年]])加増を受けて7万5千石となった。信綱は才知に長け、家光付[[小姓]]から老中首座となり、家光や第4代将軍・[[徳川家綱|家綱]]をよく補佐し、官職名の伊豆守から「知恵伊豆」と呼ばれた。藩政では川越城の大改築(5郭・3櫓・8門を新造、城は倍の大きさになった)、城下の地割(侍屋敷・町屋敷・社寺地、足軽・中間は組屋敷。十ヵ町四門前町)、川越藩士[[安松金右衛門]]による[[玉川上水]]・[[野火止用水]]の開削など、農政を振興し藩政の基礎を固めた。新河岸川には九十九曲りという蛇行流が造成され、[[川越五河岸]]が設けられ、江戸と川越夜舟が行き来した。[[松平輝綱|輝綱]]は父・信綱の遺訓を守り、野火止に[[平林寺]]を移し野火止の開発を続けた。江戸とを結ぶ川越街道の改修整備が進んだのも輝綱の代である。[[元禄]]7年([[1694年]])、第3代藩主・[[松平信輝|信輝]]は[[下総国]][[古河藩]]に転封された。
 
 
 
=== 18世紀 ===
 
代わって[[元禄]]7年([[1694年]])に、[[柳沢吉保]]が7万2千石で入封した。吉保は第5代将軍・[[徳川綱吉|綱吉]]の寵愛を受け、2度の加増により石高は11万2千石に達した。綱吉の[[側用人]](大老格)として幕政に忙殺されたが、藩政でも[[三富新田]]の開発を行うなどの手腕を発揮している。吉保は[[儒学者]]の[[荻生徂徠]]を召抱え、徂徠は川越城下の宮下町に住み、三富新田の開発などは[[北宋]]の[[王安石]]の開拓に倣った徂徠の建議によるものである。[[宝永]]元年([[1704年]])、[[甲斐国]][[甲府藩]]に15万石で移封となった。
 
 
 
代わって甲斐国[[谷村藩]]より、[[秋元喬知]]が5万石で入封しすぐに6万石にされた。喬知は[[元禄]]文治の老中として有名であるが、[[正徳 (日本)|正徳]]元年([[1711年]])の入封時には甲斐より職人を帯同し、川越領内で柿や養魚などの農間余業や絹織物など殖産政策を進めた。喬知の治世は[[高山繁文]]など有能な家老が出た。第4代藩主・[[秋元凉朝|凉朝]]の時代の[[寛保]]2年([[1742年]])8月には、大豪雨により[[荒川 (関東)|荒川]]・[[入間川 (埼玉県)|入間川]]・[[綾瀬川]]などが氾濫し、武蔵国一帯は惨状を極めた([[寛保二年江戸洪水]])。凉朝は農民救済政策を矢継ぎ早に実施した。凉朝は[[平賀源内]]を藩に招いて、[[奥秩父山塊|奥秩父]]・[[大滝村 (埼玉県)|大滝]]の[[中津峡 (埼玉県)|中津峡]]で鉱山を開発した。凉朝が老中を辞した後、[[伝馬騒動|中山道伝馬騒動]]が起こり、川越藩領でも騒然とした。[[田沼意次]]の強権政治に反対したため凉朝は[[明和]]4年([[1767年]])、[[出羽国]][[山形藩]]に転封となった。凉朝は[[江戸屋敷]]を動かず、嫡男の[[秋元永朝|永朝]]が山形藩へ赴いた。
 
 
 
代わって[[上野国]][[前橋藩]]主・[[松平朝矩]]15万石の所領に川越は編入され、川越藩は消滅した。家康の次男[[結城秀康]]を祖とする[[越前松平家]]統治の時代となった。しかし、[[前橋城]]が[[利根川]]の浸食を受けて大打撃を受けたことからこれを廃城し、居城を川越城に移したために、これ以降前橋藩は川越藩となった。朝矩は川越藩の飛び地となった前橋に川越藩の[[陣屋]]を置き、前橋分領7万5千石を留守居役を据えて支配した([[前橋陣屋]])。
 
 
 
