密教

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密教(みっきょう)とは、秘密の教えを意味し[1]、一般的には、大乗仏教の中の秘密教を指し[2]、秘密仏教の略称とも言われる[3]金剛乗、あるいは金剛一乗教金剛乗教ともいう[4]中国語圏では一般に密宗(ミイゾン)という[注釈 1]

意味と位置づけ

かつての日本では、密教といえば空海を開祖とする真言宗のいわゆる東密や、密教を導入した天台宗での台密を指したが、インドチベットにおける同種の仏教思想の存在が認知・紹介されるに伴い、現代ではそれらも合わせて密教と総称するようになっている[5]。今日の仏教学は一般に密教を「後期大乗」に含めるが、後期大乗と密教とを区別しようとする立場もある[6]。江戸後期の日本で確立した分類である雑密・純密をそれぞれ大まかにインド密教の前期・中期に対応させることが多い。

真言宗においては、伝統的には、「密教」とは顕教と対比されるところの教えであるとされる[7]空海は『請来目録』や『弁顕密二教論』の中で、顕教と密教の二教を弁別し、「密蔵」の語を用いて密教の概念を説明した。インドの後期大乗仏教の教学(顕教)と後期密教とを継承したチベット仏教においても、大乗を波羅蜜乗(顕教)と真言乗(密教)とに分けるという形で顕密の教えが説かれている。密教の他の用語としては金剛乗(vajrayāna、ヴァジュラヤーナ)、真言乗(mantrayāna、マントラヤーナ)などとも称される。

チベット僧は顕教に対する自分たちの密教を、チベット語でガクルグ(真言流)とかサンガク(秘密真言)と呼称し、欧文脈ではその同義語としてサンスクリットの「ヴァジュラヤーナ」を用いることが多い。金剛乗の語は、金剛頂経系統のインド後期密教を、声聞乗・大乗と対比して、第三の最高の教えと見る立場からの名称であるが、拡大解釈により大日経系統も含めた密教の総称として用いられることもあり[8]、欧米などでも文献中に仏教用語として登場する。

また、欧米の研究者はとりわけ9世紀以降の後期密教をタントラ仏教 (Tantric Buddhism) と呼ぶことが多い。これは、8世紀以後に成立した密教経典がスートラではなくタントラ[注釈 2]と名づけられていることによる。また、欧米系の東洋学や宗教学において、殊に6世紀以降のインドの諸宗教に広く見られる特定の宗教文化・様式・傾向等をタントリズムとして括り、仏教の中の密教を「仏教のタントリズム」と捉えることにも関連している。

金剛乗と金剛

金剛乗の語が出現するのは密教経典からだが[9]、金剛の語はすでに部派仏教時代の経論からみられる[10]。また、部派仏典の論蔵アビダルマ)の時代から、菩提樹下に於ける釈迦の(降魔)成道は、金剛(宝)座でなされたとする記述がみられる[11][12]

概説

本来、密教は「文字によらない教え」を指し、先に述べたように顕教では経典類の文字によって全ての信者に教えが開かれているのに対し密教は、空海の詩文集『性霊集』で「それ曼荼羅の深法、諸仏の秘印は、談説に時あり、流伝は機[注釈 3]にとどまる。恵果大師が、伝授の方法を説きたまえり。末葉に、伝うる者敢えて三昧耶戒に違反してはならないと。与奪は[注釈 4]我(空海)が意志に非ず、密教の教えを得るか否かはきみの情(こころ)にかかれり。ただ、手を握りて印を結んで、誓いを立てて契約し、口に伝えて、心に授けるのみ。」[注釈 5]と述べているように、「阿字観」等に代表される不生の三昧(瞑想)を重んじ、曼荼羅や法具類、灌頂の儀式を伴う「印信」[注釈 6]や「三昧耶形」等の象徴的な教えを旨とし、それを授かった者以外には示してはならないとされた[注釈 7]。これは、灌頂が儀式の中で段階的に、行いを重視する「通戒と、心のあり方を重視する「菩薩戒」と、中期密教に始まる、象徴を理解するための基礎の「三昧耶戒」と、それに加えて無上瑜伽タントラ[注釈 8]では、後期密教における仏智を軸とする発展的な三昧耶戒である「無上瑜伽戒」[注釈 9]を与え、心身における全的覚醒を促し、密教に必要な諸々の戒律を参加者に与えることにより、その対象を限定した上で、「秘密とされる灌頂の授者を生きたまま(即身)諸仏の曼荼羅に生じせしめる」からである。

それゆえ空海(弘法大師)は、密教が顕教と異なる点を『弁顕密二教論』の中で「密教の三原則」[注釈 10]として以下のように挙げている。

  1. 法身説法(法身は、自ら説法している。)
  2. 果分可説(仏道の結果である覚りは、説くことができる。)
  3. 即身成仏(この身このままで、仏となることができる。)

いわゆるそれまでの部派仏教が成仏を否定して阿羅漢の果を説き、さらには大乗仏教が無限の時間(三阿僧祇劫)を費やすことによる成仏を説くのに対して、密教は老若男女を問わず今世(この世)における成仏である「即身成仏」を説いたことによって、画期的な仏教の教えとして当時は驚きをもって迎え入れられた。この点での中期密教と後期密教との差異はというと、中期密教は出家成仏を建前とするのに対して、後期密教は仏智を得ることができれば出家在家に関係なく成仏するとしている点である。

密教においては、師が弟子に対して教義を完全に相承したことを証する儀式を伝法灌頂といい、その教えが余すところなく伝えられたことを称して「瀉瓶(しゃびょう)の如し」[注釈 11]といい、受者である弟子に対して阿闍梨(教師)の称号と資格を与えるものである。いわゆるインド密教を継承したチベット密教がかつて一般に「ラマ教」と称されたのは、チベット密教では師資相承における個別の伝承である血脈[注釈 12]を特に重んじ、自身の「根本ラマ」(師僧[注釈 13]に対して献身的に帰依するという特徴を捉えたものである。

インド密教の歴史

概略を説明すると、密教成立の背景には、インド仏教後期においてヒンドゥー教の隆盛によって仏教が圧迫された社会情勢がある。ヒンドゥー教の要素を仏教に取り込むことでインド仏教の再興を図ったのが密教である。しかし結果的には、インド仏教の密教化はヒンドゥー教の隆盛の前にインド仏教の衰退を防げなかった。

西アジアからのイスラーム勢力が北インドを席巻しつつあった時代にあって、やがてインド仏教は、インド北部から侵攻してきたイスラーム教徒政権(デリー・スルターン朝)とインド南部のヒンドゥー教徒政権との政治・外交上の挟撃に遭うことになる。当時のイスラーム教徒から偶像崇拝や呪術要素を理由として武力的な弾圧を受け、12世紀におけるインド密教の最後の砦であったヴィクラマシーラ大僧院の炎上をもって、インドにおける密教は最終段階のインド仏教として歴史的には消滅に追い込まれる結果になった。

密教以前

パーリ仏典の長部・『梵網経』には、迷信的な呪術や様々な世間的な知識を「無益徒労の明」に挙げて否定する箇所があり、原始経典では比丘が呪術を行うことは禁じられていたが、律蔵においては(世俗や外道で唱えられていた)「治歯呪」や「治毒呪」[13][14][注釈 14] [注釈 15] [15] [注釈 16]といった護身のための呪文(護呪)は許容されていた[16]。そうした特例のひとつに、比丘が遊行の折に毒蛇を避けるための防蛇呪がある(これが大乗仏教において発展してできたのが初期密教の『孔雀王呪経』とされる[17])。これは律蔵の「小事犍度」のほか様々な経律の典籍にあらわれ、出家者の間で広く用いられていたことが窺われる。本来は現世利益的な民間信仰の呪文とは目的を異にするもので、蛇に咬まれないためには蛇に対する慈悲の心をもたねばならないという趣旨の偈頌のごときものであったとも考えられるが、社会における民衆への仏教の普及に伴って次第に呪術的な呪文へと転じていったのでないか、と密教研究者の宮坂宥勝は考察している[18]

また意味の不明瞭な呪文ではなく、たとえば森で修行をするにあたって(木霊の妨害など)様々な障害を防ぐために慈経を唱える[19]、アングリマーラ経を唱えることで安産を願う[20]など、ブッダによって説かれた経典を唱えることで真実語(sacca-vacana)によって祝福するという習慣が存在する。 こうした祝福や護身のために、あたかも呪文のように経典を読誦する行為は、パーリ仏教系統では「パリッタ(paritta 護経、護呪)」と称され、現代のスリランカや東南アジアの上座部仏教でも数々のパリッタが読誦されている[21]

