大阪港

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大阪港
所在地
日本の旗 日本
所在地 大阪府大阪市
座標 東経135度25分22.0秒北緯34.641944度 東経135.422778度34.641944; 135.422778 (大阪港)

大阪港(おおさかこう)は、大阪府大阪市にある港湾。日本の主要な国際貿易港(五大港)のひとつで、スーパー中枢港湾の指定を神戸港と共に受けている。港湾法上の国際戦略港湾である。

概要

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停泊するクルーズ客船と天保山大観覧車

大阪湾に面する大阪市此花区港区大正区住之江区を中心に、安治川を介して西区木津川を介して西成区浪速区にも展開する。なお、新淀川以北の西淀川区には主だった施設等がない。明治以降、国営の国際貿易港として建設された神戸港とは対照的に、大阪市が自ら建設・運営に関わった市営港湾の伝統を有する。

日本最大のフェリーターミナルを擁する国際・国内航路の拠点港で、外航クルーズ客船が多数寄航する。阪神・淡路大震災の神戸港被災を契機に近畿圏の国際コンテナ拠点としての比重も高まり、2010年現在、外貿コンテナ取扱個数は198万TEUで国内第5位。震災後、国内首位から4位に後退した神戸港(202万TEU)とほぼ肩を並べるまでに成長した。

港則法・関税法上は神戸港尼崎西宮芦屋港堺泉北港とあわせて阪神港と称されている。

港勢

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天保山渡船場(此花区側)から天保山岸壁を望む
  • 貨物取扱量(2016年)
    • 外貿 3,411万トン(うち、コンテナ1,983万トン)
    • 内貿 4,809万トン(うち、フェリー3,129万トン)
  • 係留施設(2008年現在)
    • 外航 70バース
    • 内航 111バース
  • 面積(2016年現在)
    • 臨港地区 1,979ヘクタール
    • 港湾地区 4,684ヘクタール
※これらのうち、埋め立て面積は1,860ヘクタール。

歴史

河港時代

6世紀頃の 難波津(なにわづ)、住吉津(すみのえのつ)といった海港は、やがて淀川が運ぶ土砂の堆積で衰退してしまい、平安時代から鎌倉時代には、 淀川河口の渡辺津(わたなべのつ)と呼ばれる河港に姿を変えた。安土桃山時代に、豊臣秀吉によって 大坂の町割が作られ都市の基盤が築かれ、江戸時代にかけては北前船菱垣廻船などの寄航地として栄え、日本最大級の港となった。

しかしながら、河港である点には変わりなく、大坂市街は淀川を数kmさかのぼった場所にあったため、大型船は市内まで入らず淀川や木津川などの下流部や河口に停泊し、そこから小型船で貨物を運搬していた。船が市内へ上れるよう、また洪水を防ぐため、河川の改修や浚渫は江戸時代を通じて行われた。1683年天和3年)には河村瑞賢が、曲がりくねって浅い淀川の水運と治水のため、九条島を二つに割いて安治川を開削。次いで1699年元禄12年)には木津川の流路も難波島を二つに割いて航行をスムーズにさせ、安治川と木津川は二大水路として繁栄した。

大坂城の北で淀川に合流していた大和川は、ひとたび氾濫すると河内低地が水没するなど甚大な被害を出していたが、1704年宝永元年)に河内郡今米村庄屋の中甚兵衛らの尽力によって、の北で大阪湾に出るよう付け替えられた。大和川が淀川水系から切り離され、土砂の流入は半減したが、しかしなおも土砂で川が浅くなり続けたため、1831年天保2年)には再度安治川の浚渫が行われた。この時に出た土砂により、天保山が築かれている。また、河川の改修と並行して新田開発が盛んに行われた。

1868年慶応4年)7月15日の大阪開港に際して、安治川左岸の西区川口が開港場となった。川口には外国人居留地が設置され、隣接する富島に港湾が築造された。しかし、川口はこの時すでに河口などではなくなっており、安治川河口から6kmもさかのぼる地点に位置していた。加えて川の狭さと浅さのため大型船が入れず、国際港機能は次第に神戸港へ移り、1872年明治5年)を最後に外国船は大阪に入港しなくなった。

