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'''原 敬'''(はら たかし、[[安政]]3年[[2月9日 (旧暦)|2月9日]][[1856年]][[3月15日]]) - [[大正]]10年([[1921年]])[[11月4日]])
{{政治家
 
|人名 = 原 敬
 
|各国語表記 = はら たかし
 
|画像 = Takashi Hara formal.jpg
 
|画像サイズ = 250px
 
|画像説明 = [[正装]]にあたる[[大礼服]]を着用した原
 
|国略称 = {{JPN}}
 
|生年月日 = [[1856年]][[3月15日]]<br />([[安政]]3年[[2月9日 (旧暦)|2月9日]]
 
|出生地 = {{JPN}} [[陸奥国]][[岩手郡]][[本宮村]]<br />(現:[[岩手県]][[盛岡市]])
 
|没年月日 = {{死亡年月日と没年齢|1856|3|15|1921|11|4}}
 
|死没地 = {{JPN}} [[東京府]][[東京市]][[麹町区]]<br />(現:[[東京都]][[千代田区]])
 
|出身校 = [[司法省法学校]]中退
 
|前職 = [[大阪毎日新聞]]社長
 
|所属政党 = [[立憲政友会]]
 
|称号・勲章 = [[正二位]]<br />[[大勲位菊花大綬章]]
 
|配偶者 = [[原貞子]](先妻)<br />[[原浅]](後妻)
 
|親族(政治家) = [[中井弘]]([[岳父]])<br />[[原昌三]](孫)<br />[[原圭一郎|原圭]](養子)
 
|サイン = HaraT kao.png
 
|国旗 = JPN
 
|職名 = 第19代 [[内閣総理大臣]]
 
|内閣 = [[原内閣]]
 
|就任日 = [[1918年]][[9月29日]]
 
|退任日 = 1921年11月4日
 
|元首職 = [[天皇]]
 
|元首 = [[大正天皇]]
 
|国旗2 = JPN
 
|職名2 = 第22代 [[法務大臣|司法大臣]](首相兼任)
 
|内閣2 = 原内閣
 
|就任日2 = 1918年9月29日
 
|退任日2 = [[1920年]][[5月15日]]
 
|国旗3 = JPN
 
|職名3 = 第29代 [[内務大臣 (日本)|内務大臣]]
 
|内閣3 = [[第1次山本内閣]]
 
|就任日3 = [[1913年]][[2月20日]]
 
|退任日3 = [[1914年]][[4月16日]]
 
|国旗4 = JPN
 
|職名4 = 第27代 内務大臣
 
|内閣4 = [[第2次西園寺内閣]]
 
|就任日4 = [[1911年]][[8月30日]]
 
|退任日4 = [[1912年]][[12月21日]]
 
|国旗5 = JPN
 
|職名5 = 第25代 内務大臣
 
|内閣5 = [[第1次西園寺内閣]]
 
|就任日5 = [[1906年]][[1月7日]]
 
|退任日5 = [[1908年]][[7月14日]]
 
|国旗6 = JPN
 
|その他職歴1 = 第16代 [[逓信省|逓信大臣]](内相兼任)
 
|就任日6 = 1908年[[1月14日]]
 
|退任日6 = 1908年[[3月25日]]
 
|国旗7 = JPN
 
|その他職歴2 = 第11代 逓信大臣
 
|就任日7 = [[1900年]][[12月22日]]
 
|退任日7 = [[1901年]][[6月2日]]
 
|国旗8 = JPN
 
|その他職歴3 = [[衆議院議員]]
 
|就任日8 = [[1902年]]
 
