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|一宮    = [[土佐神社]](高知県[[高知市]])
 
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'''土佐国'''(とさのくに)は、かつて[[日本]]の地方行政区分だった[[令制国]]の一つ。[[南海道]]に属する。
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'''土佐国'''(とさのくに)
  
== 「土佐」の名称と由来 ==
+
現在の高知県。[[南海道]]の一国。中国。『古事記』には「土佐国を建依別 (たけよりわけ) と謂ふ」とある。『旧事本紀』には「都佐」「波多」の2国造が記されているが,前者は土佐郡を,後者は幡多郡を中心とした地方を支配したものとみられる。国府,国分寺ともに南国市後免町にあった。『延喜式』には安芸,香美,長岡,土佐,吾川,高岡,幡多の7郡があり,『和名抄』には郷 43,田 6451町が記されている。当国は律の定める[[遠流]] (おんる) の地であった。[[紀貫之]]が延長8 (930) 年土佐守となり,承平4 (934) 年まで在任した。鎌倉時代には梶原朝景,佐々木経高,豊島朝経,三浦義村らが守護となったが,末期には北条氏の家督が守護となった。南北朝時代には細川氏が国内を平定し,守護大名として領国を形成した。応仁の乱後は群雄が割拠したが,天正3 (1575) [[長宗我部元親]]が国内を統一し,さらに阿波,讃岐,伊予と討って四国全土をほぼ平定したが,同 13年豊臣秀吉に敗れ,土佐国一国だけを領有するにいたった。関ヶ原の戦い後,山内一豊が入国し,江戸時代を通じて山内氏が支配し,高知藩として幕末にいたった。高知新田の山内氏はその支藩である。明治維新を経て明治2 (1869) 年高知新田藩を合併し,同4年7月高知県となった。
国名は、古くは『[[古事記]]』『[[日本書紀]]』では「土左」、『[[先代旧事本紀]]』では「都佐」と記されている<ref name="土佐国">「土佐国」『日本歴史地名体系 40 高知県の地名』 平凡社、1983年。</ref>。元々は「土左」で[[和銅]]6年([[713年]])の好字令で「土佐」に改められたといわれるが、和銅6年以後も「土左」と「土佐」が混用されている<ref name="土佐国"/>。[[平安時代]]中期に至り「土佐」が一般的な表記となったとされる<ref name="土佐国"/>。
+
 
 
「トサ」の語源には、俊聡・遠狭・([[浦戸湾]]を指して)門狭などの諸説があるが明らかではない<ref name="土佐国"/>
 
 
 
== 歴史 ==
 
[[律令制#日本の律令制|律令制]]において、[[都佐国造]]と[[波多国造]]の領域をあわせて建てられた。「土佐」(土左)の記述は『[[日本書紀]]』に見え、[[天武天皇|天武]]4年3月([[675年]])の条項に「土左大神以神刀一口、進于天皇」とある。また天武13年([[684年]])には「土左国田苑五十余万頃、没為海」、「土左国司言、大潮高騰、海水飄蕩、由是運調船多放失焉」と[[白鳳地震]]における地変や[[津波]]により[[租庸調|調]]を運ぶ船が流失したことを国司が報告する記事があり、[[律令制]]が敷かれ国司が派遣されていたことを示すものである<ref>高知市 『高知市史 上巻第一篇 古代・中世』 1958年</ref>。
 
 
 
古くは流刑地の一つであった。『日本書紀』の天武5年9月([[676年]])の条項に「筑紫大宰三位屋垣王、有罪、流于土左」と見える。[[平安時代]]末期、[[源義朝]]の五男で[[源頼朝|頼朝]]の同母弟 [[源希義|希義]]が流されて、兄の挙兵の折に自らも立ち、鎮圧されている。またこの他にも[[紀夏井]]や[[藤原師長]]、[[土御門天皇]]、[[尊良親王]]が[[流人]]として土佐の土を踏んでいる。[[鎌倉時代]]に入ると[[摂関家]][[一条家]]が幡多郡に[[幡多荘]]を置き、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]まで同家の支配が続くことになる。
 
