吉展ちゃん誘拐殺人事件

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吉展ちゃん誘拐殺人事件
場所 東京都台東区入谷町
日付 1963年昭和38年)3月31日
概要 誘拐殺人事件
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吉展ちゃん誘拐殺人事件(よしのぶちゃんゆうかいさつじんじけん)とは、1963年3月31日東京都台東区入谷町(現在の松が谷)で起きた男児誘拐殺人事件。吉展ちゃん事件とも呼ぶ。

概要

日本で初めて報道協定が結ばれた事件であり、この事件から、被害者やその家族に対しての被害拡大防止およびプライバシー保護の観点から、誘拐事件の際には報道協定を結ぶ慣例が生まれた。また報道協定解除後の公開捜査において、テレビを本格的に取り入れ、テレビやラジオ犯人からの電話の音声を公開し情報提供を求めるなど、メディアを用いて国民的関心を集めた初めての事件でもあった。

犯人が身代金奪取に成功したこと、迷宮入り寸前になっていたこと、事件解明まで2年3ヶ月を要したこと、犯人の声をメディアに公開したことによって国民的関心事になったため、当時は「戦後最大の誘拐事件」といわれた。

事件の経緯

1963年3月31日 16時30分 - 17時40分 東京・台東区入谷町に住む建築業者の長男・村越吉展(当時4歳。以下「被害者」という)が自宅近くにある台東区立入谷南公園(台東区入谷町)に遊びに出掛けていたが行方不明になった。両親は迷子を疑い警察に通報。新聞などで「誘拐」ではなく行方不明として報じられる。
1963年4月1日 警察の聞き込みの結果、公園で被害者が「30代の男性」と会話していた目撃情報を得たことから、警視庁捜査一課誘拐の可能性ありとして捜査本部を設置。
1963年4月2日 17時48分 身代金50万円を要求する電話が入る。警察は3年前に発生した雅樹ちゃん誘拐殺人事件の悲劇を繰り返さないため、報道機関に対し報道の自粛を要請し、「報道協定」が結ばれる。(※後述の「日暮里大火」はこの日に発生した。)
1963年4月3日 19時15分 犯人から「子供は返す、現金を用意しておくように」との電話が入る。
1963年4月4日 22時18分 また身代金を要求する電話が入り、家族が被害者の安否を確認させるよう求め電話を4分以上に引き延ばした結果、犯人からの通話の録音に成功。後に公開された音声は、この通話のものである。
この後、4月7日まで犯人から合計9回の電話があった。
1963年4月6日 1時40分 犯人より「子供は寝ている、これから金を持ってくる所を指定する」との電話が入る。
5時30分 犯人から「上野駅前の住友銀行脇の電話ボックス現金を持って来い、警察へは連絡するな」との電話が入る。母親がすぐに指定された電話ボックスへ向かったが、犯人は現れなかった。そして母親は電話ボックスに「現金は持って帰ります、また連絡ください」とのメモを残して自宅へ戻った。この電話ボックスにはその後も犯人は現れなかった。
23時12分 犯人から「今朝の上野駅の電話ボックスは(警察官がいるので)危なくて近寄れなかった、今度は証拠として子供の靴を置くからそこへ現金を置け、場所はまた後で連絡する」との電話が入る。
1963年4月7日 1時25分 犯人から「今すぐ(母親が)一人で金を持って来い」との身代金の受け渡し方法を指示する電話が入る。この電話で犯人の指定した現金受け渡し場所は被害者宅からわずか300mしか離れていない自動車販売店にある軽三輪自動車だった。自宅をすぐに出た母親は犯人に指定された場所に行くと、そこには被害者の靴が置いてあったので身代金の入った封筒(50万円・犯人を刺激しないため封筒の中身に本物の紙幣が用意された)をその場所に置いた。警察がその車を見張りだすまでのわずかな時間差を突いて、犯人は被害者の靴と引き換えに身代金を奪取し逃亡してしまった。張り込み捜査員の1人は母親が50万円を置いた側にまわる途中、現場から歩いてくる背広姿の男に会ったが、気が急いていたため職務質問もしなかった。
以降、犯人からの連絡は途絶え、被害者も帰ってこなかった。
1963年4月13日 原文兵衛警視総監がマスコミを通じて、犯人に「(被害者を)親に返してやってくれ」と呼び掛ける。
1963年4月19日 警察は公開捜査に切り替える。また、犯人からの電話を公開し、情報提供を求めたところ、1万件に及ぶ情報が寄せられる。寄せられた情報には犯人に直接つながる有力情報もあったが、直後の逮捕にはつながらなかった。
1963年4月25日 下谷北署捜査本部は、脅迫電話の録音を異例の「犯人の声」手配としてラジオ、テレビを通じて全国に放送、協力を求め、正午までに220件を越す情報が寄せられる。
1965年3月11日 警視庁捜査一課の捜査本部を解散、吉展ちゃん事件に関して専従者による特捜班を設置した。
1965年7月4日 警視庁捜査一課の吉展ちゃん事件特捜班は、小原保(こはらたもつ 32歳)を営利誘拐、恐喝容疑で逮捕。小原は「誘拐した夜、荒川区南千住のお寺で殺し墓地に埋めた」と自供、犯行当時は台東区御徒町の時計商を解雇され取引先から借金の返済を迫られていた。
1965年7月5日 円通寺境内で白骨化した被害者の遺体を発見。