|退任日8 = 1921年11月4日
 
}}
 
  
'''原 敬'''(はら たかし、[[安政]]3年[[2月9日 (旧暦)|2月9日]][[1856年]][[3月15日]]) - [[大正]]10年([[1921年]][[11月4日]])は、[[日本]]の[[外交官]]、[[政治家]]。[[位階]][[勲等]]は[[正二位]][[大勲位菊花大綬章|大勲位]]。[[幼名]]は'''健次郎'''。[[雅号|号]]は'''一山'''、'''逸山'''。
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政治家。南部藩家老職の次男に生れる。 1879年司法省法学校を中途退学し,郵便報知記者,大東日報主筆を経て,82年外務省に入った。 89年農商務省に転じ,[[陸奥宗光]]に師事,96年駐韓公使となったが,翌年辞任し大阪毎日新聞編集総理,のち社長。 1900年[[立憲政友会]]の創立には関西財界を背景に尽力,同年[[伊藤博文]]内閣の逓相,02年衆議院議員となり,第1,2次西園寺内閣,[[山本権兵衛]]内閣の内相。[[山県有朋]]らの藩閥勢力を懐柔する一方,党内の指導権を握り,14年政友会総裁に就任。 18年[[米騒動]]で倒れた[[寺内正毅]]内閣のあとをうけて内閣総理大臣として「平民宰相による最初の政党内閣」を組織。しかし,普通選挙の実施を拒否し,社会運動には弾圧政策でのぞむなど,力と党利党略の政治家として世の批判をも受けた。 21年東京駅で中岡艮一に刺殺された。『原敬日記』 (和本 82冊,1875~1921) は明治,大正政治史の貴重な資料。
  
[[外務次官]]、[[大阪毎日新聞社]][[社長]]、[[立憲政友会]][[幹事長]]、[[逓信大臣]](第[[第4次伊藤内閣|11]]・[[第1次西園寺内閣|16]]代)、[[衆議院議員]]、[[内務大臣 (日本)|内務大臣]](第[[第1次西園寺内閣|25]]・[[第2次西園寺内閣|27]]・[[第1次山本内閣|29]]代)、立憲政友会[[総裁]](第3代)、[[内閣総理大臣]]([[原内閣|第19代]])、[[司法大臣]]([[原内閣|第22代]])などを歴任した。
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{{テンプレート:20180815sk}}
 
 
[[郵便報知新聞]]記者を経て[[外務省]]に入省<ref>[http://www.haratakashi.jp/hara/index.html#nenpu 【原 敬 略年譜】]財団法人 大慈会 原敬遺徳顕彰事業団公式サイト参照</ref>。後に[[農商務省 (日本)|農商務省]]に移って[[陸奥宗光]]や[[井上馨]]からの信頼を得た。
 
 
 
陸奥[[外務大臣 (日本)|外務大臣]]時代には外務官僚として重用されたが、陸奥の死後退官。その後、発足時から[[政友倶楽部]]に参加して政界に進出。大正7年([[1918年]])に総理大臣に就任。[[爵位]]の受け取りを固辞し続けたため「'''平民宰相'''」と渾名された。
 
 
 
大正10年([[1921年]])[[11月4日]]、[[東京駅]][[丸の内]]南口コンコースにて、[[大塚駅 (東京都)|大塚駅]]の駅員であった右翼青年・[[中岡艮一]]に襲撃され、殺害された。満{{没年齢|1856|3|15|1921|11|4}}。墓所は[[岩手県]][[盛岡市]]の[[大慈寺 (盛岡市)|大慈寺]]。
 
 
 
[[有職読み]]の「'''はら けい'''」が用いられるケースもある(原敬記念館、原敬日記など)。
 
 
 
[[足尾銅山]]の副社長にも就いていた<ref>[http://www.nhk.or.jp/dodra/ashio/html_ashio_cast.html 土曜ドラマ「足尾から来た女」] NHK</ref>。
 
 
 
== 生涯 ==
 
=== 生い立ち ===
 
原敬は、[[安政]]3年([[1856年]])2月9日、[[盛岡藩]][[盛岡城]]外の[[岩手郡]][[本宮村]](現在の[[盛岡市]]本宮)で盛岡[[藩士]][[原政中|原直治]]の次男として生まれた。後に「平民宰相」と呼ばれる敬だが、原家は祖父・直記が[[家老]]職にあったほどの上級[[武士]]の[[家柄]]で<ref>千葉 [2003]</ref>、敬は20歳のときに分家して[[戸主]]となり、[[平民]]籍に編入された。[[徴兵制度]]の戸主は兵役義務から免除される規定を受けるため分籍した。彼は[[家柄]]についての誇りが強く、いつの場合も自らを卑しくするような言動をとったことがなかったとされる。
 
 
 
