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'''対立教皇'''(たいりつきょうこう、{{lang-it-short|Antipapa}}、{{lang-en-short|Antipope}})は、[[キリスト教]]の[[歴史]]において、正当な教皇に対抗してたてられた[[教皇]]のこと、あるいは[[ローマ教皇]]であることを宣言しながらも、同時代人あるいは後世の人からその地位が正統なものであると認められなかった人々のこと。
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'''対立教皇'''(たいりつきょうこう、{{lang-it-short|Antipapa}}、{{lang-en-short|Antipope}}
  
通常、対立教皇というのは教皇選挙者たち(中世以降は[[枢機卿団]])によって、ある人物が教皇に選ばれたあとでそれに反対する人々によって立てられることが多い。一般的に対立教皇ということばは[[古代]]から[[中世]]にかけての歴史用語であるが、[[近代]]以降であっても教皇空位主義者(後述)などで教皇を自称する人々を広義での対立教皇と呼ぶこともある。
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正当に選出された教皇に対立し,教皇位を主張し,かつ多くの場合実権を握った聖職者。教皇は1人に限られるから,2人目からは対立教皇であるが,その際だれが正当な教皇かを決するのはむずかしい。対立教皇が生れる原因としては,最初の対立教皇であるヒッポリツス (在位 217~235) のように,時の教皇に教理の面で反対した者もあったが,多くは世俗勢力の介入や影響によって2重,3重に教皇選出がなされたことによる (1059年までは皇帝,王侯などの世俗勢力も選挙権をもっていた) 。 14~15世紀の大分裂のときには西方教会内部が分裂し,枢機卿団も分立して対立教皇を生んだ。最も新しい対立教皇はそのおりのフェリクス5世 (在位 1439~49) である。
 
 
== 歴史的経緯 ==
 
史上初めて現れた対立教皇とされるのは[[3世紀]]に[[ローマ]]のキリスト教徒が分裂したことで立てられた[[ヒッポリュトス (対立教皇)|ヒッポリュトス]]である。彼は[[カリストゥス1世_(ローマ教皇)|カリストゥス1世]]に対抗して立った対立教皇であった。ヒッポリュトスは後にカリストゥス1世の後継者[[ポンティアヌス_(ローマ教皇)|ポンティアヌス]]教皇と共にどちらが正統な教皇なであるかということについて争ったが、ローマ皇帝の迫害によって二人とも[[サルデーニャ島]]の鉱山での強制労働に送られている。サルデーニャ島から帰ることができたヒッポリュトスは[[死]]の直前になって、対立していた教会の指導者たちと和解したため、対立教皇でありながら後に[[列聖]]されている。
 
 
 
10世紀以前の対立教皇があらわれた理由は教皇選挙制度が不完全であり、きちんと確立されていなかったことによる部分が大きい。選挙システム自体が不完全だったため、教皇選挙者たちが分裂するような状況に陥ると機能不全をおこし、対立するグループが自分たちの立てた教皇こそ真正であると各々言い張るようになっていたのである。このような選挙の場合は対立と混乱が終始したあとで、どちらかの教皇が、選挙者たちの多数の賛成が得られていないという理由によって対立教皇であるとみなされることになった。
 
 
 
対立教皇がもっとも多く出現することになったのは[[11世紀]]から[[12世紀]]にかけてである。その背景にはカトリック教会を意のままに操ろうとした[[神聖ローマ皇帝]]と、それに反発した教皇庁の対立があった。神聖ローマ皇帝は自分の政治意図を実現するため、しばしば対立教皇を立てることでローマ教皇を脅かした。しかし、同時に神聖ローマ皇帝に対抗する権力がこれに反発してローマ教皇に肩入れすることになったため、思ったほどの効果を得られなかった。
 
 
 
次に対立教皇がたったのは[[14世紀]]から[[15世紀]]にかけてであるが、この時期は[[アヴィニョン]]に移った教皇庁がローマに戻ったあとで、再びアヴィニョンに教皇が立ち、ついにはピサに第三の教皇が立つなど混乱を極め、カトリック教会は分裂・瓦解の危機に瀕していた。これを[[教会大分裂]](西方大離教)という。これを機会に、カトリック教会の構造改革の必要が叫ばれることになり、[[16世紀]]に起こる[[宗教改革]]の一つの伏線となった。
 
 
 
しかし、単純に対立教皇といっても、あくまでも後世の判断による部分が多く、同時代の人々はどちらが対立教皇でどちらが正当な教皇だとはっきり区別していたわけではない。彼らにとっては、当然自分たちが支持する人物こそが正当な教皇であり、支持していない人物は対立教皇であった。
 