捜査

捜査は長引き、犯人を逮捕するまで2年の歳月を要した。捜査が長引いた理由には次のようなものがある。

  • 人質は事件発生後すぐに殺害されていたが、警察はそれを知らなかった。
  • 警察は人質が殺害されることを恐れ、報道各社と報道協定を結んだ。
  • 当時はまだ営利目的の誘拐が少なく、警察に誘拐事件を解決するためのノウハウがなかった。
  • 身代金の紙幣のナンバーを控えなかった。
  • 犯人からの電話について逆探知ができなかった[1]
  • 当初、脅迫電話の声の主を「40歳から55歳くらい」と推定して公開し、犯人像を誤って誘導することになった。

結局は、マスコミを通じて情報提供を依頼する。事件発生から2年が経過した1965年3月11日、警察は捜査本部を解散し、「FBI方式」と呼ばれる専従者を充てる方式に切り替えた。

有力な手がかりとされた脅迫電話の録音テープについて、当初警察庁科学警察研究所の技官鈴木隆雄に録音の声紋鑑定依頼をしたが、当時は技術が確立されていなかった[2]言語学者の金田一春彦は犯人の声が公開された後、「青」や「三番目」という言葉のアクセント鼻濁音の使用等から「奥羽南部」(宮城県福島県山形県)または茨城県栃木県出身ではないかという推論を新聞に発表している[3]。最終的には東北大学文学部講師を務めていた言語学者の鬼春人が、1963年10月21日に「犯人は郡山市以南の南東北・北関東出身である」という説を新聞に発表し、出身地の絞り込みにつながることとなった[4][5]

その後、警視庁が東京外国語大学の秋山和儀に依頼した鑑定では脅迫電話の声を従来の推測とは異なる「30歳前後」と推定、声紋分析で「犯人からの電話の声が時計修理工の小原保(事件当時30歳)とよく似ている」と指摘した[6]。事件発生直後の1963年5月に、文化放送の記者伊藤登が行き付けの喫茶店で「声によく似た人を知っている」という話を聞き付けたことがきっかけで、よく顔を出すという飲み屋に張り込んで小原に録音を伴ったインタビューをおこない、さらにその後、店にいる小原を呼び出して電話をした際の会話も録音し、それらの音声が残されていた[7][8][9]。秋山の指摘は後者の音声を脅迫電話と比較鑑定した結果であった[6]

これに加え、刑事の地道な捜査により小原のアリバイに不明確な点があることを理由に小原を参考人として事情聴取が行われる。

事件解決

それまでにも、小原は容疑者の一人として捜査線上に上がっていた。小原は、1963年8月賽銭泥棒で懲役1年6月(執行猶予4年)の判決を受けたが、執行猶予中の同年12月に工事現場からカメラを盗み、1964年4月に懲役2年の刑が確定。前橋刑務所に収容されていた。

