「大瀧詠一」の版間の差分

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(65歳で急死)
 
 
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'''大瀧 詠一'''、'''大滝 詠一'''(おおたき えいいち、本名:大瀧 榮一、1948年 - 2013年)
{{複数の問題|ソートキー=人2013年没
 
| 出典の明記 = 2008年3月22日 (土) 04:02 (UTC)
 
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{{Infobox Musician <!--プロジェクト:音楽家を参照-->
 
|名前 = 大瀧 詠一
 
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|出生名 = <!-- 個人のみ -->大瀧 榮一
 
|別名 = 大滝 詠一(アーティスト名)
 
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|出身地 = {{JPN1947}}・[[岩手県]]
 
|死没 = <!-- 個人のみ -->{{死亡年月日と没年齢|1948|7|28|2013|12|30}}<ref name="asahi131231">{{Cite news |title=大瀧詠一さん急死 65歳 「幸せな結末」などヒット曲 |newspaper=[[朝日新聞|朝日新聞デジタル]] |date=2013-12-31 |author= |url=http://www.asahi.com/articles/ASF0TKY201312310018.html |archiveurl=https://archive.is/20131231152541/http://www.asahi.com/articles/ASF0TKY201312310018.html |archivedate=2013年12月31日 |accessdate=2014-01-02 |deadlinkdate=2017年9月 }}</ref><ref name="nikkei131231">{{Cite news |title=歌手の大滝詠一さん急死 65歳、「君は天然色」 |newspaper=[[日本経済新聞]](インターネット・アーカイブのキャッシュ) |date=2013-12-31 |author= |url=http://www.nikkei.com/article/DGXNASDG31008_R31C13A2000000/ |archiveurl=https://web.archive.org/web/20140101015953/http://www.nikkei.com/article/DGXNASDG31008_R31C13A2000000/ |archivedate=2014-01-01 |accessdate=2014-01-02}}</ref><ref name="sponichi131231">{{Cite news |title=大滝詠一さん急死 65歳 達郎、聖子プロデュース「幸せな結末」が大ヒット |newspaper=[[スポーツニッポン|スポニチAnnex]](インターネット・アーカイブのキャッシュ) |date=2013-12-31 |author= |url=http://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2013/12/31/kiji/K20131231007299560.html |archiveurl=https://web.archive.org/web/20140102022344/http://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2013/12/31/kiji/K20131231007299560.html |archivedate=2014-01-02 |accessdate=2014-01-02}}</ref><ref name="nikkansports131231">{{Cite news |title=大滝詠一さん急死 リンゴ食べている時に|newspaper=[[日刊スポーツ]](インターネット・アーカイブのキャッシュ) |date=2013-12-31 |author= |url=http://www.nikkansports.com/entertainment/news/f-et-tp0-20131231-1238243.html |archiveurl=https://web.archive.org/web/20140102031206/http://www.nikkansports.com/entertainment/news/f-et-tp0-20131231-1238243.html |archivedate=2014-01-02 |accessdate=2014-01-02}}</ref>
 
|学歴 = <!-- 個人のみ -->[[早稲田大学第二文学部]][[中退]]<ref name="nichigai">日外アソシエーツ『日本の作曲家: 近現代音楽人名事典』p.134</ref>
 
|ジャンル = [[ロック (音楽)|ロック]]<br />[[ポップス]]
 
|職業 = <!-- 個人のみ -->[[シンガーソングライター]]<br />[[音楽プロデューサー]]
 
|担当楽器 = <!-- 個人のみ -->[[ボーカル]]<br />[[ギター]]
 
|活動期間 = [[1969年]]-[[2013年]]
 
|レーベル = [[キングレコード]]<br />[[ナイアガラ・レーベル|ナイアガラ]]/[[エレックレコード|エレック]]<br />ナイアガラ/[[日本コロムビア]]<br />ナイアガラ/[[ソニーミュージックレコード]](CBSソニー)
 
|事務所 = ザ・ナイアガラ・エンタープライズ
 
|共同作業者 = [[はっぴいえんど]]([[1969年]]-[[1972年]])
 
|公式サイト = {{URL|www.fussa45.net/|fussa45.net}}
 
|メンバー = <!-- グループのみ -->
 
|旧メンバー = <!-- グループのみ -->
 
|著名使用楽器 =
 
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'''大瀧 詠一'''、'''大滝 詠一'''(おおたき えいいち、本名:大瀧 榮一、[[1948年]][[7月28日]] - [[2013年]][[12月30日]]<ref name="asahi131231"/><ref name="nikkei131231"/><ref name="sponichi131231"/><ref name="nikkansports131231"/>)は、[[日本]]の[[音楽家|ミュージシャン]]。
 
  
[[シンガーソングライター]]、[[作曲家]]、[[編曲家|アレンジャー]]、[[音楽プロデューサー]]、[[レコードレーベル]]のオーナー、ラジオ[[ディスクジョッキー|DJ]]、[[レコーディング・エンジニア]]、[[マスタリング・エンジニア]]、[[著述家]]、元[[ダブル・オーレコード|Oo Records]](現在は会社自体がない)取締役など、多くの顔を持つ。[[ABO式血液型|血液型]]は[[ABO式血液型|AB型]]。
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音楽家。岩手の生まれ。昭和45年(1970)に、ロックバンド「はっぴいえんど」のメンバーとしてデビュー。ロックミュージックを日本語の歌詞で歌う様式が当時話題となった。後に自身のレーベル「Niagara」を設立し、ソロとして活躍。作曲家としての代表作に「冬のリヴィエラ」「風立ちぬ」など。
 
 
娘婿は音楽プロデューサー・音楽評論家で[[バート・バカラック]]研究家の坂口修<ref>[http://www.mishimaga.com/gaihu/020.html 内田樹 第20回 凱風館日乗(2013年を振り返って) - みんなのミシマガジン]</ref>。
 
 
 
== 来歴 ==
 
=== 生い立ちと学生時代 ===
 
[[岩手県]][[江刺郡]][[梁川村 (岩手県)|梁川村]](現: [[奥州市]])生まれ。母子家庭で育ち、母親が教師だったため、小学校・中学校でそれぞれ転校を経験している(小学校で江刺から遠野。中学で遠野から釜石)。
 
 
 
小学5年の夏、親戚の家で聴いた[[コニー・フランシス]]の「カラーに口紅」(Lipstick On Your Collar) に衝撃を受けて以降、アメリカンポップスに傾倒。中学入学後ラジオクラブに入り、ラジオを自作し、米軍極東放送 ([[AFN|FEN]]) やニッポン放送の番組を聴くようになる。間もなくレコード収集を始め、[[エルヴィス・プレスリー]]や[[ビーチ・ボーイズ]]などの音楽を分析的に聴くようになり、独自の研究を深める。
 
