和歌山城

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和歌山城
和歌山県
別名 虎伏城、竹垣城
城郭構造 梯郭式平山城
天守構造 連立式層塔型3重3階(1605年または1619年築・1850年再)
外観復元(1958年再)
築城主 豊臣秀長
築城年 1585年(天正13年)
主な改修者 浅野幸長徳川頼宣
主な城主 豊臣氏浅野氏徳川氏
廃城年 1871年(明治4年)
遺構 門・塀、庭園、石垣、堀
指定文化財 国の重要文化財(岡口門・続塀)
国の史跡
国の名勝(西の丸庭園)
和歌山市文化財(追廻門)
再建造物 天守、櫓、門、橋
位置 北緯34度13分39.46秒
東経135度10分17.84秒
地図
和歌山城の位置
和歌山城
ファイル:Wakayama Castle19nt3200.jpg
天守から二の門櫓(左上)と乾櫓(右上)を望む

和歌山城(わかやまじょう)は、和歌山県和歌山市一番丁にある日本の城平山城)である。徳川御三家の一つ紀州藩紀州徳川家の居城である。城跡は国の史跡に指定されている。

概要

和歌山城は和歌山市の中心部に位置する標高48.9mの虎伏山(とらふすやま)に建造され、北部を流れる紀の川を天然の堀とする。本丸の北側に二の丸が配され、その外に大きく三の丸が配された、梯郭式平山城である。

徳川頼宣1621年(元和7年)より城の大改修と城下町の拡張を始め、計画では完成時より更に大規模な城構えになる予定であったが、大規模な改修であったため幕府より謀反の嫌疑をかけられるほどであった。しかし、附家老安藤直次の弁明で事なきを得た。また、外堀も拡張して総構えにしようとしたが、幕府より嫌疑をかけられ中止させられてしまったため、堀止の地名が残っている。後、数度の火災に遭ったが、その度に再建された。現在、城跡として現存しているのは最盛期の4分の1ほどの面積である(城の北側から見た図)。

その他、特徴としては時代によって異なる石垣の積み方などがある。それに、豊臣・浅野時代の石垣には刻印された石垣石がある。模様は約170種類、2,100個以上の石に確認されているが、その大半が和泉砂石である。

現在は、本丸と二の丸が和歌山城公園となっており、本丸南西部には和歌山縣護国神社があり、南の丸には和歌山公園動物園がある。主に三の丸跡等には和歌山県庁舎和歌山市役所和歌山市消防局和歌山地方裁判所和歌山家庭裁判所和歌山地方検察庁をはじめ公的機関や学校、商業施設、オフィス街、和歌山中央郵便局県立近代美術館県立博物館などがある。

遺構として石垣、堀をはじめ、公園内には岡口門と土塀、追廻門が現存している。中でも岡口門と土塀は国の重要文化財に指定され、二の丸にある大楠は和歌山県指定天然記念物である。また、大小天守群とそれに続く櫓・門、大手門・一之橋が復元されている。

歴史・沿革

安土桃山時代

豊臣秀吉の弟・秀長は、1585年(天正13年)の紀州征伐の副将として参陣し、平定後に紀伊和泉の2ヶ国を加増された。当時は「若山」と呼ばれたこの地に秀吉が築城を命じ、自ら「吹上の峰」[1]を城地に選定し縄張りを行った。普請奉行に藤堂高虎、補佐役に羽田正親横浜良慶を任じ、1年で完成させた。この際に和歌山と改められている。

1586年(天正14年)、桑山重晴に3万石を与え城代に据えた。重晴は本丸を中心に手直しを行った。1596年(慶長元年)重晴隠居に伴い孫の一晴が城代を継いだ。

江戸時代

ファイル:Wakayama001.jpg
紀伊国名所図会の大手御門辺の図
ファイル:Wakayama002.jpg
紀伊國名所図会の吹上御門周辺の図

1600年(慶長5年)、関ヶ原の戦いの後、東軍に属した桑山一晴は正式に紀伊和歌山に2万石を与えられたが、まもなくして大和新庄藩に転封となった。その後、同じく東軍に属した浅野幸長が軍功により37万6千石を与えられ紀州藩主となり入城した。幸長も引き続き城の改修を行っている。1605年(慶長10年)頃、下見板張りの天守が建てられた[2]。その後、長晟が土塁から石垣に改修した。

