「大老」の版間の差分

提供: miniwiki
移動先:案内検索
(1版 をインポートしました)
(内容を「'''大老'''(たいろう) 豊臣政権および江戸幕府の職名。豊臣政権の五大老五奉行の上におかれ,前田利家,毛利…」で置換)
(タグ: Replaced)
 
1行目: 1行目:
'''大老'''(たいろう)は、[[江戸幕府]]の職制で、[[征夷大将軍|将軍]]の補佐役、臨時に[[老中]]の上に置かれた最高職である。より広義には、大名家・執政機関の最高責任者群を指す(豊臣政権の[[五大老]]などがよく知られる)。
+
'''大老'''(たいろう)
  
== 概説 ==
+
豊臣政権および江戸幕府の職名。豊臣政権の[[五大老]][[五奉行]]の上におかれ,[[前田利家]],[[毛利輝元]],[[徳川家康]],[[上杉景勝]],[[宇喜多秀家]]が任じられた。江戸幕府では,[[老中]]の上におかれる臨時の職で,政務を総理する幕府最高の職であった。徳川氏が三河の大名であった頃の家老が起源とみられ,[[譜代大名]]でも三河以来の有力な家臣である井伊氏や酒井氏などが任じられることが多かった。そのほかには土井,保科,堀田,柳沢氏などが1回ずつであることから,家格と大老職との密接な関係がわかる。権限は非常に強く,老中から将軍に上申する事務を聞いて将軍にみずからも建言し,その意見は幕府内で非常に重んじられた。
非常置の職で定員は通常1名であった。重要な政策の決定にのみ関与し([[大政参与]])、[[評定所]]への出勤や月番などの日常業務は免除されていた。
 
  
初期の幕閣では[[松平定勝]]や[[松平忠明]]といった[[徳川家康]]の信頼が厚い親族(4代将軍・[[徳川家綱]]時代の[[保科正之]]もこれに近い)や[[井伊直孝]]・[[酒井忠世]]などの重臣(井伊・酒井両名が大老に就任したかどうかについては意見が分かれている)が元老としての役割を果たしていたが、その役割をベテランの老中に担わせた職掌とみることができる。その意味では[[譜代大名]]の名誉職的な意味合いが強い職であったが、[[酒井忠清]]・[[井伊直弼]]のように自らに権力を集中させる者もいた(江戸中期の大老・[[井伊直幸]]は[[田沼意次]]に同調し、幕政に一定の影響力を持っていた)。
+
{{テンプレート:20180815sk}}
 
 
記録で明らかな所では、[[寛永]]15年([[1638年]])に3代将軍・[[徳川家光]]が[[土井利勝]]・[[酒井忠勝 (若狭国小浜藩主)|酒井忠勝]]を大老に格上げしたのが始まりとされる。その後、徳川家綱の時代に酒井忠清・[[井伊直澄]]が就任し、5代将軍・[[徳川綱吉]]が任命した[[堀田正俊]]の時に最高職としての体裁が整った。
 
 
 
大老職に就けるのは[[井伊氏|井伊]]・[[酒井氏|酒井]](雅楽頭流)・[[土井氏|土井]]・[[堀田氏|堀田]]の4家に限定された(ただし、雅楽頭流酒井家はさらに重忠流の前橋藩→姫路藩と忠利流の小浜藩に分かれた次の代でともに大老に就いているので、事実上5家と数えることもできる)。この4家以外にも譜代10万石以上の大名が任命されることもあったが、大老ではなく'''大老格'''と呼ばれた。たとえば、[[柳沢吉保]]は大老格である。しかし、[[徳川四天王]]と称せられ、石高でも堀田家を上回っていた譜代重鎮の[[酒井忠次]]・[[榊原康政]]・[[本多忠勝]]の末裔はこれに任じられないなど、大老4家を固定した基準はいまひとつ不明である。なお、土井家は土井利勝ただ1人だけが大老に登用されたが、4代目の[[土井利久]]の時に無嗣廃絶となり、7万石(後に1万石加増)で家名再興が許可されたため、石高で大老となる資格を喪失した。しかし[[天保の改革]]が頓挫した後で[[土井利位]]が老中首座になるなど、幕閣に連綿と重きをなした。
 
 
 
在職中に殺害された大老は2人いる。堀田正俊は[[江戸城]]内で従叔父の[[若年寄]]・[[稲葉正休]]に殺害された。また、[[幕末]]の井伊直弼は江戸城[[桜田門]]外で[[水戸藩]]・[[薩摩藩]]の[[浪士]]に殺害されている([[桜田門外の変]])。
 