=== 陸奥宗光の引き立て ===
 
[[明治]]3年([[1870年]])、原は再開された[[藩校]]「[[作人館]]」(現・[[盛岡市立仁王小学校]])に入り、さらに翌年、上京して[[南部氏|南部家]]が盛岡藩出身の青年のために設立した「[[共慣義塾]]」に入学したが、途中で学費が途絶えて数か月で辞めた。ついで明治5年([[1872年]])には費用のかからない[[カトリック教会|カトリック]][[神学校]]に入学した。翌明治6年([[1873年]])には[[横浜市|横浜]]に移って神父宅に寄寓し、ここで受洗して「ダビデ」の洗礼名を受けている。明治9年([[1876年]])、[[司法省法学校]]を受験したところ、受験者中2番の成績で合格したが、学業途中で寄宿舎の待遇改善行動に関係したという理由で[[退学|退校処分]]にあっている。法学校を追放された原は、[[中江兆民]]の[[仏学塾 (中江兆民)|仏学塾]]に在学の後、明治12年([[1879年]])、郷里の先輩のつてで、[[郵便報知新聞社]]に入社した。入社当初は[[フランス語]]新聞の翻訳を担当していたが、次第に論文も執筆するようになった。しかし、[[明治十四年の政変]]をきっかけに[[大隈重信]]の一派が同社に乗り込んでくると、彼らと反りが合わず退社した。また、明治12年3月に[[山梨県]][[甲府市]]で創刊された『[[峡中新報]]』へも「鷲山樵夫」の筆名で寄稿している。
 
 
 
[[File:Hara Takashi while working in Paris from 1885 to 1889.jpg|thumb|パリ時代の原敬]]
 
郵便報知新聞社を辞めた原に政府の高官が目をつけ、御用政党の機関紙『[[大東日報]]』の主筆とした。しかし、経営不振のため8か月目で同社を離れた。この『大東日報』が縁で政府に接する機会を得た原は明治15年([[1882年]])、[[外務省]]に採用され外務省御用掛兼務になり、入省の翌年には[[天津市|天津]][[領事]]に任命されて同地に赴いた。次いで明治18年([[1885年]])には[[外務書記官]]に任ぜられて[[パリ]]駐在を命じられた。そして、およそ3年余りパリ公使館に勤務し、帰国後は農商務省[[参事官]]、大臣秘書官となった。駐米公使だった[[陸奥宗光]]が明治23年([[1890年]])に農商務大臣になると、陸奥の引きで原の運命が拓けることになる。すなわち、[[第2次伊藤内閣]]が発足すると陸奥は外務大臣に就任し、彼の意向で原は通商局長として再び外務省に戻った。さらに[[日清戦争]]後の明治28年([[1895年]])には、[[外務省#組織|外務次官]]に抜擢された。当時、陸奥外相は病気療養中であったため、文部大臣・[[西園寺公望]]が外相臨時代理を兼任したが、実務は原がとることとなった。翌・明治29年([[1896年]])、陸奥が病気のため外相を辞任すると、原も[[朝鮮]][[特命全権公使|駐在公使]]に転じた。しかし、間もなく第2次伊藤内閣が崩壊し、[[第2次松方内閣]]が成立すると、大隈が外相となって入閣したため、大隈嫌いの原は見切りをつけて帰国し、外務省も辞めた。明治30年([[1897年]])には[[大阪毎日新聞]]社に入社し、翌・明治31年([[1898年]])には社長に就任した。
 
 
 
=== 政党政治家として ===
 
明治33年([[1900年]])に[[伊藤博文]]が[[立憲政友会]]を組織すると、原は伊藤と[[井上馨]]の勧めでこれに入党し、幹事長となった。同年12月、汚職事件で[[逓信大臣]]を辞職した[[星亨]]に代わって伊藤内閣の逓信大臣として初入閣する。原は政友会の結党前と直後の2度、[[貴族院 (日本)|貴族院]]議員になろうとして井上に推薦を要請している。一般には原は生涯[[爵位]]などを辞退し続け、その身を最期まで[[衆議院]]に置いてきたとされている。また、後年には貴族院議員を指して「錦を着た乞食」とまで酷評している。その原が貴族院議員を目指したのは、無官でいることからくる党内の影響力低下を懸念してのことといわれる。結局、星亨の後任となって入閣したため、貴族院入り問題は立ち消えになった。また、爵位授与に関しても実はこの時期に何度か働きかけを行っていた事実も明らかになっている(原自身が「平民政治家」を意識して行動するようになり、爵位辞退を一貫して表明するようになるのは、原が政友会幹部として自信を深めていった明治末期以後である)。
 
 
 
