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{{出典の明記|date=2011年12月}}
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'''宗教哲学'''(しゅうきょうてつがく、[[英語]]:philosophy of religion)
'''宗教哲学'''(しゅうきょうてつがく、[[英語]]:philosophy of religion)とは、[[宗教]]の存在意義や本質を究明する[[哲学]]の一分野である。18世紀末ごろにヨーロッパにおいて成立した。特定宗教の信仰内容を学問的に基礎づけることを目的とする[[神学]]や、もろもろの宗教現象を学際的な方法によって実証的に研究する[[宗教学]]とも異なり、宗教一般の本質ないし、あるべき姿を探求するとともに、宗教を理性にとって納得のゆくものとして理解することを目的とする。
 
 
 
== 宗教哲学の具体例 ==
 
様々な方向性をもった考察がある。以下にいくつか挙げる。
 
 
 
=== 宗教の定義について ===
 
*「宗教は絶対依存の[[感情]]であって、[[神]]、すなわち、[[無限]]に対するあこがれである」([[シュライエルマッハー]])
 
*「宗教とは、[[人生の意味|人間生活の究極的な意味]]を明らかにし、人間の問題の究極的な解決にかかわりをもつと、人々によって信じられている営みを中心とした[[文化|文化現象]]である。宗教には、そのいとなみとの関連において、神観念や[[神聖性]]を伴う場合が多い。」([[岸本英夫]])
 
 
 
=== 宗教の成立について ===
 
*人には宗教的欲求がありそれが宗教を成立させているのだろう、といった方向での考察。人間には[[美]]や[[善]]を求める[[欲求]]があるように、宗教的なものを求める欲求があり、これが宗教を成立させる、とする。有限な([[死]]すべき運命の)[[人間]]が[[無限]]を希求するのだ、とする観点。(宗教を持つ立場からは、宗教を十分に理解していない、と見なされることもある考察)
 
*[[啓示]]によって宗教は成立している、とする考察。 宗教は[[神|超越的な存在]]から[[人間]]に与えられることによって成立したものであるとする。(宗教を持たない立場からは、しばしば護教的と見なされる考察)
 
==宗教哲学の来歴==
 
 
 
=== 成立 ===
 
宗教哲学の課題は、古代[[ギリシア]]やそれ以外のところで哲学が誕生したとき、哲学が担ったのと同じ課題を近代において引き継いだものとも言いうる。哲学の誕生は伝統的宗教に対する懐疑の発生と結びついており、そこでは哲学は理性によって宗教の内部を解釈し、捉え直すという課題を背負った。
 
 
 
近世のヨーロッパにおいて生じた理性の啓蒙は、それまでの伝統的な信仰や神学の立場を哲学の立場から批判的に見る見方を開き、それは一方では宗教を理性によって否定しようという方向、他方では理性を破って信仰の立場を確立しようという方向を生んだ。それに対して、理性の立場を媒介として、信仰の内容を新しく解釈しなおそうという立場を自覚的にとるところに「宗教哲学」は誕生した。この立場を確立したのがカントである。
 
 
 
=== 展開 ===
 
[[カント]]は「[[単なる理性の限界内での宗教]]」において、キリスト教の信仰の内容を[[道徳]]という[[実践理性]]の立場から解釈して、キリスト教の持つ真理を人間の普遍的な真理として明らかにしようとした。
 
ここにおいてカントは、特定宗教の内容を理性の深みにおいて出会われる事柄として理解することにより、人間における宗教の普遍的意味の解明を目指す宗教哲学への道を開いた。
 
 
 
次いで、[[フィヒテ]]、[[フリードリヒ・シュライアマハー]]、[[ヘーゲル]]などによって宗教の哲学的理解の道はさらに推し進められたが、宗教哲学の展開において、シュライアマハーは決定的に重要である。
 
 
 
カントにおいて宗教はなお道徳に還元される傾向にあったが、シュライアマハーは宗教は人間の経験の中で[[道徳]]とも[[形而上学]]とも異なった独自の領域を持つことを主張し、宗教は絶対的なものに身を任せて、その働きかけをそのままに受け取ることであるとして、「宇宙の直観」、「絶対依存の感情」に宗教の固有性を据えた。
 
