「名鉄キハ8000系気動車」の版間の差分

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{{右|[[ファイル:Meitetsu-8200DC.jpg|thumb|240px|right|名鉄 キハ8000系]]}}
 
{{ブルーリボン賞 (鉄道)|9|1966}}
 
'''名鉄キハ8000系気動車'''(めいてつキハ8000けいきどうしゃ)とは[[名古屋鉄道]](名鉄)にかつて在籍した優等列車用[[気動車]]の一群を指す総称である。
 
 
 
[[日本国有鉄道]](国鉄)[[高山本線]]への直通列車運転を目的に、[[日本車輌製造]]で1965年と1969年の2回に亘り、6両ずつ合計12両が製造された。当初は[[準急列車]]に用いられ、その後[[急行列車]]、さらには国鉄ばかりか[[富山地方鉄道]]の[[特別急行列車|特急列車]]にまで充当されるという希有な経歴を持つ<ref group="注釈">元々、準急形・急行形車両であった車両が特急列車への格上げによって事実上の特急形車両になった事例は他にも[[東武200系電車|東武200・250系]]や[[東武300系電車|300・350系]]、[[国鉄157系電車|国鉄157系]]がある。</ref>。
 
 
 
第9回(1966年)[[鉄道友の会]][[ブルーリボン賞 (鉄道)|ブルーリボン賞]]受賞車。
 
 
 
== 直通運転の背景 ==
 
{{see also|名鉄特急#高山本線直通列車}}
 
名古屋鉄道は名岐鉄道時代の[[1932年]]([[昭和]]7年)10月から[[週末]]に、自社[[名鉄犬山線|犬山線]]と国鉄(当時の運営母体は[[鉄道省]])高山本線経由で[[名古屋市]]内の[[柳橋駅 (愛知県)|柳橋駅]]([[名古屋駅]]近くの名鉄[[ターミナル駅]]。[[1941年]]〈昭和16年〉廃止)から[[下呂駅]]への[[直通運転|直通列車]]を運行していた。当時は[[列車便所|便所]]取付・[[畳]]敷化などの改装を施した名鉄[[電車]]([[名古屋鉄道デセホ700形電車|モ750形]])を、高山本線内で国鉄[[蒸気機関車]]に牽引させることで、直通運転を実現していた。両線が近接している[[鵜沼駅]]に[[連絡線]]を設けて直通させている。
 
 
 
この背景には、名古屋駅 - 鵜沼駅間では[[岐阜駅]]経由の[[東海道本線]]・高山本線ルートより犬山線を経由する方が短距離という事情と、名鉄のターミナルであった柳橋駅は当時の名古屋市の[[中心市街地|中心街]]に位置していたこともあって、[[旅客]]誘致策の一環として名鉄が鉄道省に申し入れた。鉄道省側は当初、一私鉄の車両を省線で運行するには[[保安装置|保安]]上問題があるとして拒んでいたが、[[昭和天皇]]が犬山[[行幸]]の折に名鉄を利用していたこと、また、鉄道省も当時は観光客の誘致に力を入れていたこともあり、名鉄車両の省線乗入れを受け入れたものである。
 
 
 
名鉄ではこの乗入れ列車のために、当時の最新鋭車であるモ750形2両の半室を畳敷に改造した「お座敷電車」を用意し、「'''下呂行き特急'''」として大々的に宣伝した。下呂への往路は[[土曜日]]の[[昼]]過ぎに柳橋を出発し、復路は[[日曜日]]の[[夕方]]に柳橋へ到着するダイヤが設定され、週末の1泊[[旅行]]に適したものとなった。
 
 
 
その後[[1940年]](昭和15年)10月の[[戦時体制|戦時]][[ダイヤ改正]]からは国鉄の[[木造]]客車を名鉄線内で電車牽引する、逆乗入れの形態となった(運用上、この方が鉄道省の取扱が楽になる)。直通運転は[[太平洋戦争]]中に戦況の激化に伴って休止されたが、時期は不明([[1944年]]〈昭和19年〉改正時の[[時刻表]]には乗入れ列車の記述あり)となっている。
 
 
 
