「南スーダン」の版間の差分

提供: miniwiki
移動先:案内検索
(1版 をインポートしました)
(内容を「サムネイル 正式名称 南スーダン共和国 The Republic of...」で置換)
(タグ: Replaced)
 
1行目: 1行目:
{{基礎情報 国
+
[[ファイル:スッド地方にあるホワイトナイル川沿いの村.南スーダン.jpg|サムネイル]]
|自治領等 =
+
正式名称 南スーダン共和国 The Republic of South Sudan。
|略名 = 南スーダン
 
|日本語国名 = 南スーダン共和国
 
|公式国名 = {{lang|en|'''Republic of South Sudan'''}}
 
|国旗画像 = Flag of South Sudan.svg
 
|国旗幅 =
 
|国旗縁 =
 
|国章画像 = [[File:Coat_of_arms_of_South_Sudan.svg|108px]]
 
|国章リンク = ([[南スーダンの国章|国章]])
 
|標語 = Justice, Liberty, Prosperity<br/>(英語: 正義、自由、繁栄)
 
|国歌 = [[南スーダン万歳!]]
 
|位置画像 = South Sudan hd (orthographic projection).svg
 
|公用語 = [[英語]]
 
|首都 = [[ジュバ]]
 
|最大都市 = [[ジュバ]]
 
|元首等肩書 = [[南スーダンの大統領|大統領]]
 
|元首等氏名 = [[サルバ・キール・マヤルディ]]
 
|首相等肩書 = 第一副大統領
 
|首相等氏名 = {{ill2|タバン・デン・ガイ|en|Taban Deng Gai}}
 
|他元首等肩書1 = 副大統領
 
|他元首等氏名1 = {{ill2|ジェームズ・ワニ・イッガ|en|James Wani Igga}}
 
|他元首等肩書2 =
 
|他元首等氏名2 =
 
|他元首等肩書3 =
 
|他元首等氏名3 =
 
|面積順位 = 45
 
|面積大きさ =
 
|面積値 = 619,745
 
|水面積率 =
 
|面積追記 =
 
|人口統計年 = 2011
 
|人口順位 =
 
|人口大きさ =
 
|人口値 = 10,310,000
 
|人口密度値 = 14
 
|人口追記 =
 
|GDP統計年元 = 2013
 
|GDP値元 = 414億
 
|GDP元追記 = <ref name="imf201410">{{Cite web|url=http://www.imf.org/external/pubs/ft/weo/2014/02/weodata/weorept.aspx?sy=2012&ey=2014&scsm=1&ssd=1&sort=country&ds=.&br=1&c=733&s=NGDP%2CNGDPD%2CNGDPDPC%2CPPPGDP%2CPPPPC&grp=0&a=&pr.x=40&pr.y=17|title=World Economic Outlook Database, October 2014|publisher=[[国際通貨基金|IMF]]|language=英語|date=2014-10|accessdate=2014-10-18}}</ref>
 
|GDP統計年MER = 2013
 
|GDP順位MER = 121
 
|GDP値MER = 140億
 
|GDPMER追記 = <ref name="imf201410" />
 
|GDP統計年 = 2013
 
|GDP順位 = 123
 
|GDP値 = 261億<ref name="imf201410" />
 
|GDP/人 = 2,401
 
|宗教 = {{要出典範囲|[[キリスト教]]|=date=2011年7月}}
 
|建国形態 = 独立
 
|建国年月日 = [[スーダン]]より<br>[[2011年]][[7月9日]]
 
|通貨 = [[南スーダン・ポンド]]
 
|通貨コード = SSP
 
|通貨追記 =
 
|時間帯 = +3
 
|夏時間 = なし
 
|時間帯追記 = [[東アフリカ時間|EAT]]
 
|ISO 3166-1 = SS / SSD
 
|ISO 3166-1追記 =
 
|ccTLD = [[.ss]]
 
|ccTLD追記 =
 
|国際電話番号 = 211
 
|国際電話番号追記 =
 
|注記 = 面積は帰属未定のカフィア・キンギ地区とアビエイ地区を除き,イレミ・トライアングルを全て含む。人口はこれらの帰属未定地域を全て含む。帰属未定地域を全て含んだ面積は644,329平方キロ。
 
}}
 
'''南スーダン共和国'''(みなみスーダンきょうわこく、{{lang-en|Republic of South Sudan}})、通称'''南スーダン'''は、[[東アフリカ]]に位置する[[国家]]。北に[[スーダン]]、東に[[エチオピア]]、南東に[[ケニア]]、[[ウガンダ]]、南西に[[コンゴ民主共和国]]、西に[[中央アフリカ]]と[[国境]]を接する[[内陸国]]である。
 
  
[[2011年]][[7月9日]]に、[[スーダン|スーダン共和国]]の南部10州が、[[アフリカ大陸]]54番目の国家として[[国家の独立|分離独立]]した<ref>[[外務省]] [http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/s_sudan/ 各国・地域情勢>アフリカ>南スーダン共和国]</ref>。
+
面積 64万4330km<sup>2</sup>。
  
== 概要 ==
+
人口 915万(2011推計)。
2011年7月8日までは、スーダン領でありながら'''南部スーダン自治政府'''の統治下にあった。これは、2005年1月9日にケニアのナイバシャで結ばれた[[第二次スーダン内戦]]の包括的な暫定和平合意により、スーダン政府から[[自治]]を認められたためである。
 
  
2011年、分離独立の是非を問う[[住民投票]]が実施され、分離独立票が圧倒的多数 (98.83%) を占めた。新国名は「'''南スーダン共和国'''({{lang-en-short|The Republic of South Sudan}})<ref>{{cite web |url=http://www.sudantribune.com/Draft-constitution-of-the-Republic,38679 |title=Transitional Constitution of the Republic of South Sudan, 2011|publisher=Sudan Tribune |accessdate=3 Aug 2011}}</ref>」になった。過去には、「アザニア」「ナイル共和国」「[[クシュ]]」などの候補が挙がっていたが、「南スーダン」となる可能性が高かったとされた<ref name=NHK-CCTV>2011年2月7日放送の「[[きょうの世界]]」([[NHK BS1]]) での[[中国中央テレビ]] (CCTV) の報道より。</ref><ref>{{Cite web |url=http://www.gurtong.net/ECM/Editorial/tabid/124/ctl/ArticleView/mid/519/articleId/4820/Let-it-Remain-South-Sudan-Citizens.aspx |title=Let It Remain South Sudan: Citizens |publisher=Gurtong |date=2011-02-06 |accessdate=2011-07-14}}</ref>
+
首都 [[ジューバ]]。
 
+
2011年7月13日には[[国際連合安全保障理事会決議1999|国連安保理決議1999]]により[[国際連合総会]]に対し[[国際連合]]への加盟が勧告され、翌日の総会にて加盟が承認され193番目の[[国際連合加盟国|加盟国]]となった<ref>{{cite news |url = http://www.jiji.com/jc/c?g=int_30&k=2011071400465 |agency = [[時事通信]] |date = 2011-07-14 |accessdate = 2011-07-15 |title = 南スーダンの加盟承認=国連、193カ国に}}</ref>。さらに、[[アフリカ連合|AU(アフリカ連合)]]の54番目の加盟国となった。また[[イギリス連邦]]に加盟を申請中である<ref>{{cite news |url = http://talkofsudan.com/sudan/item/9001-south-sudan-launches-bid-to-join-commonwealth |agency = Talk of Sudan |date = 2011-07-08 |accessdate = 2011-07-09 |title = South Sudan Launches Bid to Join Commonwealth |archiveurl = https://web.archive.org/web/20110712044345/http://talkofsudan.com/sudan/item/9001-south-sudan-launches-bid-to-join-commonwealth |archivedate = 2011年7月12日 |deadlinkdate = 2017年9月 }}</ref>。[[東アフリカ共同体]]にも[[ケニア]]と[[ルワンダ]]の協力で<ref>{{cite news|url=http://en.igihe.com/spip.php?article455|agency=IGIHE|title=South Sudan: Big trading potential for EAC |date=2011-07-08 |accessdate=2011-07-09}}</ref>2016年に加盟している。
+
アフリカ大陸北東部に位置する国。北はスーダン,東はエチオピア,南はケニア,ウガンダ,コンゴ民主共和国,西は中央アフリカ共和国に接する。[[ナイル川]]水系の[[アラブ川]][[ガザール川]][[ジャバル川]][[ソバト川]][[ホワイトナイル川]]が広大な平原地帯と高原地帯を流れる。中央には粘土平原が広がり,中心部に巨大な沼沢地帯の[[スッド地方]]がある。最高地点はウガンダとの国境付近にあるキンイェティ山(3187m)。住民の大半がキリスト教,アフリカ伝統宗教を信仰する黒人。[[ナイル語系諸族]](ナイロート)が最も多い。[[サバナ]]地帯,湿地帯,熱帯雨林を擁する多様な生態系のもと,野生動植物の種が豊富に存在する。熱帯性気候で雨季と乾季がある。1820年にオスマン帝国のエジプト太守[[ムハンマド・アリー]]が[[スーダン地方]]を征服したあと,南部では奴隷取引が盛んに行なわれた。19世紀末,イギリスとエジプトの共同統治領となった。1956年のスーダン共和国([[スーダン]])独立以後,[[イスラム法]](シャリーア)とイスラム文化を導入することに積極的な北部指導層と,この政策に反対する勢力との間で抗争が勃発。反対派には南部住民の大多数が加わった。抗争は長期に及ぶ内戦へと発展,エチオピアの和平調停による 1972年のアジスアベバ協定で一時終結したものの,広範囲で戦闘が再開,1983年には第2次内戦に突入した。2005年,包括和平協定が調印され,南部スーダンに一定の自治が認められた。2011年1月,北部からの完全独立の是非を問う住民投票を実施。その結果,2011年7月9日,南スーダンは独立を宣言した。([[スーダン内戦]]
 
 
2014年、[[非政府組織]]の[[平和基金会]]が発表した「世界で最も脆弱な国家ランキング」で、南スーダンは首位となった<ref>{{cite news |title=世界脆弱国家ランキング、南スーダンが最も脆弱 |newspaper=[[CNN]] |date=2014-6-28 |url=http://www.cnn.co.jp/world/35050083.html |accessdate=2014-6-28 }}</ref>。
 
[[ファイル:CountriesRecognizingSouthSudan.svg|thumb|left|450px|独立とともに南スーダン(黄色)を承認した国(緑色)]]
 
{{Clear}}
 
 
 
== 歴史 ==
 
{{Main|{{仮リンク|スーダンの歴史|en|History of Sudan}}|[[南スーダンの歴史]]}}
 
 
 
かつて南部の黒人たちは、アラブ系や[[ダルフール]]及び[[バハル・アル・ガザール地方|バハル・アル・ガザール]]などの[[奴隷]]商人によって奴隷売買されていた。[[1821年]]にスーダンの北部は[[エジプト]]が、南部は[[1877年]]に[[イギリス]]が占領した。[[1898年]]にイギリスとエジプトによる共同統治([[英埃領スーダン]])が始まった。南部を支配していたイギリスはその南部の[[ウガンダ]]との統合を望んだが、[[1947年]]の{{仮リンク|ジュバ会議 (1947年)|en|Juba Conference (1947)|label=ジュバ会議}}での合意により南北スーダンの統合が決められた。
 
 
 