=== 19世紀 ===
 
越前松平家の中でも、秀康の五男[[松平直基]]を祖とする家系は、代々[[姫路藩]]、[[白河藩]]などへ転封を繰り返したことで借財が多く、朝矩も姫路時代より財政的に窮迫していた。川越で代を重ねても改善されず、第4代藩主・[[松平斉典|斉典]]は転封を目論み、第11代将軍・[[徳川家斉]]の子・[[松平斉省|斉省]]を養子とし、裕福な[[出羽国]][[庄内藩]]への移封の内示を受けた。庄内藩領民の猛烈な反対運動を受け、移封は沙汰止みとなったが([[三方領知替え|三方領地替え]])、引き替えに2万石の加増を受けて17万石となった。斉典は、豪商[[横田五郎兵衛]]を勘定奉行格に任命して藩財政の改革を進め、藩士[[安井政章]]に命じて[[川島町|川島]]に鳥羽井堤を築造し、水田を開発した。[[藩校]]「[[博喩堂]]」を開設し、藩儒・[[保岡嶺南]]に命じて川越版『[[日本外史]]』を刊行させ、盲目の医師で[[国学]]者の[[沼田順義]]を藩に招いた。西大手門に[[目安箱]]を置いて衆庶の声を藩政に取り入れるなど、「好学の名君」と謳われた。川越城[[本丸]]御殿建築も斉典の業績である。
 
 
 
一方で、武蔵国最大の石高であった川越藩は[[文政]]3年([[1820年]])に武蔵1万5千石を[[相模国|相模]]1万5千石と替地され、相州警固役を命ぜられた(この出費に嫌気して斉典は転封工作を始めたのである)。[[浦賀奉行]]の下で、[[会津藩]]に代わって川越藩が[[三浦半島|三浦郡]]の川越藩領に、[[三崎町 (神奈川県)|三崎]]や[[大津 (横須賀市)|大津]]、[[観音崎 (神奈川県)|観音崎]]などの海防陣屋を設け、500人を超える藩兵を置いて防衛に当たった。そのため[[天保]]8年([[1837年]])に発生した[[モリソン号事件]]で[[異国船打払令]]に基づき砲撃したのは[[浦賀]]の川越藩だった。川越藩は数千人体制まで増員、[[弘化]]3年([[1846年]])、[[東インド艦隊 (アメリカ海軍)|アメリカ東インド艦隊]]司令官・[[ジェームズ・ビドル|ビッドル]]が黒船2隻を率いて[[城ヶ島]]の沖に現れた際、最初に小船に乗って[[ヴィンセンス (戦闘スループ)|ビンセンス号]]に乗船、接触したのは川越藩士の[[内池武者右衛門]]であった。
 
 
 
[[弘化]]4年([[1847年]])、幕府は「御固四家」体制を敷き、江戸湾防衛を川越藩・[[彦根藩]]・[[会津藩]]・[[忍藩]]の有力4藩に負わせた。川越藩の分担区域は、[[追浜|浦郷]]から[[三崎町 (神奈川県)|三崎]]に至る三浦半島一帯とその海上であった(彦根藩は[[鎌倉]][[七里ヶ浜]]方面、会津藩は[[内房]]、忍藩は[[外房]])。[[嘉永]]6年([[1853年]])の[[マシュー・ペリー|ペリー]]来航の際には、[[鴨居港|鴨居]]から大津一帯に川越藩は藩兵を展開、ペリーの上陸した[[久里浜]]は川越藩兵500名や彦根藩兵が固めた。第5代藩主の[[松平典則|典則]]はペリーに同行した。[[嘉永]]7年([[1854年]])、ペリーの2度目の来航には、幕府は[[品川台場]]を築造し、海防ラインを江戸湾内海に変更、川越藩はその防衛を会津藩・忍藩と共に担い(川越藩は第1台場を担当、会津藩は第2、忍藩は第3)、[[高輪]]にも陣屋を構えた。また、川越藩は藩の鋳物を請け負っていた[[小川五郎右衛門]]に[[カノン砲]]を鋳造させ設置した。風雲急を告げる時勢で川越藩も武備を増強、江戸で当代随一の刀匠と呼ばれた[[藤枝英義|藤枝太郎英義]]はこの時期に活躍した川越藩の刀鍛冶師である。三浦半島の防衛を引き継ぐ[[熊本藩]]の準備が遅れ、川越藩は三浦半島と品川の双方に延べ6万人もの藩兵を配置する負担も生じた。川越藩は[[児玉郡]]には藩の鉄砲射撃場も造営した。第6代藩主の[[松平直侯|直侯]]([[徳川斉昭]]の八男。[[徳川慶喜]]は兄)はこうした出費に苦しんだ。
 
 
 