警察は、上記の窃盗容疑での拘留中の小原に対し、取り調べを幾度か行ったが、次の理由から決め手を欠いていた。

  • 小原は1963年3月27日から4月3日まで福島県に帰省していたと主張していたが、そのアリバイを覆せる証拠がなかった。
  • 事件直後に大金(20万円)を愛人に渡しているが、金額が身代金の額と合わない。
  • 脅迫電話の声と小原の声質は似ているが、使用している言葉が違うので同一人物と断定できない。
  • ウソ発見器での検査結果は「シロ」であった。
  • 片足が不自由であることから、身代金受け渡し現場から素早く逃げられない。

小原には、誘拐発生の1963年3月31日と最初の脅迫電話があった同年4月2日の両日、郷里の福島県内で複数の目撃者が存在していたが、刑事の平塚八兵衛らは徹底的なアリバイの洗い直しを実施した。3月31日の目撃者は雑貨商を営む老婆で、親戚の男性から、野宿をしている男を追っ払ったという話を聞いた翌日に、足の不自由な男が千鳥橋を歩いているところを目撃したという。裏付け捜査により、この男性はワラボッチ(防寒と飾りを兼ねて植物にかぶせる囲い)で野宿している男を追っ払った後、駐在所に不審者について報告し、放火されることを防ぐためその日の夕方にワラボッチを片付けた[10]。その日付は、駐在所の記録で3月29日であることが判明。つまり、小原が老婆に目撃されたのは、その翌日の3月30日であることが分かった。

一方、4月2日の目撃者は、この男性の母親。十二指腸潰瘍を患っていた孫(この男性の長男)が、一時中断していた通院を再開した日に、小原を目撃したという。裏付け捜査により、この孫は2月2日から3月8日まで通院。その後、3月28日4月2日にも通院しているという記録が残っていた。しかし、当日の孫の腹痛は、前夜の節供での草餅の食べ過ぎが原因と判明。節供とは上巳の節供のことで、この土地では旧暦で祝っていた。その年の旧暦3月3日は3月27日。したがって、病院に運ばれた日(目撃された日)は、その翌日の3月28日ということになる。さらに、小原は、3月29日に実家に借金の申し入れをしに行ったものの、何年も帰省していない気まずさから、実家の蔵へ落とし鍵を開けて忍び込み、米の凍餅(しみもち)を食って一夜を明かしたと供述しているが、小原の兄嫁によると、当時は落とし鍵ではなく既に南京錠に替えられていたことが分かった[11]。また、その年は米の不作により米の凍餅は作らなかった(芋餅を作った)ことも分かった。また片足が不自由であり身代金受け渡し現場から素早く逃げられない問題については、アリバイ崩しの過程で実際には身のこなしは敏捷であることが判明した。

大金の金額については、脅迫電話テープの公開直後に(身代金から愛人に渡した残りの金額に相当する)「30枚ほどの一万円札を持っているのを見た」という情報が実弟を名乗る人物からもたらされていたことや、身代金が犯人に奪われた直後の一週間で小原がほとんど収入がないのに42万円もの金額を支出していたことが明らかになった[6]

小原は前橋刑務所から東京拘置所に移管されたが、別件取調べは人権侵害であるという人権保護団体からの抗議もあり、聴取は10日間に限定された。小原は黙秘を続けたのちに1963年4月に得た大金の出所を「時計の密輸話を持ちかけた人物から横領した」と述べたが、その人物の具体的な情報は話さなかった[12]。その点を問い詰められて、4日目に金の出所についてのそれまでの供述が嘘であることを認めたものの、それ以後は再び黙秘したりする状況が続いた[12]。平塚ら取り調べの刑事たちは、金の出所以外の供述にも嘘があるのではないかと何度も問いただし、さらにはアリバイを崩す捜査の過程で福島県に住む小原の母親に会った際、「もし息子が人として誤ったことをしたなら、どうか真人間になるように言って下さい」と言いながら母親が土下座をしたエピソードを、平塚自らが再現して小原に伝えたりもした[12]。しかし、事件との関係は否定し続けたまま拘留期限を迎えることになった。

小原は前橋刑務所へ戻されることになったが、最後の手段としてFBIで声紋鑑定をすることになり、音声の採取のため、1965年7月3日に取調べ室に呼ばれた。これについて、当初刑事たちはあくまで「雑談」だけをするよう命じられていた。しかし平塚たちは直属上司の許可を得て、福島で調べてきたアリバイの矛盾を初めて直接小原に伝えた[12][13][14]。追い込まれた小原はついに、それまでの「東京に戻ったのは4月3日である」という自身の主張が事実とは異なり、4月2日には東京にいたことを「日暮里大火山手線か何かの電車から見た」と述べる形で認めた[12][15]。この火災の発生は、1963年4月2日の午後。最初の脅迫電話が掛かってきた時、テレビのニュースでこの火災のことを報じていたのを、被害者の祖母が覚えていた[16]。それでも小原は1963年4月に持っていた金は事件と無関係と言い張ったが、平塚らは「これだけ材料を突きつけられてまだ逃れられると思っているのか」と小原を追い詰め、それからほどなくして小原は金が吉展ちゃん事件と関係のあるものだと供述した[12][17][18]。翌7月4日に警視庁に移された小原は、営利誘拐・恐喝罪で逮捕され、その後の取り調べで全面的に犯行を自供した。

ファイル:Yoshinobu Jizo.JPG
円通寺のよしのぶ地蔵

小原は映画『天国と地獄』の予告編を観たことで犯行を計画したと述べた。被害者が身奇麗だったことから金持ちの子と考え、被害者が持っていた水鉄砲を褒める形で誘拐したが、被害者に足が不自由だと悟られたことから、誘拐直後に殺害していたことが小原の供述から分かった。小原によると、被害者を親に返せば足が不自由なことから自分が犯人と特定されると考えたため殺害に及んだという。身代金の脅迫電話を掛けた1963年4月2日には、既に被害者は殺害された後であった。被害者は1965年7月5日未明、小原の供述から三ノ輪橋近くの円通寺荒川区南千住)の墓地から遺体で発見され、秘密の暴露となった[19]。遺体を検証した東京都監察医の上野正彦は、被害者の口元から2年で発芽するネズミモチが生え出しているのを見つけ、確かに土中に2年も埋められていたことに改めて冥福を祈ったという。[20]その後、被害者の供養のため、円通寺の境内には「よしのぶ地蔵」が建立され、奉られている。

裁判・その後

1966年3月17日東京地方裁判所が小原に死刑を言い渡すが、弁護側が計画性はなかったとして控訴。同年9月から控訴審として計3回の公判を行うも、11月に東京高等裁判所は控訴を棄却する。弁護側が上告するが、1967年10月13日最高裁判所は上告を棄却し死刑が確定する。4年後の1971年12月23日宮城刑務所にて死刑が執行される。享年38。

小原は服役中平塚に何度か手紙を送ったという[21]。平塚によると、処刑当日、刑が執行された宮城刑務所の看守より「真人間になったから平塚さんによろしく」という小原の言葉が電話で伝えられたという[21]

平塚は1975年退職した後、自分が逮捕して死刑となった人物の墓参をおこなった際に、小原が先祖代々の墓に入れてもらえず、その横の小さな盛り土がされただけの所に葬られていたことをみて「胸をグッと突かれたよう」になり[22]、花と線香を手向けたものの合掌することを失念したと述べている[21]

小原と短歌

死刑確定後、「何か拠り所を持たせてやらなければ」と考えた教誨師が小原に勧めたのが短歌だった。小原は次第に教誨師へ心を開き短歌を始めるまでに精神状態は落ち着いた。小原の短歌は同人誌『土偶』主催者の指導により上達。小原は「福島誠一」のペンネームで投稿し、朝日歌壇に選ばれたりした。死刑執行後の1980年に出版された歌集『昭和万葉集』(講談社)に小原の短歌が掲載され、3年後の1983年に『氷歌 - 吉展ちゃん事件から20年 犯人小原保の獄中歌集』(中央出版)が出版される。「福島誠一」の名前は「今度生まれ変わる時は愛する故郷で誠一筋に生きる人間に生まれ変わるのだ」という願いが込められていた。彼が投稿した短歌は370首にも及んでいる。

