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'''参勤交代'''(さんきんこうたい)とは、[[|各藩]]の藩主を一年おきに[[江戸]]に出仕させる[[江戸幕府]]の法令のことである。'''参勤交替'''、'''参覲交代'''、'''参覲交替'''などとも書く。
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[[ファイル:Kyosai Kiyomitsu 001c.jpg|サムネイル]]
[[ファイル:Toudou Takatora2.jpg|thumb|300px|藤堂様御国入行列附版画/伊賀文化産業協会蔵]]
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'''参勤交代'''(さんきんこうたい)
  
== 概要 ==
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江戸時代,大名が一定期間交代で江戸に参勤した制度。幕府が大名統制策の一つとして行なったもので,戦国大名の行なった城下在番と人質徴収の政策に起るといわれる。慶長7 (1602) 年前田利長が母を人質として参勤したのが最も早い例。元和1 (15) 年の[[武家諸法度]]で定められ,寛永 12 (35) 年の武家諸法度で確立。多くの大名は在府,在国1年交代を原則としたが,関東の大名は半年交代,また対馬の[[宗氏]]は遠隔の地であるのと朝鮮との応対のため3年1度の参勤とした。これと同時に大名は妻子を江戸に人質として住まわせることになっていた。享保の改革の際8代将軍徳川吉宗が[[上米]]の制を定めて在府の期間をゆるめたこともあったが,8年間で旧に復した。参勤交代は莫大な経費を要し,各藩の財政を窮地に追込むことが多く,また国元と江戸に分れて藩士が対立することもあり,[[御家騒動]]の原因となる場合も少くなく,幕府に対抗する勢力の弱体化を目指す幕府の意図は成功したといえる。参勤交代の影響は政治面だけに限らず,たとえば江戸の繁栄は各大名の莫大な消費に支えられる部分が大きく,江戸,大坂を中心とした商業,交通の発達はめざましいものがあった。地方においても帰国した藩士らのもたらす江戸文化が,地方文化発達の刺激になった。幕府は文久2 (1862) 年の政治改革に際して,参勤交代を大大名は3年に1年,その他は3年1度 100日を在府として妻子の帰国を許した。その後,慶応1 (65) 年再び旧に戻したが命令に従う者がなく,廃絶した。
[[鎌倉時代]]にみられた[[御家人]]の[[鎌倉]]への出仕が起源とされ、将軍に対する大名の服属儀礼として始まったが、[[寛永]]12年([[1635年]])に[[徳川家光]]によって徳川将軍家に対する軍役奉仕を目的に制度化された。
 
 
 
この制度では諸大名は一年おきに江戸と国許を行き来しなければならず、江戸を離れる場合でも正室と世継ぎは江戸に常住しなければならなかった。側室および世継ぎ以外の子にはそのような義務はなかった。国元から江戸までの旅費だけでなく江戸の滞在費までも大名に負担させていたため、各藩に財政的負担を掛けると共に人質をも取る形となり、諸藩の軍事力を低下させる役割を果たした、と言われているが、これはあくまで副次的なものにすぎず太平の世にある江戸時代に将軍と大名との主従関係を示すための軍事儀礼であった。さらに『御触書寛保集成』によると「従来の員数近来甚だ多し。且つは国郡の費、且つは人民の労なり。向後その相応を以てこれを減少すべし。」とあり、むしろ大名の参勤交代の際の支出を節減するように求めていた。これにより260年余りにも及ぶ長期政権・[[江戸時代]]を築く礎にもなった。
 
 
 
== 名称 ==
 
参勤は一定期間主君のもとに出仕し、任期が満了すると暇を与えられて領地に帰り政務を執ることを意味する。「参っ」て「覲(まみ)える(=目上の人に会う)」ことであるから正しくは「参'''覲'''交代」と表記するが、役人が「参勤交代」と誤って記録に記述してしまって以来、このように書くのが一般的になった。
 
 
 