明治34年([[1901年]])6月、[[桂太郎]]が組閣し原は閣外へ去るが同月に星が暗殺され、その後は、[[第1次桂内閣]]に対する方針を巡る党内分裂の危機を防ぎ、[[松田正久]]とともに政友会の党務を担った。また、地方政策では星の積極主義(鉄道敷設などの利益誘導と引換に、支持獲得を目指す集票手法)を引き継ぎ、政友会の党勢を拡大した。党内を掌握した原は、伊藤や西園寺を時には叱咤しながら、融和と対決を使い分ける路線を採って党分裂を辛うじて防いだ。
 
 
 
しかし、原の積極主義は「[[我田引鉄]]」と呼ばれる利益誘導型政治を生み出し、現代に繋がる日本の政党政治と利益誘導の構造を作り上げることとなった。明治末期には原のこうした手法を嫌う西園寺との間で確執が生じている。
 
 
 
明治35年([[1902年]])に行われた[[第7回衆議院議員総選挙]]で、盛岡市選挙区から立候補して衆議院議員に初当選。
 
 
 
[[日露戦争]]が始まった明治37年([[1904年]])12月、桂首相は政局の安定を図るため、政友会との提携を希望して原と交渉を行い、政権授受の密約を結ぶ。翌・明治38年([[1905年]])、桂内閣は総辞職し、明治39年([[1906年]])になって約束通りに西園寺公望に組閣の大命が下ると、原は[[内務大臣 (日本)|内務大臣]]として入閣した。これ以降、桂と政友会との間で政権授受が行われ、「情意投合の時代」とか「[[桂園時代]]」と呼ばれる政治的安定期を迎えることになるが、原は出来る限り[[山縣有朋]]との関係を調整することに努力する一方で、徐々に山縣閥の基盤を切り崩して、政友会の勢力を拡大することも忘れなかった。
 
 
 
明治44年([[1911年]])8月から[[鉄道院総裁]]。
 
 
 
なお、原は後に第2次西園寺内閣と[[第1次山本内閣]]でも内相を務めている。内務大臣時代、藩閥によって任命された当時の都道府県知事を集めてテストを実施し、東京帝国大学卒の学歴を持つエリートに変えていった。[[大正]]3年([[1914年]])6月18日には[[大正政変]]の道義的責任を取るとして辞任した西園寺の後任として第3代立憲政友会総裁に就任した。
 
 
 
=== 首相就任 ===
 
[[ファイル:Takashi Hara posing.jpg|thumb|200px|[[内閣総理大臣]]在任時]]
 
[[File:The scene of Hara Takashi assassination.jpg|thumb|200px|事件直後の原遭難現場]]
 
{{See also|原内閣}}
 
 
 
[[シベリア出兵]]に端を発した[[1918年米騒動|米騒動]]への対応を誤った[[寺内内閣]]が内閣総辞職に追い込まれると、ついに政党嫌いの山縣も原を後継首班として認めざるをえなくなった。こうして、大正7年([[1918年]])に成立した原内閣は、日本初の本格的政党内閣とされる。それは、原が初めて衆議院に議席を持つ政党の党首という資格で首相に任命されたことによるものであり、また[[閣僚]]も、[[陸軍大臣]]・[[海軍大臣]]・外務大臣の3相以外はすべて政友会員が充てられたためであった。
 
 
 
原内閣の政策は、外交における対英米協調主義と内政における積極政策、それに統治機構内部への政党の影響力拡大強化をその特徴とする。原は政権に就くと、直ちにそれまでの外交政策の転換を図った。まず、[[対華21ヶ条要求]]などで悪化していた[[中華民国]]との関係改善を通じて、英米との協調をも図ろうというものである。そこで、原は寺内内閣の援段政策(中国国内の[[軍閥]]・[[段祺瑞]]を援護する政策)を組閣後早々に打ち切った。
 
 
 
さらに、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]から提起されていた日本・アメリカ・[[イギリス]]・[[フランス]]4か国による新4国借款団(日本の支那への独占的進出を抑制する対中国国際借款団)への加入を、対英米協調の観点から決定した。[[第一次世界大戦]]の後始末をする[[パリ講和会議]]が開かれたのも、原内閣の時代だった。この会議では、アメリカ大統領[[ウッドロウ・ウィルソン]]の提唱によって[[国際連盟]]の設置が決められ、日本は常任理事国となった。しかし、シベリア出兵についてはなかなか撤兵が進まず、結局撤兵を完了するのは、原没後の大正11年([[1922年]])、[[加藤友三郎内閣]]時代のこととなった。
 
 
 
内政については、かねてから政友会の掲げていた積極政策、すなわち、教育制度の改善、交通機関の整備、産業及び通商貿易の振興、国防の充実の4大政綱を推進した。とりわけ交通機関の整備、中でも地方の鉄道建設のためには[[公債]]を発行するなど極めて熱心であった。
 
 
 
また、教育政策では高等教育の拡張に力を入れた。大正7年(1918年)、原内閣の下で「高等諸学校創設及拡張計画」が、4,450万円の莫大な追加予算を伴って帝国議会に提出され可決された。その計画では官立[[旧制高等学校]]10校、官立[[高等工業学校]]6校、官立[[高等農業学校]]4校、官立[[高等商業学校]]7校、[[外国語学校 (旧制)|外国語学校]]1校、[[旧制薬学専門学校|薬学専門学校]]1校の新設、[[帝国大学]]4学部の設置、[[医科大学]]5校の昇格、[[旧三商大|商科大学]]1校の昇格であり、その後この計画はほぼ実現された。これらの官立高等教育機関の大半は、地方都市に分散設置された。
 
 
 
また私立大学では大正9年([[1920年]])に[[大学令]]の厳しい要件にも関わらず、[[慶應義塾大学]]、[[早稲田大学]]、[[明治大学]]・[[法政大学]]・[[中央大学]]・[[日本大学]]・[[國學院大學]]・[[同志社大学]]の[[旧制大学]]への昇格が認可され、その後も多くの私立大学が昇格した。
 
 
 
この高等教育拡張政策は[[大戦景気|第一次世界大戦の好景気]]を背景とした高等教育への、求人需要、志願需要の激増に応えたものである。そして「高等教育拡散は[[高等遊民]]の増加を招き、皇室への危険思想につながる」としてこれに反対した[[山縣有朋]]を説得したものであった。
 
 
 
さらに、[[軍事費]]にも多額の予算を配分し、大正9年(1921年)予算は同6年(1917年度)予算の2倍を超える15億8,000万円にまで膨れ上がった。多額の公債発行を前提とする予算案には野党[[憲政会]]、貴族院から多くの反対意見が上がった。
 
 
 
また原は、地方への利益還元を図って政友会の地盤を培養する一方で、同党の支持層に見合った規模での選挙権拡張を行っている。大正8年([[1919年]])には[[公職選挙法|衆議院議員選挙法]]を改正し、[[小選挙区制]]を導入すると同時に、それまで直接国税10円以上が選挙人の資格要件だったのを3円以上に引き下げた。翌年の第42[[帝国議会]]で、[[憲政会]]や[[立憲国民党]]から[[普通選挙|男子普通選挙制度]]導入を求める選挙法改正案が提出されると、原はこれに反対して衆議院を解散し、小選挙区制を採用した有利な条件の下で総選挙を行い、単独過半数の大勝利を収めた。
 
 
 
首相就任前の民衆の原への期待は大きいものだったが、就任後の積極政策とされるもののうちのほとんどが政商、財閥向けのものであった。また、度重なる疑獄事件の発生や民衆の大望である[[普通選挙法]]の施行に否定的であったことなど、就任前後の評価は少なからず差がある。普通選挙法の施行は、憲政会を率いた[[加藤高明内閣]]を待つこととなる。
 
 
 
原は政友会の政治的支配力を強化するため、官僚派の拠点であった貴族院の分断工作を進め、同院の最大会派である「研究会」を与党化させた。このほか、高級官僚の自由任用制の拡大や、官僚派の拠点であった郡制の廃止、植民地官制の改正による武官総督制の廃止などを実施し、反政党勢力の基盤を次第に切り崩していった。しかし、一方で原は反政党勢力の頂点に立つ[[元老]]山縣との正面衝突は注意深く避け、彼らへの根回しも忘れなかった。このように、原は卓越した政治感覚と指導力を有する政治家であった。
 
 
 
帝国議会の[[施政方針演説]]などにおける首相の一人称として、それまでの「本官」や「本大臣」に変わり「私」を使用したのは原が最初である。それ以後、現在に至るまで途絶えることなく引き継がれている。
 
 
 