第7代藩主・[[松平直克|直克]]は将軍[[徳川家茂]]の[[上洛]]の際に江戸警衛の任に当たり、また西洋[[砲術]]の[[高島秋帆|高島流]]の採用や農民出身の藩士・[[大川平兵衛]]が指導していた[[神道無念流]]の重用による[[剣術]]の他流試合の活性化などの軍制改革を実施した。自身も上洛、[[孝明天皇]]より[[近衛府|少将]]に任官された。しかし[[横浜港|横浜]]鎖港問題が国内政局の焦点となっていた時に、直克は幕府の[[政治総裁職]](大老格)という要職にあり、家茂の方針と合わず、また[[天狗党の乱]]の鎮圧方針で強硬派の[[水戸藩]]と激しく対立、結局川越藩は兵を動かさず、直克は[[政事総裁職]]を罷免された。さらに[[幕末]]の[[慶応]]2年([[1866年]])[[世直し一揆|武州一揆]]が起こり、直克は藩米千俵を城下に放出するも川越藩領の諸村では恩恵に与れず打毀したため、直克は銃隊で鎮圧、一揆の城下への侵入を阻止した。
 
 
 
川越藩は開国をめぐる世情に最も通じていた藩の一つであり、100年にわたり川越藩領の上野国[[前橋藩|前橋]]([[群馬県]][[前橋市]])の主力産品であった[[生糸]]は川越藩士[[速水堅曹]]、[[深沢雄象]]らによって品質向上と増産が図られ、藩の専売品として横浜の港から川越藩御用商人の[[吉田幸兵衛]]らによって輸出され、莫大な利益を生んだ。こうして越前松平家の長い念願が叶って[[慶応]]3年([[1867年]])、前橋で城の新築がなり、直克は川越藩時代の石高をもって居城を前橋城に移転した。これ以降は前橋藩と呼ばれる。そのため、[[比企郡]]・[[高麗郡]]・[[埼玉郡]]周辺の6万2千石の領地が飛び地になることから、比企郡松山(現在の[[東松山市]])に[[松山陣屋]]が設置された。松山陣屋は陣屋としては国内最大級の規模であったが、わずか5年で[[廃藩置県]]を迎えて終焉した。ちなみにこの時、藩主・直克に従って速水堅曹や深沢雄象らも前橋城に移った。
 
 
 
代わって[[石見国]][[浜田藩]]の[[三河松井氏|松井松平家]]が、[[竹島事件]]を起こして懲罰的な移封であった[[陸奥国]][[棚倉藩]]時代を経て、[[松平康英]](松井康英)の代に8万4千石で川越に入封した。康英は[[外国奉行]]、[[神奈川奉行]]、[[勘定奉行]]、[[大目付]]、[[町奉行|南町奉行]]、[[寺社奉行]]、[[老中]]を歴任、江戸幕府最初の欧州使節団の[[文久遣欧使節]]の副使として[[ヨーロッパ|欧州]]6カ国に派遣され各国政府と開港延期交渉をした人物で、[[慶応]]2年([[1866年]])に藩主になると藩校「長善館」を開設した。康英は川越藩主であると同時に幕閣で老中・[[会計総裁職]](今日の[[財務大臣]])も兼務し多忙を極めた。
 
 
 
==== 廃藩 ====
 
康英は[[慶応]]4年([[1868年]])、新政府に帰順することで藩論をまとめ、老中を辞すると上洛するが、新政府に[[近江国]]の飛地領2万石を没収され、謹慎処分とされた。それでも川越城の堀を埋め、官軍にひたすら恭順することで、川越の戦火を回避することに成功した。川越藩は[[上野戦争]]から離脱した[[彰義隊]]分派の振武隊を、[[能仁寺 (飯能市)|能仁寺]]の戦い(飯能戦争)で掃討した。[[明治]]2年([[1869年]])、康英は所領を守ろうと、家督を養子の[[松平康載|康載]]に譲り隠居した。康載はただちに[[版籍奉還]]を願い出、わずか16日間の藩主であった。康載は[[知藩事]]となり、明治4年([[1871年]])[[廃藩置県]]を迎え、川越県となった。以後、県庁が置かれた[[入間県]]・[[熊谷県]]を経て埼玉県に編入された。
 
 
 
== 歴代藩主 ==
 
=== 酒井〔雅楽頭〕家 ===
 
譜代 1万石 (1590年 - 1601年)
 
#[[酒井重忠|重忠]]
 
 
 
=== 酒井〔雅楽頭家分家〕 ===
 
譜代 2万石→3万7千石→8万石→10万石 (1609年 - 1633年)
 
#[[酒井忠利|忠利]] 2万石→3万7千石
 
#[[酒井忠勝 (若狭国小浜藩主)|忠勝]] 8万石→10万石
 
 
 
=== 堀田家 ===
 
譜代 3万5千石 (1635年 - 1638年)
 
#[[堀田正盛|正盛]]
 
 
=== 松平〔大河内〕家 ===
 
譜代 6万石→7万5千石→7万石 (1639年 - 1694年)
 
#[[松平信綱|信綱]] 6万石→7万5千石
 
#[[松平輝綱|輝綱]]
 
