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'''原 辰徳'''(はら たつのり、[[1958年]][[7月22日]]<ref name="meikan2008">{{cite book | title=プロ野球カラー名鑑 2008 | publisher=[[ベースボール・マガジン社]] | year=2008 | pages=11 | isbn=978-4-583-61526-4}}</ref> - )は、[[日本]]の<!--WBC日本代表監督経験との兼ね合いから、国名より記述します。-->元[[プロ野球選手]]([[内野手]]・[[外野手]])。元プロ野球監督。解説者。[[読売ジャイアンツ]]球団特別顧問。読売ジャイアンツ前[[プロ野球監督|監督]]、[[2009 ワールド・ベースボール・クラシック日本代表|WBC第2回大会(2009)日本代表]]監督を務めた。[[福岡県]][[大牟田市]]生まれ、[[神奈川県]][[厚木市]]、[[相模原市]](現[[南区 (相模原市)|南区]])育ち<ref name="meikan2015"/><ref>『12球団全選手カラー百科名鑑』2004年・2005年版の解説者名鑑では、出身地の項に「福岡県大牟田市-神奈川県相模原市」と記載。</ref>。
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'''原 辰徳'''(はら たつのり、[[1958年]]7月22日<ref name="meikan2008">{{cite book | title=プロ野球カラー名鑑 2008 | publisher=[[ベースボール・マガジン社]] | year=2008 | pages=11 | isbn=978-4-583-61526-4}}</ref> - )
 
 
[[1980年代]]から[[1990年代]]中盤にかけて巨人の4番打者を務め、[[ON砲|ON時代]]後の巨人を支えた。入団から12年連続で本塁打20本以上を記録し、4番としての出場試合数は球団歴代4位である。監督としてもチームを7度のリーグ優勝と3度の日本一に導いている。2009年には[[2009 ワールド・ベースボール・クラシック日本代表|ワールド・ベースボール・クラシック日本代表]]の監督を務め、世界一に導いた。
 
 
 
また、2008年より[[国際武道大学]]の客員教授<ref name=GQ>[http://gqjapan.jp/2013/05/07/haratatsunor/ 名将に学ぶリーダーシップ論──原 辰徳(読売ジャイアンツ監督)]2013年5月7日 GQJAPAN {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20130615091008/http://gqjapan.jp/2013/05/07/haratatsunor/ |date=2013年6月15日 }}</ref>、2016年より[[東海大学]]の客員教授を務める<ref>[http://jp.reuters.com/article/idJP2016111801001701 原辰徳氏、母校東海大客員教授に]</ref>。愛称は「(永遠の<ref name="haraikiiki_web">参考:『原辰徳のいきいきトーク』番組公式サイト(インターネット・アーカイブ保存キャッシュ)
 
* [https://web.archive.org/web/20060112013822/http://www.tbs.co.jp/radio/format/hara.html 2004年10月当時](2004年10月13日付キャッシュ)
 
* [http://wayback.archive.org/web/20060112013822/http://www.tbs.co.jp/radio/format/hara.html 終了直後](2006年1月12日付キャッシュ)
 
</ref>・平成の)'''若大将'''」<ref name="haraikiiki_web" />。
 
 
 
父は[[東海大学付属相模高等学校・中等部|東海大学付属相模高校]]や[[東海大学硬式野球部]]などで監督を務めた[[原貢]]。辰徳と同じく東海大相模高校・東海大学の野球部に所属し、巨人に入団した[[菅野智之]]は甥(妹の子)にあたる。
 
 
 
== 年表 ==
 
詳細は以下の[[#来歴]]を参照。
 
* 1958年 - 福岡県大牟田市に生まれる。
 
* 1974年 - [[東海大学付属相模高等学校・中等部|東海大相模高校]]入学。
 
* 1977年 - [[東海大学]]入学。
 
* 1980年 - [[プロ野球ドラフト会議]]にて[[読売ジャイアンツ]]に入団が決定
 
* 1981年 - 東海大学卒業。読売ジャイアンツに入団。
 
* 1995年 - 現役引退。
 
* 1996年 - 解説者、評論家としての活動を開始。
 
* 1999年 - 読売ジャイアンツの野手総合コーチに就任。
 
* 2001年9月 - 第14代読売ジャイアンツの監督に就任(~2003年)。
 
* 2004年 - 読売ジャイアンツ特別顧問に就任(~2005年)。
 
* 2005年10月 - 第16代読売ジャイアンツの監督に就任(~2015年)。
 
* 2009年 - 第2回[[ワールド・ベースボール・クラシック日本代表]]の監督に就任。
 
* 2013年 - 第3回[[2013 ワールド・ベースボール・クラシック日本代表]]のシニアアドバイザーに就任。
 
* 2016年 - 読売ジャイアンツ特別顧問に就任<ref>[http://www.giants.jp/G/gnews/news_3910066.html 原辰徳前監督の特別顧問就任について]</ref>。
 
* 2018年 - [[野球殿堂]]入り
 
 
 
== 来歴 ==
 
=== プロ入り前 ===
 
幼少期を福岡県大牟田市で過ごし、市内にある東洋高圧(現・[[三井化学]])大牟田の[[社宅]]に住んでいた。なお、同じ社宅には[[真弓明信]]も住んでいた<ref>炭鉱町に咲いた原貢野球―三池工業高校・甲子園優勝までの軌跡(澤宮優著、現代書館発行、2004年)</ref>。私立平原幼稚園、[[大牟田市立平原小学校]]、[[大牟田市立三池小学校]]、大牟田市立白川小学校と転校。小学校2年のとき、父の東海大学付属相模高等学校監督就任に伴い、神奈川県厚木市へ転居<ref>佐藤正弥編著 『データ・バンク にっぽん人』 現代書林、1982年、26-27頁。</ref>。厚木市立緑ヶ丘小学校、厚木市立南毛利中学校、[[相模原市立上鶴間中学校]]と転校した<ref>中学卒業間近に、原は体育の授業([[サッカー]]?)で左足首を複雑骨折した。診察した医師からも「このままでは、君は野球はできないかも知れないね」と告げられたことがある。怪我の状態は深刻で、最悪の場合歩行困難あるいは重い後遺症が残ると思われ、通常なら野球生命を絶たれる状態だった。しかし、原自身が野球を続けたい熱意が強かったため、根気よく粘って[[リハビリ]]回復に成功し、野球は続けられたが、後年の[[アキレス腱]]の悪化に間接的に繋がった。</ref>。中学校時代、厚木市の公営団地に住んでいたが、その団地の同じ棟には[[推理小説家]]の[[森村誠一]]一家も住んでいた<ref>当時の原は練習帰りに団地の公園で森村の長男の遊び相手をしていた。森村は当時の2人の姿を覚えており、「面倒見のいい辰徳君に感謝しています」と語っている([http://www.sanspo.com/baseball/news/081011/bsa0810110336006-n2.htm 原巨人、伝説を作った] サンケイスポーツ 2008年10月11日閲覧)</ref>。
 
 
 
==== 高校時代 ====
 
{{by|1974年}}、[[東海大学付属相模高等学校・中等部|東海大相模高校]]に入学し、1年生から[[三塁手]]のレギュラーとして活躍。[[全国高等学校野球選手権大会|夏の甲子園]]に3年連続で出場し、[[第47回選抜高等学校野球大会|1975年の春の甲子園]]にも出場している。この大会では決勝戦まで勝ち進み、延長の末に[[高知中学校・高等学校|高知高校]]に敗れたものの、準優勝という成績を収めている。甲子園の各大会では、後にプロ野球でも活躍する[[定岡正二]]<ref>[[第56回全国高等学校野球選手権大会|1974年の夏の甲子園]]、準々決勝で原辰徳の東海大学付属相模高等学校と定岡正二の[[鹿児島実業高等学校]]が対戦し、延長15回の熱闘となって[[日本放送協会|NHK]]が試合中継を途中で打ち切ったために、視聴者から苦情が殺到する一幕があった([[全国高等学校野球選手権大会#テレビ・ラジオ中継#NHKでの中継]]の項参照)。この一戦が原辰徳の名が全国に知られるきっかけとなった。また原が巨人に入団した際、『[[月刊ジャイアンツ]]』誌上にて既にチームの先輩であった定岡との対談が組まれている。</ref>、[[宇野勝]]、[[土屋正勝]]、[[杉村繁]]らと名勝負を繰り広げている。地区大会の神奈川県大会では、[[川崎球場]]を満員にする程の「原フィーバー」を巻き起こした。当時のチームは、原の他にも、[[津末英明]]、綱島里志、佐藤功、[[村中秀人]]らの好選手を擁していた。高校通算本塁打は43本。
 
 
 
==== 大学時代 ====
 
その後東海大学政治経済学部経済学科に進学。[[遠藤一彦]]は先輩、[[市川和正]]は同級生、[[高野光]]は後輩にあたる。{{要出典範囲|date=2017年1月23日 (月) 23:15 (UTC)|当時東海大学はあまり大学野球で人気のない首都大学野球連盟に加盟していたが、原目当てのファンが殺到する事態に備えて、加盟校のグラウンドで行われていた試合に加え、川崎球場や[[横浜スタジアム]]などを利用した}}。
 
 
 
1年生秋のリーグ戦で初本塁打を打ったが、打率.267で、ベストテンには入れなかった<ref>東海大が「完全」 原、ベスト10入れず [[読売新聞]] 1977年10月25日 朝刊17ページ</ref>。首都大学リーグでは3度の最高殊勲選手、1年生秋のリーグを除く7度のベストナインを獲得。打撃三冠王を2度達成する(2年生秋・4年生春)。リーグ通算93試合出場、362打数144安打、打率.398、21本塁打、105打点。大学1年時の秋に行われた[[明治神宮野球大会]]では、[[東京六大学野球連盟|東京六大学リーグ]]のエースとして君臨していた[[法政大学]]の[[江川卓 (野球)|江川卓]]と対戦。4[[打数]]2[[安打]]1本塁打を記録するものの同年の[[全日本大学野球選手権大会]]、[[明治神宮野球大会]]では共に決勝で敗れ日本一は果たせなかった。
 
 
 
3年生時に日本で開催された日米野球では、[[早稲田大学]]4年生の[[岡田彰布]]<ref>大学時代の全日本代表で共にクリーンアップを担っていた時から付き合いがあり、[[プライベート]]ではお互いに携帯で[[メール]]でやり取りするほどの仲である。2008年に岡田が監督を辞任した時に「“岡田さん、辞めないでください”と原からメールが来た」と岡田がコメントしたことがある。2008年11月16日放送『[[SUPERうるぐす]]』の「独占告白 阪神 岡田前監督 辞任の真相」より。</ref>と3番、4番を組み、ハワイ大のエース、[[デレク・タツノ]]らと対戦した。この大会でも逆転満塁本塁打を放つなど活躍を見せる。大学4年時には、秋の明治神宮野球大会で1試合3本塁打を放つなどの活躍を見せ、「長嶋茂雄の再来」の期待をさらに大きなものとした。[[1980年]]、日本で開催された[[アマチュア野球世界選手権]]に、大学生としてただひとり日本代表選手に選出され出場した(3位入賞)。
 
 
 