 
 
史上、最後の対立教皇となったのは[[バーゼル公会議]]の分裂によってたてられたフェリクス5世であったが、彼は[[1449年]]に退位した。その後、[[イギリス|英国]]の[[宗教改革]]によるローマからの分離、[[復古カトリック教会]]運動、[[中国]]における愛国者教会などローマ教皇の権威を否定する分離運動は起きているが、それらは教皇制そのものを否定しているため、独自の教皇をたてることはなかった。
 
 
 
現在の教会法では、正当な手続きを経ずに教皇を名乗る行為は、教会の分裂を引き起こす重大な行為であるとみなされ、[[破門]]されることになる。
 
 
 
== 現代の対立教皇たち ==
 
中世のみならず、現代においても「教皇空位主義者」(Sedevacantist)とよばれるカトリック信徒を自称しながら、ローマ教皇を認めない一群の人々が自分たちの中から独自の教皇を立てることがある。彼らによって立てられた「教皇」を現代の対立教皇とよぶことができるかもしれない。
 
 
 
「教皇空位主義者」といっても教皇座を空位にしておくことを主張しているという意味ではなく、[[第2バチカン公会議]]以降のローマ教皇たちは正統な教皇ではないということを主張しているのである。そう考える彼らから見れば現在のローマの教皇座は「空位」であり、それゆえ自分たちが教皇を立てても差し支えないと考えている。
 
 
 
彼らは教皇[[ヨハネ23世 (ローマ教皇)|ヨハネ23世]]および[[パウロ6世 (ローマ教皇)|パウロ6世]]のもとで第2バチカン公会議によって進められたカトリック教会の改革を一切認めないという立場に立つ。このような人々は[[トリエント・ミサ]]とよばれる古い形式のミサのみを[[ラテン語]]で行い、各国語で行う典礼行為を認めない。
 
 
 
