南北朝時代 (日本)
南北朝時代(なんぼくちょう じだい)は、日本の歴史区分の一つ。建武の新政の崩壊を受けて足利尊氏が新たに光明天皇(北朝側)を擁立したのに対抗して京都を脱出した後醍醐天皇(南朝側)が吉野行宮に遷った1336年(延元元年/建武3年)から、南朝第4代の後亀山天皇が北朝第6代の後小松天皇に譲位するかたちで両朝が合一を見た1392年(元中9年/明徳3年)までの、56年間をいう。また両朝の並立はひとえに後醍醐天皇の皇位に対する執念が生み出したものであることから、彼を中心に歴史が動いた南北朝時代の序章とでもいうべき1331年(元弘元年)の元弘の乱から建武新政の終焉に至る5年間もまたこの時代に含めるのが一般的である。
鎌倉時代の後半から半世紀にわたって両統迭立という不自然なかたちの皇位継承を繰り返した皇統は、すでに持明院統と大覚寺統という二つの相容れない系統に割れた状態が恒常化するという実質的な分裂を招いていた。それが倒幕と新政の失敗を経て、この時代になると両統から二人の天皇が並立し、それに伴い京都の北朝と吉野の南朝[1]の二つの朝廷が並存するという、王権の完全な分裂状態に陥った。両朝はそれぞれの正統性を主張して激突し、幾たびかの大規模な戦が起こった。また日本の各地でも守護や国人たちがそれぞれの利害関係から北朝あるいは南朝に与して戦乱に明け暮れた。
こうした当時の世相を、奈良興福寺大乗院の第20代門跡・尋尊は自らが編纂した『大乗院日記目録』の中で「一天両帝南北京也」と表現した。これを中国の魏晋南北朝の時代を模して南北朝時代と呼ぶようになったのはかなり後のことである。なお明治以後に南朝の天皇を正統とする史観が定着すると、この時代の名称が「北朝」の語を含むことが問題視されるようになったため、吉野朝時代(よしのちょう じだい)という新語が作られたが、第二次世界大戦後に皇国史観が影を潜めるとともに死語同然となった。
Contents
天皇
暦 | 南朝 | 北朝 |
---|---|---|
95花園天皇(1308-1318) | ||
文保2年(1318年)2月26日 | 96後醍醐天皇(1318-1331) | |
元徳3年(1331年)9月20日 | [2] | 北1光厳天皇(1331-1333) |
正慶2年(1333年)5月25日 | ||
建武3年(1336年) | 南1後醍醐天皇(1336年12月-1339) | 北2光明天皇(1336年8月-1348) |
延元4年(1339年)8月15日 | 南2(97)後村上天皇(1339-1368) | |
貞和4年(1348年)10月27日 | 北3崇光天皇(1348-1351) | |
観應2年(1351年)11月7日 | ||
観應3年(1352年)8月17日 | 北4後光厳天皇(1352-1371) | |
正平23年(1368年)3月11日 | 南3(98)長慶天皇(1368-1383) | |
應安4年(1371年)3月23日 | 北5後円融天皇(1371-1382) | |
永徳2年(1382年)4月11日 | 北6後小松天皇(1382-1392) | |
弘和3年(1383年)10月 | 南4(99)後亀山天皇 (1383-1392) | |
明徳3年(1392年)10月5日 | 100後小松天皇(1392-1412) |
- 天皇の後の()内は在位期間
系図
88 後嵯峨天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
宗尊親王 (鎌倉将軍6) | 【持明院統】 89 後深草天皇 | 【大覚寺統】 90 亀山天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
惟康親王 (鎌倉将軍7) | 92 伏見天皇 | 久明親王 (鎌倉将軍8) | 91 後宇多天皇 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