[[1980年度新人選手選択会議 (日本プロ野球)|1980年のプロ野球ドラフト会議]]において、[[読売ジャイアンツ]]新監督の[[藤田元司]]が4球団(巨人、[[広島東洋カープ|広島]]、[[横浜DeNAベイスターズ|大洋]]、[[北海道日本ハムファイターズ|日本ハム]])競合の末に1位クジを引き当て、巨人に入団<ref>この時に広島が外れ1位で指名した選手が、後に巨人で同僚となる[[川口和久]]であった。</ref>。背番号については前年限りで監督を退任した長嶋茂雄が「できることなら([[野球界の永久欠番|永久欠番]]になっている)僕の'''3'''を譲りたい」と言うほどの惚れこみようだったが、[[高田繁]]の引退に伴い空いた'''8'''となった。1985年までの初代[[応援歌]]は背番号にちなんで『[[8マン|エイトマン]]』の主題歌だった。監督時代の応援歌も同じで、第一次政権として最後の試合となった2003年10月7日の対阪神戦(甲子園)では、{{要出典範囲|date=2016年4月5日 (火) 08:08 (UTC)|巨人の応援団は誰が打席に立っていても原の応援歌を流し続けた}}。
 
 
 
1981年3月、東海大学政治経済学部経済学科を卒業する。
 
 
 
=== 現役時代 ===
 
{{by|1981年}}、[[開幕戦]]に6番・[[二塁手]]で先発出場。プロ初打席は[[中日ドラゴンズ]]・[[三沢淳]]の前にセカンドフライに倒れるも、代わった[[牛島和彦]]からプロ初安打を記録。翌日には[[小松辰雄]]からプロ初本塁打を放ち、その17日後に行われた対[[横浜DeNAベイスターズ|大洋ホエールズ]]戦([[北九州市民球場]])では、[[遠藤一彦]]から自身初のサヨナラ本塁打も放った。試合終了後、興奮した大量のファンが乱入した。シーズン当初はチームのポジション事情により二塁手として出場していたが、当時[[三塁手]]のレギュラーであった[[中畑清]]の故障により、アマチュア時代からのポジションである三塁に収まる。空いた二塁には[[篠塚利夫]]が入り、中畑は一塁で復帰し、内野のレギュラー陣が固まる。シーズン後半には疲労から成績を落としてしまったが、最終的には打率.268、22本塁打、67打点の成績を収め、[[最優秀新人 (日本プロ野球)|新人王]]を獲得した。シーズンオフには、[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]で1年目の活躍等を振り返る特集番組『[[辰徳スペシャル]]』が放映された。
 
 
 
{{by|1982年}}には本塁打数を33に伸ばし、[[勝利打点|最多勝利打点]]を獲得。本塁打は2本差、打点は3打点差で、共に[[掛布雅之]]に次いで2位であった。
 
 
 
{{by|1983年}}は初めて打率3割を記録。[[最多打点 (日本プロ野球)|打点王]]、最多勝利打点を獲得して巨人の優勝に貢献し、[[最優秀選手 (野球)|MVP]]に選ばれた。巨人における3割30本塁打100打点の記録達成は、[[青田昇]]、長嶋茂雄、[[王貞治]]に次いで球団史上4人目だった。
 
 
 
{{by|1986年}}、前年を上回るペースで本塁打を記録していたが、[[9月24日]]の対[[広島東洋カープ|広島]]25回戦で[[津田恒実]]の直球をファウルした際に左手首の有鉤骨を骨折、残り試合の欠場を余儀なくされた。この骨折は「事実上、バッター原辰徳は、この骨折の時に終わりました」と後に自らが発言する程の影響があった。バットとボールが触れるインパクトの瞬間、左手を使って押し込む動作を行う際、絶頂時と骨折後との違和感がずっと消えなかったとの事である。これ以降、負傷した左手首に加えて[[アキレス腱]]痛などにも悩まされる<ref>{{要出典範囲|date=2017年1月24日|原は後年「あの時の津田との勝負に悔いはない」と、当時から現在に至るまで繰り返し語っている}}。</ref>。
 
 
 
{{by|1987年}}、{{by|1988年}}は2年連続で3割30本塁打を記録。特に1988年は本拠地が東京ドームになってチーム本塁打が激減する中、最後までホームラン王争いに加わった。その後、1996年に[[松井秀喜]]が38本塁打を記録するまで、チーム内で30本塁打以上を達成する選手は登場しなかった。
 
 
 
{{by|1989年}}、[[左翼手]]に[[コンバート (野球)|コンバート]]される。同年、新人時代から9年連続20本塁打以上のプロ野球新記録を達成した。[[大阪近鉄バファローズ|近鉄バファローズ]]との[[1989年の日本シリーズ|日本シリーズ]]では、開幕から18打席連続無安打と極度に不振に陥る。東京ドームで迎えた第5戦、近鉄・[[吉井理人]]は原の前を打つ4番打者・[[ウォーレン・クロマティ]]を敬遠する満塁策をとり、不振の原との勝負をする作戦を選ぶ。しかし、原はこのシリーズ初安打となる満塁本塁打を放ち、溜飲を下げた。ちなみに、原はこのシリーズはわずか2安打に終わったが、その2安打が第5戦の満塁弾、第7戦の2ランといずれも本塁打であり、シリーズMVPに選ばれた[[駒田徳広]]を上回る6打点を記録している。
 
 
 
{{by|1990年}}は開幕戦で脇腹を痛め戦線離脱し、一時は任意引退公示されたが、最終的には打率3割を達成し、チームの2年連続リーグ優勝に貢献した。レギュラーシーズン127試合目となるナゴヤ球場での中日戦において3本塁打を放ち、10年連続20本塁打を達成。翌{{by|1991年}}には、入団以来11年連続20本塁打の日本記録更新と年間犠牲フライのリーグ新記録を達成し、2年連続ベストナインに選出される。しかし、プロ入団以来初めてのBクラス転落を経験し、年俸も微増の9900万円でわずかに1億円に届かなかった。
 
 
 
{{by|1992年}}、[[一塁手]]にコンバート。当初三塁への復帰も検討されていたが、その背景には、不安定な左翼守備とその影響で打撃成績が下降したこと、またすでにファンの間で「原=三塁」のイメージが定着しており、外野手転向によってそれが損なわれていたことなどの理由があった。しかし、アキレス腱痛の悪化などを考慮し、最終的には一塁手へのコンバートとなった。入団以来12年連続20本塁打の日本記録を更新し、この年のオフ、駒田、[[斎藤雅樹]]とともに、歴代の巨人の日本人選手として初めての1億円プレーヤーとなった。
 
 
 
{{by|1993年}}は三塁手に復帰。[[5月2日]]には4番出場が通算1000試合に到達した。しかし、複数個所の故障に悩まされ打撃不振に陥り、プロ入り以来初の[[規定打席]]未達に終わる。開幕から21試合を経た[[5月5日]]まで本塁打が出ないという不振ぶりで、新人時代より続けていたシーズン20本塁打以上の記録が12年で途切れるなど、プロ入り以来最低の成績に終わる。同年オフ、中日の主砲・[[落合博満]]が[[フリーエージェント (日本プロ野球)|FA]]を宣言し巨人に移籍。四番を任される事が確実となり、原の立場は微妙になった。
 
 
 
{{by|1994年}}左脚の[[アキレス腱]]を部分断裂し開幕を二軍で迎え、一軍初出場は開幕から53試合目、[[6月14日]]の阪神戦だった。7番打者で先発出場するも、ドラフト1位ルーキーで前月の月間MVP・[[藪恵壹|藪恵市]]から本塁打を放ち意地をみせた。2年連続で規定打席未達ながら、夏場に3打席連続本塁打を記録するなどの活躍を見せ、入団以来14年連続二桁本塁打を達成。チームは[[10.8決戦]]を制して4年ぶりにリーグ優勝を果たし、[[1994年の日本シリーズ|日本シリーズ]]で原は欠場の落合に代わり四番・一塁手で出場。第2戦で[[埼玉西武ライオンズ|西武ライオンズ]]・[[工藤公康]]から巨人の同試合唯一の得点となる[[適時打]]を放ち、球団創立60周年での日本一達成に貢献した。
 
 
 
{{by|1995年}}に現役[[引退]]。{{要出典範囲|date=2017年1月26日 (木) 03:33 (UTC)|原の引退が発表された後の試合では、ビジターの球場でも敵味方の区別なくファンから熱烈な声援が上がった}}。[[引退試合]]は、{{要出典範囲|date=2017年1月26日 (木) 03:33 (UTC)|巨人のホームゲームの日程がセ・リーグ他球団より早く消化することと、シーズン終盤までチームが優勝争いをしていたことから当初予定されていなかったが、8月に開催された広島戦の延長15回引き分け再試合が[[10月8日]]に組み込まれたことにより実現}}。[[東京ドーム]]のスケジュールの都合上、当時としては珍しくデーゲームでの開催となった。原は4番・三塁手として出場し、[[紀藤真琴]]から左中間スタンドへ382本目の本塁打を放った。最終打席では、広島側の計らいにより[[大野豊 (野球)|大野豊]]がワンポイントで登板し、ライバル対決が行われた(結果はレフトフライ)。試合は1-3で巨人が敗れたが、{{要出典範囲|date=2017年1月23日 (月) 23:15 (UTC)|試合後の引退セレモニーでは「巨人軍の4番打者には何人も侵すことが出来ない聖域がある」と語り、「今日、私の夢は終わります。しかし私の夢には続きがあります」との言葉を残した}}。
 
 
 
=== 評論家時代 ===
 
{{by|1996年}}に[[日本放送協会|NHK]][[野球解説者]]、[[スポーツ報知]][[野球評論家]]へ就任。[[プロ野球中継]]解説の他、[[NHK総合テレビジョン|NHK総合テレビ]]の『[[サンデースポーツ]]』でメインキャスターを1999年3月まで務めた。
 
 
 
=== コーチ時代 ===
 
{{by|1999年}}、長嶋が監督の下、巨人の野手総合コーチに就任し球界復帰。{{要出典範囲|date=2017年1月26日 (木) 03:33 (UTC)|初キャンプでは外野ノックの際に本塁打を連発して珍プレーとして取り上げられた。本人曰く「バットで打ったらスタンドに入れるのが仕事だったもんだから、つい、ネ。」}}。{{by|2000年}}には、ヘッドコーチに昇格。
 
 
 
=== 第1次監督時代 ===
 
{{by|2001年}}シーズンオフ、勇退した長嶋の後任として巨人の監督に就任。背番号は83。1年目シーズンとなった{{by|2002年}}のキャッチフレーズは「ジャイアンツ愛」。当時オーナーだった[[渡邊恒雄]]に打診して、現役時代から親交があり、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]にコーチ留学していた[[鹿取義隆]]を[[ヘッドコーチ]]として招聘した<ref name="Number_20021010_132">Number、2002年10月10日号、P.132</ref>。
 
 
 
2002年は、引退も考えていた[[桑田真澄]]の先発復帰<ref>第一次政権の日本一に大きく貢献したのが、ヘッドコーチ・[[鹿取義隆]]の中6日を崩さない[[先発ローテーション]]であった。[[工藤公康]]や桑田真澄などのベテランを有効に使い、選手の能力を十二分に発揮させた。翌年は一転、深刻な投壊状態に陥った。</ref>、故障で一軍から離脱していた[[河原純一]]の抑え転向、[[清水隆行]]の1番起用など大胆な選手起用を行い、就任1年目にしてリーグ優勝に導いた。[[2002年の日本シリーズ|日本シリーズ]]では[[埼玉西武ライオンズ|西武ライオンズ]]相手に球団史上初でシリーズとして1990年の西武以来12年ぶりとなる無傷のストレート4連勝で、「監督初年度での日本一」を達成した。
 
 
 