 
 
[[室町時代]]は[[細川氏]]が[[守護]]を務め、後には[[室町幕府]][[管領]]を輩出した京兆家の当主が守護を兼ねる国となったが、関白・[[一条教房]]が下向すると[[土佐一条氏|一条氏]]に支配が移った。戦国期には一条氏を盟主とする'''[[土佐七雄]](土佐七豪族とも)'''の[[本山氏]]や[[安芸氏]]、[[吉良氏]]、[[津野氏]]、[[長宗我部氏]]、[[香宗我部氏]]、[[大平氏]]などの勢力が拮抗したが、[[長宗我部元親]]が土佐を統一し、やがて四国の大半を支配下に治める。その後、長宗我部氏は[[豊臣秀吉]]の四国征伐によって土佐一国のみを安堵される。
 
 
 
元親の四男[[長宗我部盛親|盛親]]は[[関ヶ原の戦い]]で西軍に与したことから[[改易]]され、[[山内一豊]]の入部以降、江戸時代を通じて[[土佐山内氏|山内氏]]が土佐一国を支配した。主に在地武士は郷士として遇されたものの、旧来の山内家臣で構成される上士階級との対立が長く続き、この構造は[[明治維新]]までしこりを残した。幕末期には、[[幕末の四賢侯|四賢侯]]の一人と賞された藩主[[山内容堂]]をはじめ、[[土佐勤王党]]で知られる[[武市瑞山|武市半平太]]や[[坂本龍馬]]、[[中岡慎太郎]]、[[望月亀弥太]]、[[岡田以蔵]]等の志士を輩出している。
 
 
 
=== 近世以降の沿革 ===
 
* 「[[旧高旧領取調帳]]」の記載によると、[[明治]]初年時点では国内の全域が土佐'''[[高知藩]]'''領であった(494,087石余)。蔵米1万3000石を土佐'''[[高知新田藩]]'''に分知していたが、国内に封地は定めず。
 
** [[安芸郡 (高知県)|安芸郡]](51,420石余)、[[香美郡]](68,762石余)、[[長岡郡]](71,422石余)、[[土佐郡]](49,921石余)、[[吾川郡]](42,242石余)、[[高岡郡]](107,098石余)、[[幡多郡]](103,218石余)
 
* 明治3年[[8月25日 (旧暦)|8月25日]]([[1870年]][[9月20日]]) - 高知新田藩が高知藩に編入。
 
* 明治4年[[7月14日 (旧暦)|7月14日]]([[1871年]][[8月29日]]) - [[廃藩置県]]により'''[[高知県]]'''の管轄となる。
 
* 明治9年([[1876年]])[[2月25日]] - 高知県が管轄する[[伊予国]][[宇和郡]]母島浦・久保浦・小矢野浦・鵜来島(現在の[[鵜来島]]および[[沖の島 (高知県)|沖の島]]・姫島の各一部)の所属郡が土佐国[[幡多郡]]に変更。
 
 
 
== 国内の施設 ==
 
{{座標一覧}}
 
=== 国府 ===
 
[[File:Tosakokuga-ato.JPG|thumb|200px|right|{{center|土佐国衙跡碑<br />([[高知県]][[南国市]])}}]]
 
[[国府]]は[[長岡郡]]にあった。[[南国市]]比江で国衙関連施設の遺構が発掘され、「土佐国衙跡」として高知県指定史跡に指定されている<ref>[http://www.kochinet.ed.jp/bunkazai/details/410-2/410-2-14.htm 土佐国衙跡](高知県教育委員会)。</ref>({{ウィキ座標|33|35|59.58|N|133|38|55.27|E|region:JP-39_type:landmark|位置|name=土佐国衙跡}})。国司を勤めた[[紀貫之]]により、在任期間の事柄が『[[土佐日記]]』に記されている。
 
 
 
遺構については、[[1977年]]([[昭和]]52年)から[[1990年]]([[平成]]2年)の間に計25次の発掘調査が行われ、国衙関連と見られる柱穴や硯などの遺物は見つかったが、国府中心部の様相や全体的な官衙配置を確定するには至っていない。南国市比江には「内裏」「国庁」「府中」などの字が残り、付近にあったことは間違いないとされる。周辺では、[[土佐国分寺]]や比江廃寺が営まれたことも知られる。なお国衙跡碑の北西方には伝紀貫之邸跡があるが、これは同地に残る小字「内裏」から国司館跡と推定したもので、紀貫之が居住したという確証はないが[[天明]]5年([[1785年]])の「紀子旧跡碑」などが建てられている<ref name="一宮制"/>。
 
 
 
=== 国分寺・国分尼寺 ===
 
[[File:Tosa Kokubunji hondou.JPG|thumb|200px|right|{{center|土佐国分寺(高知県南国市)}}]]
 
[[File:Hie-haiji-ato tou.JPG|thumb|200px|right|{{center|比江廃寺跡 塔心礎<br />(高知県南国市)}}]]
 
* [[土佐国分寺|土佐国分寺跡]] ([[南国市]]国分、{{ウィキ座標|33|35|55.64|N|133|38|25.51|E|region:JP-39_type:landmark|位置|name=土佐国分寺}})
 
*: 国の史跡。創建時は東大寺式伽藍配置であったと推定されており、推定規模は一辺約150メートル。国分寺の下層からは郡司などの豪族館などの古い施設が発掘されている。平安時代後半に金堂などが焼失し、その後は衰退した。現在の跡地上には、四国八十八カ所第29番霊場である[[土佐国分寺|摩尼山宝蔵院国分寺]](土佐国分寺)が位置し、法燈を伝承する。
 
* 土佐国分尼寺跡
 
*: 未詳。南国市比江の比江廃寺跡(国の史跡、{{ウィキ座標|33|36|12.15|N|133|39|2.17|E|region:JP-39_type:landmark|位置|name=比江廃寺跡(土佐国分尼寺跡か)}})を、国分尼寺に転用された寺院と推測する説がある<ref>『日本歴史地名大系 高知県の地名』(平凡社)比江廃寺跡項。</ref>。
 
 
 
=== 神社 ===
 
'''[[延喜式内社]]'''
 
: 『[[延喜式]]』[[延喜式神名帳|神名帳]]には、大社1座1社・小社20座20社の計21座21社が記載されている(「[[土佐国の式内社一覧]]」参照)。大社1社は以下に示すものであるが、[[名神大社]]ではない。
 
* [[土佐郡]] 都佐坐神社 - 式内大社。
 
** 比定社:[[土佐神社]]([[高知市]]一宮)
 
 
 
[[File:Tosa-jinja02s3872.jpg|thumb|200px|right|{{center|[[土佐神社]](高知県高知市)}}]]
 
'''[[総社]]・[[一宮]]以下'''
 
: 『中世諸国一宮制の基礎的研究』に基づく一宮以下の一覧<ref name="一宮制">『中世諸国一宮制の基礎的研究』(岩田書院、2000年)pp. 564-569。</ref>。
 
* 総社:総社([[南国市]]国分、{{ウィキ座標|33|35|54.34|N|133|38|22.79|E|region:JP-39_type:landmark|位置|name=土佐国総社:総社}}) - 元々は国府の隣に所在したが、[[寛文]]9年([[1669年]])に国分寺境内の現在地に移ったという。
 
* 一宮:[[土佐神社]]([[高知市]]一宮、{{ウィキ座標|33|35|33.44|N|133|34|37.25|E|region:JP-39_type:landmark|位置|name=土佐国一宮、式内大社:土佐神社}})
 
* 二宮:[[小村神社]]([[高岡郡]][[日高村]]、{{ウィキ座標|33|32|35.67|N|133|23|34.79|E|region:JP-39_type:landmark|位置|name=土佐国二宮:小村神社}})
 
 
 
なお、[[朝倉神社 (高知市)|朝倉神社]](高知市朝倉、{{ウィキ座標|33|33|12.35|N|133|28|54.16|E|region:JP-39_type:landmark|位置|name=朝倉神社(一説に土佐国二宮)}})が二宮とされた時期もあった<ref name="一宮制"/>。三宮以下はなし。
 
 
 
=== 安国寺利生塔 ===
 
* 利生塔 - [[最御崎寺]](室戸市[[室戸岬町]])。安国寺も最御崎寺であったとする説がある。
 
 
 
== 地域 ==
 
=== 郡 ===
 
*[[安芸郡 (高知県)|安藝郡]]
 
*[[香美郡]]
 
*[[長岡郡]]
 
*[[土佐郡]]
 
*:1889年(明治22年)4月1日、高知に市制を施行する。土佐郡から離れて高知市となる。
 
*[[吾川郡]]
 
*[[高岡郡]]
 
*:承和8年8月23日(841年9月11日)、吾川郡8郷のうち4郷を分けて郡を置く。
 
*[[幡多郡]]
 
 
 
=== 江戸時代の藩 ===
 
* [[土佐藩]](高知藩)、[[山内氏|山内家]](20.26万石)
 
* [[土佐藩#中村藩|中村藩]](土佐藩支藩、2万石→3万石)
 
* [[土佐藩#土佐新田藩|土佐新田藩]](土佐藩支藩、1.3万石)
 
 
 
== 人物 ==
 
=== 国司 ===
 
{{節スタブ}}
 
==== 土佐守 ====
 
*[[大伴古慈斐]]:[[天平勝宝]]8年([[756年]])任官(左遷)
 
*[[紀船守]]:[[780年]]頃
 
*[[坂上浄野]]:[[天長]]2年([[825年]])頃任官(権守、左遷)
 
*[[文室笠科]]:[[承和 (日本)|承和]]6年([[839年]])任官
 
*[[清原遠賀]]:承和10年([[843年]])任官
 
*[[御輔真男]]:承和10年(843年)任官
 
*[[路永名]]:承和12年([[845年]])任官
 
*[[小野千株]]:承和12年(845年)任官
 
*[[藤原真岑]]:[[嘉祥]]2年([[849年]])任官
 
*[[小野千株]]:嘉祥3年([[850年]])任官(再任)
 
*[[橘時枝]]:[[仁寿]]2年([[852年]])任官
 
*[[橘高宗]]:[[斉衡]]2年([[855年]])任官
 
*[[紀貫之]]:[[延長 (元号)|延長]]8年([[930年]])- [[承平 (日本)|承平]]5年([[935年]])
 
*[[島田公鑑]]:承平5年(935年)任官
 
*[[橘則光]]:[[寛弘]]3年(1006年)任官。[[清少納言]]の夫
 
*[[源長季]]:平安時代後期
 
*[[藤原定実]]:1100年頃(権守)
 
*[[藤原信頼]]:[[久安]]4年([[1148年]])任官
 
*[[藤原隆季]]:[[久寿]]2年([[1155年]])任官
 
*[[源国基]]:鎌倉時代初期
 
 
 
==== 土佐介 ====
 
*[[藤原末茂]]:[[藤原魚名]]の子、[[藤原房前]]の孫。
 
 
 
=== 守護 ===
 
==== 鎌倉幕府 ====
 
*1185年~1186年 - [[梶原朝景]]
 
*1192年~1200年 - [[佐々木経高]]
 
*1201年~1203年 - [[豊島朝経]]
 
*1203年~1239年 - [[三浦義村]]
 
*1239年~1247年 - 三浦氏
 
*1323年~1333年 - 北条氏
 
 
 
==== 室町幕府 ====
 
*1337年 - [[細川顕氏]]
 
*1339年~1340年 - 細川氏
 
*1350年~? - [[高定信]]
 
*1352年 - 細川顕氏
 
*1352年~1359年 - [[細川繁氏]]
 
*1362年~1379年 - [[細川頼之]]
 
*1363年 - '''[[吉川経秋]]'''
 
*1385年~1392年 - 細川頼之
 
*1392年~1397年 - [[細川頼元]]
 
*1397年~1400年 - [[細川満元]]
 
*1400年~1402年 - [[細川頼長]]・[[細川基之]]
 
*1403年~1426年 - 細川満元
 
*1426年~1429年 - [[細川持元]]
 
*1429年~1442年 - [[細川持之]]
 
*1442年~1473年 - [[細川勝元]]
 
*1473年~1507年 - [[細川政元]]
 
*1507年 - [[細川澄之]]
 
*1507年~1508年 - [[細川澄元]]
 
*1508年~? - [[細川高国]]
 
 
 
===国人===
 
{{節スタブ}}
 
;安藝郡
 
*[[安芸氏]] - 東部の有力大名で一条氏と結んで伸張したが、長宗我部氏との抗争に敗れた。
 
;香美郡
 
*[[香宗我部氏]] - [[一条忠頼]]家臣の中原秋家が宗我・深淵郷の地頭となり、忠頼の暗殺後にその子・秋通を養子としたのに始まる。安芸氏との抗争で劣勢に陥り、長宗我部氏から養子を迎え入れて吸収された。
 
*[[山田氏]] - 山田郷。一条忠頼家臣の中原秋家の後裔。土佐七雄に数えられることもある有力豪族だったが、長宗我部国親に滅ぼされた。
 
;長岡郡
 
*[[本山氏]] - 本山郷。本姓は八木氏で[[紀貫之]]の[[土佐日記]]にも其の名が見える。長岡郡北部を基盤とし、細川政権崩壊後にいち早く南下して土佐中央部に進出したが長宗我部氏との抗争に敗れた。
 
*[[長宗我部氏]] - 宗我部郷。秦氏。[[長宗我部兼序|兼序]]の代に[[明応の政変]]で覇権を握った[[細川政元]]の下で権勢を振るったが、[[永正の錯乱]]により政元が死ぬと滅ぼされた。しかし、子[[長宗我部国親|国親]]の代に復興し、孫[[長宗我部元親|元親]]の代で戦国大名化して四国を統一した。
 
*[[豊永氏]] - 小笠原氏族。阿波国境豊永郷に割拠した。阿波三好・大西らと同族だが、出身は熊本県玉名郡豊永とも肥前松浦とも云う。本山氏、ついで長宗我部氏に服属したが、土豪の中では珍しく土佐藩でも上士として同郷を治め続けた<ref>[http://www1.quolia.ne.jp/~jofukuji/ 真言宗智山派 土佐 定福寺]</ref>。
 
;土佐郡
 
;吾川郡
 
*[[吉良氏#土佐吉良氏|吉良氏]] - 源頼朝の同母弟希義の後裔という。弘岡城主。土佐南学の祖[[南村梅軒]]は宣経に仕え学を講じている。吉良氏は名族故に断絶後、本山氏・長宗我部氏が相次いでその名跡を継いだ。
 
*[[片岡氏]] - 法巌城主。七雄に匹敵する領地を持ったが早くから長宗我部氏に協力した。
 
;高岡郡
 
*[[大平氏]] - 本姓近藤氏。蓮池城主。細川氏の実質的な土佐守護代として働き京でも活動、一条氏の下向にも協力した。永正の錯乱後も一定の役割を果たしたが、その一条氏に滅ぼされた。讃岐に同氏族有り。
 
*[[津野氏]] - 津野荘の地頭。[[姫野々城]]主。天文十五年(1546年)戦国大名化した一条氏に降伏。
 
*[[佐竹氏]] - 久礼。常陸佐竹氏と同族で、新補地頭として領知を得たとみられる。[[佐竹親直]]は長宗我部元親の娘を娶って親族となった。
 
;幡多郡
 
*[[土佐一条氏|一条氏]] - 名門公家であるが、応仁の乱後の混乱を避け、荘園からの収入を確保するために下向した。中村に[[小京都]]を造り、戦国大名化していく。
 
 
 
=== 戦国大名 ===
 
*[[長宗我部氏]]
 
*[[本山氏]]
 
*[[土佐一条氏]]
 
 
 
===織豊大名===
 
*長宗我部氏
 
 
 
=== 武家官位としての土佐守 ===
 
==== 江戸期以前 ====
 
*[[塚原卜伝]]:戦国時代の剣豪、兵法家
 
*[[長宗我部元親]]:土佐の戦国大名
 
*[[長宗我部盛親]]:元親の4男。豊臣政権の大名
 
*[[小川祐忠]]:豊臣政権の大名
 
 
 
==== 江戸時代 ====
 
*[[土佐藩]][[山内氏|山内家]]
 
**[[山内一豊]]:初代藩主
 
**[[山内忠義]]:第2代藩主
 
<!--**山内忠豊:第3代藩主--><!--忠豊の官位は対馬守-->
 
**[[山内豊昌]]:第4代藩主
 
**[[山内豊房]]:第5代藩主
 
**[[山内豊隆]]:第6代藩主
 
**[[山内豊常]]:第7代藩主
 
**[[山内豊敷]]:第8代藩主
 
**[[山内豊雍]]:第9代藩主
 
**[[山内豊策]]:第10代藩主
 
**[[山内豊興]]:第11代藩主
 
**[[山内豊資]]:第12代藩主
 
**[[山内豊熈]]:第13代藩主
 
**[[山内豊惇]]:第14代藩主
 
**[[山内容堂|山内豊信]](容堂):第15代藩主
 
**[[山内豊範]]:第16代藩主
 
*[[上総国|上総]][[勝浦藩]][[植村氏|植村家]]
 
**[[植村泰忠]]:安土桃山時代の武将、旗本。忠朝の祖父
 
**[[植村泰朝]]:旗本。忠朝の父
 
**[[植村忠朝]]:上総勝浦藩初代藩主
 
**[[植村正朝]]:第2代藩主
 
**[[植村恒朝]]:第3代藩主
 
*[[丹波国|丹波]][[福知山藩]][[朽木氏|朽木家]]
 
**[[朽木稙治]]:第4代藩主
 
**[[朽木玄綱]]:第5代藩主
 
**[[朽木倫綱]]:第9代藩主
 
**[[朽木綱方]]:第10代藩主
 
*[[陸奥国|陸奥]][[弘前藩]][[津軽氏|津軽家]]
 
**[[津軽信義]]:第3代藩主
 
**[[津軽信寿]]:第5代藩主
 
**[[津軽信明]]:第8代藩主
 
**[[津軽承昭]]:第12代藩主
 
*[[播磨国|播磨]][[小野藩]][[一柳氏|一柳家]]
 
**[[一柳直次]]:第2代藩主
 
**[[一柳末礼]]:第3代藩主
 
**[[一柳末昆]]:第4代藩主
 
**[[一柳末英]]:第6代藩主
 
**[[一柳末昭]]:第7代藩主
 
**[[一柳末延]]:第9代藩主
 
**[[一柳末彦]]:第10代藩主
 
*その他
 
**[[小笠原貞信]]:[[下総国|下総]][[関宿藩]]第2代藩主、[[美濃国|美濃]][[高須藩]]主、[[越前国|越前]][[越前勝山藩|勝山藩]]初代藩主
 
**[[戸川正安]]:[[備中国|備中]][[庭瀬藩]]第2代藩主
 
**[[戸川安宣]]:庭瀬藩第3代藩主
 
**[[戸田尊次]]:[[三河国|三河]][[田原藩]]主
 
**[[鳥居成次]]:[[甲斐国|甲斐]][[谷村藩]]初代藩主
 
**[[松平明矩]](松平義知):陸奥[[白河藩]]、播磨[[姫路藩]]初代藩主
 
**[[松平直良]]:越前[[木本藩]]、越前勝山藩、越前[[大野藩]]初代藩主
 
**[[三宅康勝]]:三河[[挙母藩]]第2代藩主、三河[[田原藩]]初代藩主
 
**[[三宅康直]]:田原藩第11代藩主
 
 
 
== 土佐国の合戦 ==
 
*[[1560年]]:[[長浜の戦い]]。[[長宗我部氏]]([[長宗我部国親]]、[[長宗我部元親]]) x [[本山氏]]([[本山茂辰]])
 
*[[1569年]]:[[八流の戦い]]。長宗我部元親 x [[安芸氏]]([[安芸国虎]])
 
*[[1575年]]:[[四万十川の戦い]]。長宗我部元親 x [[土佐一条氏]]([[一条兼定]])
 
*[[1585年]]:[[四国攻め#羽柴秀吉の四国攻め(四国の役)|秀吉の四国攻め]](土佐国内での合戦は無し)。[[豊臣秀吉|羽柴秀吉]]([[豊臣秀長|羽柴秀長]]、[[宇喜多秀家]]、[[小早川隆景]]など) x 長宗我部元親
 
 
 
== 脚注 ==
 
{{脚注ヘルプ}}
 
{{reflist}}
 
 
 
== 参考文献 ==
 
* [[角川日本地名大辞典]] 39 高知県
 
* [http://www.rekihaku.ac.jp/up-cgi/login.pl?p=param/kyud/db_param 旧高旧領取調帳データベース]
 
 
 
== 関連項目 ==
 
{{Commonscat|Tosa Province}}
 
* [[土佐日記]]
 
* [[土佐藩]]
 
* [[令制国一覧]]
 
* [[加賀型戦艦|戦艦土佐]]
 
* [[土佐 (小惑星)]]
 
 
 
==外部リンク==
 
* [http://www.digital.archives.go.jp/ 国立公文書館 デジタルアーカイブ] - [http://www.digital.archives.go.jp/gallery/view/detail/detailArchives/0000000244 天保国絵図 土佐国]
 
* [http://komatsu0513.heteml.jp/index.html 国府物語] - [http://komatsu0513.heteml.jp/tosa.html 土佐国府]
 
  
 
{{令制国一覧}}
 
{{令制国一覧}}
 
{{土佐国の郡}}
 
{{土佐国の郡}}
 
+
{{テンプレート:20180815sk}}
 
{{デフォルトソート:とさのくに}}
 
{{デフォルトソート:とさのくに}}
 
[[Category:日本の旧国名]]
 
[[Category:日本の旧国名]]

2018/9/27/ (木) 22:59時点における最新版

土佐国(とさのくに)

現在の高知県。南海道の一国。中国。『古事記』には「土佐国を建依別 (たけよりわけ) と謂ふ」とある。『旧事本紀』には「都佐」「波多」の2国造が記されているが,前者は土佐郡を,後者は幡多郡を中心とした地方を支配したものとみられる。国府,国分寺ともに南国市後免町にあった。『延喜式』には安芸,香美,長岡,土佐,吾川,高岡,幡多の7郡があり,『和名抄』には郷 43,田 6451町が記されている。当国は律の定める遠流 (おんる) の地であった。紀貫之が延長8 (930) 年土佐守となり,承平4 (934) 年まで在任した。鎌倉時代には梶原朝景,佐々木経高,豊島朝経,三浦義村らが守護となったが,末期には北条氏の家督が守護となった。南北朝時代には細川氏が国内を平定し,守護大名として領国を形成した。応仁の乱後は群雄が割拠したが,天正3 (1575) 年長宗我部元親が国内を統一し,さらに阿波,讃岐,伊予と討って四国全土をほぼ平定したが,同 13年豊臣秀吉に敗れ,土佐国一国だけを領有するにいたった。関ヶ原の戦い後,山内一豊が入国し,江戸時代を通じて山内氏が支配し,高知藩として幕末にいたった。高知新田の山内氏はその支藩である。明治維新を経て明治2 (1869) 年高知新田藩を合併し,同4年7月高知県となった。





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