参勤交代を規定した『[[武家諸法度]]』の条文には
 
{{Quotation|
 
大名小名在江戸'''交替'''所相定也毎歳夏四月中可致'''参勤'''従者之員数……
 
}}
 
とあり、交代は「交替」とも書かれる<ref group="†">当時の文書は当然手書きであり、「参」の字は[[康煕字典]]体の「參 ({{スペル|ムムム人彡}})」ではなく、異体字「({{スペル|ムニニ人水}})」となっている。</ref>。
 
 
 
== 内容 ==
 
=== 原文 ===
 
参勤交代を制度化したのは[[徳川家光]]であり、[[武家諸法度]]の寛永令にあたる条文より読み取ることができる。
 
{{Quotation|
 
一、大名・小名在江戸交替相定ムル所ナリ。毎歳夏四月中、参勤致スベシ。従者ノ員数近来甚ダ多シ、且ハ国郡ノ費、且ハ人民ノ労ナリ。向後ソノ相応ヲ以テコレヲ減少スベシ。但シ上洛ノ節ハ、教令ニ任セ、公役ハ分限ニ随フベキ事。
 
}}
 
 
 
現代語に翻訳すると『大名や小名は自分の領地と江戸との交代勤務を定める。毎年4月に参勤すること。供の数が最近非常に多く、領地や領民の負担である。今後はふさわしい人数に減らすこと。ただし上洛の際は定めの通り、役目は身分にふさわしいものにすること。』という意味になる。
 
 
 
=== 目的 ===
 
この制度の目的は、諸大名に出費を強いて勢力を削ぐことにより謀反などを抑える効果、あるいは大名の後継ぎは制度上全員が江戸育ちとなることから、精神的に領地と結びつきにくくする効果があったともいわれる<ref>『江戸三〇〇年「普通の武士」はこう生きた』著・八幡和郎、臼井喜法</ref>が、これらは結果論でしかなく、当初幕府にその意図はなかったという説が現在では有力である<ref name=hayakawa/>。
 
 
 
そもそも藩財政が破綻して軍役が不可能となっては本末転倒であることから、「[[大名行列]]は身分相応に行うべき」と通達を行なっていることが当時の幕府の文書から読み取れる。
 
 
 
=== 期日と期間 ===
 
参勤交代を行う大名は偶数年に江戸に来るグループと奇数年に来るグループに分けられた。隣国同士の大名は意図的に異なるグループに分けられたが、これは在国中あるいは江戸において談合などが出来ないようにしたものだと考えられる。各大名は4月、6月、8月、12月など国元を出発する月、および2月、8月など江戸を出発する月が定められていた<ref>『百姓・町人と大名』134頁永原慶二, 青木和夫, 佐々木潤之介執筆(日本の歴史 : ジュニア版, 第3巻)読売新聞社, 1987.5</ref>。
 
 
 
基本的にはおよそ一年あまりを江戸で過ごすよう定められた大名が多かったが、関東の多くの大名は半年ごとに国元、江戸を往復するよう定められていた。また長崎警護の任を与えられた[[福岡藩]]および[[佐賀藩]]は2年のうち約100日を、交代で江戸で過ごすよう定められていた。遠国の[[対馬藩]]は3年に4か月、[[松前藩]]は5年に4か月のみ江戸で過ごすことになっていた。多くの大名が同時期に参勤交代をしたため、街道および宿場はしばしば混雑した。当初西国には出来るだけ長い海路で大坂まで旅をする大名が多かったが、天候による日程の遅延を避けるために、次第に陸路を増やす傾向があった<ref>(コンスタンチン・ヴァポリス『日本人と参勤交代』(柏書房、2014年) ISBN 978-4760138210) </ref>。
 
 
 
== 沿革 ==
 
=== 制度前 ===
 
[[鎌倉時代]]には[[御家人]]が[[鎌倉]]に参集する制度があり、[[室町時代]]にも西国の[[守護]]は京都に、東国の守護は鎌倉に参集する制度が見られた。[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]を経て、一部の[[戦国大名]]は服属した[[武士]]を城下に集めるようになり、[[織田信長]]は[[安土城]]で支配下に服した大名に屋敷を与えた。その後、[[豊臣秀吉]]が[[大坂城]]・[[聚楽第]]・[[伏見城]]で屋敷に妻子をも住まわせたことから全国的な参勤制度の原形ができあがった<ref>山本博文『参勤交代』第一章 参勤交代の歴史 1 参勤交代の源流 丸山雍成説より p28〜29。</ref>。
 