 
 
そのため、[[1962年]]夏から[[1966年]]までにチャートインした曲はすべて覚えている<ref>時期的には中学2年から高校3年の期間に当たる。レコード屋に入り浸り、レコード屋の店員より音楽に詳しいことから助言をしていた。そのおかげで買えないレコードも全部聴けていたという。</ref>というほど精通している。洋楽面のみで語られがちだが、同時期には[[小林旭]]や[[三橋美智也]]なども好んで聞いていた。特に[[ハナ肇とクレージーキャッツ|クレージーキャッツ]]の[[植木等]]が歌う「[[スーダラ節]]」には非常に影響を受けたという。
 
 
 
[[1964年]]、[[岩手県立花巻北高等学校]]に入学し、下宿で一人暮らしをするが、授業料を全部レコードにつぎ込んでいたため、1年で退学させられ、[[岩手県立釜石南高等学校]](現:[[岩手県立釜石高等学校]])に編入。入学直前、FENで[[ビートルズ]]を知り、以降[[リバプール・サウンド]]全般を買いまくっていたという。釜石南高編入後、初めてバンドを組む。「スプレンダーズ」というバンドで[[ドラマー|ドラム]]を担当していた。本来ならコミックバンドをやりたかったが同志が見つからず、やむなくビートルズタイプのバンドを組んだという。メンバーには現在釜石市にある鉄の歴史館館長を務める佐々木諭がいた。
 
 
 
[[1967年]]、上京し、[[小岩]]の製鉄会社に就職するも、出社約20日、在籍期間3ヶ月で[[退職#自己都合退職|退職]]。その数日前、[[船橋ヘルスセンター]]で会社の慰安会があり、余興でビートルズの「[[ガール]]」をアカペラで歌ったところ、上司から「うん、キミはこういう所にいるべき人間ではない」と諭されたという<ref>『総特集 大瀧詠一と大瀧詠一のナイアガラ30年史』</ref>。同年夏に、[[布谷文夫]]と知り合い、洪栄龍らと共に「タブー」というバンドを結成。ドラムを担当していたが、同年末に解散。
 
 
 
[[1968年]]に早稲田大学第二文学部に入学<ref name="nichigai" />。布谷を通じて交友があった中田佳彦<ref>[[中田喜直]]の甥で、[[はっぴいえんど]]にもかかわりが深かった人物。</ref>から[[細野晴臣]]を紹介されて意気投合。なお両者の初対面は細野の家に大瀧が招かれる形で行われた。その際、細野が"腕試し"として[[ヤングブラッズ (1960年代のバンド)|ヤングブラッズ]]の「[[ゲット・トゥゲザー (ヤングブラッズの曲)|ゲット・トゥゲザー]]」(シングル盤)を見えるように置いておいた。それに部屋に入りしなの大瀧が気付き「おっゲット・トゥゲザー」と言い、細野を感心させたという。その後、大瀧・中田・細野の3人で定期的にポップスの研究会を開く。[[1969年]]、細野が参加していたバンド「[[エイプリル・フール (バンド)|エイプリル・フール]]」の解散直前に、細野と[[松本隆]]によって計画されていた新バンドに加入を要請され受諾。
 
 
 
=== 1970年代 ===
 
「ヴァレンタイン・ブルー」は翌1970年「[[はっぴいえんど]]」に改名し、アルバム『[[はっぴいえんど (アルバム)|はっぴいえんど]]』でデビュー。この時期、「新宿プレイマップ」での座談会([[日本語ロック論争]])に参加。
 
 
 
はっぴいえんど活動中の[[1971年]]にソロ活動を開始し、アルバム『[[大瀧詠一 (アルバム)|大瀧詠一]]』([[1972年]])を発表。はっぴいえんど解散後はソロ活動に移行せず、当時のシンガーソングライターとしては異例である[[コマーシャルソング|CMソング]]の制作と、ごまのはえ、布谷文夫など若手のプロデュースを始める。
 
 
 
[[1974年]]9月には自らが[[作詞]]・[[作曲]]・[[編曲]]・[[プロデューサー|プロデュース]]・[[エンジニア]]・[[マスタリング#原盤製作|原盤制作]]・[[音楽出版|原盤管理]]などをこなすプライベートレーベル「[[ナイアガラレコード|ナイアガラ・レーベル]]」を設立し、[[エレックレコード (オリジナル)|エレックレコード]]と契約。翌[[1975年]]にははっぴいえんど解散後初となるソロアルバム『[[NIAGARA MOON]]』を発表。また、ラジオ関東(現在の[[アール・エフ・ラジオ日本]])で、DJをつとめる番組『[[ゴー・ゴー・ナイアガラ (ラジオ番組)|ゴー・ゴー・ナイアガラ]]』を開始し、学生層のコアなファンを獲得するなど、精力的にソロ活動を開始するが、その矢先、エレックレコードが事業縮小し、契約破棄される。
 
 
 
[[1976年]]にコロムビアレコードにナイアガラごと移籍する。その際の契約は福生45スタジオに当時最新鋭の16チャンネルのマルチトラックレコーダーを提供してもらう代わりに、3年でアルバム12枚を製作するという内容だった。
 
 
 
『[[NIAGARA TRIANGLE Vol.1]]』『[[GO! GO! NIAGARA]]』『NIAGARA CM SPECIAL Vol.1』はヒットを記録<ref>『[[NIAGARA TRIANGLE Vol.1]]』『[[GO! GO! NIAGARA]]』についてはゴールデン・ディスクとしてコロムビアからヒット賞を受けており、『NIAGARA CM SPECIAL Vol.1』はチャート入りしている</ref>したものの、趣味性の強すぎる楽曲が災いし、以降作品の完成度とはうらはらに売り上げが低迷。[[1977年]]の『[[NIAGARA CALENDAR]]』はチャート入りさえしなかった。
 
 
 
[[1978年]]の『[[LET'S ONDO AGAIN]]』を最後にコロムビアとの契約を解消。福生45スタジオの機材も売却。ナイアガラレコードも休業状態に陥る。以降レコードの販売権の契約が残っている2年間の間、ソロ作が発表できない状況に陥る。この年にはアルバムを3作しか作っておらず、本来ならばもう1枚作らないといけない契約になっていたための自主規制であり、[[1980年]]にコロムビア主導で『[[TATSURO YAMASHITA FROM NIAGARA]]』が発売された時には安堵したという。
 
 
 