初期密教

呪術的な要素が仏教に取り入れられた段階で形成されていった初期密教(雑密)は、特に体系化されたものではなく、祭祀宗教であるバラモン教マントラに影響を受けて各仏尊の真言陀羅尼を唱えることで現世利益を心願成就するものであった。当初は「密教経典」なるものがあったわけではなく、大乗経典に咒や陀羅尼が説かれていたのに始まる。大乗仏教の代表的な宗派である禅宗では「大悲心陀羅尼」・「消災妙吉祥陀羅尼」等々、日本でも数多くの陀羅尼を唱えることで知られているが、中でも最も長い陀羅尼として有名な「楞厳呪」(りょうごんしゅ)は大乗仏典の『大仏頂首楞厳経』に説かれる陀羅尼であり、これが密教に伝わり陀羅尼(ダーラニー)が女性名詞であるところから仏母となって「胎蔵界曼荼羅」にも描かれ、日本密教では「白傘蓋仏頂」と呼ばれマイナーな存在ではあるが、チベット密教では多面多臂の恐ろしい憤怒相の仏母である「大白傘蓋仏母」として寺院の守護者として祀られるようになった。ちなみに禅宗でもチベット密教でも、この陀羅尼を紙に書いてお守りとするが、中国禅では出家僧の「女人避けのお守り」ともされている[注釈 17]

中期密教

新興のヒンドゥー教に対抗できるように、本格的な仏教として密教の理論体系化が試みられて中期密教が確立した。中期密教では、世尊 (Bhagavān) としての釈尊が説法する形式をとる大乗経典とは異なり、別名を大日如来という大毘盧遮那仏 (Mahāvairocana) が説法する形をとる密教経典が編纂されていった。『大日経』、『初会金剛頂経』 (Sarvatathāgatatattvasaṃgraha) やその註釈書が成立すると、多様な仏尊を擁する密教の世界観を示す曼荼羅が誕生し、一切如来[注釈 18]からあらゆる諸尊が生み出されるという形で、密教における仏尊の階層化・体系化が進んでいった。

中期密教は僧侶向けに複雑化した仏教体系となった一方で、却ってインドの大衆層への普及・浸透ができず、日常祭祀や民間信仰に重点を置いた大衆重視のヒンドゥー教の隆盛・拡大という潮流を結果的には変えられなかった[注釈 19][22]。そのため、インドでのヒンドゥー教の隆盛に対抗するため、シヴァを倒す降三世明王ガネーシャを踏むマハーカーラ(大黒天)をはじめとして、仏道修行の保護と怨敵降伏を祈願する憤怒尊や護法尊が登場した。

後期密教

中期密教ではヒンドゥー教の隆盛に対抗できなくなると、理論より実践を重視した無上瑜伽タントラの経典類を中心とする後期密教が登場した。後期密教では仏性の原理の追求が図られ、また、それに伴って法身普賢金剛薩埵持金剛仏が最勝本初仏として最も尊崇されることになった。

また、インドにおいてヒンドゥー教シャークタ派タントラシャクティ(性力)信仰から影響を受けたとされる、男性原理(精神・理性・方便)と女性原理(肉体・感情・般若)との合一を目指す無上瑜伽の行も無上瑜伽タントラと呼ばれる後期密教の特徴である。男性名詞であるため男尊として表される方便と、女性名詞であるため女尊として表される智慧が交わることによって生じる、密教における不二智[注釈 20]象徴的に表す「歓喜仏」も多数登場した。無上瑜伽タントラの理解が分かれていた初期の段階では、修行者である瑜伽行者がしばしばタントラに書かれていることを文字通りに解釈し、あるいは象徴的な意味を持つ諸尊の交合の姿から発想して、女尊との性的瑜伽を実際の性行為として実行することがあったとされる。そうした性的実践が後期密教にどの時期にいかなる経緯で導入されていったかについてはいくつかの説があるが、仏教学者の津田真一は後期密教の性的要素の淵源として、性的儀礼を伴う「尸林の宗教」という中世インドの土着宗教の存在を仮定した[23]。後にチベットでジョルと呼ばれて非難されることになる性的実践[24]は主に在家の密教行者によって行われていたとも考えられているが、出家教団においてはタントラの中の過激な文言や性的要素をそのまま受け容れることができないため、譬喩として穏当なものに解釈する必要が生じた[25]。しかし、時には男性僧侶が在家女性信者に我が身を捧げる無上の供養としてそれを強要する破戒行為にまで及ぶこともあったことから、インドの仏教徒の間には後期密教を離れて戒律を重視する部派仏教上座部仏教)や、大乗仏教への回帰もみられた。それゆえ、僧侶の破戒に対する批判を受けて、無上瑜伽の実践もまた実際の性行為ではなく、象徴を旨とする生理的瑜伽行のクンダリニー・ヨーガ[注釈 21]による瞑想へと正式に移行する動きも生じた[注釈 22]。これらの諸問題はそのままチベット仏教へと引き継がれ、後に解決をみることになった。

一方、瑜伽行は顕教ではすでに形骸化して名称のみであったが、密教においては内的瑜伽や生理的な修道方法が探究され、既に中期密教で説かれた「五相成身観」や「阿字観」、「五輪観」に始まり、更には脈管(梵:ナーディー、蔵:ツァ)や風(梵:プラーナ、蔵:ルン)といった概念で構成される神秘的生理学説を前提とした、呼吸法やプラーナの制御を伴う瑜伽行の諸技法が発達した。とりわけ母タントラ系の密教では、下半身に生じた楽を、身体の中央を貫く中脈(梵:アヴァドゥーティー、蔵:ウマ)にて上昇させることによって歓喜を生じ、空性を大楽として体験する瑜伽行が説かれるようになった。後期密教の生理的瑜伽の発展した形は、チベット密教の「究竟次第」(蔵:ゾクリム)と呼ばれる修道階梯などにみることができる[注釈 23]

さらには、当時の政治社会情勢から、イスラム勢力の侵攻によるインド仏教の崩壊が予見されていたため、最後の密教経典である時輪タントラ(カーラチャクラ)の中でイスラムの隆盛とインド仏教の崩壊、インド仏教復興までの期間(末法時代)は密教によってのみ往来が可能とされる秘密の仏教国土・理想郷シャンバラの概念、シャンバラの第32代の王となるルドラ・チャクリン(転輪聖王)、ルドラ・チャクリンによる侵略者(イスラム教徒)への反撃、ルドラ・チャクリンが最終戦争での王とその支持者を破壊する予言、そして未来におけるインド仏教の復興、地上における秩序の回復、世界の調和と平和の到来、等が説かれた。

インド北部におけるイスラム勢力の侵攻・破壊活動によってインドでは密教を含む仏教は途絶したが、さらに発展した後期密教の体系は今日もチベット密教の中に見ることができる。

日本の密教

密教の伝来

日本で密教が公の場において初めて紹介されたのは、から帰国した伝教大師最澄によるものであった。当時の皇族や貴族は、最澄が本格的に修学した天台教学よりも、むしろ現世利益も重視する密教、あるいは来世での極楽浄土への生まれ変わりを約束する浄土教念仏)に関心を寄せた。しかし、天台教学が主であった最澄は密教を本格的に修学していたわけではなかった。

よって、本格的に日本で紹介されることになるのは、唐における密教の拠点であった青龍寺において密教を本格的に修学した空海(弘法大師)が806年に日本に帰国してからであるとされる。 あるいは、空海に後れをとるまいと唐に留学し密教を学んだ円行円仁(慈覚大師)、恵運円珍(智証大師)、宗叡らの活躍も挙げられることがある。

日本に伝わったのは中期密教であり、唐代には儒教の影響も強かったので後期密教はタントラ教が性道徳に反するとして唐では受け入れられなかったという説がある[注釈 24]が、「サンガク・ニンマ」[注釈 25]をチベットに初めて伝え、ニンマ派からチベット仏教の祖と仰がれるグル・パドマサンバヴァ[注釈 26]は、真言宗の開祖である空海と同時代の人物であること。空海の師僧である恵果阿闍梨の監修による『大悲胎蔵曼荼羅』[注釈 27]には、既にニンマ派の「八大ヘールカ」に相当すると見られる尊挌が描かれている点や、後期密教の代表的な守護尊(イダム)の一つであるプルパ金剛(ヴァジュラ・キラヤ、漢名;普巴金剛)の印相と真言とが寛平法皇の古次第である『小僧次第』等に散見する点。宋代に伝わった臨済宗の『常用陀羅尼』の中には後期密教で有名なインドの成就者サラハの真言[注釈 28]が含まれている点など、チベット密教の解明と共に後期密教の伝播に関する説は見直されてきている。

