山本忠男

提供: miniwiki
2018/8/17/ (金) 19:14時点におけるAdmin (トーク | 投稿記録)による版 (1版 をインポートしました)
(差分) ← 古い版 | 最新版 (差分) | 新しい版 → (差分)
移動先:案内検索

山本 忠男(やまもと ただお、1944年6月28日 - )は、京都府出身の元プロ野球選手内野手)・コーチ在日コリアンであり、本名は李 忠男(イ・チュンナム、ハングル:이충남)。現在は母校・龍谷大学硬式野球部のコーチ。

経歴

平安高校では1962年、3年生の時に三塁手、四番あるいは五番打者として活躍。春夏の甲子園に連続出場し、春の選抜では1回戦で、この大会に準優勝した日大三高に敗退。夏の選手権でも1回戦で、西条高の石川洵(立大鐘紡)、村上公康のバッテリーに抑えられ1-2で惜敗。

卒業後は龍谷大学へ進学し、1年生から三塁手、四番打者を任される。関西六大学リーグでは、チームの一部昇格に貢献。1966年春季リーグで近大、秋季リーグで関学と優勝を争うが、いずれも2位に終わり、悲願の初優勝はならなかった。リーグ通算77試合出場、273打数63安打、打率.231、4本塁打。大学同期に伊能正司がいる。

1966年第2次ドラフト会議南海ホークスから2位指名を受け入団。大型内野手だがベース一周14秒2の俊足を活かし、1年目から遊撃手として11試合に先発出場。1970年には自己最多の87試合に出場し、古葉竹識青野修三二塁手のレギュラーを争った。しかし翌年は桜井輝秀が二塁手の定位置を確保、出場機会が減少する。1972年限りで現役引退

その後は二軍守備・走塁コーチ(1973年 - 1974年)、二軍ヘッドコーチ(1975年)、一軍コーチ(1976年 - 1977年)を歴任。1977年オフに野村克也監督解任騒動に伴い、球団から強い慰留を受けるも、野村と共に退団。1978年からは阪急ブレーブスに二軍コーチとして移籍し[1]1980年 - 1982年には一軍守備・走塁コーチを務めた[1]1983年韓国プロ野球三星ライオンズのヘッドコーチに就任。同年シーズン中は健康状態を理由に休養した徐永武監督に代わって、監督代行を務めた。以後、三星は山本を監督に昇格したが、「韓国語をよく話さない」という理由で相手のチームを攻略せず当年の成績は全体4位に終わる。リーグ成績不振のため三星から解任されたが、その以後にはデータ分析の機能が韓国に導入して1984年 - 1985年に三星を生かせた。前関西テレビアナウンサーの桑原征平桧山進次郎(元・阪神タイガース外野手)の伯母は、同級生である。

詳細情報

年度別打撃成績

















































O
P
S
1967 南海 26 30 28 3 6 1 0 2 13 3 1 0 0 0 1 0 1 7 0 .214 .267 .464 .731
1968 29 28 25 2 6 0 0 1 9 2 2 0 0 0 1 0 2 9 0 .240 .321 .360 .681
1969 18 27 27 3 7 1 0 0 8 2 2 0 0 0 0 0 0 5 0 .259 .259 .296 .555
1970 87 187 174 33 51 10 0 7 82 18 5 2 1 2 10 1 1 22 3 .293 .333 .471 .804
1971 50 61 56 7 11 0 0 0 11 2 0 0 0 0 4 0 0 4 1 .196 .245 .196 .441
1972 19 28 27 1 4 1 0 0 5 3 0 0 1 0 0 0 0 2 0 .148 .148 .185 .333
通算:6年 229 361 337 49 85 13 0 10 128 30 10 2 2 2 16 1 4 49 4 .252 .292 .380 .672

背番号

  • 26 (1967年 - 1972年)
  • 75 (1973年 - 1977年)
  • 70 (1978年 - 1982年)

脚注

  1. 1.0 1.1 阪急ブレーブス黄金の歴史 [永久保存版] よみがえる勇者の記憶 1936-1988、ベースボール・マガジン社、2011年、P129

関連項目

テンプレート:サムスン・ライオンズ歴代監督 テンプレート:南海ホークス1966年ドラフト指名選手