=== 1980年代前期 ===
 
[[1979年]]からはプロデュース業を手掛け、翌[[1980年]]にプロデュースの仕事で出入りすることが多かったCBSソニーに移籍。旧友である[[松本隆]]と組んで、ナイアガラサウンドの集大成となる作品のレコーディングに取り掛かる。このレコーディングの最中に、女性向きと考えた「[[さらばシベリア鉄道]]」を[[太田裕美]]に提供。同曲は大瀧の曲で初めてのヒットシングルになった。
 
 
 
[[1981年]]3月に『[[A LONG VACATION]]』を発表。当初は売り上げが低迷していたが、徐々にセールスを伸ばし、夏にはチャート2位を記録。「[[第23回日本レコード大賞]]・ベストアルバム賞」を受賞した。[[1983年]]まで精力的に楽曲提供・プロデュースを続け、松本とCコンビでの[[松田聖子]]の シングル『[[風立ちぬ (松田聖子の曲)|風立ちぬ]]』で初のチャート1位を記録。[[うなずきトリオ]]のシングル『うなずきマーチ』では大滝作詞曲で初のチャート入りを果たすなど、多くのアイドルソング・コミックソングなどを手掛け一躍名声が高まる。また[[森進一]]の『[[冬のリヴィエラ]]』や[[小林旭]]の『[[熱き心に]]』など[[演歌]]系のジャンルにも進出を果たす。
 
 
 
しかし、独自の音楽理論を構築していったことなどが影響し、オリジナル作品をコンスタントに発表していく意味を見いだせなくなっていき、[[1984年]]のアルバム『[[EACH TIME]]』制作時に歌手活動の休止を決断。[[1985年]]6月の[[はっぴいえんど]]再結成ライブを最後に人前で歌うことはほとんどなくなり、同年11月にシングルカットした「[[フィヨルドの少女]]」を最後に新譜の発表は長い間途絶えることになる。
 
 
 
=== 1980年代後期 - 1990年代 ===
 
プロデューサー・作曲家としては80年代後半も引き続き活動し、[[1986年]]には自身が少年期からのファンであるクレージーキャッツの30周年記念作を手掛け、新曲「[[実年行進曲]]」を作曲・編曲、[[五万節]]のリメイク「新五万節」を編曲(クレジットでは編々曲)した。クレージーキャッツの楽曲を数多く手掛けた[[萩原哲晶]]の愛好家でもある大瀧は萩原に敬意を表して、彼の名前を「原編曲」としてクレジットし、「実年行進曲」と「新五万節」に過去の楽曲のフレーズを挿入している。
 
 
 
[[1980年代]]後期以降、ナイアガラレコードの旧譜のリマスタリングや、大瀧が影響を受けた先人の音源復刻「LEGENDARY REMASTER SERIES」の監修やライナー執筆、ラジオの特別番組のDJなどを手掛ける。また、1979年から本格的に取り組み始めたポップス史の研究は、[[1983年]]に「分母分子論」としてその一端が明らかにされていたが、[[1991年]]にはそれを更に発展させた「普動説」として結実させている。
 
 
 
[[1988年]]に[[小泉今日子]]に提供した『[[快盗ルビイ (曲)|快盗ルビイ]]』以降作曲から遠ざかっていたが、[[1994年]]からソニーの[[ダブル・オーレコード|Oo Records]]に取締役兼プロデューサーとして参加。[[1995年]]の[[渡辺満里奈]]の『[[うれしい予感/針切じいさんのロケン・ロール|うれしい予感]]』が作曲家としての復帰作となる。
 
 
 
[[1997年]]には12年ぶりとなる新曲『[[幸せな結末]]』を発表。[[フジテレビ月曜9時枠の連続ドラマ|月9ドラマ]]『[[ラブジェネレーション]]』の主題歌としてミリオンセラーを達成。これに続き、[[市川実和子]]のシングル・アルバムのプロデュースも手掛ける。
 
 
 
=== 2000年代 - 2010年代 ===
 
[[2000年代]]に入ると再び旧譜のリマスタリング、音源復刻監修を再開。また昔の自分のラジオ番組をリマスターして再放送したり、昔の自分のラジオ番組の新シリーズを開始するなど、独自の試みを行うようになった。
 
 
 
[[2003年]]には6年ぶりのシングル『[[恋するふたり]]』を発表。月9ドラマ『[[東京ラブ・シネマ]]』主題歌としてヒットする。また、[[竹内まりや]]のアルバム『[[Longtime Favorites]]』で[[フランク・シナトラ]] & [[ナンシー・シナトラ]]の「恋のひとこと」(SOMETHING STUPID) を[[デュエット]]。これらが最後の作品発表となった。
 
 
 
[[2004年]]末には自宅にマスタリング用の器材を導入し、福生45スタジオが復活。[[2005年]]から最後のリマスターとしてナイアガラ旧譜の30周年アニバーサリー盤の発表を順次開始。[[2014年]]3月には最終作となる「EACH TIME」の発表を控えていた。またラジオ『[[大瀧詠一のアメリカン・ポップス伝]]』も佳境にさしかかっており、2014年春もしくは夏に完結し、本命である[[イギリス]]のポップス伝に移行するものと目されていた。
 
 
 
[[2011年]][[3月11日]]に起きた[[東日本大震災]]後には、地元の同級生に電話を掛けて安否確認をする等、震災にあった地元に思いを寄せ続け、被災者となった同級生にサインを入れた自身のCDを贈っている。
 
 
 
=== 65歳で急死 ===
 
[[2013年]][[12月30日]]17時30分頃<ref>{{Cite news |title=ミュージシャンの大瀧詠一さん死去、65歳 |newspaper=[[TBSテレビ|TBS]] News i (インターネット・アーカイブのキャッシュ)|date=2013-12-31 |author= |url=http://web.archive.org/save/http://news.tbs.co.jp/20131231/newseye/tbs_newseye2093139.html |accessdate=2014-01-02}}</ref>、[[東京都]][[西多摩郡]][[瑞穂町]]の自宅で家族と夕食後のデザートに[[リンゴ]]を食べている時に倒れ、救急搬送された。警視庁[[福生警察署]]などによると、家族は「林檎を食べていてのどに詰まらせた」と説明していたという<ref>{{Cite news |title=〈速報〉大滝詠一さん急死 リンゴ食べている時に |newspaper=朝日新聞デジタル(インターネット・アーカイブのキャッシュ) |date=2013-12-31 |author= |url=http://www.asahi.com/and_M/interest/entertainment/NIK201312310074.html |archiveurl=https://web.archive.org/web/20140101074229/http://www.asahi.com/and_M/interest/entertainment/NIK201312310074.html |archivedate=2014-01-01 |accessdate=2014-01-02}}</ref>。救急隊がかけつけた時は既に[[心肺停止]]状態であり、病院に搬送後19時頃に死亡が確認された<ref name="asahi131231"/><ref name="nikkei131231"/><ref name="sponichi131231"/><ref name="nikkansports131231"/>。死因は[[動脈瘤|解離性動脈瘤]]とされた(報道では発症部位など詳細については発表されていない)<ref name="asahi131231"/><ref name="nikkei131231"/><ref name="sponichi131231"/><ref name="nikkansports131231"/>。{{没年齢|1948|7|28|2013|12|30}}。
 