93 後伏見天皇 | 95 花園天皇 | 守邦親王 (鎌倉将軍9) | 94 後二条天皇 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
直仁親王 | 邦良親王 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
康仁親王 〔木寺宮家〕 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
【持明院統】 〔北朝〕 | 【大覚寺統】 〔南朝〕 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
96 後醍醐天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
光厳天皇 北1 | 光明天皇 北2 | 97 後村上天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
崇光天皇 北3 | 後光厳天皇 北4 | 98 長慶天皇 | 99 後亀山天皇 | 惟成親王 〔護聖院宮家〕 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
栄仁親王 | 後円融天皇 北5 | (不詳) 〔玉川宮家〕 | 小倉宮恒敦 〔小倉宮家〕 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
貞成親王 (後崇光院) | 100 後小松天皇 北6 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
102 後花園天皇 | 貞常親王 〔伏見宮家〕 | 101 称光天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
歴史
南北朝成立まで
鎌倉時代半ばの寛元4年(1246年)、後嵯峨天皇の譲位後に皇統は皇位継承を巡って大覚寺統と持明院統に分裂した。そこで鎌倉幕府の仲介によって、大覚寺統と持明院統が交互に皇位につく事(両統迭立)が取り決められていた。
1333年(元弘3年/正慶2年)、大覚寺統の後醍醐天皇は全国の武士に討幕の綸旨を発した。これに応えた足利尊氏や新田義貞らの働きで鎌倉幕府は滅び、建武の新政と呼ばれる後醍醐天皇による親政がはじまった。政局の混乱が続き、恩賞の不公平により武士階級の支持を得ることはできなかった。公家も天皇による前例の軽視に不満を持ち、親政に失望した。北条氏の残党が引き起こした中先代の乱を討伐に向かった尊氏がそのまま新政から離反すると、不満を抱えた武士たちの多くが尊氏に従った。
後醍醐天皇は新田義貞や北畠顕家に尊氏討伐を命じる。新田軍は箱根・竹ノ下の戦いで敗北し、尊氏らは京都へ入るが、やがて陸奥国から下った北畠軍の活躍もあり駆逐された。尊氏らは九州へ下り、多々良浜の戦いに勝利して勢力を立て直したのちの翌年に、持明院統の光厳上皇の院宣を掲げて東征する。迎え撃つ宮方は新田義貞・楠木正成が湊川の戦いで敗れ、比叡山に篭った。尊氏は後醍醐天皇との和解を図り、三種の神器を接収し持明院統の光明天皇を京都に擁立(北朝)した。その上で建武式目を制定し、施政方針を定め正式に幕府を開く。後醍醐天皇は京都を脱出して奈良の吉野へ逃れ、「北朝に渡した神器は贋物であり光明天皇の皇位は正統ではない」と主張して吉野に南朝(吉野朝廷)を開き、北陸や九州など各地へ自らの皇子を奉じさせて派遣する。
観応の擾乱と南朝勢力の衰微
南朝方は名和長年・結城親光・千種忠顕のほか、北畠顕家・新田義貞らが1338年(延元3年/暦応元年)までに次々と戦死し、さらには翌年後醍醐天皇が崩御したことで軍事的に北朝方が圧倒的に優位に立つ。1348年(正平3年/貞和4年)には四條畷の戦いで楠木正成の子楠木正行・楠木正時兄弟が足利方の高師直に討たれ、吉野行宮が陥落して後村上天皇ら南朝一行は賀名生(奈良県五條市)へ逃れ、衰勢は覆い隠せなくなる。しかしその後、尊氏が政務を任せていた弟の足利直義と足利家の執事である高師直との対立が表面化し、観応年間には観応の擾乱とよばれる幕府の内紛が起こる。政争に敗れた直義は南朝に帰順し、尊氏の子で直義の養子になっていた足利直冬も養父に従い九州へ逃れて戦う。山名時氏など守護の一部も南朝に属して戦い、京都争奪戦が繰り広げられるなど南朝は息を吹き返すことになる。後村上天皇は南朝方の住吉大社の宮司家である津守氏の住之江殿(正印殿)に移り、そこを住吉行宮(大阪市住吉区)とする。
