天皇誕生日

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平成17年(2005年)

天皇誕生日(てんのうたんじょうび)は、日本国民の祝日の一つである。日付は今上天皇の誕生日である12月23日1989年2018年平成元年~平成30年)。

慣例上、日本の国家の日ナショナル・デー)にあたる[1]

2017年(平成29年)6月16日に公布された「天皇の退位等に関する皇室典範特例法」では、附則第10条に「国民の祝日に関する法律の改正」も盛り込まれており、同法の施行による皇太子徳仁親王の即位に伴い、2020年から天皇誕生日も2月23日に変更される予定である。なお代替わりとなる2019年は、2月23日は皇太子徳仁親王の天皇即位前、12月23日は今上天皇の退位後のため、天皇誕生日は設定されない見込みである。

なお今上天皇の退位後となる、2019年以降の12月23日については、それまでに天皇誕生日に代わる新たな名称の祝日が国民の祝日に関する法律で定められない限り、平日となる。

概要

テンプレート:皇室祭祀テンプレート:国民の祝日 天皇誕生日は、国民の祝日に関する法律(祝日法、昭和23年7月20日法律第178号)第2条によれば、「天皇の誕生日を祝う。」ことを趣旨としている。今上天皇誕生日を祝う日である。

天皇誕生日は、慣例により日本の国家の日ナショナル・デー)とされる[1]。昭和23年(1948年)までは、天長節(てんちょうせつ)と呼ばれていた。

天皇誕生日の日付は、昭和24年(1949年)から昭和63年(1988年)までは4月29日であり、平成元年(1989年)からは12月23日である。

天皇誕生日に際しては以下の行事を行う。

皇后の誕生日は地久節(後述天長地久から対比となっている)と呼ばれるが、第二次世界大戦前から国家の祝日にはなっていない。

他の君主制国家における国王誕生日と同様、在位中の天皇の誕生日に合わせて移動する(共和制国家では初代大統領ないし国家元首の誕生日だけが祝日指定になっている事が多い)。

歴史

古代・中世

天長節の名は古く、玄宗皇帝の誕生日を天長節と祝った事に由来する。中国暦開元17年(天平元年、729年)に「千秋節」と改められたが、19年後の天宝7年(天平勝宝元年、748年)には「天長節」に改められた。「天長」は老子の「天長地久」よりとられている[2]

日本においては27年後の宝亀6年(775年)の光仁天皇の時代、10月13日11月10日)に天長節の儀が執り行なわれ、臣下は天皇の好物のを献上し、宴を賜ったという

是日天長大酺群臣献翫好酒食宴畢賜禄有差

(これにさきだち同年9月11日10月10日)に

十月十三日是朕生日毎至此辰威慶兼集宜令諸寺僧尼毎年是日転経行道海内諸国竝宜断屠内外百官賜酺宴一日仍名此日為天長節庶使廻斯功徳虔奉先慈以此慶情普被天下

と勅が下された)。このことは宝亀10年(779年)の記録にも見受けられなど、平安時代において既に執り行なわれていた。室町時代の記録としては『御湯殿上日記』に記述がある。

近代・現代

国家の祝日として表舞台に舞い戻るのは、明治元年9月22日1868年11月6日)に天長節として祝ったときである(同年8月26日10月11日)には太政官布告で「九月二十二日ハ聖上ノ御誕辰相当ニ付毎年此辰ヲ以テ群臣ニ酺宴ヲ賜ヒ天長節御執行相成天下ノ刑戮被差停候偏ニ衆庶ト御慶福ヲ共ニ被遊候思召ニ候間於庶民モ一同嘉節ヲ奉祝候様被仰出候事」と布達された)。明治2年(1869年)には各国公使を延遼館に呼び寄せ、酒饌を賜い、明治3年(1870年)には諸官員、非職員、華族などの拝賀があって、勅任官は禁中で、奏任官以下は各官省で酺宴(ほえん)を賜い、諸軍艦で祝砲が撃たれた。天長節の儀礼が整ったのは明治5年(1872年)で、同年の天長節の勅語で