1619年(元和5年)、浅野氏は改易となった福島正則の後、広島藩に加増転封となった。代わって徳川家康の十男・頼宣が55万5千石で入城し、南海の鎮となる御三家紀州徳川家が成立した。頼宣は兄の2代将軍徳川秀忠より銀5千貫を受領し、これを元手に1621年(元和7年)より城の改修と城下町の拡張を開始した。しかし、この改修が大規模であったため幕府より謀反の嫌疑をかけられるほどであった[3]

1655年(明暦元年)11月、西の丸に隣接する家臣屋敷より出火。西の丸・二の丸に延焼した。1813年(文化10年)には西の丸大奥より出火し西の丸御殿が全焼した。

1846年(弘化3年)7月26日に雷雨があり、天守曲輪に落雷。御殿を除く大小天守など本丸の主要建造物が全焼した。当時の武家諸法度では天守再建は禁止されていたが、御三家という家格により特別に再建が許可され、1850年(嘉永3年)に大小天守等が再建された。

近現代

1871年(明治4年)、全国城郭存廃ノ処分並兵営地等撰定方(廃城令)により廃城となり、多くの建造物が解体もしくは移築された。二の丸御殿は、1885年(明治18年)に大坂城へ移築され、1931年(昭和6年)より大阪市迎賓館紀州御殿)として使用され、戦後米軍施設として使用中1947年(昭和22年)失火により焼失した。

1901年(明治34年)に本丸・二の丸一帯が、和歌山公園として一般開放された。

1908年(明治41年)城内の二の丸に和歌山県立図書館が開館。

1931年(昭和6年)に国の史跡に指定され、1935年(昭和10年)には、天守など11棟が国宝保存法に基づく国宝に指定された。しかし、1945年(昭和20年)7月9日のアメリカ軍による大規模な戦略爆撃和歌山大空襲)により天守などの指定建造物11棟すべてを焼失した。

1957年(昭和32年)、岡口門とそれに続く土塀が国の重要文化財に指定された。翌1958年(昭和33年)に天守群が東京工業大学名誉教授藤岡通夫の指示を受け、鉄筋コンクリートにより再建された。

1983年(昭和58年)には1909年(明治42年)に老朽化し崩壊した大手門と一之橋が復元された。

2006年(平成18年)4月、二の丸と西の丸を結んでいたとされる御橋廊下の復元工事が竣工した。また、同年4月6日日本城郭協会から日本100名城(62番)に認定された。

2010年(平成22年)6月から、2011年(平成23年)2月にかけて、大天守(1層)や天守曲輪の一部に対し、クリーニング及び再塗装を実施した。

構造

本丸

本丸御殿は、虎伏山の頂上付近にあったため、藩主は二の丸御殿に住むようになっていった。初代・徳川頼宣と正室・瑤林院(加藤清正の娘)、14代・徳川茂承と正室・倫宮則子女王(伏見宮邦家親王の娘)が邸宅に定めた。また、倫宮則子女王が住んだため、宮様御殿とも称された。

1621年(元和7年)に造られた本丸庭園には、宝船を模した七福の庭があったが、給水場設置に伴い、1923年(大正12年)に松の丸へ移築された。

天守曲輪

天守曲輪は菱形にちかい平面をしており、基壇の面積は2,640m2ある。

  • 大天守
  • 小天守
  • 乾櫓
  • 二の門櫓
  • 天守二の門(楠門) - 戦災で焼失した天守曲輪で唯一、木造で復元された。
  • 台所

天守

天守は大天守と小天守が連結式に建てられ、更に天守群と2棟の櫓群が渡櫓によって連ねられた連立式と呼ばれるものである。姫路城松山城と並んで日本三大連立式平山城の一つに数えられている。

1850年嘉永3年)再建当時の大天守は3重3階で、天守台平面が菱形であるため、初重に比翼入母屋破風を用いて2重目以上の平面を整えている。南面に入母屋出窓があり、初重には曲線的な石落としが付けられていた。焼失した天守の創建年は不明であるが、それについては浅野幸長が創建したとする説(1600年(慶長5年)築)[1]と頼宣が創建したとする説(1619年元和5年)築)[4]がある。創建時は、下見板張りの壁面であったと考えられている[2]