 
 
[[慶長]]5年([[1600年]])に[[関ヶ原の戦い]]で[[徳川家康]]が勝利して覇権を確立すると、諸大名は[[徳川氏]]の歓心を買うため[[江戸]]に参勤するようになった。家康は秀吉の例に倣って[[江戸城]]下に[[江戸藩邸|屋敷]]を与え、妻([[正室]])と子(男子であれば跡継ぎ)を江戸に住まわせる制度を立てた。当初、参勤自体は自発的なものであったが次第に制度として定着していき、寛永12年([[1635年]])に徳川家3代目[[徳川将軍家|将軍]][[徳川家光]]が『[[武家諸法度]]』を改定したことによって諸大名の義務となっていった<ref>吉村豊雄「[http://hdl.handle.net/2298/2729 参勤交代の制度化についての一考察:寛永武家諸法度と細川氏]」 熊本大学『文学部論叢』Vol.29、[[1989年]][[3月]] ISSN 0388-7073 p28〜49。</ref>。
 
 
 
当初は家老など有力な家臣も人質として江戸に住む制度があったが、[[徳川家康]]の50周忌をもって廃止された。
 
 
 
=== 制定後 ===
 
制定後、諸大名は一年おきに江戸と国元を往復することが義務となり、街道の整備費用に始まり、道中の宿泊費や移動費、国元の[[居城]]と[[江戸藩邸]]の両方の維持費などにより大きな負担を強いられた。これに依って諸藩の国力低下に繋がり、[[徳川家]]が支配する長く戦争のない[[江戸時代]]が確立されていくのである。
 
 
 
この制度は[[江戸時代]]を通じて堅持されたが、享保7年(1722年)に[[上米の制]]と呼ばれる石高1万石に対し100石の米を上納させる代わり、江戸滞在期間を半年とする例外的措置をとったことがある。この措置には幕府内に反対意見もあったようではあるが、幕府の財政難を背景に制定されたということもあり、結局享保15年(1730年)まで続けられた。
 
 
 
=== 制度廃止 ===
 
嘉永6年([[1853年]])に[[ペリー]]が来航し、その圧倒的な武力を背景に欧米列強が日本に対して開国を迫ることになる。200年以上も[[鎖国]]を続けていた徳川幕府はその体制を守るために、[[文久]]2年([[1862年]])8月に参勤交代の頻度を3年に1回(100日)とする[[文久の改革]]と呼ばれる[[規制緩和]]を行なった。これは日本全体としての軍備増強と全国の海岸警備を目的としていたが、同時に人質として江戸に置かれていた大名の妻子についても帰国を認めたことで、結果として徳川幕府の力を弱めることとなってしまった。
 
 
 
この幕府の発言力低下を背景に[[元治]]元年([[1864年]])8月、[[京都]]で[[禁門の変]]と呼ばれる[[長州藩]]と江戸幕府・薩摩藩との武力衝突が起きる。これを期に翌月の9月に制度を元に戻そうとしたが、すでに幕府の威信は大きく損なわれており、従わない藩も多く存在したため、幕府の決定的求心力低下が露見することとなった。こうして[[慶応]]3年([[1867年]])、[[大政奉還]]と共にこの制度は姿を消した。
 
 
 
== 参勤交代の流れ ==
 
=== 準備 ===
 
参勤交代に関する資料は多数存在するが、特に[[加賀藩]]の[[家老]]である[[横山政寛]]が書き残した『[[御道中日記]]』には、その詳しい日付だけでなく、掛かった日数や費用、苦労話などが事細かに記載されている。
 
 
 