江戸時代には、日本の戒律復興運動に併せて、清代に行なわれていた中国密教の「四大法」等が日本にもたらされた。禅密双修であった黄檗宗の開祖、隠元隆琦による「千手千眼観音法」の伝来は、鉄眼版の大蔵経に実修用の大型図像を残し、黄檗宗・宝蔵院では今も当時の図像や印信等を伝えている。天台宗の豪潮律師[注釈 29]長崎出島で中国僧から直接、中国密教と「出家戒」や、大系的な戒律である小乘戒・大乘戒・三昧耶戒を授かり、時の光格天皇の師として尊敬を集めるとともに、南海の龍と呼ばれた尾張・大納言齊朝候の庇護を受け、尾張と江戸で「準提法」(准胝観音法)を広めて多くの弟子を養成した。豪潮の残した資料の一つ『準提懺摩法 全[注釈 30]は明代の中国の資料と内容が一致する。また、真言律宗も中国から直接「出家戒」を伝えて、開祖である興正菩薩叡尊以来の悲願を果たして宗風を盛んにした。この時期、戒律復興運動で有名な人物としては、「如法真言律」を提唱し、生涯において三十数万人の僧俗に灌頂と授戒を行なった霊雲寺浄厳覚彦[注釈 31]と、「正法律」を唱えた禅密双修の慈雲が挙げられる。

密教の宗派

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日本の密教は霊山を神聖視する在来の山岳信仰とも結びつき、修験道など後の「神仏習合」の主体ともなる。熊野で修行中の山伏

日本の伝統的な宗派としては、空海が唐の青龍寺恵果に受法して請来し、真言密教として体系付けた真言宗即身成仏鎮護国家を二大テーゼとしている)と、最澄によって創始され、円仁、円珍、安然らによって完成された日本天台宗の継承する密教が日本密教に分類される。真言宗が密教専修であるのに対し、天台宗は天台・密教・戒律・禅の四宗相承である点が異なっている。真言宗の密教は東密と呼ばれ、日本天台宗の密教は台密とも呼ばれる。東密とは「東寺(教王護国寺)の密教」、台密は「天台宗の密教」の意味である。この体系的に請来されて完成された東密、台密を純密(じゅんみつ)というのに対し、純密以前に断片的に請来され信仰された奈良時代に見る密教を雑密(ぞうみつ)、東大寺の大仏開眼戒壇建立に前後する、鑑真から入唐八家[注釈 32]による請来までを古密教(こみっきょう)[注釈 33]という。

日本の密教は霊山を神聖視する在来の山岳信仰とも結びつき、修験道など後の「神仏習合」の主体ともなった。各地の寺院権現に伝わる山岳曼荼羅には両方の要素や浄土信仰の影響が認められる。

チベットの密教

チベット仏教は、「無上瑜伽タントラ」と呼ばれるインドの後期密教経典と、それに基づく行法を継承している。

中国の密教

中国においては、南北朝時代から、数は限られているものの、初期の密教経典が翻訳され、紹介されていた。3世紀には『華積陀羅尼神呪経』が翻訳されるなど、西域方面から伝来した仏典の中に初期の密呪経典が含まれていた。東晋の時代には格義仏教が盛んであったが、同時に降雨止雨経典などの呪術的な密典も伝訳された。これらは除災や治病といった現世利益を仏教に対し求める民衆の期待と呼応していたとも考えられる。その後、代に入り、インドから来朝した善無畏や中国人の弟子の一行が『大日経』の翻訳を行い、さらにインド僧の金剛智と弟子の不空(諸説あるが西域出身のインド系帰化人であったと言われる)が『金剛頂経』系密教を紹介することで、インドの代表的な純密経典が初めて伝えられた。こうして、天台教学をはじめとした中国人による仏教思想が大成した時代背景において、それ以前の現世利益的密教とは異なった、成仏を意図したインド中期密教が本格的にもたらされ、その基礎の上に中国の密教が確立し受容されるに至った。仏教を護国思想と結びつけた不空は唐の王室の帰依を得、さまざまな力を得て、中国密教の最盛期をもたらすことになった。その後、密教は武宗が大規模に行った「会昌の廃仏」の打撃を被り、円仁らが中国に留学した頃は、相応の教勢を保っていたとみられるが、唐朝の衰退とともに教勢も弱まっていった。北宋になって密教も復興し、当時の訳経僧であった施護中文版はいくつかの後期密教経典も翻訳したが、見るべき発展はなかった[26]。以後、唐密教の伝統は歴史の表舞台からほぼ消失し、中国密教は次第に道教等と混淆しながら民間信仰化していったともみられる[26]。その一方で西夏でも密教が行われた。殊に西夏では漢伝の密教とチベット仏教が混ざり合っていたことが残された史料から窺われる[27]。その後、モンゴル系のの朝廷内ではチベット系の密教が採用され、支配者階級の間でチベット密教が流行した。漢民族王朝のにおいてもラマ僧を厚遇する傾向があったが、満州民族王朝のに至って、王室の帰依と保護によってチベット仏教は栄え、北京の雍和宮など多くのチベット仏教寺院が建立された。ただし、漢地におけるチベット仏教の存在が当時の中国人社会にどの程度の影響力を持ったかについては十分な解明がなされていない[28]

密教研究者の頼富本宏は唐密教衰退後の中国密教を後期中国密教と呼び、以下の形態の密教が存在したことを想定している[29]

  1. 宋代に漢訳された後期密教経典に基づく密教。この形態の密教が中国で実際に広く行われた形跡はないとされる。
  2. 密教の民間信仰化。一例として台湾や東南アジアの華人社会に今も伝わる瑜伽焔口という施餓鬼法要が挙げられる。
  3. 元朝や清朝において統治者が庇護・奨励し、主に上層階級に信仰されたチベット仏教における密教。

やがて明代になると、ヨーロッパ文化の流入により危機感を抱いた中国人らによって、各分野で西洋のルネサンスに匹敵する大がかりな復古運動が中国に起こり、民間に残されていた唐代からの密教が再編集され、中国密教の「四大法」と呼ばれる「准胝観音法」や、日本にも空海が請来した「穢跡金剛法」[注釈 34]最澄が請来した「千手千眼観音法」、仏母部の先駆けとなる「尊勝仏母法」をはじめとする古法類が中国でも保存され、継承された。

准胝観音法」を例に挙げると、中国で明初に刊行された版本には以下のようなものがあり、明末の資料である『准胝心要』は江戸時代の日本でも刊行されて研究された。また、中国密教(唐密)における明代清代の資料の幾つかは、『卍蔵経』や『卍続蔵経』にも収められている。

  • 『准胝懺願儀梵本』   呉門聖恩寺沙門弘壁
  • 『准提集説』   瑞安林太史任増志
  • 『准提簡易持誦法』   四明周邦台所輯[注釈 35]
  • 『准胝儀軌』   項謙
  • 『大准提菩薩焚修悉地懺悔玄文』   夏道人[注釈 36]

この時代に特筆すべき著作としては『顕密圓通成仏心要集[注釈 37]がある。この著作の影響によって中国では、禅と密教を併せる「禅密双修」、浄土と密教を併せる「浄密双修」、禅と浄土を併せる「禅浄双修[注釈 38]が急速に広まり、行なわれるようになった。そして中国仏教に見られる「中華思想」に彩られた仏教が民衆に受け入れられ、その後は世界大戦文革による法難を経て現在に至る。

中華人民共和国では、唐代に盛んであった中期密教を唐密宗(唐密:タンミィ)または漢伝密教(漢密)、現代まで続くチベット仏教(蔵伝仏教)におけるチベット密教がある。前者は清代以降の浄土教の台頭、現世利益や呪術の面でライバルであった道教に押されて中国では衰退・途絶した。文化大革命以後の中国大陸では、漢人の間でもチベット密教(蔵密)が流行し[注釈 39]、日本密教(東密)の逆輸入も行われた[30]上海市静安寺にみられるように日本の真言宗(東密)との交流を通じて唐密宗の復興を試みる新しい動きもある。また、チベット密教はチベット動乱や、特に文革期に激烈であった中国共産党による宗教弾圧を乗り越えて、チベット自治区やチベット人を中心に現在もチベット密教の信仰が続いている。