1847年弘化4年)に焼失した際、大天守を5重にする案も出され、天守雛形(木組み模型)と図面が作成されたが、幕府への遠慮と財政難のため、構造は先代天守を踏襲し外部壁仕上げを下見板張りから白漆喰総塗籠めへ意匠を変えるにとどまったものとみられている[1]

天守は国宝(旧国宝)に指定されていたが、和歌山大空襲で焼失し、現在のものは、1850年(嘉永3年)の天守再建時の大工棟梁・水島平次郎の子孫である栄三郎が所蔵していた天守図と『御天守御普請覚張』を参考にして1958年(昭和33年)に再建されたものである。復元には東京工業大学名誉教授藤岡通夫の指示を受け、鉄筋コンクリート構造による外観復元とされた。復元設計にあたり、参考にされていた文献や図には天守群の高さが記入されていなかったため、焼失前に撮影された写真に写る他の建造物との高低比から天守群の高さが算出された。

二の丸

初代頼宣と14代茂承以外の藩主は、二の丸御殿に住んでいた。また、二の丸御殿は江戸城本丸御殿を模していたため、表・中奥・大奥に分かれていた。また、大奥があるのは、江戸城・和歌山城・名古屋城のみである。表は紀州藩の藩庁、中奥は藩主が執務を行う普段の生活空間、大奥は藩主の正室や側室たちの居所として機能した。現在、二の丸御殿の表・中奥に相当する場所は広場として開放され、大奥に相当する場所は芝生が養生され整備されている。

西の丸

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重要文化財・岡口門

和歌山城西之丸庭園は、江戸時代初期に西の丸御殿とともに造られた日本庭園で、紅葉渓庭園とも呼ばれる藩主の隠居所であった。城の北西麓という地形を活かし、鳶魚閣や二段の滝が設けられている。しかし、戦災で天守などとともに焼失しその後、図面などを基にして1972年(昭和47年)に鳶魚閣が再建されたが、御橋廊下復元の際に再び庭園の池などの調査を行った。それによると、鳶魚閣は実際には現在の場所ではなく、池の中央付近にあったと推測されている。また、松下幸之助から茶室紅松庵が寄贈されている。西の丸庭園は、江戸時代初期の遺構を残す大名庭園として、国の名勝に指定されている。

また、鶴の渓門跡に浅野時代の鶴の渓庭園跡がある。西の丸庭園前の山吹谷は、徳川時代までは水堀であった。

御橋廊下

藩主が生活している二の丸と、庭園がある西の丸をつなげる傾斜のある橋。藩主が移動するのを気づかれないために、壁付になっていた。江戸時代の図面をもとに復元されているおり、実際に通ることができる。

三の丸

紀州藩の重臣である水野家安藤家、三浦家などの上流藩士の邸宅が建ち並んでいた。廃藩置県の後は、公的機関や学校、商業施設、オフィス街になっている。

御蔵の丸

東堀沿いの石垣には、かつて多聞櫓が建てられていたため、城兵の昇降用の長大な雁木が残っている。

松の丸

松の丸櫓台から初代・頼宣が紀州富士龍門山)を眺め、故郷の駿河国を偲んだといわれている。

城門

岡口門
浅野時代には大手門であったが、浅野時代の後期に大手門から搦手門として修復された。1621年(元和7年)に徳川頼宣が行った城の大改修の際に再建された櫓門が現存している。現在の門櫓は切妻屋根であるが当初は、門櫓の両側に続櫓があった。
追廻門
砂の丸の乗馬調練場と門外の扇の芝馬場を結ぶである。馬を追い回したことからそう呼ばれた。姫路城などに見られる旧型の高麗門である[5]1984年(昭和59年)から翌1985年(昭和60年)にかけての解体修理により、江戸時代にはが塗られていたことが分かり、赤門であったと見られている。
赤門は御守殿(三位以上の大名家に嫁いだ徳川将軍家の娘)の住む御殿の門として建てられる、または御守殿を迎えた折りに門を赤く塗られたものをいうが、和歌山城の場合は二の丸の「御座の間」(藩主の居所)から見たとき裏鬼門南西))の方角に当たるため、魔除けのために赤く塗られたと推測されている。
京橋門
大手門(一之橋門)から北に伸びたところにあった櫓門。北堀(現・市堀川)に面しており、物見櫓もあったとされる。京橋の側に石碑が建つ。
本町門
京橋からさらに北にあり、真田堀に面したところにあった櫓門で城下町の境としていた。参勤交代の際は必ずこの門を通ったという。
不明門
「あかずの門」とも言われ、急を要する場合のみ開かれ、通常は閉じられたままであったという。和歌山城南側の三年坂に面した場所にあり、現在は和歌山城駐車場のゲートが置かれている。
吹上門
旧中消防署の前にあったとされる門。西側には吹上御門もあったとされるが明治期に埋め立てられた。現在、鳥居が建っている。