第1次修築工事

1873年(明治6年)、オランダ人技師G.A.エッセルヨハニス・デ・レーケが来日し、大阪入りした。彼らは日本政府から、長年悩みの種であった淀川の治水および港湾機能回復の案を出すよう望まれ、現地調査のうえ淀川に放水路を開削し、天保山付近へ新港を建設するという解を出し、改修計画を作った。しかしこれらは政府の財政難のため実現していない。

1885年(明治18年)には有史以来とも言われる淀川大洪水が発生し、大阪の経済は一時麻痺状態に陥った。外国船が入港しなくなったこともあり、大阪市民の間から淀川付け替えと国際貿易港の建設の声が高まるが、財政難の政府はデ・レーケ案のうち新淀川開削を優先して着工した。これに対して、1890年(明治23年)に大阪市民の有志らが発起人となって、独自にデ・レーケらと天保山付近での築港調査を開始する。特に、大阪湾に西面する河口付近では、西風に起因する波に直面するため、河口を南北から挟み込むように大きな防波堤が構想された。1894年(明治27年)には大阪市によって築港計画が策定され、1897年(明治30年)、政府ではなく大阪市営のプロジェクトとして「大阪港第1次修築工事」の起工式が天保山で行われた。これは難波津以来の海港復活を期する、当時の市予算の30倍の予算という大きな計画であった。

安治川河口からは直線的に、木津川河口からは尻無川の延長線上へカーブしてから直線的に伸びる防波堤を築き、現在の港区側にあたる外港部分と、大正区側にあたる内港部分の2ブロックからなる計画であった。防波堤内を約8.5mの水深まで掘り下げ、その土砂で現在の港区築港・海岸通、大正区鶴町・船町などが埋立造成された。1903年(明治36年)には築港大桟橋が完成し、花園橋 - 築港間に大阪市電築港線が開通した(公営電気鉄道では日本初)。

しかし当初大桟橋の利用が伸びず、大型船が来ない代わりに夕涼みと魚釣りの市民でにぎわう有様であった。1916年大正5年)、市の財政難と、西風にあおられ地盤も弱い河口付近の難工事により、築港事業は一時中断してしまう。しかし、第一次世界大戦景気で大阪港の利用が増え、築港の完成を望む声が高まったため、1918年(大正7年)から市に代わり民間企業の資金協力・工事代行(完成後は出資業者が優先使用)により再着工された。そして、1929年昭和4年)に32年にわたる築港事業(大阪港第1次修築工事)が完工した。

第2次修築工事

大正末期頃から大阪港は再び狭いと評されるようになり、またも神戸港への遷移が目立ち始めていた。東京高商(現一橋大学)教授から大阪市長に転じた都市計画学者・關一は、1927年(昭和2年)、第1次修築工事の完工を待たずに、新淀川河口から大和川河口にかけて防波堤を築き、港域を2.5倍にする築港計画を策定し、1928年(昭和3年)から「大阪港第2次修築工事」に着手した[1][2]1939年(昭和14年)には貨物取扱量等が日本で最大となり、神戸・横浜と並ぶ日本三大港湾のひとつとなった。この工事により北港が完成し、1944年(昭和19年)には築港の中央突堤も完成したが、第二次世界大戦激化のため工事は中断され、南港は未完となった。

1945年(昭和20年)、大阪港一帯は米軍による大阪大空襲によって壊滅的な被害を受けた。焼け野原と化した港区は大阪市22区(当時)のうち犠牲者が最多となり、重工業地域の此花区西部は第5回と第7回の空襲において集中的な爆撃を受けた。また、同年9月に発生した枕崎台風によって高潮と浸水が起こった。