#[[松平信輝|信輝]] 7万5千石→7万石(弟の[[松平輝貞|輝貞]]に5千石分与)
 
 
 
=== 柳沢家 ===
 
譜代 7万2千石→11万2千石 (1694年 - 1704年)
 
#[[柳沢吉保|吉保]]
 
 
 
=== 秋元家 ===
 
譜代 5万石→6万石 (1704年 - 1767年)
 
#[[秋元喬知|喬知]] 5万石→6万石
 
#[[秋元喬房|喬房]]
 
#[[秋元喬求|喬求]]
 
#[[秋元凉朝|凉朝]]
 
 
 
=== 松平〔越前〕家 ===
 
親藩 15万石→17万石 (1767年 - 1867年)
 
#[[松平朝矩|朝矩]]
 
#[[松平直恒|直恒]]
 
#[[松平直温 (川越藩主)|直温]]
 
#[[松平斉典|斉典]] 15万石→17万石
 
#[[松平典則|典則]]
 
#[[松平直侯|直侯]]
 
#[[松平直克|直克]]
 
 
 
=== 松平〔松井〕家 ===
 
譜代 8万4千石 (1867年 - 1871年)
 
#[[松平康英|康英]]
 
#[[松平康載|康載]]
 
 
 
== 江戸藩邸 ==
 
川越藩(松平〔越前〕家時代)の[[江戸藩邸]]・上屋敷は、今日の[[港区 (東京都)|港区]][[虎ノ門]]2丁目、汐見坂・霊南坂・江戸見坂の3つの坂が取り囲む一帯にあった。現在、[[ホテルオークラ東京|ホテルオークラ]]本館が建っている場所である。中屋敷は、[[赤坂 (東京都港区)|赤坂]]1丁目にあり、現在は[[アークヒルズ]]内の[[サントリーホール]]になっている。下屋敷は[[高輪]]3丁目にあり、現在の[[高輪警察署]]近辺である。
 
 
 
== 幕末の領地 ==
 
※松平〔松井〕家時代
 
* [[武蔵国]]
 
** [[比企郡]]のうち - 1村
 
** [[入間郡]]のうち - 104村
 
** [[榛沢郡]]のうち - 2村([[岩鼻県]]に編入)
 
** [[秩父郡]]のうち - 1村
 
* [[常陸国]]
 
** [[多賀郡]]のうち - 10村
 
* [[三河国]]
 
** [[幡豆郡]]のうち - 1村
 
* [[近江国]]
 
** [[野洲郡]]のうち - 5村
 
** [[甲賀郡]]のうち - 12村(うち1村を[[水口藩]]に編入)
 
** [[蒲生郡]]のうち - 33村
 
** [[高島郡 (滋賀県)|高島郡]]のうち - 8村
 
 
 
[[明治維新]]後に、多賀郡10村(旧[[天領|幕府領]])が加わった。
 
 
 
== 参考文献 ==
 
*[[児玉幸多]]・[[北島正元]]監修『藩史総覧』[[新人物往来社]]、[[1977年]]
 
*『別冊歴史読本24 江戸三百藩 藩主総覧 歴代藩主でたどる藩政史』 新人物往来社、1977年
 
*中嶋繁雄『大名の日本地図』[[文春新書]]、[[2003年]]
 
 
 
== 関連項目 ==
 
*[[川越市の歴史]]
 
*[[川越五河岸]]
 
*[[博喩堂]]
 
 
 
{{s-start}}
 
{{s-bef|before=([[武蔵国]])|表記=前}}
 
{{s-ttl|title=行政区の変遷
 
|years=[[1590年]] - [[1871年]]|years2=川越藩→川越県}}
 
{{s-aft|after=[[入間県]]|表記=次}}
 
{{end}}
 
{{江戸時代の藩}}
 
  
 +
{{テンプレート:20180815sk}}
 
{{デフォルトソート:かわこえはん}}
 
{{デフォルトソート:かわこえはん}}
 
[[Category:藩]]
 
[[Category:藩]]

2019/4/28/ (日) 23:08時点における最新版

川越藩(かわごえはん)

江戸時代,武蔵国入間 (いるま) 郡川越地方 (埼玉県) を領有した藩。慶長 14 (1609) 年,先に在封した酒井氏が2万石で入封,のち4万石となり,松平 (大河内) 氏6万石,柳沢氏7万 2000石,秋元氏5万石 (4代,64年間) と続き,明和4 (1767) 年から越前家支流松平氏が 15万石で在封,慶応2 (1866) 年家門松平 (松井) 氏が8万石で入封し,廃藩置県にいたる。松平 (松井) 氏は江戸城帝鑑間詰。



楽天市場検索: