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{{出典の明記|date=2017年7月}}
 
  
[[File:Himeji-castletown-plan.jpg|thumb|250px|姫路城下と街道沿いの町割りを描いた「姫路城下絵図」。文化3年(1806年)。]]
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'''姫路藩'''(ひめじはん)
[[画像:Himejicastle17.jpg|thumb|250px|姫路藩歴代藩主居城[[姫路城]]]]
 
'''姫路藩'''(ひめじはん)は、[[播磨国]][[飾磨郡|飾東郡]]にあって現在の[[兵庫県]]西南部を治めた[[藩]]。藩庁は[[姫路城]]([[姫路市]])。藩主ははじめ[[外様大名|外様]]の[[池田氏]]で、のち[[譜代大名]]が転々とした末に、[[1749年]]([[寛延]]2年)から[[廃藩置県]]までは[[徳川氏|徳川]][[譜代大名|譜代]]の名門[[酒井氏]]があった。石高ははじめ52万石、のち15万石。
 
  
== 歴史 ==
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江戸時代,[[播磨国]] (兵庫県) 姫路地方を領有した藩。木下家定が慶長5 (1600) 年備中足守へ移封されてからは,江戸幕府が軍事上の要地として家門,譜代の諸大名を配した。同5年池田氏 52万石の入封に始り,本多氏,松平 (奥平) 氏,松平 (結城) 氏,榊原氏らを経て寛延2 (1749) 年に酒井忠恭が上野 (群馬県) 厩橋から 15万石で入封して廃藩置県にいたった。[[酒井氏]]は譜代,江戸城溜間詰。
[[画像:Terumasa Ikeda.jpg|thumb|220px|姫路藩初代藩主池田輝政]]
 
現在の姫路市域はもともと播磨の[[守護大名]][[赤松氏]]の地盤であったが、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]には赤松氏宗家が衰えて赤松氏支流の[[小寺氏]]の勢力下に入り、姫路城は小寺氏の重臣[[黒田氏]]が居城した。[[織田信長]]の勢力が[[中国地方|中国路]]に伸び、その重臣[[豊臣秀吉|羽柴秀吉]]が播磨に進出してくると、[[黒田孝高]](官兵衛)は秀吉に居城姫路城を譲り、[[織田氏]]の中国制覇の根拠地となる。秀吉が信長の後継者となって[[大坂城]]に移った後も黒田氏には返却されず、秀吉の正室[[高台院|北政所(ねね)]]の実兄[[木下家定]]が2万5000石を領して姫路城主となった。
 
 
 
[[1600年]]、[[徳川家康]]によって[[木下氏]]は[[足守藩|備中足守]]に移され、[[関ヶ原の戦い]]の戦功により[[三河吉田藩|三河吉田]]に15万石を領する[[池田輝政]]が[[播磨国|播磨]]一国52万石を与えられて姫路に入封し、姫路藩が成立した。輝政が一躍3.5倍の大封を与えられたのは、その後妻が家康の愛娘[[督姫]]([[北条氏直]]未亡人)であった縁によるが、輝政の嫡男[[池田利隆|利隆]]は前妻との間の息子であったため、さらに督姫の生んだ次男[[池田忠継|忠継]]に[[岡山藩|備前岡山]]28万石、三男[[池田忠雄|忠雄]]に[[淡路国|淡路]]一国6万石が与えられた。さらに輝政の弟[[池田長吉|長吉]]は兄と別に[[鳥取藩|因幡鳥取]]6万石を領していたので、池田氏は徳川氏の准一門として[[畿内]][[近国]]の西縁に一家で総計100万石に近い領土を有するに至った。この雄藩池田氏の居城としてふさわしいよう、播磨52万石の表高の2割打ち出し検地を行なうなどの強烈な苛政を極め、一国の総力をあげて築城されたのが国宝[[姫路城]]である。本城姫路城の他に[[三木城]]([[伊木忠次]])・[[明石城|明石城(船上城)]]([[池田利政]])・[[高砂神社|高砂城]](中村正勝)・[[龍野城|龍野城(鶏籠山城)]]([[荒尾成房]])・[[利神城|平福城(利神城)]]([[池田由之]])・[[赤穂城|赤穂城(加里屋城)]]([[池田長政]])を[[支城]]として配置した。
 
 
 
[[1613年]]、輝政が没すると、姫路藩を継いだ嫡男利隆は、次男忠継の夭折後岡山藩を継いでいた三男忠雄に播磨国内西部の13万石を譲り、39万石となった。さらに[[1617年]]、利隆が若くして没すると、嫡男[[池田光政|光政]]が幼かったため、幼君には要衝姫路を任せられないという理由で鳥取藩32万石に[[転封]]された。播磨の所領は、[[松平信康]]の娘である[[登久姫|峯高院]]と[[妙高院]]の姉妹が嫁いだ[[明石藩]][[小笠原氏]]10万石と姫路藩15万石及びその部屋住料10万石に[[龍野藩]]5万石の本多氏と、徳川家康の娘・[[督姫|良正院]]の化粧料遺領を分配した[[赤穂藩]]3.5万石、[[平福藩]]2.5万石、[[山崎藩]]3.8万石とその池田氏一族の[[播磨新宮藩|鵤藩]]1万石、[[林田藩]]1万石の中小藩に分割された。
 
 
 
外様大名の池田氏を体よく追い払った後、姫路には[[徳川四天王]]の一人[[本多忠勝]]の子[[本多忠政|忠政]]が15万石で入封した。さらに、忠政の甥[[本多政勝|政勝]]が5万石で龍野藩に入り、忠政の嫡男で将軍[[徳川秀忠]]の娘[[千姫]]([[豊臣秀頼]]未亡人)と結婚した[[本多忠刻|忠刻]]が、父とは別に播磨国内10万石を領して、要衝播磨は譜代の名門[[本多氏]]の総計30万石によって固められたが、忠刻は父に先立って病没したので、忠刻の弟で播磨国龍野藩主であった[[本多政朝|政朝]]が姫路15万石を継ぎ、余った10万石は忠政の三男・[[本多忠義|忠義]]の4万石と忠政の外孫・[[小笠原長次]]の6万石に分割された。
 
 
 
[[1639年]]、[[本多政朝|政朝]]の跡を継いだ[[本多政勝|政勝]]は[[郡山藩|大和郡山]]15万石に移され、かわって郡山から家康の外孫[[松平忠明]]が入封するが[[1644年]]に没し、嫡子が幼いことから[[1648年]]に[[奥平氏|奥平松平家]]は[[山形藩|出羽山形]]に転封。以後、15万石をもって譜代・[[親藩]]の名門が姫路を領し、播磨が要衝である故をもって幼君が出れば転出することが繰り返された。奥平松平家と交代で山形より直基系[[越前松平家]]が入ったが、([[松平直矩]]が幼少のため)[[村上藩|越後村上]]に転封、[[白河藩|陸奥白河]]より[[榊原氏|榊原家]]が入って([[榊原政倫]]が幼少のため)越後村上に転封、交代で越後村上より再び直基系越前松平家(成人した松平直矩)が入って(直矩が咎を受けたため懲罰で)豊後日田に転封、[[福島藩|陸奥福島]]より再び本多家が入って([[本多忠孝]]が幼少のため)越後村上に転封し、交代に越後村上から再び榊原家が入った。
 
{{右|
 
[[画像:Engyoji35s4592.jpg|thumb|none|220px|[[書写山]][[圓教寺]]にある榊原家廟所]]
 
[[画像:Grave of Matudaira Akinori 08.jpg|thumb|none|220px|姫路藩主の1人、[[松平明矩]]の墓所]]
 
[[画像:Grave of Matsudaira Naomoto01s1980.jpg|thumb|none|220px|書写山[[圓教寺]]にある松平家([[松平直基]])廟所]]
 
[[画像:Grave of Sakai 3 princess.jpg|thumb|none|220px|景福寺山[[景福寺]]にある酒井家歴代藩主夫人の墓]]
 
}}
 
[[1704年]]に再入封した榊原家は、本多忠勝と並ぶ[[徳川四天王]]の[[榊原康政]]を祖とする譜代の名門で、3代30年以上にわたって姫路藩15万石を領したが、第8代当主[[榊原政岑|政岑]]のとき、8代将軍・[[徳川吉宗]]の倹約令を無視して派手を好み、[[吉原遊廓]]の[[花魁]]を大名自ら身請けするなどの遊興が幕府の怒りを買い、政岑は隠居の上、榊原氏は豊かな西国の姫路から[[内高]]が少なく実収の乏しい北国の[[高田藩|越後高田]]15万石に懲罰的転封された。しかしこれも隠居に伴い相続した後継の[[榊原政純]]が幼少のため、という理由もある。
 
 
 
[[1741年]]に榊原氏に代わって再び入封した越前松平家も、その8年後には[[松平朝矩]]の幼少を理由に[[前橋藩|上野前橋]]に転封され、かわって[[老中]]首座[[酒井忠恭]]が前橋から入封する。姫路藩の酒井氏は徳川家康の重臣[[酒井正親]]・[[酒井重忠|重忠]]を祖とし、[[大老]][[酒井忠世]]・[[酒井忠清]]を出した酒井雅楽頭家の宗家である。老中を務めていた忠恭の前橋領は居城が侵食されるほどの大規模な水害が多発する難所であり、加えて酒井家という格式を維持する費用、幕閣での勤めにかかる費用、放漫な財政運用などにより酒井家は財政が破綻していたため、忠恭は「同石高ながら実入りがいい」と聞いていた姫路への転封をかねてより目論んでいた。実際は、姫路領では前年に大旱魃が起き、そこに重税と転封の噂が重なり、寛延の百姓一揆と呼ばれる大規模な百姓一揆が起こっていたが、酒井家は気がついていなかった。それでも転封は実現したが、その年の夏に姫路領内を2度の台風が遅い、水害が発生し大変な損害を出し、転封費用も相まって財政はさらに悪化することとなった。ともあれ酒井家以降、姫路藩は頻繁な転封がなくなり、ようやく藩主家が安定した。歴代の姫路藩主は前橋時代同様にしばしば老中、大老を務め、幕政に重きを成した。
 
 
 
[[幕末]]には藩主[[酒井忠績]]が[[1865年]]に大老となり、勤王派の制圧に力を振るったが[[1867年]]に蟄居した。弟で次の藩主になった[[酒井忠惇]]は老中となるが、[[鳥羽・伏見の戦い]]で[[徳川将軍家]]の[[徳川慶喜]]に随行して大坂退去にも同道したので、[[戊辰戦争]]では姫路藩は[[朝敵]]の名を受け、官軍の討伐対象とされた。在国の家臣は1月17日に無血開城して姫路城は岡山藩に占領されるが、3月7日になって藩主忠惇の官位剥奪と入京禁止が命じられ、[[会津藩]]などと同様に慶喜の共犯者とみなされた。だが、慶喜が[[江戸城]]を無血開城して恭順の意を表明したため、江戸藩邸にいた忠績・忠惇もそれに従って新政府軍に降伏した。ところが、5月5日になって忠績が江戸の大総督府に対して酒井家は徳川家の臣であり天皇家の臣として主家と相並ぶことを拒絶して所領没収の望む嘆願書を提出してしまう。姫路藩は5月20日に忠惇が蟄居して分家[[伊勢崎藩|上野伊勢崎藩]]酒井家から迎えた[[酒井忠邦]]に藩主の地位を譲り、軍資金として15万両を新政府に献上することで藩存続を許されるものの、佐幕派として立場が明確となった忠績への対応が迫られることになった。だが、忠邦や重臣達の説得に忠績は応じず、蟄居中の忠惇も忠績に同調する動きを示した。7月23日、新政府は家老の[[高須隼人]]・重臣[[河合屏山]]らに対して忠績・忠惇の言動の背景には彼らの側近である佐幕派の影響があるとして彼らの処断を迫った。このため、高須らは佐幕派の粛清に乗り出し、自害4名・永牢7名など多数の家臣が処分された。そして9月14日に忠績が実弟[[酒井忠恕 (静岡藩士)|忠恕]](静岡藩家臣・忠惇には兄にあたる)に預けられ、忠惇も[[静岡藩]]に身柄を移された後、明治2年9月28日に赦免されて同じく忠恕に預けられた。こうした事情からか、明治元年11月に河合屏山の進言で諸藩に先駆けて[[版籍奉還]]の建言書を提出する<ref>水谷憲二『戊辰戦争と「朝敵」藩-敗者の維新史-』(八木書店、2011年)P176-186・209-211・374-376</ref>。
 
