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{{基礎情報 過去の国
 
|略名 = 夏
 
|日本語国名 = 夏
 
|公式国名 = 夏
 
|建国時期 = 前2070年頃
 
|亡国時期 = 前1600年頃
 
|先代1 = 三皇五帝
 
|先旗1 = blank.png
 
|次代1 = 殷
 
|次旗1 = blank.png
 
|位置画像 = Xia dynasty.svg
 
|位置画像説明 = 夏の領域。
 
|公用語 = 漢語([[中国語]])
 
|首都 = [[登封市|陽城]]
 
|元首等肩書    = (君主)
 
|元首等年代始1 =
 
|元首等年代終1 =
 
|元首等氏名1 = [[禹]]
 
|元首等年代始2 =
 
|元首等年代終2 =
 
|元首等氏名2 = [[桀]]
 
|変遷1 = 建国
 
|変遷年月日1 = 前1900年頃
 
|変遷2 = 滅亡
 
|変遷年月日2 = 前1600年頃
 
}}
 
{{中国の歴史}}
 
'''夏'''(か、[[紀元前1900年]]頃 - [[紀元前1600年]]頃<ref>紀元前2000年頃からとする説もある。</ref>)は、[[中国]]の史書に記された最古の[[王朝]]。'''夏后'''ともいう。夏・[[殷]]・[[周]]を[[三代 (中国史)|三代]]という。『[[史記]]』『[[竹書紀年]]』などの史書には初代の[[禹]]から末代の[[桀]]まで14世17代、471年間続いたと記録されている。[[殷]]に滅ぼされた。従来、伝説とされてきたが、近年、考古学資料の発掘により実在の可能性もある。
 
  
== 考古学的比定 ==
+
'''夏'''(か、[[紀元前1900年]]頃 - [[紀元前1600年]]頃<ref>紀元前2000年頃からとする説もある。</ref>)
=== 夏の実在性 ===
 
従来、史書に記された夏の実在性を確実に示す[[考古学]]上の発見が無く、伝説上の王朝とされてきた。
 
  
しかし、宮殿を持つ都市文化である[[河南省]]偃師の二里頭村の[[二里頭遺跡]]が、[[炭素14年代測定法]]により、[[殷]]の建国([[二里岡文化]])に先行していることが確定しており、また後から力を伸ばした[[殷]]はこの[[二里頭文化]]を征服して建国し、文化を継承した形跡が見られる。したがって<!--河南省[[新密市]]の[[新砦遺跡]]なども含む-->この[[二里頭文化]]が、史書のいう夏の時代に相当することになる。
+
中国の伝説上の最初の王朝。姓はじ。『[[史記]]』によると禹王より 17代,約 500年ぐらい続いたという。[[禹]]は鯀 (こん) の子で,帝[[]]に仕えて水土を司り,黄河の治水に成功し,天下の土地を測量して貢物を定め,舜の禅譲を受けて夏王朝を建てた。禹から 17代目にあたる桀は暴君で奢侈淫逸にふけり,商 () の成湯に滅ぼされたという。夏の後裔といわれる杞が周代の諸侯国として存したが,夏そのものの実在は現在までのところ確証はなく,偃師二里頭期と考える者もあるが,依然として不明である。
<!--近年、[[炭素14年代測定法]]により、[[河南省]]偃師の二里頭村の[[二里頭遺跡]]や河南省[[新密市]]の[[新砦遺跡]]などに痕跡を持つ[[二里頭文化]]が夏の時代に相当する年代のものと略確定するなど、史書のいう「夏」は二里頭文化に比定される。-->
 
 
 
しかし二里頭の都市文化は、文字の出土資料もなく、後世の概念である王朝・国家の性格を持っていたのかも不明である。<!--二里頭文化が史書が示す「夏王朝」と同じである訳ではなく、史書のいう「夏王朝」には戦国時代以降の思想が多分に紛れ込んでおり、二里頭文化が構成した「夏」が、王朝・初期国家としての実質を持ったものであるかという意味では疑問が多い。-->考古学的に『「夏」と後世に呼ばれた政権が実在した事』を証明された事と、史書のいう『「夏王朝」が実在した事』を混同してはならない{{Sfn|宮本一夫|2005|pp=307&ndash;366p}}。
 
 
 
<!--『[[史記]]』などを始めとする中国の史書での記載が理由なき記載ではない事、また近年の考古学の実績から、夏王朝が実在していた可能性もあり、-->現代の中国史・考古学学界では夏王朝が実在したものと見なされている<ref>[[#岳南 2005|岳南 2005]]</ref>。
 
 
 
=== 二里頭遺跡 ===
 
{{main|二里頭遺跡}}
 
{{出典の明記|section=1|date=2012年10月}}
 
二里頭遺跡は[[新石器時代]]の遺跡で、掘り出された住居の跡から'''人口2万人以上'''と推定される。当時としては世界有数の大規模集落。トルコ石で表現された[[龍]]、[[銅爵]](どうしゃく)、宮殿区、龍の文様の入った[[玉璋]](ぎょくしょう)が発掘されている。
 
 
 
「宮殿区」の南門近くにある「一号宮殿」は、回廊に囲まれ、内部に広い空間「中庭」、正面に「正殿(せいでん)」を配する構造となっている。この構造は、後の中国歴代王朝の[[宮殿]]構造に近く、歴代王朝ではここで'''宮廷儀礼'''を行っていることから、宮廷儀礼もここから始まったとも考えられる。
 
 
 
ヒスイの龍は、二里頭文化以前に栄えた[[遼河]]流域の[[興隆窪文化]]、[[紅山文化]]でも発掘されており、遼河流域の文化の影響が及んでいることが示唆される。龍は歴代王朝は王の権威の象徴として用いられていること、歴代王朝の宮殿と類似する宮殿跡などから、二里頭文化が歴代王朝に影響を与えた文化だと考えられ、二里頭文化こそ夏王朝だとする学者も多い。
 
 
 
また、二里頭遺跡周辺の当時の土壌に残る種子の分析から、[[粟]](あわ)、[[キビ|黍]]、[[小麦]]、[[大豆]]、[[水稲]]の[[五穀]]を栽培していた痕跡がある。これにより、気候によらず安定した食料供給が可能となったと考えられる。これが、それまでに衰退した[[中国の新石器文化の一覧|他の中国の新石器時代に起こった各文化]]との違いであり、その後の[[殷|商]](殷)とも推定される[[二里岡文化]]へと繋がる中国文化の源流となったとも言われる。
 
 
 
== 歴史 ==
 
以下は主に『史記』「夏本紀」、『[[竹書紀年]]』による。
 
 
 
=== 禹の創業 ===
 
夏王朝の始祖となる[[禹]]は、[[五帝]]の一人[[センギョク|顓頊]]の孫である。帝[[堯]]の時代に、禹は大洪水の後の[[治水]]事業に失敗した父の後を継ぎ、[[舜]]帝に推挙される形で、[[黄河]]の治水事業に当たり、功績をなし大いに認められた{{要出典|date=2017年8月}}。2016年8月に科学雑誌『[[サイエンス]]』に掲載された研究結果によると、この大洪水は紀元前1920年に起こったという<ref>{{Cite journal |url=http://science.sciencemag.org/content/353/6299/579 |title=Outburst flood at 1920 BCE supports historicity of China’s Great Flood and the Xia dynasty |journal=Science |date=2016-08-05 |volume=353 |issue=6299 |pages=pp. 579-582 |doi=10.1126/science.aaf0842 |language=英語 |accessdate=2016-08-05 }}</ref><ref>{{Cite news |author=Greshko, Michael文、高野夏美訳 |url=http://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/16/a/080800048/ |title=解説:黄河に古代の大洪水跡、伝説の王朝が実在? 「ノアの大洪水に相当するほど重要」と研究者、中国最古の夏王朝の裏づけか |work=[[ナショナルジオグラフィック (雑誌)|ナショナル ジオグラフィック]] 日本版 |date=2016-08-09 |accessdate=2016-09-09 }}</ref><ref>{{Cite news |author=Sheridan, Kerry |url=http://www.afpbb.com/articles/-/3096402 |title=中国・伝説の大洪水、初の証拠を発見 文明史書き換えか |newspaper=[[フランス通信社|AFP]] |language=日本語 |date=2016-08-05 |accessdate=2016-09-09 }}</ref>。
 
 
 
舜は人望の高かった禹を後継者と考えていた。舜の[[崩御]]後3年の[[喪]]に服した禹は、舜の子である[[商均]]を帝位に就けようとしたが、[[諸侯]]が商均を舜の後継者と認めなかった為に禹が帝位に即位し、陽城(現在の[[登封市]])に都城を定めた。禹は姓は'''姒'''(じ)と称していたが、王朝創始後、氏を'''夏后'''とした。
 
 
 
禹は即位後暫くの間、武器の生産を取り止め、田畑では収穫量に目を光らせ農民を苦しませず、宮殿の大増築は当面先送りし、関所や市場にかかる諸税を免除し、地方に都市を造り、煩雑な制度を廃止して行政を簡略化した。その結果、中国の内はもとより、外までも[[朝貢]]を求めて来る様になった。更に禹は河を意図的に導くなどして様々な河川を整備し、周辺の土地を耕して草木を育成し、中央と東西南北の違いを旗によって人々に示し、古のやり方も踏襲し全国を分けて[[九州 (中国)|九州]]を置いた。禹は倹約政策を取り、自ら率先して行動した。
 
『[[竹書紀年]]』に依れば、45年間帝であったという。即位後、[[皋陶]]に政治の補佐をさせたが、皋陶の死去に伴い[[益 (中国神話)|益]]による朝政の補佐が行われた。
 
 
 
尚、「禹」という文字は本来[[トカゲ|蜥蜴]]や[[鰐]]・[[竜]]の姿を描いた[[象形文字]]であり、禹の起源は黄河に棲む水神だったといわれている<ref group="注釈">[[白川静]]は禹は当初は魚の姿をした神格だったという仮説を立てた{{要出典|date=2016-09-09}}。</ref>。この神話から、禹及び夏人は南方系の海洋民族であったと想定する説もあり、その観点からも多数の研究書がある。
 
 
 
=== 最初の世襲王朝 ===
 
禹の[[崩御]]後、益が後継者とされていたが、益が執政に慣れていない事もあり、諸侯は禹の子である[[啓]]を帝位に就けた。これが中国史上最初の帝王位の世襲とされる。帝位に就いた啓は、[[有扈氏]]が服従しなかった為に討伐を加えている。
 
 
 
啓の崩御後、子の[[太康 (夏)|太康]]が帝位を継承したが、『史記』に依れば「国を失った」と記録されるなど国勢の衰退が見られる。太康の5人の弟たちは「五子之歌」を作った。
 
{{quotation|「子帝太康立。帝太康失国、昆弟五人、須于洛汭、作五子之歌」|「五子之歌」|『史記』「夏本紀」より}}
 
この五子之歌は『[[書経|尚書]]』に記されており、その内容は太康が戻らない事を弟達が恨んだ歌である。この歌より太康が遊楽に耽り朝政を省みなかった為に国を追放されたのだと解釈されている([[孔安国]])。
 
 
 
太康の崩御後、弟の[[中康]]が後を継いだ。中康の時に諸侯の羲氏と和氏が淫楽に耽っていたので、[[胤]](胤は名前とも、国の名前とも云う)に命じ羲氏と和氏を討伐している。
 
 
 
『史記』には、中康の後の帝達についての事跡は特に伝えられていない。
 
 
 
=== 夏の衰退と滅亡 ===
 
中康の11代後の[[孔甲]]は、性格が淫乱であり、自分を鬼神に擬する事を好み、人心は夏王朝から離れていったと記録され、夏朝の徳治にも翳りが出たとされている。
 
 
 
又、[[桀]]は人徳に欠け、武力で諸侯や民衆を押さえ付けた事で人心の離反を招いた。又、商の[[天乙]] (湯) を呼び出し[[夏台]]に投獄している。天乙は後に赦されると徳を修めたので、諸侯がその下に集まり、遂には桀を倒した({{仮リンク|鳴条の戦い|zh|鸣条之战}})。桀は[[鳴条]]に逃げたが客死した。この桀に関する伝説は殷の[[帝辛]](紂)のそれと酷似しており、後世になって作られた伝説であるとも言われる。
 
 
 
天乙は帝位に即位すると夏の血を引く者を[[夏亭]](『[[史記正義]]』による)に封じた。[[周]]代に於いては、[[杞]]に於いて諸侯に封じられている。
 
 
 
=== 建国:黄帝の三苗征服伝説との対応 ===
 
『[[墨子]]』五巻には夏と[[三苗]]([[ミャオ族]])<ref group="注釈">現代のミャオ族と、先史時代の伝説に記載された三苗や、楚や呉を構成した民族との関連性はまだ確定していない{{要出典|date=2016-09-09}}。</ref>に関する伝説が記載されている。
 
 
 
三苗(サンミャオ)時代に、夜に太陽が現れ、血の雨が三日間降った。龍が寺に現れ、犬は通りで吠えた。夏の水は氷になり、大地は裂け、水が噴き出した。五穀は変異した。天はミャオ族に克服を課した。雷が連続し、鳥をともなった者がミャオ族の指導者を射た。後、夏王国は建国した。
 
 
 
このミャオ族と夏の建国に関する伝説については、他の史書での記載と対応させると、以下のようになる<ref>[[#劉ウェイ編 2006|劉ウェイ編 2006]] {{要ページ番号|date=2016-09-09 }} ほか{{要出典|date=2016-09-09 }}</ref>。
 
 
 
[[紀元前26世紀]]頃、[[神農]]時代、[[華夏族|華夏民族]]の君主・[[黄帝]]が[[蚩尤]](『{{仮リンク|路史|zh|路史|en|Lushi (book)}}』によると[[羌]]が姓とされる)民族の討伐作戦を行い([[タク鹿の戦い|涿鹿の戦い]])、[[タク鹿県|涿鹿]]で破った。戦いは黄河の台地で行われた。蚩尤は濃霧を起こして華夏軍を苦しめたが、黄帝は[[指南車]]を使って方位を示し、蚩尤民族を破った。この時、他に蚩尤に味方したのは勇敢で戦の上手い'''九黎族'''<ref group="注釈">[[リー族|黎族]]又[[ミャオ族]]の祖先といわれる{{要出典|date=2016-09-09 }}。</ref>、巨体の'''夸父族'''だった。敗れた蚩尤民族はミャオ族と[[リー族|黎族]]に分裂し、ミャオ族は四散した。一部は[[周]]代に華夏民族と同化し、一部の部族は春秋の強国である[[楚 (春秋)|楚]]や[[呉 (春秋)|呉]]の建国に関わった。中国では楚は異民族の国とされている。[[六朝]]時代に揚子江南部を支配していた南朝は北方民族の侵入に苦しめられており、あまりミャオ族を歓迎しなかったが、[[五胡]]による揚子江北部の破壊により、ミャオ族が大量に南朝の領域に入ってきた。漢民族と同化する事もあった。
 
 
 
[[先秦]]時代、苗族は、苗民、尤苗(ヨウミャオ)、三苗(サンミャオ)と呼ばれ、[[長江|揚子江]]流域に住んでいた。[[長江文明]]に属すると見られる三苗は[[屈家嶺文化]]及び[[石家河文化]]付近を本拠地としていたと見られる<ref>[[#劉ウェイ編 2006|劉ウェイ編 2006]] {{要ページ番号|date=2016-09-09 }}</ref>。三苗は母系集団であり、[[黄河]]流域の[[中原]]に依拠した父系集団の[[龍山文化]]と対立した。この龍山文化集団が夏王朝に繋がる遊牧民族的な父系集団と見られる。中原地域は[[黄帝]]と[[炎帝]]の活躍した地域で、炎黄集団は[[仰韶文化]]後期に一度衰退し、[[龍山文化]]期に復興し三苗民族を征服した後、夏王朝を興す。黄帝の三苗征服伝説は、黄河文明と長江文明の勢力争いを描いたものと考えられる<ref>[[#劉ウェイ編 2006|劉ウェイ編 2006]] {{要ページ番号|date=2016-09-09 }}</ref>。
 
 
 
長江中流域の[[屈家嶺文化]](紀元前3000年 - 紀元前2500年)・下流域の[[良渚文化]](紀元前3300年 - 紀元前2200年)の時代を最盛期として、後は衰退し、中流域では黄河流域の[[二里頭文化]](紀元前2100年頃 - 紀元前1500年頃)が移植されている。
 
 
 
== 後継民族・国家 ==
 
夏の後継といわれ、またそのように自称した民族に以下がある。
 
;[[禹]]
 
:[[河南省]]禹州市は[[紀元前1世紀]]になっても夏人の町として有名だった。『[[史記]]・貨殖列伝』では、[[潁川郡|潁川]](えいせん)と[[南陽郡|南陽]]は夏人の居。潁川は秦末期に、一部の民を南陽に移した。南陽は西は[[武関]]に通じ、東南は[[漢江]]、[[長江]]、[[淮河]]を受ける。宛(えん・南陽市)は亦[[都会]]で、その風俗は奇矯、職業は商人が多く、彼等は任侠で潁川と交通するので、夏人と呼ばれていると記されている<ref name="岡田2004p46">{{Harvnb|岡田英弘|2004|p=46}}</ref>。
 
;[[杞|杞国]]
 
:[[杞県]]に在ったとされる。
 
;[[越|越国]]
 
:[[福建省]]、[[広東省]]、[[広西省]]から[[ベトナム]]北部にかけて活動していた越人は夏人の末裔を自称していた。また[[禹]]の墓があると伝承される[[会稽山]]は越人の聖地でもある。紀元前333年、越国は[[楚 (春秋)|楚]]に滅ぼされ越人は四散した。
 
;[[百越]]
 
;[[倭]]
 
:倭人・倭族は百越の一族ともされ、また越人の一部は倭国に渡来したとされる(下記「[[#倭国との関連]]」参照)。
 
;[[匈奴]]
 
:『史記』『漢書』「匈奴列伝」に依れば、匈奴の先祖は[[夏后氏]]であり、この夏后氏は夏王朝の一族である。名を淳維といい、夏后淳維といった<ref>[[#内田吟風ほか訳注 1971|内田吟風ほか訳注 1971]] {{要ページ番号|date=2016-09-09 }}</ref><ref>[http://www2u.biglobe.ne.jp/~dnak/sangoku/kyoudo3.html 後漢書六夷伝のうち南匈奴伝] 2009年9月16日閲覧 {{リンク切れ|date=2016-09-09}}</ref>。
 
 
 
== 夏の帝の一覧 ==
 
{| class="wikitable"
 
!日名([[諡号]])!!諱!!在位年数!!備考
 
|-
 
| 禹 || [[禹|文命]] || 10 || [[鯀]]の子
 
|-
 
| - || [[啓]] || - || 禹の子
 
|-
 
| [[太康 (夏)|太康]]{{mn|coa_1|1}} || (不詳) || - || 啓の子、失国する。
 
|-
 
| [[中康]] || (不詳) || - || 太康の弟
 
|-
 
| - || [[相 (夏)|相]] || - || 中康の子
 
|-
 
|   || (無王) || 40 || [[東夷]]の[[寒サク|寒浞]]は[[簒奪|簒位]]する。
 
|-
 
| [[少康]] || (不詳) || - || 相の子
 
|-
 
| - || [[予 (夏)|予]] || - || 少康の子、[[中興]]する。
 
|-
 
| - || [[槐 (夏)|槐]] || - || 予の子
 
|-
 
| - || [[芒 (夏)|芒]] || - || 槐の子
 
|-
 
| - || [[泄 (夏)|洩]] || - || 芒の子
 
|-
 
| - || [[不降]] || - || 洩の子
 
|-
 
| - || [[ケイ (夏)|扃]] || - || 不降の弟
 
|-
 
| 胤甲 || [[キン (夏)|廑]] || - || 扃の子
 
|-
 
| [[孔甲]] || (不詳) || - || 不降の子、廑の従兄弟
 
|-
 
| - || [[皐 (夏)|皐]] || - || 孔甲の子
 
|-
 
| - || [[発]] || - || 皐の子
 
|-
 
| 桀 || [[桀|履癸]] || - || 発の子
 
|-
 
|}
 
{{mnb|coa_1|1}}「康」=「[[庚]]」。
 
 
 
== 文字 ==
 
{{main|'''夏文字'''}}
 
 
 
殷の甲骨文字の様な文字体系を所持していたかは未だ不明であるが、考古学者の徐中舒が、{{仮リンク|巴蜀文字|zh|巴蜀图语}}を夏文字の名残りなのではないかとする見解を出し、更に[[徐朝龍]]は著書『長江文明の発見』に於いて以下の様なシナリオ・仮説を提出している<ref>{{Harvnb|徐朝竜|1998|p=}} {{要ページ番号|date=2016-09-09 }}</ref><ref name="松岡正剛千夜一夜">{{Cite web |author=松岡正剛 |url=http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0331.html |title=第三百三十一夜 徐朝龍 長江文明の発見 |work=松岡正剛の千夜千冊 |date=2001-07-09 |accessdate=2009-09-20 }}</ref>。
 
 
 
[[良渚文化]]は稲作都市文明を形成していた。1000年ほどの繁栄を経て、洪水でこの文化は崩壊する。良渚文化集団の一部は北上し、黄河中流域で夏王朝を興した。この変遷過程で、良渚文化に誕生していた図像[[文字]]([[絵文字|絵文字グラフィティ]])は様々な習合を経て北方の黄河中流域に持ち込まれ、一度は夏王朝の文字となり、そこで甲骨文字と接触した{{refnest|group="注釈"|[[松岡正剛]]はこの二種文字の接触及び衝突を「文字戦争」と呼んでいる<ref name="松岡正剛千夜一夜" />。}}。
 
 
 
軈て夏王朝は支配下に在った[[東夷]][[后羿]](こうげい)部族に倒される。夏王朝の遺族の一部は北西に逃れ(下記[[匈奴]]参照)、後[[四川盆地]]に移住し、[[三星堆遺跡|三星堆文化]](古蜀国)を築いた。のち良渚文字は、[[巴]]族や[[蜀]]族によって加工され、巴蜀文字となった。
 
 
 
== 名称・呼称 ==
 
「夏」という王朝名は後世の呼称である。<!--次王朝の殷王朝による呼称であり{{要出典|date=2015年6月}}、夏自身による実際の自称は不明である(「殷」も次王朝の[[周]]による呼称である)。これは史書の記述を十分に客観的なものとみなす事は出来ないためであり、史書編纂が当時の国家の政策でもあった事から、政治的[[バイアス]]を差し引いて読解しなくてはならないからである。とは言え、史書の記述は先史時代の分析の手がかりとして重要である事は変わらない。今後も、考古学的分析と史書の記述との対応の分析が待たれる。下記の学説はあくまで[[仮説]]であり、完全に実証されたものではない。-->
 
 
 
漢字学者の[[藤堂明保]]は、「夏」の字を甲骨文字・金文からの形成の変遷を分析した上で、「大きい人(鎧をつけた大柄なひと)」という美称ではないかとの説を提出している<ref>{{Harvnb|藤堂明保|2006|p= }} {{要ページ番号|date=2016-09-09}}</ref>。
 
 
 
[[岡田英弘]]の解釈に依れば、夏(か)とは「賈(か)、価(か)、牙(が)」と同音で商売を意味し{{Sfn|岡田英弘|1977|p=14}}、元は[[洛陽]]盆地の首都から来た商人・貿易者が夏人(賈人)であり、その使用言語を夏語(雅語)といい、元々現在の[[インドシナ半島]]の諸民族の言語に近い「夷」の言語(南方系言語)を基礎にしたものであったとする。
 
 
 
古代中国の史書では洛陽盆地から見た非中国人を夷狄戎蛮とするが、これはそれぞれの方角の住居地による呼称である。南蛮は河南省西部・[[四川省]]東部・[[湖北省]]・[[湖南省]]西部の焼畑農耕民を指し、西戎は[[甘粛省]]南部などの遊牧民、北狄は山西高原や[[内蒙古]]の狩猟民を指し(この地域は古くは森であった)、東夷は黄河や淮河のデルタ地帯の農耕漁労民を指す。岡田は史記での記述や夏人伝承の分布地などから、また史書に記述される夏人が龍を祖先神とする事などから、東夷を夏人とし、水上民族であったのではないかとする<ref name="岡田2004p46" />。
 
 
 
又「夷」は「大」(人の象形)と「弓」(「己」、縄の象形)を合成したもので、音を「てい」とする「低」「底」などの文字と類似文字であり、「低地人」を意味するとした上で、中原へ北方高原からの「狄(てき)」が侵攻し、夏を滅ぼし殷を建てたとする。『史記』「殷本紀」に依れば、殷の高祖母神は[[簡狄]](かんてき)といい、[[有娀氏]]つまり戎、草原遊牧民であった{{Sfn|岡田英弘|2004|p=49&ndash;51}}。
 
 
 
== 倭国との関連 ==
 
[[岡田英弘]]は夏及びその後継と言われる[[河南省]]の禹県や[[杞県]]にあったとされる[[杞|杞国]]などを参照しながら、「夷」と呼ばれた夏人が長江や[[淮河]]流域の東南アジア系の原住民であった事や、[[禹]]の墓があると伝承される[[会稽山]]が[[越]]人の聖地でもあり、[[福建省]]、[[広東省]]、[[広西省]]から[[ベトナム]]北部に掛けて活動していた越人が夏人の末裔を自称している事、また[[周]][[顕王 (周)|顕王]]36年([[紀元前333年|前333年]]、[[楚 (春秋)|楚]][[威王 (楚)|威王]]7年)[[越|越国]]が[[楚 (春秋)|楚]]に滅ぼされ越人が四散した後[[秦]][[始皇帝]]28年([[紀元前219年|前219年]])に[[琅邪郡|琅邪]](ろうや)を出発したといわれる[[徐福]]の伝承などを示した上で、後[[燕 (春秋)|燕]]人が[[朝鮮半島]]に進出する前にこれら越人が[[日本列島]]に到着したのだろうと推定する{{Sfn|岡田英弘|1977|p=13}}。
 
 
 
* 「[[禹]]」の紋の法被―[[慶長宗論]]、[[慶長法難]]で知られる[[法華宗]][[不受不施派]]の僧・[[日経]]の故郷(現在の[[茂原市]])には、大きな「[[禹]]」の紋が背に縫い付けられた法被が遺っている。その法被を着る祭には、黒戸の獅子舞がある。
 
 
 
== 脚注 ==
 
{{脚注ヘルプ}}
 
=== 注釈 ===
 
{{reflist|group="注釈"}}
 
 
 
=== 出典 ===
 
{{reflist|2}}
 
 
 
== 史書 ==
 
*『[[淮南子]]』
 
*『[[漢書]]』
 
*『[[国語 (歴史書)|国語]]』
 
*『[[山海経]]』
 
*『[[春秋左氏伝]]』
 
*『史記』「夏本紀」
 
*『[[竹書紀年]]』
 
*『[[書経|尚書]]』
 
*『[[呂氏春秋]]』
 
*『[[墨子]]』五巻。
 
*『[[孟子]]』
 
*『[[戦国策]]』
 
 
 
== 参考文献 ==
 
<!--この節には、記事本文の編集時に実際に参考にした書籍等のみを記載して下さい。
 
書籍の宣伝目的の掲載はおやめ下さい。-->
 
* {{Cite book |和書 |others=稲畑耕一郎監修 |editor=劉ウェイ編 |title=図説中国文明史 1 先史 文明への胎動 |publisher=[[創元社]] |date=2006-11 |isbn=978-4-422-20252-5 |ref=劉ウェイ編 2006 }}
 
* {{Cite book |和書 |others=内田吟風ほか訳注 |title=騎馬民族史 - 正史北狄伝 1 |publisher=[[平凡社]] |series=[[東洋文庫 (平凡社)|東洋文庫]] 197 |year=1971 |id={{全国書誌番号|73019715}} |isbn=978-4-582-80197-2 |ref=内田吟風ほか訳注 1971 }}
 
* {{Cite book |和書 |author=岡田英弘 |title=倭国 - 東アジア世界の中で |publisher=[[中央公論新社|中央公論社]] |series=[[中公新書]] 482 |year=1977 |isbn=978-4-12-100482-6 |id={{全国書誌番号|77011846}} |ref=harv}}
 
* {{Cite book |和書 |author=岡田英弘 |title=中国文明の歴史 |publisher=[[講談社]] |series=[[講談社現代新書]] 1761 |year=2004 |date=2004-12 |isbn=978-4-06-149761-0 |ref=harv }}
 
* {{Cite book |和書 |author=岳南 |title=千年学案 - 夏商周断代工程紀実 |year= |ref= }}
 
:上記の日本語訳:{{Cite book |和書 |author=岳南 |others=朱建栄、加藤優子訳 |title=夏王朝は幻ではなかった - 1200年遡った中国文明史の起源 |publisher=[[柏書房]] |date=2005-05 |isbn=978-4-7601-2729-0 |ref=岳南 2005 }}
 
* {{Cite book |和書 |author=藤堂明保 |title=漢字の起源 |publisher=講談社 |series=[[講談社学術文庫]] 1792 |year=2006 |date=2006-11 |isbn=978-4-06-159792-1 |ref=harv }}
 
* {{Cite book |和書 |author=宮本一夫 |title=中国の歴史1 神話から歴史へ 神話時代 夏王朝|publisher=講談社|year=2005|isbn=4-0627-4051-6 |ref=harv}}<!--2009年9月16日 (水) 11:46 (UTC)-->
 
* {{Cite book |和書 |author=徐朝竜 |title=長江文明の発見 - 中国古代の謎に迫る |publisher=[[角川書店]] |series=角川選書 290 |year=1998 |date=1998-02 |isbn=978-4-04-703290-3 |ref=harv }}
 
 
 
== 関連書籍 ==
 
{{Notice|style=question|1=『古代中国』『中国文明の成立』『苗族民話集 中国の口承文芸2』の3冊は加筆と同時に掲載された書籍のようですが、加筆時に実際に参考にした書籍(参考文献)ではないのですか?|date=2016年9月9日 (金) 14:58 (UTC)}}
 
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* {{Cite book|和書|author=[[岡村秀典]]|title=夏王朝 - 中国文明の原像|publisher=講談社|series=講談社学術文庫|year=2007|isbn=978-4-06-159829-4}}<!--2007年9月23日 (日) 07:08 (UTC)-->
 
* {{Cite book|和書|author=[[貝塚茂樹]]|coauthors=[[伊藤道治]]|title=古代中国|edition=第四版|series=講談社学術文庫|year=2001|isbn=4-0615-9419-2}}<!--2009年9月16日 (水) 15:45 (UTC)-->
 
* {{Cite book|和書|author=松丸道雄|coauthors=永田英正|title=中国文明の成立|publisher=講談社|year=1985|isbn=4-0618-8505-7}}<!--2009年9月16日 (水) 15:45 (UTC)-->
 
* {{Cite book|和書|title=苗族民話集 中国の口承文芸2|others=村松一弥 編訳|publisher=平凡社|series=東洋文庫|year=2003|isbn=4-2568-0260-6}}<!--2009年9月17日 (木) 10:25 (UTC)-->
 
 
 
== 関連項目 ==
 
* [[史記]]
 
* [[夏商周年表]]
 
* [[夏商周年表プロジェクト]]
 
* [[二里頭文化]]
 
* [[二里岡文化]]
 
* [[黄河文明]] - [[長江文明]]
 
* [[国]]の始まり
 
* [[王朝]]の始まり
 
* [[三皇五帝]]
 
* [[石器時代]]
 
** [[新石器時代]]
 
* [[先史時代]]
 
* [[092型原子力潜水艦]]
 
 
 
== 外部リンク ==
 
* [http://allchinainfo.com/history/simply/xia/ 夏王朝:中国まるごと百科事典]<!--2009年9月17日 (木) 07:27 (UTC)-->
 
  
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[[Category:先史中国]]
 
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(か、紀元前1900年頃 - 紀元前1600年[1]

中国の伝説上の最初の王朝。姓はじ。『史記』によると禹王より 17代,約 500年ぐらい続いたという。は鯀 (こん) の子で,帝に仕えて水土を司り,黄河の治水に成功し,天下の土地を測量して貢物を定め,舜の禅譲を受けて夏王朝を建てた。禹から 17代目にあたる桀は暴君で奢侈淫逸にふけり,商 (殷) の成湯に滅ぼされたという。夏の後裔といわれる杞が周代の諸侯国として存したが,夏そのものの実在は現在までのところ確証はなく,偃師二里頭期と考える者もあるが,依然として不明である。



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  1. 紀元前2000年頃からとする説もある。