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'''吉備国'''(きびのくに)は、古代日本の地方国家である。現在の[[岡山県]]全域と[[広島県]]東部と[[香川県]]島嶼部および[[兵庫県]]西部([[佐用郡]]の一部と[[赤穂市]]の一部など)にまたがり、[[筑紫国|筑紫]]、[[古代出雲|出雲]]、[[ヤマト王権|大和]]などと並ぶ有力な勢力の一つだった。
+
'''吉備国'''(きびのくに)
  
別名は、'''吉備道'''(きびのみち、きびどう)、'''備州'''(びしゅう)。
+
奈良時代,備前,備中 (びっちゅう) ,備後 (びんご) ,美作 (みまさか) の4国の総称。現在の岡山県と広島県東部にあたる。「記紀」には孝霊天皇の皇子吉備津彦 (きびつひこ) が四道将軍としてこの地方を平定したとある。古墳の多いことなどから,大和朝廷に対立した出雲国以上の勢力があったことが知られる。
 
 
== 概要 ==
 
後の[[令制国]]では[[備前国]]・[[備中国]]・[[備後国]]・[[美作国]]にあたる。
 
 
 
後代には、単に吉備といえば美作を含めないことが多かった時期もあった。
 
 
 
現代では備前・備中・美作(つまり岡山県の別称)を指すか、備前・備中・美作・備後(岡山県と広島県東部)を指して使用されることが多い。
 
 
 
{|
 
|+ 令制国(備前国/備中国/備後国/美作国)
 
|| {{File clip | 地図 令制国 備前国.svg | width = 120 | 50 | 50 | 30 | 30 | w = 512 | h = 512 | 備前国({{color|#f00|■}})}}
 
|| {{File clip | 地図 令制国 備中国.svg | width = 120 | 50 | 50 | 30 | 30 | w = 512 | h = 512 | 備中国({{color|#f00|■}})}}
 
|| {{File clip | 地図 令制国 備後国.svg | width = 120 | 50 | 50 | 30 | 30 | w = 512 | h = 512 | 備後国({{color|#f00|■}})}}
 
|| {{File clip | 地図 令制国 美作国.svg | width = 120 | 50 | 50 | 30 | 30 | w = 512 | h = 512 | 美作国({{color|#f00|■}})}}
 
|}
 
 
 
== 歴史 ==
 
[[File:Kibi region viewed from Kinojo-san.jpg|thumb|250px|right|{{center|吉備地方の平野([[鬼城山]]から望む)}}]]
 
吉備は古代、[[畿内]]や[[出雲国]]と並んで勢力を持っていたといわれ、巨大古墳文化を有していた。また、優れた製鉄技術があり、それが強国となる原動力であったとされる。『[[古事記]]』中巻、[[孝霊天皇]]の段などに兵庫県の[[加古川]]以西が吉備であると捉えられる説話があり、加古川を国境としていた時期があると考えられている。
 
 
 
古墳時代、吉備地方の現在の[[岡山平野]]南部は内海となっていた(吉備穴海、もしくは吉備内海と呼ばれる)。4世紀からこの内海の近くに多数の[[前方後円墳]]が造られた。この地方独特の特殊器台・特殊壺は、綾杉紋や鋸歯紋で飾られ、赤く朱で塗った大きな筒形の土器で、弥生時代後期の後半(2世紀初めから3世紀中頃まで)につくられ、部族ごとの首長埋葬の祭祀に使われるようになり、弥生墳丘墓([[楯築遺跡|楯築弥生墳丘墓]])や最古級の前方後円墳([[箸墓古墳]]・[[西殿塚古墳]])から出土しており、後に[[埴輪]]として古墳時代に日本列島各地に広まった。
 
 
 
5世紀に[[雄略天皇]]は地域国家連合体であった国家をヤマト王権に臣従させて中央集権を進めるために、最大の地域政権の一つ吉備に対して「反乱鎮圧」の名目で屈服を迫った。吉備下道臣前津屋の乱([[463年]])と吉備上道臣田狭の乱(463年)の「反乱鎮圧」を成功させてヤマト王権の優位を決定づけた。さらに雄略の死の直後には、吉備稚媛(田狭の元妻で雄略の妃)と[[星川稚宮皇子]](雄略と稚媛の息子)が反乱を起こしたため[[清寧天皇]]はこれを鎮圧し([[479年]])、またしても吉備の勢力を削減させている。
 
 
 