茲ニ朕カ誕辰ニ方リ群臣ヲ会同シ酺宴ヲ張リ舞楽ヲ奏セシム汝群臣朕カ偕ニ楽シムノ意ヲ体シ其ノ能ク歓ヲ尽セヨ

と宣した。ついで奏任官以上の総代として太政大臣三条実美が、華族総代として従一位中山忠能がそれぞれ奉答した。明治6年(1873年)の太陽暦採用後、11月3日に変更。同年10月14日の太政官布告によって国家の祝日と規定された。

その後、即位した天皇の誕生日にあわせて天長節が定められた。昭和23年(1948年)まで年中祭日祝日ノ休暇日ヲ定ム休日ニ関スル件など太政官布告や勅令によって具体的な日付で規定された。戦前は新年(現在の元日1月1日)・紀元節(現在の建国記念の日2月11日)・明治節(現在の文化の日11月3日)ともに四大節の一つとして、盛大に奉祝されていた。

ただし、7月30日明治天皇崩御、大正天皇践祚となった明治45年/大正元年(1912年)は、11月3日(明治天皇誕生日)を予定していた天長節を8月31日(大正天皇誕生日)に変更する手続きが9月4日になったという経緯から天長節がなかった。

大正天皇の誕生日は盛暑期であるために各種式典の斎行が困難であるとして、翌年以降は2ヶ月後の10月31日[3]を天長節祝日とし、本来の誕生日を避ける形をとった。また、休日としても大正2年(1913年)に改正された「休日ニ関スル件」により天長節祝日が制定された。なお、8月31日は行事こそ行われなかったものの休日であることに変わりなく、天皇誕生日による休日が年2回となっていた。

第二次世界大戦後の昭和23年(1948年)は祝日法が制定され、昭和24年(1949年)以降は天皇誕生日として国民の祝日と定められて現在に至る。また、祝日法制定に先立って行われた、「希望する祝日」の政府の世論調査では、「新年」に次いで「天皇陛下のお生まれになった日」が第2位であった。

近代・現代史上での歴代天皇の天長節・天皇誕生日

歴代天皇の天長節・天皇誕生日
時期 在位天皇 誕生日 法定の祝日 根拠法
明治元年8月26日1868年10月11日
- 明治6年(1873年7月23日
明治天皇 11月3日
旧暦9月22日
旧暦9月22日(天長節) 明治6年太政官布告第258号による改正前の明治元年行政官布告第679号
明治6年(1873年)7月24日
- 10月14日
11月3日(天長節) 明治6年太政官布告第258号
明治6年(1873年)10月14日
- 明治45年(1912年7月30日
休日ニ関スル件(大正元年勅令第19号)による廃止前の明治6年太政官布告第344号
明治45年(1912年)7月30日
- 大正元年(1912年)9月4日
大正天皇 8月31日
大正元年(1912年)9月4日
- 大正2年(1913年7月16日
8月31日(天長節) 大正元年勅令第十九号中改正ノ件(大正2年勅令第259号)による改正前の休日ニ関スル件(大正元年勅令第19号)
大正2年(1913年)7月16日
- 大正15年(1926年12月25日
8月31日(天長節)
10月31日(天長節祝日)
大正元年勅令第十九号休日ニ関スル件改正ノ件(昭和2年勅令第25号)による全部改正前の休日ニ関スル件(大正元年勅令第19号)
大正15年(1926年)12月25日
- 昭和2年(1927年3月4日
昭和天皇 4月29日
昭和2年(1927年)3月4日
- 昭和23年(1948年7月20日
4月29日(天長節) 国民の祝日に関する法律(昭和23年法律第178号)附則第2項による廃止前の休日ニ関スル件(昭和2年勅令第25号)
昭和23年(1948年)7月20日
- 昭和64年(1989年1月7日
4月29日(天皇誕生日) 国民の祝日に関する法律の一部を改正する法律(平成元年法律第5号)による改正前の国民の祝日に関する法律(昭和23年法律第178号)
昭和64年(1989年)1月7日
- 平成元年(1989年)2月17日
今上天皇 12月23日
平成元年(1989年)2月17日
- 平成31年(2019年)4月30日(予定)[4]
12月23日(天皇誕生日) 国民の祝日に関する法律(昭和23年法律第178号)
2019年5月1日(予定) - 皇太子徳仁親王 2月23日 2月23日(天皇誕生日) 退位特例法附則第10条による改正後の国民の祝日に関する法律(昭和23年法律第178号)[5]

