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{{基礎情報 武士
 
| 氏名 = 安倍貞任
 
| 画像 = Abe no Sadatou.jpg
 
| 画像サイズ =185px
 
| 画像説明 = <small>『前九年合戦絵巻』写本より安倍貞任</small>
 
| 時代 = [[平安時代]]中期
 
| 生誕 = [[寛仁]]3年([[1019年]])? <ref>長元2年(1029年)?(田中禎昭「安倍貞任」/ 小野一之・鈴木彰・谷口榮・樋口州男編 『人物伝小辞典 古代・中世編』 東京堂出版 2004年 8ページ)</ref>
 
| 死没 = [[康平]]5年[[9月17日 (旧暦)|9月17日]]([[1062年]][[10月22日]])
 
| 別名 = 厨川次郎
 
| 墓所 =
 
| 官位 =
 
| 氏族 = [[安倍氏 (奥州)|安倍氏]]
 
| 父母 = [[安倍頼時|頼時]]
 
| 兄弟 = [[安倍良宗|良宗]]、'''貞任'''、[[安倍宗任|宗任]]、[[安倍正任|正任]]、[[安倍家任|家任]]、[[安倍重任|重任]]、[[安倍則任|則任]]、[[安部行任|行任]]、[[平永衡]]室、[[藤原経清]]室([[有加一乃末陪]])
 
| 妻  = [[金為行]]の娘・千里
 
| 子  = 千代童子<ref>『安藤系図』より。[[永承]]3年([[1048年]])?〜[[康平]]5年([[1062年]])。享年15?。[[前九年の役]]後、一時は助命も検討されるが[[清原武則]]の諫言により、処刑された。生年には永承5([[1050年]])という説もあり、これに従えば享年13となる。また、『[[平治物語]]』では、戦死したときの年齢が12歳となっている。</ref>、春童子、高星
 
| 特記事項 =
 
}}
 
'''安倍 貞任''' (あべ の さだとう)は、[[平安時代]]中期の[[武将]]。[[安倍氏 (奥州)|安倍氏]]の棟梁で、[[奥六郡]]を支配する[[俘囚]]長・[[安倍頼時]]の第2子(次男)。厨川柵主として、'''安倍厨川次郎貞任'''とも。妹聟に[[藤原経清]](奥州藤原氏初代[[藤原清衡]]の父)がおり、貞任と清衡は伯父と甥の関係にあたる。
 
  
== 経歴 ==
+
'''安倍 貞任''' (あべ の さだとう)
[[永承]]6年([[1051年]])に、安倍氏と[[平安京|京都]]の朝廷から派遣されていた[[陸奥守]]・[[藤原登任]]との争い<ref>安倍氏の支配地域であった陸奥・奥六群地方(胆沢・江刺・和賀・稗貫・紫波・岩手)から衣川を超えて南進したことに始まる。(田中禎昭「安倍貞任」/ 小野一之・鈴木彰・谷口榮・樋口州男編 『人物伝小辞典 古代・中世編』 東京堂出版 2004年 8ページ)</ref> に端を発して、以降12年間にわたって続いた[[前九年の役]]において、東北各地に善戦する。登任の後任として[[源頼義]]が翌永承7年([[1052年]])に赴任すると、[[後冷泉天皇]]祖母・上東門院([[藤原彰子]])の病気快癒祈願のために大赦が行われ、安倍氏も朝廷に逆らった罪を赦されることとなったが、[[天喜]]4年([[1056年]])に、阿久利川において[[藤原光貞]]の営舎が襲撃される[[阿久利川事件]]が起こると、頼義は事件の張本人と断定された貞任の身柄を要求し、父の頼時がこれを拒絶して再び開戦となる。天喜5年([[1057年]])、安倍頼時が戦死したため貞任が跡を継ぎ、弟の[[安倍宗任|宗任]]とともに一族を率いて戦いを続けた<ref>田中禎昭「安倍貞任」/ 小野一之・鈴木彰・谷口榮・樋口州男編 『人物伝小辞典 古代・中世編』 東京堂出版 2004年 8-9ページ</ref>。
 