1351年(正平6年/観応2年)には、尊氏が直義派に対抗するために一時的に南朝に降伏。年号を南朝の「正平」に統一する「正平一統」が成立した。これにより、尊氏は征夷大将軍を解任された。南朝はこの機に乗じて京都へ進攻して足利義詮を追い、京都を占拠して神器も接収する。義詮は北朝年号を復活させ、再び京都を奪還するが、南朝は撤退する際に光厳・光明両上皇と、天皇を退位した直後の崇光上皇(光厳の皇子)を賀名生へ連れ去った。このため北朝は、光厳の皇子で崇光の弟の後光厳天皇を神器無しで即位させ、併せて公武の官位を復旧させ、尊氏も征夷大将軍に復帰した。
南朝の北畠親房は関東地方で南朝勢力の結集を図り、篭城した常陸国小田城にて南朝の正統性を示す『神皇正統記』を執筆する。1339年(延元4年/暦応2年)の後醍醐天皇崩御後、南朝の指導的人物となるが親房が1354年(正平9年/文和3年)に死去すると南朝は再び衰微する。1358年(正平13年/延文3年)4月足利尊氏が死去すると新田義貞の遺児義宗や出羽に逃れていた北畠顕信らが再起を試みるも、組織的な蜂起には至らなかった。逆に北朝側は南朝掃討の大攻勢に出て赤坂城(河内国)などを落とすが、1361年(正平16年/康安元年)幕府内での抗争で失脚した細川清氏が南朝に帰順して、楠木正儀(正成の子)らと共闘し一時は京都を占拠する。しかし、1月にも満たずに奪回され劣勢を覆すことはできなかった。足利義詮時代には大内弘世や山名時氏なども帰服し、1367年(正平22年/貞治6年)和睦交渉を行うも北朝に拒絶され、以降は大規模な南朝の攻勢もなくなった。義詮の死後は、足利幕府は幼い将軍足利義満を補佐した管領細川頼之の指導により、南朝方の中心的武将であった楠木正儀を帰順させるなど対南朝工作を行い、幕府体制を確立する。
九州の情勢と南北朝合一まで
九州地方では、多々良浜の戦いで足利方に敗れた菊池氏などの南朝勢力と、尊氏が残した一色範氏や仁木義長などの勢力が争いを続けていた。南朝は勢力を強化するために後醍醐天皇の皇子である懐良親王を征西将軍として派遣し、北朝勢力と攻防を繰り返した。観応の擾乱が起こると足利直冬が加わり、三勢力が抗争する鼎立状態となる。しかし、文和元年/正平7年(1352年)に足利直義が殺害されると、直冬は中国に去った。延文4年/正平14年(1359年)筑後川の戦い(大保原の戦い)では、南朝方の懐良親王、菊池武光、赤星武貫、宇都宮貞久、草野永幸らと北朝方の少弐頼尚、少弐直資の父子、大友氏時、城井冬綱ら両軍合わせて約10万人が戦ったとされる。この戦いに敗れた北朝方は大宰府に逃れ、九州はこの後10年ほど南朝の支配下に入ることとなった。足利義詮の死に端を発して、九州の南朝勢力は正平23年/応安元年(1368年)2月に東征の軍を起こし長門・周防方面へ進軍を開始するものの、大内氏に阻まれ頓挫した。
またこの頃、朝鮮半島や中国の沿岸などで倭寇(前期倭寇)と呼ばれる海上集団が活動し始めており、1372年懐良親王は倭寇の取り締まりを条件に明朝から冊封を受け、「日本国王」となるものの、室町幕府は今川貞世を九州へ派遣して攻勢をかけ大宰府を奪回する。
弘和/永徳・元中/至徳年間に入ると、南朝は動乱初期からその支えとして活躍してきた懐良親王、北畠顕能、宗良親王の相次ぐ死と、対北朝強硬路線を通していた長慶天皇の譲位により、衰退を極める事となったが、明徳年間の足利義満による相次ぐ有力守護大名勢力削減により、北朝に抵抗する術を殆ど失うようになる。このような情勢の中で1392年(元中9年/明徳3年)、足利義満の斡旋で、大覚寺統と持明院統の両統迭立と、全国の国衙領を大覚寺統の所有とすること[3]を条件に、南朝の後亀山天皇が北朝の後小松天皇に三種の神器を渡し、南北朝が合体した(明徳の和約)。
南北朝合一を機に、九州北部を制圧していた今川貞世は九州南部に拠る菊池武朝と和睦し、九州も幕府の支配するところとなった。その後、足利義満が新たに冊封されて「日本国王」となる。
後南朝
合一が行われるものの、両統迭立の約束が守られることはなく持明院統の皇統が続いたため、南朝の遺臣たちによる皇位の回復を目指しての反抗が15世紀半ばまで続き、後南朝と呼ばれる。彼らの抵抗は持明院統嫡流が断絶した1428年(正長元年)以後、激化することとなる。
1443年(嘉吉3年)には南朝の遺臣や日野一族が御所に乱入し南朝皇族の通蔵主・金蔵主兄弟をかついで神璽・宝剣を一時奪還する禁闕の変が起きる。宝剣はすぐに幕府の手で取り戻されたが、神璽は後南朝に持ち去られたままになる。
後南朝は、嘉吉の乱で滅亡した赤松氏の再興を目指す赤松遺臣によって、1457年(長禄元年)に南朝後裔の自天王・忠義王なる兄弟が殺害され、神璽が奪還されることによって、実質的に滅亡した。
最後に史料に登場するのは、『勝山記』に1499年(明応8年)霜月(11月)、伊豆国三島に流された「王」を、早雲入道が諌めて相州(相模国)に退去させたというものがあり、これが後南朝の史料上の終焉とされている。
土地支配の変化
鎌倉時代初期には、国衙領や、荘園のうち天皇家・公家・寺社の領地には、武家の支配がおよんでいなかった。鎌倉時代を通じて、武家の統治機構である守護・地頭に属する武士が、地頭請や下地中分という形で国衙領や荘園を蚕食し始めるようになる。この傾向は南北朝時代に入ると顕著になり、荘園の年貢の半分を幕府に納める半済や、年貢の取立てを守護が請け負う守護請が一般化した。また、鎌倉時代の守護の権限であった大犯三ヶ条(大番催促、謀反人・殺害人の検断)に加えて、刈田狼藉の取締も守護の役務となり、荘園領主は守護の立入を拒むことができなくなった。これらを通じて、土地支配上の武士の立場は、荘官・下司として荘園領主に代わって荘園を管理するだけの立場から実質的な領主へと変化していった。守護は、このような武士と主従関係を結ぶようになり、領国内への支配権を強め、守護大名と呼ばれるようになる。南北朝合一時に国衙領がほとんど残っていなかったのはこのような背景による。なお、荘園公領制が完全に崩壊するのは、南北朝時代よりも2世紀後の太閤検地によってであるが、この南北朝期に既に大きな転機を迎えていたのである。
戦乱により公家や朝廷の政治力が衰え、政治の主導は完全に武家へ移ることになった。また、武家社会でも、それまで当たり前だった全国に分散した所領の支配が難しくなり、分散した所領を売却・交換し、一箇所にまとめた所領の一円化傾向が顕著になる。これに伴い、関東の狭い「苗字の地」から新恩の広い地方へ移り住む例が多くなる。
後年
近世以来、南北朝のいずれが正統かをめぐって南北朝正閏論が行われてきた。明治時代には皇統は南朝が正統とされ、文部省は国定教科書で「吉野朝時代」の用語を使うよう命じた。東京大学史料編纂所は『大日本史料』で「南北朝時代」を引き続き使用したが、1937年(昭和12年)、皇国史観で知られる平泉澄や宮内省の芝葛盛らの批判を受けた。所内の協議の結果、辻善之助所長の判断で、南北朝時代の第六編は編纂は続けるが、出版は中断することになった。
第二次世界大戦後、歴史の実態に合わせて再び「南北朝時代」の用語が主流になった。『大日本史料』出版も再開された。
文化・社会風潮
連歌などの流行もあり、武士の間でも優雅な気風が生まれつつあった。政治的混乱が大きい時代でもあったので、ばさらや二条河原落書など既存の勢力への反攻や批判的風潮が強まった。
人物
南北朝時代の元号
西暦 | 1330年 | 1331年 | 1332年 | 1333年 | 1334年 | 1335年 | 1336年 | 1337年 | 1338年 | 1339年 |
南朝 | 元徳2年 | 元弘元年 | 元弘2年 | 元弘3年 | 建武元年 | 建武2年 | 延元元年 | 延元2年 | 延元3年 | 延元4年 |