大正10年([[1921年]])11月4日、関西での[[政友会]]大会に出席のため側近の[[肥田琢司]]らと[[東京駅]]に到着直後、[[日本国有鉄道|国鉄]][[大塚駅 (東京都)|大塚駅]]転轍手であった[[中岡艮一]]により殺害されほぼ即死([[原敬暗殺事件]]参照)。享年66。戒名は大慈寺殿逸山仁敬大居士<ref>[[服部敏良]]『事典有名人の死亡診断 近代編』(吉川弘文館、2010年)247頁</ref>。
 
 
 
原の政治力が余りに卓抜していたために、原亡き後の政党政治は一挙にバランスを失ってしまった。病床にあった山縣も嘆きが大きく、翌年2月に病没した。
 
 
 
== 人物評 ==
 
*政友会の前総裁で、原との間にも確執があった[[西園寺公望]]は、原の死の一報を請け「原は人のためにはどうだったか知らぬが、自己のために私欲を考える男ではなかった」と述べている<ref>[[伊藤之雄]] 『元老 西園寺公望』 [[文春新書]]、2007年、ISBN 4166606093 190p</ref>。
 
*山縣有朋は原の死に衝撃を受けたあまり発熱し、夢で原暗殺の現場を見るほどであった。その後「原という男は実に偉い男であった。ああいう人間をむざむざ殺されては日本はたまったものではない」と嘆いている<ref>[[伊藤之雄]] 『元老 西園寺公望』 [[文春新書]]、2007年、ISBN 4166606093 192p</ref>。
 
 
 
== 原敬日記 ==
 
[[ファイル:Takashi Hara Family.jpg|thumb|200px|[[1918年]][[12月17日]]、[[妻]]の原浅(左)、[[養子]]の[[原圭一郎|原貢]](中央)と]]
 
『[[原敬日記]]』(はらけいにっき)は、明治・大正期の政治動向に関する重要な史料である。
 
 
 
『原敬日記』は、一般には明治8年([[1875年]])に帰省した際の日記から、暗殺直前の大正10年([[1921年]])[[10月25日]]までに書かれた日記の総称であるが、原が暗殺を予期し認めた遺書の中で「当分世間に出すべからず」と厳命([[宮中某重大事件]]や[[大正天皇]]の病状問題の記述が考慮されると考えられる)した。実際初刊は、没後30年近くを経た[[1950年]]-51年に、乾元社全9巻であった。近年は、原が[[大正天皇]]と近かったことから、大正天皇と『原敬日記』の関係についても研究されている。
 
*『原敬日記 (全6卷)』 [[林茂]]・原奎一郎編、[[福村出版]]、新版2000年
 
 
 
== 家族・親族 ==
 
* 先妻・貞子(旧[[薩摩藩|薩摩]][[藩士]]・[[中井弘]]長女。原が天津領事赴任直前の明治16年に15歳で結婚。子はなく、明治29年より別居、その後貞子が不倫の子を宿したため明治38年離婚<ref name=fukuda/>)
 
* 後妻・浅(あさ、岩手県[[江刺郡]][[岩谷堂町]]・[[菅野弥太郎]]の娘、東京[[新橋 (東京都港区)|新橋]]「紅葉館」の[[芸者]]<ref>[http://www.aozora.gr.jp/cards/000726/files/4329_28181.html 『明治美人伝』][[長谷川時雨]]、1921</ref>。浅草生まれ。15年間は妾であったが、離婚成立後の明治41年に入籍<ref name=fukuda>『大宰相・原敬』 福田和也、PHP研究所, 2013/11/25、「大慈寺」の章</ref>)
 
* 養子(姪の子)・ [[原圭一郎|貢]](作家)
 
* 孫・[[原昌三|昌三]](三菱重工船舶事業本部技師長、[[日本馬術連盟]]理事長、[[日本アマチュア無線連盟]]第2代会長)
 
 
 
== 系譜 ==
 
; 原家
 
: 原家の始祖[[三田村政澄|三田村平兵衛]]は[[浅井忠政|浅井新左衛門忠政]](近江の[[浅井氏]])の二男[[三田村定元|三田村左衛門太夫定元]]の末流と伝える[[三田村政武|三田村太郎右衛門]]の二男として[[筑後国|筑後]]で誕生した。<ref>『姓氏類別大観』は、[[三田村政澄|原政澄]]を[[浅井久政]]の従兄弟にしている。</ref>
 
 
 
[[三田村政澄|三田村平兵衛政澄]](後に原氏に改める)━[[原政舫|平兵衛政舫]]━[[原政直|十蔵政直]]━[[原政親|茂平政親]]━[[原政芳|平兵衛政芳]]━[[原芳忠|直記芳忠]]━[[原芳武|平兵衛芳武]]━[[原芳隆|直記芳隆]]━[[原政中|直治政中]]━敬━[[原圭一郎|貢]]
 
 
 
== 栄典 ==
 
;位階
 
* [[1890年]](明治23年)[[12月28日]] - [[従六位]]<ref>『官報』号外「叙任及辞令」1890年12月28日。</ref>
 
* [[1891年]](明治24年)[[12月11日]] - [[正六位]]<ref>『官報』第2538号「叙任及辞令」1891年12月14日。</ref>
 
* [[1897年]](明治30年)[[10月30日]] - [[正四位]]<ref>『官報』第4302号「叙任及辞令」1897年11月1日。</ref>
 
* [[1914年]](大正3年)[[1月30日]] - [[正三位]]<ref>『官報』第451号「叙任及辞令」1914年1月31日。</ref>
 
* [[1921年]](大正10年)[[11月4日]] - [[正二位]]<ref name="asert">『官報』号外「叙任及辞令」1921年11月4日。</ref>
 
 
 
;勲章
 
* [[1893年]](明治26年)[[12月28日]] - [[瑞宝章|勲五等瑞宝章]]<ref>『官報』第3152号「叙任及辞令」1893年12月29日。</ref>
 
* [[1896年]](明治29年)[[6月16日]] - [[旭日章|勲三等旭日中綬章]]<ref>『官報』第3889号「叙任及辞令」1896年6月17日。</ref>
 
* [[1914年]](大正3年)[[4月4日]] - [[勲一等旭日大綬章]]<ref>『官報』第503号「叙任及辞令」1914年4月6日。</ref>
 
* [[1915年]](大正4年)[[11月10日]] - [[記念章|大礼記念章]]<ref>『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。</ref>
 
* [[1920年]](大正9年)[[9月7日]] - [[勲一等旭日桐花大綬章|旭日桐花大綬章]]<ref>『官報』第2431号「授爵・叙任及辞令」1920年9月8日。</ref>
 
* [[1921年]](大正10年)
 
**[[7月1日]] - [[記念章|第一回国勢調査記念章]]<ref>『官報』第2858号・付録「辞令」1922年2月14日。</ref>
 
**[[11月4日]] - [[大勲位菊花大綬章]]<ref name="asert"/>
 
 
 
;外国勲章佩用允許
 
* [[1888年]](明治21年)[[7月7日]] - [[ベルギー|ベルギー王国]]コマンドールドロルドルドレオポール勲章<ref>『官報』第1508号「叙任及辞令」1888年7月10日。</ref>
 
* [[1889年]](明治22年)[[5月14日]] - [[フランス|フランス共和国]][[レジオンドヌール勲章]]オフィシエ<ref>『官報』第1764号「叙任及辞令」1889年5月20日。</ref>
 
* [[1896年]](明治29年)
 
**[[3月17日]] - [[ロシア帝国]]神聖アンナ第一等勲章<ref>『官報』第3815号「叙任及辞令」1896年3月21日。</ref>
 
**[[10月26日]] - [[スペイン|スペイン王国]]イザベルラカトリック第一等勲章<ref>『官報』第4005号「叙任及辞令」1896年11月2日。</ref>
 
* [[1911年]](明治44年)[[6月26日]] - [[清|大清帝国]]頭等第三双竜宝星<ref>『官報』第8490号「叙任及辞令」1911年10月6日。</ref>
 
 
 
== 出典 ==
 
{{脚注ヘルプ}}
 
{{Reflist|2}}
 
 
 
== 参考文献 ==
 
*[[原圭一郎|原奎一郎]] 『ふだん着の原敬』 [[毎日新聞社]]、1971年/中公文庫、2011年<br> 甥で[[養子縁組|養子]](本名は原貢、原圭一郎とも表記)の回想録、一個人としての原敬の実像を知る最適の文献。原敬とその妻浅子と生活した青少年期の思い出を中心に綴られている。
 