修築10ヶ年工事

大阪港周辺では戦前から地下水のくみ上げによる地盤沈下が問題となっていた。そこで、中断していた第2次修築工事を改め、大阪港に注ぐ河川を拡幅して内港を作り、その土砂で海抜0メートル以下の此花区港区大正区を全面的に盛り土して区画整理するという大阪港復興計画が策定され、1947年(昭和22年)に「大阪港修築10ヶ年工事」が開始された。

しかし、B-29が湾内に投下した機雷の掃海作業が1948年(昭和23年)までかかり、1950年(昭和25年)にはジェーン台風によってまたも高潮による浸水が起き、工事はなかなか進まなかった。

1960年代までに、安治川、尻無川、大正区の運河地帯などは拡幅されて安治川内港(弁天埠頭)や大正内港となり、盛り土や家屋の移築も完成する。また、南港の埋め立ても開始され、大阪港の拡大が続いた。一方、新淀川以北の西淀川区沿岸部は、ジェーン台風以降1967年(昭和42年)の再陸地化まで水没したまま放置されるなど、港湾の造成には消極的であった。

主な施設

築港

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天保山西岸壁から眺める夕日
(左手奥に南港、左手前に中央突堤、右手に北港が見える)
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天保山岸壁に接岸するクルーズ客船

築港(ちっこう)は、安治川 - 木津川間の港区と大正区に位置する最初に完成した港。一般的には港区側を指し、1916年(大正5年)に尻無川が拡幅され、戦後に内港化された大正区側は「大正内港」として区別される。なお、港区側にも安治川内港(弁天埠頭)があり、北港と南港が大きくせり出した現在では全体的に半ば内港化している。一部の定期客船・クルーズ客船や在来貨物船を除き、船の出入りは少ないが、港湾関係の庁舎や税関などはほとんどが築港にある。安治川を横断する大阪市営渡船の乗り場が天保山公園脇にあり、天保山から中央突堤にかけてはショッピングゾーン「天保山ハーバービレッジ」となっている。

利用する施設にもよるが、アクセスは鉄道なら大阪市高速電気軌道中央線大阪港駅、道路なら阪神高速道路16号大阪港線天保山出入口が近い。

現在は一帯の再開発が計画されており、高層マンション商業施設建設の計画が予定されている。

築港の主な施設

北港

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築港(左岸)と対照的な工業港の北港(右岸)
(安治川河口付近、公営渡船(天保山渡)から撮影)

北港(ほっこう)は、新淀川 - 安治川間の此花区に位置する。大正時代から西六社(住友化学住友電工住友金属大阪ガス日立造船汽車製造)の大工場を中心に重化学工業地帯として発展し、昭和初期に沿岸部が工業港として整備された。現在は倉庫などが並ぶほか、2001年(平成13年)には遊休地にユニバーサル・スタジオ・ジャパンが開園。沖合に舞洲夢洲の人工島が建設されコンテナ港となっている。また舞洲はスポーツ施設やキャンプ場も人気がある。かつて誘致活動が行われた「大阪オリンピック」はこの二つの人工島が会場・選手村となる予定だった。

主なアクセスは、鉄道ならJR西日本桜島線(JRゆめ咲線)桜島駅阪神本線野田駅大阪市高速電気軌道千日前線野田阪神駅JR東西線海老江駅と隣接)およびJR西日本大阪環状線・桜島線(JRゆめ咲線)西九条駅から大阪シティバス81系統。道路なら阪神高速道路5号湾岸線湾岸舞洲出入口

北港の主な施設

南港

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大阪港国際フェリーターミナルを遠望。日中国際フェリーの「新鑑真」(左)と、パンスターラインの「パンスター ドリーム」が停泊中。
ファイル:Osaka south port seen from Osaka Prefectural Government Sakishima Building Osaka,JAPAN.jpg
大阪南港フェリーターミナルおよび、かもめフェリーターミナル付近の様子。
ファイル:Osaka Port Kamome Ferry Terminal 2009.JPG
大阪南港かもめフェリーターミナル
ファイル:It enters the Osaka port "Sun-Flower Nishiki" & Sun-flower Kirishima" Osaka,JAPAN.jpg
入港する関西汽船「さんふらわあ にしき」(中央)と、ダイヤモンドフェリー「さんふらわあ きりしま」。左は停泊中の宮崎カーフェリー。(2007年10月撮影)
ファイル:It leaves in Osaka port (NANKOU terminal) the ship Osaka, JAPAN.jpg
大阪南港フェリーターミナルでの下船風景(F4バース、名門大洋フェリー)

南港(なんこう)は、木津川 - 大和川間の住之江区に位置する。主に埋め立てにより造成され、尻無川の延長線上まで大きくせり出している。昭和初期に住之江沖に計画された埋立地には国際空港を作る構想もあった[4]が、戦後本格化した埋め立ておよび造成により、弁天埠頭に代わるフェリーターミナルやコンテナ埠頭を設けた。その後、南港水路以北の人工島である咲洲では「南港ポートタウン」の名称のもとで団地建設が進み、相愛大学などの学校、商業施設、公園、なにわの海の時空館がオープンした。

しかし、新たに追加された埋立地に計画された「コスモスクエア」の整備計画(コスモタワーなど)は、バブル期に過大な規模にまで拡大された結果、テナントの撤退や土地の分譲不能など思惑がはずれ、その事業費が事業者である大阪市(港湾局)の大きな負担となっている。また橋下徹大阪府知事はワールドトレードセンタービルに大阪府庁の機能を全面移転することを示唆していたが、耐震性の問題などから一部の移転にとどまっている。現在は大規模マンション建設や森ノ宮医療大学の進出、大阪入国管理局の移転など開発が進んでおり、天保山ハーバービレッジなどと合わせて再注目されている。

主なアクセスは、鉄道なら大阪市高速電気軌道中央線またはニュートラム南港ポートタウン線。道路なら阪神高速道路4号湾岸線南港中出入口または南港南出入口。また築港方面からは大阪港咲洲トンネル、北港方面からは夢咲トンネル、住之江方面からは南港通住之江通が利用できる。

南港の主な施設

大阪港国際フェリーターミナル
交通:最寄り駅はコスモスクエア駅
1996年5月1日供用開始
大阪南港コスモフェリーターミナル「さんふらわあターミナル(大阪)」
交通:最寄り駅はトレードセンター前駅。アジア太平洋トレードセンターITM棟隣エレベーター棟から志布志航路用の第2ターミナルへのシャトルバス有。
コンテナ埠頭をフェリー埠頭に転換し、2008年7月8日から一部供用開始された。南港に従来からある各ターミナル周辺には商業施設が少ない(または皆無)のに対し、このターミナルはアジア太平洋トレードセンター(ATC)内にあり、コスモタワーなどと直結している。
また、今後3バースを整備し、主に「かもめフェリーターミナル」(後述)に発着している航路が新ターミナルに移転する予定としており[5]、2017年1月末にかもめフェリーターミナルを利用していたフェリーさんふらわあ志布志航路がATCビルITM棟の南西に新ターミナルを新築し移転した[6]
2017年10月からは、大阪市港湾局の提案型ネーミングライツ制度第1号として本埠頭を発着するフェリーさんふらわあが2027年までの命名権を取得し「さんふらわあターミナル(大阪)」の呼称となる。
大阪南港フェリーターミナル
交通:最寄り駅はフェリーターミナル駅
愛媛県および九州各地へのフェリー航路が乗り入れており、その船舶数は日本一である。ニュートラム南港ポートタウン線フェリーターミナル駅に直結している。
大阪南港かもめ埠頭(RO-RO船埠頭)
交通:最寄り駅はフェリーターミナル駅(ただし、かもめ埠頭へは大阪シティバス15号系統利用「南港南四丁目」バス停下車)。
2017年1月末まではフェリーターミナルを設置。フェリーさんふらわあ志布志航路がATC埠頭へ移転しRORO船利用対応の内貿埠頭に転換。[7][8]
  • F7 (RO-RO船用)
  • F8 (RO-RO船用)

脚注

関連項目

外部リンク

官公庁など
旅客船関連
その他