この年、[[松井秀喜]]と清水以外の選手は故障が多かったものの、[[支配下選手]]70名中66名を一軍で適材適所で使い分け、二軍で好調だった選手を昇格後即スタメンで起用したり、積極的にエンドランや盗塁を用いる用兵で結果を残した。6月19日の対[[横浜ベイスターズ|横浜]]戦の11回表無死一塁で、打者が投手で左打者の[[岡島秀樹]]、相手投手が左投げの[[河原隆一]]の場面、ベンチに控え野手[[清原和博]]・[[村田善則]]・[[鈴木尚広]]が残っている状況で、投手である桑田を代打に指名した。横浜は投手を右投げの[[東和政]]に交代させ、守備陣はバントシフトを敷くが、桑田は初球をバスターエンドランし、試合に勝利した<ref>代打桑田の理由に関しては公式HPの2002年6月22日の日記に論理的な判断(左打者の岡島に左対左でバントさせるよりも右打者の代打を起用したかったため、清原は送りバントを想定している打者ではないことと足が遅いことで併殺の恐れがあるため、村田は捕手・阿部が負傷した際の守備要員にする必要があったため、鈴木は代走要員であることと代打清原が出塁した後の代走を想定していたため)を掲載しているが、「野手を信頼していないから投手の桑田を代打起用した訳ではなく、残っている野手の分野を考えた」「奇策に奇策を重ねるような戦い、[[森祇晶]]監督に対して礼を逸した戦いぶりだった」と原本人はあまり評価をしていない。</ref>。
 
 
 
しかし翌{{by|2003年}}は、前年まで不動の4番だった松井秀喜が[[フリーエージェント (日本プロ野球)|FA]]権を行使し[[メジャーリーグベースボール|MLB]]へ移籍したことや、相次ぐ主力選手の怪我による戦線離脱、前年好調だった投手陣が一転して不調に陥ったこと(チーム防御率は3.04から4.43に低迷)、更には阪神の快進撃などもあり3位に終わる。当初は次シーズンも指揮を執ることが内定していたが、終盤で中日に抜かれ3位に転落したことに加え、球団代表・[[三山秀昭]]との確執もあり、渡邉恒雄オーナー(当時)曰く“読売グループ内の[[人事異動]]”の名目で監督を辞任、特別顧問に転任した。
 
 
 
=== 特別顧問時代 ===
 
[[2004年]]から2年間は巨人軍特別顧問([[日本テレビ放送網|日本テレビ]]解説者、スポーツ報知客員評論家と兼任)を務めた。また、[[TBSラジオ]]の番組『原辰徳のいきいきトーク』(『ファンケル 原辰徳のいきいきトーク』<ref>参考…[http://www.tbs.co.jp/radio/radiotokyo/ ラジオ東京スピリッツ(TBSラジオ開局60周年記念特設サイト)] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20131219044831/http://www.tbs.co.jp/radio/radiotokyo/ |date=2013年12月19日 }}より配信された、『原辰徳のいきいきトーク』放送当時の番組表PDFファイル。ファンケルが単独スポンサーに付き、タイトルは『ファンケル 原辰徳のいきいきトーク』となっていることが明記。
 
* [http://www.tbs.co.jp/radio/radiotokyo/img/200404.pdf 2004年4月当時]
 
* [http://www.tbs.co.jp/radio/radiotokyo/img/200410.pdf 2004年10月当時]
 
* [http://www.tbs.co.jp/radio/radiotokyo/img/200504.pdf 2005年4月当時]
 
* [http://www.tbs.co.jp/radio/radiotokyo/img/200510.pdf 2005年10月当時]
 
</ref>。2004年4月から9月…日曜9時55分 - 10時、2004年10月から2005年12月…土曜17時 - 17時15分、東京地区のみ放送)で[[ラジオパーソナリティ|パーソナリティ]]を担当<ref name="haraikiiki_web" />。
 
 
 
=== 第2次監督時代 ===
 
{{by|2005年}}オフ、自身の後任監督である[[堀内恒夫]]が成績不振により引責辞任。その後任として監督に再任した。背番号は'''88'''。
 
 
 
{{by|2006年}}、シーズン当初は開幕ダッシュに成功し5月まで首位をキープしていたが、[[小久保裕紀]]、[[高橋由伸]]、[[阿部慎之助]]など怪我人が続出し、6月から7月の間に立て続けに8連敗、10連敗、9連敗(他に敵地18連敗、[[プロ野球地域保護権|保護地域]]外26連敗など)を喫して優勝争いから脱落、8月4日には最下位に転落する。最終的には2年連続Bクラスとなる4位で終わる。
 
 
 
{{by|2007年}}、故障で出遅れた[[上原浩治]]を「今季のみ限定」で[[リリーフ#抑え|抑え]]に転向させたり、それまでクリーンナップを務めていた高橋由伸を1番打者に固定するなど、型破りな選手起用が成功しチームを5年ぶりのリーグ優勝へと導いた。しかし、この年から導入された[[セントラル・リーグ|セ・リーグ]]の[[2007年のセントラル・リーグクライマックスシリーズ|クライマックスシリーズ]]2ndステージで、ペナントレース2位の中日に初戦から3連敗を喫し、[[2007年の日本シリーズ|日本シリーズ]]出場を逃した。秋季キャンプは対象選手を伸び盛りの若手に特化。また高橋由伸と上原のポジションに関しては、上原が先発復帰(「選手が積み重ねてきたものがあるので強制はできない」としている)。かつての平成3本柱のひとりでリリーフエース経験もある[[槙原寛己]]を臨時コーチに招き、守護神候補として[[野間口貴彦]]や[[西村健太朗]]の指導を依頼。新聞{{Full|date=2017年1月23日 (月) 23:15 (UTC)}}で2007年を「“ホップ、ステップ、ジャンプ”のホップの年くらいにはなった」と語っている。
 
 
 
{{by|2008年}}は、一時は首位・阪神タイガースに最大13ゲーム差をつけられるも、シーズン終盤の8月から9月にかけて12連勝含む26戦で21勝するなどし猛追、そのまま10月8日に阪神を逆転して首位に立ち、10月10日に2年連続リーグ優勝を達成する。[[2008年のセントラル・リーグクライマックスシリーズ|クライマックスシリーズ]]2ndステージでは、中日を相手にアドバンテージの1勝を含む3勝1敗1分の成績を残し、2002年以来の[[2008年の日本シリーズ|日本シリーズ]]進出を決めた。日本シリーズでは[[パシフィック・リーグ|パ・リーグ]]の覇者・[[埼玉西武ライオンズ]]相手に3勝4敗で敗退した。
 
 
 
この年、神宮での雨中の開幕戦で、遊撃スタメンだった[[二岡智宏]]が足を負傷、二塁スタメンだった当時2年目・19歳の[[坂本勇人]]を本来のポジションである遊撃に回したが、坂本はこの試合以降の2008年の全試合、全イニングに起用され、急成長を遂げた。野手では他に[[亀井義行]]や、[[育成選手制度 (日本プロ野球)|育成枠]]から[[隠善智也]]らを、投手陣でも前年に育成枠から昇格した[[山口鉄也]]や、若い[[越智大祐]]らを積極的に起用するなど、若手・中堅・ベテランを使い分ける采配が評価された。
 
 
 
同年10月28日、[[日本野球機構]]より[[2009 ワールド・ベースボール・クラシック日本代表]]監督への就任を要請され受諾。背番号は83。{{by|2009年}}3月24日の決勝戦で[[大韓民国|韓国]]を5-3で破り、日本を大会2連覇に導いた。
 
 
 
[[ファイル:Tatsunori Hara 2009 Japan Series.jpg|thumb|[[2009年の日本シリーズ]]での原辰徳]]
 
[[File:Tatsunori Hara-1.jpg|thumb|優勝パレードの原監督(2009年11月22日撮影)]]
 
2009年シーズンが開幕すると、育成枠出身の[[松本哲也 (野球)|松本哲也]]や坂本・亀井、原自ら「風神・雷神」と名づけた左右の中継ぎコンビ・山口と越智などの若手が次々に台頭した。また、上原浩治のMLB移籍によって先発投手の戦力低下が危惧されたが、ヤクルトから獲得した[[ディッキー・ゴンザレス]]やテスト生出身の[[ウィルフィン・オビスポ]]がその穴を埋めたため前年とは対照的に春先から首位を快走した。野手陣においては、3年目の坂本を1番打者として起用、また前年までは代打や守備固めでの起用が多かった[[松本哲也 (野球)|松本哲也]]・亀井善行をスタメンとして固定するなど、勢いのある若手をレギュラーとして起用した。リードした試合の終盤には主力選手をベンチに下げたり、[[谷佳知]]を相手先発投手に応じてスタメン・代打と使い分けたり、捕手の[[阿部慎之助]]や外野手の亀井を一塁手としても起用するなど選手層の厚さを活かした柔軟な用兵を見せ好成績をキープし首位を快走、9月23日に[[V9 (読売ジャイアンツ)|V9]]({{by|1965年}} - {{by|1973年}})以来のリーグ3連覇を果たした。ベテランの[[小笠原道大]]や[[アレックス・ラミレス]]が期待通りの成績を残したことも、若手起用にも繋がり相乗効果となり、年間安打数1375本は球団歴代最多となった。第2次監督時代の長嶋らと対照的にベテランやホームランバッターに依存せず、若手を積極的に起用する原の手腕は多くの解説者に高く評価された<ref>(株)ベースボールマガジン社刊『週刊ベースボール』2009年10月26日号「特集 原巨人、3連覇!」では岡田彰布(90 - 91ページ)、[[豊田泰光]](52 - 53ページ)、[[水野雄仁]](28 - 29ページ)が賛辞のコメントを寄せている。</ref>。[[2009年のセントラル・リーグクライマックスシリーズ|クライマックスシリーズ]]第2ステージでは3年連続となった中日相手に4勝1敗(レギュラーシーズン1位のアドバンテージ1勝を含む)で勝利。2年連続[[2009年の日本シリーズ|日本シリーズ]]出場となった。日本シリーズでは[[北海道日本ハムファイターズ]]に4勝2敗で勝利。監督として2度目の日本一を達成する。11月12日にはWBC及び日本シリーズの優勝が評価され、2度目の[[正力松太郎賞]]を受賞。11月14日にはアジアシリーズの代替大会として行われた[[日韓クラブチャンピオンシップ#2009年|日韓クラブチャンピオンシップ]]にも勝利。監督としてWBC、セ・リーグ、日本シリーズ、日韓統一王者の4冠を達成した。
 
 
 
2009年12月6日に[[スイス]]・[[ローザンヌ]]で開かれた[[国際野球連盟]]の総会において[[2009 ワールド・ベースボール・クラシック]]優勝などの実績が評価され、世界最優秀監督に選出された<ref>[http://mlb.mlb.com/news/article.jsp?ymd=20091206&content_id=7763732&vkey=news_mlb&fext=.jsp&c_id=mlb Italy's Fraccari elected IBAF president]</ref>。
 
 
 
{{by|2010年}}は、[[長野久義]]を獲得し前年同様優勝が期待されたが、前年度活躍した[[内海哲也]]、[[東野峻]]、ゴンザレス、オビスポといった主力投手がそろって不調に陥り、[[高橋尚成]]の退団や[[マーク・クルーン]]の救援失敗も響いてチーム防御率が1点近く悪化し、連覇を逃した。
 
 
 
{{by|2011年}}は、前年度の失敗から投手コーチに[[川口和久]]を招聘し立て直しを図り、この年入団した[[澤村拓一]]の活躍もあり改善したが、抑え投手を固定できず、[[久保裕也 (野球)|久保裕也]]に決まるまでは[[レビ・ロメロ]]や[[ジョナサン・アルバラデホ]]などを日替わりで起用した。また、この年から導入された統一球に苦戦し、前年までの主な得点源であった本塁打が激減、得点力が大きく低下した。
 