 
 
== 大老四家 ==
 
<!-- 各記事に転記すべき -->
 
* [[井伊氏|井伊家]]<!--:[[遠江]]国引佐郡出身の古代から続く有力な土豪で、井伊谷を本拠とした。南朝の遺臣であったが、戦国時代は今川氏に服属。今川氏真に謀反の嫌疑を掛けられて、一旦は滅亡した。生地を追われた[[井伊直政|直政]]が、家康に仕えた。直政は冷徹であったとも云われるが、徳川(松平)家の古参の家臣を尻目に、僅か一代で譜代首座の地位に上り詰めた。甲斐国武田家の遺臣の多くを引き継ぎ、関ヶ原の合戦での先陣も評価された。門閥筆頭の地位は直政の子、[[井伊直孝|直孝]]が[[徳川秀忠|秀忠]]・家光・[[徳川家綱|家綱]]の3代にわたり幕政を参画したことにより確たるものになるが、彼自身が大老に任じられたかどうかには議論がある。記録が残る中で井伊家から初めて大老に任じられたのは[[井伊直澄|直澄]]から。代々[[彦根藩]]を領地としていた。-->
 
* [[酒井氏|酒井家]](雅楽頭流酒井家)<!--:[[三河]]国加茂郡[[松平郷]]の[[松平親氏]]の庶子、広親によって起こされた。徳川家康の遠祖に当たる額田郡に発展し松平泰親の家系の家老(老中)連綿の家柄となった。家康の父祖が、まだ小豪族に過ぎなかった時代から仕えた最古参の重鎮といえる。江戸時代に10万石以上を領有した譜代大名の酒井氏は、3家あった。まず宗家とされる左衛門尉流酒井家は、東三河の旗頭として、はじめ譜代筆頭の家柄であった。しかし、[[酒井忠次|忠次]]が家康の長男、[[徳川信康|信康]]が[[織田信長]]に切腹の命令を出されたときの対応を誤り、また[[豊臣秀吉]]と昵懇となったために、家康の信任を失い冷遇された。余談ではあるが家康は、西三河の旗頭であった石川数正を秀吉に奪われ、二人の徳川家の家老を秀吉に調略されたという見方もできる。酒井忠次の家系(左衛門尉流酒井家)は、忠次の孫の忠勝が出羽庄内藩15万石となったが、大老に任命された者は出なかった。忠次の弟、家忠の家系は、雅楽頭流酒井家と呼ばれて、宗家を凌ぐ勢いを持ち、大老に任命される者が出た。[[上野国]][[前橋藩|前橋(厩橋)藩]]を経て、播磨国[[姫路藩]]15万石に封ぜられたが、若狭国[[小浜藩]]11万3000石をはじめ3つの支藩を持った。小浜侯からも、大老に任じられる者が出た。-->
 
* [[土井氏|土井家]]<!--:[[土岐氏]]の支族であるとされるが、信じ難く、三河国額田郡土井村の小領主であったことは確実である。[[土井利勝]]の出生や幼少も謎に包まれているが、家康・秀忠の2代に渡って、その側近として仕えて大きな信任を得た。また土井利勝が、家康の隠し子であったから、特別な取り立てがあったとの指摘もあるが、有力説に留まり、100%に近い確証はないとされる。-->
 
* [[堀田氏|堀田家]]<!--:尾張国愛智郡嶋津出身とも、同国中嶋郡堀田村出身とも云われて定説をみない。[[斯波氏]]が、尾張国の守護であったときにこれに服属して、同国中嶋郡を領した地侍であった。斯波氏が[[織田氏]]によって下克上されると、[[織田信秀|信秀]]・信長親子に仕えた。[[堀田道空]](寛政譜では正高)は、美濃国の[[斎藤道三]]の家老を経て、織田家に戻り、本能寺の変後は、豊臣秀吉に仕え1万石を与えられていた。道空の弟、[[堀田正秀|正秀]]は、[[前田利家]]の家臣に取り立てられたが、その子、正利(正吉)は、関ヶ原の合戦から5年後の[[慶長]]10年([[1605年]])に、徳川将軍家に700石の旗本として召し抱えられた。また正利(正吉)は、[[小早川秀秋]]の家臣であったとされるが、幕臣となる直前は、伯父である道空の縁故で、[[豊臣秀頼]]に仕えていたとも云われる。[[堀田正盛]]は、父・正利(正吉)の大坂の陣の勲功により加増された1000石を相続したが、その後の出世の早さは異常なものがあった。徳川家光の少年時代に、その同性愛の相手であったから、異例の大出世を遂げたとするのが定説である。また堀田家は、家光の乳母、[[春日局]]の元夫・[[稲葉正成]]が初婚の妻と、儲けた女子が嫁いでいたため、春日局との関係が深かった。春日局の食録3000石は、実子の稲葉家を差し置き、堀田正俊が養子として相続した。関ヶ原の合戦後に、はじめて徳川家に仕えた堀田家は、教科書的な「譜代大名」の定義に入らない特異な事例であり、新参譜代と呼ばれた。-->
 