[[戦後]]、[[1960年代]]の国内観光[[流行|ブーム]]を背景にこの直通運転再開が目論まれた。名鉄側は以前から運転再開を希望していたが、実現の契機となったのは従来[[名鉄築港線]]によって担われてきた[[東名古屋港駅]]からの貨車輸送が[[1965年]](昭和40年)に開業した[[第三セクター鉄道]]の[[名古屋臨海鉄道]]に立替えられた事情があった。名古屋臨海鉄道には国鉄も[[資本]]参加しており、高山本線直通運転再開は築港線貨物輸送の[[補償]]という意味合いがあったようである。
 
 
 
すでに高山本線では[[1958年]](昭和33年)以降、気動車による[[準急列車]]が運行されて好成績を収めており、名鉄直通列車についても気動車が用いられることになった。この列車もまた準急列車としての設定が[[計画]]された。
 
 
 
名古屋鉄道(と同社に[[M&A|合併]]されたいくつかの[[鉄道事業者|鉄道会社]])は[[戦前]]こそ[[支線]]用の[[日本の気動車史#ガソリンカーの一般化|ガソリンカー]]を保有していたがそれらは[[戦中]][[戦後]]に全て[[電車]]の[[付随車]]に改造され、戦後長らく気動車の保有はなかった。だが、狭小な[[建築限界]]の名鉄線には幅広な国鉄形気動車が直通できないこと、また国鉄車両よりも水準の高いサービスが目論まれたこともあり、新たに専用の気動車を開発することになった。
 
 
 
== 仕様・構造 ==
 
=== 走行機器 ===
 
開発コストを抑制し、また国鉄線内では国鉄乗務員が運転するという事情から、[[操縦席|運転台]]と走行性能については[[1961年]]から量産されていた国鉄の[[急行形車両|急行形]]気動車[[国鉄キハ58系気動車|キハ58系]]に準じたものとなった。最高速度は95[[キロメートル毎時|km/h]]である。
 
 
 
{{Sound|meitetsu kitaalps kiha8003 zingumae.ogg|8003の走行音}}[[ディーゼルエンジン|エンジン]]はキハ58形と同一仕様の[[DMH17系エンジン|DMH17H形]](180[[馬力|PS]]/1,500rpm)を搭載、[[鉄道車両の台車|台車]]も同様の国鉄標準形である金属バネ台車のDT22C形・TR51B形が用いられた。[[液体式変速機|変速機]]や逆転機の減速比もキハ58系(ひいては一般形気動車)に等しい2.976である<ref group="注釈">[[国鉄キハ80系気動車|国鉄キハ80系]]は2.613(最高速度100km/h)、同キハ181系は2.362(同120km/h)、[[JR東海キハ85系気動車|JR東海キハ85系]]と名鉄キハ8500系が2.280、JR北海道キハ183系の130km/h対応車は2.000である。</ref>。ブレーキも国鉄形気動車同様の[[自動空気ブレーキ]]DAE-1形だが、高山本線での連続[[勾配]]を考慮し、キハ58系に中途から採用されていた機関ブレーキ機構([[エンジンブレーキ]]の制御回路)を当初から併設している。
 
 
 
名鉄線内の車両限界([[建築限界]])に対応するため車体寸法が縮小され、床下の艤装空間が不足することから、[[ラジエーター|放熱器]]は車端部の床上に置かれた。室内配置では自然通風による放熱が困難であるため、屋根上のファンで車体側面から吸気し、屋根上に排熱する強制通風式である。これは[[国鉄キハ80系気動車|国鉄キハ81形・キハ82形気動車]]の[[発電機|発電セット]]用冷却系と同様であるが、小断面車体で屋根高さも低い本系列では、通路の天井高さを確保するため、小径ファンを左右に振り分けて装備する。車体端部には冷却風の吸気口を配する。
 
 
 
保安装置は[[自動列車停止装置|ATS]]を装備し、'''M式ATS'''(名鉄式自動列車停止装置)と国鉄仕様のATS-S形の二重装備としている。
 
 
 
=== 車体 ===
 
[[ファイル:Meitetsu 8052 syanai.jpg|thumb|200px|right|キハ8052の室内]]
 
国鉄気動車を基準とした走行機器とは異なり、車体の内外装は独特の意匠をもつ。
 
 
 