台湾の密教

台湾に密教がはじめて伝えられたのは、日本統治時代のことである。1895年に日本による台湾統治が始まり、日本本土から仏教の僧侶が多数台湾に渡り、1945年の統治終了間際には、日本の8宗14派が伝えられていた。密教系の宗派には、天台宗、真言宗高野派真言宗醍醐派、天台系の修験道(8宗14派に属さない)が伝わった。

現在の台湾では、高野山真言宗真如苑の支部もある。

台湾にはチベット密教も伝わっており、清朝末期に創設された「西蔵学会」もある。ダライ・ラマの信者もいる。

その他の国の密教

密教は朝鮮越南(ベトナム)など漢字文化圏の国々中心に広がっている。このほか、モンゴルでは中世のモンゴル帝国でチベット仏教が国教であった流れから、現在もチベット密教の信仰が続いている。 また、カンボジアのアンコール王朝にも密教は伝来しており、密教で用いられる祭具や、特にヘーヴァジュラを象った銅像や祭具が出土している。

また、欧米での展開も起きている。チベットにおける1950-51年のチベット侵攻 から1959年のチベット動乱という大混乱の後は、ダライ・ラマ14世をはじめとする多くのチベット僧がチベット国外へと出て活動したことにより、ヨーロッパや米国で広範囲に布教がなされるようになり、欧米の思想界にもさまざまな影響を与えることになった。アメリカ合衆国ニューヨークでは、ダライ・ラマ14世と親交のあるロバート・サーマンにより1987年にチベットハウスが設立・運営され、チベット密教も含めチベットの思想や文化が広報されている。現在は欧米諸国で Esoteric Buddhism と言う場合には、主にチベット密教のことを指している。

インド錬金術に関する仮説

インドの錬金術が密教となり、密教は錬金術そのものであったとの仮説[31]があるが、一般的な見解ではないし、また仏教学の研究でも検証されていない。

「密教」のその他の用法

密教という言葉を「秘密宗教」として広義に捉え、神秘的な宗教の総称として用いる場合もある[32]。たとえば、ユダヤ人の神智学的伝統であるカバラユダヤの密教と表現する場合がある(秘教も参照のこと)。秘密の儀礼(密儀)を旨とする古代地中海地域の諸宗教(オルフェウス教ミトラス教など)の総称としては、一般に「密儀宗教English版」(みつぎしゅうきょう)が用いられる[注釈 40]

