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{{政治家
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[[ファイル:宇野宗佑.jpg|サムネイル]]
|人名 = 宇野 宗佑
+
'''宇野 宗佑'''(うの そうすけ、[[1922年]]([[大正]]11年)[[8月27日]] - [[1998年]]([[平成]]10年)[[5月19日]]
|各国語表記 = うの そうすけ
 
|画像 = Sosuke Uno 198906.jpg
 
|画像説明 = 内閣総理大臣就任に際して公表された肖像写真
 
|国略称 = {{JPN}}
 
|生年月日 = [[1922年]][[8月27日]]
 
|出生地 = {{JPN}} [[滋賀県]][[野洲郡]][[守山市|守山町]]<br />(現・[[守山市]])
 
|没年月日 = {{死亡年月日と没年齢|1922|8|27|1998|5|19}}
 
|死没地 =
 
|出身校 = [[彦根高等商業学校]]<br />(現・[[滋賀大学]][[経済学部]])<br />[[神戸商業大学]](現[[神戸大学]])中退
 
|前職 = 守山町商工会[[会長]]
 
|現職 =
 
|所属政党 = ([[日本自由党 (1945-1948)|自由党]]→)<br />([[民主党 (日本 1947-1950)|民主党]]→)<br />[[自由民主党 (日本)|自由民主党]]
 
|称号・勲章 = [[従二位]]<br />[[勲一等旭日桐花大綬章]]<br />[[守山市]][[名誉市民]]<br />陸軍[[少尉]]
 
|親族(政治家) = 宇野生蔵([[祖父]])<br />[[宇野治]]([[娘婿]])
 
|配偶者 =
 
|サイン = UnoS kao.png
 
|ウェブサイト =
 
|サイトタイトル =
 
|国旗 = JPN
 
|職名 = 第75代 [[内閣総理大臣]]
 
|内閣 = [[宇野内閣]]
 
|選挙区 =
 
|当選回数 =
 
|就任日 = [[1989年]][[6月3日]]
 
|退任日 = 1989年[[8月10日]]
 
|所属委員会 =
 
|議員会館 =
 
|元首職 = 天皇
 
|元首 = [[今上天皇]]([[明仁]])
 
|国旗2 = JPN
 
|職名2 = 第115代 [[外務大臣 (日本)|外務大臣]]
 
|内閣2 = [[竹下内閣]]<br />[[竹下内閣 (改造)|竹下改造内閣]]
 
|選挙区2 =
 
|当選回数2 =
 
|就任日2 = [[1987年]][[11月6日]]
 
|退任日2 = 1989年6月3日
 
|元首職2 =
 
|元首2 =
 
|国旗3 = JPN
 
|職名3 = 第44代 [[経済産業大臣|通商産業大臣]]
 
|内閣3 = [[第1次中曽根内閣]]
 
|選挙区3 =
 
|当選回数3 =
 
|就任日3 = [[1983年]][[6月10日]]
 
|退任日3 = 1983年[[12月27日]]
 
|元首職3 =
 
|元首3 =
 
|国旗4 = JPN
 
|職名4 = 第44代 [[行政管理庁長官]]
 
|内閣4 = [[第2次大平内閣]]
 
|選挙区4 =
 
|当選回数4 =
 
|就任日4 = [[1979年]][[11月9日]]
 
|退任日4 = [[1980年]][[7月17日]]
 
|元首職4 =
 
|元首4 =
 
|国旗5 = JPN
 
|職名5 = 第31代 [[科学技術庁長官]]
 
|内閣5 = [[福田赳夫内閣]]
 
|選挙区5 =
 
|当選回数5 =
 
|就任日5 = [[1976年]][[12月24日]]
 
|退任日5 = [[1977年]][[11月28日]]
 
|元首職5 =
 
|元首5 =
 
|国旗6 = JPN
 
|その他職歴1 = 第32代 [[防衛大臣|防衛庁長官]]
 
|就任日6 = [[1974年]][[11月11日]]
 
|退任日6 = 1974年[[12月9日]]
 
|国旗7 = JPN
 
|その他職歴2 = [[衆議院|衆議院議員]]
 
|就任日7 = [[1960年]][[11月21日]]
 
|退任日7 = [[1996年]][[9月27日]]
 
|国旗8 =
 
|その他職歴3 = [[画像:Flag of Shiga Prefecture.svg|22x20px]] 第45代 [[滋賀県議会]][[副議長]]
 
|就任日8 = [[1955年]][[5月21日]]
 
|退任日8 = [[1956年]][[3月24日]]
 
|国旗9 =
 
|その他職歴4 = [[画像:Flag of Shiga Prefecture.svg|22x20px]] 滋賀県議会議員
 
|就任日9 = [[1951年]]
 
|退任日9 = [[1958年]]
 
}}
 
'''宇野 宗佑'''(うの そうすけ、[[1922年]]([[大正]]11年)[[8月27日]] - [[1998年]]([[平成]]10年)[[5月19日]])は、日本の政治家。[[位階]]は[[従二位]]。[[勲等]]は[[勲一等旭日桐花大綬章|勲一等]]。
 
  
[[滋賀県議会]]議員(2期)、滋賀県議会副議長(第45代)、衆議院議員(12期)、[[防衛大臣|防衛庁長官]]([[第2次田中角栄内閣 (第2次改造)|第32代]])、[[科学技術庁長官]]([[福田赳夫内閣|第31代]])、[[行政管理庁長官]]([[第2次大平内閣|第44代]])、[[経済産業大臣|通商産業大臣]]([[第1次中曾根内閣|第44代]])、[[外務大臣 (日本)|外務大臣]]([[竹下内閣|第115代]])、[[内閣総理大臣]]([[宇野内閣|第75代]])、[[自由民主党国会対策委員長]]、[[自由民主党総裁]](第13代)などを歴任。平成の内閣総理大臣で学士の[[学位]]を持たない唯一の人物である。
+
政治家。 1943年学徒出陣で神戸商業大学を中退。 51年滋賀県会議員,河野一郎の秘書を経て,60年衆議院議員。[[自由民主党]]の政策マンとして地位を築き,以後 10回の当選を果し,その間,防衛庁長官,科学技術庁長官,通産大臣,外務大臣などを歴任。[[竹下登]]内閣退陣後,89年6月首相に就任。「[[リクルート事件]]」と自身のスキャンダルによって参議院選挙での与野党大逆転を招き,同年8月首相を引責辞任。就任期間 69日間の短命内閣に終った。
 
 
== 来歴・人物 ==
 
=== 青少年期 ===
 
[[1922年]](大正11年)[[8月27日]]、[[滋賀県]][[野洲郡]]守山町(現・[[守山市]])に、[[宇野長司]](守山市長[[宇野正蔵]]の子)と民子の長男として生まれる。家は造り酒屋「酒長(あらちょう)」で、前任の竹下に似ている。[[明治]]以後の政治史では、地方名望家と呼ばれる階層が重要な役割を演じ、中でも酒造を家業とした者が多い([[佐藤栄作]]、[[池田勇人]]、[[金丸信]]、[[井出一太郎]]ら)。
 
 
 
宇野の生家は地元の町年寄を務め、祖父・[[宇野正蔵|正蔵]]は守山町長を2期務めるなど、地方政界では知られた存在だった。また、伯父・[[宇野豊蔵]]は、教科書出版社・[[実教出版]]の元名誉会長だった。
 
 
 
[[1929年]](昭和4年)に[[尋常小学校|旧制]]・吉身尋常小学校(現在の[[守山市立吉身小学校]])に入学。宇野はこのころから成績が良かった。絵もうまく『[[少年倶楽部]]』に漫画を送ってよく当選し、このころに乗馬も覚えた<ref>[[#柚木&沼田1988|柚木&沼田 1988]]、45-49頁</ref>。同年に同町吉身に新設・開館した[[映画館]]・[[守山映画劇場|大黒座]]に通い始める<ref name="宇野84_309">[[#宇野1984|宇野 1984]], 309-324頁</ref>。
 
 
 
[[1935年]](昭和10年)に滋賀県立八幡商業学校(現[[滋賀県立八幡商業高等学校]])に入学。商業学校時代は映画に夢中になり、また剣道を始めるようになった<ref>[[#柚木&沼田1988|柚木&沼田 1988]]、62-65頁</ref>。[[1940年]](昭和15年)に[[彦根高等商業学校]](現・[[滋賀大学]][[経済学部]])に入学し、2年生のときに全国高商剣道大会で初の全国優勝に導いた<ref>[[#柚木&沼田1988|柚木&沼田 1988]]、67頁</ref>。
 
 
 
宇野は[[外交官]]を目指して<ref>[[#柚木&沼田1988|柚木&沼田 1988]]、85頁</ref>、[[1943年]](昭和18年)10月に旧制[[神戸商業大学 (旧制)|神戸商業大学]](現・[[神戸大学]])に進学。しかし2か月後に[[学徒出陣]]となり、戦後の[[シベリア抑留]]を経て、復学せずそのまま中退した。
 
 
 
=== シベリア抑留 ===
 
[[1943年]](昭和18年)2月1日に[[学徒出陣]]により[[敦賀連隊]]に配属された。宇野は[[主計]]試験を受けたが、当初は成績が悪かった<ref>[[#柚木&沼田1988|柚木&沼田 1988]]、73頁</ref>。三重の[[津連隊区|津連隊]]に一時分遣後、5か月間、[[満州国|満州]]の[[新京経理学校]]で主計将校として訓練を受けた後、12月に主計[[少尉]]として[[朝鮮]]北部の[[連浦連隊]]に配属された。
 
 
 
[[1945年]](昭和20年)の終戦後、[[8月23日]]にソ連軍により武装解除され、4日後に朝鮮の[[宣徳収容所]]に入った。ソ連の船に乗り、10月7日に[[ナホトカ]]に上陸して[[マラザ収容所]]に入所した。それから宇野は2年間[[シベリア抑留|ソ連に抑留]]された。
 
 
 
[[1947年]](昭和22年)7月28日に収容所から出所、10月15日に帰還船「信洋丸」に乗って帰国して抑留生活を終えた。[[1948年]](昭和23年)11月に自身の抑留体験を綴った『[[ダモイ・トウキョウ]]』({{lang-ru|Домой Токио}}, 「故郷・東京に(帰る)」の意)を出版。この本は[[1952年]](昭和27年)に[[阿部豊]]によって『[[私はシベリアの捕虜だった]]』というタイトルで映画化され、大きな反響を呼んだ<ref>[[#柚木&沼田1988|柚木&沼田 1988]]、115-116頁</ref>。故郷の大黒座で試写が行われた際には、上映に関与し舞台挨拶を行っている<ref name="宇野84_309" />。
 
 
 
[[1949年]](昭和24年)2月22日に[[裏千家]]十三世圓能齋千宗室の姪・廣瀬千代と結婚<ref>[[宇野千代]]とは別人。</ref>。馴れ初めは、シベリアに抑留されていた広瀬の兄の帰還を、[[北野天満宮]]に祈願していたことからだった。宇野家には、嫁入りした妻は旧姓とともに本名をも捨て去るしきたりがあり、千代も結婚後は「弘子」の名を与えられ、宇野の首相就任まで40年間、「宇野弘子」を名乗った<ref>[[#柚木&沼田1988|柚木&沼田 1988]]、121-122頁</ref>。
 
 
 
=== 初期の政治活動 ===
 
[[画像:Sosuke Uno 1954.jpg|thumb|200px|1954年、滋賀県議会選挙で当選し、支持者らに肩車される宇野]]
 
[[1947年]](昭和22年)に[[守山市]](当時:野洲郡守山町)の商工会が初めて行った会長選挙で商工会長に当選し、芝居などの企画を手がけた<ref>[[#柚木&沼田1988|柚木&沼田 1988]]、105-108頁</ref>。
 
 
 
[[1951年]](昭和26年)4月に、[[滋賀県議会]]議員(野洲郡選挙区)で初当選した。最年少で守山町から二番目(最初は祖父・正蔵)の当選だった<ref>[[#柚木&沼田1988|柚木&沼田 1988]]、109,112頁</ref>。宇野は最初に[[日本自由党 (1945-1948)|自由党]]に入党したが、[[民主党 (日本 1947-1950)|民主党]]の[[森幸太郎]]が[[滋賀県知事|知事]]になると民主党に入った<ref>[[#柚木&沼田1988|柚木&沼田 1988]]、301頁</ref>。[[1955年]](昭和30年)にトップ当選で二期当選し、5月21日に県議会副議長に就任した<ref>[[#柚木&沼田1988|柚木&沼田 1988]]、62-65頁</ref>。[[1956年]](昭和31年)[[3月24日]]に県会選出の教育委員となった<ref>[[#柚木&沼田1988|柚木&沼田 1988]]、301頁</ref>。
 
 
 
[[1958年]](昭和33年)の[[第28回衆議院議員総選挙]]で[[自由民主党 (日本)|自由民主党]]の候補として初出馬するが落選。宇野は[[春秋会|河野派(春秋会)]]に入る約束をしており、[[河野一郎]]が選挙の応援に訪れていた<ref>[[#柚木&沼田1988|柚木&沼田 1988]]、130,132頁</ref>。選挙後、河野に師事することが認められ、単身上京して河野の[[公設秘書|議員秘書]]となった<ref>[[#柚木&沼田1988|柚木&沼田 1988]]、134-135頁</ref>。
 
 
 
[[1960年]](昭和35年)の衆院選挙で再び出馬した。河野派は宇野を自民公認に推したが、党滋賀県連の支持が得られず、無所属で立候補した<ref>[[#柚木&沼田1988|柚木&沼田 1988]]、143-144頁</ref>。宇野は[[日本社会党|社会党]]の[[西村関一]]についで二番目の得票で当選した。当選後、[[11月25日]]に自民党に入党した。
 
 
 
[[1961年]](昭和36年)に[[自由民主党青年局]]部長となった。日本海外青年奉仕隊を構想し、局長の[[竹下登]]と共に[[インド]]・[[パキスタン]]や[[東南アジア]]を歴訪して[[青年海外協力隊]]発足に尽力した。また、自民党青年憲章を制定し、[[青年の家]]を創設した<ref>[[#柚木&沼田1988|柚木&沼田 1988]]、150-154頁</ref>。
 
 
 
[[1966年]](昭和41年)[[8月1日]]に[[第1次佐藤内閣 (第2次改造)|第1次佐藤内閣第2次改造内閣]]・[[第1次佐藤内閣 (第3次改造)|第3次改造内閣]]で[[三木武夫]][[経済産業大臣|通商産業大臣]]の下で通産[[政務次官]]に就任した。[[1967年]](昭和42年)の[[第30回衆議院議員総選挙|選挙]]では初のトップ当選を果たした。
 
 
 
[[1968年]](昭和43年)に河野派を引き継いでいた[[森清 (千葉県の政治家)|森清]]の死後、森派から[[中曽根派]]に合流し、若手議員らと[[佐藤栄作]]首相の再選に抵抗した<ref>[[#柚木&沼田1988|柚木&沼田 1988]]、157-156頁</ref>。
 
 
 
=== 閣僚として ===
 
[[1974年]](昭和49年)11月に[[第2次田中角栄内閣 (第2次改造)|第2次田中角栄内閣第2次改造内閣]]で、[[防衛大臣|防衛庁長官]]として初入閣した。宇野は防衛庁長官として、[[第十雄洋丸事件]]では海難事故で炎上した[[石油タンカー]]を撃沈する指令を出した<ref>[[#柚木&沼田1988|柚木&沼田 1988]]、191-194頁</ref>。この内閣は29日で終わり、離任式で宇野は「国を守る防衛長官がどうしてくるくる代わるのか」と話した<ref>[[#柚木&沼田1988|柚木&沼田 1988]]、195頁</ref>。
 
 
 
1974年(昭和49年)12月に[[田中角栄]]に代わり、[[三木武夫]]が[[自由民主党総裁]]に就任すると、[[自民党国会対策委員長]]に就任した。まもなく[[ロッキード事件]]が発覚。野党から執拗な追及を受け、国会対策委員長の仕事は非常に多忙であった<ref>[[#柚木&沼田1988|柚木&沼田 1988]]、204-205頁</ref>。
 
 
 
[[1976年]](昭和51年)に[[福田赳夫内閣]]で[[科学技術庁長官]]に就任した。宇野は科学技術庁長官として、[[日米原子力交渉]]を担当、核燃料特別対策会議を開き、議長となった。宇野は核拡散問題担当大使{{仮リンク|ジェラルド・C・スミス|en|Gerard C. Smith|label=ジェラルド・スミス}}らと交渉し、9月には首席代表として訪米、協定に調印した。スミスは宇野を「はっきりモノを言う初めての日本人だった」と評価した<ref>[[#柚木&沼田1988|柚木&沼田 1988]]、62-63頁</ref>。
 
 
 
[[1978年]](昭和53年)[[12月7日]]に自民党広報委員長に就任した。
 
 
 
[[1979年]](昭和54年)に[[第2次大平内閣]]で[[行政管理庁長官]]に就任した。行政管理庁長官として特殊法人1割削減を計画。その計画において、各大臣を大臣室に呼びつけるが、省庁幹部が大臣の代理で大臣室に来ても面談を拒否をする徹底した政治主導を行い、計18法人を整理した<ref>[[#柚木&沼田1988|柚木&沼田 1988]]、228-242頁</ref>。
 
 
 
[[1982年]](昭和57年)の自由民主党総裁選で、出馬した[[中曽根康弘]]の代表世話人となった。中曽根が総裁に当選すると、自民党幹事長代理に就任し、[[1983年]](昭和58年)1月の中曽根の訪韓に同伴。6月に[[山中貞則]]が病気により通産大臣を辞任すると後任に就任した。通産大臣として貿易黒字、貿易摩擦の対策に取り組んだ。中曽根退陣に伴い、[[竹下登]]を後継総裁に指名する中曽根の裁定文を幹事長代理として発表した。
 
 
 
[[1987年]](昭和62年)に[[竹下内閣]]で[[外務大臣 (日本)|外務大臣]]に就任した。
 
 
 
=== 宇野内閣 ===
 
[[リクルート事件]]発覚と[[消費税]]導入により支持率が急落した[[竹下登]]首相が、[[1989年]](平成元年)[[4月25日]]に辞意を表明した。しかし、ポスト竹下と目されていた[[安倍晋太郎]]、[[宮澤喜一]]、[[渡辺美智雄]]ら[[自由民主党 (日本)|自民党]]の有力者は軒並みリクルート事件に関与していたため身動きが取れず、[[河本敏夫]]は[[三光汽船]]経営危機問題から敬遠され、さらに[[伊東正義]]や[[田村元]]、[[坂田道太]]、[[後藤田正晴]]からも断られて後継の総理総裁選びは難航する。
 
 
 
そこで、主要閣僚の中でリクルート事件との関連性が薄く、総理総裁任期を満了した中曽根の派閥ナンバー2であり、[[サミット]]が近かったこともあり外相であった宇野に白羽の矢が立ち、宇野が急遽後継総裁に擁立されることになった([[竹下裁定]])。[[6月2日]]、宇野外相は自民党両院議員総会で[[全会一致]]にできずに異例の「起立多数」で第13代自民党総裁に選出される。自民党史において、派閥領袖ではない自民党総裁は宇野が初めてであった([[鈴木善幸]]は就任当時こそ派閥領袖ではなかったが、間もなく派閥領袖となっている)。
 
 
 
[[1989年]](平成元年)[[6月3日]]、[[宇野内閣]]が発足。党三役の経験も無く知名度が低かった宇野だけに、就任当初はメディアで宇野について紹介する特集が組まれたこともあった。閣内にはリクルート事件と関係の薄い人物を優先的に登用し、クリーンな内閣というイメージを作ろうと奔走する。
 
 
 
宇野内閣発足直後の同年[[6月4日]]、[[中華人民共和国]]で[[六四天安門事件]]が発生し、宇野は竹下内閣が決定した第三次円借款を凍結する一方で外務大臣・[[三塚博]]と共に「中国の孤立はさせない」とサミットで主張<ref name="uno">{{cite news
 
|title = 天安門事件とアルシュ・サミット
 
|publisher = [[朝日新聞デジタル]]
 
|url = http://www.asahi.com/international/aan/column/040805.html
 
|date = 2004-08-05
 
|accessdate = 2016-10-18
 
}}</ref><ref>{{cite news
 
|title = 第13代 宇野 宗佑
 
|publisher = 自由民主党
 
|url = https://www.jimin.jp/aboutus/history/prime_minister/100337.html
 
|accessdate = 2016-10-18
 
}}</ref>して他の[[西側諸国]]と距離を置き、サミット前にも対中制裁反対派・慎重派の中曽根康弘、鈴木善幸、竹下登元首相と会談した<ref>「日本現任和前任首相反対制裁中国」[[人民日報]]、1989年7月10日</ref>。総理退任後の[[1990年]]5月7日に宇野が訪中した際にも中国の指導者[[江沢民]]からこのサミットでの対応に感謝されている<ref name="uno" />。
 
 
 
しかし、この急造内閣も宇野自身のスキャンダルに足をすくわれることとなる。宇野が首相に就任した3日後に、『[[サンデー毎日]]』([[毎日新聞]])が[[神楽坂]]の[[芸妓]]の告発<ref group="注釈">神楽坂の芸妓の中でも抜きん出た美貌の持ち主だった中西ミツ子に、宇野が「もし自分の愛人になってくれたらこれだけ出す」と言って自分の指を三本出した(30万という意味)。中西は、このような人物が日本の総理大臣であってはいけないと考え、マスコミにこの事実をリークしたという(中西本人がTV出演した際に語っている)なお中西はその後、芸妓を辞めて尼僧となる。そして東京新聞03年4月30日掲載の記事によると、再婚して苗字は変わっているという。</ref>を掲載し、宇野の女性スキャンダル<ref group="注釈">スキャンダルそのものの内容や、告発者の告発内容に対する検証がなされず、ただ批判だけが先行する状態であったが、女性票が離れるとして候補者から応援演説の要請がほとんどなかった。また当事者である宇野がこの問題についてノーコメントを通したことも、世論特に女性層の批判を強めた。</ref>が表面化。当時のサンデー毎日の編集長は[[鳥越俊太郎]]だった<ref>『[[週刊文春]]』2016年7月28日号P22</ref>。初めは国内の他のマスコミは無視したが、外国メディアに「セックススキャンダルが日本の宇野を直撃」([[ワシントンポスト]]紙)等と掲載されると、それが引用される形で日本で話題となった。
 
 
 
1989年(平成元年)7月の[[第15回参議院議員通常選挙]]は、従来の3点セット([[リクルート事件|リクルート問題]]、[[消費税]]問題、牛肉・オレンジの輸入自由化問題)に加え宇野首相の女性問題が争点となり、さらにいわゆる[[マドンナブーム]]がとどめを刺し、自民党は改選議席の69議席を大幅に下回る36議席しか獲得できず、特に[[参議院一人区|一人区]]では3勝23敗と惨敗。参議院では結党以来初めての過半数割れとなる(これ以降2016年に至るまでの間自民党は参院選後の単独過半数を確保できてなかった)。
 
 
 
翌日、宇野は敗北の責任をとり退陣を表明。会見での「明鏡止水の心境であります」との言葉が有名になった。当初はここまで敗北したからには宇野一人の責任にできないという意見も党内にはあったが、結局同年8月8日には自民党両院議員総会で河本派の番頭格であった[[海部俊樹]]が新総裁に選出された。宇野の総理在任期間はわずか69日、日本政治史上4番目の短命内閣に終わった。
 
 
 
=== 退陣後 ===
 
その後自民党最高[[顧問]]に就任したが、[[1996年]](平成8年)の[[第41回衆議院議員総選挙]]には出馬せず政界を[[引退]]。また、[[1995年]](平成7年)11月に[[森口華弘]]と共に初の守山市[[名誉市民]]に表彰された<ref>{{Cite web
 
|date = 2000-07-01
 
|url = http://www2.city.moriyama.shiga.jp/koho/000701/index.html
 
|title = 守山市広報「広報もりやま」
 
|publisher = 守山市
 
|accessdate = 2008-05-31
 
}}</ref>。
 
 
 
1998年(平成10年)2月から体調不良となって通院を繰り返し、5月18日に滋賀県立成人病センターに入院。翌5月19日午前11時4分に死去、[[享年]]75。死因は[[肺癌]]だったが、怖がりの本人には知らされなかった。「今何時だ」が最後の言葉だった<ref>{{Cite web
 
|date = 1998-06-01
 
|url = http://www2.city.moriyama.shiga.jp/koho/980601/mori06011.html
 
|title = 守山市広報「広報もりやま」
 
|publisher = 守山市
 
|accessdate = 2008-05-31
 
}}</ref>。同年7月18日に県立体育館で県民葬、9月13日に市民ホールで「守山市名誉市民・元内閣総理大臣故宇野宗佑氏を偲ぶつどい」が開かれて市民ら1100人が参加した<ref>{{Cite web
 
|date = 1998-07-01
 
|url = http://www2.city.moriyama.shiga.jp/koho/980701/mori9807013.html
 
|title = 守山市広報「広報もりやま」
 
|publisher = 守山市
 
|accessdate = 2008-05-31
 
}}</ref><ref>{{Cite web
 
|date = 1998-10-01
 
|url = http://www2.city.moriyama.shiga.jp/koho/981001/mori10011.html
 
|title = 守山市広報「広報もりやま」
 
|publisher = 守山市
 
|accessdate = 2008-05-31
 
}}</ref><ref>{{Cite web
 
|date = 1998-09-01
 
|url = http://www2.city.moriyama.shiga.jp/koho/980901/mori09011.html
 
|title = 守山市広報「広報もりやま」
 
|publisher = 守山市
 
|accessdate = 2008-05-31
 
}}</ref>。
 
 
 
[[2002年]](平成14年)[[11月30日]]に守山市市民ホールで宇野の銅像の除幕式が行われた<ref>{{Cite web
 
|date = 2002-12-15
 
|url = http://www2.city.moriyama.shiga.jp/koho/021215/index6.html
 
|title = 守山市広報「広報もりやま」
 
|publisher = 守山市
 
|accessdate = 2008-05-31
 
}}</ref>。
 
 
 
[[2003年]](平成15年)の[[第43回衆議院議員総選挙]]では、女婿の[[宇野治]]が自民党公認で宇野の地盤であった[[滋賀3区]]から立候補し、比例復活で初当選した。だが、[[2009年]]の[[第45回衆議院議員総選挙]]で落選後、政界復帰することなく[[2012年]]に政界引退を表明した(同時に自民党滋賀3区総支部長も退任、後任には[[武村展英]]が就任し、武村は2012年の[[第46回衆議院議員総選挙]]で初当選した)。
 
 
 
== 評価 ==
 
閣僚時代の評価としては、[[政策研究大学院大学]]准教授の[[本多雅俊]]によると、「閣僚としての宇野には、二つの見方が残っている。一つは権柄ずくに振る舞うばかりで、みずから汗をかかなかったというものである。たとえば行政管理庁長官時代には、単にふんぞり返っていたとの評判がある。その一方、リーダーシップを発揮しながら、内閣の重要課題を手堅く処理していったとの評価もある。官僚を相手にせず、全閣僚を順次呼びつけ、「馬鹿にしちゃいかんぞ」と怒鳴りつけながら18の特殊法人を整理したというエピソードもある。実際、大平は宇野の手腕を讃えたという」<ref name="本田2008-07-15">[[#本田2008|本田 2008]]、180頁</ref>。
 
 
 
総理時代の評価は、在任期間が69日と短かったこともあり多くの評者が評価不能としている。
 
 
 
同じ文人政治家としても親交の深く、福田・竹下両内閣で共に閣僚だった[[石原慎太郎]](後に[[東京都知事]]→[[日本維新の会 (2012-2014)|日本維新の会]]代表)は、「私自身はこの人事には密かに期待した者の一人だった。宇野氏とは個人的にも親しく、磊落で文人気質のこの人物が思いがけぬ状況の所産として総裁、総理になったことで、この国の政治家のイメイジが少しは変わってくるのではないかとも思っていた。残念なことに女性問題で宇野氏は苦境に立たされ短命に終わったが、もしあの政権が続いていたなら党の中にもある大事な変化があり得たのではないかと思っている」<ref>[[#石原1999|石原 1999]]、572頁</ref>と述べている。なお、福田内閣で宇野は科学技術庁長官、石原は環境庁長官としてそれぞれ入閣し、11年後の竹下内閣でも宇野は外相、石原は運輸相に就任した。
 
 
 
宇野内閣で防衛政務次官に抜擢された[[鈴木宗男]](現・[[新党大地]]代表)は「宇野さんは外務官僚から『歴代外務大臣で一番手がかからない』と言われたほど、国会答弁など完璧にこなす勉強家であり、宇野内閣が短命に終わったことは、日本の政治にとって不幸だった」と述べている<ref>[[#鈴木2012|鈴木 2012]]、123頁</ref>。
 
 
 
[[塩田潮]]の著書『大いなる影法師ー代議士秘書の栄光と挫折』によると、宇野は政治家秘書出身としては、初めての首相だったという。しかし、当時現役だった政治家秘書からは嫌われていた。宇野自身の秘書時代と比較し、秘書を叱りつけたりしたからである。秘書たちは「宇野さんは、選挙の谷間の腰掛けで秘書をやっていただけ。いずれ政治家になる秘書と、秘書として生涯を終える秘書とを同列に論じないでほしい」と苦り切っていた。
 
 
 
== エピソード ==
 
*政策通で[[小説]]や[[歴史書]]もよく著し、著書は10冊以上に上る。[[俳句]]を嗜み俳号は犂子(れいし)、句集も残す。[[ピアノ]]、[[ハーモニカ]]、[[絵画]]などの技も素人離れした才人であった。[[剣道]]や[[馬術]]で身体を鍛え、剣道は高商時代に全国優勝し5段を有していた<ref name="本田2008-07-15" />。
 
*初登院の日に詠んだ句は「枯園に 総理乗用車 呼ぶ声す」。
 
*自民党派閥では[[春秋会|河野派]]に属し、河野死去後、派閥が分裂した際は森派へと参加した。しかし、間もなく派閥会長の森清が亡くなり[[園田直]]が派閥を継ぐと、「森との縁で派閥に参加したが、園田とはこれといった接点がないから」と、[[中曽根派]]へと移籍した。その中曽根派では幹部に上り詰めたが、派内では子分などはいなかった。
 
*核拡散問題担当大使[[ジェラルド・スミス]]は「はっきりモノを言う初めての[[日本人]]だった」と評している<ref>[[#柚木&沼田1988|柚木&沼田 1988]]、62-63頁</ref>。
 
*[[1988年]](昭和63年)[[3月26日]]における参議院[[予算委員会]]で、[[日本共産党]]の[[橋本敦]]の[[北朝鮮による日本人拉致問題]]に関する質問が出て、[[梶山静六]][[国家公安委員会委員長]]が[[北朝鮮]]による拉致が濃厚であると答弁した時、宇野は[[外務大臣 (日本)|外務大臣]]として北朝鮮の拉致が現時点では仮定の話ではあることを前置きした上で、「我々の主権が侵されていたという問題」「全くもって許しがたい人道上の問題」「強い憤り」「主権国家として当然とるべき措置はとらねばならぬ」と答弁した。
 
*1988年6月に日本の外相として初めて[[イスラエル]]を訪問し、[[シモン・ペレス]]外相と会談した際、「イスラエル軍は、占領地から全面撤退すべきだ。日本の繁栄は国民の汗と涙の結晶。武力で土地を取る国には、金は一銭も出せない」と言うと、ペレス外相から「愛国心を喚起しないと、われわれは選挙が大変なんだ」と理解を求める声が返ってきた<ref group="注釈">宇野外相 俳句もピアノも、口八丁、手八丁の文人 政策通、カネ集めは不得手 読売新聞 1989年6月1日</ref>。
 
*外務大臣在任中の外遊先で[[昭和天皇]]崩御の報に接し、テレビカメラの前で涙を見せた。
 
*非常な[[演説]]の名手としても知られ、[[所信表明演説]]を聞いた「[[ニュースステーション]]」の[[久米宏]]は「大化けするかもしれない」とコメントした。
 
*総理就任時にはピアノ演奏を披露し、趣味の広さや遊び心が好意的に報道された。また[[ハーモニカ]]の達人でもあり、閣僚時代にもしばしば、各国との晩餐会などでハーモニカの即興演奏をし喝采を浴びている<ref name="本田2008-07-15" />。
 
*総理時代に妻子を含む閣僚の資産公開を開始した。
 
*女性問題の報道に関して妻・千代は「宇野は私を大切にしてくれておりますし、私も宇野をずっと心から信頼してまいりました。もちろん、そんなことはなかったと信じております。デッチ上げだと思っております」と語っている<ref>[[#岩見2010|岩見 2010]]、181頁</ref>。
 
*没後生家は「宇野宗佑記念館」となり、生前の写真パネルのほか、宇野が国内の視察先や外遊先などで購入・収集した絵画・[[骨董品]]・[[民芸品]]などが展示されていたが、宇野家の資金難から閉鎖。土地・建物は売却された。自宅の裏には「中仙道守山宿 郷土人形館」が建てられ、宇野が収集した内外の人形約2万点、自作品も50点ほど展示されていた。こちらは現在限定公開となっている<ref>{{Cite web
 
|url = http://www.lbm.go.jp/kenhaku/shoukai/23.html
 
|title = 中仙道守山宿 郷土人形館
 
|publisher = 滋賀県博物館協議会
 
|accessdate = 2011-12-18
 
}}</ref>。
 
*外務大臣時代に「[[原子力発電所]]に反対する人はクーラーを使うなと言いたい。」と発言して[[脱原発]]団体から抗議されたことがある。
 
 
 
== 略歴 ==
 
*[[1922年]](大正11年)8月27日 - [[滋賀県]][[野洲郡]]守山町(現在の[[守山市]])に生まれる。
 
*[[1943年]](昭和18年) - 大学在学中に学徒出陣となり、2年間の[[シベリア抑留]]を経験する。帰国後、滋賀県議会議員、河野一郎秘書
 
*[[1960年]](昭和35年) - 衆議院議員(自民党・河野派)
 
*[[1961年]](昭和36年) - 自民党青年局部長(局長・竹下登) 東南アジアを歴訪。青年海外協力隊発足に尽力する。
 
*[[1974年]](昭和49年)11月11日〜12月9日 - [[防衛大臣|防衛庁長官]](第2次[[田中角栄]]内閣)
 
*[[1976年]](昭和51年)12月24日〜[[1977年]](昭和52年)11月28日 - [[科学技術庁長官]]・原子力委員会委員長([[福田赳夫内閣]])
 
*[[1979年]](昭和54年)11月9日〜[[1980年]](昭和55年)7月17日 - [[行政管理庁]]長官([[第2次大平内閣]])
 
*[[1983年]](昭和58年)6月10日〜1983年(昭和58年)12月27日 - [[経済産業大臣|通商産業大臣]]([[第1次中曽根内閣]])
 
*[[1987年]](昭和62年)11月6日〜[[1989年]](平成元年)6月3日 - [[外務大臣 (日本)|外務大臣]](竹下内閣)
 
*1989年(平成元年)6月2日〜8月8日 - 第13代[[自由民主党総裁]]
 
*1989年(平成元年)6月3日〜8月10日 - 第75代[[内閣総理大臣]]
 
:6月 - 女性スキャンダル発覚
 
:7月14日〜16日 - アルシュ・サミットに出席
 
:7月24日 - 参議院選で惨敗(33議席減)し引責辞任を表明。表明時、心境を「明鏡止水」と表現した。
 
*[[1994年]](平成6年)4月 - [[勲一等旭日桐花大綬章]]受章。
 
*[[1996年]](平成8年)6月 - 政界引退を表明。10月、政界引退。
 
*[[1998年]](平成10年)5月19日 - [[肺癌]]のため75歳で死去。
 
 
 
== 著作 ==
 
*{{Cite book|和書|author=宇野宗佑|title=ダモイ・トウキヨウ|year=1949|publisher=葛城書房|ref=宇野1949}}
 
**{{Cite book|和書|author=宇野宗佑|title=ダモイ・トウキョウ|year=1982|month=2|publisher=国書刊行会|series=シベリア抑留叢書 1|ref=宇野1982}} - 葛城書房(1949年刊)の再刊。
 
**{{Cite book|和書|author=宇野宗佑|title=ダモイ・トウキョウ|year=1989|month=6|publisher=国書刊行会|isbn=978-4-336-02294-3|url=http://www.kokusho.co.jp/np/isbn/9784336022943/|ref=宇野1989}}
 
*{{Cite book|和書|author=宇野犂子|title=王廟 句集|year=1963|publisher=市ケ谷出版社|ref=宇野1963}}
 
*{{Cite book|和書|author=宇野宗佑|title=庄屋平兵衛獄門記|year=1971|publisher=青蛙房|series=青蛙選書|ref=宇野1971}}
 
*{{Cite book|和書|others=宇野宗佑(述)|title=中曽根内閣の課題|year=1983|publisher=内外情勢調査会|series=講演シリーズ 426|ref=宇野1983}}
 
*{{Cite book|和書|author=宇野宗佑|title=中仙道守山宿|year=1984|month=10|publisher=青蛙房|series=青蛙選書 67|ref=宇野1984}}
 
