宋銭

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宋銭(そうせん)は、中国代に鋳造された貨幣である銅銭のことである。また、宋代には鉄銭も鋳造された[1][2]が、一般的には、圧倒的に多い銅銭のことを指して宋銭と呼んでいる。

概要

建国当初の宋元通宝にはじまり、歴代の改元のたびに、その年号をつけた新銭を鋳造したため、太平通宝淳化元宝至道元宝咸平元宝景徳元宝祥符元宝などといった銅銭が見られ[1][3][4]、北宋銭の銭銘の種類は全部で30種類以上ある。南宋銭は建炎通宝をはじめとして20種類ほどの銭銘で作られている。

銅山の採掘と銅銭の鋳造は国家の経営により、鋳銭監鋳銭院という役所で行われた。

銭の単位は、1,000個でまたはと呼ぶ。また96個の1文銭を銭通しに通してまとめても100文として通用し、通し100文と呼ぶ(→「短陌」)。さらに通し100文を10個、つまり960文を銭通しに通してまとめても1貫(通し一貫)として通用した。

建国当初の鋳造高は、年間70,000貫ほどであったが、次第に増鋳されて行き、神宗の治世時(1067年 - 1085年)には、6,000,000貫に達した。

流通状況

宋銭は、や西夏、日本東南アジア諸国でも使用され、遠くは、ペルシアアフリカ方面にも及び、ほぼ全アジアで流通したため、当時の経済状況に多大な影響を及ぼした。これは当時の中国王朝の政治力を物語る。南遷すると宋王朝では経費が嵩む銅銭の鋳造が減り、紙幣を発行し銀と共に取引に使用されるようになった。

近年「銭荒」が銅銭不足によるデフレを指す、という解釈は否定されている。実態はむしろ逆で、本格的な紙幣発行以前にも見られる物価上昇現象から民間では銅銭が過剰供給であったと考えられる[5]

なお、現在出土残されている宋銭の中には実際には宋代に鋳造されたものではないものも相当数含まれているという説がある。明末の顧炎武が編纂した『天下郡国利病書』に所収された県誌の中に宋銭の私鋳が広く行われていたことが記されている。これは当時の明王朝が実際に鋳造した銅銭よりも、唐や宋の銅銭の方が古くから存在が知られて信用があり、かつ罪に問われる可能性が低かったからと見られている。また、こうした宋銭の中には鐚銭ばかりではなく良質な私鋳銭も含まれ、日本にも流入したものがあったと考えられている[6]

日本での流通

日本において宋銭の流通が本格化したのは、12世紀後半とされている。当時は末法思想の流行で仏具の材料として銅の需要が高まり宋銭(1文銭)を銅の材料として輸入していた。時の権力者の平清盛はこれに目つけ、日宋貿易を振興してから大量の宋銭を輸入して国内で流通させ平氏政権の政権基盤のための財政的な裏付けとした。ところが、当時の朝廷の財政は絹を基準として賦課・支出を行う仕組みとなっていた。これは皇朝十二銭の廃絶後、それまでは価格統制の法令として機能してきた沽価法による価格換算に基づいて算出された代用貨幣である絹の量を元にして、一国平均役諸国所課成功などを課し、また沽価法に基づいた絹と他の物資の換算に基づいて支出の見通しを作成していた(勿論、実際の賦課・収入は現実の価格の動向なども加味されて決定される)。そのため、宋銭の流通によって絹の貨幣としての価値(購買力)が低下すると、絹の沽価を基準として見通しを作成し、運営していた朝廷財政に深刻な影響を与える可能性があった[7]。また、。

宋銭を流通させようとする平家と、これに反対する後白河法皇の確執が深まった治承3年(1179年)、法皇の意を受けた松殿基房九条兼実が「宋銭は(日本の)朝廷で発行した貨幣ではなく、私鋳銭(贋金)と同じである」として、宋銭流通を禁ずるように主張したもの[8]の、逆に清盛や高倉天皇土御門通親らがむしろ現状を受け入れて流通を公認すべきであると唱えて対立し、この年、平清盛は後白河法皇を幽閉する。平家滅亡後の文治3年(1187年)、三河源範頼源頼朝の弟であり、実態は頼朝の提案に等しい)の意見という形で摂政となった九条兼実が流通停止を命令される。だが、この頃には朝廷内部にも絹から宋銭に財政運営の要を切り替えるべきだという意見があり、建久3年(1192年)には宋銭の沽価を定めた「銭直法」が制定された[9]ものの反対意見も根強く、建久4年(1193年)には伊勢神宮・宇佐神宮の遷宮工事の際に必要となる役夫工米などの見通しを確実なものにするために改めて「宋銭停止令」が出された[10][11]