 
 
{{by|2012年}}は、ラミレスがDeNAに移籍したが、[[野村克也]]の教え子である[[橋上秀樹]]、[[秦真司]]をコーチとして招聘し、[[村田修一]]や[[杉内俊哉]]、[[D.J.ホールトン|デニス・ホールトン]]を獲得し、阿部を四番とした新チームで開幕をスタートさせる。ところが春先は前年度並に打てない日々が続き、単独最下位にまで転落した。しかし、長野と坂本の打順を入れ替えたり、松本哲也が復調したり、西武から移籍した[[石井義人]]を代打の切り札として使い、シーズン途中に復帰した[[エドガー・ゴンザレス (内野手)|エドガー・ゴンザレス]]の活躍などもあり打線は復調、交流戦ではセ・リーグのチーム初の優勝を決めた。交流戦後も好調は続き、夏場から首位の座を譲らず独走でリーグ優勝を決めた。この年は、[[宮國椋丞]]・[[高木京介]]・[[田原誠次]]・[[小山雄輝]]など若手投手が台頭し、若手起用の采配を評価する声が多かった。また、[[2012年のセントラル・リーグクライマックスシリーズ|クライマックスシリーズ]]ではファイナルステージにおいて中日に3連敗と追い込まれながらもその後3連勝して[[2012年の日本シリーズ|日本シリーズ]]への出場権を得た。日本シリーズでは北海道日本ハムファイターズを相手に4勝2敗と勝ち越して3年ぶりの日本一を達成した。その後開催された[[2012年のアジアシリーズ|アジアシリーズ]]でも優勝し、史上初の5冠を達成した。その功績が認められ、阿部とともに自身3度目の正力松太郎賞を受賞した。
 
 
 
{{by|2013年}}は、[[2013 ワールド・ベースボール・クラシック日本代表]]監督へは就任しなかったが、シニアアドバイザーに就任した。日本が準決勝進出しアメリカ行きが決まると、自身も特別顧問の王と一緒にアメリカに同行した。代表は準決勝で敗れたが、立派に戦ったと褒め称えた<ref>http://daily.co.jp/baseball/wbc/2013/03/19/0005825242.shtml</ref>。なお、シニアアドバイザー在任中はヘッドコーチの[[川相昌弘]]が代理監督を務めた。巨人監督としては、前年度同様大差をつけてのリーグ優勝を果たしたが、日本シリーズでは楽天にあと一勝で敗れ日本一連覇はならなかった。
 
 
 
{{by|2014年}}、父が心筋梗塞で入院したため、5月5日は離脱することが球団より発表された。この日の代理は再び川相が務め、翌日には現場復帰した。ペナントレースでは3年連続優勝を果たしたが、クライマックスシリーズでは阪神タイガースに敗れて日本シリーズに出場することは出来なかった。
 
 
 
{{by|2015年}}[[4月15日]]に、[[B型インフルエンザウイルス]]に[[感染]]し当面自宅で静養となり監督代行を川相が務める事が発表された<ref>[http://www.giants.jp/G/gnews/news_399483.html 原監督のインフルエンザ感染について] 読売巨人軍公式サイト (2015年4月15日) 2015年4月24日閲覧</ref>。4月21日の広島東洋カープ戦で、復帰した<ref>[http://www.giants.jp/G/result/digest/201504211digest.html 主軸がタイムリーそろい踏み、原監督の復帰戦を見事白星で飾る] 読売巨人軍公式サイト (2015年4月21日) 2015年4月24日閲覧</ref>。同年は2位に終わり、[[10月19日]]に、正式に監督を退任することを表明した<ref>[http://www.giants.jp/G/gnews/news_3910049.html 「夢の続き、全うできた」原監督が退任 - 読売巨人軍公式サイト](2015年10月19日)</ref>。大学時代から親交がある岡田彰布は原の勇退の報を聞いて「まさかとは思ったわ。優勝7回、日本一3回やで。すごいことや。「お疲れ様」と言いたいわ」と述べている<ref>[http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=078-20151109-01 原が辞めた理由は俺もよく分かる | 週刊ベースボールONLINE]より。</ref>。
 
 
 
=== 第2次監督退任後 ===
 
2016年に読売ジャイアンツの球団特別顧問に就任。1月18日に母校・東海大の湘南キャンパスで開かれた同大特別功労賞の授賞式に参加し、同大学出身の柔道男子日本代表・[[井上康生]]監督と行った対談の中で「今年はテレビ解説とかは一切しない。ただ、開幕戦は『ゲストなら出ます』と言った」と明言した<ref>[http://www.hochi.co.jp/giants/20160118-OHT1T50195.html 【巨人】原氏、開幕ヤクルト戦で“解説”](2016年1月19日)</ref>。
 
 
 
2016年12月、巨人OB会の幹事に就任<ref>[http://www.sanspo.com/baseball/news/20161205/gia16120503440009-n1.html 巨人OB会総会に92人 原氏が幹事就任「全面協力します」]</ref>。
 
 
 
2017年から[[日本テレビ]]の解説者として本格に復帰する<ref>{{Cite web |url=http://www.ntv.co.jp/info/pressrelease/20170227.html |title=日本テレビ 2017年 読売巨人軍主催ゲーム 野球中継について  |publisher=日テレ企業・IR情報 |accessdate=2017-02-27}}</ref>。その他[[TBSテレビ|TBS]]制作の侍ジャパン中継のゲスト解説者としても出演する。
 
 
 
2018年度の野球殿堂入りを果たした。
 
 
 
== テレビ・ラジオ解説 ==
 
2017[[WBC]]([[TBSテレビ|TBS]]
 
 
 
== 選手としての特徴 ==
 
2017年シーズン終了時点で、各スタッツは歴代で三振57位、併殺打122位、犠飛13位である。
 
 
 
=== 走塁放棄 ===
 
原は[[走塁放棄]]で[[アウト (野球)|アウト]]になったことがある。1988年9月4日の東京ドームでの対中日23回戦、6-1と中日がリードして迎えた9回裏一死一塁の場面で、原は[[上原晃]]の球を捉え、左中間に大飛球を放った。中日の左翼手[[豊田成祐]]が背走して、捕球したかに見えた。一塁走者の[[岡崎郁]]は二塁を回っており、慌てて二塁を経由して一塁に戻ろうとした。そして豊田から内野に返球されたボールが岡崎より先に一塁に転送され、一塁塁審がアウトを宣告し、試合終了かと思われた。しかし左翼外審の[[手沢庄司]]は、豊田の捕球は直接捕球ではなく、フェンスに当って跳ね返ったボールがグラブに収まったので「ノーキャッチ」と判定していた。したがって岡崎をアウトにするためには、岡崎自身へ[[触球]]する必要があった。一連のプレー中、原はアウトになったものと思い、一塁ベースから離れベンチに戻っていた。審判団が協議し、原を走塁放棄でアウトとし、二死一塁から試合再開となった(試合は6-1で中日が勝利)。この走塁放棄の一件は、原だけでなく岡崎、また中日の内野陣、さらに一塁塁審までの勘違いがあって起こった珍事であった。なお、原のこの打席の記録は、左翼への安打となっており、試合経過説明として走塁放棄でアウトとなっている<ref>朝日新聞東京本社版、1988年9月5日付朝刊25面</ref>。
 
 
 
== 監督として ==
 
巨人入団時の監督だった[[藤田元司]]と助監督だった[[王貞治]](後の監督)とは、監督としてのやり方が似ているとよく言われる。実際、藤田の生前には監督業について何度も意見を交わし、また王から指導者としての(主に心構えの)アドバイスも受けたことがある。[[長嶋茂雄]]からも評価をされており、成績不振が続いても「不調があっても来年には悪かったものを壊してほしい」と見放さない期待をしている<ref>http://www.sanspo.com/baseball/news/20151004/gia15100405010001-n1.html</ref>。
 
 
 
ラミレスは特に尊敬する監督に原の名を挙げている<ref>[http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2014/10/06/kiji/K20141006009056460.html ラミちゃん引退…NPB復帰かなわず 夢は監督で「日本一」] - 2014年10月6日</ref>。
 
 
 
自身の第2次監督時代(2006年〜2015年)に投手陣の柱として活躍した[[内海哲也]]には「ニセ侍」、「突発性四球病」などと厳しい言葉をかけることもあったが、実はその裏では「お前が必要なんだ」といつも励まして使い続けたという。内海自身、様々な環境の中で押しつぶされそうだった自分を、温かく見守ってくれた原の恩には、必ず「日本一」で報いたいと語っている<ref>[http://www.plus-blog.sportsnavi.com/originalsafari/article/10]</ref>。
 
  
試合では自己犠牲と勝利至上主義を貫き、必要であれば主軸打者にもバントをさせる。チームの和は競争原理が働くことで保たれるが、チームを最優先する意識を強く持った選手が集まってこそ勝利を得られると語り、己を殺すことに苦渋や不満を抱いているようではまだまだ未熟と考えている。これは個人の活躍はその場の喜びで終わるが、チームのために闘って勝てば自分が成長し豊かになる深い喜びを体感できるとの考えによるもの<ref name=GQ></ref>。
+
プロ野球選手・監督。福岡の生まれ。昭和56年(1981)、巨人に入団。
  
監督として通算で、2度の[[セ・パ交流戦]]優勝(2012年、2014年)、7度の[[セントラル・リーグ]]優勝(2002年、2007年 - 2009年、2012年 - 2014年)、4度の[[クライマックスシリーズ]]優勝(2008年・2009年、2012年・2013年)、3度の[[日本選手権シリーズ|日本一]](2002年、2009年、2012年)、[[日韓クラブチャンピオンシップ]]優勝(2009年)、[[アジアシリーズ]]優勝(2012年)、[[ワールド・ベースボール・クラシック|WBC]]世界一(2009年)が各1回ずつと、計7冠を達成している<ref>日韓クラブチャンピオンシップは事実上、アジアシリーズの代替大会であるが、記録は別大会として扱われている。</ref>。
+
主砲として活躍し、昭和58年(1983)には打点王のタイトルを獲得。引退後は巨人の監督として、チームを3度の日本一に導いた。
  
== 人物 ==
+
第2回WBCでは、日本代表チーム「侍ジャパン」の監督としてチームを優勝に導いた。
2003年のある試合で[[木佐貫洋]]が四球で自滅した際には「死ぬなら前のめりで死ね」と活を入れた。2006年3月12日に行われた阪神とのオープン戦では、二戦続けて失点した[[久保裕也 (野球)|久保裕也]]をベンチ裏に呼んで叱るとともに軽く二回蹴り、その後記者団に「(キックは)ナデナデしただけですよ。しっかり頑張ろうということです。久保には信頼も大きい。期待の星だからね」とコメントした<ref>[https://web.archive.org/web/20060318124357/http://www.sanspo.com/baseball/top/bt200603/bt2006031306.html 原監督が久保にケリ2発!虎・浜中に被弾し“一発退場”]2006年3月13日 SANSPO.COM</ref>。2013年5月に打撃不振になっていた[[村田修一]]と[[長野久義]]を非公開で指導した際にも「ナデナデ」という表現を使っていた<ref>[http://hochi.yomiuri.co.jp/giants/news/20130521-OHT1T00167.htm 原監督「頭をなでなでしただけ」村田&長野に直接指導]2013年5月22日 報知新聞社{{リンク切れ|date=2017年9月}}</ref>。
 
 
 
ON時代後の巨人の4番を務めたことから前世代の偉大な4番打者と頻繁に比べられ、現役時代より叩かれ役となることが多かった。監督を務めていた頃にも毎日のように落語の[[三題噺]]のような展開の話が掲載されていた<ref>主に「何かの問題を全て原の責任に仕立て上げる」「原が誰々を嫌っている(またはその逆)」といったような話を好んで掲載しており、一例をあげると、2009年極度の打撃不振から[[李承ヨプ (野球)|李承燁]]を二軍落ちさせたが、当時球団代表だった[[清武英利]]が「原監督が李の扱いのためにかなりストレスを受けていた」と明かした話がその年の夕刊フジに掲載されているが、夕刊フジは『韓国内からは「原監督は李が嫌いなのか」などの問い合わせが相次いだという』と併記している([http://www.zakzak.co.jp/spo/200907/s2009071713_all.html G李2軍調整の波紋…韓国で原やり玉「嫌われた」]『zakzak』2009年7月17日更新、18日閲覧)。</ref>。
 
 
 
[[電話]]好きで、2005年のオフには、入団交渉をしている選手によく電話をかけることで有名になった。同年に[[フリーエージェント (日本プロ野球)|FA]]宣言した[[野口茂樹]]には「同じ目標に向かって戦おう」と話し、[[豊田清]]には1日3度の電話をかけ、両者とも入団にこぎつけた。ドラフト指名選手にも[[辻内崇伸]]などに電話をかけており、「ジャイアンツ愛」にちなんで「'''愛のテレフォン'''」と呼ばれている。2006年のオフには[[高橋尚成]]に「お前は左のエースだから、来年からの背番号は21番だ」と話した。2007年オフ、当時の阪神の監督であった岡田彰布が「[[トライアウト]](戦力外になった)の選手はとらない」と述べた後、[[藤田宗一 (投手)|藤田宗一]]が防御率10を超える成績不振を出したことにより[[千葉ロッテマリーンズ|ロッテ]]から戦力外通告を受けた。藤田に解雇が通知されトライアウト開催された翌日、トライアウトを不参加した藤田の家に原からの電話がかかってきて、藤田は巨人と契約。岡田はこのことに大きく後悔したという。
 
 
 
2009年3月7日に行われたWBC東京ラウンド日本対韓国戦での勝利監督インタビューの際、マイクの音声が球場に流れないというアクシデントが発生。場内の観客からは「聞こえない」などの苦情の声が相次ぐもインタビューは進行。途中、音声が球場に流れるようになった時、原は「最初のが聞こえてなかったんじゃないですか?」と発言し、同じインタビューを頭からやり直し、観客からの苦情を一変させ声援を浴びた<ref>2009年3月8日 [[日刊スポーツ]] 3面など</ref>。
 
 
 
現在、東海大相模高校のある[[相模原市]]に本社を置く住宅販売業「丸正産業」のイメージキャラクター<ref>同社広告では「アドバイザー」と表記。</ref>を解説者時代から務めているが、その会社の看板では巨人によく似たユニフォームを着ている(背番号「8」のバージョンと「88」のバージョンがある)。
 
 
 
=== 趣味・嗜好 ===
 
冗談で「野球より好きだ」と公言するほどの[[ゴルフ]]好き。50歳の誕生日を迎えた際、「49歳でアメリカへ渡り、50歳のときにゴルフのシニアツアーに参戦。[[全米シニアオープン|全米シニア]]で同世代の[[グレグ・ノーマン]]や[[ニック・プライス]]と戦う。37歳で現役引退したとき、そう思ったんだ」と発言したほど<ref>[http://sankei.jp.msn.com/sports/baseball/080722/bbl0807222046010-n1.htm 「夢は米ゴルフツアー参加だった」 50歳を迎えた巨人・原監督]</ref>。[[2016年]]には関東の名門コース・[[戸塚カントリー倶楽部]]のクラブチャンピオンを獲得し、[[2017年]]の第56回[[報知アマゴルフ選手権]]に同コースの代表として出場した<ref>[http://www.hochi.co.jp/golf/20170726-OHT1T50304.html 原辰徳さん、初の全国規模大会で7オーバー39位“デビュー”…報知アマゴルフ選手権] - スポーツ報知・2017年7月27日</ref>。
 
 
 
[[プロレス]]も[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]で中継をしている[[全日本プロレス]]→[[プロレスリング・ノア]]の系列に造詣が深く、ゲスト解説などもしている。これら団体の試合を会場で観戦することもしばしばある。全日本プロレスでは[[永源遙]]の[[唾]]攻撃が原、[[岡崎郁]]と一緒に観戦していた[[廣田浩章]]の[[ジーンズ]]の膝あたりにかかってしまった事もあった。その試合後に永源の唾攻撃を原らに目掛けてやった張本人である[[ラッシャー木村]]の十八番であるマイクパフォーマンスで「今日おいで下さった巨人軍の選手の方々。特に原選手。燃えろ!原、燃えろ!辰徳」というエールが飛び、観客は大歓声であった。ノア社長の[[三沢光晴]]や、現役引退試合の翌日に同じく[[東京ドーム]]で行われた「[[激突!!新日本プロレス対UWFインターナショナル全面戦争]]」を観戦し、当時メインイベントで[[高田延彦]]に勝利した、[[WRESTLE-1]]の[[武藤敬司]]社長とはプライベートでも親交を深めている。[[ジャイアント馬場]]の訃報をキャンプ地の宮崎で聞き、マスコミに対し「僕にとってのヒーローが…これ以上は勘弁してください」と言って人目をはばからずに号泣した。馬場はジャイアンツの大先輩でもある。最近はノア以外の選手にも注目しており、特に[[新日本プロレス]]の[[真壁刀義]]は同じ相模原市出身ということもあって、巨人の選手との会話において真壁を引き合いに出して若手に奮起を促していた<ref>東京スポーツ・2009年12月2日付 2面</ref>。2010年2月22日には新日本プロレスの真壁と[[タイガーマスク (4代目)|4代目タイガーマスク]]が宮崎キャンプに訪問して、タイガーマスクからプレゼントされた特注の覆面を迷いなくかぶる大サービスも見せた(白色のマスクで、巨人のロゴマーク入り)
 
 
 
また、球界屈指の愛犬家で、[[ボクサー (犬)|ボクサー犬]]をルーキー時代から現在に至るまで飼育している。1982年に出した歌『サム』は当時一緒に暮していた犬の名前。藤田元司が監督を退任した後に子犬をプレゼントしたという。
 
 
 
愛車は[[レクサス・LS#4代目 F40型(2006年-)|レクサス・LS600h]]。
 
 
 
[[メロンパン]]が大好きで、[[菓子パン]]類ではメロンパン以外は菓子パンとして、認めていないという。
 
 
 
以前は[[喫煙者]]であったが、[[2003年]][[秋]]に第1次監督退任後から[[禁煙]][[トレーニング]]を行い、同年[[12月31日]]付で[[卒煙]]した。[[2004年]]以降は非喫煙者であり、[[2005年]]秋に第2次監督就任後以降は、チーム内の[[選手]]、[[スタッフ]]の現役喫煙者全員に禁煙の指示を出し、球団事務所内の全面禁煙を徹底した。「強いチームを作るのに喫煙行為は巨人の選手としてはもちろん、アスリートとしての自覚も欠けている」と[[コメント]]している<ref>[[2010年]]に自身が[[出版]]した[[自伝]]による内容。{{full|date=2014年6月}}</ref>。[[2011年]]時点ではチーム内の選手、スタッフはほとんどが非喫煙者であり、最終的にはチーム内の[[喫煙率]]0%達成を目指している。
 
 
 
かなりの酒豪であり、番記者たちに囲まれての宴席でワインを何本も空けたにもかかわらず、酔ったそぶりを全く見せなかったというエピソードを持つ。
 
 
 
=== ジェスチャー ===
 
少年時代から長嶋の大ファンであり、長嶋の下でコーチに就任して以降、長嶋の「ビュッと振ってバーンと当てる」といった擬態音で説明したり、派手なジェスチャーを交えるスタイルを継承している。長嶋政権でのコーチ時代には本塁打を打った選手への出迎えが長嶋とそっくりであった。一部マスコミからは「チョーさん(長嶋)が2人いる」と揶揄され、[[久米宏]]は「マイナス掛けるマイナスはプラスだからなぁ」と評した。監督時代の長嶋は、試合展開や個々の特性などが一切考慮されず「教則本的な基本から1ミリでも外れた面がある采配」をするたびに「カンピューター」などとスポーツマスコミに目の仇にされていたが、原も表面的なイメージをひきずり桑田のバスター策などを「思いつき」などと形容されていることが多い。
 
 
 
ジェスチャーの一つ一つに特徴がある。特に味方選手がホームランを打った後の出迎えの際には、目を見開き両拳を突き出し選手と合わせるしぐさは定番となっている<ref>{{Cite web|url=http://www.nikkansports.com/baseball/news/p-bb-tp0-20130604-1137549.html|title=阿部&村田アベック弾!巨人一夜で奪首|publisher=[[日刊スポーツ]]|date=2013-06-04|accessdate=2017-08-05}}</ref>。なお原が[[ハイファイブ|ハイタッチ]]ではなくグータッチを好んでするのはハイタッチが手のひらという比較的面積が大きい部分でするため、移動したりしながらでき緩慢になることがあるのに対して、グータッチは拳と拳のためしっかり集中してやらないと形がくずれてしまい、失敗するので緩慢になるのを防止する効果があり、さらに拳と拳が合うように手をお互い見ているため目があい意思疎通も図れるからである<ref>{{Cite web|url=https://www.news-postseven.com/archives/20130420_182960.html|title=巨人ファンあるあるネタ やたらグータッチを要求し鬱陶しい|publisher=NEWSポストセブン|date=2013-04-20|accessdate=2017-08-05}}</ref>。
 
 
 
=== 週刊文春の記事について ===
 
2012年6月、『[[週刊文春]]』で、1988年当時の女性不倫問題や、それに関わる2006年当時の1億円金銭の支払いの経緯が報じられた<ref>{{Cite news |title=不倫で1億円払った原監督 「清武さん」暴露もうやめて |newspaper=[[スポーツニッポン]] |date=2012年6月21日 06:00 |url=http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2012/06/21/kiji/K20120621003509320.html |accessdate=2014-12-09 |agency=[[Sponichi Annex]] |publisher=[[スポーツニッポン新聞社]] <!--|archiveurl=https://web.archive.org/web/20141209070630/http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2012/06/21/kiji/K20120621003509320.html |archivedate=2014-12-09 -->}}</ref><ref>{{Cite news |title=原監督、女性問題で1億円支払っていた |newspaper=[[デイリースポーツ]] |date=2012年6月20日 |url=http://www.daily.co.jp/newsflash/2012/06/20/0005149986.shtml |accessdate=2014-12-09 |agency=[[デイリースポーツオンライン]] |publisher=[[神戸新聞社]] |archiveurl=https://web.archive.org/web/20120620082835/http://daily.co.jp/newsflash/2012/06/20/0005149986.shtml |archivedate=2012-06-20 }}</ref><ref name="jcast一億">{{Cite news |title=原監督1億円不倫問題に「朝日」参入 「ゆすり男は元組員」と断定 |newspaper=[[ジェイ・キャスト#J-CASTニュース|J-CASTニュース]] |date=2012/6/21 20:36 |url=http://www.j-cast.com/2012/06/21136620.html |accessdate=2014-12-09 |publisher=[[ジェイ・キャスト]] |page=1 <!--|archiveurl=https://web.archive.org/web/20140606223814/http://www.j-cast.com/2012/06/21136620.html?p=1 |archivedate=2014-12-09 -->}}</ref>。文春は金銭を支払った男性二人組が元暴力団員であると報じ、[[朝日新聞]]でも二人を元暴力団員と報道したが<ref name="jcast一億"/><ref>{{Cite news |title=(2/3) 原監督1億円不倫問題に「朝日」参入 「ゆすり男は元組員」と断定 |newspaper=J-CASTニュース |date=2012/6/21 20:36 |url=http://www.j-cast.com/2012/06/21136620.html?p=2 |accessdate=2014-12-09 |publisher=ジェイ・キャスト |page=2 <!--|archiveurl=https://web.archive.org/web/20141209075352/http://www.j-cast.com/2012/06/21136620.html?p=2 |archivedate=2014-12-09 -->}}</ref>、球団広報は否定した<ref name="朝日参入">{{Cite news |title=(3/3) 原監督1億円不倫問題に「朝日」参入 「ゆすり男は元組員」と断定 |newspaper=J-CASTニュース |date=2012/6/21 20:36 |url=http://www.j-cast.com/2012/06/21136620.html?p=3 |accessdate=2014-12-09 |publisher=ジェイ・キャスト |page=3 <!--|archiveurl=https://web.archive.org/web/20141209075913/http://www.j-cast.com/2012/06/21136620.html?p=3 |archivedate=2014-12-09 -->}}</ref>。暴力団関係者と認識したうえでの金銭供与は[[日本プロフェッショナル野球協約|野球協約]]違反となるため、球団広報の否定は原を護るための虚偽であるとの続報を文春は出した<ref name="共同控訴審">[http://this.kiji.is/49795840307561981 名誉毀損、二審も読売巨人軍の敗訴 原監督報道は「真実」] 共同通信2015年12月16日</ref>。
 