死刑前日に小原が詠んだ短歌は

  • 怖れつつ想いをりしが今ここに 終るいのちはかく静かなる
  • 世をあとにいま逝くわれに花びらを 降らすか窓の若き枇杷の木
  • 静かなる笑みをたたえて晴ればれと いまわの見ずに写るわが顔
  • 明日の日をひたすら前に打ちつづく 鼓動を胸に聞きつつ眠る

この4首である[23]

事件の影響

この事件を一つのきっかけとして、1964年、刑法の営利誘拐に「身代金目的略取」という条項が追加され、通常の営利誘拐よりも重い刑罰を科すよう改められた。

この事件を題材に本田靖春ノンフィクション『誘拐』を執筆、第39回文藝春秋読者賞と第9回講談社出版文化賞を受賞し、1979年には『戦後最大の誘拐 吉展ちゃん事件』として、後述の通りテレビドラマ化もされた。

小原の逮捕・犯行自供、被害者の遺体発見を受けて1965年7月5日朝、NHKが放送した『ついに帰らなかった吉展ちゃん』[24]は、ビデオリサーチ・関東地区調べで59.0%の視聴率を記録する[25]。これは、今日に至るまでワイドニュースの視聴率日本記録となっている。

脚注に記載した通り、本事件を契機に犯罪捜査における電話の逆探知が認められるようになった。

1965年3月、この事件を主題とした楽曲『かえしておくれ今すぐに(返しておくれ今すぐに)』[26](作詞:藤田敏雄、作曲:いずみたく)がボニージャックスキング)、ザ・ピーナッツ(同)、フランク永井ビクター)、市川染五郎(後の松本幸四郎コロムビア)、芦野宏東芝EMI)による競作で発売された。事件の犯人に訴え掛けたこの楽曲は、「たったひとりの人物に聴かせるために作られ、発売された歌」であり、小原は別件で留置場にいた時にラジオで、この歌を聴いていたという。小原が犯行を自供するとラジオなどでは流れなくなった[27]ものの、後にザ・ピーナッツボニージャックス、そして市川染五郎のバージョンが、加えて2009年2月にはフランク永井によるバージョンもCD化されている。

映画・テレビ

NET(現=テレビ朝日)にて放送されたニュースフィルムを用いて、最悪の結末までを構成したドキュメンタリー映画で東映まんがまつりの前身である「東映まんが大行進」の一本として劇場公開された。
事件の主任刑事、堀隆次の捜査手記を原作に映画化された。登場人物の名前は、事件解決からまだ1年しか経っていないこともあって、主任刑事・堀隆次→堀塚修(芦田伸介)、小原保→小畑守(井川比佐志)、村越吉展ちゃん→村山明彦ちゃん、のように変えてある。
原作:本田靖春『誘拐』、監督:恩地日出夫、脚本:柴英三郎。「土曜ワイド劇場」の一作として同年6月30日に放映され、芸術祭優秀賞、ギャラクシー賞などを受賞している[28]
本件と内容的には一切関連性はないが、劇中、植木等演じる主人公行きつけの銭湯の壁に、吉展ちゃんの行方を尋ねる写真入りのポスターが貼られているのが確認できる[29]。本件が公開捜査になって約3ヶ月が経過した、1963年7月13日公開。
吉展ちゃん誘拐殺人事件をモチーフの一つとした「大鉄君誘拐事件」という架空の事件が作中で発生する。