それによると参勤交代は毎年四月に行なわれるが、その準備は半年以上も前から行なわれ、予算の調達に始まり、他大名との間に宿場の重複がないか偵察の者を出すことから始まる。徳川御三家や幕府の役人や[[勅使]]、他の大名行列などに気を遣い、なるべくすれ違わないように旅行程の調整だけでなく宿代の交渉等々、その準備作業は多岐にわたる。「金沢板橋間駅々里程表」という資料では、[[石川県]]の[[金沢市]]と[[東京都]]の[[板橋宿|板橋]]間に宿泊の可能性がある全ての宿場までの距離が[[ダイヤグラム]]のように記されており、そのような状況下でいかに限りある予算と労力で江戸にたどり着けるかと知恵を絞りぬいた苦労が見て取れる。
 
 
 
そもそも予め幕府へ届出を出した期日までに江戸に到着しなければならなかっただけでなく、遅延が一日発生するだけで現代の貨幣価値にして数千万円から数億円相当の損失に繋がるため、いかなる理由があろうとも決められた日付までに江戸に到着しなければならない事情があった。橋や道路の整備がままならない場所もあり、そのような場合はあらかじめ橋や道路を建設した。それでも通行が難しい場合は近隣住民を大量に雇い、人が盾となって川や海の流れを鎮めたという。加賀藩が[[親不知]]を超える際、波を鎮める為に近隣から住民を700人雇ったと記録されており、[[紀州藩]]の場合は藩士が数箇月も前から下準備のために来宿したともあり、準備には入念に入念を重ねて行われたものと推測できる。
 
 
 
=== 出発 ===
 
{{Main|大名行列}}
 
軍役である以上、大名は保有兵力である配下の武士を随員として大量に引き連れただけでなく、道中に大名が暇を覚えたり、江戸での暮らしに不自由しないようにかかりつけの[[医師]]、[[茶道|茶の湯]]の家元や[[鷹匠]]までもが同行しただけなく、大名専用の[[風呂釜]]などを含む多数の手回り品までも持ち運んだ<ref>『加賀藩大名行列図屏風』加賀藩の大名行列を記した屏風より。</ref>とされ、「大名行列」という大掛かりな行進が行なわれた。[[天保]]12年([[1841年]])に行なわれた[[紀州徳川家]]の参勤交代では、武士1639人、人足2337人、馬103頭を擁したという記録も残されており、[[徳川御三家|御三家]]紀州侯の大名行列などは多くの農民が見物に訪れるほど格式と威光が感じられる大行列であったといわれている。
 
 
 
移動時間ならびに移動速度は各大名によりまちまちであるが、自国城下町などを除き、費用節約のために急ぎ足での移動が行われることも多々見られた。一日平均で6〜9時間を掛けて約30〜40[[キロメートル|km]]移動したが、旅行程に遅れが生じた場合は移動距離が50km近くに伸びることもあった。
 
[[ファイル:Sankiko01.jpg|none|600px|thumb|[[園部藩]]参勤交代行列図(1) ([[南丹市]]文化博物館蔵)]]
 
[[ファイル:Sankiko02.jpg|none|600px|thumb|園部藩参勤交代行列図(2) (南丹市文化博物館蔵)]]
 
[[ファイル:Sankiko03.jpg|none|600px|thumb|園部藩参勤交代行列図(3) (南丹市文化博物館蔵)]]
 
 
 
=== 自国領内 ===
 
自国の民衆に威厳を見せつけるために立派な服装を身に纏い、人を大量に雇った上で実際に必要な人数より多く見せることがよくみられた。これは城下町を離れるまで続けられ、町はずれに出ると雇われた人々の任務は完了となり、人数は約半数程度に減る。それ以外の従者たちは旅行に適した服装に着替え<ref>石川県の金沢市にある大樋松門跡の立札には『通行旅行ノ武士ハ(中略)松門ヲ出レバ行装ヲ崩ス慣例ナリキ』(引用)とある。</ref>、宿泊予定のある[[宿場町]]を目指すこととなる。
 
 
 