*原敬遺徳顕彰会 『原敬  歿後五十年その生涯』  [[毎日新聞]]社、1970年   
 
*『原敬』(上下)、原奎一郎編著、盛岡大慈会・原敬遺徳顕彰会、1998-99年、新編抄版・1巻、2002年 
 
*原敬文書研究会編 『原敬関係文書』(全10巻・別巻1) [[日本放送出版協会]] 1984-89年
 
*原奎一郎、山本四郎編 『原敬をめぐる人びと』(正・続)、[[日本放送出版協会]]〈[[日本放送協会|NHK]]ブックス〉 1982年
 
*[[高橋文彦]] 『颯爽と清廉に・原敬』(上下) [[原書房]] 1992年
 
*[[山本四郎]] 『評伝 原敬』(上下) [[東京創元社]] 1997年
 
*[[玉井清]] 『原敬と[[立憲政友会]]』 [[慶應義塾大学出版会]] 1999年
 
*[[川田稔]] 『原敬と[[山県有朋]]  国家構想をめぐる外交と内政』 [[中公新書]] 1998年
 
*[[テツオ・ナジタ]]、安田志郎訳 『原敬  政治技術の巨匠』 [[読売新聞]]社〈読売選書〉 1974年
 
*前田蓮山 『日本宰相列伝7 原敬』 [[時事通信社]] 1985年、初版1958年
 
*千葉勝 『[http://repository.ul.hirosaki-u.ac.jp/dspace/bitstream/10129/3302/1/HirodaiKokushi_115_53.pdf 原敬と華族  南部家との関係を中心に]』弘前大学國史研究115,p53-71(2003年)
 
*[[松本健一]] 『原敬の大正』毎日新聞社、2013年
 
*[[福田和也]] 『大宰相 原敬』PHP研究所、2013年
 
*[[伊藤之雄]] 『原敬 外交と政治の理想』(上・下)、講談社選書メチエ、2014年
 
 
 
== 関連項目 ==
 
{{wikiquote|原敬}}
 
*[[大正デモクラシー]]
 
*[[三浦梧楼]]
 
*[[平岡定太郎]] [[三島由紀夫]]の祖父
 
*[[中村弥六]]、[[中岡艮一]]の親族
 
*[[浅井氏]]
 
*[[鉄道と政治]] - 原のとった積極政策は「我田引鉄」と揶揄された。
 
*[[日本の改軌論争]]
 
*[[足尾から来た女]] - [[日本放送協会|NHK]]土曜ドラマ、2014年1月18,25日、演:[[國村隼]]足尾銅山の副社長
 
 
 
== 外部リンク ==
 
{{Commonscat|Takashi Hara}}
 
* [http://www.ndl.go.jp/portrait/datas/172.html?c=2 原敬肖像写真](国立国会図書館)
 
* [https://web.archive.org/web/20060331165355/http://www.haratakashi.jp/top.html 原敬 遺徳顕彰事業団 '''(財)大慈会''']
 
* [http://homepage3.nifty.com/harakeijiten/ 原敬事典]
 
* [http://www.mfca.jp/institution/harakei/ 原敬記念館]
 
* [http://www.city.morioka.iwate.jp/moriokagaido/rekishi/senjin/007475.html 盛岡市役所 盛岡市ガイド › もりおかの歴史 › 盛岡の先人たち › 第27回:原敬]
 
{{-}}
 
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{{Succession box
 
| title  = {{Flagicon|JPN}} [[内閣総理大臣]]
 
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原敬.jpg

原 敬(はら たかし、安政3年2月9日1856年3月15日) - 大正10年(1921年11月4日

政治家。南部藩家老職の次男に生れる。 1879年司法省法学校を中途退学し,郵便報知記者,大東日報主筆を経て,82年外務省に入った。 89年農商務省に転じ,陸奥宗光に師事,96年駐韓公使となったが,翌年辞任し大阪毎日新聞編集総理,のち社長。 1900年立憲政友会の創立には関西財界を背景に尽力,同年伊藤博文内閣の逓相,02年衆議院議員となり,第1,2次西園寺内閣,山本権兵衛内閣の内相。山県有朋らの藩閥勢力を懐柔する一方,党内の指導権を握り,14年政友会総裁に就任。 18年米騒動で倒れた寺内正毅内閣のあとをうけて内閣総理大臣として「平民宰相による最初の政党内閣」を組織。しかし,普通選挙の実施を拒否し,社会運動には弾圧政策でのぞむなど,力と党利党略の政治家として世の批判をも受けた。 21年東京駅で中岡艮一に刺殺された。『原敬日記』 (和本 82冊,1875~1921) は明治,大正政治史の貴重な資料。



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