  
同年11月には[[河崎柵]]に拠って[[黄海の戦い]]で国府軍に大勝した。以後、[[衣川 (岩手県)|衣川]]以南にも進出して、勢威を振るったが、[[康平]]5年([[1062年]])7月、[[国府]]側に[[出羽清原氏|清原氏]]が頼義側に加勢したので形勢逆転で劣勢となり、安倍氏の拠点であった小松柵・衣川柵・島海柵が次々と落とされ、9月17日には[[厨川の戦い]]で貞任は敗れて討たれた。深手を負って捕らえられた貞任は、巨体を楯に乗せられ頼義の面前に引き出されたが、頼義を一瞥しただけで息を引き取ったという。享年44、もしくは34<ref>『陸奥話記』では享年34となっている。</ref>。その首は丸太に釘で打ち付けられ、朝廷に送られた(この故事に倣い、後年[[源頼朝]]によって[[藤原泰衡]]の首も同様の措置がされた。[[平泉]]の[[中尊寺]]に現存する泰衡の首には、釘の跡が残っている)。なお、弟の[[安倍宗任|宗任]]は投降し、同7年3月に[[伊予国]]に配流され、さらに治暦3年(1067年)[[太宰府]]に移された<ref>田中禎昭「安倍貞任」/ 小野一之・鈴木彰・谷口榮・樋口州男編 『人物伝小辞典 古代・中世編』 東京堂出版 2004年 9ページ</ref>。
+
[]&nbsp;寛仁3(1019)
  
背丈は六尺を越え、腰回りは七尺四寸という容貌魁偉な色白の肥満体であった(『[[陸奥話記]]』による記述)。[[衣川柵]]の戦いにおいては、[[源義家]]と[[和歌]]の問答歌をしたとされる逸話も知られる。
+
[]&nbsp;康平5(1062).9.17. 陸奥,厨川
『[[今昔物語]]』には、安倍頼時(貞任の父)は[[陸奥国]]の奥に住む「夷」と同心したため源頼義に攻められ、貞任・宗任兄弟らは一族とともに「海の北」<ref>当時、北海道は「衣曽別嶋」(えぞのわけしま)と呼ばれていた。</ref>(北海道)に船で渡り河の上流を30日余り遡った当たりで「湖国の人」<ref>[[沿海州]]からア[[ムール河]]付近に至る[[東北アジア]]の[[騎馬遊牧民]]を指すという</ref> の軍勢に遭遇した、と伝えられている<ref>田中禎昭「安倍貞任」/ 小野一之・鈴木彰・谷口榮・樋口州男編 『人物伝小辞典 古代・中世編』 東京堂出版 2004年 10ページ</ref>。
 
  
== 後裔 ==
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平安時代中期の武将。頼時の子。通称厨川二郎。永承6 (1051) 年,父とともに朝廷に反抗,陸奥守藤原登任の軍を破り,次いで着任した源頼義に帰順したが,天喜4 (56) 年,貞任が権守の子弟を夜襲したという嫌疑をかけられたことから頼義と安倍一族の戦いが再開された ([[前九年の役]] ) 。安倍氏は集団的な同族支配を行い,奥6郡では頼時の諸子が分割支配し,貞任は岩手郡[[厨川柵]] (くりやがわのき) に拠った。天喜5 (57) 年,父頼時は戦死したが,貞任のもとに固く結束した安倍一族は,河崎柵に頼義の軍勢を破った。その後数年間,衣川以南の内郡にも勢力を張ったが,康平5 (62) 年,頼義が出羽[[俘囚]] (ふしゅう) の長清原光頼,武則兄弟との同盟に成功するや,貞任はこの連合軍に衣川,鳥海両柵を奪われ,ついに本拠厨川柵に敗死,その首は京都西獄門にさらされた。容貌魁偉,身長6尺 (180cm) 余,腰囲7尺4寸 (222cm) と伝えられる。衣川の戦いで,源義家が「衣のたてはほころびにけり」と歌いかけたとき,貞任が即座に「年をへし糸のみだれのくるしさに」と答えたので,義家は感心して矢をはずして引揚げた,という説話は有名。
* [[津軽地方]]の豪族・[[安東氏]](のち[[秋田氏]])は貞任の子、[[安倍高星|高星]]の後裔を称した。
 
* [[群馬県]][[利根郡]][[みなかみ町]]にある[[湯檜曽温泉]]は、貞任の子孫によって発見されたと言われている<ref>{{Cite web |url=https://kotobank.jp/word/湯檜曽温泉 |title=日本大百科全書(ニッポニカ) 湯檜曽温泉 |publisher=コトバンク |accessdate=2016-07-10 }}</ref>。当温泉にはその子孫によって営業を続けてきたという[[温泉宿]]「本家旅館」(みなかみ町湯桧曽120)があった<ref name="minakami">『水上温泉旅館協同組合創立50周年記念誌 みなかみ』68ページ。</ref>。
 