脚注

  1. 事件発生当時、日本電信電話公社は「通信の守秘義務」を理由として逆探知を認めず、電話の録音も当初は被害者家族が機材を用意して自主的に実施していた。発生から約1ヶ月後に警視庁の強い要請により、郵政大臣の通達で公社が逆探知に協力することとなった(以上出典:本田『誘拐』、『本田靖春集1』p.32)。正式に閣議で「受信者の了解があり、脅迫者を当局が突きとめるための逆探知であれば、通信の秘密をおかすことにならない」という見解が示されたのは同年の10月4日で、その4日後に当事件の被害者宅にいたずらで脅迫電話をかけた27歳の男性が、「電話逆探知による逮捕者第一号」となった(出典:本田『誘拐』、『本田靖春集1』pp.119 - 121)。
  2. 関連記事 - 鈴木法科学鑑定研究所。「午後は○○おもいっきりテレビ」出演時に「当時の警察では声紋鑑定をしていない事実を説明」したとある。
  3. 朝日新聞1963年4月26日14頁。この記事で金田一は犯人像について「教養の低い人と見られるにもかかわらず(中略)高圧的な言葉遣いをしている」ことから「戦前に軍隊に籍を持ち、下士官づとめをしていた人ではないかと思わせる」と述べているが、こちらは実際の犯人には当てはまらなかった。
  4. 本田『誘拐』、『本田靖春集1』pp.128 - 129)
  5. 鬼春人は1965年2月に刊行した著書『吉展ちゃん事件の犯人 その科学的推理』(弘文堂)の中で、犯人の出身地を茨城・福島・栃木の3県が境界を接する地帯とし、その中には小原の出身地である石川郡も含まれていた。さらに、話し方の特徴から、成人後も東北各地を転々としたり、東京下町に長期間居住もしくは出入りしたことを指摘したが、これも小原の経歴に重なっていた(以上出典、本橋信宏『60年代郷愁の東京』主婦の友社、2010年、pp.34 - 35)。
  6. 6.0 6.1 6.2 後述のNHKスペシャルによる。
  7. 本田『誘拐』、『本田靖春集1』pp.101 - 108
  8. ニュースパレード - 全国ラジオネットワーク
  9. 文化放送はこれを含めた一連の事件報道により、日本民間放送連盟の第14回民放大会賞において、「番組活動賞揚部門」の「ラジオ報道活動」の部で最優秀賞を受賞している(参照:表彰番組・事績 - 日本民間放送連盟)
  10. 小原はワラポッチで野宿したのは3回であると供述していた。
  11. 平塚は後述の録音テープでは、「土蔵の屋根を昭和36年に瓦葺きに吹き替えた際に、土蔵の土台が腐っていたために戸が曲がり、鍵がかからない状態になっていた」と小原に問いだたしている。
  12. 12.0 12.1 12.2 12.3 12.4 12.5 1990年4月8日放映のNHKスペシャル「声~吉展ちゃん事件取り調べテープ~」の内容による。この番組では平塚の自宅に現存していた小原の取り調べを録音したテープや平塚の捜査メモを元に、その内容を再現した。
  13. 平塚は『刑事一代 平塚八兵衛の昭和事件史』の聞き書きの中で「命令違反を承知で、オレのクビをかけた調べを(した)」「30分ぐらいはいちおう録音をとったかな。腹の中が煮えくりかえるんだ。『もうやめろ』ってスイッチを切ってな、調べを始めちまったんだ。命令違反の"証拠"を残しちゃまずいからな」(新潮文庫版、p.72)と述べているが、NHKスペシャルの説明とは合致しない(録音テープはその後も残っている)。
  14. 本田靖春の『誘拐』では、この日は当初FBIに送る音声を収録するための会話をしていたが、後述の「日暮里大火」につながる発言を聞いた後に、平塚が本庁の係長に電話で「録音はとりました。これからやつをちょいと絞めてみたいんですがね、どうでしょう」と承認を求め、「君に任せるよ」という回答を得て、小原の故郷で調べた内容を聞かせたとなっている(『本田靖春集1』pp.185 - 186)。