移動手段は陸路が殆どであるが、島津藩のように船と陸路を併用して行う場合もあった。陸路の場合、庶民は行列が進んでくると、道を譲り[[土下座]]をしなければならず、馬に乗っていた場合は必ず下馬しなければならなかった。飛脚や出産の取上げに向かっている[[産婆]]を除いて、行列の前を横切ったり、列を乱したりする行為は特に無礼な行為とされ、当時の国内法である[[公事方御定書]](71条追加条)によってその場で「[[切捨御免]]」も認められていた。このため、大声で行列の到来を知らせるために[[徳川御三家]]の場合は、土下座という意味の「下に、下に」と叫び、それ以外の諸藩は「片寄れー、片寄れー」、又は「よけろー、よけろー」という掛け声を用いて道を譲らせた。
 
 
 
=== 自国領外 ===
 
参勤交代の行列は他家の領地を通過することになるが、通られる側の大名は使者を遣わして贈り物などを供し、場合によっては道の清掃・整備や渡し舟の貸出なども行なっていた。また通る方も遣わされた使者に対して返礼の品を送るなどしており、両者とも互いに気を遣い合っていた。
 
 
 
他家との行列と鉢合わせにならないように各藩それぞれ入念な準備をしていたが、それでも鉢合わせる事態が発生した場合は各々の大名が籠から降り、相互に頭を下げて非礼を詫び合うこともあったという。
 
 
 
民衆は自国以外の大名に対しても下馬の義務や道を譲る義務を課されていたが、[[徳川御三家]]の行列以外には土下座する必要はなかった。
 
 
 
西国の大名の多くは整備の進んだ東海道を通ったが、橋がなくしばしば川止めとなる大きな河川が複数あり、しばしば日程の変更および経費の増大に見舞われた。そのため、幕府の許可を得て、整備は進んでいないが川止めの可能性がない中山道に変更する大名もみられた。
 
 
 
=== 宿泊 ===
 
[[ファイル:Kusatsujuku-honjin Kusatsu Shiga Pref01s3s4500.jpg|thumb|本陣の例(東海道 草津宿)]]
 
{{Main|本陣}}
 
[[本陣]]と呼ばれる大名と関係者専用の宿泊施設に宿泊する。大名は宿泊中に命を狙われる可能性が最も高いので、護衛の者が常に付いており就寝時も武器は手放さなかった。本陣は敵に攻められても対応しやすいような構造をしており、就寝中も[[小姓]]が一晩中枕元で本を朗読し、襲撃者に寝込みを襲われないよう用心した。
 
 
 
宿主にとっては大名一行の宿泊は大口の収入源であったが、大名側が旅の途中にトラブルに巻き込まれ、宿泊を急遽キャンセルしなければならないこともあり、宿泊準備費用を巡ってトラブルが絶えなかったという<ref>御道中日記</ref>。
 
 
 
=== 関所から江戸領内 ===
 
[[File:Hyugazaka_Mita_Minato_Tokyo_0191.jpg|thumb|下屋敷の例([[佐土原藩]])]]
 
幕府に対する謀反の意思がないと証明するため、[[関所]]を通過する際には大名の籠の窓を開けた上で関所の役人に顔を見せて通過した。その際、役人達は行列の人数や槍・弓などの装備をチェックし、その内容を幕府に報告をした。
 
 
 
江戸領内の庶民にも同じように自国の威厳を見せつけるため、[[下屋敷]]に到着すると立派な服装に着替え、予め雇っておいた人足と合流し、華美な行列を再び仕立て直した。[[江戸城]]に到着すると大名は将軍に拝謁し、参勤交代はここで無事に終えることになる。
 
 
 
== 日数と費用 ==
 
『御道中日記』のように、移動日数や費用について記録が多数残されている。
 
 
 
{|class="wikitable sortable" style="text-align:left;font-size:small"
 
|+各地方の主な藩の江戸までのおおよその道程・日数・大名行列の諸表<ref>{{PDFlink|[http://www.city.uwajima.ehime.jp/www/contents/1150209642062/html/common/other/4e570333030.pdf 宇和島伊達家の参勤交代]}}(第19回 宇和島市民歴史文化講座「そこ・どこや」 [[2011年]][[1月16日]])。</ref>
 