脚注

注釈

  1. この言葉は唐代の恵果阿闍梨以前に遡る用語であり、空海の著作の中にも見える。日本でも江戸時代には普通に使用されていた。一例として、明治18年に東京・宝泉寺発行の『大聖歓喜天順世随願記』には、こう書かれている - 「上品の供と云うは、浴油供と称して、この尊最極の秘法なり。此れは在家の者の修すべきにあらず、密宗阿闍梨に請いて、其の供養を奉るべし」。また、大正年間から昭和の始めまで、真言宗京都大学で栂尾祥雲や小田慈舟が主幹を務めた機関紙の名は『密宗学報』といい、このことからも戦前までは日本でも「密宗」の名が使われていたことが分かる。
  2. 原語で「スートラ」は縦糸を意味し、主に仏陀に帰着する仏典である「部派経典」や「大乗経典」を指しており、「タントラ」は横糸を意味し儀軌類の総称であり、広く中期・後期の「密教経典」(秘密儀軌)を指している。どの経典を密教経典に分類するかは、日本密教、中国密教、チベット密教で差異があり、チベットでは『金光明経』等の大乗期の経典、『初会金剛頂経』のようなスートラと名づく中期密教の経典を含めて、密教経典である「タントラ」(チベット語で「ギュー」)と呼称する。
  3. 恵果阿闍梨と空海に見るような師と弟子の出会い、ある意味で偶然とも言える機会のこと。「一期一会」の貴重な出会い。
  4. ここで「与奪は」とは、師から「密教の教えを授かるか否かは」の意味。後段で述べるように、教えを授かる行為は、師の問題ではなく、弟子の問題だとしている点に注目される。
  5. 『性霊集』の巻第十には同じく「秘蔵(密教)の奥旨(おうし:奥義)は、文字を得ることを貴しとせず。唯(ただ)、心をもって心に伝うるにあり、文はこれ糟粕(そうはく)、文はこれ瓦礫(がれき)なり。糟粕と瓦礫とを受くれば、則ち粋実至実(すいじつしじつ:純粋な真実の教え)を失う。真を捨てて偽を拾うは、愚人の法なり。愚人の法には、汝は随うべからず。」と、重ねてはっきりと、密教が文字によらない教えであることについて述べている。
  6. 灌頂や伝授に伴う尊挌の印契の諸相や、その真言を書き記したもの。
  7. 密教が文字によらない教えであることに対しては、奈良仏教においては、当時の中国()で梵語(サンスクリット)から漢文に翻訳された「翻訳仏教」の経典に基づき、文字によって仏教を理解し、教えを伝承しようとした「筆授」(ひつじゅ)の伝統があった。これに対し空海は、梵語により直接インド直系の大乗仏教として密教を学び、弟子にも梵語に基づいた仏典を読むことを勧め、また、密教は仏の言葉とする真言(マントラ:真理を表す梵語の呪文)や声明を唱え、「面授口訣」を基とする直接的な伝授によるところから、当時、顕教である法華・律・禅と、密教との四教の併設を朝廷に申請していた最澄をして、空海は日本の伝統である「筆授」をないがしろにしていると思わしめた。このことが平安仏教を代表する二人が袂を別つ大きな原因ともなった。
  8. 無上瑜伽タントラでは、阿闍梨戒・五智如来の三昧耶戒・身口意三業三昧耶戒・各タントラ経典に説く戒律(例:「大幻化網戒」)・師事法五十頌等の「無上瑜伽戒」が説かれる。
  9. 中国訳では「無上密戒」と表記される。
  10. チベット密教では、四大宗派のうちインド伝来であるニンマ派サキャ派カギュ派においては、この「密教の三原則」のうち3則〜1則を説くが、チベットで創始されたゲルク派においては説かない。そのため、今までの日本の密教学では、文献研究や、限られた資料であるゲルク派の宗学(しゅうがく:宗派の学問や学説)を通してのみチベット密教を研究していたため、後期密教では「密教の三原則」を説かず、歴史上の空海だけが「密教の三原則」を説くものと考えられていた。しかし現在では、ニンマ派をはじめとする他派の教えや中国密教(唐密)の教えを直接チベット人や中国人から学んだ日本人が多数いるため、そうした考えは見直されてきており、「密教の三原則」は中期密教や後期密教にも適用して考えられるようになっている。[この項、チベット密教については『チベット文化研究所会報』(T・C・C)・『大輪金剛手灌頂法会』(ダライ・ラマ法王日本事務所)・『無上ヨガ・タントラ灌頂法会』(蓮華堂)、中国密教については台湾の『總持寺雑誌』・『台中大山寺雑誌』等を参照した。]
  11. 意味は「瓶から瓶へ水を漏らさず移しかえたようだ」となる。
  12. 「血脈」(けちみゃく)とは、簡単に言うと密教における伝承系統を意味する。瑜伽行者にとっては、教えの血肉の如き法脈を意味するため「血脈」と名付けられている。特に無上瑜伽タントラでは、この「血脈」をたどって法の加持(かじ)が行者に届くとされており、水道に譬えるとその蛇口に当たる自身の「根本ラマ」(師僧)は、仏にも等しい存在と考えられている。ただし、色々な宗派や流派から沢山の教えを授かったとしても、自身の心臓が一つであり、本当の両親は二人しかいないのと同様に、瑜伽行者自身の覚醒を直接促してくれたラマと、覚醒に関係する種々の戒律を正しく授けてくれたラマのみを「根本ラマ」とする。ちなみに、日本密教では師僧は得度に当たっての後見人であり、教えの上におけるパトロンのような存在なので、やはり生涯において一人となる。
  13. チベット語で「ツァエ・ラマ」といい、中国訳は「根本上師」と表記する。また、通常は僧侶のことを「ラマ」と呼ぶ。かつてのチベットでは、口減らしのためにお寺に来た子供に対して、僧侶の見習いとして衣食住の面倒をみて、読み書きを教え、一人前に成長した段階で還俗させて、職業につけるように仕事を斡旋した。いわゆる親以上の世話をやいた中から、才能のある者や信仰心に篤い者だけを寺に残して、更に僧侶としての教育を施した。基本的にその行為は無償で見返りを求めないものであるため、師僧は弟子にとって恩義を感じる対象となっていて、その関係は還俗するしないに関係なく、お互いの交流は一生涯続く。それ故、根本ラマへの祈願は命がけともいえる渇望と、感謝とに満ちて行なわれるのである。
  14. この『四分律』は、中国仏教と日本仏教に伝わる戒律の系統である。戒律を正しく守る際には、これは出家戒であるから出家者に対して適用され、在家者の場合はこれに該当しない。また、漢訳の『梵網経』に説かれる「菩薩戒」は、出家のための「菩薩戒」であるから同じく在家者には適用されない。この漢訳『梵網経』に説かれる「菩薩戒」を出家の戒とするのは、次の二つの理由による。一つには、中国密教における伝戒によるものである。文献上だけでなく、実際に戒律を受けると授者は『戒牒』を授かり、その『戒牒』には戒脈と戒歴が書かれているのでその理由が理解できる。また、中国では寺院ごとに『護戒牒』として戒脈と由来を掲示しているところもある。日本に漢訳の『梵網経』の「菩薩戒」が伝わったのは、歴史上では鑑真によるものであるが、鑑真自身はその伝記資料である『唐大和上東征伝』やその他の資料にもあるように、漢訳の『梵網経』に基づく「菩薩戒」と、『瑜伽師地論』に基づく瑜伽の「菩薩戒」と、在家の『優婆塞戒経』に基づく在家の「菩薩戒」を伝えていたが、『唐大和上東征伝』にあるように、出家のための体系的な諸戒律を伝える必要性と、当時の密教を伝授することを目的としたためか、漢訳の『梵網経』に説く「菩薩戒」のみを日本で伝戒したので、「菩薩戒」に三つの系統があることは日本では研究者以外にはあまり知られてはいない。もう一つの理由としては最澄の発願による日本天台宗の立宗にある。最澄は漢訳の『梵網経』に説く「菩薩戒」を拠所として、『大乗戒壇』による「菩薩戒」のみによる出家を主張し、死後に弟子達の努力によってそれが朝廷に認められた。さらには、『梵網経』による「菩薩戒」には、「十重禁戒」として「殺生」と「女犯」と「酒の売買」とを禁止し、「妻帯」と「飲酒」の因となる全ての行為を禁止し、また、「殺生」については、生き物を殺すことを許さず、さらに「殺生」の因となる全ての行為を禁止しているので、たとえば食肉畜産調理や魚肉製品の流通等の全てを禁止し、たとえ害虫であっても殺してはならないことになる。これらを行った際には全ての資格を剥奪し、資産を放棄させ、あらゆる仏教教団から排斥される。このような内容をもつ漢訳の『梵網経』による「菩薩戒」が内容から言って在家戒律とは考え難く、もし、出家の戒でないとしたなら『大乗戒壇』は成立し得ないことになり、最澄の理解や当時の朝廷の判断が間違っていることになる。無論、このようなことはありえないので、この点からも漢訳の『梵網経』に説く「菩薩戒」は出家の戒であることが理解できる。また、チベット密教において、インド伝来の宗派であるニンマ派・サキャ派・カギュ派の三派は『瑜伽師地論』に基づく「菩薩戒」を伝承し、そして、中国仏教では『優婆塞戒経』に説かれる「在家菩薩戒」を今も伝承している。ちなみに、通常の場合在家が受戒するには『通戒』の「三帰依戒」・優婆塞の「五戒」・「八斎戒」(大乗では月に6日間、密教では月に10日間守る)に加えて、『大乗戒』の「菩提心戒」・「十善戒」・「菩薩戒」を授かることになるが、これらの諸戒と共に漢訳の『梵網経』に説く十重禁四十八軽戒(全部で58の戒律)を、鑑真の時代の在家者が重ねて授かり、授戒者として毎月二度の『布薩会』(ふさつえ:懺悔と受戒の法会)を実修することは非常に困難であり、なおかつ現代の日本でもこれらを実際に守り行なうことは一般人には難しいといえる。現在の日本では戒律を伝承しておらず、今のところチベット密教中国密教等における密教の諸戒律の詳しい資料の参照は困難を伴う。
  15. この項は、「皈依灌頂儀軌」・「梵網經菩薩戒本」・「在家菩薩戒本講解」(普方金剛大阿闍梨 著)を参考とした。
  16. 戒律には戒脈(かいみゃく)と呼ばれる系統があり、密教の血脈と同様に系統によって全く異なる趣(おもむき)があるため、先の『四分律』を守る者は、この『十誦律』を守る必要がなく、『十誦律』を守る者は『四分律』守る必要はない。その関係は茶道表千家裏千家のようなもので、参考にはなるが両者を混ぜることはしない。一方、『十誦律』は部派仏教の「説一切有部」において継承された戒の系統である。
  17. 歴史上の釈尊とその時代の弟子たちに始まる「護身呪」の系統上にある密教経典も多数伝えられており、大正大蔵経21巻に収められている『除一切疾病陀羅尼経』(一巻、唐・不空訳)、『能除一切眼疾病陀羅尼経』(一巻、唐・不空訳)、『仏説療痔病経』(一巻、唐・義浄訳)、『仏説呪時気病経』(一巻、失訳人名)、『仏説呪歯経』(一巻、東晋・曇無蘭訳)、『仏説呪目経』(一巻、失訳人名)、『仏説呪小児経』(一巻、失訳人名)等がよく知られている。密教はもともとこうした釈尊の時代の教えに立ち返って、現世利益を否定しない正直な祈りの心から「護身呪」が口をついて出ることはよくあり、日常的な陀羅尼として蛇をよけるための「孔雀呪」(避蛇呪)と呼ばれる陀羅尼は、現在の日本密教でもよく知られる孔雀明王の「孔雀明王真言」となって密教にも残っている。また、先に挙げた経典に見られるように、同時代の遊行者としての出家者は医者にかかることも困難であり歯医者の技術もなかったため、歯の痛み止めとしての「止痛陀羅尼」を唱えて気を紛らわせ、精神力をもって痛みを堪えることを常としていた。この呪は岩山の山頂に寺を構えた中国の禅宗においても重宝されたが、日本では高野山においても江戸時代まではよく唱えられていた。現在でも高野山には古い時代の僧侶の墓が多く残されているが、昔のものは若くして亡くなった方々が多く、その中には歯の病気で亡くなった僧侶の墓も多数見かけることができる。このように、呪は勉強や修行として改まったものだけではなく、日常のものとして行住座臥である「四威儀」として密教僧の生活に息づき、それは今も釈尊の時代の生活を肌で感じさせる一因ともなっている。
  18. 大日如来を中心とした五仏(五智如来)。
  19. 密教という潮流にあっても、当時のインド仏教界では伝統的な部派仏教のひとつである正量部の勢力が強かったという見解もある。
  20. 方便と智慧とが一体となった菩提心が完成された状態からもたらされる密教の智慧。日本の密教では「法界体性智」や、「金胎不二」とも表現される。仏教学的には唯識でいう難しい問題を含む内容でもある「境識倶眠」(きょうしきくみん)の状態を指す真理に対して用いられる 「性相即融」(しょうそうそくゆう)や、「性相不二」(しょうそうふに)の境地から来る、仏としての智慧を表したものと考えられる。唯識学における顕教の法相宗が主張する、「性相永別」(しょうそうえいべつ)とは全く異なる見解を指すもので、「二而不二」(ににふに)ともいう。
  21. 現在、そうした生理的なヨーガは一般に「クンダリニー・ヨーガ」(中国語では「軍荼利瑜伽」あるいは「軍荼利密」)の名で知られるが、これは本来、ヒンドゥー教のシヴァ教を背景としたハタヨーガの用語であり、「クンダリニー」ないし「クンダリー」は蛇形の女神で象徴される潜勢力(シヴァ神の力たる女神シャクティ)を表す(このクンダリーを明王の威神力になぞらえたのが密教の軍荼利明王であるとも言われる。〔佐藤任 『密教の神々』 平凡社ライブラリー、p.308 参照〕)。仏教の文脈においてクンダリニー・ヨーガに相当するのはチャンダーリー・ヨーガであり、チベット密教では「トゥンモ・ナルジョル」(中国語:拙火瑜伽)という究竟次第系の瑜伽行のひとつである。「チャンダーリー」(チベット語風にはツァンダリー、漢訳:賛拏梨)は母タントラ系の仏教タントラの用語であり、原義は「チャンダーラ種の女」であるとも言われる(チャンダーラはインドのアウトカースト)。クンダリニー・ヨーガについては、日本では神秘主義やオカルト的なイメージが先行するが、これは19世紀以降にインド内外に広まったヒンドゥー教のヨーガの知識によるものである。近代のヒンドゥー・ヨーガは主にヴェーダーンタ思想を所依としており、肉体の常住と実我(真我)を否定する仏教を背景とした密教の生理的な瞑想の瑜伽行とは異なる世界観を背景とするものである。また日本密教では、その一部が古密教の『覧字観』(らんじかん)における「正法輪」(チベット密教では大楽輪)や「五輪観」の各輪(チャクラ)における智火による浄化、五大明王の「軍荼利明王」として登場する。
  22. 密教の僧侶や瑜伽行者が必ず守るべきものとして「三昧耶戒」がある。その中でも、中期密教で成立していた戒律として「十四根本堕」と、「八支粗罪戒」とが挙げられるが、後者の「八支粗罪戒」は8世紀から10世紀には既に成立していたと見られ、その条項の第1条には「密教の諸戒律灌頂とを欠いて、明妃を得ることをしてはならない」とあり、第3条には「世俗の女性と甘露とを、自力で得ることをしてはならない」というのがある。第1条にある「諸戒律」とは、声聞乗・大乗・金剛乗の全ての戒律を指し、無論、侶の場合には具足戒をも含める。これらの戒律を破れば密教の「波羅夷罪」に相当し、全ての資格や地位を剥奪されて、あらゆる仏教教団から追放される。また、ここでいう「明妃」とは、密教の女尊(仏母・空行母)や女性のパートナーを指すことは言うまでもない。更には、第3条において「世俗の女性」とは、在家信者や戒律を守らない女性の瑜伽行者を指し、これらを「自力で得てはならない」とは、自分の判断で勝手に選んで、なにも知らない女性を密教や日常生活のパートナーとしてはならないということである。今日、中国密教ではこの「八支粗罪戒」についての龍樹阿闍梨(龍猛菩薩、密教の龍樹菩薩)の口伝を伝えているところから、密教では、比較的早期において修行に性的な問題を持ち込まないように配慮されていたとも考えられうる。また、後期密教においても、無上瑜伽タントラ三昧耶戒である「身口意三業三昧耶戒」の「身業戒」において、出家者には「不淫」(異性や同性との性交渉の禁止)を説き、在家者には「不邪淫」(不倫の禁止)を説いていることからも、そうした傾向は、決して一時的なものではなかったことが分かる。日本密教では、鎌倉時代と明治時代における廃仏毀釈の二度にわたって具足戒菩薩戒をはじめとする諸戒律を失った歴史的な経緯があり、現在はこれらの密教における「三昧耶戒」の教えや、口伝を伝えてはいない。
  23. 例えば「ナーローの六法」の「チャンダーリーの火」では、3本の主要な脈管の下端(秘密処:会陰部ないし下丹田に当たる)にある「生法宮」に内的な火(拙火)を起こし(臍のチャクラにて点火する説もある)、「智火」を中央脈管に入れて上昇・下降させる。完成段階の「智火」をチベット密教では「チャンダーリーの火」という。なお、「生法宮」(しょうほうきゅう)とは「智慧の火」を生み出す空行母(ダーキニー)の宮殿のことで、日本風にいうと宝楼閣。『ヴァジュラバイラヴァ』の儀軌やクンダリニー・ヨーガ等ではチャクラともされるが、本来はそれぞれ別のものをいう。また、「智火」(ちか)をプラーナとする説もある。チベット密教における内的な瑜伽行には段階があり、最初に左右の脈管から中央にルン(風:サンスクリットでプラーナ)を通して浄化を行い、中央の脈管が通じるようになった後にチャクラ(輪:日本密教では「胎蔵界法」における五輪観などで知られる)を稼動させる。それができて初めて中央の脈管や左右の脈管が完全に浄化され、次に「生法宮」において「智火」(智慧の火)を起こす。智慧はサンスクリットで女性名詞に当たるため空行母として表現されるが、この「智火」を何度か中央の脈管を通すことができれば、チャクラにおける脈管の結び目が解けてくるので、最後に大きな「智火」を起こして中央の脈管に通すことで内的な瑜伽行が完成するとされる。
  24. たとえば、『密教とマンダラ』(NHKライブラリー), 頼富本宏, 2003年4月, ISBN 978-4140841617
  25. チベット語の「サンガク・ニンマ」を現在は「古密教」と訳すが、日本の古密教とは別のもの。いわゆる11世紀以降のチベットの「新訳密教」よりは古いが、日本に伝わった密教よりは新しいとされる密教を指す。
  26. 漢名:蓮華生大師、その行跡の多くは伝説と謎に包まれているが、西暦810年にサムイェー寺の建立に立会い、主に密教経典の翻訳に深く関わった。一応の目安としては、800〜834年頃までチベットに滞在したとする説がある。
  27. 通常は『金剛界曼荼羅』の呼称に倣って「胎蔵界曼荼羅」と呼ばれているが、『大悲胎蔵曼荼羅』には種々の系統があり、ここでは直接的には『西院曼荼羅』の「胎蔵界曼荼羅」を指す。一般に知られているのは真言宗では東寺の『現図曼荼羅』と、天台宗では三十三間堂の「胎蔵界曼荼羅」であるが、尊挌の移動が見られる。また、江戸時代以降の「胎蔵界曼荼羅」は表現そのものや、尊挌自体が違っているものもあるので、専門的にいうと一様に扱うのには問題があると思われる。なお、今日「胎蔵界曼荼羅」の名称として『大悲胎蔵生曼荼羅』とされる場合もあるが、これは『大日経』の「具縁品第二」以下に説かれる曼荼羅で、白描の断片的な写本類を除けば正確にはこの曼荼羅は現在の日本密教には存在せず、チベット密教にのみ伝わるものである。恵果阿闍梨の監修になる「胎蔵界曼荼羅」は、石田尚豊らの報告にもあるように複数の経典を参考としている。チベット密教では『大日経』が作タントラに配されるため、その曼荼羅や修行法が無上瑜伽タントラに劣るとされるが、既に「胎蔵界曼荼羅」に見え、『金剛界曼荼羅』もこれに準じているように、空海の請来した密教には、必ずしもその定義は当てはまらない。また「胎蔵界曼荼羅」には、当時は未訳であったと思われる『大幻網タントラ』の先行経典の諸尊も描かれ、事相面でも古密教を伝える「小僧次第」等の古次第にはチベット密教で不明とされている事相の重要な部分への記述もみられるので、曼荼羅研究と共に今後も比較検討が必要である。
  28. 「卻瘟神呪」(ぎやくおんじんしゅ)の中に沙羅佉(サラハ)の名前が三回登場し、呼びかけられる。チベット密教にはサラハに類する真言は伝わっていないので、当時、直接インドから中国へと伝わった真言の一つと見られる。
  29. 戒律復興に勤めたために、密教の「阿闍梨」としてより、戒律を授ける「律師」の名で呼ばれる。出身地の九州では、北島雪山(1636-1697)や秋山玉山(1702-1764)と共に「肥後三筆」に数えられ、数多くの書の作品を残している。
  30. 『準提懺摩法 全』は、準提仏母(準提観音)を主尊とする「懺法」(さんぽう、ぜんぽう)の次第書。歴史上の釈尊以来の教えとして、声聞乗・大乗・金剛乗に共通して、正式な仏教徒になるためには戒律を授かる必要があり、また、更に仏教徒となって戒律を授かった人々は、その戒律を維持するために毎月2回、普通は新月と満月の時か、旧暦の1日と15日に集まって懺悔(さんげ)のための『布薩会』(ふさつえ)という法要を行なわなければならない。中国ではこれを「懺法」と呼んで、中国仏教では禅宗等を中心として現在でも民間に広く行なわれている。日本では、大正時代までは行なわれていたが、現在は戒律が失われたため民間信仰としての「地蔵講」や「庚申講」などに形をとどめている。チベット密教では現在も新月をダキニの日、満月をデワ(護法)の日と呼んでプジャ(法要)を行って、お寺の正式な法要では各本尊の「懺法」を実施している。この豪潮律師が伝えた『準提懺摩法 全』は江戸本郷街にあった喜福寺の蔵版によるもので、名古屋地方でも同本が使用されていた。他に現存する資料としては、豪潮律師の密教の伝授に基づき、弟子の亮照が記した『仏母準提供私記』(四度立ての供養法次第)等がある。
  31. その著作の『普通真言蔵』は、サンスクリットの研究が進んだ今でも、マントラ(真言)を唱える参考資料として真言宗で用いられている。
  32. 平安時代に中国の唐に渡って、経典や密教を日本に伝えた僧侶。最澄空海常暁円行円仁恵運円珍宗叡の八人を言う。
  33. 現在、真言宗では中院流伝法院流の一部、天台宗では穴太流の傍流に細々と伝わっている。中院流のものは口伝を文字にして相伝してしまったため既にその意味を喪失し、いわゆる「余話」として伝わっている程度となってしまった。伝法院流と穴太流のものは、伝承者が高齢のためもう相伝されることはないと思われる。古密教の特徴は伝統の声明と同じく、伝授に際しては次第の閲覧や、録音やノートを一切許さず口伝のみで、今日でも華道や日本武道のように「巻物」の次第や「折紙」を使用する。また、巻物のサイズも決まっていて、空海の著作に倣って縦約32センチの長尺の「巻物」を使用しているので、古密教のそれとすぐ分かるようになっている。また、東大寺興福寺に伝った古密教は、平安末期の南都焼討によって失伝したと見られる。
  34. 現在の日本密教では烏枢沙摩明王と異名同体として同じ尊挌とされるが、中国密教では異名異体として別々の尊挌とされる。重要な資料としてはこの尊挌の修法を記した空海による録外の請来品の一つである「金剛童子随心咒」(巻子本、重文)がある。この資料は長く加賀の前田家に秘蔵されていたため、書道の分野では有名な資料にも関わらず密教の事相家には全く知られていない。伝来では空海の直筆とされていたが、調査によって空海以前の唐僧の手によるものと鑑定された。この資料の中には、クンダリニー・ヨーガの智火の起源に関係する「火頭金剛」の咒法等も説かれ、後の「三宝荒神」の起源の一つともなった。
  35. 今日、中国密教で「准胝法」と呼ばれる修法の基本テキストとされている。そして、明代福州市にあった准胝観音を祀った寺院「準提堂」からの伝が、当時の日本と、現在の台湾や香港に伝わっている。内容は東密とチベット密教に通じる修法と観想法を含みインド密教を源流とするが、直接の指導を受けなければ、ただの「礼讃法」と誤解するものとなっている。事実、台湾で一般に広く知られているものは中国密教と呼ぶが、中国禅の「礼賛法」である。
  36. この書は、日本の豪潮律師が残した『準提懺摩法 全』の原典に当たる。現在の中国禅では、原題のまま「懺悔文」として唱えられているが、中国密教では『準提大曼荼羅法』と呼ばれ、同じ文章のテキストではあるが口伝に基づき「布薩会次第」、「葬儀次第」、「大曼荼羅供養次第」として内容を差し替えて別々の法要に用いられる。そのため、文献上で調べてもその違いや実際の修法は全く分からないようになっている。文字によらない教えとされる密教の特徴はこのようなところにも顕われている。
  37. 『顕密圓通成仏論』ともいう。中華電子佛典協會 《顯密圓通成佛心要集》(2012年8月26日閲覧)
  38. 修道上において、浄土の思想や方法を併せて理解し兼修すること。日本では、禅の立場からは「念仏禅」といわれる黄檗宗の一派、浄土の立場からは浄土宗藤吉慈海らが知られている。
  39. 法輪功問題を契機に終息した中国本土の気功ブーム華やかなりし頃、チベット密教の行法を信仰から切り離して気功法として行う「蔵密気功」が各地で宣伝されたが、本物のチベット密教ではなく、イメージ先行のはったりに過ぎない場合も多かったとの批判がある(学研 『実践 四大功法のすべて』 理論編 p106 参照)。
  40. たとえば『図説古代密儀宗教』(ジョスリン・ゴドウィン、吉村正和訳 平凡社 1995年)。

