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(内容を「 '''北条 義時'''(ほうじょう よしとき) 鎌倉幕府の2代執権 (在職 1205~24) 。時政の子。幼名は江馬小四郎。伊豆国北条を本領...」で置換)
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{{基礎情報 武士
 
| 画像 =
 
| 画像サイズ =
 
| 画像説明 =
 
| 氏名 = 北条義時
 
| 時代 = [[平安時代]]末期 - [[鎌倉時代]]初期
 
| 生誕 = [[長寛]]元年([[1163年]])
 
| 死没 = [[元仁]]元年[[6月13日 (旧暦)|6月13日]]([[1224年]][[7月1日]])享年62
 
| 改名 = 義時、観海<ref>『佐野本北条系図』</ref>、徳宗
 
| 別名 = 江間四郎、江馬小四郎<ref>『飛州志』所収の[[江馬氏|江馬氏系図]]による。</ref>、相州、右京兆、奥州
 
| 墓所 = [[静岡県]][[伊豆の国市]]南江間 [[北條寺]]<br>[[神奈川県]][[鎌倉市]]頼朝法華堂の東の山
 
| 官位 = [[相模国|相模]][[国司|守]]、[[従四位|従四位下]]、[[京職|右京権大夫]]、[[陸奥国司|陸奥守]]
 
| 幕府 = [[鎌倉幕府]][[十三人の合議制]]<br/>第2代[[執権]]([[1205年]] - [[1224年]])
 
| 主君 = [[源頼朝]]→[[源頼家|頼家]]→[[源実朝|実朝]]→[[藤原頼経]]
 
| 氏族 = [[北条氏]](自称・[[桓武平氏]])
 
| 父母 = 父:[[北条時政]]、母:[[伊東祐親|伊東入道]]の娘
 
| 兄弟 = [[北条宗時|宗時]]、[[北条政子|政子]]、'''義時'''、[[北条時房|時房]]、[[北条政範|政範]]、[[阿波局 (北条時政の娘)|阿波局]]、[[北条時子|時子]]他
 
| 妻  = 正室:'''[[姫の前]]'''<br />継室:'''[[伊賀の方]]'''<br/>側室:[[阿波局]]、[[常陸伊佐氏|伊佐]]朝政の娘、他
 
| 子  = '''[[北条泰時|泰時]]'''、[[北条朝時|朝時]]、[[北条重時|重時]]、[[北条有時|有時]]、[[北条政村|政村]]、[[北条実泰|実泰]]、[[北条時尚|時尚]]、[[竹殿]]、女子([[一条実雅]]室) 他
 
| 特記事項 =
 
}}
 
  
'''北条 義時'''(ほうじょう よしとき)は、[[平安時代]]末期から[[鎌倉時代]]初期にかけての[[武将]]。[[鎌倉幕府]]の第2代[[執権]]。[[伊豆国]]の在地[[豪族]]・[[北条時政]]の次男。[[源頼朝]]の[[正室]]・[[北条政子]]の弟。[[得宗]]家2代目当主。
+
'''北条 義時'''(ほうじょう よしとき)
  
[[源氏将軍]]が途絶えた後の、鎌倉幕府の実質的な最高指導者。幕府と朝廷の対立が激化すると、[[後鳥羽天皇|後鳥羽上皇]]より北条義時追討の[[宣旨]]が全国に発布され[[朝敵]]となるも、幕府軍は京都に攻め上り、朝廷を制圧([[承久の乱]])。戦後に天皇を廃し3人の[[太上天皇|上皇]]を配流した。
+
鎌倉幕府の2代執権 (在職 1205~24) 。時政の子。幼名は江馬小四郎。伊豆国北条を本領とした。治承4 (1180) 年頼朝の挙兵以来,父とともに協力し,平氏征討,奥州藤原氏討伐に参戦。元久1 (1204) 年従五位下,相模守。同2年6月武蔵国二俣川で畠山重忠と戦ってこれを破った。同年閏7月父時政の失脚ののち,あとをうけて執権に就任。建保1 (13) 年侍所別当和田義盛と戦って勝ち,侍所別当となった。同4年従四位下,同5年右京権大夫兼陸奥守。承久1 (19) 年将軍源実朝横死ののち左大臣九条道家の子三寅 (のちの将軍藤原頼経) を鎌倉に迎えて幕府の主とし,みずから幕政の実権を握った。同3年後鳥羽上皇の倒幕計画に大軍を派遣して京都を占領させ ([[承久の乱]] ) ,上皇以下順徳天皇,土御門上皇ら関係者を処罰し,鎌倉幕府は全国的政権へと発展していった。
  
== 生涯 ==
+
{{テンプレート:20180815sk}}
=== 青年期 ===
 
[[北条時政]]の次男として生まれ、江間小四郎と称した。母ははっきりしていないが、系図には「[[伊東祐親|伊東入道]]の娘」とある。義時が15、6歳の頃に姉の[[北条政子|政子]]が伊豆の流人であった[[源頼朝]]の妻となっている。[[治承]]4年([[1180年]])8月17日、義時は父・時政、兄・[[北条宗時|宗時]]と共に頼朝の挙兵に従うが、[[石橋山の戦い]]で[[大庭景親]]に敗北して宗時が戦死する。頼朝、[[土肥実平]]らは[[箱根山]]から[[真鶴半島]]へ逃れ、28日、[[真鶴岬]]([[神奈川県]][[真鶴町]])から出航して[[安房国]]に脱出した。時政・義時も別ルートで前日に安房に脱出し、現地で頼朝と合流した。態勢の立て直しが模索される中、9月8日、時政は[[甲斐源氏]]を味方に引き入れる密命を受けて義時と共に甲斐に赴き、15日、[[武田信義]]・[[一条忠頼]]のいる逸見山に到着して「頼朝の仰せの趣」を伝えたという<ref group="注釈">『吾妻鏡』によると[[上総広常]]を味方につけた頼朝は、9月20日に[[土屋宗遠]]を第二の使者として甲斐に送り、24日、宗遠の来訪を受けた甲斐源氏は一族を集めて、頼朝と駿河で参会すべきか評議を重ねている。一方『延慶本平家物語』では、「時政は敗戦後に頼朝とはぐれてそのまま甲斐に逃れた」「頼朝は時政の生死を知らずに、宗遠を甲斐に使者として送った」という記述があり、『吾妻鏡』の記述と齟齬が見られる。時政・義時は単純に甲斐に亡命していただけという解釈も成り立ち、甲斐源氏懐柔のため奔走したという逸話は『吾妻鏡』編者による北条氏顕彰のための曲筆の可能性もある。</ref>。10月13日、甲斐源氏は時政・義時と共に駿河に進攻し、甲斐源氏との連携を成し遂げた時政は頼朝から報償を与えられた。12月12日、頼朝は新造の大倉亭に移徙の儀を行い、義時も時政や他の御家人と共に列している。
 
 
 
[[養和]]元年([[1181年]])4月、義時は頼朝の寝所を警護する11名の内に選ばれた(『[[吾妻鏡]]』養和元年4月7日条)<ref group="注釈">他の10名は、[[下河辺行平]]・[[結城朝光]]・和田義茂・[[梶原景季]]・宇佐美実政・[[榛谷重朝]]・[[葛西清重]]・[[三浦義連]]・[[千葉胤正]]・八田知重。主に有力御家人の二世世代であり、将来を担う人材の育成という面もあったと見られる。文治5年(1189年)2月28日、頼朝が彗星を見るために寝所から庭に出た際は、御前を三浦義連・結城朝光、御後を梶原景季・八田知重が警護している。</ref>。この頼朝の個人的な側近・親衛隊は「[[家子]]」と呼ばれて[[門葉]]([[河内源氏|源氏]]血縁者)と一般[[御家人]]の中間に位置づけられ、義時はその中でも「家子の専一」とされた(『吾妻鏡』宝治2年閏12月28日条)。[[寿永]]元年([[1182年]])11月、頼朝は愛妾・[[亀の前]]を[[伏見広綱]]の宅に置いて寵愛していたが、この事を継母の[[牧の方]]から知らされた政子は激怒し、牧の方の父・[[牧宗親]]に命じて広綱宅を破壊するという事件を起こす。怒った頼朝は宗親を呼び出して叱責し、宗親の髻を切って辱めた。これを知った時政は舅の宗親への仕打ちに怒り、一族を率いて伊豆へ立ち退いた。義時は父に従わず鎌倉に残り、頼朝から称賛された。
 
 
 
兄・宗時が戦死したため[[嫡子]]になったとされるが、義時は『吾妻鏡』で北条姓ではなく所領とした江間の姓で記される事が多く、分家の江間家の初代であったと見られる。[[文治]]5年([[1189年]])に時政の後妻である牧の方を母として生まれた異母弟の[[北条政範|政範]]は16歳で[[従五位|従五位下]]に叙され、26歳年長の義時と並ぶ地位にあり、時政は政範を将来の嫡子に考えていた可能性もある{{refnest|group="注釈"|細川重男は義時の次男・朝時が時政の屋敷であった[[名越 (鎌倉市)|名越]]邸を継承していることから、時政は朝時を後継者に考えていたのではないかと推測している<ref>『北条氏と鎌倉幕府』講談社選書メチエ、2011年</ref>。ただし朝時の名越邸継承の時期は不明であり、時政の真意は定かでない。}}。
 
 
 
[[元暦]]2年([[1185年]])、[[源範頼]]率いる[[伊勢平氏|平氏]]追討軍に属して[[西国]]へ赴き、[[葦屋浦の戦い]]で武功を立てた。[[文治]]5年([[1189年]])7月、[[奥州合戦]]に従軍。[[建久]]元年([[1190年]])に頼朝が上洛した際、[[右近衛大将]]拝賀の随兵7人の内に選ばれて参院の供奉をした<ref group="注釈">他の6名は、[[小山朝政]]、[[和田義盛]]、[[梶原景時]]、[[土肥実平]]、[[比企能員]]、[[畠山重忠]]。</ref>。義時は21歳の時に長男・[[北条泰時|泰時]]をもうけていたが[[庶子]]であり、建久3年([[1192年]])9月25日、頼朝の仲介により[[比企朝宗]]の娘で誉れ高い幕府女房であった[[姫の前]]を正室に迎える。そして翌年に嫡男・[[北条朝時|朝時]]を儲ける。
 
 
 
頼朝存命中はそれほど表立つ事はなかったが、頼朝死後に[[鎌倉幕府]]内の権力闘争が激化すると頭角を現してくる。
 
 
 