天皇誕生日(天長節)による休日は、昭和23年(1948年)7月19日以前は年中祭日祝日ノ休暇日ヲ定ム休日ニ関スル件など太政官布告勅令によって、昭和23年(1948年)7月20日以降は国民の祝日に関する法律という法律によって日が規定される。すなわち、皇位継承によって天皇誕生日が自動的に移動・変更されるわけではなく、法改正を行い、かつ新しい天皇誕生日を規定した法令が施行される必要がある。

ほとんどの場合において先帝誕生日と新帝誕生日が異なるため、先帝崩御(譲位)日 - 新帝誕生日 - 先帝誕生日の時系列になる場合では、明治45年/大正元年(1912年)のように法改正が新帝誕生日に間に合わなかったり、先帝崩御(譲位)日と新帝誕生日があまりに近接していると諒闇の兼ね合いも生じる。また、2019年のように新帝誕生日 - 先帝崩御(譲位)日 - 先帝誕生日の時系列になる場合は必然的に天皇誕生日による休日がない年になる。

近代・現代での3代天皇の崩御後の誕生日の扱い

休日ニ関スル件、国民の祝日に関する法律のいずれにおいても、天皇の誕生日は先帝崩御・新帝践祚に伴い移動する。休日ニ関スル件では天長節に代わり先帝崩御日が先帝祭となっていたが、国民の祝日に関する法律では原則として先帝誕生日は休日にならず、先帝祭に相当する休日も設けられていない。ただし明治時代以降、先帝誕生日が休日になったケースが2回存在する。

明治天皇の誕生日:11月3日
明治天皇の誕生日である11月3日は、崩御後は休日ではなくなったが、崩御から15年後の昭和2年(1927年)、明治節という休日となった。なお、休日ニ関スル件時代において、国民の帝国議会への請願を受けて設けられた唯一の休日である。
第二次世界大戦以前はこの日には大日本帝国憲法下で旧陸海軍の大元帥とされた天皇による観兵式が行われた。宮中、豊明殿では宴会があり、お召しに与った者は宮中席次第一階ないし第三階第二十七の者ならびに勲一等雇外国人および男爵ならびに大日本帝国駐剳各国大使公使であった。天皇親臨のうえ勅語を賜り、内閣総理大臣、ついで大使、公使の首席が奉答の辞を述べ、聖寿の無疆を祝した。
なお戦後は同一日が国民の祝日「文化の日」となったが、これは大日本帝国憲法の改正手続を経て昭和21年(1946年)の11月3日に日本国憲法が公布されたことに由来し、明治節とは関係なく定められたということになっている。ただし、当時の首相である吉田茂は、憲法制定のスケジュールを、当初は8月11日公布、2月11日紀元節)施行とし、その日程に間に合わなかったことから11月3日(明治節)公布、5月3日施行にしており、意図的にそれまでの四大節に日程を合わせている。
大正天皇の誕生日:8月31日
大正天皇の誕生日である8月31日と、その誕生日(天長節)が盛暑期であることを理由とした10月31日の天長節祝日は、明治天皇や昭和天皇のように再び休日となることはなかった。しかし、大正期限定の天長節祝日は結果的にその後の休日増加へとつながり、昭和期に明治節を制定することで休日減少を回避させている。
昭和天皇の誕生日:4月29日
昭和天皇の誕生日である4月29日平成元年(1989年)、同年1月7日の崩御直後の祝日法改正で「みどりの日」とされ、国民の祝日として残された。さらに平成19年(2007年)に「昭和の日」と名称を変更し、それに伴い5月4日が「みどりの日」となった。

脚注

  1. 1.0 1.1 他のイギリスタイ王国など君主制とされる国では、その在位中の国王などの君主(日本における天皇)の誕生日が「国家の日(ナショナル・デー)」とされているため。
  2. 『年中行事事典』p512 昭和33年(1958年)5月23日初版発行 西角井正慶編 東京堂出版
  3. 月遅れではなくふた月遅れとなっているのは、9月31日が存在しないため。
  4. 同法が施行され失効しなかった場合。
  5. この行の記載についてはいずれも退位特例法が施行され失効しなかった場合。

外部リンク