だが、鎌倉時代に入ってその流通はますます加速して、市場における絹の価格低下は止まらなかった。また、朝廷や幕府の内部においても実際の賦課や成功の納付や物資の調達の分野において、現実において絹よりも利便性の高い宋銭で行われるようになっていった。こうして、宋銭禁止の最大の理由であった絹による財政運営の構造そのものが過去のものとなっていった。嘉禄2年(1226年)に鎌倉幕府が、その4年後には朝廷[12]が旧来の政策を改めて公式に宋銭の使用を認めた。仁治3年(1242年西園寺公経が宋に派遣した貿易船は10万貫の銭貨を持ち帰ったという風説があった事が記録に残っている[13]。(代銭納)。

なお、室町時代においては、永楽通宝が広く用いられた東国と違い、畿内西国では永楽通宝に代表される明銭が宋銭より大きくて使い勝手が良くないことや新し過ぎて私鋳銭との区別が付かないとみなされ、明銭が嫌われ宋銭が重んじられていたとする見方がある。これは文明15年(1483年)の遣明使の北京入りに同行した金渓梵鐸が帰国後の報告の中で、北京で明政府が明銭で日本商品を購入したところ、遣明使側は旧銭(宋銭)での支払を求めてトラブルになったとしていること[14]や、室町幕府による最初の撰銭令と言われている明応9年(1500年)10月の追加法[15]に根本渡唐銭は古銭同様に通用させることを命じた規定がある。ここに登場する根本渡唐銭には「永楽・洪武宣徳」と割注が付けられていることから正規の明銭のことであると考えられ、これに対して古銭は宋銭のことであると考えられることから、当時の京都及びその周辺では宋銭が重んじられ、明銭は撰銭の対象になっていた可能性すらあったと考えられている[16]

日本で流通した宋銭は、南宋銭よりも北宋銭の方が圧倒的に多い。また日本では基本的に小平銭が使われ、折二銭などの高額銭が日本で使われたことはなかった。

脚注

  1. 1.0 1.1 「コトバンク ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典」
  2. 辺境部である四川陝西において、西夏への銅の流出を防止するために、銅銭の所有や使用を一切禁じられ、代わりに鉄銭が強制的に流通させられたためである。
  3. 「コトバンク デジタル大辞泉」
  4. 「コトバンク 日本大百科全書(ニッポニカ)」
  5. 井上正夫「国際通貨としての宋銭」(伊原弘 編『宋銭の世界』勉誠出版、2009年所収)
  6. 黒田明伸「東アジア貨幣史の中の中世後期日本」(鈴木公雄 編『貨幣の地域史』岩波書店、2007年所収)
  7. 伊藤啓介「鎌倉時代初期における朝廷の貨幣政策」(所収:上横手雅敬 編『鎌倉時代の権力と制度』(思文閣出版、2008年) ISBN 978-4-7842-1432-7)
  8. 九条兼実『玉葉』治承3年7月27日条。なお、この際、九条兼実は明法博士中原基広より唐土の銭(宋銭)は私鋳銭ではないが、日本の法令に基づいて出されているわけではないのでそれを流通させることは、私鋳銭と同じである、として宋銭の使用が私鋳銭の使用と同じく八虐に相当するとの説明を受けている。
  9. 『法曹至要抄』91条「一銭貨出挙以米弁時一倍利事」所収、建久3年8月6日付宣旨。
  10. 『鎌倉遺文』676号
  11. もっとも、一連の宋銭禁止令に天皇あるいは治天の君として関わってきた後鳥羽天皇(上皇)自身が宋銭を賭けて連歌勝負をしていたことが明らかになっている(『看聞日記応永31年2月29日条所引『後鳥羽院宸記』建保3年5月15日・19日、11月11日各条。参照:井原今朝男『中世の国家と天皇・儀礼』校倉書房、2012年、p316-317・345.)。
  12. 百錬抄』寛喜2年6月24日条
  13. 小葉田淳「宋銭」(『国史大辞典 8』(吉川弘文館、1987年) ISBN 978-4-642-00508-1)
  14. 『鹿苑日記』明応8年8月6日条
  15. 『室町幕府追加法』320号
  16. 橋本雄「中世日本の銅銭 -永楽銭から『宋銭の世界』を考える-」(伊原弘 編『宋銭の世界』勉誠出版、2009年所収)

参考文献

関連項目