  15. 録音テープによると、この供述は小原の方から「東京へ帰ってきたのは(4月)3日だったってことになってるでしょう」(平塚が「いく日なんだい」と聞いて)「火事の日なんです」と切り出している。平塚は『刑事一代 平塚八兵衛の昭和事件史』で、取り調べの中で悪党だとなじられた小原が「いいこと(親類の家で小火を消し止めた)もした」と抗弁した際に「だけど日暮里の火事みたいに大きくなったら、ちょっと手が出ませんよ」と口にしたことを聞き逃さず(「4月2日の日暮里大火を『山手線の中で見た』とゲロった」と少し後ろにある)、しばらくしてからアリバイの矛盾をまくし立てた後、平塚の調べた内容がウソだと答えた小原に「日暮里の大火を、オマエは見たといったな。あれは四月二日だ。それもウソか」とたたみかけてから「わたしがこれまでいってきたことは、ウソです」と認めたと述べている(新潮文庫版、pp.74 - 75)が、この内容はNHKスペシャルの説明および紹介された録音テープには出てこない。本田靖春の『誘拐』では、「録音」のための会話の中で、福島から帰ってきてから4月7日まで何をしていたかと問われた際に、4月3日に王子の親戚の家近くで起きた小火を消し止めたが「いつだったかおれが電車の上から見た日暮里の大火事みたいになったらたいへんだったろうな」と口にし、その後平塚がアリバイの矛盾点を伝えた中で「おまえは四月三日まで福島にいたというけど、おれの調べじゃ三月三十日までしかいねえ」と述べ、平塚と小原のどちらが嘘かはっきりさせようと迫ると、小原が自分の供述が嘘だと認め、そのあとに平塚が「日暮里大火は四月二日のことなんだぞ。四月三日に帰って来たというのも嘘か?」と問いかけたとなっている(『本田靖春集1』pp.187 - 188)。
  16. 本田『誘拐』、ちくま文庫版pp.308 - 309。
  17. 録音テープは小原が「4月3日の帰京」が嘘だと認めたあと、刑事たちが追及しているところで終わっているが、当時の担当刑事の一人はNHKスペシャルの中で「それから(金が事件と関係があるものだと自供するまで)2時間かからなかったのではないか」と述べている。
  18. 平塚は『刑事一代 平塚八兵衛の昭和事件史』で、小原が(日暮里大火の件を追及されて)それまでの供述がウソだと認めた直後に「わたしがやりました」と話したと述べている(新潮文庫版、p.75)が、NHKスペシャルの説明とは一致しない。本田靖春の『誘拐』では、NHKスペシャル同様、しばらくしてから金が事件と関係があると供述したところでその日の取り調べが終わったとしている(『本田靖春集1』pp.188 - 189)。
  19. 小原の記憶違いにより、最初は隣の寺を捜索し、遺体が見付からなかった。
  20. テレビ東京解禁!暴露ナイト」2013年9月27日放送分 
  21. 21.0 21.1 21.2 『刑事一代 平塚八兵衛の昭和事件史』p.88
  22. 『刑事一代 平塚八兵衛の昭和事件史』で平塚は、自分が小原を自供に追い込まなければこのようにならなかったのかもしれない、いや裁いたのは自分ではないといった「いろんな気持ち」が混じったと述べ「わかんめえよ。あんたらには、この気持ち」と結んでいる(新潮文庫版、p.88)。
  23. 赤瀬川原平(監修)『生き方の鑑 辞世のことば』講談社〈講談社+α文庫〉、2009年
  24. この番組の放映開始(7時35分)直前の同日早朝、被害者の遺体が発見された。
  25. 引田惣弥『全記録 テレビ視聴率50年戦争―そのとき一億人が感動した』講談社、2004年、2頁、222頁。ISBN 4062122227
  26. 当時のレコードジャケットのタイトル表記は「ボニージャックス(キング)かえしておくれ今すぐに」、「ザ・ピーナッツ(キング)かえしておくれ今すぐに」、「フランク永井(ビクター)返しておくれ今すぐに」、「市川染五郎(現・松本幸四郎、コロムビア)返しておくれ今すぐに」、「芦野宏(東芝)かえしておくれ今すぐに」となっている。これらの中ではザ・ピーナッツ版が複数回にわたってCD化されており、比較的入手が容易となっている。
  27. 石橋春海著『封印歌謡大全』(2007年4月三才ブックス)P.66 - 67。
  28. 戦後最大の誘拐・吉展ちゃん事件 - テレビドラマデータベース
  29. 『日本一の色男』本編を収録したDVDを付属した『東宝 昭和の爆笑喜劇DVDマガジン』第6号(2013年・講談社)本誌に掲載された、泉麻人のコラム『ソコモド!!(6) - 番台脇の「吉展ちゃん」』より。

参考文献

関連項目

外部リンク