石垣

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和歌山城の石垣(野面積み)
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和歌山城の石垣(打込みハギ)

時代により石材や積み方の技法が異なっている。 豊臣秀長の時代は緑色片岩を中心とした自然石を切り出してそのまま積んだ「野面積み」の石垣が作られた。 浅野幸長の時代には、友ヶ島等に石切場を整備し、石を打ち欠いて加工しはぎ合わせて積む「打込みハギ」の石垣が作られた。 徳川期には熊野の花崗斑岩を用いて、切石で精密に積んだ「切込みハギ」の石垣が作られた。[6]

文化財

重要文化財

  • 岡口門(附:土塀)

市指定文化財

  • 追廻門

焼失した文化財

以下の建造物は、国宝保存法に基づく国宝(文化財保護法における「重要文化財」に相当)に指定されていたが、1945年(昭和20年)7月9日、戦災で焼失した[7]

  • 大天守
  • 小天守
  • 北西隅櫓
  • 西南隅櫓
  • 楠門(櫓門)
  • 北東多門(単層櫓)
  • 北西多門(単層櫓)
  • 西多門(単層櫓)
  • 南多門(単層櫓)
  • 東倉庫
  • 西倉庫

ギャラリー

現地情報

交通アクセス

2012年度から高齢者や足の不自由な障害者向けに、天守入り口まで電動車いすで案内するスタッフを常駐させる[8]

周辺

その他

姉妹城郭

松下(パナソニック)との関係

和歌山城再建の際、松下幸之助(和歌山県出身)は最も多額の寄附をした。市の側でも松下の寄附を期待しており、「二ノ丸」の復原を依頼しようとしていたが、「寄付をするので天守閣にナショナルの看板を掲げさせてほしい」と冗談を交えて和歌山市に打診したという。

時代劇・童謡

水戸黄門』、『暴れん坊将軍』、『影武者徳川家康』、『徳川風雲録 八代将軍吉宗』、『天下騒乱〜徳川三代の陰謀』、『逃亡者おりん』などの時代劇を中心に撮影が行われている。中でも徳川家や吉宗に関するものは多い。

紀州の殿様を謡った童謡『まりと殿様』(作詞:西条八十、作曲:中山晋平)が城内のチャイムに使われており、八十直筆の歌碑が天守前広場に設置されている。再建50周年の城郭整備基金の寄付証書としても発行された[9]

チャイム

『まりと殿様』のチャイムは午前7時、午前9時、正午、午後3時、午後5時、午後9時、の1日計6回鳴らされる。かつてはドボルザーク交響曲第9番「新世界より」の第2楽章「家路」をアレンジしたチャイムも午後10時に鳴らされていたが、近隣住民からの苦情に伴い2010年頃を境に取りやめた。

参考文献

  • 『定本 日本城郭事典』 西ヶ谷恭弘、秋田書店、2000年、279-280。ISBN 4-253-00375-3。

脚注

  1. 1.0 1.1 1.2 加藤理文執筆『よみがえる日本の城1 大坂城』学習研究社 2004年(平成16年)
  2. 2.0 2.1 「御天守起シ御図面」1717年 和歌山市立博物館
  3. 大類伸 監修『日本城郭辞典』秋田書店 1970年刊(280ページ上段)
  4. 西ヶ谷恭弘監修『復原 名城天守』学習研究社 1996年
  5. 三浦正幸著『城のつくり方図典』小学館 2005年
  6. ぐるっとわかやま新発見15「和歌山城の石垣」広報わかやま2016年
  7. 文化庁編『新版 戦災等による焼失文化財 20世紀の文化財過去帳』、戎光祥出版、2003、p.401
  8. 珍しい「登城アシスト」常駐 和歌山城、高齢者ら電動車いすで天守閣に:産経新聞(2011年2月8日)
  9. 和歌山市

関連項目

外部リンク