!class=unsortable|現在の地方!!藩!![[石高]]!!class=unsortable|藩庁!!道程!!日数!!行列規模!!経費
 
|-
 
|[[東北地方]]||[[伊達氏|伊達家]]・[[仙台藩]]||{{0}}63万石||[[仙台城]]({{ウィキ座標|38|15|11.5|N|140|51|24.3|E|region:JP|地図|name=仙台城:伊達家・仙台藩63万石(実高99万石)}})||{{0}}92[[里]]({{0}}368[[キロメートル|km]])||{{0}}8-9日||2000-3000人||{{0}}3000-5000[[両]]
 
|-
 
|[[北陸地方]]||[[前田氏|前田家]]・[[加賀藩]]||103万石||[[金沢城]]({{ウィキ座標|36|33|51.4|N|136|39|33.2|E|region:JP|地図|name=金沢城:前田家・加賀藩103万石(実高134万石)}})||119里({{0}}480km)||13日||2000-4000人||{{0}}5333両
 
|-
 
|[[山陰地方]]||[[池田氏|池田家]]・[[鳥取藩]]||{{0}}33万石||[[鳥取城]]({{ウィキ座標|35|30|26.6|N|134|14|23.9|E|region:JP|地図|name=鳥取城:池田家・鳥取藩33万石}})||180里({{0}}720km)||22日||{{0}}700人||{{0}}5500両
 
|-
 
|[[四国地方]]||伊達家・[[宇和島藩]]||{{0}}10万石||[[宇和島城]]({{ウィキ座標|33|13|10|N|132|33|54.8|E|region:JP|地図|name=宇和島城:伊達家・宇和島藩10万石}})||255里(1020km)||30日||{{0}}300-500人||{{0}}{{0}}986両
 
|-
 
|[[九州地方]]||[[島津氏|島津家]]・[[薩摩藩]]||{{0}}77万石||[[鹿児島城]]({{ウィキ座標|31|35|53.6|N|130|33|15.8|E|region:JP|地図|name=鹿児島城:島津家・薩摩藩77万石(実高75万石)}})||440里(1700km)||40-60日||1880人||17000両
 
|}
 
{{座標一覧}}
 
*石高は[[表高]]で、千の位で[[四捨五入]]。
 
*行列規模や経費は代表的な数値を記載した。江戸時代を通じて記載された数値が一定して続いていたわけではない。
 
 
 
江戸からの距離によって異なるが、参勤交代の費用は藩収入の5%から20%、江戸藩邸の費用を含めれば50%から75%があてられた。
 
 
 
== 影響 ==
 
=== 経済 ===
 
交通手段が発達していない時代に道路や橋が整備されていない中、[[台風]]や[[洪水]]などの不可抗力下においても決められた期日までに国元から江戸にまで到着しなければならなかったことから、加賀藩が[[黒部川]]にかけた[[愛本橋]]([[明治]]時代半ばに消滅)などに代表される参勤交代用の橋や道路が建設されたり、[[宿場町]]の発展をもたらしたりするなど後世や残る都市や交通を大いに発達させる事となる<ref name=hayakawa>[http://jairo.nii.ac.jp/0107/00005670 参勤交代のねらいは>:「参勤交代」の授業における留意点] 早川明夫、教育研究所紀要、16 pp.111 - 119、2007-12、文教大学。</ref><ref>[http://www.nichibun.ac.jp/graphicversion/dbase/forum/text/fn169.html 参勤交代と日本の文化] コンスタンティン・ノミコス・ヴァポリス(メリーランド大学準教授)日文研フォーラム、第169回 pp.1 - 29、2004-10、国際日本文化研究センター。</ref>。
 
 
 
これらの街道の整備費用に始まり、道中の宿泊費や移動費、国元の[[居城]]と[[江戸藩邸]]の両方の維持費などにより、その経済効果は非常に大きいものであった。
 
 
 