== 対立教皇の一覧 ==
 
# [[ヒッポリュトス (対立教皇)|ヒッポリュトス]](後に教皇ポンティアヌスと和解したことで殉教者として[[列聖]]されている)217年-235年
 
# [[ノウァティアヌス_(対立教皇)|ノウァティアヌス]] 251年-258年
 
# [[フェリクス2世_(対立教皇)|フェリクス2世]] (同名の殉教者がいるため、近年まで混同されていた) 355年-365年
 
# [[ウルシヌス_(対立教皇)|ウルシヌス]] 366年-367年
 
# [[エウラリウス_(対立教皇)|エウラリウス]] 418年-419年
 
# [[ラウレンティウス_(対立教皇)|ラウレンティウス]] 498年-499年 501年-506年
 
# [[ディオスクルス_(対立教皇)|ディオスクルス]] 530年
 
# [[テオドルス_(対立教皇)|テオドルス]] 687年 (パスカリスを対立教皇と非難)
 
# [[パスカリス_(対立教皇)|パスカリス]] 687年 (テオドルスを対立教皇と非難)
 
# [[コンスタンティヌス2世_(対立教皇)|コンスタンティヌス2世]] 767年-768年
 
# [[フィリップス_(対立教皇)|フィリップス]] 768年
 
# [[ヨハネス8世_(対立教皇)|ヨハネス8世]] 844年
 
# [[アナスタシウス_(対立教皇)|アナスタシウス3世ビブリオテカリウス]] 855年
 
# [[クリストフォルス_(対立教皇)|クリストフォルス]] 903年-904年
 
# [[ボニファティウス7世_(対立教皇)|ボニファティウス7世]] 974年 984年-985年
 
# [[ヨハネス16世_(対立教皇)|ヨハネス16世]](ヨハネス・フィラガトス) 997年-998年
 
# [[グレゴリウス6世_(対立教皇)|グレゴリウス6世]] 1012年
 
# [[ベネディクトゥス10世_(対立教皇)|ベネディクトゥス10世]](ヨハネス・ミンキウス) 1058年-1059年
 
# [[ホノリウス2世_(対立教皇)|ホノリウス2世]](ピエトロ・カダルス) 1061年-1064年
 
# [[クレメンス3世_(対立教皇)|クレメンス3世]](ギベルト・ディ・ラヴェンナ) 1080年 1084年-1100年
 
# [[テオドリクス_(対立教皇)|テオドリクス]] 1100年-1101年
 
# [[アルベルトゥス_(対立教皇)|アルベルトゥス]] 1101年
 
# [[シルウェステル4世_(対立教皇)|シルウェステル4世]](マギヌルフス) 1105年-1111年
 
# [[グレゴリウス8世_(対立教皇)|グレゴリウス8世]](マウリティウス・ブルディヌス) 1118年-1121年
 
# [[ケレスティヌス2世_(対立教皇)|ケレスティヌス2世]](テバルドゥス・ブッカペクス) 1124年
 
# [[アナクレトゥス2世_(対立教皇)|アナクレトゥス2世]](ピエトロ・ピエルレオニ) 1130年-1138年
 
# [[対立教皇ウィクトル4世 (先代)|ウィクトル4世]](グレゴリオ・コンティ) 1138年
 
# [[対立教皇ウィクトル4世 (後代)|ウィクトル4世]](オッタビオ・ディ・モンテチェリオ)1159年-1164年 (先のウィクトル4世は正統な教皇でないと考えたため、ウィクトル4世を名乗る)
 
# [[パスカリス3世_(対立教皇)|パスカリス3世]](グイード・ディ・クレマ)1164年-1168年 ([[シャルルマーニュ]]を[[列聖]])
 
# [[カリストゥス3世_(対立教皇)|カリストゥス3世]](ジョバンニ・ディ・ストルーマ)1168年-1178年
 
# [[インノケンティウス3世_(対立教皇)|インノケンティウス3世]](ランツォ・ディ・セッツァ) 1179年-1180年
 
# [[ニコラウス5世_(対立教皇)|ニコラウス5世]](ピエトロ・ライナルディッキ)ローマ対立教皇 1326年-1330年
 
# [[クレメンス7世_(対立教皇)|クレメンス7世]](ロベルト・ディ・ジェノヴァ) アヴィニョン対立教皇 1378年-1394年
 
# [[ベネディクトゥス13世_(対立教皇)|ベネディクトゥス13世]](ペドロ・デ・ルナ) アヴィニョン対立教皇 1394年-1423年
 
# [[アレクサンデル5世_(対立教皇)|アレクサンデル5世]](ピエトロ・フィラルギ) ピサ対立教皇 1409年-1410年
 
# [[ヨハネス23世_(対立教皇)|ヨハネス23世]](バルダッサレ・コッサ) ピサ対立教皇 1410年-1415年
 
# [[クレメンス8世_(対立教皇)|クレメンス8世]](ジル・サンチェス・ムノス) アヴィニョン対立教皇 1423年-1429年
 
# [[対立教皇ベネディクトゥス14世 (先代)|ベネディクトゥス14世]](ベルナルド・ガルニエル) アヴィニョン対立教皇 1424年-1429年
 
# [[対立教皇ベネディクトゥス14世 (後代)|ベネディクトゥス14世]](ジャン・カリエル) アヴィニョン対立教皇 1430年-1437年 (別の人物が同じ教皇名を引き継ぐ)
 
# [[フェリクス5世_(対立教皇)|フェリクス5世]](サヴォイア公アメデーオ8世) 1439年-1449年
 
 
 
== 類似した事例 ==
 
* [[ローマ帝国]]における[[ローマ皇帝一覧|対立皇帝・僭称皇帝]]
 
* [[神聖ローマ帝国]]における[[対立王]]
 
* [[チベット仏教]]における[[化身ラマ#対立化身ラマ|対立化身ラマ]]
 
 
 
== 関連項目 ==
 
* [[ローマ教皇の一覧]]
 
* [[名誉教皇]]
 
* [[ヨハネス20世 (ローマ教皇)]]
 
* [[女教皇ヨハンナ]]
 
* [[聖ピオ十世会]]
 
* [[マルセル・ルフェーブル]]
 
 
 
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対立教皇(たいりつきょうこう、: Antipapa: Antipope

正当に選出された教皇に対立し,教皇位を主張し,かつ多くの場合実権を握った聖職者。教皇は1人に限られるから,2人目からは対立教皇であるが,その際だれが正当な教皇かを決するのはむずかしい。対立教皇が生れる原因としては,最初の対立教皇であるヒッポリツス (在位 217~235) のように,時の教皇に教理の面で反対した者もあったが,多くは世俗勢力の介入や影響によって2重,3重に教皇選出がなされたことによる (1059年までは皇帝,王侯などの世俗勢力も選挙権をもっていた) 。 14~15世紀の大分裂のときには西方教会内部が分裂し,枢機卿団も分立して対立教皇を生んだ。最も新しい対立教皇はそのおりのフェリクス5世 (在位 1439~49) である。