 
 
== 大老一覧 ==
 
=== 大老 ===
 
{| class="wikitable"
 
!氏名!!在任中の官位異動!!前職!!在職期間!!後職!!城地
 
|-
 
|[[井伊直孝]]||従四位上行右近衛権少将兼掃部頭<br/>→従四位上行右近衛権少将||rowspan="2"|-||[[寛永]]9年([[1632年]])頃 - 不明||-||[[近江国|近江]][[彦根藩]]
 
|-
 
|[[酒井忠世]]||従四位下行侍従兼雅楽頭<br/>(異動なし)||寛永13年[[3月12日 (旧暦)|3月12日]]([[1636年]][[4月17日]])<br/> - [[3月19日 (旧暦)|3月19日]]([[4月24日]])||rowspan="2"|卒||[[上野国|上野]][[前橋藩]]
 
|-
 
|[[土井利勝]]||従四位下行侍従兼大炊頭<br/>→従四位下行左近衛権少将兼大炊頭||rowspan="3"|老中||寛永15年[[11月7日 (旧暦)|11月7日]]([[1638年]][[12月12日]])<br/> - 寛永21年[[7月10日 (旧暦)|7月10日]]([[1644年]][[8月12日]])||[[下総国|下総]][[古河藩]]
 
|-
 
|[[酒井忠勝 (若狭国小浜藩主)|酒井忠勝]]||従四位下行侍従兼讃岐守<br/>→従四位上行左近衛権少将兼讃岐守||寛永15年11月7日(1638年12月12日)<br/> - [[明暦]]2年[[5月26日 (旧暦)|5月26日]]([[1656年]][[7月18日]])||rowspan="2"|隠居||[[若狭国|若狭]][[小浜藩]]
 
|-
 
|[[酒井忠清]]||従四位下行左近衛権少将兼雅楽頭<br/>(異動なし)||[[寛文]]6年[[3月29日 (旧暦)|3月29日]]([[1666年]][[5月3日]])<br/> - [[延宝]]8年[[12月9日 (旧暦)|12月9日]]([[1681年]][[1月28日]])||上野前橋藩
 
|-
 
|[[井伊直澄]]||従四位下行左近衛権少将兼掃部頭<br/>(異動なし)||溜間詰||寛文8年[[11月19日 (旧暦)|11月19日]]([[1668年]][[12月22日]])<br/> - 延宝4年[[1月3日 (旧暦)|1月3日]]([[1676年]][[2月16日]])||辞任||近江彦根藩
 
|-
 
|[[堀田正俊]]||従四位下行侍従兼筑前守<br/>→従四位下行左近衛権少将兼筑前守||老中||[[天和 (日本)|天和]]元年[[12月11日 (旧暦)|12月11日]]([[1682年]][[1月19日]])<br/> - [[貞享]]元年[[8月28日 (旧暦)|8月28日]]([[1684年]][[10月7日]])||遭難||下総古河藩
 
|-
 
|[[井伊直興]]||従四位下行左近衛権少将兼掃部頭<br/>(異動なし)||溜間詰||[[元禄]]10年[[6月13日 (旧暦)|6月13日]]([[1697年]][[7月30日]])<br/> - 元禄13年[[3月2日 (旧暦)|3月2日]]([[1700年]][[4月20日]])||rowspan="2"|隠居||rowspan="5"|近江彦根藩
 
|-
 
|井伊直該<br /><small>(直興改め、再任)</small>||従四位下行左近衛権少将兼掃部頭<br/>→正四位上行左近衛権中将兼掃部頭||隠居||[[宝永]]8年[[2月13日 (旧暦)|2月13日]]([[1711年]][[3月31日]])<br/> - 正徳4年[[2月23日 (旧暦)|2月23日]]([[1714年]][[4月7日]])
 
|-
 
|[[井伊直幸]]||rowspan="2"|正四位上行左近衛権中将兼掃部頭<br/>(異動なし)||rowspan="3"|溜間詰||[[天明]]4年[[11月28日 (旧暦)|11月28日]]([[1785年]][[1月8日]])<br/> - 天明7年[[9月1日 (旧暦)|9月1日]]([[1787年]][[10月11日]])||rowspan="2"|辞任
 
|-
 
|[[井伊直亮]]||[[天保]]6年[[12月28日 (旧暦)|12月28日]]([[1836年]][[2月14日]])<br/> - 天保12年[[5月15日 (旧暦)|5月15日]]([[1841年]][[7月3日]])
 
|-
 
|[[井伊直弼]]||従四位上行左近衛権中将兼掃部頭<br/>→正四位上行左近衛権中将兼掃部頭||[[安政]]5年[[4月23日 (旧暦)|4月23日]]([[1858年]][[6月4日]])<br/> - 安政7年[[3月3日 (旧暦)|3月3日]]([[1860年]][[3月24日]])||遭難
 
|-
 
|[[酒井忠績]]||従四位下行侍従兼雅楽頭<br/>→従四位下行左近衛権少将兼雅楽頭||溜間詰<br />元老中||[[元治]]2年[[2月1日 (旧暦)|2月1日]]([[1865年]][[2月26日]])<br/> - [[慶応]]元年[[11月12日 (旧暦)|11月12日]]([[12月29日]])||蟄居||[[播磨国|播磨]][[姫路藩]]
 
|}
 
 
 
=== 大老格 ===
 
{| class="wikitable"
 
!氏名!!在任中の官位異動!!前職!!在職期間!!後職!!城地
 
|-
 
|[[柳沢吉保]]||従四位下行左近衛権少将兼美濃守<br/>(異動なし)||側用人<br />老中格||[[宝永]]3年[[1月11日 (旧暦)|1月11日]]([[1706年]][[2月23日]])<br/> - 宝永6年[[6月3日 (旧暦)|6月3日]]([[1709年]][[7月9日]])||隠居||[[甲斐国|甲斐]][[甲府藩]]
 
|}
 
 
 
== 諸藩の大老 ==
 
諸藩では藩主が幼少のときなどに、藩主を補佐するために設置された非常置の役職として大老職を置く藩もあるが、設置されているのが稀なポストであり、[[会津藩]]や[[福岡藩]]などで見られる。設置されている藩でも、幕府の役職も掲載される『江戸[[武鑑]]』では「大老」の項目名は付されないが、会津藩では家老の項目より上位に記載されている。会津藩の大老として『江戸武鑑』で確認できる者に、[[松平容衆]]の代の[[田中玄宰]]や北原光裕がいる。また、[[水戸藩]]には800石取りの大老として[[藤井徳昭]]、[[出石藩]]には1500石取りの[[仙石久寿]]がいる。
 
 
 
== 参考文献 ==
 
* [[美和信夫]]『江戸幕府大老就任者に関する考察』(「麗澤大学紀要」26号) 1978年12月 ※美和信夫『江戸幕府職制の基礎的研究:美和信夫教授遺稿集』(広池学園出版部 1991年7月発行 ISBN 4-89205-297-3)にも所載。
 
* [[小池進]]『江戸幕府「大老」の成立をめぐって』、『江戸幕府直轄軍団の形成』 吉川弘文館 2001年9月 ISBN 978-4-642-03370-1
 
 
 
== 関連項目 ==
 
* [[老中]]
 
* [[五大老]]
 
* [[保科正之]] - 家光の弟であり、[[親藩]]に該当するため正式な大老ではないが、家綱時代の元老
 
* [[大政参与]]
 
* [[政事総裁職]]
 
 
 
{{江戸幕府大老}}
 
 
{{DEFAULTSORT:たいろう}}
 
{{DEFAULTSORT:たいろう}}
 
[[Category:江戸幕府の職制]]
 
[[Category:江戸幕府の職制]]

2018/9/25/ (火) 00:47時点における最新版

大老(たいろう)

豊臣政権および江戸幕府の職名。豊臣政権の五大老五奉行の上におかれ,前田利家毛利輝元徳川家康上杉景勝宇喜多秀家が任じられた。江戸幕府では,老中の上におかれる臨時の職で,政務を総理する幕府最高の職であった。徳川氏が三河の大名であった頃の家老が起源とみられ,譜代大名でも三河以来の有力な家臣である井伊氏や酒井氏などが任じられることが多かった。そのほかには土井,保科,堀田,柳沢氏などが1回ずつであることから,家格と大老職との密接な関係がわかる。権限は非常に強く,老中から将軍に上申する事務を聞いて将軍にみずからも建言し,その意見は幕府内で非常に重んじられた。



楽天市場検索: