土井正三

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土井 正三(どい しょうぞう、1942年6月28日 - 2009年9月25日)は、プロ野球選手内野手)・監督野球解説者兵庫県出身。

経歴

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アマチュア時代

土井の父親は息子を政治家にしたかったため、「投票用紙に書きやすいように」という理由から、正三という名前が付けられた。

育英高校では、遊撃手、3番打者として活躍。1959年の秋季近畿大会では決勝に進み、海南高木原義隆に延長13回の末に完封負けを喫するが、1960年春の選抜への出場を決める。選抜では2回戦(初戦)で北海高佐藤進投手に抑えられ敗退[1]。同年夏は県予選決勝に進出するが、明石高に敗れ甲子園には届かなかった。高校同期に井上勝巳投手がいる。

卒業後は立教大学に進学。当時の立大は有力選手の中退が相次ぎ、東京六大学リーグでは在学中に優勝はできなかったが、中心打者として活躍。リーグ通算84試合出場、274打数67安打、打率.245、0本塁打。

1963年秋季リーグの明立2回戦では、牽制球で二塁に帰塁する際に、明大住友平二塁手のスパイクを受けて負傷退場。住友と浪商高校同期の前田周治(立大-立正佼成会河合楽器)との乱闘事件の引き金となる。1964年春季リーグでは遊撃手としてベストナインに選ばれる。同季の慶立2回戦で、慶大渡辺泰輔投手がリーグ初の完全試合を記録した試合の3番打者であった。1964年10月には、東京五輪デモンストレーションゲームとして開催された日米大学野球選抜試合に二塁手として出場している。大学同期(いずれも中退)に松本照夫山口富士雄森本潔がいた。

現役時代・コーチ時代

1965年読売ジャイアンツに入団。二塁手と遊撃手を掛け持ちして、新人ながら105試合に出場すると、翌1966年からは二塁手のレギュラーに定着。同年から始まった前人未到の記録V9の主力選手のひとりとして、チームに貢献した。

V9前半(1960年代後半)は主に2番打者を務め、クリーンナップである王貞治長嶋茂雄へのつなぎ役であった。打撃面では追い込まれたカウントでもファウルで粘ったり、右翼方向を狙うなど、玄人好みの打撃が光った。長打力はなかったが、1967年打率.289(リーグ10位)、1968年は.293(リーグ6位)と2年連続で打撃成績ベスト10に入っている。また、犠打などの小技や走塁技術にも優れ、二塁手としても堅実な守備を見せ、1968年と1969年の2年連続でベストナイン二塁手のタイトルも獲得した。

特に土井が名声を挙げたのは、1969年の日本シリーズ(巨人対阪急)での本塁突入の走塁である。この日本シリーズ第4戦(10月30日)の4回裏、無死1・3塁でダブルスチールが敢行された。阪急の捕手岡村浩二から二塁手山口富士雄を経て再び送球を受けた岡村は、本塁突入を図った三塁走者の土井をブロック。傍目にはブロックが完全に成功したように見えたが、球審岡田功はセーフの判定を下した。この判定を信じられず激昂した岡村は同球審に暴力を振るい、日本シリーズ史上初の退場処分を受けた。試合後、川上監督は土井に「ベースを踏んだのか」と聞くと、土井は「踏んだ」と無表情に答えたという。その翌10月31日に岡村のブロックを掻い潜って股の間からホームベースを踏む土井の足を写した写真が、各新聞の第一面に掲載された。このことから、土井の走塁技術と審判の的確さが賞賛された。同走塁はメディアにおいて「奇跡の走塁」と評され、土井は「忍者」と称された。

V9時代後半(1970年代前半)は7番や8番など下位打者を務め、引き続き二塁手のレギュラーとしてチームを支えた。V9以降はチーム編成上の事情もあって、上田武司富田勝デービー・ジョンソンらに定位置を明け渡すこともしばしばあり、出場試合を減らす。この間の1976年からはコーチを兼任している。

1977年から1978年にかけては正二塁手に返り咲き、特に1978年(同年は大洋からジョン・シピン二塁手が加入も、同年は主に外野手として起用)は打率.285、リーグ最多の犠打27個を記録し、ダイヤモンドグラブ賞を獲得するなど活躍した。土井自身はこの好成績に年俸アップを考えていたところ、長谷川実雄球団代表から現役引退・コーチ専任の打診を受ける。これは一軍守備・走塁コーチだった黒江透修を解任してその後継に土井を充てるという目的で、土井は現役続行の意志があった上に、コーチ専任によって収入が半減することもあって抵抗するが、長谷川の説得に折れ、同年限りで現役を引退した[2]

引退後は1979年から1980年まで巨人の一軍守備・走塁コーチを務め長嶋の監督解任に伴い退団。1981年から1985年まで日本テレビ野球解説者、1986年から1988年まで再び巨人の一軍守備コーチ、1989年から1990年まで日本テレビ・ラジオ日本野球解説者を務めた。1度目の巨人コーチ時代には、中畑清の代名詞「絶好調」の生みの親となった(詳しくは中畑の項を参照)。

オリックス監督時代

テンプレート:スポーツ選手の出典明記 1991年オリックス・ブルーウェーブの監督に就任。土井の前に長嶋茂雄に監督要請するが断られて長嶋が土井を推薦し監督に就任した[3]山内一弘をヘッド兼打撃コーチ[4]外木場義郎を二軍投手コーチで[5]招聘した。

当時のオリックスは「ブルーサンダー打線」と愛称がつけられた打高投低のチームで、Aクラスではあり続けるものの優勝には手が届かない状況だった。阪急西宮球場から両翼が8m近くも広くなるグリーンスタジアム神戸への移転のため、当然本塁打の減少が予測され、打線に従来の破壊力は期待できない一方、投手には有利となるので、(このため、長谷川滋利野村貴仁田口壮らが入団する一方で、上田利治前監督時代の主力選手だった松永浩美ブーマー・ウェルズ熊野輝光などが他球団に移籍することになる)。そのような青写真を掲げて望んだ監督1年目の1991年は、順位こそAクラスである3位(勝率.504)だったが、開幕直後から負けが込み優勝争いには絡めず、上位の西武近鉄には大きく負け越していた。

1992年にはシーズン前のキャンプで、当時ルーキーだった田口など若手の選手に内野守備を指導するため新品のグラブを用意した。田口を開幕スタメンに起用し、また非常に厳しい指導を施した(結果としては田口は指導が合わず送球イップスにかかってしまい、土井退団後の1994年に外野手にコンバートされた)。同シーズンも、勝率5割未満(勝率.492)でAクラスは維持した。

1993年には、松永とのトレードで移籍してきた野田浩司が最多勝を獲得する活躍などで勝率は大きく上がったが、(勝率.556)3位に終わった。同年限りで監督を辞任。この3年間はすべて前半戦終了時Bクラスからの3位という形でシーズンを終えており、。、阪急以来のファンからは反感を買い続け、3年間受け入れられることはなかった。阪急時代の名残を残していたチームカラーを急激に変えようとした結果、選手はおろかファンもついていけなかったこと、そして土井本人の巨人OBイメージの濃さが、チームに合わず結果にも人気にも繋がらなかった。

契約最終年の1993年はシーズン中球団代表の井箟重慶に「僕は来年も契約してもらえますか?」と聞きその後は「あんた、オレをクビにするつもりだろう」と何度もカマをかけたが井箟に最後の最後まで「まだ、決めていない」で通された[6]

ペナントレース終盤、監督室で井箟に契約を更新をしないと通告され「あんたが決めて、監督を代えるようにオーナーに言ったんだろ!」と悪態をついたが、チーム方針ですでに決定事項だと説明すると、さすがに観念した様子で「わかりました」と言い、井箟によるとわだかまりやしこりは残らなかったという[7]。3度目の巨人コーチ時代には野村貴仁のトレードにも関わり、「長嶋監督が欲しいと言っているので」と井箟に交換トレードを打診して来たという[7]

監督退任後

その後は1994年から1995年までラジオ日本を経て、1996年に古巣・巨人に一軍総合守備コーチとして復活し同年リーグ優勝したものの日本シリーズではオリックスに敗れた。1997年から1998年まで一軍内野守備コーチを務めた。長嶋一茂との確執はあったものの、ルーキーの年にサードを守っていた仁志敏久が翌年にセカンドにコンバートした際に熱心な指導をして不動のセカンドに育て上げた[8]。その後、野球解説者の傍らプロ野球マスターズリーグ「札幌アンビシャス」(2006年)の監督を務めた。東京スポーツの専属評論家を務めた[9]

2007年6月8日、巨人軍通算5000勝記念イベントの一環として行われた、V9ユニフォーム復刻シリーズ初日のV9戦士勢揃い始球式に、歩行もおぼつかない車椅子姿で参列した。同イベント終了後、本人が膵臓ガンを患い3月に手術を受けたことを公表した。入院加療していたが、7月27日に退院。それ以後は2008年1月のプロ野球マスターズリーグ表彰式に姿を現した以外は自宅療養を続けていた。

2009年9月25日午後0時24分、東京都内の病院にて死去[10][11]。67歳没。戒名は「専心院法巧日正居士」。 葬儀は9月29日に東京都大田区の池上本門寺で営まれ、約300人の球界関係者などが参列し、車椅子で川上哲治が弔辞を約15分間読み上げた。この土井の葬儀が、川上が公の場に姿を表した最後となった[12]。また一般のファンも約300名が外で別れを惜しんだ。

土井の闘病の様子は、2009年3月29日に放送された『報道特集NEXT』(TBSテレビ)及び毎日放送関西ローカルのドキュメンタリー番組『映像09』にて紹介されており、ワールド・ベースボール・クラシックの決勝戦(日本韓国)の模様を私邸のベッドから起き上がりながらテレビ観戦している映像が、事実上公の場での最後の姿となった。

指導者としての評価

監督として

オリックス監督時代の土井につきまとう評価は「イチローを見出せなかった」というイメージである[13]。もっとも、1993年は高卒2年目の鈴木一朗(当時)を開幕戦にスタメンで起用し、その後しばらく一軍で起用していた。その後、「一軍のベンチに置くくらいなら二軍で4打席を与えたかった」ため、代走で出した試合の牽制球アウトをきっかけに二軍へ落とした[14][15](開幕から二軍落ちまでの打撃成績は12打数1安打)。土井は1996年2月のインタビューで、「間違ったことをしたとは思わない。1993年は春から使ったが打率は1割7~8分そこそこ。順番を付けるとしたら5番目の外野手。僕は3年契約最後の年だったし、そういう選手を使う度量も余裕もなかった」と語っている[14]。また、パンチ佐藤は、イチローが野茂からプロ入り初本塁打を放った翌日に二軍落ちさせられたというエピソードを語っている[16]が、これは誤りであり、その後7試合連続で起用(うち6試合で先発出場)されたが、20打数4安打、打率.200・出塁率238・長打率.250と結果を残せず二軍落ちというのが真相である。

また、イチローに「振り子打法」をやめるように指示したといわれている。当時の土井はマスコミに対しても「鈴木のあの打法はプロ野球では通用しない」と公言。監督退任後も「あの振り子はイチローにしか出来ない打法であって、本来プロでは通用しない打法である」という主張は曲げておらず、「たとえイチローが4割打とうとも私は彼の打法を認めない」と発言した[17]。一方でイチローが2年連続首位打者に輝いた後の1996年2月のインタビューでは、「入団した年に初めて見た時からイチローはいずれ首位打者をとると確信していたが、ひ弱に感じた。タイトル争いをするとのみ込まれちゃう。一回ガツンと下へ落とせばたくましくなるだろうと思った」「ところが、200本安打の大記録をイチローはあっさりやってのけた。この2年間、『オレのやり方は違っていたのか』と考えさせられたのも事実。今の若い子に精神力なんて関係ないのかな、プレッシャーのない人間もいるんだなと……。結局、僕の方が教えられたな」と語っている[14]。1992年春季キャンプでは、球団社長や宮内義彦オーナーに異例の二軍キャンプ視察を促し、川上哲治がオリックスのキャンプを視察に訪れた際には、土井は新人のイチローを「福本豊の後継者になれる」「15年間はチームのリードオフマンを張れる逸材かもしれない」と評価しつつも、「鈴木の性格には難がある(生意気である)為、その性格が直るまでは(一軍で)使わない」と川上に話していたという[18]

イチロー入団時のオリックスの外野は高橋智本西厚博藤井康雄の主力に、1993年に入団したタイゲイニー柴原実山森雅文佐藤和弘(現:パンチ佐藤)、DHは石嶺和彦という攻・走・守全ての面でメンバーで固められており、当時1・2年目のイチローが入る余地がなかったとも言える[19]。そのような中でも土井はイチローを高卒の新人選手としてはかなり優遇して使っており、1992年には7月以降9番打者や2番打者としてたびたびスタメン出場させたり、1993年の開幕戦にもスタメン出場させたりしている。また、イチローが全国区となった1994年は、石嶺がFAで退団、藤井、タイゲイニー、高橋智の出遅れが重なっていたという事情もあった。

ガンに倒れた後に自身が評論家を務める東京スポーツに、通算3000安打達成の際に寄せたコメントでは、イチローが土井の体調を心配した事について触れていた他、イチローを二軍に落としたのは、あの段階ではまだ充分に体力がついていなかった為とコメントし、後年の活躍でバッシングを受けた際、イチローの父・鈴木宣之から「あの経験があったから現在がある」と慰められた事を紹介した。イチローも「いつも気にかけてくれていた」と証言しており、そうしたイメージを否定している[13]。鈴木宣之は文藝春秋2018年2月号では「オリックスに入団して、一、二年目の監督だった土井正三さんにも感謝しなければなりません。あの二年間は、認めてもらない悔しさがあり、プロで戦う体力を作っていく時間でもありました。エネルギーを溜めることができたからこそ、三年目で爆発できたのです。一つ一つの出会いが、大きな意味を持つことになりました。」と述べている[20]

イチローは2003年の時点で土井について度々言及しており、ビートたけしとの対談では「感謝しているんですよ。世間ではふたりの仲は良くないって言われてますけど、そうではないんですよ。土井さんは次の年のために、しっかりと体を作れっていう指示を出してくれていたみたいなんですよ」「その年で土井さんは監督を辞められたわけですけど、もし仰木監督の就任がなかったら、土井さんは僕を使う予定だったらしいんです」と述べ[21]、ファン212人を前にした糸井重里との対談では、「土井監督と僕とは、みなさんが思っているような犬猿の仲じゃないんです」「お会いすればもちろんお話をしますし、本当に感謝しているんです。そこは、誤解しないでくださいね」と語っている[22]。振り子打法を考案した河村健一郎は、「イチローを二軍に落とすよう主張したのは、ダウンスイングに打法改造するよう指示した一軍打撃コーチであり、土井監督は打撃コーチの意見を尊重せざるを得なかったにすぎない」と述べている[23](ここで触れられている「(一軍)打撃コーチ」とは土井がオリックスで監督を務めた3年間、一貫してヘッド兼打撃コーチとして在籍した山内一弘のことである。山内は土井より10歳年上)。イチロー自身も同様の証言をしており、実際にイチローの打法に対してしつこく干渉してきたのは、一軍打撃コーチだったという[24]。土井は2001年ピオリアを訪れ、シアトルの記者から「なぜ(イチローを)使わなかったんだ」と質問された際、「当時の打撃コーチが彼(イチロー)のフォームを好きじゃなかったから」と答えている[25]

オリックスの投手であった星野伸之は、土井について「人柄はソフトで優しいが、野球のことになると、妥協を許さないところがあった」と評している。星野が1安打完封をした日、星野は監督室に呼ばれ、土井から「あのヒットだけどな、配球が違ってたな。ちゃんと投げとけば、ノーヒットノーランだったのに、もったいない」と30分程説教されたという[26]

野田浩司は、オリックス移籍後2試合目の登板となった近鉄戦で、2回まで4失点で2回で降板と思っていた時、土井から呼び出され、「セ・リーグなら、こんなピッチングをしたら代打だが、パは投手に打席はない。俺は少々のことでは代えない。気持ちを入れ直して次の回からいってみろ。」と言われたという[27]。3回からはペース配分など考えず投げ、4回は得意のフォークボールも落ち、5回には石嶺の3ラン本塁打でチームが逆転し、当時自己最多の15奪三振で移籍後初勝利となった[27]。野田は土井の「俺は簡単に代えないよ」という言葉に意気を感じ、投げ続けたことが同年の最多勝につながったと語っている[27]

土井に批判的な選手もおり、ブーマー・ウェルズは土井について「土井監督が来てからチームは落ちていった。土井監督とうまくやれた選手がいない」と厳しい評価をしている[28]。ブーマーは土井との確執で1991年限りでオリックスを退団した[29]。また、パンチ佐藤も自著「プロ野球・独断毒舌改造論」で土井を「D監督」とイニシャルで書いたり、引退時のインタビューで「プロへの扉を開いてくれた上田監督、芸能界への扉を開いてくれた仰木監督、…途中何かありましたけども」と述べたりしている。佐藤義則は「選手としては日本シリーズで巨人を破って3連覇を果たした[30]という自負があるのでV9の野球がすべてと言われてもちょっと待てよと思ってしまう。自分がコーチになっていろんな球団を巡るようになってあの時の経験が生きた。オリックス、阪神、日本ハム、楽天と渡り歩いてきた中で僕は前のチームはこうだったという話はなるべくしないようにしてる。自分がコーチになった時に意識したのは前にいたチームのよさを強調されると前からいる人間は面白くないし寂しさを感じる。いい所を見てスタートしなければならない。その意味では土井監督との3年間は無駄ではないと思っている。」と述べている[31]

コーチとして

上記のようにオリックス監督時代の評価は低い傾向があるが、巨人時代のコーチとしての評判は良かった。ウォーレン・クロマティは「ドイは口うるさいのが玉に傷だったが、好感を持っていた。ナイスガイだった」と記している[32]。また、仁志敏久はセカンドとしての守備のあり方を指し示してくれた恩人として、土井をコーチとして高く評価し、感謝の意を表している[8]

土井からバント練習を命じられた長嶋一茂が「いらねぇよ! あんな奴!!」と発言した際は、「あいつの性格ならああいうことも言いかねない」と怒りを露にしなかった[33]。一方で球団は長嶋に罰金と二軍降格、および数試合の出場停止処分を下し、さらにシーズン終了後に戦力外を通告した。このように、コーチとしての能力は関係者から高く評価されており、監督としての評価との差を指摘されることが多い。こうした指導者にはほかに中西太福良淳一が挙げられている。

詳細情報

年度別打撃成績

















































O
P
S
1965 巨人 115 302 269 25 67 4 2 0 75 19 15 5 10 1 20 1 2 26 5 .249 .305 .279 .584
1966 129 480 420 67 103 10 1 5 130 39 14 12 25 2 29 0 4 32 1 .245 .299 .310 .609
1967 131 517 454 71 131 18 5 9 186 34 19 8 22 1 39 0 1 43 4 .289 .345 .410 .755
1968 124 516 464 68 136 18 5 3 173 47 21 4 14 6 29 0 3 43 10 .293 .334 .373 .707
1969 129 490 429 66 116 12 3 6 152 42 10 7 19 2 33 0 7 45 6 .270 .331 .354 .685
1970 113 418 375 50 94 11 1 5 122 19 10 3 15 4 24 2 0 39 3 .251 .293 .325 .618
1971 108 300 252 21 56 9 5 3 84 21 14 6 18 1 27 0 2 13 8 .222 .301 .333 .634
1972 123 456 393 50 106 10 2 8 144 37 9 6 19 1 37 1 6 24 14 .270 .341 .366 .707
1973 105 355 305 34 80 13 0 5 108 31 1 5 17 1 29 1 3 36 8 .262 .331 .354 .685
1974 94 162 145 13 27 6 0 0 33 12 4 0 7 1 8 0 1 11 4 .186 .232 .228 .460
1975 111 442 406 37 107 9 2 7 141 27 4 4 24 0 11 0 1 25 12 .264 .285 .347 .632
1976 89 255 231 25 58 9 4 2 81 20 4 1 8 3 10 0 3 22 5 .251 .287 .351 .638
1977 115 374 334 34 87 19 1 8 132 49 6 1 17 5 17 1 1 16 3 .260 .286 .395 .681
1978 110 435 376 46 107 11 1 4 132 28 4 3 27 2 27 2 3 18 7 .285 .336 .351 .687
通算:14年 1586 5502 4853 607 1275 159 32 65 1693 425 135 65 242 30 340 8 37 393 90 .263 .314 .349 .663
  • 各年度の太字はリーグ最高

年度別監督成績

年度 チーム 順位 試合 勝利 敗戦 引分 勝率 ゲーム差 チーム
本塁打
チーム
打率
チーム
防御率
年齢
1991年 平成3年 オリックス 3位 130 64 63 3 .504 18.5 127 .261 3.90 49歳
1992年 平成4年 3位 130 61 64 5 .488 18.0 88 .272 3.58 50歳
1993年 平成5年 3位 130 70 56 4 .556 3.5 125 .253 3.24 51歳
通算:3年 390 195 183 12 .516 Aクラス:3回

表彰

記録

初記録
節目の記録
  • 1000試合出場:1973年6月17日、対広島東洋カープ10回戦(広島市民球場)、6回表に島野修の代打で出場 ※史上165人目
  • 1000安打:1975年9月4日、対大洋ホエールズ22回戦(後楽園球場)、9回裏に山下律夫から三塁内野安打 ※史上93人目
  • 1500試合出場:1978年5月12日、対中日ドラゴンズ6回戦(ナゴヤ球場)、2番・二塁手で先発出場 ※史上56人目
その他の記録

背番号

  • 6 (1965年 - 1978年)
  • 66 (1979年 - 1980年)
  • 72 (1986年 - 1988年)
  • 75 (1991年 - 1993年)
  • 71 (1996年 - 1998年)

関連情報

出演番組

CM

参考文献等

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脚注

  1. 「選抜高等学校野球大会60年史」毎日新聞社編 1989年
  2. 近藤唯之 『引退 そのドラマ』新潮社(新潮文庫)、1986年、122-124頁
  3. 【パンチ佐藤】イチロー選手から仰木監督まで…裏話炸裂! 2015年03月21日
  4. 「とにかく石頭だった」という山内一弘監督 週刊ベースボール、2015年6月13日(土) 8:00
  5. 野村貴仁著、再生、角川書店、2016年、P74
  6. 井箟重慶、オリックス元代表 球界への遺言、土井監督は何度もカマを、2017年6月21日、日刊ゲンダイ
  7. 7.0 7.1 井箟重慶、オリックス元代表 球界への遺言、就任内諾の仰木彬監督が大慌てでNYに電話してきたワケ 2017年6月22日、日刊ゲンダイ
  8. 8.0 8.1 仁志敏久著『プロフェッショナル』
  9. ハダカの長嶋巨人(23) 2016年03月07日
  10. “V9戦士 土井正三氏、巨人3連覇見届け死去”. Sponichi Annex (スポーツニッポン新聞社). (2009年9月26日). http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2009/09/26/01.html . 2009閲覧. 
  11. “土井正三さん:死去67歳 巨人のV9支える”. 毎日新聞. (2009年9月25日). http://mainichi.jp/select/person/news/20090925k0000e050081000c.html . 2009閲覧. 
  12. 川上哲治氏死す 打撃の神様、巨人V9監督 大往生93歳 スポーツニッポン 2013年10月31日閲覧
  13. 13.0 13.1 “才能見いだせなかった?イチロー「そうじゃないのにねえ…」”. 共同通信. スポーツニッポン. (2009年9月26日). http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2009/09/26/kiji/K20090926Z00000610.html . 2016年4月1日閲覧. 
    “自分のこと気にしてくれた 土井氏の死去にイチロー”. 共同通信. デイリースポーツ. (2009年9月26日). オリジナル2009年9月30日時点によるアーカイブ。. https://archive.is/20090930061217/http://daily.co.jp/newsflash/2009/09/26/0002388585.shtml . 2016年4月1日閲覧. 
  14. 14.0 14.1 14.2 【じっくりとっくり】土井正三(巨人コーチ) イチローには教えられたかな 毎日新聞(1996年2月11日)
  15. 元巨人・土井正三氏、死去 ~V9巨人の絆とイチロー秘話~
  16. http://www.news-postseven.com/archives/20160326_394392.html
  17. 栗山英樹 監修『言葉の魔球 野球名言集』出版芸術社 95ページ
  18. 2009年3月28日TBS報道特集内の川上による証言。
  19. 前出のインタビュー記事(毎日新聞1996年2月11日付)では当時のイチローは「5番目の外野手」であったと評価している。
  20. 文藝春秋2018年二月号、平成6年 イチロー「勝負の年」の二百本安打、鈴木宣之 イチローの父、251頁
  21. 『イチロー 北野武 キャッチボール』(2003年)
  22. 『イチローに糸井重里が聞く キャッチボール ICHIRO meets you』(2003年)
  23. 東京スポーツ2010年11月2日「イチロー700日戦争」第12回 河村健一郎
  24. GYAO!のイチローインタビュー動画「イチローの第1歩」(2010年3月)
  25. https://web.archive.org/web/20020212190228/http://www.sponichi.co.jp/usa/kiji/2001/02/26/02.html
  26. 星野伸之『真っ向勝負のスローカーブ』新潮社
  27. 27.0 27.1 27.2 初めて明かす 僕とフォークと奪三振・野田浩司(元阪神・オリックス) - 日刊ゲンダイ2011年9月22日付
  28. 『阪急ブレーブス黄金の歴史 よみがえる勇者の記憶』ベースボール・マガジン社
  29. 『週刊プロ野球データファイル』2013年98号、ベースボール・マガジン社、2013年、P10
  30. 佐藤はシリーズ3連覇目となる1977年に阪急入りし、同年のシリーズでは日本一を決めた第5戦に先発登板。
  31. 永谷脩著、超一流の育て方 (中経の文庫)KADOKAWA/中経出版)、2013年、P198-P201
  32. ウォーレン・クロマティ著『さらばサムライ野球』
  33. 一茂の父である茂雄と土井は立教大学の先輩後輩で常日頃から懇意にしており、土井と一茂も幼少の頃からの知り合いである。

関連項目

外部リンク

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