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{{基礎情報 武士
 
| 氏名 = 小山 秀綱
 
| 画像 = Oyama Hidetsuna.jpg
 
| 画像サイズ = 200px
 
| 画像説明 =
 
| 時代 = [[戦国時代 (日本)|戦国時代]] -[[江戸時代]]初期
 
| 生誕 = [[享禄]]2年([[1529年]])
 
| 死没 = [[慶長]]8年[[6月26日 (旧暦)|6月26日]]([[1603年]][[8月3日]])
 
| 改名 = 氏朝(初名)→氏秀→秀綱→孝哲(法名)
 
| 別名 = 弾正、通称:小四郎
 
| 諡号 =
 
| 神号 =
 
| 戒名 =
 
| 霊名 =
 
| 墓所 =
 
| 官位 = [[弾正台|弾正大弼]]
 
| 幕府 = [[室町幕府]]
 
| 主君 =
 
| 藩  =
 
| 氏族 = [[小山氏]]
 
| 父母 = 父:[[小山高朝]]
 
| 兄弟 = '''秀綱'''、[[富岡秀高]]、[[結城晴朝]]、<br/>[[江戸重通]]正室
 
| 妻  = 正室:'''[[北条氏政]]養女'''([[成田氏長]]娘)
 
| 子  = [[小山秀広|秀広]]、[[榎本高綱]]、'''[[小山政種|政種]]'''、[[岡本禅哲]]正室
 
| 特記事項 =
 
}}
 
'''小山 秀綱'''(おやま ひでつな)は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]から[[江戸時代]]初期にかけての[[武将]]・[[戦国大名]]。[[小山氏]]18代当主。[[下野国]][[小山城 (下野国)|祇園城]]主。
 
  
== 生涯 ==
+
'''小山 秀綱'''(おやま ひでつな)
[[享禄]]2年([[1529年]])、[[小山高朝]]の長男として誕生。当初は父・高朝の1字を取って'''氏朝'''(うじとも)、後に'''氏秀'''(うじひで)と名乗る。双方の「氏」の字はそれまでの慣例に倣い[[古河公方]]・[[足利氏]]より[[偏諱]]を受けたものと思われる。秀綱はその後に名乗った。
 
  
[[永禄]]3年([[1560年]])頃に家督を継ぐ。この頃の関東は古河公方・[[足利晴氏]]の嫡男・[[足利藤氏|藤氏]]を擁し[[上杉憲政]]より[[関東管領]]を受け継いだ[[上杉謙信]]と、藤氏の異母弟・[[足利義氏 (古河公方)|足利義氏]]<ref>生母は[[北条氏康]]の異母妹。</ref>を擁する[[北条氏康]]の二大勢力の狭間にあった。永禄4年([[1561年]])、[[小田原城の戦い (1560年)|小田原城の戦い]]では秀綱は謙信に与し[[後北条氏]]の[[小田原城]]攻撃に参加するが、永禄6年([[1563年]])には北条氏に内応。翌永禄7年([[1564年]])に居城・祇園城を謙信に攻められて降伏。更にその翌年には再度北条氏に通じるなど、小山氏の存続のために両陣営を度々移り変わった。このため、早くから北条氏側についていた弟・[[結城晴朝]]と度々争っていたという。
+
戦国-織豊時代の武将。
  
[[天正]]3年([[1575年]])、居城の祇園城を[[北条氏照]]に攻められたが、籠城してこれをしのいでいる。このとき既に北条氏から離反していた晴朝や近隣の[[宇都宮広綱]]・[[佐竹義重 (十八代当主)|佐竹義重]]の協力で[[北条氏政]]に和議を申し入れたが断固として聞き入れられなかった<ref>『小山市史』。</ref>。翌天正4年([[1576年]])に再び攻め込まれると、祇園城を開城し、嫡子・伊勢千代丸(後の[[小山政種|政種]])と共に佐竹義重の許へ身を寄せた。その後、祇園城は北条氏の直轄領として北関東攻略の拠点となっている。
+
小山高朝の子。下野(しもつけ)(栃木県)小山城主。越後(えちご)(新潟県)上杉氏と相模(さがみ)(神奈川県)北条氏の間にあって,つねに立場をかえながら家の存立をはかる。天正(てんしょう)3年北条氏に居城を攻めおとされ,のち配下となる。18年豊臣秀吉による小田原攻めで,北条氏とともに没落した。慶長7/8年死去。
 
 
その後、佐竹義重の協力で祇園城奪還を試みるものの、天正9年([[1581年]])には嫡子・政種が戦死してしまうなど、思うようには進まなかった。
 
 
 
天正10年([[1582年]])5月18日になると、[[織田信長]]の[[惣無事令]]により、信長の家臣である[[滝川一益]]の仲介の下、北条氏照から祇園城を返還される。しかし、この和睦には北条氏への帰属が条件として含まれており、北条氏の家臣が小山に滞在するなど、以前のような権力を持つことはできなかった。
 
 
 
そのため、天正18年([[1590年]])の[[豊臣秀吉]]による[[小田原征伐]]では、北条方として参陣せざるを得ず、豊臣秀吉によって改易された。旧小山氏領は弟・晴朝に与えられ、秀綱は晴朝を頼ることとなり、庶長子・[[小山秀広|秀広]]は結城氏の重臣に迎えられた。しかし、[[慶長]]5年([[1600年]])の[[関ヶ原の戦い]]直後に秀広が病死したため、秀綱は結城氏の[[福井藩]]移封には従わずに隠退した。
 
 
 
慶長8年([[1603年]])に病死したという。これにより戦国大名としての小山氏は滅亡した。家督は秀広の子・[[小山秀恒|秀恒]]が継いだ。
 
 
 
== 偏諱を受けた人物 ==
 
*[[荒川秀景|荒川'''秀'''景]](家臣、[[渋江政光]]の実父)
 
 
 
== 脚注 ==
 
<references/>
 
 
 
{{小山氏|第18代}}
 
  
 +
{{テンプレート:20180815sk}}
 
{{DEFAULTSORT:おやま ひでつな}}
 
{{DEFAULTSORT:おやま ひでつな}}
 
[[Category:小山氏|ひでつな]]
 
[[Category:小山氏|ひでつな]]

2019/5/1/ (水) 17:51時点における最新版

小山 秀綱(おやま ひでつな)

戦国-織豊時代の武将。

小山高朝の子。下野(しもつけ)(栃木県)小山城主。越後(えちご)(新潟県)上杉氏と相模(さがみ)(神奈川県)北条氏の間にあって,つねに立場をかえながら家の存立をはかる。天正(てんしょう)3年北条氏に居城を攻めおとされ,のち配下となる。18年豊臣秀吉による小田原攻めで,北条氏とともに没落した。慶長7/8年死去。



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