* 貞任の息子を含んだ残党が奥羽山脈の尾根道を南下し新潟と群馬の県境で三手に別れ、それぞれ姓を「阿部」に変え、新潟県南魚沼の清水・群馬県湯桧曽・群馬県奥利根藤原に分かれ住み、昭和の戦後ぐらいまで三家の行き来があった<ref>『塩沢町史』</ref>。
 
[[File:Yubiso Onsen Honke Ryokan.jpg|thumb|本家旅館跡<br />明治初年頃創業。豊かな自然の中、270人を収容する7階建ての近代的な建物が特徴だった<ref name="minakami" />が、廃業した。]]
 
* 自民党衆議院議員で、第90・96・97・98・99代[[内閣総理大臣]]である[[安倍晋三]]は安倍貞任・宗任兄弟を輩出した奥州安倍氏の子孫に当たる。
 
 
 
== 墳墓 ==
 
; 埋葬地
 
埋葬地は明らかではないが、各地に伝承として残されているものがある。
 
* 貞任峠 (京都府)
 
* 足手谷 (京都府)
 
* 人尾峠 (京都府)
 
* 下宇津八幡宮 (京都府)
 
* [[船井神社]]・腕(かいな)守 (京都府南丹市八木町)
 
* 久留守神社 (京都府南丹市八木町刑部)
 
* 安倍貞任の墓 (山口県山陽町)
 
* 立仙墓/安倍貞任の子の墓 (福岡県朝倉市佐田)
 
 
 
; 慰霊地
 
厨川柵疑定地を中心に、寺社に祀られている。
 
* 天昌寺 (岩手県盛岡市天昌寺町)
 
* 貞任宗任神社 (岩手県盛岡市安倍館町)
 
 
 
== 関連地名など ==
 
* 貞任橋 (岩手県盛岡市上厨川)
 
* 貞任高原 (岩手県遠野市)
 
 
 
== 史料 ==
 
* 『[[陸奥話記]]』
 
* 『塩沢町史』
 
 
 
== 脚注 ==
 
{{脚注ヘルプ}}
 
{{Reflist}}
 
 
 
== 参考文献 ==
 
* 『[[水上温泉]]旅館協同組合創立50周年記念誌 みなかみ』水上温泉旅館協同組合、1983年3月25日。
 
 
 
== 関連項目 ==
 
*[[安倍氏 (奥州)|安倍氏]]
 
* [[金氏 (奥州)]]
 
*[[奥州藤原氏]]
 
*[[厨川柵]]
 
*[[嫗戸柵]]
 
*[[盛岡市]]
 
*[[岩手県]]
 
;映画
 
*『安倍貞任』:1915年(大正4年)
 
;TVドラマ
 
*『[[炎立つ (NHK大河ドラマ)|炎立つ]]』([[大河ドラマ|NHK大河ドラマ]]、1993 - 1994年)演:[[村田雄浩]]
 
 
 
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[[Category:奥州安倍氏|さたとう]]
 
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2019/4/26/ (金) 09:55時点における最新版

安倍 貞任 (あべ の さだとう)

[生] 寛仁3(1019)

[没] 康平5(1062).9.17. 陸奥,厨川

平安時代中期の武将。頼時の子。通称厨川二郎。永承6 (1051) 年,父とともに朝廷に反抗,陸奥守藤原登任の軍を破り,次いで着任した源頼義に帰順したが,天喜4 (56) 年,貞任が権守の子弟を夜襲したという嫌疑をかけられたことから頼義と安倍一族の戦いが再開された (前九年の役 ) 。安倍氏は集団的な同族支配を行い,奥6郡では頼時の諸子が分割支配し,貞任は岩手郡厨川柵 (くりやがわのき) に拠った。天喜5 (57) 年,父頼時は戦死したが,貞任のもとに固く結束した安倍一族は,河崎柵に頼義の軍勢を破った。その後数年間,衣川以南の内郡にも勢力を張ったが,康平5 (62) 年,頼義が出羽俘囚 (ふしゅう) の長清原光頼,武則兄弟との同盟に成功するや,貞任はこの連合軍に衣川,鳥海両柵を奪われ,ついに本拠厨川柵に敗死,その首は京都西獄門にさらされた。容貌魁偉,身長6尺 (180cm) 余,腰囲7尺4寸 (222cm) と伝えられる。衣川の戦いで,源義家が「衣のたてはほころびにけり」と歌いかけたとき,貞任が即座に「年をへし糸のみだれのくるしさに」と答えたので,義家は感心して矢をはずして引揚げた,という説話は有名。



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