*{{Cite book|和書|author=宇野宗佑|title=大正蘇音器|year=1986|month=5|publisher=市ケ谷出版社|ref=宇野1986}}
 
*{{Cite book|和書|others=宇野宗佑(述)|title=日本外交の基本課題 世界に貢献する日本|year=1989|month=2|publisher=[[外務省]]外務大臣官房国内広報課|ref=宇野1989}} - 著者の肖像あり。
 
*{{Cite book|和書|others=宇野宗佑(述)|title=宇野内閣総理大臣演説集|year=1991|month=2|publisher=日本広報協会|ref=宇野1991}} - 監修:内閣総理大臣官房。
 
*{{Cite book|和書|author=[[鈴木俊一 (東京都知事)|鈴木俊一]]|coauthors=宇野宗佑・[[丹下健三]](述)|editor=[[立田清士]]編|title=鈴木俊一著作集|year=2001|month=11|chapter=都市経営の理念と政策 二十一世紀に向け東京を改造する|publisher=良書普及会|isbn=4-656-21116-8|volume=第5巻(座談会)|ref=鈴木2001}}
 
 
 
== 脚注 ==
 
=== 注釈 ===
 
{{脚注ヘルプ}}
 
{{Reflist|group="注釈"}}
 
 
 
=== 出典 ===
 
{{脚注ヘルプ}}
 
{{Reflist|2}}
 
 
 
== 参考文献 ==
 
*{{Cite book|和書|author=宇野宗佑|year=1984|month=10|title=中仙道守山宿|publisher=[[青蛙房]]|ref=宇野1984}}
 
*{{Cite book|和書|author=石原慎太郎|authorlink=石原慎太郎|year=1999|month=1|title=国家なる幻影 わが政治への反回想|publisher=[[文藝春秋]]|isbn=4-16-354730-4|url=http://www.bunshun.co.jp/cgi-bin/book_db/book_detail.cgi?isbn=9784163547305|ref=石原1999}}
 
**{{Cite book|和書|author=石原慎太郎|year=2001|month=10|title=国家なる幻影 わが政治への反回想|volume=(上)|series=文春文庫|publisher=文藝春秋|isbn=4-16-712804-7|url=http://www.bunshun.co.jp/cgi-bin/book_db/book_detail.cgi?isbn=9784167128043|ref=石原2001a}}
 
**{{Cite book|和書|author=石原慎太郎|year=2001|month=10|title=国家なる幻影 わが政治への反回想|volume=(下)|series=文春文庫|publisher=文藝春秋|isbn=4-16-712805-5|url=http://www.bunshun.co.jp/cgi-bin/book_db/book_detail.cgi?isbn=9784167128050|ref=石原2001b}}
 
*{{Cite book|和書|author=岩見隆夫|authorlink=岩見隆夫|year=2010|month=2|title=総理の娘 知られざる権力者の素顔|publisher=[[原書房]]|isbn=978-4-562-04547-1|url=http://www.harashobo.co.jp/new/shinkan.cgi?mode=1&isbn=04547-1|ref=岩見2010}}
 
*{{Cite book|和書|author=本田雅俊|authorlink=本田雅俊|year=2008|month=7|title=総理の辞め方|series=PHP新書|publisher=[[PHP研究所]]|isbn=978-4-569-70085-4|url=http://www.php.co.jp/books/detail.php?isbn=978-4-569-70085-4|ref=本田2008}}
 
*{{Cite book|和書|author=八幡和郎|authorlink=八幡和郎|year=2011|month=4|title=本当は誰が一番?この国の首相たち|series=ソフトバンク新書 158|publisher=[[ソフトバンククリエイティブ]]|isbn=978-4-7973-6461-3|url=http://www.sbcr.jp/products/4797364613.html|ref=八幡2011}}
 
*{{Cite book|和書|author=柚木弘志|authorlink=柚木弘志|coauthors=[[沼田大介]]|year=1988|month=6|title=宇野宗佑・全人像|publisher=[[行研出版局]]|isbn=4-905786-67-3|ref=柚木&沼田1988}}
 
*{{cite book|和書|author=鈴木宗男|authorlink=鈴木宗男|year=2012|month=6|title=政治の修羅場|series=文春新書|publisher=文藝春秋|isbn=9784166608645|url=http://www.bunshun.co.jp/cgi-bin/book_db/book_detail.cgi?isbn=9784166608645|ref=鈴木2012}}
 
 
 
== 関連項目 ==
 
*[[神戸大学の人物一覧]]
 
*[[滋賀県出身の人物一覧]]
 
*[[滋賀県全県区]]
 
*[[滋賀大学の人物一覧]]
 
*[[滋賀県立八幡商業高等学校]]
 
{{-}}
 
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2019/5/7/ (火) 20:18時点における最新版

宇野宗佑.jpg

宇野 宗佑(うの そうすけ、1922年大正11年)8月27日 - 1998年平成10年)5月19日

政治家。 1943年学徒出陣で神戸商業大学を中退。 51年滋賀県会議員,河野一郎の秘書を経て,60年衆議院議員。自由民主党の政策マンとして地位を築き,以後 10回の当選を果し,その間,防衛庁長官,科学技術庁長官,通産大臣,外務大臣などを歴任。竹下登内閣退陣後,89年6月首相に就任。「リクルート事件」と自身のスキャンダルによって参議院選挙での与野党大逆転を招き,同年8月首相を引責辞任。就任期間 69日間の短命内閣に終った。



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