 
 
[[ヘーゲル]]は、宗教を道徳から解釈したカントとも、主観的な感情としてとらえたシュライエルマッハ―とも異なったアプローチをとる。ヘーゲルは宗教を[生の根幹]ととらえ、宗教とは生の最高の頂きあるいは生の根源の深みが出現したものとして、人間の生の諸形態が我々を宗教へと導いていく生の発展深化の必然的過程を把握することに宗教哲学の課題をみた。
 
 
 
しかし、宗教は生命の最高の深みの表現とされているにもかかわらず自己の外において表彰される。ヘーゲルは、これを自己のうちに自覚するために、宗教は純粋な思惟としての哲学へと高められなければならない、とした。
 
 
 
ヘーゲルのあとに現れた[[キルケゴール]]は、ヘーゲルによって純粋思惟のうちに内化された絶対者は真の超越者ではないとして、ヘーゲルが開示した生の深みをというアイデアは継承しながらも、理性を破ったところに宗教を据えた。
 
 
 
以上のように、宗教哲学は人間と超越者の関係を軸として発展してきた学問であるといえる。ここにあげた以外では[[ルートヴィヒ・アンドレアス・フォイエルバッハ|フォイエルバッハ]]、[[ニーチェ]]、[[マルティン・ハイデッガー]]らが重要である。
 
 
 
=== 日本の宗教哲学 ===
 
日本においても、[[西田幾多郎]](「[[善の研究]]」第4編)、[[田辺元]]、[[波多野精一]](「宗教哲学」)、[[西谷啓治]](「宗教とは何か」1961)をはじめ、宗教哲学の伝統がある。
 
その成立は、ヨーロッパ近代が移植された明治・大正期のことである。ヨーロッパで成立した宗教哲学がキリスト教の圧倒的な影響下にあったのにたいして、日本の宗教哲学はヨーロッパの宗教哲学を独自に吸収しながら、ヨーロッパとは全く異なった宗教的伝統のもとで展開していった。
 
 
 
== 主な研究者 ==
 
*[[プラトン]]
 
*[[ルネ・デカルト]]
 
*[[デイヴィッド・ヒューム]]
 
*[[イマヌエル・カント]]
 
*[[ルドルフ・オットー]]
 
*[[フリードリッヒ・シュライエルマッハー]]
 
*[[エミール・デュルケーム]]
 
*[[アルフレッド・ノース・ホワイトヘッド]]
 
*[[マルティン・ブーバー]]
 
*[[マルティン・ハイデッガー]]
 
*[[ヴァルター・ベンヤミン]]
 
*[[エマニュエル・レヴィナス]]
 
*[[ジョン・ヒック]]
 
日本人研究者
 
*[[清沢満之]]
 
*[[西田幾多郎]]
 
*[[田辺元]]
 
*[[波多野精一]]
 
*[[井筒俊彦]]
 
*[[西谷啓治]]
 
*[[武藤一雄]]
 
*[[武内義範]]
 
*[[上田閑照]]
 
*[[石田慶和]]
 
*[[長谷正當]]
 
*[[花岡永子]]
 
*[[氣多雅子]]
 
*[[鶴岡賀雄]]
 