[[6世紀]]半ばからは巨大な石で構成した横穴式石室を持つ[[円墳]]が造られた。吉備は[[弥生時代]]からの[[塩]]の生産地であり、さらに6世紀後半には[[鉄]]生産が開始された。[[造山古墳 (岡山市)|造山古墳]]、[[作山古墳]]は築造当時の日本列島で最大級、現存する日本の古墳のうちでも第4位及び9位の規模をもち、吉備地方の繁栄とこの地の[[豪族]]の力を示すものである。
 
 
 
これら古墳の前にあたる前方後円墳時代の吉備と、後にあたる[[7世紀]]の吉備地方には、複数の豪族が並び立っていたと考えられている。造山古墳・作山古墳を統一的な吉備政権の存在の証とする説と、この時代にも複数の有力豪族の連合政権であったとする説がある。
 
 
 
『[[国造本紀]]』によれば、吉備地方には[[吉備氏]]のもとに[[大伯氏]]、[[上道氏]]、[[三野氏]]、[[下道氏]]、[[加夜氏]]([[賀陽氏]]、[[賀夜氏]]、[[香屋氏]])、[[笠臣氏]]、[[小田氏]]があった。吉備の国造の場合、多く(上道・三野・下道・加夜・笠)が臣(オミ)姓を称している。
 
 
 
この中の下道氏と笠氏は、後に[[朝臣]]の[[姓]](かばね)を名乗る([[吉備朝臣]])<ref>天武13年(684年)[[八色の姓]]</ref>。[[奈良時代]]に日本をリードした学者・政治家の[[吉備真備]]は下道氏である。
 
 
 
分国は<!--ヤマト政権は吉備国の強大さを警戒し{{要出典}}-->、持統天皇3年(689年)の飛鳥浄御原令の発布をもって[[備前国]]、[[備中国]]、[[備後国]]に分割、それから遅れること二十数年後の和銅6年(713年)に備前国から[[美作国]]を分立させた。
 
 
 
[[吉備国守]]、[[吉備大宰]]、[[吉備総領]]は、[[日本書紀]]、[[風土記]]、[[続日本紀]]に散見される官職で、吉備国分割の前後に設置されたらしい。職掌、管轄範囲、存続期間は伝わらない。[[大宰府]]の前身とおぼしき[[筑紫大宰]]とともに、中央から派遣され、管下の複数の国の外交と軍事を統括する任務を負ったものと推測される。史料に見える最後は、[[文武天皇]]4年([[700年]])の吉備総領任命記事である。遅くとも[[大宝律令]]制定までに廃止された。
 
 
 
この後今日に至るまで、吉備四国は、一体として統治されることはなく、備前と美作、備中、備後の3つに分かれた状態が明治まで続くことになる。この分裂状況の余波は、同じ岡山県となっている岡山都市圏と倉敷都市圏の対立や、室町時代以降備後が[[安芸国|安芸]]と一体化するという形で、現在まで影響している。
 
 
 
==人物==
 
;国司<ref>『吉備郡史』上巻、永山卯三郎、1971年、613頁、備中国司表等より</ref>
 
:;吉備国守
 
:* [[当摩広島|當麻廣島]] - ?年任官-[[672年]]([[天武天皇]]元年)大友皇子([[弘文天皇]])の使者により殺害。
 
:;吉備大宰
 
:* [[石川王 (吉備大宰)|石川王]] - ?年任官-[[679年]](天武天皇8年)吉備に於いて病死。
 
:;吉備総領
 
:* [[上毛野小足]] - [[700年]]([[文武天皇]]4年10月)任官。
 
;按察使
 
{{See also|按察使}}
 
* [[鴨吉備麻呂]] - [[719年]]([[養老]]3年)7月13日に、備前国、美作国、備中国、[[淡路国]]の4国を管し、[[国司]]の行政の監察を行った。
 
;南海道節度使
 
{{See also|節度使}}
 
* [[百済王敬福]](くだらのこにきし の きょうふく) - [[761年]](天平宝字5年)に、[[紀伊国|紀伊]]・[[阿波国|阿波]]・[[讃岐国|讃岐]]・[[伊予国|伊予]]・[[土佐国|土佐]]・[[播磨国|播磨]]・美作・備前・備中・備後・[[安芸国|安芸]]・[[周防国|周防]]など12カ国の軍事権を掌握する役目に任命される。
 
===木簡に記述されている人物===
 
:;平城京跡,飛鳥京跡出土の木簡
 
:* [[秦老人]] - 備前国。
 
:* [[秦忍山]] - 備前国。
 
:* [[秦大丸]] - 備前国。
 
:* [[秦勝小国]] - 備前国。
 
:* [[秦勝千足]] - 備前国。
 
:* [[秦部得丸]] - 備前国。
 
:* [[秦部(犬)養]] - 備前国。
 
:* [[秦部得万呂]] - 備前国。
 
:* [[健部臣結]] - 備前国。
 
:* [[葛木部小墨]] - 備前国。
 
:* [[倭文部東人]] - 備前国。
 
:* [[土師寅]] - 備前国。
 
:* [[守部思人]] - 備前国。
 
:* [[白猪部乙嶋]] - 備前国。
 
:* [[白猪部身万呂]] - 備前国。
 
:* [[尾治部加之居]] - 備前国。
 
:* [[矢田部未呂]] - 備前国。
 
:* [[若倭部五百足]] - 備前国。
 
:* [[若倭部百足]] - 備前国。
 
:* [[和仁部太都万呂]] - 備前国。
 
:* [[牛守部小成]] - 備前国。
 
:* [[山守部小廣]] - 備前国。
 
:* [[鴨直君麻呂]] - 備前国。
 
:* [[三家連乙公]] - 備前国。
 
:* [[間人連麻呂]] - 備前国。
 
:* [[間人連小人]] - 備前国。
 
:* [[漆部色人]] - 備中国。
 
:* [[帯部益国]] - 備中国。
 
:* [[阿曇部押男]] - 備中国。
 
:* [[各田部虫(額田部虫)]] - 備中国。
 
:* [[元正天皇|氷高親王(氷高内親王)]] - 備後国。
 
:* [[矢田部甲努]] - 備後国。
 
:* [[矢田部木身]] - 備後国。
 
 
 
== 関連する地域 ==
 
=== 備州 ===
 
備州(びしゅう)とは、備前・備中・備後のいずれか、あるいは全体を指す名称。または、吉備国全体(備前・備中・備後・美作)を指す名称。
 
 
 
=== 三備 ===
 
三備(さんび)とは、備前・備中・備後の三国の総称。
 
 
 
=== 両備 ===
 
両備(りょうび)とは、備前・備中・備後のうち、いずれか2カ国を指す名称、および2カ国に跨る地域である。備前と備中、もしくは備中と備後の場合が多い<ref name="okayama-daihyakka">山陽新聞社『岡山大百科事典』1979年</ref>。備前と備後は備中を間にはさんで地理的距離があるため、この2国を合わせて呼称する機会が少ないためである。
 
 
 
例として、旧備中国である笠岡市・井原市を中心とする井笠地方は、旧備後国の福山都市圏にも含まれるため、これらを中心とする地域をまとめて両備と呼ぶ場合がある。[[両備軽便鉄道]]や[[両備信用組合]]はこれに由来。
 
 
 
また、吉備地方に展開するバス事業などを展開する[[両備バス|両備グループ]]があるが、この場合の両備は備前と備中と言う意味である<ref name="okayama-daihyakka"/>。
 
 
 
なお、備後の[[広島県]][[府中市 (広島県)|府中市]]に本社を置く機械メーカー[[リョービ]]は、カタカナ表記以前に使用した漢字表記は「菱備」であり、備中・備後の「両備」と創業時の取引会社だった三菱を掛け合わせたものである。
 
 
 
== 脚注 ==
 
{{Reflist}}
 
 
 
== 関連項目 ==
 
* [[吉備路]]
 
* [[吉備氏]]
 
* [[備前国]]
 
* [[備中国]]
 
* [[備後国]]
 
* [[美作国]]
 
* [[両備]]
 
 
 
{{令制国一覧}}
 
{{吉備四国の郡}}
 
  
 
{{DEFAULTSORT:きひのくに}}
 
{{DEFAULTSORT:きひのくに}}
 
[[Category:日本の古代国家]]
 
[[Category:日本の古代国家]]
 
[[Category:岡山県の歴史]]
 
[[Category:岡山県の歴史]]

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吉備国(きびのくに)

奈良時代,備前,備中 (びっちゅう) ,備後 (びんご) ,美作 (みまさか) の4国の総称。現在の岡山県と広島県東部にあたる。「記紀」には孝霊天皇の皇子吉備津彦 (きびつひこ) が四道将軍としてこの地方を平定したとある。古墳の多いことなどから,大和朝廷に対立した出雲国以上の勢力があったことが知られる。