 
これに対し原は、1988年の女性問題と2006年の金銭問題など、記事の内容を大筋で認めてファンに謝罪し、支払い相手については「プロ野球と関係ある人物」と述べた<ref>[http://www.nikkansports.com/baseball/news/f-bb-tp0-20120620-970334.html 現金を渡しました/原監督コメント全文]</ref>。同時に発表した文書で巨人のGMを解任された[[清武英利]]をリーク先と断定するが、清武側は直後に否定。「非常に残念でなりません。私は関知していません」とのコメントが出された<ref name="朝日参入"/><ref>{{Cite news |title=原監督 ファンに謝罪「私はある女性と関係を持ちました」 |newspaper=スポーツニッポン |date= 2012年6月20日 13:28 |url=http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2012/06/20/kiji/K20120620003507110.html |accessdate=2014-12-09 |agency=Sponichi Annex |publisher=スポーツニッポン新聞社 <!--|archiveurl=https://web.archive.org/web/20141209072638/http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2012/06/20/kiji/K20120620003507110.html |archivedate=2014-06-20 -->}}</ref><ref>{{Cite news |title=巨人・原監督、暴露に「清武さんの他にだれが」 |newspaper=デイリースポーツ |date=2012年6月20日 |url=http://www.daily.co.jp/newsflash/2012/06/20/0005150210.shtml |accessdate=2014-12-09 |agency=デイリースポーツオンライン |publisher=神戸新聞社 <!--|archiveurl=https://web.archive.org/web/20120620105229/http://daily.co.jp/newsflash/2012/06/20/0005150210.shtml |archivedate=2014-06-20 -->}}</ref><ref>[http://jiji.com/jc/c?g=spo_30&k=2012062000857 「関知していない」と清武氏=原監督メッセージに反論-プロ野球] - 『時事ドットコム』2012年6月20日 {{リンク切れ|date=2014年6月}}</ref>。
 
 
 
2012年12月に球団本部は発行元の[[文藝春秋]]を相手取り、名誉毀損での3000万円の損害賠償と謝罪広告掲載を請求する訴訟を提起したが、2015年7月に東京地裁は請求を棄却。判決では「恐喝をした者を一般的な意味で反社会的勢力と考えるのは妥当だ」として文春報道の真実相当性を認定した<ref>[http://www.asahi.com/articles/ASH7H53XWH7HUTIL03B.html 原監督1億円問題、巨人軍の請求を棄却 東京地裁判決] 朝日新聞2015年7月15日</ref>。球団側は判決を不服として控訴したが、同年12月東京高裁は一審判決を支持し控訴を棄却した<ref name="共同控訴審"/>。2016年6月28日に、最高裁により球団側の上告を受理しない決定が下され、東京高裁判決が確定した<ref>[http://www.sankei.com/affairs/news/160629/afr1606290010-n1.html 巨人・原辰徳前監督の女性問題報道、文春の勝訴確定] 産経新聞 2016年6月29日</ref>。
 
 
 
== 詳細情報 ==
 
=== 年度別打撃成績 ===
 
{| {{年度別打撃成績|リーグ=日本プロ野球}}
 
|-
 
|style="text-align: center;"|{{by2|1981}}
 
|rowspan="15" style="text-align: center;white-space:nowrap;"|[[読売ジャイアンツ|巨人]]
 
|125||507||470||64||126||23||6||22||227||67||6||6||0||'''7'''||27||0||3||78||9||.268||.308||.483||.791
 
|-
 
|style="text-align: center;"|{{by2|1982}}
 
|'''130'''||542||494||81||136||19||1||33||256||92||11||6||0||4||42||4||2||82||6||.275||.332||.518||.850
 
|-
 
|style="text-align: center;"|{{by2|1983}}
 
|'''130'''||571||500||'''94'''||151||32||4||32||'''287'''||'''103'''||9||4||0||'''8'''||60||1||3||56||11||.302||.375||.574||.949
 
|-
 
|style="text-align: center;"|{{by2|1984}}
 
|'''130'''||543||468||72||130||19||1||27||232||81||7||3||1||4||67||3||3||58||8||.278||.369||.496||.865
 
|-
 
|style="text-align: center;"|{{by2|1985}}
 
|124||521||441||79||125||23||2||34||254||94||7||3||2||8||60||2||'''10'''||42||6||.283||.376||.576||.952
 
|-
 
|style="text-align: center;"|{{by2|1986}}
 
|113||467||406||70||115||21||3||36||250||80||7||2||1||6||52||4||2||57||8||.283||.363||.616||.978
 
|-
 
|style="text-align: center;"|{{by2|1987}}
 
|123||489||433||80||133||17||3||34||258||95||7||2||0||'''7'''||44||6||5||61||11||.307||.372||.596||.968
 
|-
 
|style="text-align: center;"|{{by2|1988}}
 
|126||529||467||79||140||24||1||31||259||81||5||6||0||0||61||6||1||63||14||.300||.382||.555||.936
 
|-
 
|style="text-align: center;"|{{by2|1989}}
 
|114||459||395||60||103||22||0||25||200||74||3||3||0||2||60||4||2||68||6||.261||.359||.506||.866
 
|-
 
|style="text-align: center;"|{{by2|1990}}
 
|103||425||366||58||111||17||1||20||190||68||6||4||0||4||52||3||3||64||4||.303||.391||.519||.910
 
|-
 
|style="text-align: center;"|{{by2|1991}}
 
|127||524||455||66||122||13||1||29||224||86||5||3||0||'''12'''||55||1||2||82||7||.268||.342||.492||.834
 
|-
 
|style="text-align: center;"|{{by2|1992}}
 
|117||493||437||61||119||17||1||28||222||77||4||3||0||3||46||1||7||71||13||.272||.349||.508||.857
 
|-
 
|style="text-align: center;"|{{by2|1993}}
 
|98||387||336||28||77||14||0||11||124||44||3||2||0||3||44||1||4||62||9||.229||.323||.369||.692
 
|-
 
|style="text-align: center;"|{{by2|1994}}
 
|67||227||200||26||58||4||1||14||106||36||0||2||2||1||22||1||2||21||5||.290||.364||.530||.894
 
|-
 
|style="text-align: center;"|{{by2|1995}}
 
|70||160||144||13||29||8||0||6||55||15||2||1||1||1||13||1||1||29||5||.201||.270||.382||.652
 
|-
 
!colspan="2" style="white-space:nowrap;"|通算:15年
 
|1697||6844||6012||931||1675||273||25||382||3144||1093||82||50||7||70||705||38||50||894||122||.279||.355||.523||.878
 
|}
 
* 各年度の'''太字'''はリーグ最高
 
 
 
=== 年度別監督成績 ===
 
; リーグ公式戦
 
{| class="wikitable" style="text-align: right; font-size: small;"
 
![[年度]]!![[日本プロ野球|球団]]||順位!![[試合]]!![[勝利]]!![[敗戦]]!![[引き分け|引分]]!![[勝率]]!![[ゲーム差]]!!チーム<br />本塁打!!チーム<br />打率!!チーム<br />防御率!![[年齢]]
 
|-
 
|style="text-align: center;"|{{by|2002年}}||rowspan="12" style="text-align: center;"|[[読売ジャイアンツ|巨人]]
 
|'''1位'''||140||86||52||2||.623||-||186||.272||3.04||44歳
 
|-
 
|style="text-align: center;"|{{by|2003年}}
 
|3位||140||71||66||3||.518||15.5||205||.262||4.43||45歳
 
|-
 
|style="text-align: center;"|{{by|2006年}}
 
|4位||146||65||79||2||.451||23.5||134||.251||3.65||48歳
 
|-
 
|style="text-align: center;"|{{by|2007年}}
 
|1位||144||80||63||1||.559||-||191||.276||3.58||49歳
 
|-
 
|style="text-align: center;"|{{by|2008年}}
 
|1位||144||84||57||3||.596||-||177||.266||3.37||50歳
 
|-
 
|style="text-align: center;"|{{by|2009年}}
 
|'''1位'''||144||89||46||9||.659||-||182||.275||2.94||51歳
 
|-
 
|style="text-align: center;"|{{by|2010年}}
 
|3位||144||79||64||1||.552||1.0||226||.266||3.89||52歳
 
|-
 
|style="text-align: center;"|{{by|2011年}}
 
|3位||144||71||62||11||.534||3.5||108||.243||2.61||53歳
 
|-
 
|style="text-align: center;"|{{by|2012年}}
 
|'''1位'''||144||86||43||15||.667||-||94||.256||2.16||54歳
 
|-
 
|style="text-align: center;"|{{by|2013年}}
 
|1位||144||84||53||7||.613||-||145||.262||3.21||55歳
 
|-
 
|style="text-align: center;"|{{by|2014年}}
 
|1位||144||82||61||1||.573||-||144||.257||3.58||56歳
 
|-
 
|style="text-align: center;"|{{by|2015年}}
 
|2位||143||75||67||1||.528||1.5||98||.243||2.78||57歳
 
|-
 
!colspan="3"|通算:12年
 
|1715||947||712||56||.571||colspan="5" style="text-align: center;"|Aクラス11回、Bクラス1回
 
|}
 
: ※1 '''太字'''は日本一
 
: ※2 2002年から2004年までは140試合制
 
: ※3 2005年から2006年までは146試合制
 
: ※4 2007年から144試合制
 
: ※5 2014年5月5日対中日9回戦(ナゴヤドーム)を私用により欠場したため、監督成績には含まない(チームは勝利)。監督代行は[[川相昌弘]]
 
: ※6 2015年4月15日・16日の対横浜DeNA4回戦・5回戦(両日共に横浜スタジアム)、17日~19日の対阪神4回戦~6回戦(各日共に阪神甲子園球場)は体調不良で休養。監督代行は川相(4勝1敗)
 
 
 
; ポストシーズン
 
{| class="wikitable" style="text-align: right; font-size: small;"
 
!年度!!チーム!!大会名!!対戦相手!!勝敗
 
|-
 
|style="text-align: center;"|2002年||rowspan="16" style="text-align: center;"|巨人||[[2002年の日本シリーズ|日本シリーズ]]||[[埼玉西武ライオンズ|西武ライオンズ]]([[パシフィック・リーグ|パ・リーグ]]1位)||'''4勝0敗'''=日本一
 
|-
 
|style="text-align: center;"|2007年||[[2007年のセントラル・リーグクライマックスシリーズ|セ・リーグ<br />クライマックスシリーズ]]<br />2ndステージ(※5)||[[中日ドラゴンズ]]([[セントラル・リーグ|セ・リーグ]]2位)||0勝3敗=敗退
 
|-
 
|rowspan="2" style="text-align: center;"|2008年||[[2008年のセントラル・リーグクライマックスシリーズ|セ・リーグ<br />クライマックスシリーズ]]<br />2ndステージ(※6)||中日ドラゴンズ(セ・リーグ3位)||'''3勝1敗1引分'''=日本シリーズ進出<br />(※7)
 
|-
 
|[[2008年の日本シリーズ|日本シリーズ]]||[[埼玉西武ライオンズ]](パ・リーグ1位)||3勝4敗=敗退
 
|-
 
|rowspan="2" style="text-align: center;"|2009年||[[2009年のセントラル・リーグクライマックスシリーズ|セ・リーグ<br />クライマックスシリーズ]]<br />2ndステージ(※6)||中日ドラゴンズ(セ・リーグ2位)||'''4勝1敗'''=日本シリーズ進出<br />(※8)
 
|-
 
|[[2009年の日本シリーズ|日本シリーズ]]||[[北海道日本ハムファイターズ]](パ・リーグ1位)||'''4勝2敗'''=日本一
 
|-
 
|rowspan="2" style="text-align: center;"|2010年||[[2010年のセントラル・リーグクライマックスシリーズ|セ・リーグ<br />クライマックスシリーズ]]<br />1stステージ||[[阪神タイガース]](セ・リーグ2位)||'''2勝0敗'''=ファイナルステージ進出<br />
 
|-
 
|セ・リーグ<br />クライマックスシリーズ<br />ファイナルステージ||中日ドラゴンズ(セ・リーグ1位)||1勝4敗=敗退<br />(※9)
 
|-
 
|style="text-align: center;"|2011年||[[2011年のセントラル・リーグクライマックスシリーズ|セ・リーグ<br />クライマックスシリーズ]]<br />1stステージ||[[東京ヤクルトスワローズ]](セ・リーグ2位)||1勝2敗=敗退
 
|-
 
|rowspan="2" style="text-align: center;"|2012年||[[2012年のセントラル・リーグクライマックスシリーズ|セ・リーグ<br />クライマックスシリーズ]]<br />ファイナルステージ||中日ドラゴンズ(セ・リーグ2位)||'''4勝3敗'''=日本シリーズ進出<br />(※8)
 
|-
 
|[[2012年の日本シリーズ|日本シリーズ]]||[[北海道日本ハムファイターズ]](パ・リーグ1位)||'''4勝2敗'''=日本一
 
|-
 
|rowspan="2" style="text-align: center;"|2013年||[[2013年のセントラル・リーグクライマックスシリーズ|セ・リーグ<br />クライマックスシリーズ]]<br />ファイナルステージ||[[広島東洋カープ]](セ・リーグ3位)||'''4勝0敗'''=日本シリーズ進出<br />(※8)
 
|-
 
|[[2013年の日本シリーズ|日本シリーズ]]||[[東北楽天ゴールデンイーグルス]](パ・リーグ1位)||3勝4敗=敗退
 
|-
 
|style="text-align: center;"|2014年||[[2014年のセントラル・リーグクライマックスシリーズ|セ・リーグ<br/>クライマックスシリーズ]]<br/>ファイナルステージ||[[阪神タイガース]](セ・リーグ2位)||1勝4敗=敗退<br/>(※8)
 
|-
 
|rowspan="2" style="text-align: center;"|2015年||[[2015年のセントラル・リーグクライマックスシリーズ|セ・リーグ<br />クライマックスシリーズ]]<br />1stステージ||阪神タイガース(セ・リーグ3位)||'''2勝1敗'''=ファイナルステージ進出<br />
 
|-
 
|セ・リーグ<br />クライマックスシリーズ<br />ファイナルステージ||東京ヤクルトスワローズ(セ・リーグ1位)||1勝4敗=敗退<br />(※9)
 
|}
 
: ※ 勝敗の'''太字'''は勝利したシリーズ
 
: ※5 2007年のクライマックスシリーズ2ndステージは'''5試合制'''で先に3勝したチームの優勝、リーグ優勝チームにアドバンテージなし
 
: ※6 2008年以降のクライマックスシリーズ2ndステージ(2010年以降ファイナルステージ)は'''6試合制'''で先に4勝したチームの優勝、'''リーグ優勝チームに1勝のアドバンテージ'''
 
: ※7 アドバンテージの1勝を含む。3勝で優勝となったのは、引き分け試合で勝利数が同数になる場合は上位チームの優勝となる規定による
 
: ※8 アドバンテージの1勝を含む
 
: ※9 4敗の中に相手チームのアドバンテージの1勝を含む。
 
 
 
; WBC 国・地域別対抗野球大会
 
2009年に行われたWBC([[ワールド・ベースボール・クラシック]])[[2009 ワールド・ベースボール・クラシック|第2回大会]]では、監督として[[2009 ワールド・ベースボール・クラシック日本代表|日本チーム]]を大会2連覇に導く。
 
 
 
{| class="wikitable" style="text-align: right; font-size: small;"
 
!年度!!大会名!!チーム名!!勝敗
 
|-
 
|2009年||[[2009 ワールド・ベースボール・クラシック|第2回WBC(ワールド・ベースボール・クラシック)]]||日本代表||優勝
 
|}
 
 
 
* 第1ラウンド
 
** 3月5日 ○ 4-0 {{Flagicon|CHN}} [[2009_ワールド・ベースボール・クラシック中国代表|中国]]
 
** 3月7日 ○ 14-2 {{Flagicon|KOR}} [[2009_ワールド・ベースボール・クラシック韓国代表|韓国]]
 
** 3月9日 ● 0-1 {{Flagicon|KOR}} 韓国
 
* 第2ラウンド
 
** 3月15日 ○ 6-0 {{Flagicon|CUB}} [[2009_ワールド・ベースボール・クラシック・キューバ代表|キューバ]]
 
** 3月17日 ● 1-4 {{Flagicon|KOR}} 韓国
 
** 3月18日 ○ 5-0 {{Flagicon|CUB}} キューバ
 
** 3月19日 ○ 6-2 {{Flagicon|KOR}} 韓国
 
* 準決勝
 
** 3月22日 ○ 9-4 {{Flagicon|USA}} [[2009_ワールド・ベースボール・クラシック・アメリカ合衆国代表|アメリカ]]
 
* 決勝
 
** 3月23日 ○ 5-3 {{Flagicon|KOR}} 韓国
 
 
 
=== タイトル ===
 
* [[最多打点 (日本プロ野球)|打点王]]:1回 (1983年)
 
 
 
=== 表彰 ===
 
* [[最優秀新人 (日本プロ野球)|新人王]] (1981年)
 
* [[最優秀選手 (野球)|MVP]]:1回 (1983年)
 
* [[ベストナイン (日本プロ野球)|ベストナイン]]:5回 (三塁手部門:1983年、1987年、1988年 外野手部門:1990年、1991年)
 
* [[ゴールデングラブ賞]]:2回 (三塁手部門:1987年、1988年)
 
* [[月間MVP_(日本プロ野球)|月間MVP]]:3回 (1983年5月、1985年7月 野手部門:1989年4月)
 
* [[JA全農Go・Go賞]]:1回 (最多二・三塁打賞:1992年8月)
 
* [[東京ドーム#東京ドームMVP賞|後楽園MVP]]:2回 (1983年、1987年)
 
* [[東京ドーム#東京ドームMVP賞|東京ドームMVP特別賞]]:2回 (1995年、2014年)
 
* [[ヤナセ]]・ジャイアンツMVP賞:1回 (1988年)
 
* [[日本プロスポーツ大賞]] 殊勲賞:1回 (2009年)<ref>{{Cite web|url=http://www.jpsa.jp/award_2009.html|title=2009年 日本プロスポーツ大賞発表!!|work=日本プロスポーツ大賞|publisher=公益財団法人[[日本プロスポーツ協会]]|accessdate=2017-11-25}}</ref>
 
* [[報知プロスポーツ大賞]]:1回 (1983年)
 
* [[セントラル・リーグ|セ・リーグ]]最優秀監督賞:7回 (2002年、2007年 - 2009年、2012年 - 2014年)
 
* [[正力松太郎賞]]:3回 (2002年、2009年、2012年)
 
* 世界最優秀監督:1回 (2009年) ※[[国際野球連盟]](IBAF)により選定。プロ野球界からは日米通じて初選出。
 
* [[ナンバーMVP賞]]:1回 (2009年)
 
* コミッショナー功労賞 (2015年)
 
* [[東海大学]]特別功労賞 (2016年)<ref>[http://www.u-tokai.ac.jp/campus_life/tokai_sports/news/detail/post_35.html 原辰徳氏東海大学特別功労賞受賞記念対談「ベストを尽くし、頂点を目指す」を開催します]</ref>
 
 
 
=== 記録 ===
 
; 初記録
 
* 初出場・初先発出場:1981年4月4日、対[[中日ドラゴンズ]]1回戦([[後楽園球場]])、6番・[[二塁手]]で先発出場
 
* 初安打:同上、6回裏に[[牛島和彦]]から左前安打
 
* 初本塁打・初打点:1981年4月5日、対中日ドラゴンズ2回戦(後楽園球場)、8回裏に[[小松辰雄]]から右越ソロ
 
* 初4番:1982年6月4日、対[[広島東洋カープ]]10回戦([[広島市民球場 (初代)|広島市民球場]])
 
; 節目の記録
 
* 100本塁打:1984年7月3日、対[[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルトスワローズ]]12回戦([[明治神宮野球場]])、4回表に[[中本茂樹]]から左中間へソロ ※史上131人目
 
* 150本塁打:1986年4月12日、対[[阪神タイガース]]1回戦([[阪神甲子園球場]])、2回表に[[リッチ・ゲイル|リチャード・ゲイル]]から左越3ラン ※史上79人目
 
* 200本塁打:1987年6月23日、対阪神タイガース10回戦(後楽園球場)、9回裏に[[中西清起]]から左越2ラン ※史上53人目
 
* 1000安打:1988年7月13日、対ヤクルトスワローズ15回戦([[明治神宮野球場]])、9回表に[[尾花高夫]]から左前安打 ※史上153人目
 
* 1000試合出場:1988年10月2日、対ヤクルトスワローズ25回戦([[東京ドーム]])、4番・[[三塁手]]で先発出場 ※史上280人目
 
* 250本塁打:1989年4月8日、対ヤクルトスワローズ1回戦(東京ドーム)、1回裏に尾花高夫から左越2ラン ※史上28人目
 
* 300本塁打:1991年5月2日、対阪神タイガース5回戦(東京ドーム)、5回裏に[[高村洋介]]から左越3ラン ※史上20人目
 
* 1500安打:1992年9月12日、対広島東洋カープ23回戦(東京ドーム)、7回裏に[[望月一|望月秀通]]から中前安打 ※史上66人目
 
* 350本塁打:1992年9月25日、対中日ドラゴンズ24回戦(東京ドーム)、6回裏に[[今中慎二]]から左越2ラン ※史上15人目
 
* 1000打点:1993年4月29日、対[[横浜DeNAベイスターズ|横浜ベイスターズ]]4回戦([[横浜スタジアム]])、4回表に[[斎藤隆 (野球)|齋藤隆]]から中前適時打 ※史上22人目
 