 
 
大瀧の突然の訃報は音楽関係者に大きな衝撃を与え、[[佐野元春]]<ref>{{Cite news|title=佐野元春「ひとつの大きな星を失った」|newspaper=日刊スポーツ(インターネット・アーカイブのキャッシュ)|date=2013-12-31|url=http://www.nikkansports.com/entertainment/news/f-et-tp0-20131231-1238284.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20140101102239/http://www.nikkansports.com/entertainment/news/f-et-tp0-20131231-1238284.html|archivedate=2014年1月1日|accessdate=2014-01-05|deadlinkdate=2017年9月}}</ref>、[[山下達郎]]<ref>{{Cite web |url=http://www.tatsuro.co.jp/news/ |archiveurl=https://web.archive.org/web/20140101220017/http://www.tatsuro.co.jp/news/ |archivedate=2014-01-01 |title=NEWS/TOP|publisher=山下達郎 OFFCIAL WEB SITE([[インターネットアーカイブ]]のキャッシュ) |accessdate=2014-01-05}}</ref>、[[大貫妙子]]、[[吉田美奈子]]<ref>{{Cite web |url=http://www.la-la-bells.com/well.html |title=well|publisher=YOSHIDA MINAKO official web site |date=2014-01-02 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20140719220608/http://la-la-bells.com/well.html |archivedate=2014-07-19 |accessdate=2014-11-12 }}</ref>、[[桑野信義]]らが追悼のコメントを発表した<ref>{{Cite news|title=大瀧詠一さん音楽仲間ら追悼 佐野元春「日本の音楽界はひとつの大きな星を失った」|newspaper=[[オリコン|ORICON STYLE]](インターネット・アーカイブのキャッシュ)|date=2013-12-31|url=http://www.oricon.co.jp/news/2032625/full|archiveurl=https://web.archive.org/web/20140105112053/http://www.oricon.co.jp/news/2032625/full|archivedate=2014年1月5日|accessdate=2014-01-05|deadlinkdate=2017年9月}}</ref>。また長年の盟友だった松本隆は自身のTwitterにて「北へ還る十二月の旅人よ」と大瀧の曲「[[さらばシベリア鉄道]]」にかけた追悼の辞を捧げている<ref>{{Twitter status|takashi_mtmt|419377483574550529}} 2014年1月3日閲覧。</ref>。奇しくも、命日となった12月30日は逆読みで代表作「A LONG VACATION」の発売日3月21日(1230→0321)と読める日付だった。
 
 
 
[[2014年]][[1月4日]]、都内で葬儀が営まれ、約100人の関係者が参列した。式場には未発表である大瀧自身の声による「[[夢で逢えたら (大瀧詠一の曲)|夢で逢えたら]]」が流され、大瀧の[[柩]]ははっぴいえんどメンバーだった[[松本隆]]、[[鈴木茂 (ギタリスト)|鈴木茂]]、[[細野晴臣]]の3人らによって抱えられた<ref>{{Twitter status|takashi_mtmt|419375696025096192}} 2014年1月3日閲覧。</ref>。また、多くのスタッフ・関係者からの要望により、「A LONG VACATION」の発売日で、最期のアルバム「EACH TIME 30th Anniversary Edition」の発売日でもあった[[3月21日]]に「お別れの会」が執り行われ、一般参列者向けの献花台も設けられた。<ref>{{Cite news |title=大滝詠一さん葬儀に細野晴臣ら100人参列 |newspaper=日刊スポーツ(インターネット・アーカイブのキャッシュ) |date=2014-01-05 |author= |url=http://www.barks.jp/news/?id=1000101692 |accessdate=2014-01-05}}</ref><ref>{{Cite news |title=大滝詠一を偲ぶ<お別れ会>開催。鈴木茂「大滝さんとの対話は幸せな時間だった」 |newspaper=BARKS |date=2014-03-21 |author= |url=http://www.barks.jp/news/?id=1000101692 |accessdate=2014-03-21}}</ref>。
 
 
 
3月21日の「EACH TIME」発売を前に、[[3月19日]]からは過去音源の[[iTunes Store]]における一斉配信がスタートし、その中には絶版になり入手困難となっていた[[シリア・ポール]]による「夢で逢えたら」のカバーや単品CD販売の無かった「DEBUT」、30周年シリーズから除外された「[[LET'S ONDO AGAIN]]」といった貴重な音源も含まれている。ただし、周年CD化記念時のボーナス・トラック類は除外され、オリジナル形態のみの販売となっている<ref>{{Cite news |title=大滝詠一、不朽の名作がiTunesで |newspaper=BARKS |date=2014-03-19 |author= |url=http://www.barks.jp/news/?id=1000101577 |accessdate=2014-03-21}}</ref>。
 
 
 
お別れ会の場で、大瀧の妻から最期の言葉が「ママありがとう」だったことが明かされ、直後に意識を失い、[[チアノーゼ]]も起こしていたという。救急隊の到着まで心臓マッサージを続けた(大瀧の妻は[[看護師]]だった)が、意識を取り戻すことがなくそのまま死亡したと臨終の状況が明かされている<ref>{{Cite news |url=http://www.oricon.co.jp/news/2035450/full/ |title=大瀧詠一さん、死去直前に妻に感謝の言葉 “最期の日”も仕事していた |newspaper=[[オリコン|ORICON STYLE]] |date=2014-03-21 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20140416094529/http://www.oricon.co.jp/news/2035450/full/ |archivedate=2014-04-16 |accessdate=2014-09-06 }}</ref>。
 
 
 
死後約1年経った[[2014年]][[12月3日]]には生前に山下達郎へ構想を語っていたオールタイムベストアルバム『[[Best Always]]』が発売。これには大瀧自身が密かにレコーディングしていた「夢で逢えたら」のセルフカバーが収録されている。大瀧の唄声による「新作」が発売されるのは実に11年ぶりとなった。また、発売が望まれていた「Niagara CD Book II」も遅れて[[2015年]][[3月21日]]に発売された<ref>{{Cite news |url=http://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2014/10/14/kiji/K20141014009099250.html |title=大滝詠一さん遺品の中に幻の音源…本人が歌う「夢で逢えたら」 |newspaper=[[スポーツニッポン]] |date=2014-10-14 |accessdate=2014-10-14}}</ref>。
 