=== 建国前 ===
 
==== 第一次スーダン内戦 ====
 
[[1955年]]に南部で反乱が起き、[[第一次スーダン内戦]](1955年 - 1972年)が起きた。[[1956年]]に'''スーダン共和国'''として北部と南部が統一して独立したが、北部の政治的・経済的支配に南部の住民は不満を抱いていた。[[1972年]]に[[アディス・アベバ合意 (1972年)|アディス・アベバ合意]]により南部に制限付き自治権が与えられ、将来の南部の分離独立を問う住民投票も認められ、南北の内戦は一時終結した。
 
 
 
[[1974年]]に[[シェブロン]]が油田を発見し、その多くが南部に分布していた。
 
 
 
==== 第二次スーダン内戦 ====
 
[[ファイル:John Garang.jpg|thumb|left|250px|[[スーダン人民解放軍]]を率いた[[ジョン・ガラン]]]]
 
[[民族イスラム戦線]]の圧力も受け、[[1983年]]に[[モハメド・アン=ヌメイリ]]政権は南部の自治権や将来の分離独立の住民投票を取り止め、イスラム法[[シャリーア]]を導入してイスラム勢力の取り込みを図り、また石油資源の独占を図り、南部の3つの州をそれぞれ分割した。そのためキリスト教徒も多い南部などで反乱が起こり、南部最大の民族である[[ディンカ人]]の出身の[[ジョン・ガラン]]大佐を中心とした[[スーダン人民解放軍]]/運動 (SPLA/M) が北部の政権に対して反乱を起こし、[[第二次スーダン内戦]](1983年 - 2005年)が起きた。政権が交替しても内戦が収まることはなかった、[[1989年]]に[[オマル・アル=バシール]]が政権を握ると、イスラムを支持母体とする政権に反対する政治勢力を抑圧し、SPLAを始めとする南部の反政府組織に対する戦争を拡大していった。
 
[[ファイル:Salva Kiir Mayardit.jpg|thumb|200px|初代大統領に選出された[[サルバ・キール・マヤルディ]]]]
 
この内戦により、約二百五十万人の南部住人が殺され、数百万人が居住地を追われた。中でも突然の襲撃で村から逃げ出した、[[スーダンのロストボーイズ]]と呼ばれる孤児となった約二万人の子どもたちが、[[SPLA]]の保護のもと、[[ケニア]]や[[エチオピア]]の[[難民キャンプ]]までサバイバルの旅をしたことは、本や映画にもなりアメリカではよく知られている。
 
 
 
南部での内戦は激化していったが、[[2002年]]に[[ケニア]]で南北の和平交渉が成立し、[[2005年]][[1月9日]]には{{仮リンク|包括和平合意 (2005年)|en|Comprehensive Peace Agreement|label=南北包括和平合意}} (CPA) が署名された。南部は行政上の自治を6年間与えられ、そして北部で適用されているイスラム法シャリーアも南部で適用しない事となった。さらに[[2011年]]1月にはスーダンの一部として北部と統一するのか[[分離独立]]するのかを決める住民投票も南部で行うこととなった。
 
 
 
==== LRA掃討作戦 ====
 
ウガンダと[[コンゴ民主共和国]]軍による[[神の抵抗軍]]掃討作戦{{仮リンク|ガランバ攻勢 (2008年 - 2009年)|en|2008–09 Garamba offensive|label=ガランバ攻勢}}([[2008年]][[12月14日]] - [[2009年]][[3月15日]])に南スーダン自治政府が協力する部隊を派遣した。
 
 
 
==== 住民投票 ====
 
{{Main|[[2011年南部スーダン独立住民投票]]}}
 
 
 
[[2010年]][[1月20日]]、スーダンのバシール大統領は、南部スーダンの大統領[[サルバ・キール・マヤルディ]]も出席した{{仮リンク|ヤンビオ|en|Yambio}}で開催の南北の内戦終結5周年を祝う式典にて、「住民が選択(分離独立を)した場合にはスーダン政府は南部の独立を承認する」と発言した。
 
 
 
南部の住民は独立志向が強く、[[2011年]]1月の[[住民投票]]では予想されたとおり分離独立を選択した。しかし、南部の石油の利権や、同時にディンカ人のンゴック氏族の先住地[[アビエイ]]の帰属も問われることとなった。
 
 
 
=== 独立 ===
 
2011年[[7月9日]]に、[[アメリカ合衆国]]からの後押しもあり、スーダンから分離独立した。新政府は、スーダン人民解放軍/運動 (SPLA/M) が中心となっている。
 
 
 
=== 南北スーダン国境紛争(2011年) ===
 
[[2011年]][[11月3日]]、[[スーダン|北スーダン]]の[[青ナイル州]]{{仮リンク|クルムク|en|Kurmuk}}で、「スーダン人民解放運動・北」(SPLM・N)<ref>7月に独立した南スーダンの与党・スーダン人民解放運動 (SPLM) から分離した組織</ref> の拠点がスーダン政府軍に攻撃された。同州での武力紛争は同年9月から続いており、約2万8700人の難民がエチオピアに脱出した(国連難民高等弁務官事務所 (UNHCR) による)。SPLM・Nは11月2日、[[スーダン|北スーダン]][[南コルドファン州]]{{仮リンク|タロディ|en|Talodi}}周辺で、政府軍と激しい戦闘が続いていることを明らかにした。13日には、英国の援助団体オックスファム<ref>上ナイル州で6万4千人を対象に清潔な飲料水の供給を行っていた。</ref>が[[上ナイル州]]からスタッフが撤退した。
 
 
 
=== 南北スーダン国境紛争(2012年) ===
 
{{See also|[[南北スーダン国境紛争 (2012年)]]}}
 
 
 
[[スーダン]]との国境紛争は激化している。2012年4月、南スーダン軍が、スーダンの[[コルドファン]]にあるヘグリグ油田を占拠し、4月12日には、スーダン軍が南スーダンの都市を空爆し、死傷者が発生するなどしている。[[国際連合安全保障理事会]]は、全面的な戦争に発展する恐れがあることから、両国に即時停戦を強く求めている<ref>{{Cite news
 
| url = http://news.tv-asahi.co.jp/ann/news/web/html/220413008.html
 
| title = スーダン全面戦争の恐れ 国連安保理が停戦要求
 
| newspaper = テレビ朝日
 
| date = 2012-4-13
 
}}</ref>。2012年4月16日、[[国民会議 (スーダン)|スーダン国民会議]]は南スーダンを敵とみなす決議を採択した。2012年4月18日には、スーダンの[[オマル・アル=バシール]]大統領が、南スーダンを同国与党のスーダン人民解放運動から解放すると宣言している<ref>{{Cite news
 
| url = http://jp.reuters.com/article/topNews/idJPTYE83I00Q20120419
 
| title = スーダン大統領が南の「解放」宣言、油田めぐり対立深刻化
 
| newspaper = ロイター
 
| date = 2012-4-19
 
}}</ref>。
 
 
 
=== 南スーダンクーデター未遂事件(2013年) ===
 
[[2013年]][[12月14日]]、同年7月に解任された[[リエック・マチャル|マチャル]]副大統領派による[[南スーダンクーデター未遂事件 (2013年)|クーデター未遂事件]]が発生するも失敗に終わったとされるが、その後もマチャル派・大統領派間の戦闘は継続し、翌年1月に両派間で停戦合意が結ばれたものの戦闘はおさまらず、その影響で避難民が100万人以上にのぼる事態となっている<ref>{{cite news|url=http://mainichi.jp/select/news/20140418k0000m030069000c.html|title=南スーダン:戦闘再開の危機 反乱軍、北部州都制圧か|newspaper=毎日新聞|date=2014-04-17|accessdate=2014-04-18}}</ref>。
 
 
 
戦闘発生から1年経った2014年12月の時点でも戦闘は収まって居らず、国連によるとその影響による避難民は190万以上にのぼっている<ref>{{cite news|url=http://www.presstv.ir/detail/2014/12/15/390401/1000s-killed-in-south-sudan-conflict/|title=Tens of thousands killed in South Sudan violence: UN chief|publisher=Press TV|date=2014-12-15|accessdate=2014-12-19}}</ref>。米国の[[シンクタンク]]の一つである[[平和基金会]]が発表している[[失敗国家]]ランキングでは、2014年・2015年の2年連続で1位となった。2008年から2013年までは[[ソマリア]]が6年連続で1位であったがこの2年間は2位となっており、南スーダンが取って代わる形となった。<br>
 
[[2015年]]8月の調停までに5万人が死亡、避難民は230万人以上と推定されている<ref>{{cite news|url=http://mainichi.jp/articles/20160430/k00/00m/030/096000c/|title=キール大統領、閣僚を任命|publisher=毎日新聞|date=2016-4-30|accessdate=2016-7-11}}</ref>。
 
 
 
=== 暫定政府の発足〜再びの内戦危機(2015年-現在) ===
 
[[File:Southern Sudan Civil War.svg|thumb|2016年4月時点の軍事情勢,、赤は政府軍、緑は反政府軍、青斜線はスーダン軍が優勢な地域]]
 
この事態を受け、[[政府間開発機構]]が仲介に入り、和平協議が続けられた結果、2015年8月、政府間開発機構による調停の下、対立していたキール大統領派とマチャル派が調停案を受け入れ、紛争解決に関する合意文書へ署名を行なった<ref>[http://qnew-news.net/news/2015-8/2015082905.html 南スーダンの調停案署名を歓迎] Qnewニュース 2015年8月29日</ref>。
 
 
 
[[2016年]][[4月26日]]、合意文章に基づき、マチャル前副大統領が第一副大統領に就任し、29日、国民統一暫定政府が設立された<ref>[http://www.mofa.go.jp/mofaj/press/danwa/page4_001990.html 南スーダン国民統一暫定政府の設立(外務報道官談話)] 外務省 2016年4月30日</ref>。しかし合意後も両陣営から協定の細部への不満に加え、内戦中の戦争犯罪の特別法廷の設置や州の再編案などで対立は続き、内戦により疲弊しきった経済はインフレ率295%の[[ハイパーインフレーション]]を引き起こした<ref>{{cite news|url=http://mainichi.jp/articles/20160708/k00/00m/030/064000c|title=「和平協定履行で復興を」第1副大統領|publisher=毎日新聞|date=2016-7-7|accessdate=2016-7-11}}</ref><ref>{{cite news|url=http://mainichi.jp/articles/20160710/k00/00m/030/096000c|title=建国5年、経済疲弊…急務の和平定着|publisher=毎日新聞|date=2016-7-10|accessdate=2016-7-11}}</ref>。
 
 
 