* 1500試合出場:1993年6月1日、対横浜ベイスターズ7回戦(東京ドーム)、4番・三塁手で先発出場 ※史上106人目
 
*3000塁打:1994年6月26日、対横浜ベイスターズ14回戦(横浜スタジアム)、1回表に[[加藤将斗]]から中前2点適時二塁打 ※史上32人目
 
; その他の記録
 
* 1イニング2本塁打:1985年5月12日、対横浜大洋ホエールズ4回戦(横浜スタジアム)、8回表先頭で[[門田富昭]]から左越ソロ、2死2塁で[[久保文雄]]から左越2ラン ※史上10人目(12度目)<ref>講談社刊 宇佐美徹也著「日本プロ野球記録大鑑」410ページ</ref> 
 
* [[オールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスターゲーム]]出場:11回 (1981年 - 1988年、1990年 - 1992年)
 
; 監督としての節目の記録
 
* 500勝:2010年5月13日、対[[埼玉西武ライオンズ]]2回戦(東京ドーム)、9-1で勝利 ※史上26人目(巨人では5人目)
 
* 700勝:2012年9月12日、対[[広島東洋カープ]]20回戦(東京ドーム)、5-0で勝利 ※史上18人目(巨人では4人目)
 
 
 
=== 背番号 ===
 
* '''8''' (1981年 - 1995年)
 
* '''80''' (1999年 - 2001年)
 
* '''83''' (2002年 - 2003年、2009年WBC)
 
* '''88''' (2006年 - 2015年)
 
 
 
== 関連情報 ==
 
=== ディスコグラフィ ===
 
※特記ない限り、レコード盤として発売。
 
* 「どこまでも愛」(1982年発売)[[オリコンチャート|オリコン]]最高85位、売り上げ1万1000枚<ref>[https://web.archive.org/web/20051023014323/http://www.zakzak.co.jp/spo/2005_10/s2005102003.html 原どこまでも巨人愛…82年発表のレコード大注目] - 『ZAKZAK』2005年10月配信分([[インターネットアーカイブ]]2005年10月23日付保存キャッシュ)</ref>。B面のタイトル「サム」は愛犬の名。
 
* 『サムシング』(1982年発売。アルバム(LP)、1995年にCDで再発) - LP版には特典としてオリジナルポスターとCM写真集が付属した。
 
* 「ビクトリー」(1984年4月1日発売、メインボーカルは[[細川たかし]]) - 岡田彰布、[[高橋慶彦]]、宇野勝、遠藤一彦、[[荒木大輔]]と共にコーラス参加。
 
 
 
=== 著書 ===
 
*『原点』([[中央公論新社]])
 
*『一流になる人はここが違う:私の出会ったヒーローたち』(1998/01・[[日新報道]])ISBN 4817404086
 
*『選手たちを動かした勇気の手紙』(2003/03・[[幻冬舎]])ISBN 4344003128
 
*『ジャイアンツ愛』(2003/11・幻冬舎)ISBN 4344004213
 
 
 
=== 関連書籍 ===
 
*『原辰徳・青春の素顔』([[今西良光]]著、[[アロー出版社]]、1976年12月)
 
*『小説原辰徳物語:東海の父子鷹』([[戸部良也]]著、[[エフプロ出版]]、1977年2月)
 
*『虹をかける男 原辰徳:注目のゴールデンボーイの全行動記録』(戸部良也著、講談社、1980年8月)
 
*『原辰徳 : おやじと息子の二十三年』([[軍司貞則]]著、[[文芸春秋]]、1981年7月)
 
*『原辰徳 : 実録まんが』([[いけうち誠一]]絵、[[学習研究社]](アイドル・コミックス)、1983年4月)
 
*『ジャイアンツの若大将 原辰徳物語』([[槙田隆次]]著、[[恒文社]]、1983年5月)
 
*『ジャイアンツ愛:原辰徳の光と闇』([[赤坂英一]]著、講談社、2003年5月)ISBN 978-4062117647
 
 
 
=== 写真集 ===
 
* 打ちまくれ!原辰徳―巨人の四番は男の勲章だ(1982年・講談社)ISBN 4061444123
 
* 原辰徳写真集(1982年・双葉社)
 
 
 
=== 出演 ===
 
<!-- 単発のゲスト出演は不要。レギュラー番組のみ記述をお願いします。「Wikipedia:ウィキプロジェクト 芸能人」参照 -->
 
'''テレビorラジオ'''
 
* プロ野球中継 - 解説者
 
** [[NHKプロ野球]](1996年 - 1998年。NHKテレビorラジオ)
 
** [[Dramatic Game 1844|1球の緊張感 THE LIVE]](2004年 - 2005年、2016年(ゲスト解説)、2017年 - 。日本テレビ)
 
** [[メジャーリーグベースボール]](MLB)中継(『'04 リコーMLB開幕戦』[[ニューヨーク・ヤンキース]]対[[タンパベイ・デビルレイズ]]戦。2004年3月30日<ref name="oricon_jiten_his">外部リンク『オリコン芸能人事典』内「原辰徳」より、「ヒストリー」を参照。</ref>。日本テレビ<ref name="oricon_jiten_his" />)
 
* [[NHK紅白歌合戦]](NHKテレビorラジオ)
 
** [[第46回NHK紅白歌合戦]](1995年12月31日) - [[古田敦也]]([[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルト]]捕手)や、俳優の[[竹中直人]]と共に審査員として出演。
 
** [[第60回NHK紅白歌合戦]](2009年12月31日) - [[白鵬翔|白鵬]]([[横綱]])や、女優の[[森光子]]と共に審査員として出演。
 
'''テレビ'''
 
* サンデースポーツ(NHK総合テレビ) - キャスター
 
* [[ふたりっ子]](1996年。NHK) - 「読売ジャイアンツ監督・原辰徳」として出演。
 
* [[ドリーム☆アゲイン]](2007年。日本テレビ) - 読売ジャイアンツ監督役 ※他に出演した[[エキストラ]]とは違い、[[台詞]]があった。
 
* [[美の巨人たち]](2017年・テレビ東京) - アメリカの画家・[[バーニー・フュークス]]の回に出演。1982年の作品「スプリングトレーニングマウンテンズ」を所蔵している。
 
'''ラジオ'''
 
* 原辰徳のいきいきトーク(2004年4月 - 2005年12月。TBSラジオ)<ref name="haraikiiki_web" />
 
'''CM'''
 
* [[明治 (企業)|明治]]
 
** 旧・[[明治製菓]] - 「ハイレモン」「ヨーグレット」「クール1」
 
** 旧・[[明治乳業]] - ルーキー時代の1981年、[[カスタードプディング|プリン]]のCMに出演。現役引退後も、「[[明治ブルガリアヨーグルト]]」<ref name="oricon_jiten_his" />のCMに出演。
 
* [[富士重工業]] - [[スバル・レオーネ]]のCMに、1984年、[[岩崎宏美]]と共にイメージキャラクターとして起用された。
 
* [[読売新聞社]] - 試合の映像を使用(1982年)。ナレーションは[[徳光和夫]](日本テレビアナウンサー)が務めた。
 
* [[大正製薬]] - [[目薬]]「アイリス」のCM。
 
* [[味の素]] - 若手時代に同社発売調味料「味の素」のCMに出演。
 
* [[オンワード樫山]] - メンズブランド「スコール」のCM。
 
* [[ミズノ]]
 
* [[大京]] - ランド
 
* [[日産自動車]]
 
** [[日産・ステージア]]
 
** 1996年秋より、[[イチロー]]([[オリックス・バファローズ|オリックス]]外野手)と共に、「イチロ・ニッサン」「変わらなきゃも変わらなきゃ」キャンペーンのCMに出演。
 
* [[サントリー]] - NHK解説者時代に[[モルツ]]のCMへ出演。[[山本浩二]]や[[達川光男]]らとコミカルな演技を披露していた。
 
* [[ファンケル]] - 現役引退後<ref name="oricon_jiten_his" />
 
* [[ツクダオリジナル]] - オセロゲーム「もう一回」篇
 
* 暴力団追放のPRポスターに起用(2009年)<ref>http://www.giants.jp/G/museum/2011/gnews/news_394818.html</ref>。
 
 
 
=== 受賞 ===
 
<!--野球関連以外の賞を記載-->
 
* [[GQ JAPAN|GQ]] MEN OF THE YEAR 2007(2007年)<ref>{{cite web|url=http://gqjapan.jp/fashion/wardrobe/20121024/motyjapanhistory|title=過去のMen of the Year受賞者たち【国内編】|publisher=GQ JAPAN|date=|accessdate=2014-11-21}}</ref>
 
  
 
== 脚注 ==
 
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
 
 
{{reflist|2}}
 
{{reflist|2}}
  
== 参考資料 ==
 
* 『12球団全選手カラー百科名鑑』シリーズ
 
** 12球団全選手カラー百科名鑑2004(『[[ホームラン (雑誌)|ホームラン]]』2004年3月号増刊。2004年3月31日発行、[[日本スポーツ出版社]])
 
** 12球団全選手カラー百科名鑑2005(『ホームラン』2005年3月号増刊。2005年3月31日発行、日本スポーツ出版社)
 
* 各種外部リンク
 
 
== 関連項目 ==
 
* [[福岡県出身の人物一覧]]
 
* [[相模原市出身の人物一覧]]
 
* [[東海大学の人物一覧]]
 
* [[東海大学硬式野球部]]
 
* [[読売ジャイアンツの選手一覧]]
 
* [[読売ジャイアンツ歴代4番打者一覧]]
 
* [[加山雄三]] - 元祖若大将。
 
 
== 外部リンク ==
 
{{NPB|71073863|原辰徳}}
 
{{BASEBALLstats |brjpn=hara--001tat}}
 
* [http://kotobank.jp/word/%E5%8E%9F%E8%BE%B0%E5%BE%B3 原辰徳 とは] - 『[[コトバンク]]』より。『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』『[[知恵蔵]]mini』の解説が掲載。
 
* [http://www.giants.jp/G/player/prof_2782.html 『読売巨人軍公式サイト』より、原辰徳のプロフィール]
 
* [http://spe.yomiuri.co.jp/servlet/view?PAGE_ID=00020000 原監督日記](2012年2月2日 - )
 
* [http://www.1101.com/hara_tatsunori/index.html ほぼ日刊イトイ新聞 原辰徳×糸井重里 プロ野球選手の孤独。]
 
* [http://www.1101.com/hara_tatsunori2014/index.html ほぼ日刊イトイ新聞 原辰徳×糸井重里 野球の品格。自尊心なき監督、原辰徳。]
 
* [http://www.1101.com/hara_tatsunori2015/index.html ほぼ日刊イトイ新聞 原辰徳×糸井重里 優勝したけど、二度と送りたくないシーズン。]
 
 
{{2009 ワールド・ベースボール・クラシック日本代表|監督}}
 
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[[Category:日本の野球監督]]
 
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2018/8/13/ (月) 11:38時点における版


原 辰徳(はら たつのり、1958年7月22日[1] - )

プロ野球選手・監督。福岡の生まれ。昭和56年(1981)、巨人に入団。

主砲として活躍し、昭和58年(1983)には打点王のタイトルを獲得。引退後は巨人の監督として、チームを3度の日本一に導いた。

第2回WBCでは、日本代表チーム「侍ジャパン」の監督としてチームを優勝に導いた。

脚注

  1. (2008) プロ野球カラー名鑑 2008. ベースボール・マガジン社, 11. ISBN 978-4-583-61526-4.