=== 風俗 ===
 
大量の大名の随員が地方と江戸を往来したために、彼らを媒介して江戸の[[文化]]が全国に広まる効果を果たすことにもなった<ref>渡邊容子「[http://ci.nii.ac.jp/naid/110001192274/ 参勤交代について]」 [[華頂短期大学]]『華頂博物館学研究』Vol.5、[[1998年]][[12月]] ISSN 0919-7702 p27〜44。</ref>。
 
 
 
参勤交代のシステムは、江戸時代を通して社会秩序の安定と文化の繁栄に繋がることになった。また参勤交代する事で江戸に[[単身赴任]]する各藩の家臣はかなりの数に上り、この結果、江戸の[[人口]]の約半数が武士が占めると共に遊郭が繁栄することとなった。江戸の人口が女性に比して男性の人口が極端に多いのは参勤交代の影響である。
 
 
 
== 脚注 ==
 
{{脚注ヘルプ}}
 
=== 注釈 ===
 
{{Reflist|group="†"|}}
 
 
   
 
   
=== 出典 ===
+
{{テンプレート:20180815sk}}
{{Reflist}}
 
 
 
=== 参考文献 ===
 
* [[山本博文]]『参勤交代』([[講談社現代新書]]、[[1998年]]) ISBN 4-06-149394-9
 
* 忠田敏男『参勤交代道中記 加賀藩史料を読む』([[平凡社]]ライブラリー、[[2003年]]) ISBN 4-582-76463-0
 
* 丸山雍成『参勤交代』([[吉川弘文館]]日本歴史叢書、[[2007年]]) ISBN 978-4-642-06664-8
 
* コンスタンチン・ヴァポリス 『日本人と参勤交代』(柏書房、[[2010年]]) ISBN 978-4760138210
 
 
 
== 関連項目 ==
 
* [[武家諸法度]]
 
* [[大名行列]]
 
* [[天下普請]]
 
* [[超高速!参勤交代]] - 参勤交代を題材にした小説。
 
 
 
 
{{デフォルトソート:さんきんこうたい}}
 
{{デフォルトソート:さんきんこうたい}}
 
[[Category:江戸時代の政治]]
 
[[Category:江戸時代の政治]]
 
[[Category:江戸時代の交通]]
 
[[Category:江戸時代の交通]]

2018/8/29/ (水) 21:14時点における最新版

Kyosai Kiyomitsu 001c.jpg

参勤交代(さんきんこうたい)

江戸時代,大名が一定期間交代で江戸に参勤した制度。幕府が大名統制策の一つとして行なったもので,戦国大名の行なった城下在番と人質徴収の政策に起るといわれる。慶長7 (1602) 年前田利長が母を人質として参勤したのが最も早い例。元和1 (15) 年の武家諸法度で定められ,寛永 12 (35) 年の武家諸法度で確立。多くの大名は在府,在国1年交代を原則としたが,関東の大名は半年交代,また対馬の宗氏は遠隔の地であるのと朝鮮との応対のため3年1度の参勤とした。これと同時に大名は妻子を江戸に人質として住まわせることになっていた。享保の改革の際8代将軍徳川吉宗が上米の制を定めて在府の期間をゆるめたこともあったが,8年間で旧に復した。参勤交代は莫大な経費を要し,各藩の財政を窮地に追込むことが多く,また国元と江戸に分れて藩士が対立することもあり,御家騒動の原因となる場合も少くなく,幕府に対抗する勢力の弱体化を目指す幕府の意図は成功したといえる。参勤交代の影響は政治面だけに限らず,たとえば江戸の繁栄は各大名の莫大な消費に支えられる部分が大きく,江戸,大坂を中心とした商業,交通の発達はめざましいものがあった。地方においても帰国した藩士らのもたらす江戸文化が,地方文化発達の刺激になった。幕府は文久2 (1862) 年の政治改革に際して,参勤交代を大大名は3年に1年,その他は3年1度 100日を在府として妻子の帰国を許した。その後,慶応1 (65) 年再び旧に戻したが命令に従う者がなく,廃絶した。



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