 
 
[[廃藩置県]]が実施されると姫路藩は[[姫路県]]となり、飾磨地方の諸県と合併して[[姫路県|飾磨県]]となるが、[[1876年]]に飾磨県は廃止されて[[兵庫県]]に合併された。[[華族]]に列した藩主家は[[1887年]]に[[伯爵]]を受爵し、隠居の忠績と忠惇にも[[1889年]]に[[男爵]]が授けられる。
 
 
 
== 藩政 ==
 
姫路藩のある飾磨地方は古代から田畑の開発が進み、比較的豊かであったが、52万石時代に築城された姫路城を抱えるなど、15万石の身代にはつりあわない格式の高さや、譜代の名門として避けがたい幕政への参与から出費が嵩み、財政は常に厳しかった。藩の出費の多さは領民に高い年貢として跳ね返って不満が募り、1749年の藩主交代時には藩全域を巻き込んだ[[姫路藩寛延一揆]]が起こる。
 
 
 
一揆を経て入封した酒井氏のもとでは転封が収まり、領民にとってはやや安定を取り戻した格好になるが、藩財政は依然として厳しかった。[[19世紀]]の初頭には、藩の借金は73万両という莫大な額にのぼった。
 
 
 
このような状況のもと、[[1808年]]に家老[[河合道臣]](寸翁)が諸方勝手向に任ぜられ、財政改革に取り組んだ。寸翁は質素倹約令を敷き出費を抑えさせる一方、領内の各地に義倉([[固寧倉]])を設けて農民を救済し、藩治を安定させるよう努力した。また、[[新田]]開発を進め、[[飾磨港]]を整備して米の生産と流通を強化した。さらに、特産品である[[木綿]]の[[専売制]]を導入して莫大な利益を藩にもたらし、ついに藩の借金を完済した。また、姫路藩にはすでに[[藩校]]の[[好古堂]]があったが、寸翁は私財を投じて[[仁寿山黌]]を設立、[[頼山陽]]や[[森田節斉]]、[[猪飼敬所]]らに[[漢学]]・[[国学]]・[[医学]]を教授させ、優秀な人材の育成に取り組んだ。
 
 
 
== 歴代藩主 ==
 
=== 池田家 ===
 
外様 52万石
 
#[[池田輝政|輝政]]
 
#[[池田利隆|利隆]]
 
#[[池田光政|光政]]
 
 
 
=== 本多家 ===
 
譜代 15万石
 
#[[本多忠政|忠政]]
 
#[[本多政朝|政朝]]
 
#[[本多政勝|政勝]]
 
 
 
=== 松平(奥平)家 ===
 
親藩 18万石
 
#[[松平忠明|忠明]]
 
#[[松平忠弘|忠弘]]
 
 
 
=== 松平(越前)家 ===
 
親藩 15万石
 
#[[松平直基|直基]]
 
#[[松平直矩|直矩]]
 
 
 
=== 榊原(松平)家 ===
 
譜代 15万石
 
#[[榊原忠次|忠次]]
 
#[[榊原政房|政房]]
 
#[[榊原政倫|政倫]]
 
 
 
=== 松平(越前)家 ===
 
親藩 15万石
 
#直矩
 
 
 
=== 本多家 ===
 
譜代 15万石
 
#[[本多忠国|忠国]]
 
#[[本多忠孝|忠孝]]
 
 
 
=== 榊原家 ===
 
譜代 15万石
 
#[[榊原政邦|政邦]]
 
#[[榊原政祐|政祐]]
 
#[[榊原政岑|政岑]]
 
#[[榊原政純|政純]]
 
 
 
=== 松平(越前)家 ===
 
親藩 15万石
 
#[[松平明矩|明矩]]
 
#[[松平朝矩|朝矩]]
 
 
 
=== 酒井家 ===
 
譜代 15万石
 
#[[酒井忠恭|忠恭]]
 
#[[酒井忠以|忠以]]
 
#[[酒井忠道|忠道]]
 
#[[酒井忠実|忠実]]
 
#[[酒井忠学|忠学]]
 
#[[酒井忠宝 (姫路藩主)|忠宝]]
 
#[[酒井忠顕|忠顕]]
 
#[[酒井忠績|忠績]]
 
#[[酒井忠惇|忠惇]]
 
#[[酒井忠邦|忠邦]]
 
 
 
== 重臣 ==
 
; 酒井家
 
*河合(川合)家
 
*:河合(川合)家は河合宗在が[[徳川家康]]に仕え、[[永禄]]4年([[1561年]])に[[酒井正親]]に与力として附属せられて以降代々酒井家の家老職を務める。
 
*::[[河合宗在]]-甚四郎-宗則-川合宗次-宗賀-宗秀-亀千代=宗広(宗秀弟)=章恒(宗広弟)-[[川合定恒|定恒]]-[[川合宗見|宗見]]-[[河合道臣]]=[[河合良翰|良翰]](松下高和次男)=[[河合良臣|良臣]](道臣長男)
 
 
 
== 幕末の領地 ==
 
* [[播磨国]]
 
** [[加古郡]]のうち - 95村
 
** [[印南郡]]のうち - 111村
 
** [[加東郡]]のうち - 22村
 
** [[加西郡]]のうち - 9村
 
** [[神東郡]]のうち - 64村
 
** [[神西郡]]のうち - 39村
 
** [[飾東郡]]のうち - 70村
 
** [[飾西郡]]のうち - 69村
 
** [[揖東郡]]のうち - 1村([[家島諸島]])
 
** [[揖西郡]]のうち - 1村
 
 
 
== 脚注 ==
 
<references/>
 
 
 
== 関連項目 ==
 
{{Commonscat|Himeji Domain}}
 
* [[秋元安民]]
 
* [[河合宗元]]
 
* [[武井守正]]
 
* [[松岡青蘿]]
 
* [[好古堂]]
 
* [[速鳥丸]]
 
* [[姫路藩御船手組]]
 
* [[船屋形]]
 
* [[無外流]]
 
 
 
 
 
== 外部リンク ==
 
*[http://pragma-i.com/wasen/ 姫路藩和船建造委員会]
 
 
 
{{s-start}}
 
{{s-bef|before=([[播磨国]])|表記=前}}
 
{{s-ttl|title=行政区の変遷
 
|years=[[1600年]] - [[1871年]]|years2=姫路藩→姫路県}}
 
{{s-aft|after=[[飾磨県|姫路県]]|表記=次}}
 
{{end}}
 
{{江戸時代の藩}}
 
  
 +
{{テンプレート:20180815sk}}
 
{{デフォルトソート:ひめしはん}}
 
{{デフォルトソート:ひめしはん}}
 
[[Category:藩]]
 
[[Category:藩]]

2019/7/2/ (火) 09:15時点における最新版

姫路藩(ひめじはん)

江戸時代,播磨国 (兵庫県) 姫路地方を領有した藩。木下家定が慶長5 (1600) 年備中足守へ移封されてからは,江戸幕府が軍事上の要地として家門,譜代の諸大名を配した。同5年池田氏 52万石の入封に始り,本多氏,松平 (奥平) 氏,松平 (結城) 氏,榊原氏らを経て寛延2 (1749) 年に酒井忠恭が上野 (群馬県) 厩橋から 15万石で入封して廃藩置県にいたった。酒井氏は譜代,江戸城溜間詰。



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