[[2016年]]7月、首都ジュバでは両陣営による銃撃戦が断続的に続くなど内戦再燃の危機が高まり、現地で支援活動を行う日本を含めた欧米各国は国外退避を決定している<ref>{{cite news|url=http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160711/k10010590801000.html|title=南スーダン 戦闘再燃で日本人身動き取れない状況に|publisher=NHK|date=2016-7-11|accessdate=2016-7-11}}</ref>。同月の戦闘では、ジュバ住民等に270名ほどの犠牲者が出たが、国連加盟国との交戦を避けるためPKO部隊による住民の保護がされず、国連施設の前で南スーダン国軍による[[強姦]]行為が繰り広げるような有様であったとされ、PKOのあり方について国際世論から批判を受けた。これを受け[[潘基文]]国連事務総長はケニア出身の司令官や、[[国際連合南スーダン派遣団]]の[[国連事務総長特別代表]]を解任したが、ケニアはこの対応に反発しPKOから部隊を撤退させる事態となった<ref>[http://www.nhk.or.jp/kokusaihoudou/catch/archive/2016/11/1121.html?utm_int=detail_contents_news-link_001 南スーダン 国連PKOの課題]NHK</ref><ref>[http://www.asahi.com/sp/articles/DA3S12626380.html 「南スーダンPKO、住民助けず」 7月の戦闘、人権団体が報告書]朝日新聞デジタル</ref><ref>[http://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2016/11/post-6190_1.php 南スーダンPKOは「機能不全」、ケニアが国連批判で部隊撤退]ニューズウィーク</ref>。7月23日にはマチャルが第一副大統領を解任され、和平プロセスは事実上崩壊した<ref>{{Cite news|url=http://www.yomiuri.co.jp/fukayomi/ichiran/20170427-OYT8T50036.html|title=南スーダンの深刻な国内対立…自衛隊撤収後にできること|work=YOMIURI ONLINE|newspaper=[[読売新聞]]|date=2017-04-27|accessdate=2017-05-02}}</ref>。
 
 
 
2017年になっても国内の混乱は収まらず、国内の当事者らがそれぞれ高圧的な軍事行動を展開。政府軍の破壊行為が止まらない一方、反政府側のスーダン人民解放軍や民兵集団が台頭し、組織の分裂や支配地域が広がる状況にある<ref>[http://www.afpbb.com/articles/-/3118066?cx_part=ycd 南スーダン内戦「壊滅的規模」に、収拾つかない恐れを国連が警告] AFP(2017年2月16日)2017年3月12日閲覧</ref>。政府軍は、南部の[[赤道州 (スーダン)|エクアトリア]]地方一帯などで反攻を続けているが、一方でエクアトリア出身の元政府軍副参謀総長が反政府組織を立ち上げるなどの混乱が続いた<ref>[http://www.afpbb.com/articles/-/3120571 南スーダンに新たな反政府組織、政府軍の元副参謀総長が結成宣言] AFP(2017年3月8日)2017年3月12日閲覧</ref>。
 
 
 
この状況を受け、再び、政府間開発機構が諸勢力を集めて調停に入り、2017年12月、敵対行為停止で合意。さらに[[2018年]]6月27日、恒久的停戦で合意した<ref>{{Cite news |title=南スーダンの恒久的停戦合意を歓迎 |newspaper=Qnewニュース |date=2018-7-6 |url=https://qnew-news.net/news/2018-7/2018070601.html |accessdate=2018-7-8}}</ref>。2018年8月5日にスーダンにて3ヶ月以内に3年を期限とする移行政府を樹立することが合意された<ref>{{Cite news|url=http://www.afpbb.com/articles/-/3185031|title=南スーダン、統一政府発足で合意 内戦終結へ道筋|work=AFPBB News|agency=[[フランス通信社]]|date=2018-08-06|accessdate=2018-08-28}}</ref>。
 
 
 
== 政治 ==
 
南スーダン議会の定数は170議席でほとんどの議席を[[スーダン人民解放軍|スーダン人民解放運動]]が独占している。主な政党はスーダン人民解放運動 (SPLM) で、ジョン・ガランが結成した。現在の大統領は[[サルバ・キール・マヤルディ]]。
 
 
 
== 外交と軍事 ==
 
{{節スタブ}}
 
 
 
=== 国連 ===
 
{{See also|国際連合南スーダン派遣団}}
 
 
 
政情が不安定なため、[[国際連合平和維持活動]]として[[国際連合南スーダン派遣団]]が派遣されている。医療や教育、インフラ整備や農業など、その支援分野は多岐に渡る。
 
 
 
スーダンの最大の支援国でもある[[中華人民共和国]]は南スーダンでも積極的に国連平和維持部隊を派兵してインフラ整備に携わって油田権益も得ている<ref>{{cite news |last= |first= |title=中国、南スーダンで存在感 病院、レストラン、油田も… |publisher=[[産経ニュース]] |date=2017-09-28|url=https://www.sankei.com/world/news/170928/wor1709280040-n1.html |accessdate=2018-08-28}}</ref>。
 
 
 
=== 日本 ===
 
{{See also|日本と南スーダンの関係|自衛隊南スーダン派遣}}
 
 
 
2013年5月31日、[[日本]]の[[安倍晋三]]首相と[[サルバ・キール・マヤルディ]]大統領の会談で、南スーダンに日本大使館を設置することが決定した<ref>{{cite news |title=南スーダンに大使館開設へ=政府 |newspaper=[[ウォール・ストリート・ジャーナル]] |date=2013-5-31 |url=http://jp.wsj.com/article/JJ12746991745940754583918579318213669365202.html |accessdate=2013-6-20}}</ref>。同年7月1日、首都の[[ジュバ]]に駐南スーダン日本国大使館が開設<ref>[http://www.mofa.go.jp/mofaj/press/release/press6_000391.html 在南スーダン日本国大使館の開設 | 外務省] - 2013年7月1日</ref>。[[赤松武]]が[[参事官]]に就任し<ref>[http://www.nikkei.com/article/DGXNASFS11002_R11C13A0EB1000/ オランダ大使に辻氏を起用  :日本経済新聞] - 2013年10月11日</ref>、同年10月11日に[[特命全権大使]]に昇格した。
 
 
 
== 地方行政区分 ==
 
[[ファイル:32 States of South Sudan (2017).png|thumb|350px|2017年以降の南スーダンの州]]
 
{{Main|南スーダンの行政区画}}
 
独立当初は10州であったが、2015年に28州、2017年に32州へと増加した。いずれも各州は歴史的に3つの地方に大別される。州は郡に細分化される。
 
 
 
独立後の[[アビエイ|アビエイ地域]]の帰属問題や、ケニアやエチオピアも領有を主張している[[イレミ・トライアングル|イレミ・トライアングル地域]]の帰属問題がある。独立後もスーダン共和国が南ダルフール州の一部として実効支配している{{仮リンク|カフィア・キンギ|en|Kafia Kingi|label=カフィア・キンギ地域}}は、[[1960年]]に西バハル・アル・ガザール州から南ダルフール州に移管されたため、[[1956年]]の境界線を南北国境とする南北包括和平合意 (CPA) によれば南スーダンに移譲されるべき地域であるが、[[2011年]]現時点では最終的な帰属は未定である。
 
 
 
=== 主要都市 ===
 
首都となるのは[[ジュバ]]で、他に[[ルンベク]](南部スーダン自治政府時代の首都だった)、[[ワーウ]]、[[アウェル]]などの都市が人口10万を超える。ジュバが南過ぎることと再開発が難しいことから首都を中央部のレイク州{{仮リンク|ラムシール|en|Ramciel}}に移す予定。
 
{{Main|南スーダンの都市の一覧}}
 
 
 
== 地理 ==
 
[[File:South Sudan-CIA WFB Map.png|thumb|240px|right|南スーダンの地図]]
 
[[内陸国]]で、北に[[スーダン]]があり、東は[[エチオピア]]、南は[[ケニア]]・[[ウガンダ]]・[[コンゴ民主共和国]]、西は[[中央アフリカ]]と国境を接する。北西はスーダン・[[ダルフール]]地域。スーダンとの国境線は長さ1,937kmに達し、エチオピアとの国境線がそれに次いで883kmである。最高地点は南部のイマトング山地にある[[キヌエティ山]](標高3187m)である。
 
 
 
ウガンダからスーダンへ南北に[[白ナイル川]]([[バハル・アル=ジャバル|バハル・アル=ジャバル川]]と呼ばれる)が流れ、ジュバの北から国境にかけて大[[湿地帯]]の[[スッド]]がある。南下するほど雨量が増えていき、[[熱帯雨林]]や[[サバナ (地理)|サバナ]]の地域もあり、世界第二の多様な[[野生動物]]の宝庫となっている。白ナイル川は、スッドにて西からのガザル川(ダルフール南部からのアラブ川と、南西部から流れてくるジュル川を合わせている)と、東から流れてくるソバト川に合流する。特にソバト川は雨季の流量が増大するが、スッドは酷暑のまっ平らな低地であり、ここが[[蒸発皿]]の役目を果たすため、ここ以北を流れるナイル川は流量が半減する。ここの流量を増やし、北部で利用できる水資源を増やすために、第二次世界大戦直後にエジプトが、スッドをショートカットする{{仮リンク|ジョングレイ運河|en|Jonglei Canal}}を計画し、1978年にスーダンとともに開削を始めたが、全長360kmのうち240kmを終えた1984年に、蒸発量減による気候の乾燥化の懸念<ref>ミリオーネ全世界事典 第10巻 アフリカI(学習研究社、1980年11月)p.279</ref>や自然破壊などの理由により工事は中止された。
 
 
 
== 経済 ==
 
[[File:Juba Sudan aerial view.jpg|thumb|left|首都[[ジュバ]]]]
 
 
 
経済は南北内戦により荒廃し、特にインフラの整備が進んでいない。[[国際通貨基金|IMF]]の推計によると、[[2013年]]の南スーダンの[[国内総生産|GDP]]は140億ドルである<ref name="imf201410" />。一人当たりのGDPは1,289ドルであり、[[ケニア]]とほぼ同額で、[[エチオピア]]よりずっと多いが<ref name="imf201410" />、その98%は石油によるものであるので、実際の庶民の生活は決して裕福ではない。一部の富裕層が裕福な暮らしを営み、物価をつりあげ、庶民の生活を圧迫している。また[[南スーダンクーデター未遂事件 (2013年)|クーデター未遂事件]]の影響もあり、2014年はマイナス成長が見込まれている<ref name="imf201410" />。
 
 
 
通貨の最小単位は1SSP (South Sudan Pound) =約30円であった<ref>[http://d.hatena.ne.jp/lostkey/20111029/p1]</ref>。2011年10月19日に5、10、25、50ピアストルの各補助紙幣が導入されている<ref>{{cite book | last1 = Linzmayer | first1 = Owen | title = The Banknote Book | chapter = South Sudan | publisher = www.BanknoteNews.com | year = 2012 | location = San Francisco, CA | url = http://www.banknotebook.com}}</ref>。
 
 
 
南北合わせスーダン全体における石油資源の80%が南スーダンに集中する<ref name=NHK-GTV>2011年6月20日放送の「[[時論・公論]]」([[NHK総合テレビジョン]])「[http://www.nhk.or.jp/kaisetsu-blog/100/86415.html アフリカ新国家誕生へ ~求められる長期支援]」内(リンク先は「解説委員室ブログ」)。</ref>ため、石油経済に将来性があると言われているが、スーダンの紅海沿岸[[ポートスーダン]]を原油積み出し港としているため、油田地帯から延びるパイプラインや石油精製技術をスーダンに握られ、独立前から原油収入は非常に不利であった。スーダンが南スーダンとの石油の利益配分交渉を有利に進めるため石油製品供給を停止し、深刻な燃料不足に陥しいれた<ref name=NHK2>「[http://cgi4.nhk.or.jp/gendai/kiroku/detail.cgi?content_id=3069 独立・南スーダン 問われる国づくり]」 2011年7月6日放送[[NHK総合テレビジョン]]『[[クローズアップ現代]]』より。</ref>。2012年現在もスーダンがパイプライン使用料として莫大な金額を要求したため、南スーダンは原油供給を停止し、輸出による外貨獲得に困難が生じている。最盛期日量45万バレルだった原油生産は内戦で6万バレルに減少したが2015年には25万バレルまで回復している。紅海ではなくケニアを通過しインド洋から輸出するためのパイプライン計画がある。天然資源としては他に[[鉄鉱石]]、[[銅]]、[[雲母]]、[[クローム]]、[[タングステン]]、[[亜鉛]]、金、銀、ダイアモンドなども産出する。農産物としては[[綿花]]、[[ラッカセイ|ピーナッツ]]、[[モロコシ属|サトウモロコシ]]、[[雑穀]]、[[アラビアガム]]、[[キャッサバ]]、[[サトウキビ]]、[[マンゴー]]、[[パパイア]]、[[コムギ]]、[[サツマイモ]]などがある。[[木材]]は主要輸出品でアフリカ最大の[[チーク]]の[[プランテーション]]がある。経済は農業に大きく依存しているが、潜在的電力資源もある。
 