出典

  1. 中村元三枝充悳 『バウッダ』 小学館〈小学館ライブラリー〉、1996年 p.394
  2. 『岩波 仏教辞典 第二版』 p.964
  3. 天台寺門宗のHP解説
  4. 「こんごうじょう【金剛乗】」- 大辞林 第三版
  5. 宮坂宥勝監修 『空海コレクション 1』 筑摩書房〈ちくま学芸文庫〉、p.412
  6. 中村元、三枝充悳 『バウッダ 佛教』 小学館〈小学館ライブラリー〉、1996年、395頁。
  7. 立川武蔵 『聖なるもの 俗なるもの』 講談社〈講談社選書メチエ〉、pp.175-176
  8. 中村元ほか編 『岩波 仏教辞典 第二版』 岩波書店、2002年10月、p.351の「金剛乗」の項目。
  9. 金剛乗 - 大正新脩大蔵経テキストデータベース。
  10. 金剛 - 大正新脩大蔵経テキストデータベース。
  11. 菩提樹 金剛座 ※アビダルマは「毘曇部」 - 大正新脩大蔵経テキストデータベース。
  12. 『岩波 仏教辞典』 第1刷 (岩波書店)「宝座(724頁)」。
  13. 爾時婆伽婆。在舎衛国祇樹給孤独園。時有六群比丘尼。誦種種雑呪術。或支節呪、或刹利呪、鬼呪、吉凶呪、或習転鹿輪卜、或習解知音声。(…)若比丘尼誦習世俗呪術者波逸提。(…)世俗呪術者、支節乃至解知音声也。比丘尼誦習世俗呪術乃至音声、若口受若執文誦、説而了了波逸提、不了了突吉羅、比丘突吉羅、式叉摩那沙弥沙弥尼突吉羅、是謂為犯。不犯者、若誦治腹内虫病呪、若誦治宿食不消呪、若学書若誦世俗降伏外道呪、若誦治毒呪以護身故無犯。「もし比丘・(比丘)尼が世俗の呪術を習い誦すならば、波逸提罪である。世俗の呪術とは、支節呪、刹利呪、鬼呪、吉凶呪、転鹿輪卜呪、解知音声(など)を言う。比丘・(比丘)尼にして、(これらの)世俗の呪術や、乃至は音声を習って、もし口にし、(それらの教えを)受け、もし、文執して誦えるならば、説き終われば波羅提罪となり、説き終わらなければ突吉羅罪となる。比丘が突吉羅(の罪に当るもの)は、式叉摩那や沙弥・沙弥尼は(同じく)突吉羅罪となり、(所)謂(いわゆる)是(これら)を(罪を)犯すと為す。(…)(戒律を)犯すことが無いものとは(以下の場合を言う)。もし、腹の中の虫の病(を鎮める)呪(を唱える者)。もし、宿食(食べたもの)が不消(化の場合に消化する)呪(を唱える者)。もし、書を学ぶ(暗記するための呪を唱える者)。もし、世俗(において)外道を降伏(ごうぶく:調伏する)呪を誦える(者)。もし、毒を治(癒する)呪(を唱える者)。これらは、(すべて)護身のためであるゆえに、(戒律を)犯すことは無い。」(『四分律』・巻二十七)
  14. 爾時有迦羅比丘尼、先是外道、棄捨経律阿毘曇、誦読種種呪術。是中有比丘尼、少欲知足行頭陀。聞是事心不喜。種種因縁呵責。云何名比丘尼。棄捨経律阿毘曇。誦読種種呪術。種種因縁呵已向仏広説。仏以是事集二部僧。知而故問迦羅比丘尼、汝 実作是事不。答言、実作世尊。仏以種種因縁呵責(…)種種因縁訶已語諸比丘、(…)若比丘尼読誦種種呪術波逸提。波逸提者、焼煮覆障。若不悔過能障礙道、是中犯者。若比丘尼読誦種種呪術、若是偈説、偈偈波逸提。若是章説、章章波逸提。若別句説、句句波逸提。不犯者、若読誦治歯呪・腹痛呪・治毒呪、若為守護安隠不犯。「その時、迦羅(カーラ)比丘尼という(名前の者が)有り。是(この比丘尼は)、先(以前)に外道であり、(仏教の出家であるにも関わらず)経・律・アビダルマを捨てて、種々の呪術を読み誦えていた。また、比丘尼の中に少欲知足であり頭陀行を行じている比丘尼がいた。(彼女は)この事を聞いて心喜ばず、種々の因縁をもって、(迦羅比丘尼を)呵責した。ここで云う(ところの)以前には外道であり、経・律・アビダルマを捨てて、種々の呪術を誦読する比丘尼は、種々の因縁について呵責され終わると、仏(の住する処)に向かい、詳細に(事情を)説明した。仏はこのことを以って(比丘と比丘尼からなる)二部のサンガを集めて、(ことの次第を)知った(上で)迦羅比丘尼に(皆の前で再び)問われた。汝(なんじ)は本当にこのような事を為したか、為さなかったか、と。(迦羅比丘尼は)答えて言った、世尊よ(私は)本当に(このようなことを)為しました、と。仏は種々の因縁をもって(迦羅比丘尼を)呵責した。(…)(仏は)種々の因縁をもって叱った。(そして)諸々の比丘に語った。(…)(それゆえに)もし、比丘(・比丘)尼が種々の呪術を読み誦えるならば、波逸提罪である。波逸提(罪)とは、(比丘や比丘尼の身を)焼き、煮る(がごとき苦しみを伴い)、(仏道修行においてその身を)覆う障害となる。もし、懺悔することなく、障礙の道(を歩むものは)、是(これ)を(比丘・比丘尼の)中にあって(罪を)犯す者とする。もし、(比丘・)比丘尼にして種々の呪術を読み祷えるならば、是(これ)偈を説える場合は偈波逸提罪とし、是(これ文)章を説える場合は(文)章波逸提罪とし、別に句を説える場合は句波逸提罪とする。(…)(戒律を)犯すことが無い(者)とは(以下の場合を言う)。もし、歯(を)治(療する)呪(を唱える者)。腹痛(を鎮める)呪(を唱える者)。毒(を)治(癒する)呪(を唱える者)。もしくは、(その身を)守護し、安隠(を得る)ために(呪を)誦読するならば、(戒律を)犯すことは無い。」(『十誦律』・巻四十六)
  15. 大乗経典『梵網経』について:女犯とその原因となる全ての行為を禁止する戒については、『梵網菩薩戒経』(四季社)、pp25-27と、『梵網経』(大蔵出版)、pp88-89。酒の売買の原因となる全ての行為を禁止する戒については、『梵網菩薩戒経』(四季社)、pp30-31と、『梵網経』(大蔵出版)、pp99-100。殺生とその原因となる全ての行為を禁止する戒については、『梵網菩薩戒経』(四季社)、pp21-23と、『梵網経』(大蔵出版)、pp75-76を参照のこと。これらを含む「十重禁戒」に違反すると、大乗戒壇円頓戒)における波羅夷罪となる。
  16. 平川彰 『インド仏教史 下』 春秋社、pp.310-315
  17. 平川彰 『インド仏教史 下』 春秋社、p.316
  18. 『密教の理論と実践 講座密教第1巻』春秋社、1978年、pp.42-43
  19. 慈経 - 日本テーラワーダ仏教協会
  20. 8章 仏教における殺しと救い
  21. 平川彰 『インド仏教史 下』 春秋社、p.317
  22. 松長有慶 編著 『インド後期密教(上)』、pp.166-169。
  23. 津田真一 「タントリズム瞥見」(『反密教学』所収)
  24. 田中公明 『性と死の密教』 春秋社 pp.59-60
  25. 田中公明 『図説 チベット密教』 春秋社 pp.25-26
  26. 26.0 26.1 『密教の理論と実践 講座密教第1巻』 春秋社、1978年、p.62
  27. 立川武蔵 『密教の思想』 吉川弘文館〈歴史文化ライブラリー〉、1998年、pp.183
  28. 立川武蔵 『密教の思想』 吉川弘文館〈歴史文化ライブラリー〉、1998年、pp.168-173
  29. 立川武蔵・頼富本宏編 『シリーズ密教第3巻 中国密教』 春秋社 p.196
  30. 田中公明 『図説 チベット密教』 春秋社、p.6
  31. 佐藤 任 『密教の秘密の扉を開く―アーユルヴェーダの秘鍵』 ISBN 978-4915497254
  32. 『岩波 仏教辞典 第二版』 p.964

参考文献

  • 『密宗学報』第六十七号、栂尾祥雲 編集、真言宗京都大学而真會 発行、大正8年(1919年)刊。
  • 『大圓満伝承源流』(藍寶石)全2巻、ニュルシュク・リンポチェ著、全佛文化事業有限公司刊。
  • 『曼荼羅の研究』全2巻、石田尚豊著、東京美術刊、昭和50年〔1975年〕。
  • 『中国密教史』全3巻、呂建福著、空庭書苑有限公司刊。
  • 西蔵仏教宗義研究 第3巻「トゥカン『一切宗義』ニンマ派の章」、平松敏雄著、東洋文庫刊。
  • 『古密教 日本密教の胎動』(特別展 図録)、奈良国立博物館編・刊、2005年。
  • 『寛平法皇御作次第集成』、武内孝善著、東方出版刊、1997年。
  • 『唐大和上東征伝』、堀池春峰解説、東大寺刊、昭和39年〔1964年〕。
  • 『現代語訳一切経2: 智者大師別伝・不空三蔵行状・唐大和上東征伝』、福原隆善頼富本宏冨佐宣長訳、大東出版社刊、1997年。
  • 『弘法大師空海と唐代密教』、静慈圓編、法蔵館刊、2005年。
  • 『インド後期密教(上)』、松長有慶 編著、春秋社刊、2005年。
  • 『大正新脩大蔵経』・「阿含部」全巻、大蔵出版社刊。
  • 『大正新脩大蔵経』・「密教部」全巻、大蔵出版社刊。
  • 『曹洞宗日課諸経全集』、大八木興文堂刊、昭和48年再版〔1973年〕。
  • 『初心の修行者の戒律-訳註「教誡律儀」-』(中川善教師校訂「教誡新学比丘行護律儀」)、浅井證善著、高野山出版社刊、平成22年〔2010年〕。
  • 『總持寺雑誌』、社長兼発行人:許堅雄、発行所:總持寺雑誌社、顧問:圓願金剛大阿闍梨(中華郵政台北雑誌第七四五號執照登記、月刊新聞)。
  • 『台中大山寺雑誌』、発行人:陳茂清、発行所:台中大山寺、顧問:紫明金剛大阿闍梨(不定期刊行広報誌)。
  • 『チベット文化研究所会報』、T・C・C刊(旧・チベット文化研究所、定期刊行雑誌、バックナンバーあり)。
  • 『大輪金剛手灌頂法会』(ニンマ派カトック寺総帥ケンポ・ペツェ・リンポチェ来日)、ダライ・ラマ法王日本事務所刊(旧・極東統括事務所、現在は台湾に移設)。
  • 『中國仏寺史志彙刊』、全110冊、明文書局刊、1980年-1985年。
  • 『中國密宗大典』、全10冊、趙暁梅主編、中國藏學出版社、1993年。
  • 『中國密宗大典補編』、全10冊、趙暁梅主編、中國藏學出版社、1993年。
  • 「郷土文化叢書4 『豪潮律師の研究』」、宇野廉太郎 著、日本談義社、昭和28年(1953年)刊。
  • 『豪潮律師遺墨集-永逝150年遠忌出版』(限定版)、石田豪澄著、日貿出版社刊、昭和57年〔1982年〕。
  • 『真言密教霊雲寺派関係文献解題』、三好龍肝編著、国書刊行会刊、昭和51年〔1976年〕。
  • 『普通真言蔵』(全2冊)、淨厳原著、稲谷祐宣編著、東方出版刊、昭和61年〔1986年〕。
  • 『皈依灌頂儀軌』、普方金剛大阿闍梨著、總持出版社刊、民国70年(1981年)。
  • 『梵網經菩薩戒本』、普方金剛大阿闍梨校訂、總持出版社刊、民国73年(1984年)。
  • 『在家菩薩戒本講解』、普方金剛大阿闍梨口述、弟子・圓州筆録、總持出版社刊、民国70年(1981年)。
  • 『戒律思想の研究』、佐々木教悟編、平楽寺書店刊、昭和56年(1981年)。
  • 『梵網菩薩戒経』、株式会社 四季社、2002年刊。
  • 『梵網経』、石田瑞磨著、大蔵出版株式会社、2002年刊。

関連項目

外部リンク

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