  
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宗教一般の本質と,神の存在に対する人間の信仰に関する哲学的反省をいう。本来,神の本性や人間の宇宙における位置,人格の不死,絶対的義務などは宗教的な問題であり,事実,西洋哲学史上でも,宗教哲学は[[キリスト教神学]]と分ちがたく結びついて展開している。しかしプラトンやアリストテレスはそれに先立って全存在の源泉であり世界を英知的たらしめている神的実在に対する彼らの信仰を哲学的に表明しているが,一方ストア学派やエピクロス学派の思想家たちも神や宗教の起源に関する見解を述べている。宗教的論題は,中世には神学で扱われていたが,哲学的反省の主題となるのは,哲学がすべての基本的な概念を合理的省察の対象にしようとするようになった 17世紀以後のことで,特にその頃のイギリス理神論やフランス無神論を経てドイツ観念論においてであり,ヘーゲルは形而上学的体系を構成した。またカントは批判哲学において,実践理性の要請として神を認めた。一方,近代神学の祖といわれる[[シュライエルマッハー]]は,それまでの合理主義的な考え方に対して,宗教哲学と神学との統合を主張した。さらに哲学の人間学的な方位への転換に伴って,特に生の哲学や実存主義の立場からキルケゴール,ベルグソン,ヤスパースらが独自の見解を示している。このような宗教哲学が神学から区別されるのは,後者が結局は神についての信仰の理解一般を問題とする点にあると規定されるのに対し,前者は人間の宗教体験一般を問題とする点にある。
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== 関連項目 ==
 
== 関連項目 ==
 
* [[哲学]]
 
* [[哲学]]
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* [[宗教社会学]]
 
* [[宗教社会学]]
 
* [[宗教哲学会]]
 
* [[宗教哲学会]]
 
== 関連文献 ==
 
*『宗教哲学研究』京都宗教哲学会、年1回発行、1号(1984年)~27号(2010年)~
 
* 量義治『宗教哲学入門』講談社、2008
 
*  [[クラウス・リーゼンフーバー]]『超越に貫かれた人間: 宗教哲学の基礎づけ』創文社、2004 ISBN 4423301180
 
 
* 峰島旭雄『[[浄土教]]と[[キリスト教]]: 比較宗教哲学論集』山喜房佛書林, 1977
 
* [[南山宗教文化研究所]]『[[無|絶対無]]と[[神]]: [[西田幾多郎|西田]]・[[田辺元|田辺]]哲学の伝統と[[キリスト教]]』1981
 
* 小坂国継『[[西田幾多郎|西田哲学]]と現代: 歴史・宗教・自然を読み解く』2001
 
* 小川弘『哲学から信仰・宗教を見る: 哲学類型と信仰類型』2002
 
* [[アルベルト・シュヴァイツァー]]『[[カント]]の宗教哲学 上・下』 白水社、 2004 ISBN 4560024464
 
* 上田閑照、氣多雅子『[[仏教]]とは何か: 宗教哲学からの問いかけ』昭和堂、 2010
 
  
 
== 外部リンク ==
 
== 外部リンク ==
 
*[http://sprj.org/about.html 宗教哲学会] 
 
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宗教哲学(しゅうきょうてつがく、英語:philosophy of religion)

宗教一般の本質と,神の存在に対する人間の信仰に関する哲学的反省をいう。本来,神の本性や人間の宇宙における位置,人格の不死,絶対的義務などは宗教的な問題であり,事実,西洋哲学史上でも,宗教哲学はキリスト教神学と分ちがたく結びついて展開している。しかしプラトンやアリストテレスはそれに先立って全存在の源泉であり世界を英知的たらしめている神的実在に対する彼らの信仰を哲学的に表明しているが,一方ストア学派やエピクロス学派の思想家たちも神や宗教の起源に関する見解を述べている。宗教的論題は,中世には神学で扱われていたが,哲学的反省の主題となるのは,哲学がすべての基本的な概念を合理的省察の対象にしようとするようになった 17世紀以後のことで,特にその頃のイギリス理神論やフランス無神論を経てドイツ観念論においてであり,ヘーゲルは形而上学的体系を構成した。またカントは批判哲学において,実践理性の要請として神を認めた。一方,近代神学の祖といわれるシュライエルマッハーは,それまでの合理主義的な考え方に対して,宗教哲学と神学との統合を主張した。さらに哲学の人間学的な方位への転換に伴って,特に生の哲学や実存主義の立場からキルケゴール,ベルグソン,ヤスパースらが独自の見解を示している。このような宗教哲学が神学から区別されるのは,後者が結局は神についての信仰の理解一般を問題とする点にあると規定されるのに対し,前者は人間の宗教体験一般を問題とする点にある。

関連項目

外部リンク




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