 
 
== 人物・作風 ==
 
独自の音楽理論を持ち、[[1990年代]]に隆盛を誇った[[渋谷系]]のように他ミュージシャンからの引用が多いのが特徴。[[1950年代]]から[[1970年代]]にかけてのアメリカのポップス・ロック、イギリスのリバプールサウンド、日本の歌謡曲・演芸についての豊富な知識をもち、それらを駆使して制作される音楽トラックは、普通に聞こえても分析すると実は非常にマニアックであり、また、自作詞に関しては独特のおふざけが入っている。『[[ゴー・ゴー・ナイアガラ (ラジオ番組)|ゴー・ゴー・ナイアガラ]]』時代にリスナーから「あなたには悩みというものがないのですか?」というハガキが送られてきたという。なお、作品はおおまかに分けると、メロディタイプと言われる歌もの、[[コミックソング|ノベルティ]]タイプと言われるサウンド偏重ものの2種類に分かれる。
 
 
 
楽曲のマニアックさを語る一例として、ある人が大瀧に「あの曲は3つの曲からの剽窃ですね」と訊ねると彼は「その3つとあと2曲の5曲から出来てるけど、君は3曲しかわからなかったんだ」と言い返したというジョーク([[山下達郎]]がしばしばラジオでする話)や[[伊藤銀次]]がレコーディングに参加した際、有名曲のフレーズを音符を逆にして弾くのを強要されて唖然としたという。
 
 
 
なお、以上の経緯から「渋谷系のように過去の作品のいいところをつまみ食いしながら楽曲を作っている」と思われがちだが、本人曰く「最終的には+αのインスピレーションがないと曲が完成しない」とのことで、『EACH TIME』のレコーディング期には既にそのインスピレーションが尽きかけていたという。
 
 
 
発言に関しても独特のジョークが多々入っているのが特徴。ふざけているようで真面目だったり、真面目なようでふざけている発言を淡々とするタイプの人間であり、単純に発言を文字起こししてはいけない人物だった。特に有名なのが「2001年ナイアガラの旅」に纏わるものであり、1984年に「[[ミュージック・ステディ]]」の大滝詠一特集で「[[1988年]]に『ナイアガラトライアングル Vol.3』、[[1989年]]に『ナイアガラカレンダー '89(復刻版)』、[[1991年]]にはソロでの新作『1991』でレコード番号も1991を予約。[[1994年]]には『ナイアガラトライアングル Vol.4』、[[2000年]]に『ナイアガラトライアングルVol.5』、[[2001年]]に再びソロの新作として『2001年ナイアガラの旅』を発表、以上を'''予定している'''」という発言である。この発言を真に受けて泣いたファンは数多い。1990年代までは同様の発言を繰り返していたが、大瀧本人にその気は全くなく、[[山下達郎]]等にいざ追及される側になると「予定は未定だからね」「それより君の作品はどうなの?」とはぐらかしたり、新曲と称してドラムのカウント部分だけをレコーディングしたものを放送したりしていた。
 
 
 
また、他者への提供曲の[[セルフカバー]]を発表することに消極的で、ラジオ番組でリスナーにあるかどうか問われても、ないと上手くその存在をうやむやにしていた。また出しても歌詞を改作したり、新たなメロディーを追加して発表する例が多かった。
 
 
 
当初から他者への提供曲として製作されたものに限定すれば、歌詞の改作をしなかったセルフカバーは、[[沢田研二]]の「[[いくつかの場面|あの娘にご用心]]」だけであり、セルフカバーを作った理由も「曲数が足りなかったから」と言う不本意なものだった。
 
 
 
それ以外では[[スラップスティック (バンド)|スラップスティック]]の「デッキ・チェア」を歌詞を新たに[[松本隆]]に依頼して「スピーチ・バルーン」として、「海辺のジュリエット」は歌詞を新たに松本隆に依頼しただけでなく、新たにサビの部分のパートを作り「[[恋するカレン]]」としてセルフカバーされている。また、「さらばシベリア鉄道」は自身の曲としての製作中に[[太田裕美]]への提供を思いつき、それを実行したもので、「Bachelor Girl」は一旦自身の録音が完成しながら歌詞の内容への疑問から発表を見送り、それが解決した後に[[稲垣潤一]]への提供を行ったため、結果的に自身のバージョンがセルフカバーとして発表されたという経緯がある。
 
 
 
「[[夢で逢えたら]]」も生前、セルフカバーのマスターテープの存在は家族にしか明かしておらず死後、関係者がスタジオの整理をしている中で、本人がないと言っていたセルフカバーのテープが次々に発見されてCD化されている。
 
 
 
自身のラジオ番組で、自分の作品を特集する場合は「我田引水くんにお願いする」と言う様に別名を用いて大滝詠一として直接自分の作品を取り上げない演出をしていた。
 
 
 
=== 主な別名・変名 ===
 
独特のおふざけは数多くの変名にも反映されている。最初に名乗ったのは「ちぇるしぃ」で、大瀧が[[フォークソング|フォーク]]時代の細野晴臣と一緒に、「細野晴臣+α」名義でステージに上がった際に、[[ジョニ・ミッチェル]]の「[[チェルシーの朝]] (Chelsea Morning)」を歌ったところ、観客の中にいた「ジョン・セバスチャンとフォークロックを守る会」のメンバーから「チェルシー」と呼ばれるようになったのがきっかけ。
 
* 大滝栄一(デビュー当初のミュージシャン名)
 
* 大滝詠一(ミュージシャン名)
 
* イーチ大滝 ([[ディスクジョッキー|DJ]])
 
* [[多羅尾伴内]](アレンジャー、CM音楽作曲、ピアニスト、パーカッショニスト、ドラマー、作詞家、作曲家)
 
* ちぇるしぃ (CHELSEA)(アレンジャー)
 
* 笛吹銅次(レコーディングエンジニア、マスタリングエンジニア)
 
* RINKY O'HEN(アレンジャー)
 
* 多幸福(テレビドラマ関係者との共同ペンネーム)
 
* 南部半九郎(ベーシスト)
 
* イーハトヴ・田五三九(ドラマー)
 
* Jack Tones(多重録音コーラス時の一人コーラスグループ。グループ名は楽曲提供した[[キングトーンズ]]と、アメリカのコーラスグループQuin-tones、{{仮リンク|The Teen Queens|en|The Teen Queens}}から)
 