 
 
2011年現在、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]と[[中華人民共和国|中国]]などを中心に道路などのインフラや教育面などの援助が行われている。日本は最大部族になる[[ディンカ族]]以外にも幅広い援助を行っている<ref name=NHK2/>。
 
{{Clearleft}}
 
 
 
== 交通 ==
 
[[File:Train Sudan towards Wau.jpg|thumb|250px|ワーウへ向かう列車]]
 
 
 
内戦の影響でインフラは殆ど進んでいない。道路も未整備が多い。独立前の状況は、舗装道路は国内で約60km、ナイル川にかかる橋は1本しかない<ref name=NHK-GTV />。
 
 
 
スーダン国境から[[ワーウ]]まで248kmの[[スーダン鉄道]]が延びているが、1980年代の内戦時に鉄道橋が破壊され運行が停止されたままになっている。路線の規格は、[[単線]]で[[軌間]]1,067mmの[[狭軌]]であった。ワーウからジュバへの延伸計画がある。ウガンダとケニアからジュバまでの鉄道計画もある。
 
 
 
空港としては[[ジュバ空港]]があり、南スーダンの[[フィーダー航空]] (Feeder Airlines) の拠点となっている。ジュバ空港からは近隣国の首都へは定期便がある。他の地方に国内線も幾つかある。しかし空港も滑走路の未整備など、まだ問題が多い。国営航空会社設立の計画がある。2012年の時点で、ジュバ空港には大型機の離着陸ができないので、建設用の重機は近隣国から(困難な)陸路で運ばれる。<!-- 出典:読売新聞 2012/01/08 -->
 
 
 
== 国民 ==
 
=== 民族 ===
 
[[File:South Sudan 012.jpg|thumb|[[スカリフィケーション]]を施した南スーダンの女性]]
 
 
 
民族構成は[[ディンカ族|ディンカ人]]が最も多く、約100万人。他にも[[ヌエル人]]や[[シルック人]]などのナイル系の民族がいる。西部は[[アザンデ人]]とジュチャル人、南部からウガンダに[[アチョリ|アチョリ人]]やロツフ人がいる。南スーダンは、ナイル系の民族が国家の主流派を占める初の独立国家である<ref>例えば、[[ウガンダ]]や[[ケニア]]等も、ナイル系の民族が国民の一部分を占め、かつ国の指導者がナイル系の民族から誕生したことはあったが、国家の主流を占める民族はあくまで[[バントゥー系民族|バンツー]]系の民族である。</ref>。
 
 
 
イスラームを信仰する民族はカリギ人Kaligi(17,000人)、インドリ人Indri(1,300人)、バンダトグボ人Banda Togbo(2,300人)以上、アダマワ・ウバンギ語族、アジャ人Aja(300人)、ドンゴトノ人Dongotono(1,100人)以上シャリ・ナイル語族、ンジャルグルグレ人Njalgulugule(2,200人)マバ語族など、きわめて少数の民族である。
 
 
 
各民族は敵対関係にあるものも多く、特に東部の[[ジョングレイ州]]では複数の民族が土地をめぐって武力衝突を起こしている。[[第二次スーダン内戦|スーダンの内戦]]時に流出した武器が出まわっており、多数の死者、負傷者、難民が発生している<ref>{{cite news |title=南スーダンで民族衝突が激化、1集落に負傷者200人超 |newspaper=[[フランス通信社|AFPBB News]] |date=2013-7-15 |url=http://www.afpbb.com/article/war-unrest/2955940/11033905 |accessdate=2013-7-24 |author=Hannah MCNEISH}}</ref>。
 
 
 
=== 言語 ===
 
イギリス統治時代の影響で[[英語]]が[[公用語]]であり、教育や北部との取引などで幅広く使われている。ナイル系が多数派であり、母語としては[[ディンカ語]]、[[ヌエル語]]、{{仮リンク|シルック語|en|Shilluk language}}が主な言語である。[[リングワ・フランカ|共通語]]として、[[ピジン言語]]である{{仮リンク|ジュバ・アラビア語|en|Juba Arabic}}がジュバ周辺で話されている。
 
 
 
=== 宗教 ===
 
人口の6割は[[キリスト教徒]]であり<ref>{{Cite web |date= 2018年4月2日 |url= http://www.afpbb.com/articles/-/3169651|title= 動画:南スーダンでキリストの十字架はりつけ再現、イースター|publisher= AFP|accessdate=2018-04-03}}</ref>、残りの人口は、[[アニミズム]]の[[伝統宗教]](大地の神{{仮リンク|クウォス|it|Kwoth}}、クモの姿をしたトリックスター「[[トゥール (アフリカ神話)|トゥール]]<ref>[[アナンシ]]や[[ブレア・ラビット]]に似ている。</ref> Tule」)やイスラム教を信仰している。
 
 
 
北部スーダンで[[イスラーム]]を信仰する[[アラブ人]]が多数を占めているのとは対照的である。この信仰の違いは、南スーダンの独立運動が過激化した理由の一つでもある。南スーダンは周辺諸国と比較しても例外的に[[ムスリム]]の人口比率が極めて低い。
 
 
 
=== 教育 ===
 
{{節スタブ}}
 
 
 
== 文化 ==
 
{{節スタブ}}
 
=== 祝祭日 ===
 
{| class="wikitable"
 
! 日付 !! 日本語表記 !! 英語表記 !! 備考
 
|-
 
|1月1日||独立記念日||Independence Day||
 
|-
 
|1月9日||和平合意記念日||Peace Agreement Day||
 
|-
 
|5月16日||スーダン人民解放軍記念日||SPLA Day||
 
|-
 
|7月30日||殉教者の日||Martyrs Day||
 
|-
 
|12月25日||[[クリスマス]]||Christmas Day||
 
|-
 
|12月26日||[[ボクシング・デー]]||Boxing Day||
 
|}
 
 
 
=== スポーツ ===
 
{{節スタブ}}
 
2012年に[[イギリス]]で開催された[[ロンドンオリンピック (2012年)|ロンドンオリンピック]]に、[[ディンカ族]]出身の[[第二次スーダン内戦]]元難民でアメリカ在住の[[グオル・マリアル]]が[[ロンドンオリンピック (2012年) 独立参加選手団|独立参加選手団]]として出場した。なお、2015年8月に国内オリンピック委員会が承認された<ref>{{cite web|url=http://mainichi.jp/sports/news/20150803k0000m050098000c.html |title=IOC:南スーダンの加盟を承認 |publisher=毎日新聞Webサイト |date= |accessdate=2015-09-13}}</ref>。
 
 
 
== 著名な出身者 ==
 
*{{仮リンク|ヤバ・アンゲローシ|en|Yaba Angelosi}} - ジュバ出身の歌手
 
*{{仮リンク|ロペス・ロモング|en|Lopez Lomong}} - 陸上選手
 
*[[グオル・マリアル]] - 陸上選手
 
*[[マヌート・ボル]] - バスケットボール選手。但し独立以前にアメリカ合衆国に移住し、独立前年に死去
 
*{{仮リンク|エマニュエル・ジャル|en|Emmanuel Jal}} - ラップ歌手、慈善活動家、元少年兵
 
*[[デイビッド・ニュオル・ヴィンセント]] - 平和活動家、著者、NGO Peace Palette共同設立者、元少年兵、エマニュエル・ジャルの親友
 
*[[ルオル・デン]] - バスケットボール選手。[[NBA]]の[[マイアミ・ヒート]]所属。
 
 
 
== 脚注 ==
 
{{脚注ヘルプ}}
 
{{Reflist|2}}
 
 
 
== 参考文献 ==
 
{{節スタブ}}
 
 
 
== 関連項目 ==
 
* [[日本と南スーダンの関係]]
 
* [[南スーダン関係記事の一覧]]
 
 
 
== 外部リンク ==
 
{{Wikisource|南スーダン共和国の承認の件|2011年(平成23年)7月21日外務省告示第252号(南スーダン共和国の承認の件)}}
 
{{Wikinews|南部スーダンが独立し「南スーダン」に - アフリカ54番目の国家}}
 
{{Commons&cat|South Sudan|South Sudan}}
 
* 政府
 
** [http://www.goss.org/ Government of South Sudan - Official Portal]{{en icon}}(南スーダン政府公式サイト)
 
* 日本政府
 
** [http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/s_sudan/ 日本外務省 - 南スーダン]{{ja icon}}
 
 
 
{{アフリカ}}
 
  
 +
{{テンプレート:20180815sk}}
 
{{デフォルトソート:みなみすうたん}}
 
{{デフォルトソート:みなみすうたん}}
 
[[Category:南スーダン|*]]
 
[[Category:南スーダン|*]]

2019/4/27/ (土) 16:57時点における最新版

スッド地方にあるホワイトナイル川沿いの村.南スーダン.jpg

正式名称 南スーダン共和国 The Republic of South Sudan。

面積 64万4330km2

人口 915万(2011推計)。

首都 ジューバ

アフリカ大陸北東部に位置する国。北はスーダン,東はエチオピア,南はケニア,ウガンダ,コンゴ民主共和国,西は中央アフリカ共和国に接する。ナイル川水系のアラブ川ガザール川ジャバル川ソバト川ホワイトナイル川が広大な平原地帯と高原地帯を流れる。中央には粘土平原が広がり,中心部に巨大な沼沢地帯のスッド地方がある。最高地点はウガンダとの国境付近にあるキンイェティ山(3187m)。住民の大半がキリスト教,アフリカ伝統宗教を信仰する黒人。ナイル語系諸族(ナイロート)が最も多い。サバナ地帯,湿地帯,熱帯雨林を擁する多様な生態系のもと,野生動植物の種が豊富に存在する。熱帯性気候で雨季と乾季がある。1820年にオスマン帝国のエジプト太守ムハンマド・アリースーダン地方を征服したあと,南部では奴隷取引が盛んに行なわれた。19世紀末,イギリスとエジプトの共同統治領となった。1956年のスーダン共和国(スーダン)独立以後,イスラム法(シャリーア)とイスラム文化を導入することに積極的な北部指導層と,この政策に反対する勢力との間で抗争が勃発。反対派には南部住民の大多数が加わった。抗争は長期に及ぶ内戦へと発展,エチオピアの和平調停による 1972年のアジスアベバ協定で一時終結したものの,広範囲で戦闘が再開,1983年には第2次内戦に突入した。2005年,包括和平協定が調印され,南部スーダンに一定の自治が認められた。2011年1月,北部からの完全独立の是非を問う住民投票を実施。その結果,2011年7月9日,南スーダンは独立を宣言した。(スーダン内戦



楽天市場検索: