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(内容を「 '''土俵'''(どひょう) 相撲を取る規定の場所。 20俵の小俵を土中に6分を埋め,4分を地上に出し,内径 454.5cm (15尺) の円型…」で置換)
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{{otheruses|相撲の競技場|土を詰めた袋|土嚢}}
 
{{出典の明記|date=2015年6月17日 (水) 14:59 (UTC)}}
 
[[ファイル:Tamura_Jinja,_Takamatsu_05.JPG|thumb|280px|right| 讃岐国一宮 [[田村神社 (高松市)|田村神社]] (香川県高松市) の相撲場]]
 
'''土俵'''(どひょう)とは、土を盛って作る[[相撲]]の競技場である。[[俵]]に土を詰めた袋(土俵)を使っているため特に'''土俵場'''(どひょうば)と呼んでいたが、これを縮めた呼称である。
 
  
== 構造 ==
+
'''土俵'''(どひょう)
[[ファイル:Dohyo.JPG|200px|thumb|現在の土俵]]
 
[[ファイル:Dohyo.png|200px|thumb|土俵と周囲の各配置]]
 
現代の[[大相撲]]では、一辺が6.7メートル(22[[尺]])の正方形に土を盛り、その中央に直径4.55メートル(15尺)の円が勝負俵(計16俵)で作られていて、その円の東西南北4ヶ所に'''徳俵'''(計4俵)と呼ばれる、俵1つ分の出っ張りが設けられている。円の外側には正方形の形で角俵(計28俵:各一辺7俵の俵)を配置、その正方形の角には、あげ俵(計4俵:各角にそれぞれ1俵)が配置され、土俵に上がる段のための踏み俵(計10俵:土俵の周りに東・西・南部分に各3俵、北部分に1俵)、南西・南東には[[力水]]のための水桶をおく水桶俵(計4俵:各2俵)が配置され、合計して66俵を使用する。
 
  
俵は主に稲藁を細い俵状に編んだものが使用され、中には土が入れられている。[[地方自治体]]で設置された土俵では頑丈なシートで俵を作成する場合もある。
+
[[相撲]]を取る規定の場所。 20俵の小俵を土中に6分を埋め,4分を地上に出し,内径 454.5cm (15尺) の円型につくるが,うち4俵が[[徳俵]]である。
 
+
土俵は[[呼出|呼び出し]]が毎場所手作業で作る。完成すると、[[本場所]]の初日前日に[[土俵祭]]が行われる。
 
 
 
俗に「土俵には金が埋まっている」と言われるが、これは「土俵で出世すれば金が入ってくる」と[[取的]]を励ますための比喩表現で、実際には金ではなく、縁起を担ぐ意味で[[クリ|勝栗]]や[[コンブ|昆布]]・[[米]]・[[スルメ]]・[[塩]]・[[カヤ|榧]]の実が神への供物として土俵祭の際に埋められる。
 
 
 
土俵の土は、若干[[粘土]]質が混じった物が使用される。これは土を盛ったとき型くずれしにくく、振動にも強いためでもある。また、勝負俵の内側には若干の砂質の土が撒かれている。力士の足首への負担を減らすなどの安全対策でもある。また、勝負俵の周囲にも円形に砂が撒かれている。これは勝負俵から力士の足が出たかどうか判別する時に砂に足跡が残るため審判が下しやすいためでもある。これを'''蛇の目'''(じゃのめ)と呼ぶ。
 
 
 
土俵中央には幅6センチ・メートル、長さ90センチ・メートルの仕切り線が70センチ・メートル間隔で2本。[[エナメル]]・ペイントで描かれている。この仕切り線も呼び出しが描く。仕切り線は力士たちの取組によって踏み荒らされて剥がれてしまうため、2 - 3日に一度描き直しの作業が行われる。仕切り線は[[1928年]]1月場所から始まったNHKラジオの実況中継にあわせて設けられた。
 
 
 
俵に太ももを撃つことを角界の隠語で「メリケンが入る」という<ref>ベースボールマガジン社『大相撲名門列伝シリーズ(3) 高砂部屋』p76</ref>。
 
 
 
=== 屋根・房 ===
 
[[ファイル:Dohyo_all.png|200px|thumb|相撲競技場全体図]]
 
土俵の上には、方屋があり明治に東屋作りから切妻で千木と堅魚木を持つ[[神明造|神明造り]]に変えられた。屋根の四隅(東西南北、正しくは東北、東南、西南、西北)の柱は、本場所においては[[1952年]](昭和27年)の秋場所より廃止されて吊屋根となり、代わって四隅に[[房]]が下げられる様になった。これは、正式には房では無く四本柱に巻きつけられていた同色の布の名残で、柱の代わりに太い房を吊るようになったものである<ref name="dohyohyo"/>。房の色は天空の四方位をそれぞれ司る[[四神]]に由来しており、青い(緑色の)房(青房)は東方を守護する[[青竜|青龍]]、白い房(白房)は西方を守護する[[白虎]]、赤い房(赤房)は南方を守護する[[朱雀]]、紫または黒の房(黒房)は北方を守護する[[玄武]]を表している(地域によって順序が異なっている事がある)。四隅の房は絹糸を寄り合わせて作られ、サイズは2.3メートル、太さが70センチメートル、重さ25キログラムである。
 
 
 
大相撲の土俵から四本柱を無くす際には、賛成派の意見として「土俵が見にくい」というものが、反対派の意見として「風格がなくなる」というものがあった。反対派の意見として理詰めなものとなれば「柱があることによって土俵内で動いている場所が分かるから、柱が動きを変えるめどになる」「突き飛ばされた時も、つかまって転落するのを防げるから危険防止になる」というものが見られた<ref>『大相撲中継』2017年5月27日号99頁</ref>。
 
 
 
なお屋根の水引幕東西南北の中央に小さい房が下げられているが、これが本来の房と言われるものである。
 
 
 
=== 周辺用具 ===
 
水桶、塩箱共に呼び出しが補充などを行う。
 
* 水桶 - [[力水 (相撲)|力水]]が入れられており、桶の中段にはタオルが置ける棚がある。
 
* [[塩]]箱 - 縦横50センチ・メートル、深さ40センチ・メートル。
 
 
 
== 歴史 ==
 
[[ファイル:Wrestling at Tokyo 1890s.jpg|200px|thumb|明治期の土俵]]
 
相撲において古来、相撲節会に土俵なるものはなかった。『相撲伝書』によると[[鎌倉時代]]に見物人が直径7 - 9メートル(4 - 5間)の輪を作り、これを「人方屋」と称したという。これが土俵の起源である。江戸時代に[[大相撲]]興行が始まり、「人方屋」では特定の力士の贔屓が手を出して勝負を妨害するなど喧嘩が絶えなかった。このため、まず[[寛文]]年間([[1661年|1661]] - [[1673年]])に[[リング (格闘技)|リング]]のように4本の柱の下に紐などで囲ったものになった。それを俵で囲んだものとなり、四角い土俵になった。なお四角い土俵は各地の神社や南部相撲などに現存し使用されている。次に大相撲では[[延宝]]年間([[1673年|1673]] - [[1681年]])に、東屋作りの屋根の下に[[四神]]を表す4色の布を巻いていた柱の方屋の下に、五斗俵による3.94メートル(13尺)の丸い[[13尺土俵|土俵]]が設けられた。[[享保]]年間([[1716年|1716]] - [[1736年]])、俵を2分の1にし地中に半分に埋めた一重土俵ができた。これに外円をつけて二重土俵(これは「蛇の目土俵」ともいう)となった。これは内円に16俵、外円に20俵いることから「36俵」と呼ばれた。
 
[[ファイル:Kuniyoshi Utagawa, The sumo wrestler 2.jpg|150px|thumb|left|二重土俵]]
 
 
 
[[1791年]]([[寛政]]3年[[6月11日_(旧暦)|6月11日]])11代[[征夷大将軍|将軍]]・[[徳川家斉]]の[[上覧相撲]]の際に[[吉田司家]]の吉田追風が前日に1夜で土俵を作り「はじめて「方屋開」を行った。明治に方屋の屋根を神明造りにした。
 
 
 
[[1928年]](昭和3年)[[1月12日]]から[[日本放送協会|NHK]]の[[ラジオ]]放送による[[大相撲中継]]が始まった際、放送時間内に勝負を収めるために、それまでは無制限だった仕切りに制限時間を設定。土俵に仕切り線を設けた。[[1930年]](昭和5年)3月場所になると、観客の視界の妨げになること、力士の怪我の原因になることを理由に、土俵上に座っていた勝負検査役を土俵下におろし、5人とした。また方屋柱に塩桶をくくりつけた<ref>「四本柱から見るから土俵全体が見える。土俵下では反対側が見えない」という検査役の主張がまかり通っていたため、柱のそばに座っていた検査役を土俵の下に降ろすに至るまでには苦労があった。</ref><ref name="dohyohyo"/>。さらに、[[1931年]](昭和6年)4月の[[天覧相撲]]の際、二重土俵の内円をなくし径4.55メートル(15尺)の一重土俵に変更された。俵の外側の蛇の目の砂は、元々二重土俵の俵の間に撒かれていたが、この時より俵の外側に撒かれる様になったものである<ref name="dohyohyo">『大相撲ジャーナル』2017年6月号62-63頁</ref>。
 
 
 
なぜ13尺土俵から15尺土俵になったかという理由については、当時の文献には全く書かれていない。男女ノ川、天龍、武蔵山、出羽ヶ嶽などの6尺(約182㎝)を優に超える大型力士が台頭したため、あまり早く勝負が決まらないようにして、少しでも相撲を面白く見せるためであったという説が有力である<ref name="dohyohyo"/>。
 
 
 
[[ファイル:Dohyo at Former Ryogoku Kokugikan Hall in 1936.JPG|150px|thumb|両国国技館の土俵(1936年)]]
 
土俵サイズは、[[1945年]](昭和20年)の秋場所において4.84メートル(16尺)<ref group="注釈">桑森真介『大相撲の見かた』([[平凡社新書]]、2013年5月 {{要ページ番号|date=2015年6月}})には筆者本人が所属する研究グループが行った実験について記述があり「私たちの研究グループでは、直径16尺(4m85cm)の拡大土俵と、直径15尺(4m35cm)の両方で学生の相撲選手に相撲を取ってもらい、体重の軽い側が勝つ率、決まり手数、競技時間を比較した。土俵を拡大すると、体重差が10%以上ある取組では、体重の軽い方が、30番行うと2・3番多く勝つことができるようになると分かった。決まり手数と競技時間は、土俵を拡大しても大きな影響は見られなかった。」という内容が確認できる。</ref>にしたが、力士会の反対で11月の一場所かぎりで径4.55メートル(15尺)の現在の土俵に変更された。また土俵上の柱は[[1952年]](昭和27年)秋場所より撤去され、屋根は天井から吊り下げる形式に変更された。
 
 
 
== 神事 ==
 
土俵は、力士が入場の際に[[柏手]]を打つなど[[神 (神道)|神]]がいる場所とされてきた。柏手については相撲の宗家である吉田司家の許可に基づいている。
 
 
 
東京[[両国国技館]]の本場所前々日に[[野見宿禰神社]](東京都墨田区)で[[日本相撲協会]]の幹部、審判部の幹部、相撲茶屋等関係者が集まり、[[出雲大社教]]神官の神事が執り行われる。
 
 
 
また、各場所の初日前日に日本相撲協会の幹部、[[勝負審判|審判委員の親方]]などを集めて土俵祭が行われる。内容は土俵の真ん中に日本酒、米、塩などを封じ、相撲の三神([[タケミカヅチ]]ほか二神)と弊束を7体祭り、立行司が祭主で介添えの行司が清祓の[[祝詞]]を奏上し、祭主が神事を行い、方屋開口を軍配団扇を手にして言上する。この後、清めの太鼓として、呼び出し連が土俵を3周して終わる。これは[[1791年]](寛政3年)6月11日、江戸幕府の第11代征夷大将軍・徳川家斉の上覧相撲で、吉田追風が前日に土俵を作った際「方屋開」として始めたものである。これにより、千秋楽にその場所の[[前相撲|新序出世力士]]によって行司を胴上げする「神送りの儀式」によって神を送るまでの間、土俵には神が宿るとされている。
 
 
 
現在は[[横綱]]が行う一人土俵入りは、[[四股]]で邪悪なものを踏み鎮める[[地鎮祭]]と同じ意味である。
 
 
 
=== 女人禁制 ===
 
[[日本相撲協会]]主催の[[大相撲]]など伝統を重んじて土俵は神聖な場所で[[女人禁制]]とされている。
 
近代では以下のような事例がある。
 
 
 
* 子ども相撲や女相撲など女子も参加する大会はある。
 
* 「[[わんぱく相撲全国大会]]」は男子が対象とされ、女子は出場できない。[[わんぱく相撲]]の地方大会は地域親善の色合いが強いとして女子の参加を認めている<ref name="asahi19910703">{{Cite news|title=少女横綱に「待った」 国技館の土俵上がれず 主催者「全国大会は男子が対象」|newspaper=[[朝日新聞]]夕刊|date=1991-07-03}}</ref>が、女子が優勝することも当然有り得る。
 
** [[1978年]](昭和53年)、「わんぱく相撲東京場所」で10歳の少女が勝ち進んだが、[[蔵前国技館]]の土俵に上がれず決勝大会出場を断念した。
 
** [[1991年]](平成3年)、「わんぱく相撲美馬大会」で小学5年生の女子が優勝したが、[[両国国技館]]の土俵は女人禁制であるとして、全国大会出場権を示すメダルは2位の男子に授与された<ref name="asahi19910703" />。
 
* [[1989年]](平成元年)、[[森山真弓]]官房長官が総理大臣賜杯授与を行いたいと明言したが、相撲協会が拒否し、この際には[[女性差別]]問題を含め議論を呼んだ。
 
* [[2004年]](平成16年)、[[太田房江]]大阪府知事も知事杯授与を希望する旨表明したが、やはり相撲協会が難色を示し、知事杯の授与は男性副知事が代理して行われた。この決定に対し、大阪市内のNPO法人が[[性差別]]を助長する行為として太田府知事を相手取り、知事賞の費用を府に返還するよう求めた。「男女共同参画社会実現への積極性に欠けるとして政治的責任が議論される余地はあっても、性差別を助長する行為とはいえない」としてこの請求は棄却されたが、大阪府監査委員は「(代理授与は)決して好ましいこととは言えない」として知事賞の授与停止を検討するよう太田府知事に勧告した。
 
* [[2018年]](平成30年)4月4日、春巡業「大相撲舞鶴場所」([[京都府]][[舞鶴市]])で、土俵上で挨拶していた[[多々見良三]]舞鶴市長が[[くも膜下出血]]で突然倒れ、複数の女性が駆け寄り、そのうちの1人は医師でもある多々見市長がかつて院長を務めた病院の看護師であった。<ref>出典:http://www.iza.ne.jp/smp/kiji/events/news/180405/evt18040522110024-s1.html{{Citenews|title=「下りなさい」相撲協会員、口頭でも直接指示|date=2018-04-05|accessdate=2018-04-06|newspaper=産経新聞}}</ref>観戦に来ていた市長のかかりつけの病院の[[看護師]]も含まれ、俵に上がって救命措置をとっていたところ行司が「女性の方は土俵から降りてください」「男性がお上がりください」などと場内アナウンスしていた<ref name="asahi20180404">{{Cite news|url=https://www.asahi.com/articles/ASL44739ML44PLZB017.html|title=土俵で心臓マッサージしていた女性に「降りて」 京都|newspaper=[[朝日新聞]]|date=2018-04-04|accessdate=2018-04-05}}</ref><ref name="MBS20180405">{{Cite news|url=http://www.mbs.jp/news/kansai/20180405/00000027.shtml|title=「土俵から降りて」市長を救命の女性は看護資格あり、その後大量の塩撒かれる|newspaper=[[毎日放送]]|date=2018-04-05|accessdate=2018-04-05}}</ref><ref name="nikkan20180405">{{Cite news|url=https://www.nikkansports.com/battle/sumo/news/201804050000633.html|title=尾車事業部長、土俵に大量の塩も女性蔑視は全くない|newspaper=[[日刊スポーツ]]|date=2018-04-05|accessdate=2018-04-06}}</ref>。場内アナウンスについて、実行委員会は当初「救急隊員に処置を引き継いだ後に放送が流れた」と説明していた<ref>{{Cite news|url=http://www.yomiuri.co.jp/national/20180404-OYT1T50190.html|title=救命処置の女性に「土俵下りて」、相撲協会謝罪|newspaper=[[読売新聞]]|date=2018-04-05|accessdate=2018-04-05}}</ref>が、会場にいた人物によって撮影された映像が[[YouTube]]に投稿され<ref>{{Cite news|url=https://mainichi.jp/articles/20180405/k00/00m/040/131000c|title=舞鶴:倒れた市長の救命女性に相撲協会「土俵から下りて」|newspaper=[[毎日新聞]]|date=2018-04-04|accessdate=2018-04-05}}</ref>、事実に誤認があったことが発覚。日本相撲協会理事長の[[北勝海信芳|八角親方]]は場内アナウンスについて「人命にかかわる状況には不適切な対応でした。深くお詫び申し上げます」というコメントを出した<ref name="asahi20180404" />。また、市長の救命措置が終わった後には、土俵の上に大量の[[塩]]が撒かれた<ref name="MBS20180405" /><ref name="nikkan20180405" /><ref name="sponichi20180405">{{Cite news|url=https://www.nikkansports.com/battle/sumo/news/201804050000633.html|title=相撲協会・尾車事業部長 人命尊重明言、大量の塩は女性が土俵に上がったためではないと強調|newspaper=[[スポーツニッポン]]|date=2018-04-05|accessdate=2018-04-06}}</ref>。これについて、事業部長の[[琴風豪規|尾車親方]]は「本場所でも稽古場でもアクシデントがあったときに連鎖を防ぐために塩をまいている」「女性蔑視のようなことは全くない」と、女人禁制に関連した行いではないと強く否定している<ref name="nikkan20180405" /><ref name="sponichi20180405" />。一連の出来事は日本以外のメディアからも注目され、[[ワシントン・ポスト]]電子版では「女性が直面する壁が明確にあらわれた事例」として[[性差別]]と関連付けて報じられたほか、[[ウォール・ストリート・ジャーナル]]では「女性が初めて土俵に入ったきっかけが男性の命を助けるためだった」ことを皮肉交じりの見出しで伝えた上で、「日本の伝統的、そして文化的な分野で女性が置かれている不平等な立場に注目が集まった」と報じている<ref>{{cite news|url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20180405/k10011392311000.html| title=女性が土俵 海外メディアも大きく伝える|newspaper=NHKニュース|publisher=日本放送協会|date=2018-04-05|accessdate=2018-04-06|archiveurl=http://web.archive.org/web/20180406060157/https://www3.nhk.or.jp/news/html/20180405/k10011392311000.html|archivedate=2018-04-06}}</ref>。
 
 
 
なお、かつては[[女相撲]]の興行もあり、実際に土俵上で行われていた。
 
 
 
== エピソード ==
 
*[[1998年]](平成10年)1月場所4日目、[[幕下]]取組の[[鳥羽の山喜充|大鷹山]]-[[栃乃花仁|谷地]]戦で、谷地が肩から土俵下に落ちた際、正面黒房寄りの角に近い部分の土がぼこっと崩れて大きな穴が開いてしまった。この日は土俵の土が非常に乾いており、表面がカサカサになってヒビ割れたところに谷地が落ちたため崩れたらしい。取組には支障がないが、相撲が続く間は修復することができず、[[幕内]]取組の前に呼び出しがビール瓶で叩くなどして応急処置を施した。
 
 
 
*[[台湾]]の[[桃園市]][[大渓区]]では2017年9月、日本統治時代にあった土俵が復元された<ref>[http://www.sankei.com/world/news/170917/wor1709170033-n1.html 「台湾で日本時代の土俵“復活”アマ選手が取組を披露」][[産経新聞]]ニュース(2017年9月17日)</ref>。
 
 
 
== 脚注 ==
 
=== 注釈 ===
 
{{脚注ヘルプ}}
 
<references group="注釈"/>
 
=== 出典 ===
 
{{節スタブ|date=2015年6月|脚注形式での出典の明記}}
 
<references />
 
 
 
== 参考文献 ==
 
{{節スタブ|date=2015年6月}}
 
<!--記事執筆時に実際に参照した書籍を記載してください-->
 
* {{Cite book|和書 |author=桑森真介 |title=大相撲の見かた |publisher=[[平凡社]] |series=平凡社新書 684 |date=2013-05 |isbn=978-4-582-85684-2 }}
 
 
 
== 関連項目 ==
 
{{Commonscat|Dohyō}}
 
* [[相撲用語一覧]]
 
* [[木内八郎]](土俵作り職人)
 
  
 
{{相撲}}
 
{{相撲}}
 +
{{テンプレート:20180815sk}}
 
{{デフォルトソート:とひよう}}
 
{{デフォルトソート:とひよう}}
 
[[category:相撲用語]]
 
[[category:相撲用語]]
 
[[category:神社建築]]
 
[[category:神社建築]]

2018/10/27/ (土) 10:18時点における最新版

土俵(どひょう)

相撲を取る規定の場所。 20俵の小俵を土中に6分を埋め,4分を地上に出し,内径 454.5cm (15尺) の円型につくるが,うち4俵が徳俵である。




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