** 宿霧十軒 (Bass)(やどぎりじゅうけん、[[スティーヴ・マックイーン]]主演のTV映画「[[拳銃無宿]]」から)
 
** 我田引水 (Baritone)
 
** ちぇるしぃ (1st Tenor)
 
** 金田一幸助 (2nd Tenor)
 
* 遠山“桜吹雪”金五郎(「お花見[[メレンゲ (音楽)|メレンゲ]]」(『[[NIAGARA CALENDAR]]』)ヴォーカル)
 
* 国定公園(「名月赤坂マンション」(『NIAGARA CALENDAR』)ヴォーカル)
 
* 二宮損損(「座 読書」(『NIAGARA CALENDAR』)ヴォーカル)
 
* 坂本八(「お正月」(『NIAGARA CALENDAR』)ヴォーカル、[[坂本九]]のパロディー)
 
* トランク短井(「お正月」(『NIAGARA CALENDAR』)ヴォーカル、[[フランク永井]]のパロディー)
 
* 厚家羅漢(評論家、解説者)
 
* 鬼野盗作("ナイアガラ俳句友の会")
 
* 馬耳東風("信じられる耳を持つ努力をしよう会"会長)
 
* 吉川詠一
 
* ヤング大滝(ハナ肇とクレイジーキャッツ「実年行進曲」におけるクレジット)
 
* 桶二歌八(「邦子のアンアン小唄」スーパーバイザー)
 
(その他多数)
 
 
 
=== リズムへの傾倒 ===
 
ソロになって以降、ノベルティタイプの楽曲を製作する中で数多くのリズムを導入。特に[[メレンゲ (音楽)|メレンゲ]]([[ドミニカ共和国]]のダンスミュージック){{small|([[:en:Merengue (dance)|英語版]])}}は気に入ったようで、数度曲名にも使用されている。また、ニューオリンズのガンボミュージックに関しても日本においてはかなり早い時期に着目。[[細野晴臣]]に勧めて、細野のキャリアに強い影響を与えている。
 
 
 
しかし、最終的に日本のダンスミュージックなら音頭だろうという考えに辿り着き、[[音頭]]を積極的に発表するようになった。この考えに辿り着くまでは紆余曲折あり、きっかけは[[1973年]]に[[伊藤銀次]]から薦められた中原弓彦([[小林信彦]])の『日本の喜劇人』を読み、日本の喜劇史に興味を持ったこと。その後、大瀧は『ゴー・ゴー・ナイアガラ』時代に事務所に集うナイアガラマニアの若者に同書を必読書として勧めていた。その影響もあり、「音頭を作っては?」というハガキがラジオに送られてくることになり、前々から興味としてはあったものを実行に移した。
 
 
 
その後もコンスタントに音頭を製作。代表的なものに「ナイアガラ音頭」(アルバム『[[NIAGARA TRIANGLE Vol.1]]』収録)、「クリスマス音頭」(アルバム『[[NIAGARA CALENDAR]]』収録)、「[[ビックリハウス]]音頭」、[[片岡鶴太郎]]の『スリラー音頭』と『ビート・イット音頭』や[[角川博]]の「うさぎ温泉音頭」、更に[[金沢明子]]の「[[イエロー・サブマリン音頭]]」([[編曲]]: [[萩原哲晶]])のプロデュースなどがある。
 
 
 
=== レコーディングエンジニアとして ===
 
[[1973年]]から[[1979年]]までは[[レコーディング・エンジニア]]、ミキサー笛吹銅次としても活動。名前は[[吉野金次]]、[[伊藤銀次]]と来て次は「銅次」だということで、[[笛吹童子]]をもじったもの。
 
 
 
また、[[1974年]]には[[はちみつぱい]]唯一のシングル盤「君と旅行鞄{{small|(トランク)}} / 酔いどれダンスミュージック」にもレコーディング・エンジニアとして参加している。
 
 
 
福生45スタジオを拠点にしていたこともあり、ソニーに移籍後はエンジニア業からいったん離れたが、[[2000年代]]以降はラジオ番組を[[リマスタリング]]するようになり、[[2004年]]には福生45スタジオをリマスタリングの場として活用。その後発表された30th Anniversary盤は久々に笛吹銅次がエンジニアを手掛けている。
 
 
 
過去の作品は全て大瀧がエンジニアをしていると誤解されている事が多いが、ソニー移籍後はCD制作に関しては[[吉田保 (レコーディングエンジニア)|吉田保]]を中心とした外部のエンジニアを起用していた。ただし、その他の音源に関してはその限りではなく、福生45スタジオに録音テープを持ち帰り、自らオーバーダビングするという作業を度々行っていた。『[[幸せな結末]]』のストリングスバージョンなどは福生45スタジオで制作されたものである。
 
 
 
=== メディア出演 ===
 
[[テレビ]]嫌いとして知られており、はっぴいえんど時代こそ数度テレビ出演したものの、ソロになって以降は1970年代のエレック~コロムビア時代に数回出演しただけで、1981年にCBS・ソニーに移籍の上で活動を再開して以降は全くテレビに出ることはなく、[[1983年]][[3月24日]]の「[[笑っていいとも]]」への電話出演や、[[1986年]][[10月15日]]放映<ref>[http://columbia.jp/artist-info/hibari/COBA-6761-70.html 美空ひばり 宙(そらから)]</ref>の第6回[[日本作曲大賞]]に音声のみのコメントを残した程度であった。ただし、「テレビに出演するのが嫌い」という意味でのテレビ嫌いであり、テレビを見るのは大好きであり、[[1980年代]]後半~[[1990年代]]前半は自宅にビデオが20台以上あり、それが常時動いているというほどのテレビマニアだった。主に相撲と野球を好んでいた。[[テレビドラマ]]に関しては長年興味がなく、初めて全部見たテレビドラマが「[[ラブジェネレーション]]」。その後、[[宮藤官九郎]]作品にもはまっていたという。
 
 
 
メディア出演はほぼ[[ラジオ]]に限られる。1980年代前半まではレギュラープログラムを持っていたが、1980年代後半以降は単発的な特別番組の出演がメインになった。交友のある人物がDJもしくはパーソナリティーを務める番組へのゲスト出演も多数なされ、その中でも一番有名なのは、[[1984年]]から[[2011年]]まで[[山下達郎]]と行っていた[[山下達郎のサンデー・ソングブック|新春放談]]。この企画は当初の番組が無くなっても、交友の深いミュージシャンや音楽評論家の番組を間借りして急場をしのぎ、四半世紀以上続いた。
 
 
 
=== 勉強家として ===
 
諸芸能を始めとした様々な分野についての深い見識を持ち、交友関係が広いことでも有名である。自身は音楽の系譜についての勉強をライフワークとしているが(『分母分子論』『ポップス伝』のように紙上・ラジオ上でその成果を垣間みることができる)、音楽のみにとどまらず広い分野にまで“関連性”を基底に置いて研究していることが「勉強家」と称するゆえんである。
 
 
 
大瀧と同様に、日本の大衆音楽を研究しているミュージシャンに[[近田春夫]]がいるが、近田が多数の著書を発表しているのに対し、大瀧は<!--(こう記述する根拠を示せ)「後に残らず消えてしまう」-->ラジオ放送をメインの発表の場としている。
 
 
 
=== その後の音楽界に与えた影響 ===
 
ミュージシャン主導で自主レーベルを持つ、プロデュースのクレジットを入れる、[[CMソング]]をミュージシャンとして本格的に作る、シングルにカラオケバージョンを入れるなど先進的な活動を行い、これらは後にスタンダードになっている。
 
 
 
また、日本のポピュラー音楽に与えた影響には小さからぬものがあり、特に、山下達郎の一部の作品、[[渋谷系]]などへの影響を指摘する声もある<ref name="リアルサウンド">{{Cite news |title=さようなら大瀧詠一さん 日本のポップ史を変えた偉大な功績を振り返る |newspaper=リアルサウンド(インターネット・アーカイブのキャッシュ)|date=2014-01-01 |author= |url=http://realsound.jp/2014/01/post-232.html |archiveurl=https://web.archive.org/web/20140116101850/http://realsound.jp/2014/01/post-232.html |archivedate=2014-01-16}}</ref>。<!--また、{{独自研究範囲|早くからのCMソングの重視も、その後のニューミュージック・[[J-POP]]におけるテレビのCMや番組とのタイアップという路線の先駆をなしている|date=2012年6月}}。{{要出典範囲|音楽プロデューサーの[[小林武史]]もラジオではっぴいえんどを特集するなど、非常に影響を受けていると語っており、タイアップの話が持ち上がった際に大瀧の自宅まで出かけ相談したそうである|date=2012年6月}}。{{独自研究範囲|大瀧は小林の楽曲の良さを認めたうえで、「自分はここまで長く自分の曲を封印しているからこそ、自分の手だけで次曲を作りたい」というように、小林によると「気持ちよく断られた」とのことである|date=2012年6月}}。[[桑田佳祐]]は英語の発音から意味不明的な歌詞を作ることで有名だが、{{要出典範囲|「それは僕が先にやっていたんだよね」と語っており|date=2012年6月}}、実際、{{独自研究範囲|その様な歌詞は多く見られる|date=2012年6月}}。桑田はラジオで「こんばんわ、大瀧詠一です」とモノマネをすることもあった。また、大滝とは2度ステージでの競演経験があり、大滝の死去の際にはラジオで83年のコンサートのことを振り返り、故人を偲んだ。-->
 
 
 
=== エピソード ===
 
大瀧は小学校5年から中学校1年まで野球部に在籍していたこともあって、[[野球]]好きミュージシャンの一人でもあった。まだ[[衛星放送|CS衛星放送]]が普及していない頃から自宅にアンテナを取り付けて全国各地でのプロ野球中継を視聴していた<ref name="Ohtaki">{{Cite news|title=長嶋氏の大ファン大瀧詠一さん おさい銭33円|newspaper=スポニチAnnex(インターネット・アーカイブのキャッシュ)|date=2014-01-01|url=http://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2014/01/01/kiji/K20140101007304250.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20140102065842/http://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2014/01/01/kiji/K20140101007304250.html|archivedate=2014-01-02|accessdate=2014-01-02}}</ref>。また[[長嶋茂雄]]のファンとしても知られており、[[読売ジャイアンツ|長嶋ジャイアンツ]]の[[キャンプ (日本プロ野球)|キャンプ]]を見学するために[[宮崎市]]へ足を運んだこともあった<ref name="Ohtaki"/>。
 
 
 
== ディスコグラフィ ==
 
{{作品一覧|大瀧詠一の作品一覧}}
 
 
 
※オリジナル・アルバムに絞って記載。“NIAGARA TRIANGLEシリーズ”と“NIAGARA CM SPECIALシリーズ”、『[[LET'S ONDO AGAIN]]』、インストゥルメンタル・アルバムは除外。
 
{|class="wikitable" style="width:100%;font-size:small"
 
|-
 
! 発売日 !! タイトル !! [[オリコンチャート]]最高位
 
|-
 
! colspan="3" style="background-color:##e6e6e6;"|[[ベルウッド・レコード|Bellwood]] ⁄ [[キングレコード|KING]]
 
|-
 
| 1972年11月25日 || '''[[大瀧詠一 (アルバム)|大瀧詠一]]''' || 75位
 
|-
 
! colspan="3" style="background-color:##e6e6e6;"|[[ナイアガラ・レーベル|NIAGARA]] ⁄ [[日本コロムビア|COLUMBIA]]
 
|-
 
| 1975年5月30日 || '''[[NIAGARA MOON]]''' || 77位
 
|-
 
| 1976年10月25日 || '''[[GO! GO! NIAGARA]]''' || 41位
 
|-
 
| 1977年12月25日 || '''[[NIAGARA CALENDAR]]''' || 60位(1996年盤、オリジナル盤は不明)
 
|-
 
! colspan="3" style="background-color:##e6e6e6;"|NIAGARA ⁄ [[ソニー・ミュージックエンタテインメント (日本)|CBS/SONY]]
 
|-
 
| 1981年3月21日 || '''[[A LONG VACATION]]''' || 2位
 
|-
 
| 1984年3月21日 || '''[[EACH TIME]]''' || 1位
 
|-
 
! colspan="3" style="background-color:##e6e6e6;"|NIAGARA ⁄ Sony Music Labels Inc.
 
|-
 
| 2016年3月21日 || '''[[DEBUT AGAIN]]''' || 3位
 
|}
 
 
 
== トリビュート・アルバム ==
 
* 『[[ナイアガラで恋をして Tribute to EIICHI OHTAKI]]』
 
* 『A LONG VACATION from Ladies』
 
 
 
== 大瀧に影響を受けた著名人 ==
 
* [[鈴木雅之 (歌手)|鈴木雅之]]、[[ラッツ&スター]] - 鈴木たちがアマチュアの頃から大瀧の自宅へ行ったりと親交がある。96年の紅白で夢で逢えたらを披露した時には田代の間奏の台詞に大瀧が感動して泣いていたこともあった。
 
* [[岩崎元是]] - 元[[岩崎元是&WINDY]]のメンバーで、現在、[[アレンジャー]]、[[作曲家]]、[[キーボーディスト]]。大瀧が影響を受けたフィル・スペクターの「ウォール・オブ・サウンド」というアレンジ手法を用いている。
 
* 山口隆 - [[サンボマスター]]ボーカル、ギター。大瀧をリスペクトしており、対談したことがある。
 
* [[萩原健太]] - 音楽評論家で作曲家、プロデューサー。大瀧を敬愛しており、「ナイアガラ祭り」なるイベントを行っている。
 
* [[いとうせいこう]] - 2015年3月29日に[[NHK BSプレミアム]]で放送された「大瀧詠一ソングブック」で萩原健太と共にMCを務めた。
 
* [[さくらももこ]] - 大滝の長年のファン(最初の夫であった[[宮永正隆]]の影響も大きい)で、「[[ちびまる子ちゃん]]」のアニメが再開されるに当たってテーマソングを依頼した。そして作られたのが渡辺満里奈の「[[うれしい予感/針切じいさんのロケン・ロール|うれしい予感]]」である。
 
 
 
== 参考資料 ==
 
* All About Niagara(増補改訂版、白夜書房、2005年)
 
* 各アルバムのライナー・ノーツ
 
 
 
== 出演 ==
 
=== ラジオ ===
 
*[[ゴー・ゴー・ナイアガラ (ラジオ番組)|ゴー・ゴー・ナイアガラ]](ラジオ関東(現:[[アール・エフ・ラジオ日本]])[[1975年]][[6月23日]]から[[1978年]][[9月25日]])([[TBSラジオ]]([[1979年]][[10月14日]]から[[1980年]][[4月6日]]、[[1981年]][[10月10日]]から[[1983年]][[3月29日]])
 
*スピーチ・バルーン(1981年~1982年、[[エフエム大阪|FM大阪]]制作[[全国FM放送協議会|JFN]]系)
 
*新春放談(1983年~2011年)
 
**1月の第一週と二週に放送される[[山下達郎]]とのトークコーナーで、[[NHKFM]]「山下達郎の[[サウンドストリート]]」でスタートしたのを皮切りに、山下降板後は[[佐野元春]]や[[萩原健太]]の番組を間借りして続けられ、JFN系の「[[プレミアム3]]」を経て、「山下達郎のサンデーソングブック」まで続けられたが、大滝の地元岩手県が甚大な被害を受けた東日本大震災に伴って、2012年は放送されず、一旦幕が下ろされた。しかし、2013年12月30日の大滝の他界によって四半世紀に渡った山下との放談は完全に幕を閉じた。大滝が表舞台を去って、自身のアルバムのリマスターに徹する半隠居生活になって以降、唯一のラジオ出演であったため、これを聞かなければ近況や一年何をして過ごしていたか等大滝の動向を知ることはできなかった。
 
 
 
=== 映画 ===
 
*[[僕は天使ぢゃないよ]](脚本、監督:[[あがた森魚]])(1974年)
 
 
 
== 監修ビデオ、DVD ==
 
* [[クレージーキャッツ]] Deluxe
 
 
 
== 受賞  ==
 
* [[第23回日本レコード大賞]](1981年) - ベスト・アルバム賞「A LONG VACATION」
 
* [[第56回日本レコード大賞]](2014年) - 特別功労賞
 
 
 
== 書籍 ==
 
* All about Niagara 八曜社, 1982.1
 
* テレビの黄金時代 キネマ旬報社 1983.5 -小林信彦監修によるクレージー・キャッツ本。谷啓、小林信彦、大瀧詠一による座談会も収録。
 
* いちど話してみたかった─小林信彦デラックストーク 情報センター出版局 1983 -小林・大瀧の対談が収録。
 
* All about Niagara 白夜書房, 2001.3
 
* [[小林旭]]読本 歌う大スターの伝説 小林信彦と共同で責任編集 キネマ旬報社, 2002.3.
 
* 聖戦<small>サイキック 15thアニバーサリー</small> 座談会 文藝春秋、2003.8 ISBN 4163652604
 
* All about Niagara 増補改訂版 白夜書房, 2005.12
 
* 叱り叱られ 山口隆対談集 幻冬舎 2008.2 - 山口と大瀧の対談が収録。
 
 
 
== 脚注 ==
 
{{脚注ヘルプ}}
 
{{Reflist}}
 
 
 
== 関連項目 ==<!--
 
*[[ゴー・ゴー・ナイアガラ]]
 
* [[ナイアガラ・フォール・オブ・サウンド・オーケストラ]]-->
 
* [[三ツ矢サイダー]]
 
* [[エルヴィス・プレスリー]]
 
* [[フィル・スペクター]]
 
* [[ハナ肇とクレージーキャッツ]]
 
* [[萩原哲晶]]
 
* [[岩手県出身の人物一覧]]
 
* [[日本語ロック論争]]
 
* [[小林信彦]]
 
* [[高信太郎]] -70年代に音楽雑誌の対談で知り合い、「ナイアガラ予言者」「ナイアガラ大滝登り」などの漫画を描いた。
 
* [[朝妻一郎]]
 
* [[誠のサイキック青年団]] ラジオ番組 リスナー
 
<!--*[[大森明男]] - [[三ツ矢サイダー]]などのCMソング制作を多数依頼した人物-->
 
* [[ダブル・オーレコード|Oo Records]] - 大瀧詠一が取締役を務めたレコード会社。1997年にソニー・ミュージックエンタテインメントに吸収
 
  
 
== 外部リンク ==
 
== 外部リンク ==
 
* {{URL|www.fussa45.net/|Ami-go Gara-ge}} - 公式サイト
 
* {{URL|www.fussa45.net/|Ami-go Gara-ge}} - 公式サイト
* [http://www.sonymusic.co.jp/artist/EiichiOhtaki/ 大滝詠一] - ソニーミュージックによる公式ページ
 
* [http://www.radiodays.jp/artist/show/137 ラジオデイズ] - 2008年から、大滝と[[内田樹]]、ライヴカフェ「Again」店主[[石川茂樹]]、ラジオデイズプロデューサー[[平川克美]]による対談を毎年有料配信していた。現在も一部無料で試聴可能。
 
  
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{{DEFAULTSORT:おおたき えいいち}}
  

2019/7/3/ (水) 10:04時点における最新版

大瀧 詠一大滝 詠一(おおたき えいいち、本名:大瀧 榮一、1948年 - 2013年)

音楽家。岩手の生まれ。昭和45年(1970)に、ロックバンド「はっぴいえんど」のメンバーとしてデビュー。ロックミュージックを日本語の歌詞で歌う様式が当時話題となった。後に自身のレーベル「Niagara」を設立し、ソロとして活躍。作曲家としての代表作に「冬のリヴィエラ」「風立ちぬ」など。

外部リンク



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