名古屋鉄道は[[1959年]]に[[普通列車]]に用いられる車両としては日本初の「大衆冷房電車」[[名鉄5500系電車|5500系電車]]を送り出し、[[1961年]]には前面展望構造を備えた冷房付車[[名鉄7000系電車|7000系電車]]「[[パノラマカー]]」を開発していた。この先例との兼ね合いもあり、名鉄は直通準急用気動車についても冷房の搭載を決定した。冷房装置は名鉄で初採用のいわゆるポンプレス型で、屋上カバーは排気扇と一体化した連続形に、室内は平ら天井となった。キハ58系の設計に準ずるため、客室床面と窓[[框]](850mm)が共に名鉄の電車に比べて高く、側面はやや腰高に見える。側窓についてはパノラマカー同様のヒドゥン[[ピラー]]を用いた広い固定式連続窓(天地寸法 75 [[センチメートル|cm]])として眺望を確保し、[[普通車 (鉄道車両)|二等]]座席もパノラマカーと同様の[[転換クロスシート]]とした。座席のモケットは登場時灰緑色で特急昇格時に赤色へ、[[1980年代]]には7000系白帯車と同じ2色へと変化している。また私鉄としては異例な[[グリーン車|一等車]]も製造され、こちらは国鉄優等車両の一等車と同等の[[リクライニングシート]]を採用した。長距離運用のためデッキ付としトイレも設置されている。客室化粧版は7000系と異なり薄茶色の木目柄が採用され、少し上級なイメージであった。なお屋根高さが3,450mm、床面高さ1,250mmであったことから、客室天井高さは薄型のポンプレス式冷房装置を以てしても2055mmで、国鉄特急車と同様に低かった<ref group="注釈">国鉄キハ80系は床面高さが同じで、屋根高さは3,490mm。</ref>。
 
 
 
[[操縦席|運転台]]は正面貫通式の高運転台構造で、窓上両側に[[シールドビーム]]2灯を配置している点はキハ58系と共通である。運転台前面窓は隅部に斜めの平面ガラスを配置することで簡易なパノラミックウィンドウを採用し、前面は国鉄キハ82形の意匠に類似する。正面貫通路上はキハ58系にある[[方向幕|列車種別表示幕]]を廃した代わりにスピーカーが仕込まれ、名鉄特急(パノラマカー)の象徴である[[警笛#名古屋鉄道|ミュージックホーン]]の吹鳴装置を装備していた。通常の空気笛は冬季降雪時の伝播性(聞こえ易さ)を考慮して、国鉄車両と同型の[[タイフォン]]を装備した。<!-- 余談だがミュージックホーンは本来名鉄線内のみでの使用だったが直通先の富山地方鉄道にて使用された事もあった。-->
 
[[ファイル:Meitetsu-DC-8000.jpg|thumb|200px|right|犬山橋を通過するキハ8000形]]
 
国鉄気動車並みの20[[メートル|m]]級車体ではあるが、カーブなどで限界に抵触しないよう車幅をキハ8200形で2,710[[ミリメートル|mm]]に、他の形式では2,730mmに抑えた。これは国鉄キハ58系の全幅2,944mmより200mm以上狭い仕様である。のちに製造された[[名鉄1000系電車|1000系]]、[[名鉄8800系電車|8800系]]中間車やキハ8500系においては、20m級車体であっても端部の角を落とすことで2,740mmの車体幅を確保しているが本系列では車体全体の幅を抑えた構造になっているため特に車体幅が狭い。
 
 
 
[[枇杷島分岐点]]の急カーブに対応するため、連結面の隙間は国鉄車両の500mmより拡大され、730mmとしている。客用扉は[[戸袋]]の不要な2枚折戸を用い、車体内側の空間確保に配慮した。乗降口は乗降頻度の少なさと床上配置の放熱器を設置する空間を確保するため、運転台とは反対側の1か所のみである。
 
 
 
当時非冷房が主体であった国鉄の準急用車両に比べ<ref group="注釈">当時の準急・急行列車の二等車は一部の例外を除き非冷房で、一等車でさえ冷房化途上であった。当時の高山本線の準急列車には一等車いえども非冷房・非リクライニングシートの車両さえあった。</ref>、「特急車両」に準じて設計された本系列の接客設備は列車種別相応の設備から乖離する懸念も指摘されたが、名鉄は自社の方針を堅持した準急用気動車として本系列を完成させた(それと引き換えに全車指定席制となった。自由席が設けられたのは特急格上げ後である)。なお、本系列と同様に観光路線向けの準急用として特急車両並みの設備で登場し、実際に後年は専ら特急用とされた点では[[国鉄157系電車]]の前例がある(ただし同系は新製当初非冷房。また側窓は1段下降式であった)。
 
 
 
* 名鉄は元々市内電車を出発点とし、特に旧名岐鉄道の各路線では終戦直後(名古屋本線の直通運転開始)まで小・中型車両が主体であった影響から、今でも枇杷島橋梁付近などに急カーブが残り[[車両限界]](車幅)も国鉄・関東の[[大手私鉄]]などより一回り小さい「地方鉄道車両定規」2,744mmを守り通している。
 
 
 
== 個別形式 ==
 
 
 
=== キハ8000形 ===
 
{{vertical images list
 
|幅=200px
 
|1=急行北アルプス号美濃太田駅.jpg
 
|2=キハ8002
 
|3=Meitetsu 8000 sakou.jpg
 
|4=キハ8003
 
|5=Meitetsu 8052 toyama.jpg
 
|6=キハ8052
 
}}
 
片運転台の二等車で[[1965年]]7月に2両(8001・8002)が製造され、その後[[1969年]]9月に1両(8003)が増備された。走行用エンジン1基と、冷房電源用エンジンを1基搭載する。1976年の特急格上げ時、客室前方の一角に車掌室を設置した。
 
 
 
=== キハ8050形 ===
 
運転台のない中間二等車で、1965年7月に2両(8051・8052)が製造された。高山本線の急勾配に備え、走行用エンジンを2基搭載する。
 
 
 
=== キロ8100形・キロ8150形 ===
 
私鉄には珍しい一等車(1969年から[[グリーン車]])で1965年7月に先頭車1両(8101)中間車1両(8151)が製造された。リクライニングシートを装備し、他形式と同様の連続窓だが、座席1列に1窓の割で配置されているため窓幅が狭い。走行用エンジン1基と、冷房電源用エンジンを搭載する。
 
 
 
[[1970年]]の立山直通運転に際してグリーン車(旧一等車)の乗車率なども考慮した輸送力見直しが行われ、座席を普通車仕様の転換クロスシートに交換して普通車キハ8100形(8101)に格下げされた。8151には運転台取付改造も行われ、キハ8100形に編入されて8102となった。この時に取外されたリクライニングシートは当時計画のあった特急専用車に転用するため保管されていたが、車両計画の停滞により使用されないまま後年に廃棄されている。1985年に廃車された。
 
 
 
=== キハ8200形 ===
 
{{vertical images list
 
|幅=200px
 
|1=Meitetsu 8000 alpenexp terada.jpg
 
|2=キハ8202
 
}}
 
立山直通に際して不足する駆動力を補強するため増備。片運転台の普通車で、1969年9月に5両(8201 - 8205)が製造された。走行用エンジン2基の他に電源用エンジンまで搭載した重装備車であり、他のキハ8000系各形式の全長19730mmに対し、床下スペース確保のため全長を20730mm に延伸している。これは当時名鉄の車両で最大であった<ref group="注釈">名鉄において20m級車両は既に初代3700系(私鉄向け63系)の前例があったが、車体外寸が20mジャストで最大長が20m超となったのは本形式が最初。引き続きオーバーハングを自社の電車と同様に短く取ったため台車間が長く、曲線での車体偏倚が大きいため車体幅をさらに狭めることになった。</ref>。車体延長に拘らず、ラジエターの追加で定員はキハ8000形より4名減少した。また長い車体がカーブ通過時に車両限界に支障しないよう、車体幅もさらに狭い 2,710 mm となっている。キハ8000系のうちで最後まで残った形式である。
 
{{-}}
 
 
 
== 沿革 ==
 
=== 「たかやま」運用 ===
 
8000系は1965年8月から運行を開始した名鉄[[神宮前駅]] - [[高山駅]]間[[準急列車]]「[[名鉄特急#かつて運行された特急|たかやま]]」の専用車として、まず6両が製造された。当時から塗色は国鉄[[急行形車両|急行形]]気動車に準じ、[[クリーム4号]]地色に、窓回り、車体裾、屋根水切りが[[赤11号]]で、運転台周りの塗り分けも全く同一である。
 
 
 
冷房付のデラックス準急は名鉄沿線から高山方面へ出掛ける観光客に人気を集め、当初は全車[[座席指定席|指定席]]で運行されたにもかかわらず、特にオンシーズンは[[座席指定券|指定席券]]を確保するのが難しい列車となった。
 
 
 
国鉄は[[1966年]]に、走行距離100[[キロメートル|km]]以上の準急列車を[[急行列車]]へ格上げする施策を行ったため「たかやま」も同年3月から急行列車となった。
 
 
 
変則的運用として国鉄からの要望で[[1967年]][[7月15日]] - [[8月26日]]([[8月12日]]を除く)の毎土曜日に名古屋駅 - 高山駅間の[[臨時列車|臨時]][[夜行列車|夜行]]急行「りんどう」に投入された例がある。
 
*「りんどう」は名古屋駅23時28分発 - 高山駅3時05分着の[[ダイヤグラム|ダイヤ]]で下り列車のみの運転とされた。
 
*[[運用 (鉄道)|運用]](車両受け渡し)は、当日(土曜日)の「たかやま」と夕方の自社線(ディーゼル特急)運用を終えて燃料を補給後、[[神宮前駅]] - [[熱田駅]]間の連絡線から国鉄側へ入線。上り(復路)は日曜日の高山発が未明の3時過ぎでは乗客が見込めないことや定期の「たかやま」運用に支障を与えないために[[回送列車|回送]]とし、早朝に鵜沼駅から犬山線経由で新川工場(現・[[新川検車区]])へ入庫とされた。ただし、国鉄では岐阜駅で進行方向が逆転([[スイッチバック]])するため、犬山線からは[[枇杷島分岐点|下砂杁信号場]]([[西枇杷島駅]]隣接の三角線)を経由して新川工場へ入庫し、方向転換を行った。<!--確かに上記のように記述された文献が残っているが、鵜沼でスイッチバックするので不要のはずだが…。詳細が分かる方、訂正をお願いします-->
 
*なお名鉄では[[間合い運用]]で自社線内の「ディーゼル特急」で運用していたが、「りんどう」運転翌日は7000系などのパノラマカーで代走を行った。
 
 
 
=== 「北アルプス」運用 ===
 
[[ファイル:Meitetsu 8000 kitaalps toyama tateyama.jpg|thumb|200px|right|特急「北アルプス」]]
 
キハ8000系の運用が大きな発展を見せたのは[[1970年]]である。この年7月、[[立山黒部アルペンルート]]が貫通(開通)し運行(乗り入れ)区間も夏季限定ではあったが、玄関口である[[富山地方鉄道]](富山地鉄)[[富山地方鉄道立山線|立山線]][[立山駅]]([[富山駅]]経由)まで延長され、列車名も「たかやま」から「[[名鉄特急#かつて運行された特急|北アルプス]]」へと改称した。このため所要の車両数確保を目的として、キハ8000形・キハ8200形計6両を増備している。
 
 
 
またこの延長運転には名鉄が当時最も注力していた北陸進出の一環との意味合いも込められており、資本参加を画策していた富山地鉄に対する影響力の増大を意識した名鉄の企業戦略に則ったものであった。後に富山地鉄への資本参加(グループ化)は断念したが、その後も良好な協力関係を築くきっかけともなった。
 
 
 
[[1976年]]10月、国鉄の増収政策を背景に「北アルプス」は特急列車に格上げされた。客室設備の水準の高さがこの措置を可能としたとも言える。塗色は急行色のまま塗分のみ国鉄特急形気動車に準じた形に変更され、運転台窓下に羽根状の帯を入れた。これより、国鉄のキハ82系に一層よく似たものとなった。予備車も少なく一夜にして急行から特急へ変更する経過措置として塗色はそのまま急行色を使用したと思われるが、結局この配色は8000系全廃時まで変更されることはなく、全国で唯一、急行配色のまま運行された特急列車であった。
 
 
 
立山乗り入れは[[1983年]]夏まで13年間継続したが、名古屋駅 - 富山駅間の直通客は所要時間の短い[[北陸本線]]経由の特急を利用するという<!--「しらさぎ」は1964年から運行されているのだが-->実情もあり同年の夏季ダイヤ終了後は神宮前駅 - [[飛騨古川駅]]間に運転区間を固定し、富山地鉄への直通も取りやめた。その後、[[1985年]]には再び富山駅まで区間延長されたが、同時に車両運用(連結両数)も見直され余剰となったキハ8100形2両がこの時点で[[廃車 (鉄道)|廃車]]された。この時期には通常キハ8200形またはキハ8050形2両+キハ8000形1両(2M1m)の3両編成での運行が基本となっていた。
 
 
 