北朝 | 元徳3年 | 正慶元年 | 正慶2年 | 建武3年 | 建武4年 | 暦応元年 | 暦応2年 | |||
干支 | 庚午 | 辛未 | 壬申 | 癸酉 | 甲戌 | 乙亥 | 丙子 | 丁丑 | 戊寅 | 己卯 |
西暦 | 1340年 | 1341年 | 1342年 | 1343年 | 1344年 | 1345年 | 1346年 | 1347年 | 1348年 | 1349年 |
南朝 | 興国元年 | 興国2年 | 興国3年 | 興国4年 | 興国5年 | 興国6年 | 正平元年 | 正平2年 | 正平3年 | 正平4年 |
北朝 | 暦応3年 | 暦応4年 | 康永元年 | 康永2年 | 康永3年 | 貞和元年 | 貞和2年 | 貞和3年 | 貞和4年 | 貞和5年 |
干支 | 庚辰 | 辛巳 | 壬午 | 癸未 | 甲申 | 乙酉 | 丙戌 | 丁亥 | 戊子 | 己丑 |
西暦 | 1350年 | 1351年 | 1352年 | 1353年 | 1354年 | 1355年 | 1356年 | 1357年 | 1358年 | 1359年 |
南朝 | 正平5年 | 正平6年 | 正平7年 | 正平8年 | 正平9年 | 正平10年 | 正平11年 | 正平12年 | 正平13年 | 正平14年 |
北朝 | 観応元年 | 観応2年 | 文和元年 | 文和2年 | 文和3年 | 文和4年 | 延文元年 | 延文2年 | 延文3年 | 延文4年 |
干支 | 庚寅 | 辛卯 | 壬辰 | 癸巳 | 甲午 | 乙未 | 丙申 | 丁酉 | 戊戌 | 己亥 |
西暦 | 1360年 | 1361年 | 1362年 | 1363年 | 1364年 | 1365年 | 1366年 | 1367年 | 1368年 | 1369年 |
南朝 | 正平15年 | 正平16年 | 正平17年 | 正平18年 | 正平19年 | 正平20年 | 正平21年 | 正平22年 | 正平23年 | 正平24年 |
北朝 | 延文5年 | 康安元年 | 貞治元年 | 貞治2年 | 貞治3年 | 貞治4年 | 貞治5年 | 貞治6年 | 応安元年 | 応安2年 |
干支 | 庚子 | 辛丑 | 壬寅 | 癸卯 | 甲辰 | 乙巳 | 丙午 | 丁未 | 戊申 | 己酉 |
西暦 | 1370年 | 1371年 | 1372年 | 1373年 | 1374年 | 1375年 | 1376年 | 1377年 | 1378年 | 1379年 |
南朝 | 建徳元年 | 建徳2年 | 文中元年 | 文中2年 | 文中3年 | 天授元年 | 天授2年 | 天授3年 | 天授4年 | 天授5年 |
北朝 | 応安3年 | 応安4年 | 応安5年 | 応安6年 | 応安7年 | 永和元年 | 永和2年 | 永和3年 | 永和4年 | 康暦元年 |
干支 | 庚戌 | 辛亥 | 壬子 | 癸丑 | 甲寅 | 乙卯 | 丙辰 | 丁巳 | 戊午 | 己未 |
西暦 | 1380年 | 1381年 | 1382年 | 1383年 | 1384年 | 1385年 | 1386年 | 1387年 | 1388年 | 1389年 |
南朝 | 天授6年 | 弘和元年 | 弘和2年 | 弘和3年 | 元中元年 | 元中2年 | 元中3年 | 元中4年 | 元中5年 | 元中6年 |
北朝 | 康暦2年 | 永徳元年 | 永徳2年 | 永徳3年 | 至徳元年 | 至徳2年 | 至徳3年 | 嘉慶元年 | 嘉慶2年 | 康応元年 |
干支 | 庚申 | 辛酉 | 壬戌 | 癸亥 | 甲子 | 乙丑 | 丙寅 | 丁卯 | 戊辰 | 己巳 |
西暦 | 1390年 | 1391年 | 1392年 | 1393年 | ||||||
南朝 | 元中7年 | 元中8年 | 元中9年 | 明徳4年 | ||||||
北朝 | 明徳元年 | 明徳2年 | 明徳3年 | |||||||
干支 | 庚午 | 辛未 | 壬申 | 癸酉 |