=== 政権簒奪闘争 ===
 
[[正治]]元年([[1199年]])の頼朝の死後、跡を継いだ2代将軍・[[源頼家]]の独裁を押さえるための[[十三人の合議制]]に加わった。その後、[[梶原景時の変]]で頼朝の腹心であった[[梶原景時]]が失脚し、その過程に義時の同母姉妹の[[阿波局 (北条時政の娘)|阿波局]]が関わっている。[[建仁]]3年([[1203年]])、7月に頼家が病に倒れると、9月2日に時政は頼家の乳母父で舅である[[比企能員]]を自邸に呼び出して謀殺し、頼家の嫡子・[[一幡]]の邸である小御所に軍勢を差し向けて比企氏を滅ぼした。次いで頼家の将軍位を廃して伊豆国[[修善寺]]へ追放する([[比企能員の変]])。時政は頼家の弟で阿波局が乳母を務めた12歳の[[源実朝|実朝]]を3代将軍に擁立し、10月9日には[[大江広元]]と並んで政所別当に就任して実権を握った。『[[愚管抄]]』によると、11月になって襲撃から逃げ延びた一幡が捕らえられ、義時の手勢に殺された。[[元久]]元年([[1204年]])3月6日、義時は相模守に任じられている<ref group="注釈">『[[武家年代記]]』には「元久三六任相模守」とあり元久3年(1206年)6月とも読めるが、『[[鎌倉年代記]]』『[[系図纂要]]』『北条九代記』『将軍執権次第』はいずれも元久元年(1204年)3月6日であり、「元年」の語句が欠落していると思われる。</ref>。7月18日、頼家が伊豆国修禅寺で死去。『愚管抄』や『[[増鏡]]』によれば、頼家は義時の送った手勢により入浴中を襲撃され殺されている。
 
 
 
この時期の北条氏による有力御家人排除は、時政・義時が一体となって行われたが、[[元久]]2年([[1205年]])の[[畠山重忠の乱]]、続く[[牧氏事件]]で父子は対立するようになる。『吾妻鏡』では時政が後妻の[[牧の方]]の讒言により人望の厚かった[[畠山重忠]]を謀殺して御家人たちの反感を買い、義時は重忠が謀反など起こすはずがないと重忠討伐に反対したというが、これは父を追放した義時の背徳を正当化する『吾妻鏡』の脚色であると見られている([[吾妻鏡#畠山重忠]]参照)。[[武蔵国]]の最有力在庁であった重忠排除と同時に発生した牧氏事件の背景には、[[元久]]元年([[1204年]])に乱の引き金となった北条本家の後継者・[[北条政範|政範]]の急死があり、政範亡き後、娘婿・[[平賀朝雅]]を将軍に立てようとする時政・牧の方と、先妻の子である義時・政子らの確執があったと考えられる。
 
 
 
元久2年([[1205年]])[[閏月|閏]]7月、姉・政子と協力し、有力御家人・[[三浦義村]](母方の従兄弟)の協力を得て時政を伊豆国に追放した義時は、父に代わって政所別当の地位に就いた<ref group="注釈">『吾妻鏡』は義時がこの時に政所別当・執権に就任したとしているが、[[岡田清一]]は承元3年(1209年)12月以前の政所文書に政所別当(執権)である義時の署判が1通も見られないことを指摘して、元久2年(1205年)の執権就任記事を『吾妻鏡』編者の脚色として実際の就任は承元3年(1209年)としている(「執権制の成立と建保合戦」)。更に[[長又高夫]]は執権は[[評定衆]]とともに北条泰時によって創設された職で、時政・義時の執権記事は『吾妻鏡』が過去に遡らせた記述であって執権就任そのものが事実ではないとする説を提示している(長又「北条泰時の政治思想」(初出:『身延山大学東洋文化研究所所報』第15号(2011年)/所収:長又『御成敗式目編纂の基礎的研究』(汲古書院、2017年)ISBN 978-4-7629-4218-1))。</ref>。
 
武蔵国は有力者の畠山重忠・平賀朝雅の排除によって、義時が信頼する弟の[[北条時房|時房]]が同国の[[守護]]・[[国司]]となる。朝雅誅殺後、儀式における序列は長年にわたり源氏門葉として御家人首座にあった[[平賀氏]]([[大内惟義]])を凌ぎ、義時が第一位を占めるようになる。義時は常に政子と実朝を表面に立てながら、政所別当・大江広元、頼朝の流人時代以来の近臣・[[安達景盛]]らと連携し、幕政の最高責任者として実権を握った。
 
 
 
時政の性急な権力独占が多くの反発を招いた事から、義時は柔軟な姿勢を示し、時政一人の署名による下知状という文書形式は一時姿を消し、御家人達の要望に応えた「頼朝公以来拝領した所領は、大罪を犯した場合以外、一切没収せず」との大原則を明示した。一方で北条執権体制の障害となる有力御家人に対する抑圧策を進めていく。時政失脚直後の8月、下野国の[[宇都宮頼綱]](時政の娘婿)に謀反の疑いありとして守護の[[小山朝政]]に追討を命じ、頼綱は無実であるとして出家遁世した。[[承元]]3年([[1209年]])11月、年来郎従(伊豆国住民で北条氏の家臣、[[御内人]]の原型)の中で有功之者を侍に准じることを要望したが、実朝の反対により断念した。同月には諸国守護人の職務怠慢をついて終身在職を改め、定期交替制にしようとしたが、[[千葉氏]]・[[三浦氏]]・[[小山氏]]など[[豪族]]御家人達の激しい反発を招いて断念している。この頃から義時の地位は[[執権]]と呼ばれるようになり、次第に独裁的政治を展開して執権政治の基礎を築いていく。その後も有力武士への攻撃は続き、幕府創設以来の重鎮で[[侍所]]別当の地位にあった[[和田義盛]]を[[建保]]元年([[1213年]])2月、[[和田合戦]]において滅ぼした。義時は義盛に代わって侍所別当となり、政所別当と合わせて幕府の最も枢要な職を独占し、北条氏の幕府指導者としての地位が定まった。乱の3年後の建保4年([[1216年]])には[[従四位|従四位下]]に叙し、翌年5月に[[京職|右京大夫]]、12月に[[陸奥国司|陸奥守]]を兼ねて父の官位を超えた。
 
 
 
私生活では比企の乱直後に姫の前と離別し、[[伊賀の方]]を継室に迎えて元久2年([[1205年]])に五男・[[北条政村|政村]]をもうけている。政村は建保元年([[1213年]])12月、三浦義村を[[烏帽子親]]として元服し、その際に義時の「鍾愛の若君」と呼ばれている。[[建暦]]2年([[1212年]])5月、姫の前所生の次男・[[北条朝時|朝時]]が将軍・実朝の怒りをかったため[[義絶]]し、[[駿河国]]へ蟄居させている。
 
 
 
=== 実朝暗殺 ===
 
[[承久]]元年([[1219年]])正月27日、[[鶴岡八幡宮]]での[[右大臣]]拝賀の際に、将軍・実朝が頼家の子[[公暁]]によって暗殺される事件が起こり、源氏の正統が断絶した。その日の拝賀式で、実朝の脇で太刀持ちをする予定だったのは義時であったが、『吾妻鏡』によれば当日急に体調不良を訴えて[[源仲章]]と交代して自邸に戻り、結果として源仲章は実朝と一緒に暗殺され、義時は生き延びている<ref group="注釈">[[北条氏]][[得宗]]家を顕彰する立場で編纂された『吾妻鏡』においては、義時はあくまで御剣役であり、戌神を信仰していて事件の前年に薬師堂を建立し薬師像を安置供養した加護によって義時が守られたとしている。『吾妻鏡』では[[源頼家|頼家]]・[[源実朝|実朝]]・[[一幡]]について、将軍廃立や殺害の前に不吉の前兆を示すエピソードが記されている。</ref>。この事や暗殺事件後の収拾策などから、実朝の暗殺は義時が裏で操ったという説<ref>義時黒幕説の代表的なものとして[[龍粛]](『鎌倉時代 下(京都)』春秋社、1957年)、[[安田元久]](『北条義時』吉川弘文館、1961年)など。</ref>や、将軍親裁を強める実朝に対する義時・[[三浦義村]]ら鎌倉御家人の共謀という説<ref>鎌倉御家人共謀説は、[[五味文彦]](「源実朝-将軍独裁の崩壊」『歴史公論』、1979年)が提唱したもので、実朝は北条氏の傀儡ではなく将軍親裁が機能しており、[[後鳥羽天皇|後鳥羽上皇]]との連携を目指した実朝に対し、義時と義村は手を結んで実朝および後鳥羽と実朝を結びつける後鳥羽の近臣[[源仲章]]の排除に乗り出したと主張している。</ref>もあるが、北条氏に対抗する三浦義村<ref>義村黒幕説は、[[永井路子]]が小説『[[炎環]]』(光風社、1964年)で描いて以来注目され、[[石井進 (歴史学者)|石井進]]がその可能性を認めた(『日本の歴史7 鎌倉幕府』中央公論社、1965年)ことで浮上した。他に[[大山喬平]](『日本の歴史9 鎌倉幕府』小学館、1974年)、[[上横手雅敬]](「承久の乱」安田元久 編『古文書の語る日本史3 鎌倉』筑摩書房、1990年)などが支持している。</ref>、または幕府転覆を望む[[後鳥羽天皇|後鳥羽上皇]]が黒幕という説<ref>後鳥羽黒幕説は、[[谷昇]](「承久の乱に至る後鳥羽上皇の政治課題 -承久年中「修法群」の意味-」『立命館文学』588号、2005年)が提唱し、実朝暗殺と前後する1月22日から28日にかけて上皇が国家安泰とともに政敵の調伏を祈願する[[五壇法]]が実施され、実朝暗殺の報が届いた直後の2月6日に五壇法が再度行われた他、同日に他に4つ、10日も2つの修法が行われていることを指摘して、後鳥羽上皇が京都で育った公暁を利用した実朝暗殺に加担し、自らは京都にて暗殺事件を機に幕府が崩壊することもしくは宮将軍の擁立による幕府掌握を祈願していたと主張している。</ref>もあり、またそれらの背後関係よりも公暁個人の野心に最も大きな要因を求める見解<ref>公暁単独犯行説を取っているのは、[[山本幸司]](『日本の歴史9 頼朝の天下草創』講談社、2001年)、[[永井晋]](『鎌倉源氏三代記 一門・重臣と源家将軍』吉川弘文館、2010年)、[[坂井孝一]](『源実朝 「東国の王権」を夢見た将軍』講談社、2014年)、[[高橋秀樹]](『三浦一族の中世』吉川弘文館、2015年)、[[矢代仁]](『公暁―鎌倉殿になり損ねた男 』ブイツーソリューション、2015年)など。</ref>もあって、真相は明らかではない。『[[愚管抄]]』によれば、義時は実朝の命により、太刀を捧げて中門に留まっており、儀式の行われた本宮には同行しておらず、自邸に戻ったとはされていない。義時は実際には殺害現場にいたものの、目の前で発生した将軍殺害を防げなかった義時の失態を隠蔽するために『吾妻鏡』が曲筆したとする説も出されている<ref>平泉隆房「『吾妻鏡』源実朝暗殺記事について」『皇学館論叢』133号、1990年</ref>。
 
 
 
事件の前年から、子のない実朝の後継者として後鳥羽上皇の[[親王]]を将軍として東下させる事が検討されており、政子が上洛して[[藤原兼子|卿二位]]と話が進められていた。源氏の正統が絶えた事による幕府内での動揺は大きく、義時は頼朝の異母弟[[阿野全成]]の子で将軍の座を望んで挙兵した[[阿野時元|時元]]を討ち、また公暁に荷担したとの嫌疑で公暁の異母弟[[禅暁]]を誅殺している。
 
 
 
実朝暗殺後、幕府は新たな将軍として親王の鎌倉下向を朝廷に要請するが、後鳥羽上皇はこれを拒否し、[[宮将軍|皇族将軍]]東下問題と絡ませて上皇の寵姫の所領の[[地頭]]廃止を要求してくる。幕府方はこれを拒否して、義時の弟・[[北条時房|時房]]を一千騎を率いて上京させて交渉に当たらせたが、両者の態度は強硬で交渉は不調に終わる。幕府はやむなく皇族将軍をあきらめ、頼朝の遠い縁戚である[[摂家|摂関家]]の[[藤原頼経]]を4代将軍として迎え入れた。もっとも、頼経は当時生後1年余の幼児であり、直ちに征夷大将軍に任じられる状況にはなかった(実際の将軍補任は7年後)。このため、政子が尼将軍として頼経の後見と空白となっていた鎌倉殿の地位を代行し、義時がこれを補佐して実務面を補うことで実権を握る執権政治が確立した。
 
 
 
実朝死後の半年にわたる将軍後継者問題で、後鳥羽[[院政]]と鎌倉幕府の対立が先鋭化する。義時は承久2年([[1220年]])2月に義兄の[[伊賀光季]]を[[京都守護]]として派遣し、娘婿・[[大江親広]]も京都守護として上洛させた。
 
 
 
=== 承久の乱 ===
 
{{Main|承久の乱}}
 
一方、後鳥羽上皇は着々と軍備を拡張し、承久3年([[1221年]])5月14日、[[流鏑馬]]ぞろいと称して諸国の兵を招集すると、院政内の親鎌倉派を粛清して伊賀光季を殺害し、倒幕の兵を挙げた。15日、義時追討の[[宣旨]]が全国に発布され、諸国の守護人・地頭たちに、上皇の元に馳せ参じるよう命が出された。京都朝廷・天皇の権威は未だ大きく、幕府にとって容易ならぬ事態であり、義時は生涯最大の難局に直面する事になる。
 
 
 
幕府では[[朝敵]]となる事に動揺する御家人たちに対し、尼将軍政子が頼朝以来の恩顧を訴える声明を出し団結させた。幕府首脳による軍議では慎重論も出る中、大江広元の「防御では東国御家人の動揺を招く」という助言により、京への出撃が決定した。義時は嫡男・[[北条泰時|泰時]]を[[総大将]]として[[東海道]]から[[京都]]へ向けて軍勢を送り、次男・朝時、弟・時房を[[大将軍]]として[[北陸道|北陸]]・[[東山道|東山]]の三道から京へ上らせた。幕府首脳部の積極作戦が功を奏し、東国武士たちが続々と動員令に応じて、総勢19万の大軍となって都へ攻め上った。道中、[[信濃国]]の武士[[市河氏]]が北陸道の大将軍朝時の到着を待たず積極的に進軍し、[[越後国|越後]]・[[越中国|越中]]の境、[[親不知]]付近を突破して前進すると、義時はただちにその功を賞して「一人も残らず殲滅せよ。山狩りをしても召し捕れ。敵を掃蕩せずに功を急いで京を攻め上ろうとするな」と、意気盛んかつ慎重な司令を発している。
 
 
 
5月21日に鎌倉を発した幕府軍は[[木曽川]]、[[淀川|宇治川]]の京都防衛線を突破して、6月15日には京都を制圧した。義時追討の宣旨発布からわずか一ヶ月後の幕府軍の完勝であった。
 
 
 
敗北した後鳥羽上皇は倒幕計画は自分の考えではなく近臣が勝手に起こしたものであると弁明したが、幕府は乱の首謀者たる後鳥羽上皇以下に対して極めて厳しい態度を取り、後鳥羽上皇は[[隠岐島]]、[[順徳天皇|順徳上皇]]は[[佐渡島]]に配流された。倒幕計画に反対していた[[土御門天皇|土御門上皇]]は自ら望んで[[土佐国]]へ配流された(後に[[阿波国]]へ移される)。後鳥羽上皇の皇子の[[雅成親王]]、[[頼仁親王]]もそれぞれ[[但馬国]]、[[備前国]]へ配流となった。在位70日余りの[[仲恭天皇]]は廃されて新たに[[後堀河天皇]]が立てられ、親幕府派の公家・[[西園寺公経]]らを中心として朝廷の再編成が行われた。上皇側に与した武士の処分は最も厳しく大半が斬罪され、貴族も処刑・流罪・解官となった。後鳥羽上皇の莫大な[[荘園]]は没収され、[[守貞親王|後高倉院]]に[[寄進]]されたが最終的支配権は幕府が握っていた。公家政権の監視にあたる出先機関として[[六波羅探題]]が新たに京都に設置された。京方の貴族・武士たちの所領30,000ヵ所はすべて幕府に没収され、新たに東国武士たちが恩賞として地頭に任命された。
 
 
 
この勝利により、京方についた旧将軍独裁時代の勢力は一掃され、執権義時の幕府内での最高権力者たる地位が確定したのみならず、義時の主導する鎌倉政権が公家政権に対して支配的地位を持って朝幕関係を完全に逆転させる事に成功したのである。こうして新たに展開された執権政治は、全国的政権としての新たな段階に進む事になる。
 
 
 
[[軍記物語]]である『[[承久記]]』によれば、勝利の報を受け取った義時は「'''今ハ義時思フ事ナシ。義時ハ果報ハ王ノ果報ニハ猶マサリマイラセタリケレ。義時ガ昔報行、今一足ラズシテ、下臈ノ報ト生レタリケル'''(今は自分に思い残す事はない。この義時の前世からの果報は王の果報に勝っていたのだ。この世に報われる善行が一つ足りなかったために、卑しい身分に生まれたに違いない)」と公然と述べたという。
 
 
 
一方、幕府編纂書の『吾妻鏡』にこの記述はなく、幕府軍が鎌倉を発った直後の6月8日、義時の邸に雷が落ち、下働きの男が一人死亡した。これを恐れた義時は大江広元に「朝廷を倒すための上洛でこのような怪異が起きた。幕府の運命もこれまでという前兆だろうか」と尋ね、広元は「君臣の運命は天地が定めるものであり、何も恐れる事はない。かつて勝利を収めた[[奥州合戦]]では落雷があった。幕府にとって落雷は吉兆である」と返答して狼狽する義時を宥めた。そして陰陽師を呼び占わせたところ、結果は最吉と出た、という話が描かれている。この話は、義時が神の末裔である皇族に弓矢を引くことに恐怖を感じていたこと、天皇を絶対的な権威とする当時の『常識』を、義時もまた持っていた証であると指摘されている<ref>細川・97-98頁</ref>。
 
 
 
=== 最期 ===
 
乱の翌年に陸奥守と右京権大夫を辞職し、無官となっている。乱から3年後、[[元仁]]元年([[1224年]])6月13日、義時は62歳で急死した。『吾妻鏡』によれば衝心[[脚気]]のためとされるが、偉大な幕府指導者の急死であったため憶測を呼び、後妻の伊賀の方に毒殺されたとする風聞(『[[明月記]]』)があった<ref group="注釈">承久の乱の京方首謀者の一人で逃亡していた[[尊長]]が、義時の死の3年後に捕らえられて六波羅探題で尋問を受けた際に、苦痛に耐えかねて「義時の妻が義時に飲ませた薬で早く自分を殺せ」と叫んで武士たちを驚かせた事を、[[藤原定家]]が書きとどめている。尊長は義時死後に起こった[[伊賀氏の変]]で将軍候補とされた[[一条実雅]]の実兄であった。</ref>他、近習の小侍に刺し殺されたとの異説(『[[保暦間記]]』)もある。
 
 
 
なお、義時の別称は'''[[得宗]]'''と呼ばれ、以後の北条氏の[[嫡流]]の呼び名となった。得宗の語源は義時の法名にちなむとも言われるが、はっきりしない。『吾妻鏡』に「[[白旗神社#白旗神社(神奈川県鎌倉市・法華堂跡)|頼朝の法華堂]]の東の山をもって墳墓となす」とあり、近年北条義時法華堂跡の[http://www.shonan-it.org/hojyo/index.html 発掘調査]が行われた。なおこの時代に義時クラスの者が[[やぐら]]に葬られた記録はない。
 
 
 
== 北条義時に滅ぼされた御家人 ==
 
*1200年 [[梶原景時]] 族滅
 
*1201年 [[城長茂]] 族滅
 
*1203年 [[比企能員]] 族滅
 
*1205年 [[畠山重忠]] 敗死
 
*1213年 [[和田義盛]] 敗死
 
 
 
== 系譜 ==
 
*父:[[北条時政]]
 
*母:伊東入道の娘
 
*妻:[[阿波局]]
 
**男子:[[北条泰時]]…[[得宗]]家
 
*妻:[[姫の前]]…[[比企朝宗]]の娘
 
**男子:[[北条朝時]]…[[北条氏 (名越流)|名越流]]祖
 
**男子:[[北条重時]]…[[北条氏 (極楽寺流)|極楽寺流]]祖
 
**女子:[[竹殿]]…[[大江親広]]および[[土御門定通]]妻
 
*妻:[[常陸伊佐氏|伊佐]]朝政の娘
 
**男子:[[北条有時]]…[[北条氏 (伊具流)|伊具流]]祖
 
*妻:[[伊賀の方]]…[[伊賀朝光]]の娘
 
**男子:[[北条政村]]…[[北条氏 (政村流)|政村流]]祖
 
**男子:[[北条実泰]]…[[北条氏 (金沢流)|金沢流]]祖
 
**男子:[[北条時尚]]…陸奥七郎
 
**女子:[[一条実雅]]および[[唐橋通時]]妻
 
*生母不明
 
**女子:[[一条実有]]妻
 
**女子:[[中原季時]]妻
 
**女子:[[一条能基]]妻
 
 
 
==流派==
 
太字は嫡流である[[得宗]]家。細字は支流(流祖ではない男子は省略)。
 
 
 
[[北条氏 (名越流)|名越流]]はその嫡流意識の強さから、度々[[得宗]]家と対立し、数度の討伐を受けた。[[北条氏 (金沢流)|金沢流]]は最古の武家文庫と知られる[[金沢文庫]]を設立した。[[北条氏 (極楽寺流)|極楽寺流]]の[[北条重時]]は極楽寺殿御消息、[[六波羅殿御家訓]]の作者として知られる。<!--[[北条氏 (赤橋流)|赤橋流]]、常盤流の血筋は[[足利将軍家]]が引き継いでいる。義時の直系の孫娘(泰時の娘)とひ孫(時氏の娘)が足利家当主を生んでおり、こちらの方が義時からは近いのでコメントアウト。-->
 
 
 
 
 
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{{familytree|border=0|001|001=[[北条時政|'''時政''']]}}
 
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{{familytree|border=0| |!| |佐|仏|佐=([[北条氏 (佐介流)|佐介流]])<br />[[北条時盛|時盛]]|仏=([[北条氏 (大仏流)|大仏流]])<br />[[北条朝直|朝直]]|}}
 
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{{familytree|border=0|得|名|極|政|金|伊|得=[[北条泰時|'''泰時''']]|名=([[北条氏 (名越流)|名越流]])<br />[[北条朝時|朝時]]|極=([[北条氏 (極楽寺流)|極楽寺流]])<br />[[北条重時|重時]]|政=([[北条氏 (政村流)|政村流]])<br />[[北条政村|政村]]|金=([[北条氏 (金沢流)|金沢流]])<br />[[北条実泰|実泰]]|伊=([[北条氏 (伊具流)|伊具流]])<br />[[北条有時|有時]]}}
 
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{{familytree|border=0|得|苅1|赤|常1|普|塩|坂1|得=[[北条時氏|'''時氏''']]|苅1=(苅田流)<br />[[北条時継|時継]]|赤=([[北条氏 (赤橋流)|赤橋流]])<br />[[北条長時|長時]]|常1=(常盤流)<br />[[北条時茂|時茂]]|普=([[北条氏 (普恩寺流)|普恩寺流]])<br />[[北条業時|業時]]|塩=([[北条氏 (塩田流)|塩田流]])<br />[[北条義政|義政]]|坂1=(坂田流)<br />[[北条忠時|忠時]]}}
 
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== 経歴 ==
 
{|class=wikitable
 
|-
 
!|和暦
 
!|西暦
 
!|月日<br>([[旧暦]])
 
!内容
 
|-
 
|[[元久]]元年
 
|[[1204年]]
 
|3月6日
 
|[[従五位|従五位下]]に叙し、[[相模国|相模守]]に任官。
 
|-
 
|元久元年
 
|1204年
 
|閏7月19日
 
|鎌倉幕府第二代執権就任。
 
|-
 
|[[承元]]元年
 
|[[1207年]]
 
|1月5日
 
|従五位上に昇叙し、相模守如元。
 
|-
 
|[[建暦]]3年
 
|[[1213年]]
 
|2月27日
 
|[[正五位|正五位下]]に昇叙し、相模守如元。
 
|-
 
|[[建保]]4年
 
|[[1216年]]
 
|1月13日
 
|[[従四位|従四位下]]に昇叙し、相模守如元。
 
|-
 
|建保5年
 
|[[1217年]]
 
|1月18日
 
|[[京職|右京権大夫]]に転任。
 
|-
 
|建保5年
 
|1217年
 
|12月13日
 
|[[陸奥国司|陸奥守]]を兼任。
 
|-
 
|[[貞応]]元年
 
|[[1222年]]
 
|8月16日
 
|陸奥守辞任。
 
|-
 
|貞応元年
 
|1222年
 
|10月16日
 
|右京権大夫辞任。
 
|}
 
 
 
== 人物 ==
 
義時は武家政権成立期においては欠かす事のできない重要人物であるが、[[承久の乱]]における幕府軍の総大将であり戦後に天皇を廃し3人の[[太上天皇|上皇]]を配流しているため、[[明治時代]]の天皇制国家においては皇室絶対の視点から同情の余地の無い逆臣で不遜の人として多くの筆誅が加えられた<ref>『北条義時』吉川弘文館。序章1頁 - 2頁。</ref>。またそれ以前の[[江戸時代]]でも主君に対する忠誠を武士道とするため、源氏将軍を滅ぼし(必ずしも義時が滅ぼした訳ではないが)あるいは傀儡にして将軍から実権を奪い取ったため、不忠の臣・陰険な策謀家として描かれた<ref>『北条義時』吉川弘文館。序章3頁。</ref>。もともと北条氏の歴代当主は彼の嫡男・泰時や曾孫の[[北条時頼|時頼]]を除いて大半が陰険・悪辣・暴君・愚君とされているがその代表としては常に義時が挙げられる。これは源氏将軍暗殺に限らず実父の時政まで追放して執権になるなどの不義によって強調される事となった。しかも彼が直接関わったのかどうかも疑問視されているものが多いのだが、最終的に彼が利益を得ている事から彼の関与が考えられている事件も少なくない<ref>『北条義時』吉川弘文館。245頁 - 246頁。</ref>。
 
 
 
[[細川重男]]は、「義時の生涯は降りかかる災難に振り回され続けた一生であった、その中で自分の身と親族を守る為に戦い続けた結果、最高権力者になってしまった」「頼朝の挙兵がなければ、一介の東国武士として一生を終えたであろう」と評している<ref>細川・95頁</ref>。
 
 
 
[[古今著聞集]]には、ある人物が見た夢の中で、義時が[[武内宿禰]]の転生した姿であることを知った、という伝説が書かれている。また、[[平政連]]が[[北条貞時]]を戒める為に奏上した『[[平政連諫草]]』にも、義時が武内宿禰の転生した人物であるという内容の記述がある。これらの情報から、鎌倉時代末期には義時が武内宿禰の転生した人物という伝説がある程度知られていた、また、古今著聞集の成立年代も考慮すると、義時が没してほどない頃から義時が武内宿禰の転生した人物という話は語り草になっていたのではないかと推測されている<ref>細川・83-85頁</ref>。
 
 
 
== 偏諱を与えた人物 ==
 
*[[安達義景|安達'''義'''景]]<ref>[[福島金治]] 『安達泰盛と鎌倉幕府 - 霜月騒動とその周辺』([[有隣新書]]、2006年)P.40。</ref>
 
 
 
== 脚注 ==
 
=== 注釈 ===
 
{{脚注ヘルプ}}
 
<references group="注釈" />
 
=== 出典 ===
 
{{脚注ヘルプ}}
 
{{Reflist}}
 
 
 
== 参考文献 ==
 
* [[安田元久]] 『北条義時』〈人物叢書〉 [[吉川弘文館]]、1994年新装版(1961年発刊)。 ISBN 978-4-642-05033-3
 
* [[石井進 (歴史学者)|石井進]] 『日本の歴史 7 鎌倉幕府』 [[中公文庫]]、1974年(1965年発刊)。改装版、2004年。 ISBN 978-4-122-04455-5
 
* [[岡田清一]] 『中世日本の諸相 下巻』所収「執権制の成立と建保合戦」 吉川弘文館、1989年 ISBN 978-4-642-02629-1。のち、『鎌倉幕府と東国』 [[続群書類従完成会]]、2006年再録。 ISBN 978-4-797-10745-6
 
* [[朝倉治彦]]・[[三浦一郎]] 『世界人物逸話大事典』 [[角川書店]] 1996年。 ISBN 978-4-040-31900-1
 
* [[奥富敬之]] 『吾妻鏡の謎』 [[吉川弘文館]]、2009年。 ISBN 978-4-642-05677-9
 
* [[細川重男]] 『北条氏と鎌倉幕府』 [[講談社選書メチエ]]、2011年。 ISBN 978-4-06-258494-4
 
 
 
== 関連項目 ==
 
*[[吾妻鏡]]
 
*[[承久記]]
 
*[[傾城水滸伝]] - 北条義時が敵役として登場する[[江戸時代]]の[[合巻]]本。
 
*「覇樹」『[[炎環]]』([[永井路子]]、[[文春文庫]])
 
*『実朝の首』([[葉室麟]]、[[角川文庫]])
 
*[[草燃える]](1979年、[[NHK大河ドラマ]] 演:[[松平健]])
 
 
 
== 外部リンク ==
 
* [http://www.shonan-it.org/hojyo/ 北条義時法華堂跡]
 
 
 
{{鎌倉幕府執権}}
 
{{北条氏得宗}}
 
{{Normdaten}}
 
 
{{DEFAULTSORT:ほうしよう よしとき}}  
 
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[[Category:平安時代の武士]]
 
[[Category:平安時代の武士]]

2018/12/29/ (土) 12:19時点における最新版

北条 義時(ほうじょう よしとき)

鎌倉幕府の2代執権 (在職 1205~24) 。時政の子。幼名は江馬小四郎。伊豆国北条を本領とした。治承4 (1180) 年頼朝の挙兵以来,父とともに協力し,平氏征討,奥州藤原氏討伐に参戦。元久1 (1204) 年従五位下,相模守。同2年6月武蔵国二俣川で畠山重忠と戦ってこれを破った。同年閏7月父時政の失脚ののち,あとをうけて執権に就任。建保1 (13) 年侍所別当和田義盛と戦って勝ち,侍所別当となった。同4年従四位下,同5年右京権大夫兼陸奥守。承久1 (19) 年将軍源実朝横死ののち左大臣九条道家の子三寅 (のちの将軍藤原頼経) を鎌倉に迎えて幕府の主とし,みずから幕政の実権を握った。同3年後鳥羽上皇の倒幕計画に大軍を派遣して京都を占領させ (承久の乱 ) ,上皇以下順徳天皇,土御門上皇ら関係者を処罰し,鎌倉幕府は全国的政権へと発展していった。



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