小牧・長久手の戦い
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小牧・長久手の戦い | |
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戦争: 小牧・長久手の戦い | |
年月日: 天正12年(1584年)3月-11月 | |
場所: 小牧山・長久手 他 | |
結果: 羽柴軍の戦略的勝利。(美濃、伊賀、伊勢南部における織田信雄の影響力を排除) 徳川・織田連合軍の戦術的勝利 | |
交戦勢力 | |
羽柴軍 | 織田・徳川連合軍 |
戦力 | |
100,000?[1][2] | 16,000-30,000?[1] |
損害 | |
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小牧・長久手の戦い(こまき・ながくてのたたかい)
天正 12 (1584) 年4月,豊臣秀吉と織田信雄,徳川家康の連合軍との間に,尾張小牧さらに長久手で展開された合戦。織田信長の死後,秀吉は山崎の戦い,賤ヶ岳の戦いを経てようやく天下統一の歩を進め,さらに信雄を除こうと,同年,その3家老を懐柔したが,信雄の知るところとなり,3家老は誅殺されるにいたった。ただちに秀吉は 12万余の軍をもって信雄討伐の兵を起したが,信雄は援助を家康に求めた。家康は天正 12年3月7日居城浜松を発し,同 13日清洲で信雄と会し,連合軍4万の兵で小牧山を固めた。秀吉は犬山城に入り,さらに楽田に移ってここを固めた。4月3日秀吉の部将池田信輝らは2万の兵をもって楽田を発し,長久手まで進軍したが,同9日家康の部将榊原康政らの攻撃にあって敗れ,信輝自身戦死するにいたった。秀吉の本隊がただちに長久手に向ったが,家康らはすでに小牧山に兵を引いたあとであった。小牧付近は再び膠着状態に入ったが,そのうち,秀吉は大坂に引揚げ,やがて家康,信雄らも居城に帰った。両者の間に和が結ばれたのは翌 13年に入ってからである。この交渉によって秀吉の全国統一のめどが立つにいたるとともに,家康の地位も確立した。
- ↑ 1.0 1.1 小和田哲男 2006, p. 133.
- ↑ 岩澤愿彦 2000, p. 38.