[[国鉄分割民営化|国鉄民営化]]によって発足した[[東海旅客鉄道]](JR東海)は[[1989年]]、高山線特急「ひだ」に従来の[[国鉄キハ80系気動車|キハ80系気動車]]に代わり、大出力エンジン搭載の新型車[[JR東海キハ85系気動車|キハ85系気動車]]を投入した。1970年代後半には簡易リクライニングシート、90年代に入れば本格的な[[鉄道車両の座席#クロスシート|リクライニングシート]]が標準仕様であった優等列車の設備傾向に比し、1960年代の仕様であるキハ80系の「[[鉄道車両の座席#クロスシート|回転クロスシート]]」より水準の低い狭幅の「[[鉄道車両の座席#転換式クロスシート|転換クロスシート]]」<ref group="注釈">ただし、「北アルプス」特急格上げ時点での[[新幹線0系電車|新幹線0系]]も普通車の座席は転換クロスシートであった。シートピッチは名鉄が900mm、0系は940mmで各々の標準値に従っている。昇格当時の国鉄特急車ではこれ以外に例がなかった。後年、特急列車・普通列車兼用として製造された[[国鉄185系電車|185系電車]]や、[[1986年]]に特別保全工事が施工された「ひだ」用のキハ80系の一部車両では転換クロスシートの採用例がある。</ref>で、走行性能も、最終的に2基エンジン車のみになったとは言え1960年代の急行形気動車並みであり<ref group="注釈">名鉄線内では、最高速度はもとより曲線や下り勾配の通過制限速度も旧型電車(所謂AL車)並みの「B速度」が適用された。そのため社線内間合い運用の際も、例えば新名古屋駅 - 豊橋駅間の所要時間を電車列車の52 - 53分(当時)に対して60分前後かけるなど、専用ダイヤを組む必要があった。</ref>、さらにもともと特急運用を想定していなかったこともあり、台車も金属バネ仕様であった<ref group="注釈">新性能有料特急車として金属バネ台車を装着していた車両としては、[[小田急3000形電車 (初代)|小田急3000形]]と[[東武1720系電車#1700系|東武1700系]]の例がある(後者はのちに空気バネ台車に交換)。</ref>キハ8000系の陳腐化が顕在化した。もとより準急列車への使用を企図した接客設備は準急・急行形としては優秀であったが、特急形の水準としては十分なものではなかった。
 
 
 
[[1990年]]には[[西日本旅客鉄道]](JR西日本)エリア内への乗り入れを中止し、再び運転区間を高山駅までに短縮したが翌[[1991年]]、「北アルプス」の車両は後継形式の[[名鉄キハ8500系気動車|キハ8500系気動車]]に置換えられ、キハ8000系は残存の全車が運用を終了し、除籍された。その後、[[名鉄尾西線|尾西線]][[日比野駅 (愛知県愛西市)|日比野駅]]側線に稼動可能な状態で留置され、対外譲渡を検討したものの車齢と車体重量が原因で成就せず、最後に残ったキハ8200形5両も全て解体された。
 
 
 
=== 間合い運用 ===
 
[[File:Meitetsu 8000 alpenexp uodu.jpg|thumb|right|150px|アルペン特急]]
 
「たかやま」「北アルプス」としての直通運用のほか[[間合い運用]]で[[名鉄特急#「たかやま」・「北アルプス」の間合い運用特急|名鉄線内の特急列車]]にも使われた。また富山地鉄でも立山駅での折り返し時間(特急昇格時ダイヤで15:05着 - 翌11:05発)が長いことから、同社線内立山駅 - [[宇奈月温泉駅]]間の「[[アルペン特急]]」などで運用された実績もある。
 
{{-}}
 
 
 
== 注釈 ==
 
{{脚注ヘルプ}}
 
{{Reflist|group="注釈"}}
 
{{Reflist}}
 
 
 
== 関連項目 ==
 
* [[名鉄特急]]
 
* [[西村京太郎]] - 著作『[[特急北アルプス殺人事件]]』で舞台となり、この気動車がトリックとして使われた。
 
* [[名鉄キハ8500系気動車]]
 
{{名古屋鉄道の車両}}
 
{{ブルーリボン賞選定車両一覧}}
 
{{DEFAULTSORT:めいてつきは8000けいきとうしや}}
 
[[Category:名古屋鉄道の気動車|8000]]
 
[[Category:1965年製の鉄道車両]]
 
[[Category:日本車輌製造製の気動車]]
 

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